長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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霜降砦 附海岸寺遺跡

桐原城の東側を固める砦

s-IMG_20151027_0004_NEW_201512211741216ef.jpg
古図に見る霜降砦

所在地・・・・・・松本市入山辺桐原

訪城時間・・・・約60分


※案内板はあるが部分的に道が分かりずらくなるので注意が必要。

危険度・・・・・・★★★☆☆

別 名・・・・・下降城・下古城

訪城日・・・・2013年12月9日(少し前なので海岸寺沢内部はどのようになっているのかは分かりませんので気を付けてください)


~ 霜降砦の歴史 ~

『東筑摩郡誌』には、霜降砦について

「壘砦に堀切あれども、間數其の他詳ならず。嘉吉三年桐原眞智の子眞隆之を築けり。眞基の時本城と同時に陥落せりといふ。』

『信府統記』には、桐原城の項に

「(前略)、此城ノ東ニ霜降ノ城トテ取手ノ跡アリ谷崖モ隔テリ中ニ堀切モアリ。」 とある。


嘉吉3年というと1443年でその頃は、結城合戦(嘉吉元年1441年)などがあり府中の小笠原氏の祖とされる小笠原持長などの時代

でこれを信じればかなり古い時代に構築された砦という事になる。


~ 訪城ルート ~

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訪城ルートは、現在新しく開設された桐原城の先端部を通過している幹線農道を海岸寺を目指す。

海岸寺の所から桐原城と霜降砦のある山の間の沢(海岸寺沢)へ入る細い道を歩いて登る。

車は農道脇に駐車スペースがあります。


s-kaigannzi (10)
細い道を道を登っていくと途中に水道施設があり、さらに登っていくと耕作放棄地が左右に広がる。

写真は海岸寺沢に砂防堰堤の建設によって破壊される畑跡(現状はどのようになっているのかは未確認です。


s-kaigannzi (8)
訪城途中から振り返ると山辺谷を挟んだ正面に林大城・水番城が見える。

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舗装されていた道が山道となるが、そのまま沢に沿って登って行くと、案内板が現れる。

simofuri5 (2)
山側へは「霜降城へ」とこんな砦にまで案内板があることに驚く。

これは桐原城の保存会の方が関連の城という事で整備されたものと思われる。。。。。感謝感謝ですね。

この看板は砦までの所々に建てられている。


simofuri5 (3)
霜降砦までの道跡は明確であり石積みも見られる。

これも番所群で説明した武石本道へ通じる枝道で重要視されて整備されていたことが分かる。


simofuri5 (16)
道々に案内板が建ち安心して歩ける。

砦跡までは60分の結構長い道のりを歩くが。。。。。結構寂しい。


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訪城途中の山道からは桐原城が遠望できる。

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写真では望遠に限度があるが、現地で桐原城の石積みまではっきり見ることができ、これだけ近接して構築していることからも

重要な使命を与えられて綿密に連携して稼働していたことがうかがえる


~  砦跡 ~

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霜降砦は二つの郭と堀切(古道を堀切状に通過させている)からなる小規模な砦である。  

simofuri21 (1)
遺構の配置

 ①本郭

simofuri4 (3)



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霜降砦の本郭は、27×17mの楕円形をしている。

郭はきれいに削平されているが、土塁は見られない。


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現在は麓から登って来た道が、本郭裏の堀切を通って入るように案内板が設置されている。このままでは武石本道から来た敵が

そのまま本郭の入れてしまうので、もっと防御を考えられていたと思われるが現状ではうかがうことが出来ない。


~ 堀切と武石枝道 ~

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麓から登って来た道は、本郭裏の尾根をを深くえぐった様な堀切内を通過し、武石本道方面に登って行く。

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堀切内をカーブして登って行く道は、写真の様に溝状になって登って行き、鐘掛番所の所へ行きつく。

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霜降砦の堀切は、山道が通過する部分は深くえぐって郭内からの攻撃・監視を強めているが、山道がカーブして登って行くと

残った反対側の堀切は写真のように幅が広いだけで浅く防御性が乏しい。

この造りは桐原城の西側にあった「冨塚・番所」の遺構にかなり類似している。


simofuri2 (10)
この防御性の乏しい堀切も一応申し訳程度に竪堀として落として斜面を防御している。

~ 郭② ~
simofuri3 (2)
本郭から20m程下ると郭②がある。(郭②から本郭を見上げる)

simofuri3 (5)
郭②は、21×11mでこちらもきれいに削平されており、特徴は郭の縁の全周を土塁が巡っていることである。

simofuri3 (3)
土塁の高さは30~50cm程度であるが、郭②へ登ってくる尾根が斜面がキツイ為これで用が足りたものと思われる。

simofuri3 (19)
斜面下から郭②を見上げる。

急斜面の為、郭内は見えず郭から石を落とされればケガでは済まないであろう。

simofuri3 (10)
郭②を山道から見たところであるが、郭がきれいに削平されているのが分かるでしょうか?

~ 不明の道状遺構? ~

simofuri1 (2)

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山道と砦の間の斜面には、山道とも防御施設とも判断がつかない、横堀状の遺構が見られる。

この山辺周辺の山々には溝状の道が多くみられるので道ではあるかと思うが、深くえぐられた道は戦時には堀として利用するため

に掘られていた可能性もあるのではないだろうか?


simofuri1 (6)
安心してください!ここにも案内板ありますよ!

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更にここには、東の沢の中から登ってくるよく利用されていたことが一目で分かる深くえぐって堀状になって登ってくる道が、

武石枝道に合流している。(青色の山道)


simofuri1 (10)
武石枝道(青色)の道が登り切った部分の斜面には、写真の様な竪堀状の溝が下っている。

本郭裏の堀切の竪堀と比べると明瞭すぎるので砦の遺構とは即断できないが、霜降砦が他の番所達と同じ武石枝道を監視する

というのが主要な任務であったとすれば、海岸寺沢からとこの山道が合流する部分に構築された意味がよく分かり、山道の場所に

竪堀が構築されたのもうなずけるのではないだろうか。


この霜降砦の形は桐原城番所群の他の番所の縄張りと類似しているところが多く、別段特別な砦ではなく、桐原城を守るための

砦・番所群の一つという位置づけだったのではないだろうか。

ここだけ城主の伝承が伝わったのは、明確な遺構が残されていて麓住民に認識されていたので桐原城主と関連付けて伝えられた

だけであろう。

霜降砦の近くに描かれている上降砦はいまだ場所は確定されていないのは、明確な遺構が存在しなかったから住民に認識され

なかったので忘れ去られてしまったのでしょう。

推定地としては幾つか挙げられているので調査してみても楽しいかもしれませんね。


~ 海岸寺遺跡 ~

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現在の海岸寺を見る。

海岸寺は創建時期・開基・開山は明らかではないが、当初は北方の山際にある弘法平あったとされ、近世に現在地に移されたと

考えられている。

旧海岸寺の寺域から少し登った尾根上の平安時代後期~末期の経塚から青銅制経筒・白磁合子・鉄製刀子が出土し、

旧海岸寺経塚出土品として市重要文化財として指定されている。

このことから、海岸寺の創建を平安時代にまで遡るとも考えられる。また、海岸寺には平安時代作とされる千手観音も現存している。


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今回発掘されたのは、海岸寺と奥の院の間の海岸寺沢内と畑跡で、砂防堰堤構築の為のものであった。

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海岸寺沢内部に造られた近世の畑跡(上の山は桐原城)

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近世の畑跡の石積みは、近世城郭を思わせるような造りで櫓台風のものも見られる。。。

これらの畑跡の間を大手道や武石枝道が通過していたことからも、何らかの防御施設も想定できるのではないだろうか?


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海岸寺沢内部のトレンチ調査

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この調査からは、平安~中世の遺構と青磁や内耳鍋などが出土しており、古い時代から人が活発にこの沢を活用していたことが

分かった。

砦があった頃にはこの沢の中や海岸寺はどのようになっていたのであろう。。。。。。砦や桐原城との関係性も気になるな~。

考えるだけで楽しいですね。


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霜降砦と桐原城・番所群の遠望


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  1. 2015/12/21(月) 15:10:34|
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松本市  桐原城附番所群③

桐原城・霜降城への古道を監視する為の番所たち

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桐原城古図

今回紹介するのは、武石道が尾根上で桐原城・霜降城へと大坂番所・富塚、番所への道へと分岐する場所で、桐原城への道の

途中の尾根上に設けられていた桐戸屋番所と鐘掛番所を書いていきたいと思います。

何分、明確な遺構を見つけることができなかったので、尾根の位置と道の位置から推定しました。

間違っている可能性もありますが、最後までお付き合いください。


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桐戸屋番所・鐘掛番所部分の拡大

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現在の国土地理院の地図に現地で確認できた推定地の形状を落としてみた。

~ 推定桐戸屋番所 ~

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尾根上を通過してきた武石道は、美ヶ原林道に分断されながら所々に残っている。

林道の真ん中にある分離帯にも。。。。


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このように武石道の痕跡が残されている。

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尾根上の古道から、桐原城・霜降城へと続く尾根への分岐から見た松本方面。

こんな高所を昔の人たちは旅をしていたとは驚いた。。。!


分岐部分から古道の痕跡を辿って比高にして約150mほど下ると番所推定地が見えてくる。

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明確な道跡が残る。

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尾根を下ると、幅広いはずの尾根を明らかに人工的と思えるような土橋状の道となっている。

この長さは約50m程続いており、ここが桐戸屋番所の推定地と考える。


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土橋状の尾根のすぐ下には広大な平坦地が広がっており、土橋状の尾根との高低差は約5~6mあり土橋状の道を番所の関門と

し、下の平坦地に番所の建物群が建てられていたのではないだろうか。


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土橋状の古道の下に広がる広大な平坦地。。。。。ここに建物があったのであろうか。。。。。

~ 推定鐘掛番所 ~

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桐戸屋番所推定地から尾根上を約200mほど進むと、尾根の両側に竪堀を落としたような地形が現れる。

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尾根の両脇に落とされた竪堀と土橋状遺構

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古図には、鐘掛番所に堀切と岩が描かれている。

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堀切を越えて尾根をわずかに登るとピークの平坦地があり、ここに岩が見られる。

古図にもある『か祢かけいし』がこれにあたるものと推定する。


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鐘掛番所推定地の平坦地を見る。

番所推定地の後方(桐原城方面)には堀切等の防御遺構が見られない、今までの番所も同じで桐原城方面には防御遺構が無く

桐原城の後方の防御施設として武石峠を越えて来た小県方面からの敵・侵入者に備えたものであることが想像できる。


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番所推定地から尾根を更に進むと。。。。。。

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古図と同様に桐原城・霜降城から登ってきた道が尾根の古道に接続しており、先ほどの鐘掛番所推定地が正しいことが確認

できる。


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更に尾根を進み、尾根の先端の三角点まで確認しに行ったが、遺構らしきものは無かった。。。。。。

ただ、鉄砲隊に遭遇し恐怖を覚えたのは、予想外であったが。。。。。汗


番所群は全部紹介し終わったが。。。。。。なんせ確証を得ることが出来た場所は数個しかなかったが、古図から読み取った

古道・水場・石などからほぼ間違いがないと確信している。。。。。。。かな。。

ほとんどの番所は武石峠側に深く古道を通して堀状にしているのが特徴で、これが堀切として描かれたものと思われる。

また、ほとんどの番所には狭小な平坦地しかなく武石道の分岐部分の桐戸屋番所が、武石峠を越えて来た侵入者と最初にぶつ

かることから規模が大きく、その他は戦時以外は少人数が見張りとして常駐していた程度であったのであろう。

この番所の見張りも桐原氏が治める領地の領民たちが交代で見張りのついていたんでしょうね。

タイヘンダ。。。。。。

次回は、番所群と共通する造りが見られる、霜降城を紹介していきたいと思います。


おまけで。。。

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現在の武石峠。。。。。。。小笠原長時も失意にくれてここを通ったのであろうか。。。。

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江戸時代の武石峠茶屋跡も見られる。。。。。。

江戸時代もこの高地の道が小県とつながる主要な街道を担っていたことが分かり、多くの旅人が喉を潤していたことが想像

できる遺構ですね。


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また、この茶屋跡には松本城の外郭の堀の役目を担っていた女鳥羽川の源流がみられるんですよ~。

かなり山深い場所にありますが、興味を持ってくれた方はどうぞ訪れてみてくださいね。


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  1. 2015/11/30(月) 19:16:36|
  2. 松本市
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松本市  桐原城附番所群②

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今回は。。。。武石道が武石峠のある尾根上へ出た場所にある大坂番所をご紹介していきたいと思います。

ただ、大坂番所は絵図では中々分かりずらかったので、ありそうな場所を四か所ほどピックアップして探索しました。

ですので今回は大阪番所推定地紹介とさせていただきます。


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大坂番所がある場所の絵図から読み取れる特徴は、

①めくろうし沢と御くら沢の間の尾根を登り切った場所の近くのピーク手前の斜面。

②番所の後ろ側に桐原からの道が登ってきている。

③番所の下へ御くら沢の支沢が登ってきている。

これらの特徴を現在の国土地理院地図で探してみると。。。。。。


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推定地①と②が当てはまりそうな感じであるが。。。。。。探索の結果は。。。。。

~ 推定地① ~

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推定地②を2エリアに分けて探索しましたので分けて紹介します。

エリア①

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エリア①は、古道がピークより北側を通過して居る為、ピーク上や南側には遺構は見られなかった

また、絵図から見た番所後方へ登ってきている古道も確認できなかった。



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ピーク南側を通過する古道を辿ってピーク上を目指して登ってみるが、人工的な平地を確認することはできなかった。

現在の古道は藪の下となっており、辿るのがかなり厳しかった~。。。汗



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地形図から見るとエリア②は広大な平坦地の様に見えるが、現地を確認すると緩い斜面となっており、古道、人工的な地形は

確認することができなかった。

この事から大坂番所推定地①は、大坂番所の地ではないと考えられる。


~ 推定地② ~

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推定地②は地形図上で緩やかな登りとなっており、古図上でも斜面に番所が設けられているように描かれていることから一番に

期待できる場所であったが。。。。。。。。


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推定地③は、古道が緩い傾斜を登っているが、人工的な遺構や背後に古道は確認できなかったの

で、ここも大坂番所では無いものと考えられる。


~ 推定地③ ~

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推定地③で見られた武石道の跡と地形を書き取った図

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推定地③は現在の美ヶ原林道より約15mほど登った尾根上にある。

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尾根上には削平地と鉄塔が建てられいる。

武石道のつながりを見ると。。。。。。。。。。


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尾根の下から武石道が登ってきて。。。

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尾根上の削平地脇に到達する。

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更に後方には桐原からの古道が登ってきており、古図と同じような様相が見えてくる。

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桐原から登ってきた古道は、尾根を堀切状に横切って登っていく。

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古図と比べてみると。。。。武石道と桐原からの古道が交わる場所となっておりこの推定地③が当てはまるのではないだろうか?

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大坂番所はこの尾根の先端の削平地あたりが番所跡と推定する。

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大坂番所跡と推定される削平地。

古図では堀切が描かれているが鉄塔の建造で破壊されたものと思われる。


今回は長くなってしまったのでこれまで!!!

次回は残りの番所群を紹介し終わりとしたいと思いますので、お付き合いくださいませ!
  1. 2015/11/19(木) 02:55:50|
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松本市   桐原城附番所群①

気になってしょうがなかった武石道の番所達を訪ねる冒険。

所在地・・・・・松本市里山辺

訪城時間・・・・全てで8時間~9時間

危険度・・・・・★★★★★


※かなりの山奥なので単独行動は危険。また、熊・猟師・遭難に注意が必要

訪城日・・・・・2014年11月16日・2015年10月29日

この桐原城後方の山奥に存在する番所を知ったのは、松本市教育委員会主催の勉強会の資料とと資料館の古図を見たことである。

この古図に関連する武石道については、小笠原長時が武田信玄に府中を攻められた時に一時、桐原氏の居城である桐原城に避

難し、その後、桐原氏と共に武石道を通って村上氏の塩田城へ逃げた。

その時に、この道を使って武石峠を越えて小県まで行った事が分かっている。

現在残されている古図を見ると、武石道の起点が桐原城の麓から始まっており、城の存在意義として武石道を押さえる為に構築

されたことが分かる。

その為に長時は武石道を使用して逃げるために桐原城へ拠ったことが見えてくる。

また、長時が無事に逃げ遂せたのも桐原城の管轄が桐原城だけではなく、後方の尾根にある番所や砦までであり、これらの番所

や砦はまだ武田氏に占拠されていなかったからではないだろうか。

古図にも残り、歴史にも出てこないが活躍したであろう番所や砦達に興味を持ち調べてきたくなった。

しかし、古図が残っているにも関わらず、調べてみてもWeb上では検索できなかったので意を決して訪問してみることにした。


まずは、往古の桐原城の姿や武石道を管理・監視していたであろう番所や砦を描いた古図を見てみる。

kiriharabannsyo1 (5)
『桐原城古図』

来歴として、博物館に絵図が持ち込まれた時期・経緯は不明。

内容は、現在の入山辺桐原地区から里山辺藤井地区周辺までを描いた絵図で、桐原城と桐原村、その背後の山々が絵の大半を

占める。(濃い黒字は教育委員会が資料用に加筆)

古図の書かれた時期として、享保2年(1717)に起きた桐原村VS薄町・兎川寺・上金井・荒町4村との山論に際して、桐原村が絵師

に描かせた絵図またはその写しと考えられている。


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『桐原古図(写)』              松本市教育委員会主催の勉強会資料より転載    原図は松本市立博物館所蔵

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古図から現在の地図へ番所・砦の推定位置落とし込んでみる。               国土地理院2万5千分1地図使用

これに。。。。。武石道を入れてみると。。。。。

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こんな感じになる。

ただ、探し出すにも目印となるものが欲しい。。。。。。。。。で古図にあるものを探し出す。

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目印はこの『鳥っ水?』とある水場。。。。。。。。これを探し出し谷・尾根の形状を参考にその他の番所を探すという作戦。

でそれらしきものがあった場所が上の国土地理院の地図に落とした場所となる。

よく見ると国土地理院の地図にある登山道と古図にある武石道がおおむね重なっておりとても探すのに参考となった。

2年ほどかかったけど。。。。。。。執念深いかな(汗)


~ 起点 → 鳥っ水 ~

アプローチ方法は、美ヶ原林道で武石道が桐原から鞍部へ登り切る、1258.9mピーク脇まで車で登り、そこから武石道を下る。

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桐原から登ってくる武石道を見る。

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石道を200mほど下ると道端に石仏が見られる。(2014年時はそのまま桐原まで下った。)

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武石道に見られた石仏

その石仏のすぐ近くに。。。。。

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大きな木があり木の根元には窪みが見られる。

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そこからは今でも水が流れ出ていた。これが『鳥っ水?』と思われるが。。。。。。もう一つ確認。

『桐原城古図』には『鳥っ水?』のすぐ下まで『めくろうし沢』が来ていることが見られる。

これを確認すると。。。。


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古図の通りかなり深く険しい『めくろうし沢』が来ていることを確認したことにより、この水場が『鳥っ水』と断定する。

これを起点に番所・砦を調べた結果を紹介したいと思います。

ただし、今回確認した遺構などから分かったことは、古図では『堀切』など書かれているが、多くは砦・番所に武石道を取り込み、

番所・砦地点で深く掘り込み堀状にしているものや、道を土橋状に加工したり、確かに堀切か?というものがあった。

これらは番所として武石道を取り込み道を加工することで、人の監視や多くの軍勢を通過することを困難にする事が大きな任務

であったもので、戦いを想定したものではない事がうかがわれた。

なので現地では、きれいに加工した平坦地や切岸はほぼ見られなかった。


~ 桐原の武石道起点→藤富塚・番所 ~

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武石道の起点から番所のある山を見る。

武石道の起点は桐原城の城下の一部で写真にある集落は、かつての桐原氏の重臣屋敷があった地であった。


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武石道の山奥へ続く入り口

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武石道は集落から離れると車道は終わり、山道の両脇には耕作放棄された畑跡と石積みが見られるようになる。

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さらに武石道を辿ると、めくろうし沢沿いを渡る。

このめくろうし沢の直上には目印となった『鳥っ水』が存在する。


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めくろうし沢には、現在では見られないような古い砂防堰堤と思われるものが見られる。

波状に組まれた石積みは美しく、これ自体が遺跡として保存されてもいいようなものであるが、惜しいかな誰も訪れない山奥に

ひっそりと放置され存在自体を忘れ去られているのであろう。


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武石道の起点周辺遺跡の配置図

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更に山道となった武石道を登ると標高930m(比高150m)地点に古図に描かれたそのもの番所遺構が現れる。

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古図に見られる『富塚・番所』

古図には多くの塚と堀切が描かれているのが分かる。


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武石道を登っていき尾根に着くと、武石道は堀状になる。

これが古図に描かれている番所で、堀切と思われる。


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堀状の武石道は番所部分を抜けるとカーブして尾根を登っていく。

この堀状の武石道には土塁が付属しており、いざという時には武石道を通る者を土塁上から攻撃を仕掛けることを想定して

いたのであろう。


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堀状の武石道に付属する土塁

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堀状の武石道がカーブして尾根を登っていくが、堀はカーブせずに浅くなっているがそのまま尾根を掘り切っている。

このことから堀状の遺構は武石道による掘り込みではなく、尾根を掘り切る防御のための掘り込みで『堀切』であった事がわかる。


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番所の建物はどこにあったのであろうか、平坦地を見ると堀状の武石道を挟んで山側は狭い平地があり、尾根の先端側には

写真のような広い平坦地がある。

現地を見て推定すると、武石道を挟んで山側の狭い平地と尾根先端側の土塁上に柵列を構築し、写真の尾根先端側には

番所の御小屋掛けをしていたものと思われる。


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ただ、この小屋掛けの平坦地には山下の上金井の集落から道が登ってきており、番所の土塁が虎口状に開いている場所から

堀状の武石道に合流している。(この道は『桐原古城図』にも描かれている)

この番所はこれらの古道の合流点に設けられていたようで、推定大坂番所や霜降城などにも見られる。


また、この上金井からの道に沿って、古図にもあるように『富塚』が築かれている。

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桐原古図に見られる冨塚(境ふじつか)は、大小12個見られる。

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現在は約7個しか確認できなかったが、古図の通り道の左側に大きな土盛(写真上)、右側に小さな土盛(写真下)が見られた。

また、この土盛から先の堀状の武石道の場所が番所跡であることが断定できる。


今回は猛烈に長くなってしまったので、今回はここまで。。。。。。。

番所跡の冒険は③まで続く予定ですので、どうぞお付き合いください。


今回紹介した『番所・富塚』はここ↓


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『鳥っ水』の場所はここ↓


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  1. 2015/10/27(火) 22:07:07|
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松本市   中塔城①

地形を生かして築城した天然の要害

所在地・・・・松本市梓川梓中塔

訪城時間・・・・・1時間~1時間30分程度(登る道による)

危険度・・・・★★★★☆

訪城日・・・・2012年9月8日(『らんまる攻城戦記』の管理人らんまるさんと訪城) ・ 2013年12月1日(再訪)


所々危険な場所はあるものの道は明確で迷うことはない。しかし、山奥にあるために熊などに注意が必要


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中塔城周辺の史跡                                国土地理院2万5千分の1地図使用

*『桜はざま』はいつも拝見させていただいている『安曇野ガザ日記』の管理人であられる『かから様』が確認された城郭

遺構(南安曇郡誌に記載があるという)


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訪城経路(再訪時)

~ 中塔城の立地 ~

中塔城の麓にある中塔集落は、南黒沢と北黒沢によって周囲の集落と隔てられた地形となり、これらの沢を天然の堀とし

て利用し集落自体を宿城(根小屋)としていた。また、北黒沢と南黒沢の合流する地点の台地先端部には尖屋敷と呼ばれ

る城主の居館と考えられる跡が残っていた。(消滅)

中塔集落は中塔城のある金比羅山から張り出した北尾根と南尾根囲い込まれて守られるように存在し、集落の西側、

北尾根と南尾根の間を俵窪と呼ばれ城へ食料などを運び込む道があったとされる。

中塔城は金比羅山(標高1256m)からさらに奥のピークへの広範囲へ遺構が見られ、城自体も北黒沢と北黒沢に挟まれ

ている厳しい地形上に構築された城である。


~ 登城路 ~

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初回の訪城(らんまるさんと)は俵窪の堀状の道を登り、南尾根へ出る道をたどった。

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再訪は、東電の高瀬川線NO,82鉄塔巡視路(南尾根)を登った。

~ 歴史 ~

『長野県町村誌』には『(前略)、天文の頃小笠原権之丞住居の地と言伝ふ、然れども旧記等不伝、故に事跡不詳、今に至り土を

うがち古城具等を得ることあり。 』とある。

現在では、武田氏に府中を追われた小笠原長時が村上義清の力を借りて府中回復を目指すが、長時に無断で義清が坂城へ

引き上げてしまい失意にくれた長時は、武田方と一戦(野々宮合戦)し勝ったことを機に自害をしようとしたところ家臣の二木氏が

『拙者がこのごろ妻子を置いてある所は中洞(塔)小屋といって、いちだんと堅固な地に城郭をこしらえ(後略)。』

とあることから二木氏の詰めの城ではないかとされてきた。


~ 南尾根 ~

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南尾根を鉄塔の巡視路を登っていくと、尾根の弛みの先端にある鉄塔に着く。(写真)

ここまでは鉄塔の巡視路を登る分には距離はあるものの道がきれいで登りやすい。しかし、この先からは道はあるがこの地に

城を築いた意味が分かるほどの険しいものとなる。


しかし、本当に二木氏の城なのだろうか?

二木氏の本拠である地からは直線距離でも約5kmほどもあり、間には岩岡氏や宮高氏・長尾氏・中野氏などの領地がある。

一豪族の二木氏がこれらの豪族の領地を挟んで詰めの城など構築・維持することができたのであろうか?

それは通常、不可能なことなので中塔集落に佐渡屋敷(岩岡)
などがあることから小笠原氏領地内に設けられた山城を持

たない周辺土豪が共同で管理する城郭であったのではないだろうか。

『溝口家記』では籠城中の城主を小笠原貞保としていることからも小笠原氏が管理する城郭であったことが考えられるのである。


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城跡遺構の説明範囲                 信濃の山城と館の図を参考に現地調査をもとに作図

中塔の歴史を見ると、西牧氏が地頭として西牧の郷を治めており西牧郷は小倉までの範囲であったので初期の中塔は西牧氏が

治めていたことが分かる。

この頃に中塔に城があったかは分からないが、建武2年(1335)頃に小笠原氏が住吉荘を治めるようになると中塔城主と言われる

二木氏が出現してくる。


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この図に沿って紹介していきます。

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南尾根に見られる堀切

南尾根を登っている道は、この堀切の脇を通っているが道の下側には竪堀があり道の幅を狭め防御している。

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南尾根と北尾根の合流地点へと続く道を見る。

道が堀状になって登っており、写真の上部は郭が構築されていて頭上からの攻撃を可能にしている。

また、この堀状の道を登り切れば尾根の平坦地(城内)となることから、城内手前には城門のような施設があったのかもしれない。


籠城中の中塔城については『二木家記』には武田晴信や三村十兵衛が攻めかけてきた事や逆に西牧氏の北条城に攻めかけた

事。小笠原憩安(定政)が晴信の使者として降伏を進めてきたことが書かれている。

しかし『高白斎記』『勝山記』などの武田方の資料には出てこないことから、武田方では府中を失った小笠原長時の中塔城籠城を

すでに資料に残すほどの出来事とは見ていなかったものと思われる。


~ 北尾根の防御 ~

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北尾根を登っている登城路とそれを防御するための郭

尾根の上部(城内)への道は堀状になっており、こちらも城門などの防御施設が考えられる

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北尾根でも城内に近い場所には、写真のような大きな郭が段々のように北尾根上から俵窪上にかけて構築されていて、北尾根・

俵窪から攻めてくる敵を想定して構築していることがうかがえる。


『二木家記』にはその後、天文22年まで籠城をし二木氏は小笠原長時と共に川中島草間に行き、約2年間越後に滞在したこと

等を書いている。

ただ、『溝口家記』では小笠原中務少輔を城主に据え半年ばかり持ちこたえたとしており、これが本当のことだと思われる。

何故なら、周りの支城(平瀬城・小岩嶽城)が落とされてしまっては中塔城が包囲されることになり逃げ場を失う可能性が高くなる

ことが考えられるので『溝口家記』が正しいと考えられる。


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北尾根に構築された二重竪堀を見る。

中塔城では明確な堀切というものが無く、登城路の脇の土塁状の尾根を堀切、道下の斜面の下に竪堀を掘って道を狭める手法

をとっているのが大きな特徴で、地形をうまく活用しているように感じる。


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登城路を狭め、敵の移動を制限していることが分かる。

その後の中塔城は、二木氏や小笠原氏が去った後は武田氏の支配地域に入ったものの、城は周辺の土豪が管理していたものと

考えられ、天正10年(1582)、武田氏が衰退し織田氏が信濃に進出してくると西牧氏などの土豪は武田氏を見限り勢力の挽回を図

るために木曽氏に内通することで賭けにでたものと考えられる。

中塔城関係では、岩岡佐渡・織部も武田氏と関係を切り岩岡郷周辺の者を引き連れ中塔城に立て籠もっている。

そこで深志城からは中塔城へ兵を出して上野原や黒沢馬場(中塔集落)などで競り合いを行い、中塔城からも細萱氏の館へも

攻めかけたりしている。その中に岩波平左衛門(二木氏一門)も中塔城へ籠り、西牧氏と協力して神林などを焼き払っている。

『岩岡家記』


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北尾根の登城路を見る

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北尾根に残る竪堀

北尾根にはいくつかの小規模な竪堀が見られ、細尾根での敵の斜面移動を制限している工夫が見られる。

また、竪堀が多いのは北黒沢側が多く、こちらには武田晴信が戦勝祈願をしたと伝える黒沢不動があることから武田氏はこちら

側から攻めた可能性が考えられる。


鳥居峠の戦いで武田勢を下した木曽・織田勢は、その後深志城(現松本城)を攻め、城将馬場美濃守を退去させている。

これに先立って古幡伊賀等は、深志城内の二木・横田等を退去させ、二木氏を中塔城へ移らせている。(岩岡家記)

この後木曽義昌は深志城へ入っている。


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尾根の先端部(鉄塔)まで小規模な段郭が登城路に沿って構築されている。

防御の柵が構築されていたのであろう。


その後、各地を放浪していた小笠原長時の子である貞慶は府中回復を目指し、西牧の金松寺へ現れ旧臣を集めている。

その旧臣の中に二木氏・岩岡氏・岩波氏等がおり、それらの旧臣を率いて織田信長へ引見を願いでた。

だが、信長に相手にされず失意のうちに京都へ去っている。

しかし、そのまま置き去りにされた旧臣たちは織田氏により深志城主とされている木曽氏との関係が悪化してしまい、旧臣たちは

しばらくの間、中塔城へ入り籠城している。そして木曽氏の家来の古幡氏と西牧氏(武田氏没落時に木曽氏に内通している)

は小室原等で小競り合いをしている。

『岩岡家記』は9日間取り合いをしたと書かれており、『二木家記』には20日間余り中塔城へ追い上げられたといっている。

その後、旧臣たちは木曽氏に人質を出し許されている。


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北尾根の先端部は鉄塔建設により詳細は分からないが、麓の中塔集落からの道が通じておりこの辺りにも防御施設などがあった

のではないだろうか。


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城跡で鉄塔を下から眺めるのが好きなんです  !(^^)!

その後の歴史に中塔城が出てこないので織田氏が滅び、その間隙をぬって復帰した小笠原貞慶により府中周辺を平定された

事により安定し、中塔城の存在意義が薄れていったものと思われる。

ただ今回、中塔城主とされる二木氏の領地から離れていることや、中塔城の歴史の中で周辺の土豪が立て籠もっている事実から

中塔城の管理をを周辺土豪での共同管理であったとの考えたが、天文3年(1534)の小笠原家譜代の家臣分限帳に『二木豊後守

重高』「(前略)、安曇郡二木村の城主、後、同郡中洞の城主となる。(後略)」とあることも事実で。。。。

本当のところは分かりませんね。


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北尾根の登城路(こちらも堀状になっています)

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現在のご城主さまにご拝謁できました。
  1. 2015/05/26(火) 04:43:59|
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