長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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伊那市  一夜の城②

織田氏の陣城は新規築造?それとも再利用?

ichiyanozyou7 (2)
伊那市教育委員会「一夜の城現地説明会資料」を参考に作図

一夜の城といえば、堀の無い土塁のみの陣城。。。。と考えられてきた。

また、今回の発掘調査も「堀が存在したのか?」が注目されていた。ではその答えを紹介していきましょうね。


~ トレンチ6 ~

ichiyahakkutu90.jpg
トレンチ6発掘地点全景

ichiyahakkutu90 (3)
発掘の結果、東側の土塁の城内側は耕作により大きく削られており元の状態は分からなかったが、写真に見えるように

段差が見えるのでもしかしたら、この段差までが土塁の底部であった可能性が考えられるが削られてしまった現状では、

調べることも難しいのであろう。


~ トレンチ5 ~

ichiyahakkutu4 (2)
トレンチ5は、地盤が緩く危険があった為に現地説明会以前に埋められてしまっていたが、写真のポールが立つ部分で、

堀の立ち上がりが確認された。

これにより陣城には堀が存在していたことが確認されたのであった。


~ トレンチ2 ~
ichiyahakkutu3 (4)
城内西側土塁上から、切岸下のトレンチ2を見る。

ichiyahakkutu3 (5)
真上から見ると堀の立ち上がりが検出された。

ichiyahakkutu3 (2)
城内側の堀の立ち上がりを近くで見る。

ichiyahakkutu3 (8)
西側堀の城外側の立ち上がりを見る。

トレンチ2は、堀の中央部の発掘はされていないが、城内側・城外側の堀の立ち上がりを検出されているので、

陣城には西側と南側に堀が巡っていた事が分かった。


ichiyahakkutu3 (6)
西側の城外のトレンチにおいては、何の遺構も検出されていなく、雑兵達がどこかに野営をしていたはずであるが、

陣城の近くの寝起きは許されていなかったのであろうか。


メイントレンチ4

ichiyahakkutu8 (13)
トレンチ4の全景

トレンチ4は、陣城の土塁・堀の全貌を解明するために今回唯一土塁の断ち割り調査を行った場所で、期待通りの成果を

上げている。


ichiyanozyou7 (3)

ichiyahakkutu8 (9)
土塁の断面を見る。

土塁の断ち割り調査では、土塁の造る際の基礎となる整地層が見つかり土塁の造り方としては版築土塁であったことが

確認された。

土塁には、堀を掘った際に積み上げた赤土と城外から運んできたと見られる黒土が交互に突き固めて構築されていたこと

が分かった。また、以前は土塁が1mほど高かったという証言があり陣城内側は耕作によりかく乱を受けていることも

確認されている。


ichiyahakkutu8 (4)
堀全景を見る。

発掘された堀の規模として深さ2m・幅6mのU字形であった、また、堀の底部にはV字形の深さ30cmの窪みが見られた。

ichiyahakkutu8 (5)

堀の底部に見られる窪みを改修以前の堀の痕跡であったとすると、切岸の角度などから幅3.3~5mのほりであったと推定

出来るようである。


この調査結果から、織田信忠が陣城として改修する以前には土豪の居館があり土塁・堀が存在した。

織田氏の進出により接収されたのか既に廃館となっていたのかは不明であるが、織田氏が陣城として堀の拡張・土塁の

高さを高める改修を行ったと考えられる。

この改修は勿論鉄砲を意識した為の堀の拡張であったと思われる。


*堀は水の溜まった跡や流れた痕跡は確認されなかった事により空堀であったと確認された。

ichiyahakkutu8 (12)
トレンチ4の全景

ichiyahakkutu22.jpg
陣城跡から出土した出土物

陣城からは、天目茶碗・古瀬戸四耳壷・内耳土器の破片が出土し未確定ではあるが、形状から15~16世紀に作られたもの

である可能性が考えられている。





皆様は今回の発掘調査についてどう感じたでしょうか。

一夜の城の謎については一歩近づいた感はあるが、道路拡張による遺跡破壊の問題が解決していないので、これからも

一夜の城については目が離せないですね。



~ 参考文献 ~

一夜の城発掘調査現地説明会資料         (伊那市教育員会  平成24年3月)
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  1. 2014/04/04(金) 17:04:45|
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伊那市  一夜の城①

長野県に伝わる織田氏唯一の陣城

所在地・・・伊那市富県                              訪城時間・・・・0分

危険度・・・★☆☆☆☆                             読み方・・・・いちやのじょう

訪城日・・・2009年4月22日・2010年7月30日・10月2日・2012年3月10日



一夜の城といえばご存じの方も多いと思いますが、近年、保存か道路の拡張かで論争になった城跡ですが、この頃は

まったく話を聞かなくなりましたが。。。。。どうなったんでしょうかね~(?_?)

城好きの私としては保存が望ましいのですが、その地に住む方々にはそんなものより生活が第一というのも否定が出来な

い事実でもあり中々悩ましい問題ですが。。。。今回はそんな邪魔者扱いされてしまった一夜の城を2回に分けて特集し

ちゃいましょう。


第1回目は・・・・・残された遺構を見る一夜の城

第2回目は・・・・・発掘された一夜の城    をお送りしていきます。


ichiyanozyou7.jpg
この図面に沿って紹介していきます。

初めに、『一夜の城』と呼ばれるようになった伝説とは。。。。

天正10年(1582)、一族や家臣の裏切りにより弱体化したと判断した織田信長は、今が好機到来とばかり武田氏征伐を

開始し信長の長男である織田信忠が総勢5万という大軍が伊那を北上してきた。

飯田城や大島城を落としてきた信忠は、武田勝頼の弟である仁科盛信が籠る高遠城を攻略する為に一夜にして陣を張った

ことから『一夜の城』と呼ばれる事となった。


ichiyanozyoi1 (14)
土塁上に建てられた標柱

文献上にはどのように書かれているのかいえば。。。

『信長公記』には、「信忠は、3月1日飯島から軍勢を動かし、天竜川を越えて貝沼原へに軍を展開させた。

自ら、お供を十人ほど伴い仁科五郎盛信が立て籠もる高遠城から川を隔てた山に登って、敵城の様子を見聞した。

そしてその日は、貝沼原に陣取った。」とあり、一夜の城ではなく「貝沼原の陣」と呼ばれていたことが分かる


ichiyanozyoi1 (9)
虎口を見る。

一夜の城は、四方を土塁が構築されていて、東側土塁の中央部には唯一の開口部が見られる。

現在は郭内部の出口に使用されているが、唯一の開口部であることからここが虎口であろうとみられている。


ichiyanozyoi1 (8)
東側土塁と虎口を見る。

今回の論争の争点となった部分で、土塁外側にある道路を広げるか否か。。。。。。難しい問題ですね。


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北東隅部に唯一良く残されている土塁で、他の土塁に比べ幅・高さが高いことから櫓台ではないかと考えられる。

ichiyanozyoi1 (6)
北東隅部の土塁と削平されて低くなってしまった北側土塁を見る。

北側の土塁は耕作により削られてしまい、高さが50cm程度となってしまっていて土塁のようには見えない。

また、北側下には細長く畑が作られており堀を彷彿とさせる。


ichiyanozyoi1 (11)
南東隅から郭内部を見る。

明治34年に刊行された「南信伊那資料」には、「一夜の城と称するは、天正10年織田信忠、高遠城攻撃の際、一夜に堡塁

を築きて陣せしと云う」と呼び名が出てくる。


ichiyanozyoi1 (15)
西側から土塁を見る。

この陣城の一番の注目は、この城に堀が存在したのかどうなのか。。。。ということである。

高遠城は1日にして落城した為に、この陣城も土塁を盛っただけの簡単なものしか構築しなかった。

と考えられてきた。また、地籍図・小字名等の調査においても土塁の痕跡は書かれているものの、堀の存在を示すものは

なかった。もう一つの考えとして、信忠は在地土豪の屋敷地を接収し陣城としたというものであった。

この地域には堀を持たない小在地土豪の屋敷が散見されることから考えられたものである。

今回行われた発掘調査の焦点は「堀は存在するのか」である。


ichiyanozyoi1 (18)
良く残る南側土塁

南側土塁は、東側の土塁の次に良く残っている土塁で高さは約1.5~2mあるが、郭内部側は耕作により削られてしまっている。

ichiyanozyoi1 (17)
陣城の北側にある五輪塔

この一夜の城の北側には、五輪塔や古い仏石・卵塔がみられ、これが在地土豪の屋敷地を改修して使用されたとする説の

根拠の一つとなっている。


ichiyanozyoi1 (13)
東側土塁と改修の争点となっている道路

この城は在地土豪の屋敷地であったのか新たに構築されたものなのか。。。。。この土塁はどうなってしまうのか。

次回は。。。。。。一夜の城、発掘で分かった事  をお送りしていきますのでお楽しみに。



~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料集        (宮坂 武男)

一夜の城発掘調査現地説明会資料    (伊那市教育委員会  平成24年3月)
  1. 2014/03/30(日) 03:38:18|
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伊那市  殿島城

上伊那最大級の城郭

所在地・・・・伊那市東春近中殿島                         訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                               訪城目印・・・・殿島城址公園

訪城日・・・・2009年2月22日・2010年3月21日


*外郭部分は、住宅地の為に散策にはモラルをもった行動を・・・

城跡の歴史については、殿島氏の墓所の項をご覧ください。


tonosima44.jpg
この図面を参考にご覧ください。(赤線は開発により消滅した二の郭堀・外郭堀を表す)

tonosima6.jpg
殿島城跡入り口に造られた、微妙な城門

殿島城は大部分が東春近中殿島にあり、東側の一部が暁野区(外郭)に属している。

西側は天竜川左岸段丘突端部にあたり、北側は宮狭間の洞(現県道沢渡・高遠線)、南側は火沢の洞に挟まれた範囲で、

約5㌶の面積を有し伊那市内でも最大級の平山城である。


tonosima6 (2)
殿島城址公園入り口

現状は本郭東北隅に虎口が開き、城門が造られ土橋が接続している。江戸時代後期に編纂された「箕輪記」にも現状の

場所に虎口が絵図かされており、大手であったものと考えられる。


tonosima4 (3)
本郭東側土塁を見る。

本郭東側には大手が開く関係によるものか、高さが約4mあり城内で一番高く構築されており外側には3重の堀が取り巻

いていて厳重な防備である。


tonosima4 (4)
東側土塁上より本郭内部を見る。

本郭内部は方形居館を思わせる形状をしており、四周を土塁が取り巻いて北東・南側に虎口が開く。

平成7年の都市計画公園歩道整備事業に先立つ本郭内部の発掘調査の成果によると。

4軒の竪穴住居址・2基の竪穴・1基の集石遺構が出土しておりこれらの遺構内から、室町後期の陶器片が見つかっている。


tonosima4 (5)
南側の土塁に開く虎口を見る。

本郭から見つかった遺構・遺物で最も注目されるのは竪穴の覆土(地下1m)から廃城時に投げ込んだと思われる礎石が

発見されており表面に墨で柱を建てる位置・方向が明瞭に分かるように印が付けてあり、かつて本郭内部に礎石を使用し

た本殿のようなものが存在していたことが想像できるのである。


tonosima1.jpg
北東隅の横掘のカーブ部分を見る。

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北側横掘の外側・中間部分を見る。

北側の三重の横掘は河岸段丘斜面に向かって合流し一本の巨大な竪掘として落とされている。

tonosima2 (7)
東側の三重横掘を見る。

tonosima2 (4)

東側の三重の内、外側・中間の横掘は南側隅部分からニの郭・外郭へ向かってかつては伸びていたが、現在は殿島団地造

成により消滅し現在は民家が建っている。

一番内側の堀は本郭を取り巻くように、南側へ折れている。


tonosima3.jpg
東側から南側へ繋がっている横掘を見る。外側には土塁が付属しており段丘斜面に構築されている竪掘を見る限りでは、

外側にはもう一本の堀が構築されていたことが窺える。


tonosima3 (2)
南側横掘から段丘斜面へ落とされている竪掘を見る。

tonosima3 (6)
段丘斜面に見られる二本の竪掘を見る。

上の写真の竪掘を辿っていくともう一本の竪掘が見られる。これは南側の横掘の外側にあったと考えられる消滅した堀の

一部であったようである。


tonosima09.jpg
西側土塁と斜面に構築された帯郭を見る。

本郭の西側は段丘斜面に面しており、こちらからの攻撃にはあまり意識していなかったようで土塁は他が4mくらいの高さ

があるが西側は約1mほどと低い、ただ放置は出来なかったようで斜面に帯郭を二段構築している。


tonosima09 (3)
公園化により帯郭は良く整備されている

tonosima6 (5)
殿島城遠望

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殿島城の北の出城であるお寺の山を見る。

殿島城の北側、宮狭間の洞を挟んだ段丘上にはお寺の山という砦が存在する。

お寺の山は現在、野球場になってしまっているが北側の段丘斜面には三本の大きな竪掘が残されていることから、かなり

大きな砦であったことが想像出来る。(そのうち記事にします。)


tonosima6 (4)
本郭に建てられている立派な城址碑

~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編    (宮坂 武男)

殿島城発掘調査報告書     (伊那市教育委員会) 
  1. 2014/03/26(水) 14:57:27|
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伊那市  保谷沢の城

堀切を多用した殿島城南端境目の城

所在地・・・・伊那市東春近田原                           訪城時間・・・・5分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                訪城目印・・・・春近発電所

訪城日・・・・2010年3月21日



城跡の立地としては、天竜川の第一河岸段丘面で南は保谷沢川の深い沢となっおりこの保谷沢川によって出来た山尾根上

にある。西側急斜面下には田原部落があり集落との比高さは約65m(標高664m)ある。

城の歴史は何も伝わっていないが、西側下にある田原部落は殿島の分村であったことから考えると、殿島氏が南方に備え

て(南側は宮田村となり天竜川対岸には上の城・下の城・中越館などを持っていた中越氏がいた)造った支城であった

と考えられている。また、南方の猿岩上に物見ヤ城や牛ヶ城などの物見の砦が続いていることから弘治2年(1556)に

殿島氏が武田氏に背いて処刑され没落した後に武田氏により狼煙台に使用された可能性が考えられる。


hoyasawa21.jpg
この図面に沿って紹介していきます。

hoyasawa16 (3)

城跡へは、民家脇の鉄塔の保守道を登って行くがこの道が城跡のある尾根の先端部へ繋がっていることから、この保守道

がかつての大手道であったものと考えられている。


hayasawa1 (2)

大手道を登り切ると鉄塔の建つ小さな郭に出る、この保谷沢の城には3つの鉄塔が建ちこれらを建設する為の道ともども

大きく城跡を破壊している。(鉄塔は昭和2年(1927)に春近発電所の建設に伴って建てられたようである)


hayasawa1 (3)

郭⑤は小規模ながら馬出郭として構築されたもので大手からの最初の防御施設となる。

城内側へ約1.5mの土塁が構築されていて堀①と一緒に防御を固めている。


hoyasawa2 (3)

堀①は馬出(郭⑤)と郭④を区切る堀切で、上幅約13m・堀底から郭④まで約6mの高さで尾根の両側に竪掘を落として

防御を固めている。

また、馬出郭と郭④とは約4mほどの比高さがあり馬出からは郭内が見えない構造になっている。


hoyasawa3.jpg

郭④は、現状墓地や植林地・鉄塔建設道に利用されておりかなりの改変が見られる。

郭の大きさは49m×18mで城内では1・2番目に大きな郭となり堀①側に高さ1mの土塁を設けている。


hoyasawa3 (2)

郭④の北側にはかつて大きな堀切の堀②があったようであるが、鉄塔建設時に埋められてしまったようで尾根上では郭④

と郭③は尾根続きのようになっている。


hoyasawa4 (3)

しかし、尾根の側面にはかつての堀切の痕跡が残されており、痕跡の上幅でも約16mあり残っていれば城内で一番大きな

堀切であったことが窺える。また、この堀切が城内で一番大きいという事はこの堀以北が城内で重要な部分になっている

ことを感じさせるのである。


hoyasawa6 (4)

堀②と堀③の間の郭③は、鉄塔建設の為の道により大幅に削られてしまい見るべきものは残されていない。

この堀③は、本郭と郭③を区切る堀切で上幅約8m・深さは本郭側で約4mあり、尾根の両側に竪掘を落としている。

掘切に伴う切岸は緩やかで防御が脆弱である。


hoyasawa7 (5)
本郭内部を見る。

本郭は32m×32mほどの広さで周囲に約1m程の土塁が取り巻き、西側と南側に虎口が

開く、現状は竹藪となっているがかつて郭内からは石臼やカワラケが出土しているという。

内部には鉄塔が建っている為に大きく改変されており、虎口の土塁も大きく破壊されている。


hoyasawa7 (12)

鉄塔建設により大きく破壊された虎口。

西側に開かれた虎口は、堀③を橋?で渡っていたようで郭③へ道が繋がっている。


hoyasawa7 (11)

本郭の西側下には、大きな平場(帯郭)がありここにも鉄塔が建つが平場内部を道が通っている為にどのような形状で

あったのかは伺い知れない。また、この部分の本郭切岸も緩くあまり防御性を感じさせない。


hoyasawa7 (8)
本郭から見た北側の農地

この農地にはかつて堀が2本掘られていたらしく、この地の持ち主によると土地の借地人が耕地利用の為に埋め立ててし

まったとのことである。また、段丘縁に沿って現在車道が登って来ているが、昭和30年代には牛馬がやっと通れる道が

登っていたとのことであり、この道が本郭西側虎口へ通じることから保谷沢の城の搦め手道であった可能性が考えられ、

その道を防御する為の堀であったのであろう。


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保谷沢側の急斜面に残る埋められてしまった堀の痕跡(堀⑤)を見る。

hoyasawa8.jpg
本郭の東側に残る堀④

堀④は上幅12m・深さ本郭側で8mあり切岸もしっかり構築されている。

搦め手を守る重要な堀で埋められてしまった堀と堀⑤とで合流し、本郭を取り巻いていたようである。


hoyasawa8 (2)
堀④を農地側から見る

写真にあるビニールハウスあたりに埋められてしまった堀が存在していたらしい。

hoyasawa16.jpg

埋められてしまった堀跡と本郭の切岸を見る。(写真奥の緑のネットの所が堀⑤)

hoyasawa16 (4)
保谷沢の城の遠景

殿島氏の境目の城である保谷沢の城はいかがだったでしょうか。

境目の城というと、小規模で単なる物見台のようなイメージがあるがこの城は堀切や土塁を多用した単なる砦とは考え

られない造りでした。この城の重要性がうかがえますね。

上伊那教育会の調査では、保谷沢の城は16世紀後半の縄張りを持ち、郭内から石臼やカワラケが出土していることから

単なる烽火台のような城郭ではなく、常駐性の高い城郭で本郭を含んだ北側農地を『小屋原』と呼んでいることから

このあたりに居館のようなものがあったのではないかと指摘しています。

比高も無く楽に見れる城跡ですので是非皆様も訪れてみてはいかがでしょうか。



~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料編      (宮坂 武男)

上伊那教育会研究紀要31集考古   
伊那市東春近における中世城館跡群の研究(4)『殿島城の南に位置する保谷沢の城の縄張り調査』
(上伊那教育会  平成21年)



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  1. 2014/02/21(金) 03:38:35|
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伊那市  義信の城②

伝承も無き山奥の堅城

立地としては、大田山のやっとこ平(鳩吹城のある山)の西の山から南側に下がった尾根上にこの城は築かれている。

義信の城は急な細尾根上にある城で、唐沢と湯の沢に挟まれた急崖に囲まれていて、容易に人を寄せ付けない場所である。


yosinobunosiro23 (18)


~ 郭③ ~

094.jpg

湯の沢の崖をよじ登って辿り着いたのは、この郭③であった。

以前から気になっていた場所で、上段の尾根は1m程の細さで通路として利用していたものと考えられ、湯の沢側の斜面

を郭として造成したようである。

その特徴として、

①郭の縁部(湯の沢側)には土塁が築かれている。

②尾根の切岸と縁部の土塁の間が郭というより、横掘の様相を呈している。   である。


243.jpg
郭③を見る。

郭内部一面には笹が繁茂しており詳細は足の感覚でしか捉えられないが、切岸と土塁に挟まれた部分は宮坂氏は堀として

は書かれていなかったが、この堀状の部分は南側へ行くと湯の沢へ下り堀①に付属する竪掘に沿うようになっていたこと

から横掘であったと考えられる。


197_20140203193423a81.jpg
郭④全景

この郭③が横掘であったとなると、この城全体に言えることだが城の防御度に比べて居住空間・兵の収容空間となる平坦

地が極端に無いのである。


この城に関する伝承は伝えられておらず、遺構・立地等をもって推測するしかないのであるが、立地的には小黒川渓谷の

最奥に築かれており、伊那と木曽を繋ぐ街道を意識したものと考えたいのだが、街道から相当奥まった尾根であり更に、

尾根上の道の見張りも考えられなくはないが、山頂は130m程上にあり逆に見下ろされる状態であり上には鳩吹城もある為

この城の存在意義がだいぶ薄れてしまうのである。


yosinobunosiro11.jpg

搦め手の細尾根には、唐沢側に二重の竪掘を、湯の沢側にはY字状の竪掘が掘られていて尾根を細めると共に両側の険し

い沢にも更に備えている厳重さである。


yosinobunosiro11 (6)
湯の沢側に落とされている竪掘

この義信の城の『義信』とは、高遠氏=木曽氏(高遠氏には木曽氏説と諏訪氏説・笠原氏説がある)との説を前提として

高遠氏二代太郎義信からきているのではないかと考えられている。

木曽氏の築城と考えるのは、東側山上にある鳩吹城は天文年間には倉田氏が支配していたが、峠を越えて来た木曽勢と

余地原で戦って敗れ北殿の倉田城へ移り藤沢氏に属したと伝えられているので、その後は木曽氏がこの地域を支配してい

たことが考えられるのである。ただ、物見だけであれば倉田氏がいた鳩吹城の方が見晴らしがよくこちらを改修すれば

済んだはずであり、これほど厳重な城を奥まった尾根に築く理由が見つからないのである。


yosimnobunosiro9 (2)

郭③の上部(堀①と搦め手二重堀切との間)にある細尾根であるが、ここは郭としての削平はされておらず自然のまま

放置されているので通路として使われ、防御施設とは狭すぎて使えなかったのであろう。


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細尾根から見た本郭の絶壁

~ 堀① ~

yosinobunosiro7 (2)
堀①を見る。

本郭を搦め手から守る最大の防御施設として構築された堀①はとにかく登るのも恐ろしいほどの角度(60~70°位はある

か)と堀底から16mという高さと堀幅は19mある今も鉄壁の防御を残している。


yosinobunosiro7 (6)
堀①

堀切は唐沢側は途中に岩場となる為に竪掘としての落としは短いが、湯の沢側は長く落としている。


yosinobunosiro7.jpg
湯の沢側に落とされている竪掘


yosinobunosiro99(3).jpg

堀①の竪掘に付属する竪堀

また、湯の沢側に落とされている堀①の竪掘に付属するように竪掘が二本落とされている。


~ 郭①~② ~

yosinobunosiro4 (12)
郭①を見る

図面では郭①~②の場所には、段差を書いているが緩やかなもので段差というようなものではないのでどこが郭①でどこ

が郭②という明確な区分けが出来ないのである。(笹の繁茂で詳細が見えない可能性もあるが)

分かりやすく言えば、自然地形。。。。。に近いかな。


yosinobunosiro4 (4)

そうなると、先端部にあるこの削平地のみが居住区ということになる。

これから紹介する先端部の放射状竪掘など戦国末期の先駆的な防御施設を取り入れているにもかかわらず、兵が籠る建屋

を設けられる場所がここしかないというのは(籠れても20~30人位か)どういうことであろうか。

険しい自然地形+先駆的な防御施設=人は少なくても大丈夫!。。。。。てきな考えだろうか。


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郭にあった謎の土盛り。。。。土塁の残欠であろうか?

yosinobunosiro3.jpg
本郭下の帯郭

郭①~②の約5m下には南側から西側にかけて幅約5~6m幅の帯郭が巻いている。

また、郭①~②の切岸は南側は緩く西側へ行くに従って厳しくなっている。


yosinobunosiro3 (4)

そして今回、足かけ2年もかけて執念で訪城した最大の目的である、他の伊那の城で

は見られない唯一の放射状竪掘は本当に存在したのである。


yosinobunosiro2 (5)

堀の規模はまちまちであるが概ね1~2mの幅や深さで築かれている。

yosinobunosiro2 (9)

規模の大きいものは山の中腹辺りまで落とされているものもあり、これらは大手道や荷揚げ道として使用されており、

その道を守る為に竪掘を掘った結果、放射状の竪掘が出来たと見ることが出来る。


yosinobunosiro4 (6)

最後の写真は。。。。。。現在の城主様であるカモシカ親子の和やかなシーン


なが~くなってしまいましたがこの城の素晴らしさが伝わったでしょうか。

伊那では中々見ることが出来ない防御施設などど~しても見てみたかったので執念で訪城してきましたが、皆様は真似を

しないでちゃんと正面から登りましょうね。

この城には伝承が無いのでどちらの勢力のものとは言えないが、城の防御は湯の沢側(木曽側)を向いているように感じ

たが宮坂氏は木曽氏説を書かれている。時代により支配勢力が動きそのつど改修され戦国末期まで使われてきた。。。。

とすれば。。。。。。。どうであろう謎だ。



~ 参考文献 ~

山城探訪上伊那資料編       (宮坂 武男)

伊那市誌             (伊那市編纂委員会)



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プロフィール

ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

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