長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

塩尻市  五百渡砦②

山城の恐怖。。。。。生還編 (#^.^#) 

ioto12.jpg
今回の訪城路のおさらい。。。

ioto7 (3)

沢の底でどう登ろうかウロウロすること10分。。。。。。ピカ~ン! (*_*;

見えた~。。。。。。。

さあ、質問です上の写真には尾根へ登るための道筋が写っています。。。。。。わかるかな?

城跡マニアには見えるはず。。。。。。。。

チッ。。。。。チッ。。。。。チッ。。。。。。。。チン!


ioto7 (5)

正解は。。。。。。そう! 四本足の生き物の道が僅かながら見えます。

しかし、傾斜40度以上・幅は5cm程度。。。。。。。帰るには行くしかない!!


ioto7 (9)

恐る恐る登ること10分。。。。。やっと道半ば。。。。。。。ここで下を見てみると。。。。。。。

これはヤバい!    かなりヤバイ!     落ちたらまずただでは済まないし携帯は圏外。。。。

死ぬな。。。。。。。。。。


ioto7 (6)

上を見上げても。。。。。。垂直な壁にしか見えん!   足がすくむ。。。。(-"-)

さらにノロノロ登ること10分。。。。。。。


ioto7 (8)

尾根にたどりついた。。。。。。。(汗)

これが行く手を阻んだ崖か~。。。。。。。。2~3m程度かな??

そういえば。。。。山城探訪に「縄を伝って岩を登ると。。。」ってあるけど。。。。縄はどこに。。。。


ioto7 (10)

(驚)。。。。。。ダメでしょ。。。。。これ使ったら。。。。絶対切れる。。。。。(汗)

こんなのに命預けられるか~。。。。。。(心の中で叫ぶ)

この五百渡山への登山道はすでに忘れさられた存在で、整備はされていないようだ。。。。。。なぜか。。。。。

振り向くとわかるこの恐ろしさ。


ioto7 (12)

山城探訪に書かれていた。。。「尺に満たない細尾根が45m続き・・・」。。。。。。。。。。

イヤ、イヤ、イヤ。。。。。。尺どころじゃないでしょ!

写真で伝わるか分かりませんが、この45mの細尾根下部がすべてえぐれていて木の根っこで僅かな土が留まって

いるにすぎないのです。。。。。。。「神よ。。。。。何故こんな試練ばかり与えるのか。。。(涙)」

とにかく揺らさないよ~うに、四つん這いでソロソロっと進んでいく。。。。。。

登山道が廃道になったのはこのせいか。。。。。。。。。(-_-メ)


ioto7 (13)

尾根を分断していた岩壁を振り返って撮ってみる。(もちろん木にしがみつきつつ。。。)

ioto7 (15)

5分後。。。。。。尾根を渡り切った瞬間ガッツポーズ!!!

「生きて生還したぞ~」・・・・・・・・・・・誰も居ないので思わず叫ぶ !(^^)!

ここからはルンルン気分で、訪城開始!!!!!!!


ioto12 (2)

~ 腰郭 ~

ioto2 (2)

死ぬ思いして通過した細尾根を2mほど登ると(この斜面もハンパなく傾斜がきつく怖い!)この腰郭が申し訳程度

に構築している。


ioto2.jpg

この腰郭には多くて2~3人程度しか入れないような狭さで、いつもは縁部に柵を巡らして防御していたのであろ

う、そう考えるとこの細尾根があるのに防御している所をみると尾根続きにあった堀①も堀切の可能性も

出てくるのではないだろうか。


~ 郭①(本郭) ~

ioto5.jpg

腰郭から約5mほど登るとピークのてっぺんである郭①に着く。

ここには石祠(祀神不明)と石碑(碑文不明)が建っている。

この石碑の周囲には縄で囲まれた(結界?)が張られていて、どうやらここまでは人が入ってきているようである。


ioto5 (3)

石祠と碑を近くで見る。(今でもお祭りをしていることに感動!  すばらしい!)

ioto5 (4)

本郭東側から西側を見る。

ioto5 (5)

西側から東側を見る。

この郭①は、五百渡砦の唯一の中心的な郭(この砦は単郭構造)で約10×30mの規模で西側を除く三方は、

急崖で登坂困難、要害堅固な場所に構築されている。


ioto5 (6)

この郭①の内部は、4段ほどの段差が設けられているが段の壁は緩く平坦面も削平されていない。

郭周囲には土塁も見られず簡素な造りとなっている。

これはこの砦のある山が急峻で比高も高く、役目が烽火台や物見だった為にこの程度でもよかったものと考えられる。


~ 大手道 ~

ioto1 (4)

大手道は、五百渡橋から登ってくる尾根で、本郭からみると西尾根となる。

本郭からこの西尾根を10mほど降ると、11×3m・5×3mの二段の郭が見られる。


ioto1 (2)

この郭は城内では一番と言っていいほど削平が施されていて、11×3mの郭の両縁部には竪掘状の溝が落ちている。

ioto1.jpg

これは大手を登ってきた道を、本郭手前の郭で敵を押さえるべく通路を堀によって狭くして防御していたのであろ

うか。。。。(宮坂氏は、もしかしたら堀があった可能性がある。としている)


ioto1 (18)

この大手道は、かつて五百渡山への登山道であったとは思えないほど荒れていて険しい。

ioto1 (15)

ioto1 (11)

この大手道の尾根上には数か所の削平地が見られるが、これが砦に関係する大手の防御によるものなのか、かつて

山頂にあった五百渡神社に関連する祭礼などによるものか判断できない。

尾根の中段に「阿礼神社御旧蹟」の碑があることからも判断が難しくなっている。


ioto1 (22)

ioto1 (13)

ioto1 (21)

この尾根は険しく、細い尾根で経験の少ない方には登るのが難しいが、尾根の所々に上のような印が色々な所や、

分岐点に付けられており道に迷う心配はないので興味のある方は安心して登って下さい。

(山頂までは。。。。。。。。。。。ネ!)


ioto1 (20)

尾根の途中から見た遥か遠くに見える問題の「間違えた山」。。。。。

これからはちゃんと戻ろう。(汗)


ioto1 (19)

この砦は、かなり奥まった位置に構築している為に全体の写真は撮ることができないので、下山中の尾根から

山頂方向を撮ってみたが。。。。写って無い。。。。。。。。山の傾斜がきつすぎて山頂すら写らない(涙)



ioto5 (9)

本郭からの眺め

本郭からは松本や塩尻一円が遠望できるが塩尻方面は見ることができないことから、深志方面(北熊井城経由?)

塩尻方面(西條城?高須城経由?)などからの烽火を受け取っていたのであろう。



2回にわたってお送りしてきた五百渡砦はいかがだったでしょうか。。。。

険峻な山・地形図を見間違えて間違って登った山・シカの足跡と人の足跡を見間違えてしまったこと・

戻る勇気が無かったこと。。。。。。。。

色々な条件がそろってしまい今回のような危ない訪城となってしまいました。。。。。反省。

皆様にはこのようなことが起らないように楽しんで訪城していただきたいと思います。

それにしても。。。。。苦労が多く見るべきものの少ない砦だったな~。。。。。。。。。

っと言いつつこの後、北熊井城の詰城とされている本城へ向かうのでした。。。。。

病気の進行が。。。。こわい (゜-゜)


~参考文献~

山城探訪 松塩筑資料編      (宮坂 武男)

長畝区誌             (長畝区  平成18年)



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
スポンサーサイト
  1. 2013/07/15(月) 15:59:02|
  2. 塩尻市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

塩尻市  五百渡砦(いおととりで)①

油断大敵!「もう帰れないかも。。。」身をもって体験した山城のの恐怖。

所在地・・・・塩尻市東山五百渡      

訪城時間・・・・(大手から)30~40分  ・  (搦め手から)2時間~2時間30分

危険度・・・・★★★★★  (搦め手からはヤバい!)

訪城日・・・・2013年4月1日



             ~ 今回の訪城路の記録 ~

前から登城の仕方は調べていた。。。。。それが今回の油断につながった。。。。のだろう。

この砦へは今回大変なめにあってしまったので記録に残すとともに、今後訪城される方の警告となるよう

細かく2回に分けて書いて行きたいと思います。

(砦自体は小さいので記事は少ないが。。。。。)


ioto12.jpg
今回の砦へのヤバイ迷走の足跡               国土地理院2万5千分の1地図使用

ioto13.jpg

砦へは、塩尻方面から国道20号線塩尻峠手前を高ボッチ高原へ向かい、山道の途中に五百渡橋・「在五百渡頂上

御旧蹟」の立派な石碑のある場所へ駐車する。(車を止める場所は広くある)


ioto13 (3)

石碑の奥に進むと写真のような「イオト」登山道と書かれた看板が建っているので沢を渡って登山する。

(奥には登山道に沿ってロープで案内されているが、下山後に気付いた。。。。。のだが (゜-゜) )


ioto13 (4)

なぜか・・・・今回・・・・・・尾根を間違えてしまったのだ。。。。。でもこの時は自信満々で登山開始!

ioto10.jpg

おっつ!! いきなり傾斜40度近い急斜面だぜ!  っと意気揚々と登っていく。。。。何故疑わなかったって?

ioto10 (2)

だって道?踏み跡?があったんだもん。。(-_-;)。。。。後で考えればシカちゃんのだったけど。。。(涙)

急斜面を登りつつ宮坂氏の「山城探訪」の五百渡砦の図を見ながら.。。。。フムフム・・・・

これがこの平場か~・・・なんて無理やり現地と合わせて行く。。。。。。(思い込みは怖い!)


ioto10 (3)

そして登ること30分、山頂が見えてくるが。。。。。。。な~んか図面と違うような。。。。。

今更ここで不安になってくる(汗)

が・・・・・確認のしようがないのでとりあえず山頂を目指す。


ioto10 (4)

よっしゃ~。。。。山頂だぜ!   って。。。。なにもね~!!!!!

やっぱ違ったのか・・・・・・・・(涙)

一応、周囲を見渡してみると。。。。。。。。。


ioto10 (6)

ガビ~ん!!!  ちょ~深い沢を挟んだ対岸の尾根に城跡らしき平場が見えるではないか・・・・・

あわてて地形図を確認して見るが。。。。。。ど~みても・・・・何度みても・・・・・

居る尾根違うじゃん!!!   なんで看板あったのに尾根間違えたんだろ。。。。。(涙)


ioto12.jpg

しかし。。。。間違えたとはいえ苦労して登ってきた山から下りたくはない。

なんとかして隣の尾根に行けないだろうか。。。。。。。。。チッ! チッ! チィン!  閃いた!

地形図では、砦のある尾根とこの尾根は五百渡山の中腹で繋がっているんだから尾根を辿れば砦に行けるじゃん!

そう・・・・・この時、忘れていたのだ。

「山城探訪」には、「背後は5m下に7×3の1段があり、あとは尺にも満たない細尾根が45m続き、縄を伝って登ると

更に細尾根が50mばかりあり、両側は絶壁。
(後略)」

とあったのを。。。。。。。これが地獄の訪城の始まりだったのだ。。。


ioto10 (5)

意気揚々と尾根を辿っていく。(この時点では、シカか山仕事の方の踏み跡があり不安は感じていない。)

ioto10 (10)

暫く尾根を辿ると、五百渡山への尾根の分岐部分が見えてくるが、ここから猛烈な傾斜の登りとなる。

ここまでで約30分(間違えた山との比高さ約110m)

しかも・・・・・・周囲があやしくなってくる。


ioto10 (9)

分岐手前で五百渡砦側の尾根を見てみると・・・・・・・・・!

どうみても。。。。。けわしいぞ~!。。。。。。やばいかもしれない。。。。が、

すでに登山口から登り始めること、1時間以上・比高230mは登っていることが引き返す決断を鈍らす。

体力的にもそろそろヤバいし。。。。。五百渡砦側の降りに賭けてみるか。。。。。。(ここでも判断を誤る。)


ioto10 (11)

分岐を登りきり、五百渡砦側の尾根をみると。。。。。。。。細い(汗)

しかも。。。。左側は絶壁!・・・・・落ちたら死亡!!!

前日に降った雪によって凍ってしまった地面が滑る!滑る!

尻を付きながら下りること10分。。。。。。


ioto3 (3)

降りきって下りてきた斜面を見上げてみると。。。。。。凍った地面にこの傾斜。。。。

体力も残り少ないし戻れる気がしない。。。。。もう進むしかないのである。。。。(・へ・)

(写真の赤白のポールは、塩尻市の境界?を示すものと思われるが、後にこれに救われるのだ。)



ここで。。。。。一応、城域に入るので砦址の歴史について。。。。。ご説明すると。

この砦は基本的に詳しく書かれている資料は皆無であるが、「長畝区誌」に載っていて塩尻峠の戦いのものとして、

「(前略)、西條城は宝徳年間築造以来伊那、諏訪両地方の防御の要鎮にして当時小笠原頼貞之を守り各支城を

統ぶといえどもその位置西偏し塩尻連嶺を守るに足らず、これに於いてか老将犬飼半左衛門は東山付近に屯営し

更に高山城を築き、五百渡・合図の峰及び焼臺に烽火台を構へ成兵を配置し兼ねて此等の各営を連絡し、且つ軍需

兵站供用の為に中央桟敷に高須城を築き以って首尾相策應し比天嶮を拒守せり」とあり、天文14年の塩尻峠の戦い

のおりに小笠原方の犬飼半左衛門により烽火台として構築されたことが書かれている。

「山城探訪」の宮坂氏は、塩尻市の大門付近にある内城の武士(塩尻氏の居館跡とも考えられているが)の詰の城

か逃げ込み用の城だったのではないかとしている。


ioto12 (2)
この図面に沿って紹介していきますので、参考にしてください。

~ 堀① ~

ioto3 (7)

急斜面をなんとか突破し、傾斜のないゆる~い尾根をトボトボと歩いていると。。。。。キラ~ン(*^_^*)

ioto3 (5)

ioto3 (6)

第一村人発見!!並みに初めての城郭遺構?にテンション急上昇!!!

この堀切状遺構は、上幅約4m。深さ約1mでこれはどう見ても細尾根に穿たれた堀切なのだ・・・・・

ただ宮坂氏は「堀切らしい跡」と言っている。。。。それは何故か???

後でわかることなのだが、どう見てもここには必要ないのである。。。。。。。

そう、この後のテンション急下降に繋がることと関係あるのである。


ioto7 (2)

堀切跡?から尾根を20mほど進むと・・・・・・砦のあるピークの高まりが見えて来た!!!!

ヤッター。。。。。。。ついに。。。。。ついた(テンション最高頂)。。。。。。。。。????

あれ??  ピークに繋がっているはずの尾根無~い!!!(汗)

宮坂氏の縄張り図を見直してみる。。。。。そう最初の頃に書いた宮坂氏の記事。。。。。

「細尾根が45m続き、縄を伝って岩を登ると・・・・・」がここなのである。。。。。

しかも。。。その「縄」を探してみるが見当たらない!!!

ってことは・・・・・縄を使わないと登れない岩を、縄を無しで降る。。。。。。絶対~無理!(>_<)

どうしよう!!!!!!!!!(テンション再下降)

そうここで最初に赤字で書いた。。。「帰れないかも」・・・・・・あの凍った急斜面を戻る気力と体力もない!

先にある絶壁も何回も挑戦したが。。。。。無理。。。。。四面楚歌である。

ウロウロと周囲の急斜面を見て回ること30分。。。。。。。


ioto7 (7)

ものすごいきゅ~斜面(むしろ崖)にあの見覚えのある。。。。塩尻市のポールが。。。。あるではないか。。。

ってことは・・・・・誰かが降りたことがある。。。。イコール。。。。。降りれるのでは  (^。^)y-.。o○

でも・・・・落ちたらどうみてもただでは済まない高さと傾斜である。

どうしよう。。。。家族にお別れの電話でも。。。。しとこうかな。。。。。。。(゜-゜)。。。(圏外)

終わった!!!もう下るしかない。。。。。。のだ。

尻を付き降ってみた。。。。いやむしろ落ちていたな(比高40m)。。。あれは。。。。。生きてるけど!!!!


ioto7 (3)

沢底から崖と砦のあるピークを見上げてみる。。。。。ん~どやってのぼろ。

長くなっちゃたのでまた次回へ続く・・・・次回「生きて帰るぞ~編」をお付き合いください。

あれ。。。今回ほどんど城跡に触れてない。。。。。薄い記事でした。
  1. 2013/07/13(土) 19:51:10|
  2. 塩尻市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

塩尻市  北熊井城⑤

巨大城郭北熊井城の最終回です。 

北熊井城は、領地防衛・他領地侵略など戦略的城郭の一面と地域支配としての城郭という面を兼ね備えていたこと

がうかがえ、今回は北熊井城の外郭の備え・侍町・鬼門除けの寺社・推定城主居館・伝城主五輪塔などの地域支配

をうかがわせる部分の紹介をしていきたいと思います。

(なお、塩尻市で外郭が見られるのは、以前紹介した西條城砦群と北熊井城のみである。)


kitakumaichizu.jpg


城を守る鎮守たち・・・・北熊井城には、鬼門除けの常光寺・裏鬼門を守る山王様が祀られていた。

ipponnsugi1.jpg

ipponnsugi4.jpg

北熊井城の東側にある一本杉といわれる常光寺跡で、武田氏による北熊井城落城によりこの常光寺も兵火により

焼失したとされている。この寺は北熊井城の鬼門除けの為に城主により建立されたとする。
 


ipponnsugi2.jpg

現在も林の中に、寺院に関係するかわからないが、段差などが見られる。

ipponnsugi3.jpg

二代目の一本杉

この一本杉は、武田氏の兵火により焼失した常光寺の境内にあったもので、この杉だけが残った。

初代の杉は、幹周り約10mあり樹齢千年であったと記録にあるが、明治2年に落雷で焼失してしまい、現在の

杉は2代目であるとされている。


sannnousama3.jpg

北熊井城の裏鬼門を守る為に祀られていた山王様

sannnousam2.jpg

城の裏鬼門で、今の町村大沢公会所の所に京都より山王日枝神社「山王様」が祀って城の氏神様としていたが、

明治41年に諏訪神社に合祀され蚕玉社の社殿となっている。


また、北熊井城関連として中島の公会所付近に貯蔵庫らしき穴がいくつか確認されている。

町村の俎原(まないたはら)は馬場であり、松葉は的場、竹の花は館のはな、その他城下・前田・中屋敷・山王・

南久保・北久保など城に関係があると思われる地名が存在している。


kitakumai91 (2)

伝城主五輪塔と後方に北熊井城

城の南西に城主の墓と思われる五輪塔が2基と宝筐印塔の残欠があり、周辺の人はこれを五輪様と呼んでいます。

kitakumai91 (4)

伝城主五輪塔と推定城主居館跡(後方の錆びた屋根の家周辺) 

~ 出構え ~

kitakumai91 (16)

北熊井城の西側、侍町が切れる所に出構えとされる遺構が存在する。

本来なら、写真を撮り直す必要があったのだが。。。。。年末の大雪で断念してしまったのでこの写真で

説明すると。。。写真に見える1m程度の段をたどっていくと奥に出っ張りが確認出来る。

これが出構えとされるもので横矢を狙ったものと云われており、下の細長い田圃は堀跡とされている。
 


~ 出構えに関連する砦 (古堂) ~

kitakumai91 (8)

北熊井城には出構えに付属する古堂と呼ばれる砦が存在し、出構えと共に城の西側の総構えとして防御をになって
いたものと思われる。 


kitakumai91 (9)

砦跡を見る。

左側の高まりが砦跡で、右側青いトタンの建物のある部分が堀跡とされている。


kitakumai91 (11)

kitakumai91 (12)

砦内部は、狭いものの周囲を2~3mの土塁が構築されている。

一部に虎口状の開口部が見られるが、砦当時のものか後世の墓地によるものかは不明。
 


kitakumai91 (10)

kitakumai91 (13)

砦跡は、周囲を切岸で守られており一応、砦としての機能を備えていることが見える。 

kitakumai91 (14)

北側・東側には掘を巡らし、西側・南側は出構えと連結し高さ4~5m程の切岸で守るという形式になっている。 

kitakumai91 (15)

外郭である出構えの南側は、写真のように高さ4~5m程の段となっており砦(写真左の切れている籔)と

連結している為、ここも出構えの一部であったと思われる。
 



5回にわたってお送りしてきた北熊井城はいかがだったでしょうか。。。。。ちょっと長すぎた感もありますが、

戦略的城郭としての一面と地域支配城郭としての2面があることがわかっていただけたでしょうか。

地域の方の努力が報われることを願っております。


kitakumai91 (18)


今年の更新はここまでで終わらせていただきます。

いつも見に来て下さる方達には感謝しております。
また来年もよろしくお願いします。。。。。。。。。。。良いお年を!
  1. 2012/12/28(金) 19:16:14|
  2. 塩尻市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

塩尻市  北熊井城④

さあ~北熊井城の後半戦でございます。。。。B地区編

kitakumai02.jpg

今回は、北熊井城の西側部分のB地区をお送りします。 

kitakumai04.jpg

~ 郭①(中の城) ~

kitakumai35.jpg

本城(本郭)から見る郭①(中の城)

B地区の郭①は、北熊井城跡内において実質的な二の郭にあたるものと思われるが、堀をはさんだA地区に比べこれ

からお送りしていくが郭の削平が甘いという特徴が見える。
 


kitakumai31.jpg

B地区郭①(中の城)の南東部には、神社が祀られていてこの神社を囲むように高さ30cm程度の土塁が、郭の

南東縁部に残る。
 


kitakumai33.jpg

A地区郭①(本城)から見る、B地区郭①(中の城)の南東隅部を見る。

郭の隅部が土塁によって高まりになっているのがわかり、この真下が伝大手であることから櫓台もしくは郭内の

目隠しの役割を担っていた可能性がある。
 


kitakumai32.jpg

郭①(中の城)内部を見る。(奥にA地区本城)

以前は笹藪で詳細を見ることが出来なかったが、現在、地元の方が笹刈りをしてくれているので以前では中々気付

かなかったが、郭がかなり北側に傾斜していることが確認できた。

城内で二番目に大きな郭ではあるが郭内部の削平が甘く居住区・恒久的な施設を置くような地区ではなかったので

はないかと思われる。
 


kitakumai36.jpg

B地区郭①(中の城)の北東隅部中段には、傾斜はあるが腰郭のような出っ張りが存在し、資料には、この腰郭と

A地区の郭①(本城)の北西隅部中段の堀状の出っ張りとを橋を渡して行き来していたのではないか、としている

ものもあるが、本来の使用目的は不明ながら、北熊井城の北側斜面には竹ノ花遺跡で見つかったような遺構が

埋まっている可能性もある。 


~ 堀① ~

kitakumai51 (2)

堀①は、B地区郭①(中の城)と郭②(下の城)間に構築されている堀で、上幅15mの大きな堀となっている。

郭の関係は、郭①(中の城)が、郭②(下の城)より約2mほど高く堀を挟んで見下ろす関係になっている。
 


kitakumai51 (4)

堀①は他の堀と違って、堀内部が平坦ではなく、写真のように山なりに構築されていて真ん中あたりは両端に

比べだいぶ浅くなっている。これは埋まったのではなく構築当初からこのような造りかたであったと思われる。

その後、堀①は堀③の横掘に接続し、接続部分は西門跡とされている。


kitakumai51 (3)

堀①の真ん中部分は浅くなっている。

以前は、かなりの籔であったがここも地元の方のおかげにより整備され見やすくなった。
 


kitakumai51 (5)

堀①遠望

~ 郭②(下の城) ~

kitakumai62.jpg

kitakumai61.jpg

郭②(下の城)はまったく整備されておらず、写真のように笹藪で詳細確認は出来ない。

しかし、笹の形状から西側に傾斜していることが確認でき、堀①に面して高まりが確認でき土塁があった可能性が

ある、このような自然地形のような郭に土塁があったかは疑問でもあるが。。。(?_?)
   


~ 郭③(西一の曲輪) ~

kitakumai300 (5)

郭③(西一の曲輪)は、郭②(下の城)の西側約3m下に存在し、こちらも明確な削平は見られない。

(写真の左側は、郭②(下の城)の切岸)
 


kitakumai300 (6)

郭③(西一の曲輪)は、堀③からは堀状の虎口から入るようになっており、車の奥にある高まりにより堀③からは

見えないようになっていて隠し郭のようになっている。
 


kitakumai300 (3)

郭②(下の城)切岸下と郭③(西一の曲輪)間の北側斜面には、堀状の窪みが確認できることから堀切もしくは

北側斜面への竪掘などがあった可能性がうかがえる。
 


~堀③(南側横掘) ~

kitakumai71.jpg

堀③は、B地区南側を守る為の横掘で長大に構築され、A地区の横掘と伝大手付近で食い違い虎口を構成している。

現在、郭③(シイタケ栽培がおこなわれている)への車道となっている。(写真は、郭①(中の城)下の部分)
 


kitakumai71 (6)

kitakumai71 (4)

伝西門を見る。

この場所は、片丘村誌に西門と記載される場所で、堀③と堀①が交差し堀①がそのまま竪掘城に落とされている

土塁の切れ目を西門跡としている。
 


kitakumai71 (3)

この西門跡説を素人なので全く否定するものではないが、西門跡とされる窪みを下りてもこの堀③は二重の横掘

となっていてそのまま城外に出ることは出来ない。

さらにこの自然の沢を利用した外側の堀の城外は、門跡とされる窪みより高く逆に城外の敵に攻撃される恐れが

ありこの窪みを門跡とは疑問と考える要因となっている。


kitakumai71 (7)

伝西門跡の他にも堀③には土塁に切れ目がある部分がある為、あの場所だけが門跡とする説に疑問をもつことの

一つとなっている。 


kitakumai71 (11)

kitakumai71 (9)

自分としてはこの堀③の最西端部のこの部分が大手ではないかと考えている。

この部分は、郭③(西一の曲輪)の南側、堀③が終わる部分で堀が二重になっていて、郭③は高まりで見えなく

隠し郭のようになりこの部分からは分からない、しかも、城主の居館・侍町・外郭はこの西側に構えられている。

本城からも一番遠いい場所に位置するなど。。。。。ここでは?と考えている。
 


kitakumai91 (5)

北熊井城の最西端部を見る。(自然の沢が堀の役目をもっており、台地と切り離している) 


さあ、長々と書いてきたB地区はいかがだったでしょうか?
A地区と比べ郭の削平が甘いことや、堀(①)の構築のし方が違うなど、A地区とB地区との構築に違いが見られる
ように感じた。

素人なのでこれと云った確定的な説を言うことは出来ないが、大手の位置にはかなりの疑問をもっている。

どなたかが確定してくれるといいな~。。。(-。-)y-゜゜゜  (ひとまかせ~)


次回は。。。。北熊井城の最終回で外郭を紹介したいと思います。お楽しみに!!!
  1. 2012/12/25(火) 17:20:44|
  2. 塩尻市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1

塩尻市  北熊井城③

A地区の続きですな。

長くなってしまいますが、お付き合いください。


kitakumai03.jpg

~堀②(城跡南側横掘)~

kitakumai11356 (6)

堀①はA地区の南側の守りと共に、巨大な土塁は大手とされる部分の

食い違い虎口を構成する一部となっている。

堀①の範囲は大手部分から郭②(東一の曲輪)の南面までの長大なものとなっている) 


kitakumai11356 (13)

堀①の大手付近を見る。

大手付近は、巨大な土塁・深い堀・本城の中段に帯郭・本城の土塁切岸と四重の守りとなっている。
 


kitakumai11356 (9)

kitakumai11356 (10)

堀①の土塁には開口部が存在する。

通常土塁に開口部があると敵に侵入される可能性が増えるので出来るだけ少なくしたいと言うのが普通であろう。

しかし、北熊井城はA.B地区合わせれば土塁には6ヶ所ほどの開口部が存在する。

一部には東門(上の写真)・西門などの名称がつけられているがその他の用途は不明のままとなっている。

何に使用したんでしょうね。 


kitakumai11356 (4)

本城から見た郭②(東一の曲輪)側面を通る堀① 

kitakumai11356 (11)

kitakumai11356 (19)

堀①は郭②に来ると小規模となり(道路により埋められた可能性もあるが)やがて郭②の東堀切部分で無くなる。
(地元の方の整備には感謝しているが、素人の整備では写真のように重機を入れてしまうなど部分的な破壊が見ら
れるので、やはり教育委員会など行政がかかわって整備をすすめるのが望ましいが・・)
 


~堀③(本城東側の三重堀切)~

kitakumai400 (2)

kitakumai400 (3)

三重堀切の一番目(本城側)の堀切で上幅11m・深さ本城側で4mほどの規模となっており三重の中では一番小規模

で、南側末端は本城南側帯郭に接続している。(形的には帯郭に土塁を盛った様な形状をしている。)
 


kitakumai600 (2)

2本目と3本目の堀切間の土塁状から見た堀②(奥に本城の土塁が見える) 

kitakumai600 (4)

三重堀切の中間の堀で一番の規模を持ち、上幅20m・深さ約10mほどとなっている。
(この堀にも整備の際に重機が入った痕跡がある)


kitakumai600.jpg

この堀は、本城南側の横掘の堀①に接続していて堀が付き合たった部分の土塁が開口部となっている。   

kitakumai700 (7)

堀間の土塁上から見た三番目の堀切、右側は郭③(東一の曲輪)

kitakumai700 (2)

三番目の堀切の内部を見る。
規模は上幅10m・深さは約5mほどある。
 


kitakumai900 (4)

三重堀切を北側から見る。

郭③(東一の曲輪)の北西隅部が堀切を囲むように伸びてきていることがわかるだろうか。

用途は不明だが。。。。。敵に登られたらどうするんでしょうね。。。(?_?) 


kitakumai900 (2)

三重堀切全景。。。。。!(^^)!  美しい!!!(現在は藪に戻っているけど)

~郭②(東一の曲輪)~

kitakumai211 (3)

東一の曲輪内部を見る。(奥に本城の土塁が見える)

東一の曲輪内部は現在、畑となっていて土塁等の遺構は確認できない。
 


kitakumai211 (2)

東一の曲輪の切岸。

左側は、浅くなった堀①、東一の曲輪の東側にも堀切④が見られることからやはり堀①は道路により破壊された

ものと見られる。 


~堀④(東一の曲輪と二の曲輪間の堀切)~

kitakumai100 (4)

kitakumai100 (3)

堀④は現在、畑への入り口の通路として使用されており、かなり埋められたようであるが縁部は原型がのこされ

ているようで、上幅約10m・深さ(一番深いところで)約5~6mとなっている。
 


kitakumai100.jpg

郭②(東一の曲輪)と堀切④を北側から見る。 

~堀⑤(東二の曲輪と竹ノ花間の堀切)~

kitakumai105.jpg

東二の曲輪と竹ノ花は現在、畑となっていて見るべき遺構はなく、堀⑤もわずかな段差があるだけで、道路として

改変されていて堀のようには見えないが横から写真のように見ると堀であったことが分かる。


~過去の発掘調査(土地改良事業)~

1988年に塩尻市教育委員会によって「竹ノ花遺跡」として堀⑤の西側「東Ⅱの曲輪」北側斜面の発掘調査が行われ

北熊井城にかかわる遺構が確認された。

発掘調査前には、東二の曲輪から1.5m下がった部分に巾2m前後の帯状平坦地が一段存在することが確認されていた

発掘はトレンチ調査であった為に全容は確認できていないが、

この平坦部分は、斜面への削平・盛り土によるものではなく、斜面を横に深く掘りこんだ溝状の遺構内にその後の

土が堆積した結果、帯状になったことがわかった。

形状としては、東二の曲輪から65~75°の傾斜で切岸を落とし、溝状の底部巾25~35cmを経た後、再び65~75°

の傾度で70cm立ち上り、幅30~40cmの平坦地を経た後に、26°の傾斜で下っていく形状となっていたことが分かっ

た。また、溝底部は緩やかに(傾斜郭5°)東側に立ち上っていくことが確認された。


kitakumai63528.jpg

報告書の記述と写真を参考に作成

この遺構について報告書の使用用途の推考として、

本址の時代属性については、遺物の伴出はみなかったものの、北熊井城に関連するものと考えられる。

検出範囲が狭く、その性格については限定は難しいが、空掘・土塁・馬出等が考えられる。

空掘としては、北熊井城に見られる他の施設に比して小規模すぎることと、郭上部までわずかの距離しかないこと

から可能性は薄いと思われる。

土塁については、結果的にその形態を呈していることから、土塁的役割は当然付されているとは思われる。

しかしながら、土塁が持つべき防御線としての役割を果たす為には、その内側、つまり溝部分の空間が行動空間

としてあまりに不十分であり、また主郭に見られるように、斜面中に築く以前に郭周辺部にまず構築されている

べきかと考えられる。


kitakumai41 (13)

夕日のなかの主郭土塁と昭和50年に約百本近く植えられた中で唯一残った桜の木

しかがって、土塁そのものを目的としてなされた施設とは考え難い。

最後に、いわゆる「馬出」については、溝底部の狭隘な点からやや疑問視されるものの、馬ばかりでなく、兵の

出入りを主な目的とした施設としては、充分その目的にかなうものと考えられる。

緩やかに西斜する底部がこれを裏付けていると考えたい。(後略)

としている。



今回も長々と書いてしまいましたが、なんとかA地区が終わらせることができました。

写真を多く使用して、説明してきましたが北熊井城の良さは伝わったでしょうか?

次回はB地区をお送りしたいと思いますので、お付き合いください。



~参考文献~

竹ノ花遺跡発掘調査報告書     (塩尻市教育委員会  1988年)

今泉・竹ノ花遺跡発掘調査報告書  (塩尻市教育委員会  1987年)
  1. 2012/12/22(土) 11:17:33|
  2. 塩尻市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
次のページ

プロフィール

ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
初めまして (1)
信濃の武将 (11)
松本市 (47)
安曇野市 (33)
塩尻市 (15)
筑北村 (5)
生坂村 (36)
池田町 (18)
箕輪町 (13)
伊那市 (7)
辰野町 (2)
下諏訪町 (9)
諏訪市 (1)
中川村 (3)
駒ケ根市 (6)
ニュース (4)
廃村 (1)
伝説 (2)
本日の訪城 (14)
飯島町 (1)
武将の墓地 (4)
松川村 (3)
千曲市 (1)
南箕輪村 (1)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。