長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

安曇野市   塔原城③

tounohara1 (3) - コピー
続けてこの図で紹介をしていきます。

tounohara10 (1)
大手道を登って行き尾根上にでる直前に二段の段郭が現れます。

この写真の郭は下の段で尾根を削って郭を造成し、城内側に切岸を設けていますがこの切岸が鋭い!!

高さは約4m程あり下から登ってくると本当に壁です。しかも詳細に観察すると切岸直下の部分が堀状に窪んでいます。


tounohara10 (3)
縁部分を見ると堀状の窪みは竪堀として斜面を下っているので、堀が構築されていた可能性が高いのでは無いだろうか。

tounohara11 (2)

tounohara11 (3)
こちらは段郭の上の段ですが、こちらは明確に堀切が切岸直下に構築しているのが分かります。

さらにこの郭には切岸と堀切を挟んだ斜面側に、土塁を設けた平場が構築されており、この郭が落ちると城内中枢に敵に入り込ま

れてしまう為、大手道を登ってくる敵に厳重に備えています。


天正10年(1582)3月武田勝頼が織田信長に滅ぼされると信長により、筑摩郡・安曇郡一帯を木曽義昌に与えられ義昌は府中深志

城(松本城)へ入城したが、その3ヶ月後には織田信長が明智光秀により謀殺されると好機と見た上杉景勝は以前府中を収めてい

た小笠原一族であり長時の弟の洞雪斎を担ぎ上げ木曽義昌を追い出して府中を手に入れる。

塔原氏もこの頃には木曽氏や小笠原洞雪斎に主を順次変えていったと思もわれるが、7月には洞雪斎が上杉氏の傀儡と化してい

ることを嘆いた旧臣たちが長時の子である貞慶(徳川方)を担いで深志城に攻め寄せると、支えなれないと悟った上杉方は貞慶に

城を譲り、貞慶が城主として入城し武田氏に府中を追い出されて以来34年ぶりに府中小笠原本流が府中に復帰することとなっ

た。もちろん塔原氏(海野三河・仁科系塔原氏)も貞慶にいち早く降ったのであろう。


tounohara19 (16)
2の郭の先端部に見られる堀残しの土塁と郭

大手道を登り段郭を登り切り城の中枢域に入ると最初に入るのが2の郭の先端部で、三角形の形をしているその先端部で細長い

形をしている。

西側の大浦沢側には堀り残しの土塁があり、東側には段郭が多数構築されている。


tounohara19 (10)
郭の壁面の加工度は少し甘いが郭面はきれいに削平されている段郭

tounohara19 (1)
2の郭には用途不明の突端部が窪んだ堀り残しの高まりがある。

この高まりと本郭が構築されている中心部との間には堀切があるのでその為だけに削り残したかも知れませんね。

用途なさそうだし。。。。。。。


tounohara19 (28)
2の郭の西側は本郭下に設けられている郭の下を回り込むように帯郭の様になっている。

天正10年7月に府中に入城した貞慶は8月には上杉氏に内通した日岐氏・会田氏を攻めるため軍を出しているこの中に海野三河

の名が見える。

結果として日岐氏は兄は上杉方に走り弟は貞慶に降り、会田氏は滅亡している。

これらの仕打ちに恐れをなした赤沢氏(小笠原一族)・古厩氏(仁科氏)・塔原氏(海野・仁科氏)は上杉氏に内通し小笠原貞慶に

天正11年(1582)反逆を試みたが事前に謀反の情報が洩れ、松本城(貞慶が入城した時に深志城から松本城に改名)に呼びださ

れ打ち取られている。

この呼び出されたのは海野三河と思われるが、その後、貞慶によって塔原城が攻め落とされているので城を守っていた仁科系塔

原氏も討たれ滅亡したものと思われる。


tounohara19 (32)
tounohara19 (14)
2の郭と本郭を区切る堀切②

tounohara19 (2)
東側の沢に落とされる堀切②から落ちる竪堀

本郭と2の郭を区切る堀切は東側には竪堀を落としているが、西側の大浦沢には落としていない。

これは大浦沢側の斜面が険しく防御を考える必要がなかったものと思われる。


tounohara19 (30)
2の郭から見る本郭方向

2の郭から本郭へ向かうには、堀切②を横断する必要があるが、堀切②の奥側には本郭下の帯郭から発生する土塁によって

視線を遮断すると共に通路を細くして多くの敵兵が本郭に殺到するのを防いでいると共に、

奥の帯郭には城兵が待ち構えて、一列づつ入ってくる敵兵をせん滅する作戦を想定していたものと思われる。


次回は、小笠原氏による改修と思われる本郭と裏尾根の堀切を紹介していきたいと思います。
スポンサーサイト
  1. 2016/04/25(月) 23:20:15|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

安曇野市  塔原城②

tounohara1 (1)
塔原城関連遺跡の配置

tounohara1 (3) - コピー
塔原城遺構配置図  (現地調査と信濃の山城と館を参考に作成)

tounohara3 (2)
大手虎口を見る。

大手道を5分ほど登ると尾根の弛みに着く手前に虎口が設けられた堀切が現れる。

堀切は城内に入る関門となるもので、土橋を残して両側を掘り切っている。


tounohara3 (1)
大手虎口を守る堀切を見る。

塔原城から逃亡した塔原氏は、後に武田氏に降っているが逃亡時に武田氏によって塔原城は破却されている。

その後、塔原氏は武田氏に降ることは許されたが城将として復帰することが出来ず、武田氏によって据えられた海野三河守幸貞

(甲陽軍艦には、『とうの原廿騎土屋右衛門尉相備、是れは本名海野也』ともある)

が城将となり仁科系塔原氏は副将の座に降格させられている。


tounohara16 (2)
大手虎口を入ると二本の尾根に挟まれた広大な平場に出る

写真左側の尾根が大手道となっていて、右の尾根には平場を見下ろすように郭が築かれ大手を警戒している。


tounohara16 (3)
大手を入ってすぐにある広大な平場(写真奥には大浦沢を挟んで旗塚がある)

tounohara16 (4)
大手を警戒する為に築かれた郭、眼下には大手虎口と平場が見下ろせる

tounohara16 (5)
また、大手を警戒すると共に大浦沢側にも削平した平場を作り、大浦沢を通って直接城の中心部に近づこうとする敵にも目を配っている。

永禄10年(1567)、武田信玄は嫡男義信を自害させると家臣団の動揺を静めるため、生島足島神社(上田市)で信玄に対して

二心無き事を誓う起請文を提出させているが、この中に塔原氏の名が見える。

『 海野三河守幸貞 ・ 塔原藤左衛門宗幸 』

またその他に、勝頼代分限帳には、塔原藤左衛門宗栄廿騎  塔原織部幸知(会田氏家臣)がある。

天正9年(1581)伊勢神宮の御師宇治家の『御祓くばり日記』にも塔原氏は見える。

『海野三河殿・・・・のし五十本 上ノ茶十袋       同名たうの原殿・・・・・のし五十本 ちや五つ』

と見え三河守との土産の量の差によってからも三河守が周囲からも上位として扱われていたことが分かる。


tounohara12 (1)
大手側尾根を遮断する長大な横堀を見る。

更に大手の尾根を登ると尾根を遮断するように細長い平場が現れる。

この平場は大浦沢側へ尾根を細長く続いており、現状では間伐の作業用に使われているようで道の様に見える。

ただこの平場を大浦沢側の末端まで追ってみると、大浦沢へ落ちる末端は堀状になっておりこれがかつては横堀であったことが

分かるのである


tounohara12 (2)
大浦沢へ落ちる横堀の末端部を見る

tounohara9 (6)
段郭を見る。

横堀をすぎると大手道脇には小規模な平場が多数、見られるようになってくるので本格的に城内になってきた事が感じられる。


tounohara9 (2)
大手道から城の中心部を見上げる。

tounohara9 (1)
大手道の尾根からは会田街道と会田川を挟んだ対岸には会田氏の城砦が見られる。

(対岸には会田氏の家臣堀平氏が守った佐々野城や越氏が守った中沢の古屋敷がある。)


長くなってしまったので本日もここまで~次回は塔原城の中心部を紹介していきたいと思います。

お付き合いくださいませ。
  1. 2016/04/19(火) 19:01:27|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

安曇野市  塔原城①

我が町の宝!塔原城を徹底的に調べてみた。

所在地・・・・安曇野市明科

訪城時間・・・・・林道からは5分・大手口からは20分

危険度・・・・・★★☆☆☆

※城跡は間伐などがされ整備されているが、キノコの時期には立ち入り禁止になるので注意が必要。

また、長峰山系には熊の生息が確認されているので、一応の対策はしていったほうが無難。


~ 塔原城の歴史 ~

塔原城を最初に築城したのは、海野系塔原氏で、小県郡海野庄に本拠をもつ滋野氏分系の海野幸継の三男幸次が筑摩郡

塔原郷に来住し、その地名をもって塔原氏を称したとされる。(真田系図)

※滋野三家系図では、五男となっている。


応永七年(1400)、信濃守護小笠原氏と反守護方(村上氏など)が戦った大塔合戦では、反守護方に加わった海野宮内小輔幸義

の旗下に同属の光氏や大足氏などどともに塔原氏が見られる。

永享12年(1440)には、関東の結城城で結城合戦が行われ、この時の包囲陣を示す『結城陣番帳』には海野氏の名が見えるが、

塔原氏の名は見えない。ただ、塔原氏の同族光氏の『光氏系図』には戦場において苅屋原氏・会田氏・塔原氏等の一族と共に

勲功を尽くしたことが書かれており、塔原氏も参戦していたことが分かる


~ 訪城ルート①  林道からの近道 ~

tounohara6 (16)
一番楽に訪城する方法が長峰林道を通り、林道から分岐するダート道(車での通行禁止)を歩いて城域に入る方法。

近くに石仏などを集めた広場があるので目印となる。(昔は城跡を示す案内板があったが今は無し)


tounohara6 (1)

tounohara6 (5)
ダートの林道を5分ほど歩くと城跡の説明版がありここから城域となる。


信濃守護で井川城にいた小笠原長朝は、南北朝以来の宿敵である大町にいた仁科盛直の軍と安曇郡穂高で戦い、これを破っ

て仁科氏を旗下に加えている。

南北朝以来の仲間であった仁科氏が小笠原氏に負けたことで、滋野系塔原氏は領地を維持することが難しい事を悟り、

領地を捨て逃走又は小笠原氏に逐われたとされる。(時期に諸説あり)

その後、塔原領は仁科盛明の子盛綱が塔原式部少輔と称し塔原城に入った。(仁科系塔原氏)

『仁科氏旧記・天正寺記』には、「塔原氏地を逐はれし後、小笠原家の麾下に属したる仁科氏、之を領するの許諾を得たる如し。

仁科盛明の十男の一人盛綱は、塔原式部少輔と称せり。」とある。


~ 訪城ルート②  大手道からの訪城 ~

tounohara6 (4)
大手道の入り口へは、明科から会田へ向かう街道沿い(近くに大足氏館跡あり)を走ると正面に塔原城が見える。

大足橋手前の大きくカーブした部分を吐中部落へ入る。


tounohara6 (13)
吐中部落内の写真の消火栓がある場所から山方面に歩いていく。(車は吐中公民館に置ける)

tounohara6 (12)

tounohara6 (9)
尾根の先端に大手道となる道形が明瞭に残っているのでここを登る。(20分程度)

その後、仁科系塔原氏は暫く資料には見えなくなるが、天正17年(1548)小笠原氏の麾下として武田晴信との塩尻峠の合戦に参

加したが小笠原氏は武田氏に敗れ本城の林城へ逃げ帰ったが、塔原氏も同様に本拠の塔原城へ帰り防御を固めていたものと

思われる。

天文19年(1550)小笠原氏の本拠府中が落とされると、武田氏はまだ小笠原氏領内に残って抵抗している城の掃討戦を行うことに

なる。

天文21年(1552)から小岩嶽城・苅屋原城など武田氏に降らずにいた城が落城すると、城を固めて沈黙を守っていた塔原氏は

ついに支えきれないと悟り城を捨てて逃走し城は落城している。


tounohara6 (17)

tounohara6 (18)
仁科系塔原氏の建立である雲龍寺が塔原城と居館跡の間にある。

『信濃史源考』によると「塔の原村の源川山雲竜寺は、仁科盛明(享禄3年卒75)の子塔原式部少輔盛綱の建立にして、霊松寺6代

竜門薫和尚(明応5年普山)を開山とす。(後略)」(天正寺記・仁科氏旧記)とある。


tounohara6 (19)
明科から見た塔原城と関連遺跡

長くなってしまったので、城跡の紹介は次回にしたいと思います。。。。。長らく放置してしまいすみませんでした。

またお付き合いください。
  1. 2016/02/25(木) 19:02:30|
  2. 安曇野市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

霜降砦 附海岸寺遺跡

桐原城の東側を固める砦

s-IMG_20151027_0004_NEW_201512211741216ef.jpg
古図に見る霜降砦

所在地・・・・・・松本市入山辺桐原

訪城時間・・・・約60分


※案内板はあるが部分的に道が分かりずらくなるので注意が必要。

危険度・・・・・・★★★☆☆

別 名・・・・・下降城・下古城

訪城日・・・・2013年12月9日(少し前なので海岸寺沢内部はどのようになっているのかは分かりませんので気を付けてください)


~ 霜降砦の歴史 ~

『東筑摩郡誌』には、霜降砦について

「壘砦に堀切あれども、間數其の他詳ならず。嘉吉三年桐原眞智の子眞隆之を築けり。眞基の時本城と同時に陥落せりといふ。』

『信府統記』には、桐原城の項に

「(前略)、此城ノ東ニ霜降ノ城トテ取手ノ跡アリ谷崖モ隔テリ中ニ堀切モアリ。」 とある。


嘉吉3年というと1443年でその頃は、結城合戦(嘉吉元年1441年)などがあり府中の小笠原氏の祖とされる小笠原持長などの時代

でこれを信じればかなり古い時代に構築された砦という事になる。


~ 訪城ルート ~

simofuri987.jpg
訪城ルートは、現在新しく開設された桐原城の先端部を通過している幹線農道を海岸寺を目指す。

海岸寺の所から桐原城と霜降砦のある山の間の沢(海岸寺沢)へ入る細い道を歩いて登る。

車は農道脇に駐車スペースがあります。


s-kaigannzi (10)
細い道を道を登っていくと途中に水道施設があり、さらに登っていくと耕作放棄地が左右に広がる。

写真は海岸寺沢に砂防堰堤の建設によって破壊される畑跡(現状はどのようになっているのかは未確認です。


s-kaigannzi (8)
訪城途中から振り返ると山辺谷を挟んだ正面に林大城・水番城が見える。

simofuri5 (1)
舗装されていた道が山道となるが、そのまま沢に沿って登って行くと、案内板が現れる。

simofuri5 (2)
山側へは「霜降城へ」とこんな砦にまで案内板があることに驚く。

これは桐原城の保存会の方が関連の城という事で整備されたものと思われる。。。。。感謝感謝ですね。

この看板は砦までの所々に建てられている。


simofuri5 (3)
霜降砦までの道跡は明確であり石積みも見られる。

これも番所群で説明した武石本道へ通じる枝道で重要視されて整備されていたことが分かる。


simofuri5 (16)
道々に案内板が建ち安心して歩ける。

砦跡までは60分の結構長い道のりを歩くが。。。。。結構寂しい。


simofuri5 (14)
訪城途中の山道からは桐原城が遠望できる。

simofuri5 (13)
写真では望遠に限度があるが、現地で桐原城の石積みまではっきり見ることができ、これだけ近接して構築していることからも

重要な使命を与えられて綿密に連携して稼働していたことがうかがえる


~  砦跡 ~

simofuri21 (2)
霜降砦は二つの郭と堀切(古道を堀切状に通過させている)からなる小規模な砦である。  

simofuri21 (1)
遺構の配置

 ①本郭

simofuri4 (3)



simofuri4 (6)

霜降砦の本郭は、27×17mの楕円形をしている。

郭はきれいに削平されているが、土塁は見られない。


simofuri2 (2)
現在は麓から登って来た道が、本郭裏の堀切を通って入るように案内板が設置されている。このままでは武石本道から来た敵が

そのまま本郭の入れてしまうので、もっと防御を考えられていたと思われるが現状ではうかがうことが出来ない。


~ 堀切と武石枝道 ~

simofuri2 (1)
麓から登って来た道は、本郭裏の尾根をを深くえぐった様な堀切内を通過し、武石本道方面に登って行く。

simofuri2 (5)
堀切内をカーブして登って行く道は、写真の様に溝状になって登って行き、鐘掛番所の所へ行きつく。

simofuri2 (11)
霜降砦の堀切は、山道が通過する部分は深くえぐって郭内からの攻撃・監視を強めているが、山道がカーブして登って行くと

残った反対側の堀切は写真のように幅が広いだけで浅く防御性が乏しい。

この造りは桐原城の西側にあった「冨塚・番所」の遺構にかなり類似している。


simofuri2 (10)
この防御性の乏しい堀切も一応申し訳程度に竪堀として落として斜面を防御している。

~ 郭② ~
simofuri3 (2)
本郭から20m程下ると郭②がある。(郭②から本郭を見上げる)

simofuri3 (5)
郭②は、21×11mでこちらもきれいに削平されており、特徴は郭の縁の全周を土塁が巡っていることである。

simofuri3 (3)
土塁の高さは30~50cm程度であるが、郭②へ登ってくる尾根が斜面がキツイ為これで用が足りたものと思われる。

simofuri3 (19)
斜面下から郭②を見上げる。

急斜面の為、郭内は見えず郭から石を落とされればケガでは済まないであろう。

simofuri3 (10)
郭②を山道から見たところであるが、郭がきれいに削平されているのが分かるでしょうか?

~ 不明の道状遺構? ~

simofuri1 (2)

simofuri1 (4)
山道と砦の間の斜面には、山道とも防御施設とも判断がつかない、横堀状の遺構が見られる。

この山辺周辺の山々には溝状の道が多くみられるので道ではあるかと思うが、深くえぐられた道は戦時には堀として利用するため

に掘られていた可能性もあるのではないだろうか?


simofuri1 (6)
安心してください!ここにも案内板ありますよ!

simofuri1 (7)

simofuri1 (8)
更にここには、東の沢の中から登ってくるよく利用されていたことが一目で分かる深くえぐって堀状になって登ってくる道が、

武石枝道に合流している。(青色の山道)


simofuri1 (10)
武石枝道(青色)の道が登り切った部分の斜面には、写真の様な竪堀状の溝が下っている。

本郭裏の堀切の竪堀と比べると明瞭すぎるので砦の遺構とは即断できないが、霜降砦が他の番所達と同じ武石枝道を監視する

というのが主要な任務であったとすれば、海岸寺沢からとこの山道が合流する部分に構築された意味がよく分かり、山道の場所に

竪堀が構築されたのもうなずけるのではないだろうか。


この霜降砦の形は桐原城番所群の他の番所の縄張りと類似しているところが多く、別段特別な砦ではなく、桐原城を守るための

砦・番所群の一つという位置づけだったのではないだろうか。

ここだけ城主の伝承が伝わったのは、明確な遺構が残されていて麓住民に認識されていたので桐原城主と関連付けて伝えられた

だけであろう。

霜降砦の近くに描かれている上降砦はいまだ場所は確定されていないのは、明確な遺構が存在しなかったから住民に認識され

なかったので忘れ去られてしまったのでしょう。

推定地としては幾つか挙げられているので調査してみても楽しいかもしれませんね。


~ 海岸寺遺跡 ~

s-kaigannzi54 (1)

s-kaigannzi54 (4)
現在の海岸寺を見る。

海岸寺は創建時期・開基・開山は明らかではないが、当初は北方の山際にある弘法平あったとされ、近世に現在地に移されたと

考えられている。

旧海岸寺の寺域から少し登った尾根上の平安時代後期~末期の経塚から青銅制経筒・白磁合子・鉄製刀子が出土し、

旧海岸寺経塚出土品として市重要文化財として指定されている。

このことから、海岸寺の創建を平安時代にまで遡るとも考えられる。また、海岸寺には平安時代作とされる千手観音も現存している。


s-kaigannzi54 (2)

今回発掘されたのは、海岸寺と奥の院の間の海岸寺沢内と畑跡で、砂防堰堤構築の為のものであった。

s-kaigannzi (1)
海岸寺沢内部に造られた近世の畑跡(上の山は桐原城)

s-kaigannzi (2)

s-kaigannzi (7)
近世の畑跡の石積みは、近世城郭を思わせるような造りで櫓台風のものも見られる。。。

これらの畑跡の間を大手道や武石枝道が通過していたことからも、何らかの防御施設も想定できるのではないだろうか?


s-kaigannzi (6)
海岸寺沢内部のトレンチ調査

s-kaigannzi (4)

s-kaigannzi (5)
この調査からは、平安~中世の遺構と青磁や内耳鍋などが出土しており、古い時代から人が活発にこの沢を活用していたことが

分かった。

砦があった頃にはこの沢の中や海岸寺はどのようになっていたのであろう。。。。。。砦や桐原城との関係性も気になるな~。

考えるだけで楽しいですね。


simofuri789 (4)

simofuri789 (5)
霜降砦と桐原城・番所群の遠望


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2015/12/21(月) 15:10:34|
  2. 松本市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

松本市  桐原城附番所群③

桐原城・霜降城への古道を監視する為の番所たち

kiriharabannsyo1 (6)

kiriharabannsyo1 (5)
桐原城古図

今回紹介するのは、武石道が尾根上で桐原城・霜降城へと大坂番所・富塚、番所への道へと分岐する場所で、桐原城への道の

途中の尾根上に設けられていた桐戸屋番所と鐘掛番所を書いていきたいと思います。

何分、明確な遺構を見つけることができなかったので、尾根の位置と道の位置から推定しました。

間違っている可能性もありますが、最後までお付き合いください。


s-IMG_20151027_0004_NEW34.jpg

oosaka83647 (3)
桐戸屋番所・鐘掛番所部分の拡大

bannsyo8943 (53)
現在の国土地理院の地図に現地で確認できた推定地の形状を落としてみた。

~ 推定桐戸屋番所 ~

kiritoya121 (9)
尾根上を通過してきた武石道は、美ヶ原林道に分断されながら所々に残っている。

林道の真ん中にある分離帯にも。。。。


kiritoya121 (8)
このように武石道の痕跡が残されている。

kiritoya121 (10)
尾根上の古道から、桐原城・霜降城へと続く尾根への分岐から見た松本方面。

こんな高所を昔の人たちは旅をしていたとは驚いた。。。!


分岐部分から古道の痕跡を辿って比高にして約150mほど下ると番所推定地が見えてくる。

kiritoya121 (3)
明確な道跡が残る。

kiritoya121 (1)

kiritoya121 (14)

尾根を下ると、幅広いはずの尾根を明らかに人工的と思えるような土橋状の道となっている。

この長さは約50m程続いており、ここが桐戸屋番所の推定地と考える。


kiritoya121 (25)
土橋状の尾根のすぐ下には広大な平坦地が広がっており、土橋状の尾根との高低差は約5~6mあり土橋状の道を番所の関門と

し、下の平坦地に番所の建物群が建てられていたのではないだろうか。


kiritoya121 (21)

kiritoya121 (22)

土橋状の古道の下に広がる広大な平坦地。。。。。ここに建物があったのであろうか。。。。。

~ 推定鐘掛番所 ~

kanekake456 (32)
桐戸屋番所推定地から尾根上を約200mほど進むと、尾根の両側に竪堀を落としたような地形が現れる。

kanekake456 (31)

kanekake456 (23)

kanekake456 (30)

尾根の両脇に落とされた竪堀と土橋状遺構

oosaka83647 (3)
古図には、鐘掛番所に堀切と岩が描かれている。

kanekake456 (16)

kanekake456 (1)
堀切を越えて尾根をわずかに登るとピークの平坦地があり、ここに岩が見られる。

古図にもある『か祢かけいし』がこれにあたるものと推定する。


kanekake456 (2)
鐘掛番所推定地の平坦地を見る。

番所推定地の後方(桐原城方面)には堀切等の防御遺構が見られない、今までの番所も同じで桐原城方面には防御遺構が無く

桐原城の後方の防御施設として武石峠を越えて来た小県方面からの敵・侵入者に備えたものであることが想像できる。


kanekake456 (4)
番所推定地から尾根を更に進むと。。。。。。

s-IMG_20151027_0004_NEW34.jpg

kanekake456 (12)
古図と同様に桐原城・霜降城から登ってきた道が尾根の古道に接続しており、先ほどの鐘掛番所推定地が正しいことが確認

できる。


kanekake456 (21)

kanekake456 (9)

更に尾根を進み、尾根の先端の三角点まで確認しに行ったが、遺構らしきものは無かった。。。。。。

ただ、鉄砲隊に遭遇し恐怖を覚えたのは、予想外であったが。。。。。汗


番所群は全部紹介し終わったが。。。。。。なんせ確証を得ることが出来た場所は数個しかなかったが、古図から読み取った

古道・水場・石などからほぼ間違いがないと確信している。。。。。。。かな。。

ほとんどの番所は武石峠側に深く古道を通して堀状にしているのが特徴で、これが堀切として描かれたものと思われる。

また、ほとんどの番所には狭小な平坦地しかなく武石道の分岐部分の桐戸屋番所が、武石峠を越えて来た侵入者と最初にぶつ

かることから規模が大きく、その他は戦時以外は少人数が見張りとして常駐していた程度であったのであろう。

この番所の見張りも桐原氏が治める領地の領民たちが交代で見張りのついていたんでしょうね。

タイヘンダ。。。。。。

次回は、番所群と共通する造りが見られる、霜降城を紹介していきたいと思います。


おまけで。。。

takesitouge (1)

takesitouge (2)

takesitouge (3)

現在の武石峠。。。。。。。小笠原長時も失意にくれてここを通ったのであろうか。。。。

takesitouge (4)

takesitouge (5)

takesitouge (6)

江戸時代の武石峠茶屋跡も見られる。。。。。。

江戸時代もこの高地の道が小県とつながる主要な街道を担っていたことが分かり、多くの旅人が喉を潤していたことが想像

できる遺構ですね。


takesitouge (7)

また、この茶屋跡には松本城の外郭の堀の役目を担っていた女鳥羽川の源流がみられるんですよ~。

かなり山深い場所にありますが、興味を持ってくれた方はどうぞ訪れてみてくださいね。


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2015/11/30(月) 19:16:36|
  2. 松本市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4
次のページ

プロフィール

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
初めまして (1)
信濃の武将 (11)
松本市 (47)
安曇野市 (33)
塩尻市 (15)
筑北村 (5)
生坂村 (36)
池田町 (18)
箕輪町 (13)
伊那市 (7)
辰野町 (2)
下諏訪町 (9)
諏訪市 (1)
中川村 (3)
駒ケ根市 (6)
ニュース (4)
廃村 (1)
伝説 (2)
本日の訪城 (14)
飯島町 (1)
武将の墓地 (4)
松川村 (3)
千曲市 (1)
南箕輪村 (1)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。