長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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箕輪町  でゑら

上ノ平城砦群

所在地・・・・箕輪町東箕輪南小河内字大久保              訪城時間・・・・・中ノ小屋から30分

危険度・・・・★★★★☆(尾根間違えなどの危険あり、地形図が必須です。)        

訪城日・・・・2012年12月2日                       訪城目印・・・・ヨキトギ沢


bakanokoya

城跡配置図   (高度地理院 2万5千分の1地図使用)


               ~ でゑらの歴史 ~

『箕輪町誌』には、『でゑらは俗称で、台帳の字は大久保である。この城砦は同じく五郎山の一支嶺が一の沢川に

望む所(標高860m)の高所にあり、東に大久保沢が流れ、西方にはヨキトギ沢の渓谷の彼方は岩ヶ城である。

中の小屋・岩ヶ城・でゑらの三城は、およそ同一標高地点に鼎のように並んでいる山城で、藤沢及び諏訪に通ずる

一の沢谷を押さえるために築かれたものと思われる。


deera3 (3)

ヨキトギ沢を見る。

この城は山背の西側を削って東西に細長い曲輪を一つずつ造ってあり、また堀切らしいものが見出されないのは

他の山城に見られない特異の構造である。(中略)、その南端部には200㎡の広場がある。ここは岩ヶ城との連絡

を保つ為の設備であった所と推定する。(後略)。とあり、一の沢沿いの街道を見張る為の砦で、岩ヶ城と連絡を

とりながら守っていたものとしている。


deera2 (3)

一の沢沿いの道から見たでゑら(ここが昔の諏訪・藤沢を結ぶ街道であったものと思われる。)  

しかし、『山城探訪』では、『(前略)、この城(?)はほとんど自然地形で、他の二城とは少し趣を異にしてい

る。この三城(中の小屋・岩ヶ城・でゑら)が同じ時代に機能していたか、あるいは同一主体であったか問題であ

るが、これはどうも逃げ込み城と見た方がよいように思われ、百姓が利用したことも視野に入れて考えたい。』

とあり、宮坂氏は逃げ込み城の可能性もあるとしている。


deera3.jpg

ヨキトギ沢の最奥部には、写真のような広大な平坦地があり日当たりも良好で水もある。

沢の入り口を、でゑら・岩ヶ城が守るように配置されており、ここも民衆・豪族の一族などの逃げ込み場所として

利用されていたのではないだろうか。



               ~  でゑらの現状 ~

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この図面に沿って紹介していきます。 

~ 窪み ~

deera10.jpg

城跡がある尾根の先端部は、しゃもじのような形をしていて凸凹が目立つ。

その尾根の付け根には、大きな窪みがある、『箕輪町誌』にはこの窪みについて、『(前略)この凹地は

デイダラボッチの足跡であるという彼の巨人伝説のある所で、でゑらの地名もそれから起ったものと云う。

(後略)』とありこの窪地が城名の由来であるとしている。


~ 高まり①・② ~

deera9 (4)

城跡の中央部に高まり①が存在する。高さは約3mあり、頂上部は一応、削平されているような感じを受ける。

deera9 (5)

高まり①の頂上部を見る。

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高まり②は、城跡の南側にあり高さ約2.5mほどでこちらは自然地形で削平などの人による加工は見られない。

ただ、高まり②の南側は一の沢側となっていることから街道を見張る物見台であったかもしれない。


~ 土塁状の高まり ~

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城跡の北側から西側にかけての縁部には、写真のような土塁状の細長い高まりが巡っている。

この高まりの真下はは、ヨキトギ沢となっているので自然の高まりを土塁として活用したのであろうか。


~ 平地 ~

deera5 (3)

この平地は、土塁状高まりと高まり①・②の間に存在し、町史などはこれを西郭であるとしている。

deera1 (5)

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この平地を町誌では、西郭としており「岩ヶ城を目の前に望まれる西郭は、への字形に屈曲した細長い平地で、

その延長は約80m・幅は4~14mほどある大規模なもので、その南端部に約200㎡に広場がある。ここは、岩ヶ城

との連絡を保つ為の設備があった所と推定される。」とあり何らかの設備があったのではないかと推定している。


その他、一の沢側などに削平地らしき平地が見られるが、これが人工なのか自然によるものなのか判断に苦しむ。

一応、上ノ平城砦群として紹介してきましたでゑらはどうでしたでしょうか?

城跡とはされているものの、ほぼ自然地形で防御施設も見られずどう判断してよいか迷う珍しい城跡である。

ただ、沢を挟んだ岩ヶ城からは一の沢の街道が見えないことからここに何らかの物見の施設があったとしても

よい場所ではある。また、住民の隠れ城との意見も説明にある平地に隠れてしまえば周りの高まりなどにより

下からは見えないという造りともまっている。

素人では判断できないので一応、城跡として紹介しておきます。



~参考文献~

山城探訪  上伊那資料編     (宮坂 武男)

箕輪町誌             (箕輪町誌編纂刊行委員会 昭和61年) 
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  1. 2013/03/15(金) 10:03:34|
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箕輪町  岩ヶ城

続・上ノ平城砦群の中核をなす城

所在地・・・箕輪町東箕輪南小河内                 訪城時間・・・・ヨキトギ沢から10分・麓から30分

危険度・・・★★★☆☆                        訪城目印・・・・東山山麓歴史コースを辿る

訪城日・・・2012年12月2日


bakanokoya

岩ヶ城の位置  (国土地理院 2万5千分の1)


                 ~ 岩ヶ城の歴史 ~

岩ヶ城は、五郎山の峰が南にのびて一の沢川に望む突端部にあり、川に面する一角は直立100mの岩壁となっていて

中の小屋とは谷を隔てた東方にある。

明治12年刊行の『東箕輪村誌』には、『岩ヶ城知久左衛門隠栖ノ地と云、南は岩石険峻ニシテ下ニ市ノ沢渓水ヲ

帯ビ西北ニ堀ヲ構ヘ堅固要害ノ地タリ。方方喬松繁茂シテ景色ヨロシ。」とある。


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郭①にある城址を示す看板

また、『箕輪町誌』には、『中の小屋・岩ヶ城・でゑらの三城は、およそ同一標高地点に鼎のように並んでいる

山城で、藤沢及び諏訪に通ずる一の谷を押さえるために築かれたものと思われる。』

とあり、二つの資料を見る限りでは、藤沢や諏訪からの街道を押さえる為に一族の知久左衛門を配していたという

感じであったのであろう。ただ、三つの城の中ででゑらは、地域住民の逃げ込み城との伝承もあるようである。


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この図に沿って紹介していきます。

                    ~ 岩ヶ城の現状 ~

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ヨキトギ沢から見上げた岩ヶ城

今回の訪城は、中の小屋➔でゑら➔岩ヶ城の順で見て行ったが岩ヶ城とでゑらの間にはヨキトギ沢という幅・深さ

ともに大きな沢があり尾根を回り込んでいく必要があるが、今回は時間の節約のため沢を下りて岩ヶ城の乗る尾根

の斜面を直登しての訪城となりました。(道はありませんので注意!)


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ヨキトギ沢の底部を見る。

~ 尾根先端部・削平地 ~

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堀①から南側、尾根の先端部へ向かうと尾根上は自然地形ながら、ヨキトギ沢側の尾根の斜面には削平地が見られる。

iwagazyou6.jpg

斜面には、2~3段の削平地が存在している。これはヨキトギ沢側の斜面は緩くこちらから攻められる恐れが高か

った為と思われる。


~ 堀① ~

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堀①を横から見る。

iwagasiro1.jpg

堀①から落とされた竪掘を見る。

堀①は、上幅11mあるが深さがなく堀切としての機能はあまり感じられない。ただ、この堀から下ろされている

竪掘は堀切より深さがあり、南尾根唯一の堀切でもあるので往古はもっと深かった可能性もある。


~ 郭② ~

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郭②を見る。

堀①を越えると郭②となる、写真上段は郭①で切岸で明確に分けられているように見えるが・・・・・


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上段の郭①と共に尾根を東へたどると帯郭状の細長い郭と変化していく。

そしてこの城の造りの特徴となる郭②がスロープ状に郭①と合流するという珍しい造りとなる。


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東側から見た郭①・郭②の合流部分


合流部分付近には郭を区切った跡などが見られないが、どのように二つの郭を使用していたのであろうか。

~ 郭①(本郭) ~

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郭①(本郭)を見る。

この城の本郭は、尾根が直角に曲がる部分を削平して構築されており、広さは約35×15mで東側は上で書いたよう

に郭②と合流している。

郭内部は雑木や松なので眺めは悪いが現在、南河内区により城跡を示す看板が建てられている。


~ 郭③ ~

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郭①と②が合流した部分から東へたどると、緩い登りとなり堀②へ至る。

ただ、この緩い登りの部分には人が手を加えたような写真のような凹凸が見られ、堀②に伴うと思われる土塁も

見られる。


~ 堀②・③ ~

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堀②を見る。

堀②は、上幅約14m・深さ約1mで堀③・④と共に搦め手を厳重に守っている。


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堀②から落とされている竪掘とその横には竪掘のみの堀③が二重竪掘としてヨキトギ沢側を厳重に守っている。

iwagazyou2.jpg

堀②から落とされた竪掘と堀③の二重竪掘を上から見る。

堀③(竪掘)の上幅は約3mで約30m掘り下げている。

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堀③(左側)と堀②から落とされた竪掘を下から見上げる。

~ 堀④ ~

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堀④は、城内最後の堀切で堀②と共に二重堀切として搦め手を守っている。

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搦め手尾根から見る堀④と奥に堀②の切岸を見る

堀④は、上幅約6m・深さ約50cmと搦め手を守る堀切としては頼りない規模であるが、堀②・③・④と全体を見れば

搦め手を3本の堀で守るという強い意志が感じられる造りである。


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岩ヶ城と中の小屋の遠景

さあ、上ノ平城砦群の岩ヶ城をお送りしてきましたが、いかがだったでしょうか。

この城は、諏訪・藤沢からの一の沢沿いの街道を押さえる為に厳重な造りとして構築されたことは間違いないで

あろうが、次回紹介するでゑらは、民衆の避難の為の城とされていることやヨキトギ沢を詰めると広大な平地が

あり住民の避難所ともなりうる場所であることからでゑらと共に住民の避難所となっているヨキトギ沢の入り口を

守るという任務も担っていたのではないだろうか。



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編  (宮坂 武男)

箕輪町誌         (箕輪町誌編纂刊行委員会  昭和61年)



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  1. 2013/03/12(火) 10:44:10|
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箕輪町   中の小屋

続・上ノ平城砦群

所在地・・・・箕輪町東箕輪南小河内                       危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城日・・・・2012年12月2日                            訪城時間・・・・30分

訪城目印・・・・東山山麓歴史コースを歩く(道はきれいながら看板は無し)



              ~ 中の小屋の歴史 ~

中の小屋についての歴史を記した文献は現在見つかっておらず、城主・城歴等は不明である。

沢を挟んだ隣の尾根にある岩ヶ城(次回掲載予定)は、知久左衛門の隠棲の地とされている。

本城である上ノ平城からは、中の小屋がある尾根が邪魔をして直接に岩ヶ城が見えない為に、これを補う為に

中継の砦として築城されたのではないだろうか。。。(想像ですが。。。(-.-) )

「箕輪町誌」では、上ノ平城の背後を守る城砦と考えられ、一の沢の谷筋を押さえるものとされる。

ともある。


bakanokoya

中の小屋・岩ヶ城・でゑら・上ノ平城の位置関係          (国土地理院 2万5千分の1地図使用)

bakanokoya (3)

今回の訪城経路                     (国土地理院 2万5千分の1地図使用)

~ 訪城経路(分かりずらいので紹介します) ~

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福沢の集落内を通る道沿いに、写真のような山へ入る狭い道がある(奥に車を止めるスペース有り)

ここが東山山麓歴史コースの入り口となる。(案内看板無し)


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入り口から沢沿いに進む道が付いているので道沿いに歩いて行く。

(今回は道に気付かず尾根を直登してしまった。。。。。。(汗))


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歴史コースには写真のように道沿いに番号が記載された看板がある。(小さいので要注意)

この番号が『13』番の場所が今回紹介する中の小屋の搦め手尾根の付け根となる。

今回の訪城で間違えた尾根の直登は、雑木や椿の籔・倒木があり危険なのでお勧めしません。


               ~ 城跡の現状 ~

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この図面に沿ってお送りしていきます。

~ 郭①(本郭) ~

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郭①内部を見る。

この城内唯一の郭である①は、現在椿の籔となっており愕然としてしまうほどである。

郭の規模は、27m×17mの広さでやや変形した台形のような形をしていて、削平はされているものの南側に緩やか

に傾斜している感じを受ける。


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郭①の周囲には、高さ1m以下の高さで土塁が全周している。(写真は北側の土塁で高さは約1m)

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推定・北東虎口部分を見る。

郭を全周している土塁には、虎口を思わせる開口部が西南・北東側に見られる。


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この全く無名の城にも、東山山麓歴史コースが近くを通っていた為に城跡を示す看板が建てられている。

(誰が来るのかは疑問ながら。。。。。南小河内区。。。。。素晴らしいです !(^^)!  )


~ 帯郭 ~

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郭①から見下ろした帯郭

この帯郭は、郭①の南側と西側に見られる。


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宮坂氏は『山城探訪』では、この帯郭状の平地は山道によるものではないか。としているが下の写真のように

郭①の隅部の下は結構な広さがあり道によるもの。。。。とは思えないのだが??

西側の帯郭は、郭①の斜面を巻いて堀①まで続いているのが見える。


~ 堀① ~

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郭①の北東、搦め手尾根続きを2本の堀切で遮断している。

堀①は、上幅約9m・深さ(郭①側で)約4mであるが搦め手側は深さが1m程度しかない小規模な堀切である。


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堀①の北西斜面には竪掘が中段まで落とされている。(反対側は、藪の為に確認出来ず)

~ 堀② ~

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堀②は、上幅約8m・深さ約1.5mで堀①よりも規模が小さくなっている。

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この堀②も北西斜面の中段まで竪掘が落とされており、堀①と合わせて二重堀切+二重竪掘となっていてこの

小規模な砦には、似つかわしくないほど搦め手に気を使っている。


~ その他 ~

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堀②遺構の尾根筋には一切の手を加えていない自然の尾根が100mほど続いていて、五郎山から下りてきた尾根斜面

と砦の乗る平坦な尾根の付け根部分に、東山山麓歴史コースが登ってくる。

このコースの配置を見ると、中の小屋と岩ヶ城の搦め手部を押さえていることから、城が稼働していたころからの

道であったことがうかがえ、その道を遊歩道として整備した感じを受ける。


nakanokoya3.jpg

中の小屋の搦め手へ登ってきた遊歩道。

(ここから左へ100m尾根を辿れば中の小屋へ行くことが出来るが案内看板は無い)

堀底道のような感じとなていて古くから使われていたことをうかがわせる。


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山は松山でかつてはキノコ山となっていたそうであるが、現在は写真のように籔となっているので注意が必要です

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城跡を正面から見る

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城跡遠望

いかがでしたか、小規模な砦ながら土塁で囲んだ郭や二重掘切・竪掘など後世まで手を入れていた感じで

よほど重視した砦であったようである。

次回は沢を挟んだ隣にある岩ヶ城をお送りしますのでお付き合いください。



~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料編  (宮坂 武男)
  1. 2013/02/28(木) 04:28:31|
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箕輪町  上ノ平城③(最終回)

さあ~長々と書いてきました、上ノ平城の最終回をお送りします (●^o^●)

今回は堀⑤からです。 


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~ 堀⑤ ~

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堀⑤はかじや畑と③の郭を分けるように掘られた長大な堀である。

この堀は現在、堀③からカーブして堀⑥へつながるという、上ノ平城の2分の1ほどの規模を有する。


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幅は4~2m程度・深さは2.5~1.5m程度の規模である。

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かじや畑と③の郭を二分する堀⑤
堀①・③に比べてこの堀⑤は規模・鋭さが甘くなっていて長大なことからもしかしたら通路として使用されて
いたとも考えられる。


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一部、緩やかなカーブしながら掘られている。
通路とした場合の見通しを悪くするための工夫かな???


~ 堀⑥ ~

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堀⑤が伸びてきてカーブする部分が堀⑥となる。(堀⑤の延長だが一応堀⑥として区切って説明する) 

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堀⑤からカーブしてきた堀⑥は城内と城外を区切る最後の堀となる。 

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堀⑥は竪掘のようにして北側斜面を下っていく。

~ 堀⑦ ~

uenohira84.jpg

 ③の郭の東側、城内と城外を区切る堀であったと思われるが、現在はわずかな痕跡のみである。 

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現在では確認できないが、元々は堀⑥とつながっていて城内と城外を分けていたものと思われる

~ ③の郭 ~

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 ③の郭を見る。(竹藪の所は堀⑦) 

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 ③の郭は現在、畑地となっており広大な平坦地となっている。 

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上ノ平城の南斜面には無数の段郭状の平場が存在する。

このすべてが城に関するものとは思わないが、南側の傾斜が緩いために往古も何段かは存在したと思われる


~ 全景 ~

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この城は比高が低く広大な城域を誇ることから戦うだけの城ではなく、政治を行う機能も持った城だったのでは
ないだろうか?
その理由としては。。。。。城下町・祭礼場所があったようなのである。
 


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南小河内区内にある看板。。。。。城跡北側下には城下町を思わせる「殿屋敷小路」「立小路」などの
地名が残り道路なども明確に区画されている。

その為、普段城主はこのあたりに居館を構えていたと考えられている。
 


179.jpg

さらに、堀⑥⑦の東側の城外には、この御射山平と呼ばれる御射山社の祭礼を行ったとされる場所も存在する。 

~ 発掘調査で出土した遺物による時代と築城主の推考 ~(報告書抜粋)

今まで上ノ平城は、知久氏が下伊那へ移った鎌倉時代以降使われず鎌倉時代のまま残っているとされてきた。

しかし、発掘調査の成果から戦国時代(15世紀中期~16隻中期)に機能していた城であることが確認された。

近隣の福与城跡が文献資料に登場する時期と等しく、位置的に近いことから何らかの関係があったものと考えられ

ている。


*県埋文の河西氏による報告書内の論文の見解

築城者・改修者について・・・二つの推論か書かれている。

①礫を多量に投棄しての虎口の破壊は在地武士を越えた戦国大名によりなし得た行為との前提から、武田氏が

1期の上ノ平城に放火したうえで破壊し、その上部に2期の上ノ平城を築城したとの解釈である。

②武田氏の侵攻などで生じた上伊那の軍事的緊張状態の中で、在地勢力が1期の上ノ平城を廃絶、2期の上ノ平城

を構築したとの見方である。

①は武田氏、②は在地勢力が築城主体者となる。

しかし、資料的な限界により推測の域を脱しないが、武田氏侵攻段階の軍事的緊張状態により1期の上ノ平城が

破壊されたと理解することは出来よう。としている。



・・・なお。。この発掘では鎌倉時代の遺物は発見されていなのである。

知久氏はここに居たのでしょうか???? 



~参考文献~

箕輪町誌                   (箕輪町編纂刊行委員会  昭和61年)

上ノ城跡発掘調査報告書            (箕輪町教育委員会    平成13年)

長野県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第16集  (市村 咸人   昭和10年)

山城探訪  上伊那資料編           (宮坂 武男)




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  1. 2012/10/24(水) 19:11:05|
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箕輪町   上ノ平城②

箕輪町最大の城郭 上ノ平城の第二回目です。。。。。今回は①の郭から! 

uenohira10906.jpg

~ ①の郭 ~ 

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 ①の郭は、発掘調査後埋め戻され公園となっている。
発掘の成果として、1期と2期の時代があったことがわかった。(奥にははしゃいで遊ぶ我が子か。。!(^^)!)

1期は北・西・南の郭縁部に土塁があったことが確認された(東側は調査区外)そして、西側と南側の土塁中央
には虎口が開いており、礎石を伴う門があったことがわかっている。
 


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 ①の郭西側縁部と下段②の郭堀跡

西側虎口跡と①の郭内部では大量の炭化物が発掘され、1期の遺構がなんらかの理由で焼失し、その後、虎口を
破壊する等の目的により、意図的に石を投棄した、いわゆる「破城」があったのではないかと考えられている。

2期では、1期が焼失により機能が停止した後に土塁が虎口が完全に埋没する状況になるまで40cmの土を盛り、
北側1m・南側2.5mほど郭を拡張している。 


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かじや畑から堀③越しに見た①の郭

郭の拡張後、北側と東側に土塁が構築された。
(西側・南側については、構築されなかったのか、耕作等で削平されたのか確認出来ていない。)

この2期の造成により②の郭で書いたように、①と②の郭間の堀が埋められたことがわかった。
 


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鋭い切岸で囲まれている①の郭、北側には腰郭が造られている。

~ 堀③ ~

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 かじや畑と郭①の間にある堀③を見る。
現在はこの堀から城内に入る為の通路となっているが、郭①の中央部で曲がっている部分(堀③)とそのまま
まっすぐ浅くなりながら掘られている部分がある。
 


uenohira53.jpg

かじや畑から見た堀③(奥は①の郭)
①の郭の南側土塁中央に虎口が確認されたことから、この堀③が城が活動していた時も通路として使用され、
この堀③から回り込んで①の郭南虎口に入っていたのではないだろうか。
 


uenohira51.jpg

堀③がカーブし堀⑤へと続いていく。以前はT字型であったと思われる。

uenohira2.jpg

以前は堀③へとつながっていた①の郭と③の郭間の埋められた堀跡。
ここが①の郭南虎口へとつながる通路であったと思われる。(写真左は③の郭・右側が①の郭)
 


~ かじや畑 ~

uenohira21.jpg

堀⑤の北側の郭をかじや畑を呼んでいる。
ここは以前は畑地であったが現在、地面が見えないほどの籔となっていて詳細は確認できない。


uenohira25.jpg

かじや畑から見る①の郭

名前から言えば鍛冶屋があったように考えられるが、この郭は①の郭より堀③を挟んで1mほど高くなっており、
城の中心部である①の郭を見下ろせる位置なので重要視された郭であったと思われる。
 


uenohira23.jpg

かじや畑の北側斜面には巨大な腰郭が存在する。
(説明板がある場所は、①の郭の腰郭で間に堀③が存在する)

郭①の北側とかじや畑の北側に腰郭が堀③を挟むように存在することからやはり堀③を通路とした場合の城内への

入り口としてこの場所を防備するための施設と推定する。
 


~ 堀④ ~


uenohira70.jpg

かじや畑の中心部分にある堀④とされる堀跡らしき窪み

推定としては、かじや畑を二分するように掘られ堀⑤へつながっていたと考えられている。


uenohira71.jpg

この堀④を確認する為に①の郭の調査と同時にここもトレンチ調査が行われている。

結果としては、生活面としての土の移動は確認されているが、堀④は確認されなかった。しかし、写真のような
窪みがあることから調査地よりも東側または西側の可能性も残されているとしている。

出土物は①の郭と同様なものが確認されていることから15世紀中期から16世紀中期ころに機能していたと考えら
れている。


uenohira26.jpg

堀④より東側のかじや畑。。。。堀⑥へと続く。

第二回目はいかがだったでしょうか。。。。発掘報告書の内容ばかりで堅い内容になってしまいましたが、

このお城の良さが伝わっているでしょうか?

次回は最終回ですのでおたのしみに!!!!
  1. 2012/10/24(水) 10:50:52|
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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