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長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

下諏訪町  萩倉砦

下社勢力の城砦群

所在地・・・・下諏訪町東山田                       訪城時間・・・・10分

危険度・・・・★☆☆☆☆                   別 名・・・・社中学上砦(旧東山田村の歴史散歩による)

訪城日・・・・2011年1月29日                       訪城目印・・・・社中学校



              ~ 萩倉砦について ~

「信州の山城」には萩倉砦について、

上の城から下る尾根の末端、下諏訪社中学校の裏山で、鋳物師沢を挟んで下の城と相対する。

標高は940m、比高70mで鋳物師沢側は沢底より、40mだが急峻で、東側星ヶ丘側は比較的なだらかな尾根上に立地

し、砥川の谷を挟んで山吹城とは指呼の近さである。(中略)


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下の城・萩倉砦の間にある鋳物師沢を見る。 

上の城・下の城の砦と考えられる遺構であるが、和田峠道に面した防御があまりにも手薄であるために、上の城

の番所もしくは見張台と考えたほうがよさそうである。また、鋳物師沢に面した備えが感じられることから、

鋳物師沢の道が重視されていたいたことがうかがえる。と書かれている。


104.jpg

鋳物師沢にある馬飼場と萩倉砦が防御していたと思われる沢内部を通る古道
(馬飼場に馬が飼われており、沢内部には鋳物師が住んでいたのではないかとされている)
 


*宮坂 武男氏発見の砦とされる。 

              ~ 萩倉砦の現状 ~

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この図面に沿って説明していきます。

~ 堀③ ~

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砦部と上の城から下りてきた尾根を切断する最初の堀切であるが、現状は尾根の東側は埋められてしまったのか、
浅くなっており、西側(鋳物師沢側)は明確に残る。
 


089.jpg

「信州の山城」にはこの堀切は説明されていないが、上幅約6m・深さ約1mの堀が確認出来る。 

~ 郭② ~

077.jpg

堀③と堀②の間にある郭?であるが削平がほとんどされておらず、自然地形にしか見えない。
しかし、西側(鋳物師沢側)には帯郭が巡っているので何らかの施設は有った可能性もある。
 


082.jpg

郭②の鋳物師沢側に巡らされている帯郭を見る。(郭②の切岸は緩く防御の意志をあまり感じられない)
この帯郭は、尾根先端の郭①の下部を巡る横掘からつながっており、横掘が段々浅くなって郭②の下部に来る頃に
は帯郭となっていてもしかしたら、以前は横掘であったかもしれない。


~ 堀② ~

053.jpg

郭①の下部の帯郭から見た堀②
堀②は、郭①と②を分ける堀切で上幅約6m・深さ約1.5m、郭①側に土塁(高さ30~40cm程度)が構築されている。

074_20130126224534.jpg

堀②を横から見る。

~ 郭① ~

038_20130126233358.jpg

堀②に付属する土塁を郭①から見る。(あまりに低すぎて写らないので引いて撮ってみました) 

040_20130126233357.jpg

郭①は実質的な本郭で、郭②とは違い削平されていて細長い形をしている。
尾根の先端にあることから諏訪湖方面などの眺めはかなり良かったと思われるが、現在は木々により見通しが
悪いのが残念である。


~ 堀① ~

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堀①を見る。 
郭①の南側・西側下部を巡る横掘で東側に行くと浅くなり次第に消えてしまう。

005_20130126234513.jpg

堀①の東側を見る。
こちら側は窪みがわずかに感じられる程度であり、ほぼ帯郭となっている。しかし、窪みが見られることから
かつては横掘であった可能性はある。
郭①の斜面は緩やかで切岸とは言えないようなものである。


030.jpg

郭①から横掘を見下ろす。

066.jpg

この写真は、郭①と②の間から堀①をみたもので、堀はここまでくると埋まってしまっていてほぼ帯郭状態である
ただ、他の場所と違い、下が鋳物師沢であることからなのか切岸がしっかりしているのが確認できる。


431.jpg

萩倉砦をお送りしてきましたが、いかが感じたでしょうか。
郭①の周りを巡る横掘は、上の城の堀と似ているように見え、上の城が武田氏による改修があったとされている
のでこの砦の堀も武田氏により鋳物師沢を守る為に構築された可能性があるのではないだろうか。

ただ、防御施設がほぼ鋳物師沢側に集中していることからその他の方向から攻められたらひとたまりもないので、
この砦は下の城の支援のみを任務として構築されたのであろう。


あ、、、わすれてた。。。関連遺跡?として・・・

422.jpg

419.jpg

お墓のことは良く分からないけど。。。珍しいお墓だったので一の釜墓地を撮ってみました。
かなり古くからある墓地のように感じましたが。。。このような墓地ってなんていうんでしょうか?


421_20130127000713.jpg

一の釜墓地と諏訪湖を見る。(この裏から下の城への登城口がある)


~参考文献~

山城探訪 諏訪資料編    (宮坂 武男)

信州の山城         (信濃史学会   1993年)

旧東山田村の史跡散歩    (増沢 五助   平成3年)



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  1. 2013/01/26(土) 20:34:02|
  2. 下諏訪町
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下諏訪町  下の城②

さーてと下の城の2回目をはじめますかな・・・・・・?

今回ご紹介する下の城の後半は、下諏訪町遺跡カードでは「下の城下の砦」とされる部分でございます。

これを一つの城とするのか、二つの城が至近にあると見るかはあなたの判断しだい!!ってね。
 


sitanosiro.jpg

~ 堀③ ~

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下の城から約100mほど尾根を下ってくると途中に2段程の郭らしきものがあるが、最初に見られるのがこの堀③である

ここからが下諏訪町の遺跡カードに記載のある下の城下の砦の城域であると思われる。
 


sitanosiro7 (3)

堀③は尾根の西側に竪掘状に存在しているが、尾根上に平地を残して東側に堀④があるので、もしかしたら後世の

耕作により埋められて別の堀のようになった可能性ありかつては堀切であったかもしれない?
 


~ 堀④ ~

sitanosiro11 (2)

堀④は、尾根東側をコの字状に掘られた堀で、竪掘・横掘をくっつけたような形をしている。
写真は堀③と尾根上を挟んだ東側にある竪掘部分
 


sitanosiro11.jpg

竪掘部分を郭上から見下ろす。 

sitanosiro11 (4)

横掘部分を見る。(奥の高まりが掘り残されて土橋状になった尾根)

横掘は尾根の半分ほどを削って構築されており、残された尾根は狭くなっていて土橋状となっている。
 


~ 郭③ ~

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堀③を挟んだ北側段郭上から見下ろす郭③

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郭③は、下の城下の砦内では2番目に大きな郭となっているが、削平は城内で一番きれいで周囲の堀の構築状況から

みればここに小屋掛けをしていたのではないだろうか。
 


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郭の南側から北側を見る。 

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郭③の西側斜面(福沢川側)には小規模ながら郭らしき削平地が確認できる。 

~ 郭④ ~

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郭④は、城内最大の郭ではあるが、現在笹藪が酷く詳細を見ることは厳しい。 

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郭内部は緩やかに傾斜していて削平が甘く、写真のように笹の高低により段があることがわかる。 

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ちょうど道により笹が無く、確認できた土塁。(高さ40cm程度)

土塁は鋳物師沢側(東側)には砦がある為か少なく、郭西側(福沢川側)に主に構築されていたようである。
 


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郭④からは諏訪湖が見えます。。。なんとか。 

~ 郭⑥(大手郭とも・・) ~

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尾根の先端には、大手郭とされる写真の郭は構築されていて、郭の西側を大手道とおもわれる道が登っている。 

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郭西側(大手道側)には一部に土塁が構築されていて道から見えなくする工夫がされていたものと思われる。 

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大手郭切岸と左側に大手道を見る。

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sitanosiro20 (10)

昔の大手道(現在は林道?)は郭④と郭⑥(大手郭)の間の部分で尾根の堀残しにより明らかに人工的に

道をカーブさせている部分が確認でき、敵の直進を妨げる役割と郭の下部を通過していることから郭からの

攻撃を狙っていたものであろう。 


~ 消滅木戸跡 ~

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山城探訪では、下の城の乗る尾根の先端部と鋳物師沢への道の分岐部分に、木戸跡とされる土塁・竪掘が記載され

ていたが、現在は写真のように何かの工事により消滅してしまったようで確認出来なかった。

木戸跡の遺構であったとすれば珍しいものでもったいないことをしたものである。
 


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尾根の先端の林道入り口には道しるべがありますので迷う心配はないと思います。
(この看板から上の城までは一切の道しるべはありませんが、一本道ですので安心です)
 


sitanosiro1 (7)

城跡遠望・・・・どの山だっけ??? (>_<) 


下の城をお送りしてきましたが、分かりずらい搦め手からの紹介ですみませんでした。
新しい技術と古い技術の混合のような城跡という感じを受けた下の城でした。

次回は。。。。鋳物師沢を挟んで存在する萩倉砦をお送りしていきますのでお楽しみに!!



~参考文献~

山城探訪 諏訪資料編    (宮坂 武男)

信州の山城         (信濃史学会編  1993年)

旧東山田村の史跡散歩    (増沢 五助   平成3年)
  1. 2013/01/16(水) 03:43:48|
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下諏訪町  下の城①

下社勢力による巨大城砦群

IMG_0002_20130109223218.jpg

国土地理院 二万五千分の一地図使用


訪城時間・・・・一の釜墓地から20分・上の城から15分              危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・一の釜墓地・鋳物師沢                       訪城日・・・・2011年1月29日




     ~ 上の城・下の城・萩倉砦関連記載文献記事 ~

「旧東山田村の史跡散歩」の「東山田の山城」の項には、

(前略)東山田の山城は現在上の城・下の城・社中学上砦(下浜・宮坂武男氏新発見)・下の城下の砦(下諏訪町

埋蔵文化財包蔵地調査カード)が判明している。(社中学上砦は萩倉砦のこと)

和田峠方面の防備として重要であったと考えられる。築城者は諏訪湖北一円を支配していた下社大祝金刺氏といわ

れる。伝承では山田氏が預かっていたという。(日本城郭大系)後武田時代には武田二十四将の一人横手備中守が

居城したと伝える。(史蹟要項)

山田氏としては、武田時代の永禄10年の諏訪五十騎起請文の内、今井春夫氏所蔵の古文書で山田備前守は東山田に

住む豪族にて、今井家の祖で子の半九郎は浪人した。(武田氏滅亡のためか?)

戦国時代末期には山田若狭守・山田新右衛門尉・山田源兵衛など有力武士があり、この三名は一族で山田郷出身と

みられるものである。よって上の城・下の城は山田氏の居城であったのではなかろうか。

この城はまた砥川をはさんで金刺氏の詰の城山吹城に相対し支城のごとく見え和田峠口の抑えとして構築し、

金刺氏支流の山田氏をこの地に配したのではなかろうか。(岡谷市史)

下の城下の砦は、下の城は二つの区画に分かれているので下の部分をそう呼んでいるものと思われる。


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下の城搦め手の入り口を見る。(城の脇を林道?が通っている。)

sitanosiro.jpg

下の城は、戦後開墾され畑として郭が使用されていたが、現在は笹藪となっており詳細の確認は難しくなっている

今回は上の城から下の城の城域にはいったので搦め手からの紹介となります。あしからず!(-_-メ)


~ 堀① ~

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搦め手から見た堀①と郭①(山探訪ではニの郭の記載) 

sitannosiro3 (2)

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搦め手を守る城内最後の堀切で、上幅約10m・深さ約3mあるが笹藪が酷く竪掘までは見ることが出来ない。 

~ 郭①(ニの郭) ~

sitanosiro5 (3)

郭①(ニの郭)は、本郭北側にあり搦め手と接していてこちら側に土塁を鍵の手に構築されているようであるが、

写真のように笹藪が酷く詳細の確認は難しい。
 


sitanosiro5 (2)

郭①(ニの郭)と奥に郭②(本郭・奥の高まり)を見る。

郭①内部はきれいに削平されているようであり、この場所と郭②がメインの場所で建物があったと思われる。
 


sitanosiro5.jpg

郭の縁部に低いながら土塁が確認出来る。(城内は一応、笹が刈られた道があるので安心です) 

~ 堀②(郭①と郭②間の堀) ~

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郭①(ニの郭)から郭②(本郭)を見る。(郭②のほうが2mほど高い)
間に堀②があり鋳物師沢側に土橋があり斜面両側に竪掘を落としている。
 


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堀②は上幅約13m・深さ約5mとなっており、本郭とニの郭を分けるように構築されている。 

~ 郭②(本郭) ~

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下の城がある尾根のピークにこの郭②があり実質的には本郭と見られる、しかし、写真でもわかるように郭内部は

笹藪が酷く、周りに帯郭・段郭などが笹の凹凸によりわかるが直に見ることは難しい。 


sitanosiro7 (2)

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本郭の西側縁部に確認出来る土塁。

わずかに笹が無い部分を見ると郭の削平は甘く、緩やかに南側に傾斜があるように感じた。
 


ちょっと長くなってしまったので、今回はここまで~V

次回は、下の城下の砦とされる堀③遺構をご紹介したいと思います。
  1. 2013/01/14(月) 10:37:25|
  2. 下諏訪町
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下諏訪町   上の城(かみのじょう)

下社勢力の巨大城砦群

所在地・・・・下諏訪町東山田        訪城時間・・・・40分~50分

危険度・・・・★☆☆☆☆          訪城日・・・・平成11年1月29日

訪城目印・・・・下諏訪社中学校裏から荻倉砦脇を通る林道が上の城の脇を通過している。  
  


            ~ 上の城・下の城・萩倉砦の歴史 ~  

「高島城と諏訪の城」(郷土出版)の「上の城・下の城」の項によると、

「下社春宮の背後にあり、山吹城の対岸に対峙する大規模な山城。砥川と福沢川に挟まれた尾根にあり、上の城の

主郭は広大な面積を有する。上城址之碑と刻まれた石碑があり、北側には飯綱神社がある。

下の城は社中学校の背後に位置し、狭小な尾根にある。『下諏訪町誌』は当時の萩倉の位置から、大祝金刺昌春が

逃げ込んだ‘萩倉の要害‘を上の城に比定している。宮坂武男氏は天文年間に武田氏が改修したことを指摘。」

とあり、城主として山田氏・横手氏としている。


IMG_0002_20130109223218.jpg

上の城・下の城・萩倉砦については「信州の城」(信濃史学会編)が詳しいので紹介する。

下の城の背後の尾根を詰め、萩倉砦から馬飼場を経て沢筋を登り詰めて行き合った所に上の城がある。

円形の山で、眺望が開け下部からも良く見通せる場所である。標高1063m・比高250m奥深い所に上の城は位置する

昭和4年11月、東山田住人樋口辰之助茂冶氏建之による城跡に建つ「上城址之碑」の碑裏文を紹介すると、

①当城址は武田信玄の臣横手彦左ヱ門尉の居城址との伝説あり。

②発見遺物に拠れば先史原史時代より戦国時代まで引き続き山城として使用せられたるものなりとの説あり。

③城址内に三条の空濠址及古井を有し付近に下城・馬飼場・入堀切・前手堀切等の地名を存す。

とある。


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上の城の本郭にある城址碑

しかし、築城年代や城主も諸説ありはっきりしない点が多く、名称すら当時どのように呼ばれていたのかわからず

便宜的に上の城、下の城と後世呼ばれてきたのであろう。

下宮の重要拠点であり、築城者は下宮大祝金刺氏かその一党であろう。下宮の本城桜城の支城としての役割を持っ

たであろうが、砥川以西には、岡谷地区、塩尻峠から諏訪湖尻の釜口まで下宮の直轄地であった為、目立った砦が

存在しないことからして、この城がいかに重要だったかわかる。

永正15年(1518)の上下社の争いで、下社金刺氏は上社の諏訪頼満に攻められて滅亡する。

「当社神幸記」の永正15年条には「コノ年下宮遠江守金刺昌春、萩倉ノ要害二自落シテ一類面々家風悉ク断絶シ

畢(オワ)ンヌ。上宮刑部大輔頼満本意ニ属シ給フ、千秋万才後代ノ為メ之ヲ記ス、十二月十八日夜大城没落ノ

拠ニ、同廿一日夜重ネテノ御渡之有リ、稀代不思議ノ事也。」とあり金刺昌春は没落して、武田信虎を頼って甲府

に住み復帰を図るが、遂にその願いは達せられずに終わった。

その中で、永正15年の冬に自落した萩倉の要害がどこであったかが問題となる。


IMG_0001_20130111204412.jpg

この図面に沿って紹介します。

従来は、山吹大城が萩倉の要害であろうと言われてきたが、当時の萩倉の地名は砥川以西であるというので、最近

は上の城が有力視されている。

伝承では、この上の城の城主は山田氏が預かったとも、武田氏統治時代に川中島合戦の折にノロシ場であったとも

伝えられ、横田備中守や横手彦左ヱ門が居城したとも言われいるがいずれも確証はない。

天文12年(1542)に諏訪氏を滅ぼした武田氏が上原城を改修した際に下社の城(桜城か?)も普請しているので

上の城・下の城も塩尻峠や和田峠の抑えとして使用されたものと思われる。

「天文十二年五月廿五日(辛 未)巳刻、巳午ニ向ヒ上原ノ城鍬立七九・・・・七月十三日(初テ長坂上原在城衆

移ル、十五日下宮ノ城普請初、廿八日御帰府。」(高白斎記)



               ~ 上の城の現状 ~

~水の手~

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社中学校裏から続いている林道を登ってくると。。。。

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林道脇に「西尾根 上ノ城址」の看板があり、看板脇から尾根を目指して登る。
(道はないが踏み跡がついているのでわかると思う。)


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看板脇を登ると、二段の郭がありその一つが水の手とされ現在でも確認出来る。

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現在は。。。。動物たちの水の手かな (-_-)zzz 

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城内から水の手のある斜面の郭を見下ろす。

~郭①(本郭)を囲む堀~

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上の城は、図面を見てもらうとわかるように、本郭を囲むように横掘が掘られていて、東側は二重の横掘となって
いて写真は外側の横掘で内側より規模が大きい。 


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東側横掘の内側の堀を見る。
(埋まってしまっているのか深さ約1m程度で明確でない場所もある。) 


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城の南側が緩い尾根となっており、ここを下って行けば下の城へ通じる。(林道を行った方が楽だが・・・・) 

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南側は、下の城と尾根続きのせいなのか???東側と違い二重ではあるが堀の規模が小さく、一部明確でなくなる
(写真上は、内側(本郭側)の堀・写真下側は外側の堀)
 


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西側の横掘は一番規模が大きく切岸がしっかりしていて、三重の堀となっている。
笹と雪で詳細は確認できなかったが、上の城は西側(塩尻峠側)に防御の重点をおいていることが分かる 


simosuwakaminosiro4.jpg

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北側は搦め手の尾根となっているが、こちらも防御的に弱い感じを受ける。

堀は二重となっているが西側ほど切岸も明確ではなく、堀も小さい
。 


~ 郭①(本郭) ~

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本郭にある城址碑(上)と本郭から横掘を見下ろす(下)。 

simosuwakaminosiro2 (3)

本郭はたまご型をしていて70×50mの広さがあるが、郭内は削平が甘いものとなっている。
ここまで削平が甘いと説明にもあった武将たちの居城とするには疑問があり、やはり伝承であろうが、もしかした
ら下の城ではありえたかもしれない。
 


~ 搦め手 ~

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本郭北側の尾根をたどるとこの土橋状の細尾根が現れる、ここの以前は堀切があったのではないかとされている。

山仕事の為に埋められてしまったのであろうか?
 


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simosuwakaminosiro7.jpg

石尊社跡
本郭から250mでこの石尊社があり、ここから古刀が出土したと伝えられている。

確認はしていないが、石尊社から50mで馬場跡・さらに300mほどで手前堀切・入掘切などの自然地形をいかした
搦め手の防御施設があったようである。


simosuwakaminosiro7 (6)

上の城はいかがだったでしょうか?

あいかわらず長すぎ。。。。。っと怒られそうですが、最後まで見ていただいた方はありがとうございました。

上の城は、長野県下でも珍しい、本郭を何重にも横掘で囲むという築城方法が見られる城であり貴重なものである
が。。。。古い感じは否めないように感じる。
武田氏は、金刺氏が使用していたこの城をあまり手を加えずに使用したためであろうか?

次回は。。。。。下社城郭郡の下の城をお送りしますのでお楽しみに。。。V



~参考文献~

山城探訪  諏訪資料編  (宮坂 武男)

信州の山城        (信濃史学会  1993年)

高島城と諏訪の城     (郷土出版社)
  1. 2013/01/09(水) 21:43:23|
  2. 下諏訪町
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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