FC2ブログ

長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

箕輪町  上ノ平城①

上ノ平城砦群中核の巨大城郭

kosikigasiro.jpg

国土地理院2万5千分の1地図使用


所在地・・・・箕輪町大字東箕輪                        訪城時間・・・・0分

別 名・・・・丸山城                               危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・日輪寺                       訪城日・・・・2011年1月17日・2012年4月11日


uenohira111.jpg
①の郭からの眺め

              ~ 上ノ平城の歴史 ~

上ノ平城についての直接の資料は現在発見されていないが、上ノ平城周辺に関連する資料・伝承を上げてみる。

後3年の役(1083~1087)の功労をもって、源 為公が信濃に領土を賜り伊那の小河内に居館を構え箕輪領一帯

を支配することになった。箕輪の小河内に落ち着いた為公は、伊那源氏・信濃源氏の祖といわれている。

この為公には多くの子があり、嫡子は知久姓の祖となり、片桐・飯島・名子・大島・赤須などの多くの家に分かれ

各地に勢力を持つようになって行った。


uenohira1116.jpg

現地の説明板には、諏訪氏の同族知久氏が拠ったとある。

これについては、「南信資料」に、

源為公・・・(嫡男)乗ノ太郎為衡・・・乗ノ太郎為貞・・・乗ノ太郎頼継(子が無く)・・・(諏訪)中津信忠

その姪たるをもって家を継ぐ。源姓を改めて知久を名乗る。とあり諏訪氏の一族が継いだことに由来すると思われ

るが、「信濃二千六百年史」では、

神氏の分流に知久・中沢氏があり、大祝為貞の四世敦忠の第四弟敦俊が祖であって、小河内に居たが後、南方の

知久に移って知久氏を名乗ったともある。

別説としては、源為公の第一子為衡が中津乗氏の祖となりその孫の頼継の子信貞の代に下伊那の知久に移り、

その郷名をとって知久氏を名乗ったともあり、どれが本当なのかは分からない。


前回、紹介した日輪寺畑から上ノ平へ移り城郭を築いたのは、源氏の勢力が確定してから本格的な築城を行った

のではないかと推定したとある。(説明板では、最初からこの上ノ平に為公がいたと書かれているがほとんどの

資料でこれを否定している。)



                 ~ 城跡の現状 ~

uenohira10906.jpg

この図面に沿って説明していきます。 

~ 堀① ~ 

uenohira48.jpg

上ノ平城がある尾根の先端部にある堀切である。
この堀から先端は明確な平場が存在しないことから、発掘報告書ではこの堀が城内と城外を分ける遺構ととらえて
いる。


uenohira43.jpg

城外側には堀残しの土塁状遺構があり、現在は上に祠が祀られている。 

uenohira49.jpg

堀幅は約7~8m・深さ約3mほどの大きなもので厳重な防備である。 

~ ②の郭 ~ 

uenohira10.jpg

 ②の郭は城の中心となる①の郭西側下段にあり、現在は畑地と公園?になっている。
以前は堀①近くに井戸があったとされるが、現在は見当たらない。
 


uenohira17.jpg

この郭②と郭①の間にはかつて堀②が存在した。 

uenohihra20.jpg

堀②が存在した痕跡として、この郭南側に残る窪みと・・・ 

uenohira91.jpg

uenohira93.jpg

郭の北側に残るこの堀②の痕跡である。 

uenohira9.jpg

上の郭が①で下が②の郭となっており、平成11年~12年にかけて箕輪町によって行われた学術調査により、
この段差の部分で幅6~6.8m・深さ下段から2.1~2.3m、上段から5m以上の緩やかなV字状の堀②が確認された。

この堀からの出土物の時期は15世紀中期~16世紀中期のものとされている。

この堀②は、後で書く郭①の2期造成時に埋められ、郭②として使用されていたことが分かった。
 



今回は、説明が長くなっちゃたのでここまで~次回は郭①をお伝えしたいと思いますのでお楽しみに!!!
  1. 2012/10/22(月) 14:57:54|
  2. 箕輪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

箕輪町  日輪寺畑

上ノ平城砦群の中核・・・知久氏の居館?

kosikigasiro.jpg
国土地理院 2万5千分の1地図使用


所在地・・・・箕輪町南小河内                             訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                訪城日・・・・2012年3月20日

訪城目印・・・・日輪寺                                別 名・・・洞田



              ~日輪寺畑の歴史~

「箕輪村誌」には、

洞田は上ノ平城の北約100m、知久沢と梨久保とに挟まれた小丘上にあって、土地の人は日輪寺畑と呼んでいる。

地形は低く、城砦というより居館跡としたほうが適当である。その距離から推してあるいは城主隠棲の所かと思わ

れる。(後略)とある。

「伊那の古城」には、

日輪寺の北、知久沢を隔てた台地に洞田という居館の址がある。洞田の北は梨久保川という深い川と二つの川に

挟まれた台地で、南の平場三百坪、北の広場四百四十坪、一ノ堀切、ニノ堀切、各々四間巾のものが残されていた

という。源為公らが、伊那に最初に赴任してきた時はこの辺にいたのではなかろうか。

としている。

*源為公は、伊那源氏の祖とされ為公の嫡男が知久氏を名乗り祖となったとされる説と諏訪氏から知久氏が
出たとする説があるようである。



                     ~館跡の現状~

nichirinnzibata54.jpg

この図を参考に説明していきます。 

~ ①の郭 ~


nichirinnzibata9.jpg

 ②の郭から見た①の郭
①の郭は民家となっている為に近くからの写真は遠慮するが、先端部に土塁状の土盛があり、高さが約50~60cm程度である。現在、この土盛の上に芝桜などが植えられている為、これが土塁であるとは断定が出来ない。
 


~ 堀① ~

nichirinnzibata1.jpg

堀①とされる窪みである。
この堀①とされる部分は、梨久保川方面のみに残存し知久沢側には痕跡は確認できない。
この周辺が畑であった頃は、梨久保川に下りる為の道として利用されていたようである。


nichirinnzibata3.jpg

 ②の郭から堀①を見る。
この部分は道として利用されていたであろうが、この窪み・幅はどうみても堀として構築されたものである。
幅約5~6m程で深さは一番深い所で2mくらいであり往時はもっと深かったことは想像できる。
 

文字色
nichirinnzibata2.jpg

梨久保川から堀①を見上げる。   

~ ②の郭 ~

nichirinnzibata11.jpg

 ②の郭には南小河内区による洞田の看板がある。 
城跡に看板があることはとても感謝しなければいけないだろう。なぜなら、ほとんどの城跡には無いのだから!! 


nichirinnzibata12.jpg

 ②の郭を見る。(奥には③の郭の切岸が見えている)
この郭がこの館跡の内部で一番削平されており(畑によるものかもしれないが)広大である。
堀①・堀②に挟まれているここが館の中心的建物があったと思われる。
 


nichirinnzibata13.jpg

 ③の郭から郭①②を見る。 

~ 堀② ~

nichirinnzibata23.jpg

堀②は図にあるように郭②と③の間に梨久保川斜面と知久沢斜面に遺構を残す。
中間部は耕作により埋め立てられたようで、わずかながら郭③の切岸下部に窪みが見られる。
 


nichirinnzibata24.jpg

梨久保川側に見られる堀跡の残存遺構


nichirinnzibata37.jpg

知久沢側に見られる堀②の残存遺構。
堀②が大規模な堀であったことがうかがえる遺構である。
 


~ ③の郭 ~

nichirinnzibata81.jpg

nichirinnzibata71.jpg

 ③の郭は、②の郭側の切岸がはっきりしているものの尾根続き側がどこまでが城域か判断出来ない程、ダラダラと
豊久保砦への尾根へと緩やかに上昇していく。
切岸に近い部分はかつて耕作されていたので平坦地となっているがその他は緩やかな傾斜となる。
耕作による破壊なのであろうか?あったであろう堀切はどこへ??? 


~ 周辺状況 ~

nichirinnzibata41.jpg

知久沢と居館跡の切岸を見る。
知久沢の居館跡側は写真に見るように垂直の壁となっていて高さ4m程ある絶壁である。
なお、知久沢の対岸には知久氏開基とされる日輪寺がある。
 


nichirinnzibata47.jpg

知久氏がこの地に居館を構え、次に築城したとされる上ノ平城は知久沢を挟んだ南側に存在し良く遺構を残す。 


 さあ、長々と?見てきた日輪寺畑はいかがだったでしょうか。。。。 (-。-)y-゜゜゜
知久氏が最初に居館を構えたとされるが、一般に言われる方形館ではなく連郭式のような造りとなっている。
想像するなら。。。
最初に居館を造ったのは郭②で上ノ平城に知久氏が移った後も一族か重臣がここに居て、戦国期に増築をした。。
っていうのは素人考えでしょうか。。

次回は・・・・本城の上ノ平城をお届けしたいと思いますのでお楽しみに!!!
 



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料編    (宮坂 武男   平成14年)

箕輪町誌           (箕輪町誌編纂刊行委員会  昭和61年)

伊那の古城 改訂       (篠田 徳登   平成22年) 
  1. 2012/10/12(金) 03:08:20|
  2. 箕輪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

箕輪町   豊久保砦

上ノ平城砦群??

kosikigasiro.jpg
国土地理院 2万5千分の1地図使用


所在地・・・・箕輪町南小河内豊久保                        訪城時間・・・・10分

危険度・・・・★☆☆☆☆                              訪城日・・・・2012年3月20日


                ~豊久保砦の歴史~

「箕輪町誌」には、

小式部城の支脈が南に延びて普済寺の台地で終わろうとする所の突端を豊久保という。

東は梨久保沢が流れ、西麓は南小河内の平地で山背を平にした簡単な山城で、郭の広さは東西約18m・南北約16m

ほどで、郭の北縁辺部には土塁が現存する。郭の北端に第1の堀切があり、それより約75mへだたる山背に第2の

堀切がある。1の堀切は長さ約22m・上部幅約5m深さは南側約3m・北側は約0.6mである。2の堀切は長さ南側

約13m・深さは約6m・北側約0.5mである。城地には雑木が密生する。とある。

その他の資料にも城主や来歴が記されているものはないが、日輪寺畑(館)・上ノ平城を見下ろす位置にあること

から上ノ平城に関係する砦であることは間違いないと思われる。



                ~砦跡の現状~

toyokubonawabari.jpg

いつもながらの図面で紹介していきます。。。。。少しは成長したかな?

toyokubo1.jpg

所々に看板が設置され、現在地区の方達?により遊歩道が整備中である。しかし、ここも笹藪である

~ 郭① ~

toyokubo2.jpg

本郭(単郭だけどね一応)にある城跡を示す看板。
奥には堀①に伴う土塁がある。


toyokubo5.jpg

土塁上から本郭内部の全景を見る。
内部の削平はあまくほぼ自然地形のままである。しかも、籔が酷い為に詳細な観察が出来る状況にない。
看板も必要であるが藪を解消しないと遊歩道を整備しても人は来ないのではないだろうか。


toyokubo22.jpg

本郭北側の堀①に伴う土塁で高さ50~60cm程度である。
かなり低くなってしまっていると思われるが、堀①の本郭側切岸が高いのでもしかしたら最初からこの高さだった
可能性もあるかも??


~ 堀① ~

toyokubo11.jpg

堀①を見る。
現在は本郭側からの深さは約2.5mで上幅約5mの規模となっている。


toyokubo21.jpg

別角度からもう一度。。。堀① !(^^)!

お気に入りの切岸!!!

toyokubo7.jpg

この砦には簡素な造りのわりには鋭い切岸が存在する。

toyokubo410.jpg

高さ2.5mの壁は尾根続きから攻めてきた敵にはかなりの圧迫感を与えることができたであろう。

~ 堀② ~

toyokubo9.jpg

堀①から写真のような笹藪を75mほど歩いて行くと藪の中に堀②か現れる。

toyokubo8.jpg

堀②の規模は上幅約5m・深さ約1.5m程度である。
小規模な砦の堀切としては良く残っている方であるが、籔が酷く写真を撮ることも苦労する。


toyokubo18.jpg

尾根東側にある林道??から見た堀②の断面。

~ ②城とは関係ないけど・・・・・富士塚 ~

toyokubo15.jpg

豊久保砦と鞍部を挟んだ尾根先端には浅間様と呼ばれる富士塚がある。

toyokubo23.jpg

富士山の浅間社に参詣が出来ない人がこの塚に登ってお参りしたという。
そうすると浅間様に参詣したのと同じ効果が得られるとされる。
城跡とは関係ないが遺跡として存在するので記載しておく。


~ 遠望 ~

toyokubo19.jpg
南小河内区方面から見る。 

toyokubo4.jpg

日輪寺畑の居館から見た豊久保砦。 

豊久保砦を見てきましたがいかがだったでしょうか。

上ノ平城に付属する砦という見方がされていて南西にある岩ヶ城・でゑら・中の小屋と共に外郭を守っていた

ようである。造り的には簡素で郭内部は自然地形で堀2本というものであるが物見の砦ではこの程度でよかった

のであろう。上ノ平城の発掘では武田氏時代の物と思われる遺物が出ているのでこの砦もその頃も使われていた

ものと思われる。



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編    (宮坂 武男)

箕輪村誌            (箕輪村誌編纂刊行委員会   昭和61年)



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2012/10/10(水) 02:54:10|
  2. 箕輪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

箕輪町  城ヶ峰③

よっしゃー!!!いくぞー第三回 城ヶ峰・・・・・・堀切だぞ~。 

お鉢図面


~ 堀 ① ~

ohachi61.jpg

本郭から見下ろした堀①
規模としては、上幅11m・底の幅約1.5m・深さ最大9mの規模である。


ohachi62.jpg

堀①を横から見る。
堀①②③とも笹藪が酷く堀内部を歩くことはほぼ不可能である。
 


ohachi65.jpg

堀切から続く大規模な竪掘を見る。
この竪掘は下の沢まで落とされている大規模なものである。
 


ohachi66.jpg

城が使われていた頃には、敵はこの竪掘の為に斜面の横移動はほぼ不可能であったと思われる。

~ 堀 ①と②の間 ~

ohachi90.jpg

堀①と②の間には幅2~3m程度の堀残しの高まりがある。
ここは郭のような削平がなされていないので堀切を効果的に使用する為の堀残しただけのようだ。
(藪がすごいので詳細は観察できていないが・・・・)
 


~ 堀 ② ~

ohachi71.jpg

城内最大の堀切②を見る。
こちらの堀切の規模は上幅27m・下幅4m・深さ最大12mという今まで見たことの無いような規模である。


ohachi73.jpg

南側斜面にも竪掘として長大に落とされているが、こちらも藪が酷く最後まで追うことは難しい。

ohachi74.jpg

ohachi78.jpg

竪掘を角度を変えてみてみる。
このような大規模な竪掘は見たことが無く、単郭の城に何故このような堀切・竪掘が必要だったのか考えさせられ
る遺構である。


ohachi76.jpg

北側斜面に落とされている竪掘を中腹より見上げてみる。
堀切の幅が大きい分、竪掘の幅も大きく斜面の横移動の困難さを実感した。。。(-.-) 



~ 堀 ③ ~

ohachi83.jpg

尾根続き最後の堀切である堀切③を見る。
こちらも藪が酷く全体像はうかがいしれないが、規模としては幅約3.6m・深さ約4mである。
 


ohachi88.jpg

南側斜面は藪の為見ることは出来ないが、北斜面には沢まで届く長さの竪掘が落とされている。
写真で見てもわかるように、籔と切ったままの木が散乱しており歩くことも困難である。


ohachi81.jpg

見ずらいですが、堀切から竪掘を見下ろす。
これらの三本の竪掘はすべてしたの沢まで届く長さで落とされており籔さえ無ければ壮大な遺構が見られる貴重
な城址となることは間違いないのであるが。。。。もったいないかな、荒れ放題となっている。


~ 立地 ~

ohachi24.jpg

北側に沢を挟んで寺山砦が立地し、山体は写真を見てもわかるように険しい。

三回にわたってお送りしてきた城ヶ峰はいかがでしたでしょうか?

この城は、二蔵という城主が武田氏に敗れ退去したという伝承がある。その後のことはわからないが、小式部城と

この城ヶ峰は戦国期の改修を受けているという見解がある。

確かにこの城砦群には見られない大規模な堀切・竪掘・土塁が見られ他の城との時代差が感じられる。

小式部城が武田氏により改修・使用されたとの説もあるのでこの城も二蔵が退去後に武田氏より改修を受けたので

あろうか?段郭の多用は古い城郭に見られる言われているのでここは二蔵時代のままであろう。

本郭背後の大規模な堀切や土塁は誰の改修によるものだろうか。。。。素人では謎としか言えないが。

天正壬午の乱後は、高遠城の保科氏がこのあたりを領したことも考え合わせる必要があるかもしれませんね。



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編             (宮坂 武男     )

伊那の古城 改訂版               (篠田 徳登   2010年)

長野県史史蹟名勝天然記念物調査報告書  第五巻 (長野県文化財保護協会   昭和50年)

箕輪町誌                    (箕輪町誌編纂刊行委員会  昭和61年)



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2012/10/07(日) 23:30:02|
  2. 箕輪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

箕輪町  城ヶ峰②

感動の堀切をもつ城ヶ峰の第2回目で~す。。。

お鉢図面

~ ②悪夢の西尾根 ~

ohachi29.jpg

西尾根中腹から見上げる。
西尾根は、約1.5mほどの笹が繁茂しかつてあったであろう道は消滅している。。。。ここから悪夢は始まった


ohachi31.jpg


ohachi36.jpg

西尾根の特徴は、西南尾根より段郭の規模が大きいことであるが。。。。。
笹の高さ1.5m+段郭1m=2.5m・・・・人生始めて笹に弾き飛ばされる経験をしたのであった。


ohachi43.jpg

笹の下に何が潜んでいるかわからない恐怖と戦いながら、山頂を目指す!
西南尾根を登る家族と裏腹に西尾根を登る自分は・・・・倍の時間をかけて力尽きるのであった。
。。。。。。西南尾根を登ればよかったと後悔するばかり (-.-)


ohachi32.jpg

笹地獄をやっと抜けると、この本郭の切岸にたどり着く。

ohachi33.jpg

本郭切岸と下の段郭の美しさに笹地獄の疲れも忘れ走りだしてしまった。。。。まだ若さが残っていたようだ。

~ ①本郭 ~

ohachi47.jpg

本郭には2005年に北小河内区による城址碑が建てられている。
すばらしいのだが。。。。。籔をなんとか。。。。


ohachi49.jpg

本郭の規模は、東西約23m・南北約20mとなっており、南側半分は笹藪となり土塁は確認できるものの詳細を
観察することは難しい状態である。
写真の土塁は、東側土塁で堀切に接しており、高さは城内最大の3mである。


ohachi45.jpg

北側土塁であり高さ約1mある。(西・南側土塁は、藪の為に撮影不可)
本郭は、四周を土塁で囲まれており、西側に虎口が開いている。この四周を囲んでいる形状がお鉢の名前の由来
とされている。


ohachi53.jpg

ohachi48.jpg


本郭内は笹藪と間伐され放置された木により荒れ放題であり、間もなく笹により本郭は制圧されるのであろう。

ohachi51.jpg

最初の本城であったと思われる小式部城を本郭から見る。

~ 堀切①②③の全景 ~

ohachi59.jpg

南斜面に刻まれた連続竪掘を見る。(なんとなくでも連続しているのがわかってもらえると。。。)
南斜面は笹の繁茂により下りて行くことは不可能であり詳細を観察できる状態ではない。



今回もここまで・・・次回はフィナーレの堀切3連続をお送りしたいと思います。

長くなってしまいましたが次回もお付き合いください!!! (●^o^●) 
  1. 2012/10/04(木) 19:23:46|
  2. 箕輪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
前のページ 次のページ

プロフィール

ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
初めまして (1)
信濃の武将 (11)
松本市 (47)
安曇野市 (33)
塩尻市 (15)
筑北村 (5)
生坂村 (36)
池田町 (18)
箕輪町 (13)
伊那市 (7)
辰野町 (2)
下諏訪町 (9)
諏訪市 (1)
中川村 (3)
駒ケ根市 (6)
ニュース (4)
廃村 (1)
伝説 (2)
本日の訪城 (14)
飯島町 (1)
武将の墓地 (4)
松川村 (3)
千曲市 (1)
南箕輪村 (1)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR