長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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千曲市   證城

山奥に眠る石積の砦

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荒砥城跡群配置図                 国土地理院2万5千分の1地図使用

所在地・・・・・千曲市若宮 

訪城時間・・・・荒砥城から約1時間

帰路、八王子山への尾根と荒砥城への尾根の分岐部分が分かりずらいのでマーキングしておくことがお勧め。

危険度・・・・★★★★☆

別名・・・・正城(千曲市指定史跡『荒砥城跡群・・・・・荒砥城・荒砥小城・若宮入山城・證城)


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荒砥城から見た城砦群

荒砥城跡群は、荒砥城跡・荒砥小城跡・若宮入山城跡・證城跡から構成されている総称であり、證城も荒砥城に関連する

歴史を持っていると考えられる。

本城と考えられる荒砥城は、この地を治めていた村上氏の一族である山田氏によって築かれたと伝わる城で、戦国時代

になると荒砥城と千曲川を挟んだ対岸の山頂に築かれた葛尾城の城主である村上義清は、上田原の戦い(1548年)、

戸石城の戦い(1550年)では武田信玄との戦いに勝っていたが、武田氏の圧倒的な軍勢の前に1553年ついに葛尾城は

落城し、その支城主であった山田氏も葛尾城に籠っていた為に討死し滅亡してしまった。

これにより荒砥城も城主を失った為に落城してしまう。


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證城遺構配置図  (宮坂武男著  信濃の山城と館と現地調査を参考に作図)


その後、川中島の戦い(1553~1564)を経て荒砥城は上杉氏により治められていたが、海津城の副将であった屋代秀正

は上杉氏に背き徳川氏に内通した為に、秀正は海津城を出て荒砥城に籠るが1584年上杉氏に攻められ落城して廃城と

なった。この上杉氏統治時代や屋代氏が籠っていた時代に證城も改修されて現在見られる構造となったと考えられるので

は無いだろうか。

地形的に見るとこの證城のあるピークは高所にある為に狼煙台とも考えられるが、この砦の本城であると考えられる荒砥

城も比高のある尾根先端に構築されており村上氏の葛尾城も見える事からわざわざこのような奥まったピークに狼煙台

を構築する必要性を感じない。


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郭④を見る。

荒砥城の後方の尾根を辿って行くとこの郭④に至る、この最前線となるはずの郭は幅は広いがほぼ自然地形であり

明確な遺構は長大な竪掘状の窪みだけである。

三島氏はこの自然地形の郭を駐屯空間として使用していたのではないかとしている。



三島氏は「中世城郭研究 第25号」で『(前略)、證城の築・廃城の経緯は明らかでないが

この城の東下方にある荒砥城が川中島合戦やその後の上杉・徳川氏との抗争に利用されているのでそれに関連して

築かれたと推定することも可能だ。ショウ城という呼称も荒砥城の大城に対する小城に由来する可能性も指摘される。』

としている。


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郭④に見られる長大な竪掘状遺構

この遺構は城域内の他の堀遺構よりきれいに残りすぎていることから、多くの研究者は後世の荒れや木を落とした跡では

ないかと考えている。


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郭④から見下ろした本城である荒砥城

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郭④からは村上氏の本城であった葛尾城や武田氏滅亡後に上杉氏と徳川氏との境目の城となった虚空蔵山城も遠望できる。

郭④は城内で最も眺望が良く、坂城方面などが一望できここが物見台としての役割を担っていた可能性が考えられる。

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郭①(本郭)の東南に開く虎口を見る。

郭①に設けられている虎口は周囲を石積みで守られていて内桝形状になり、郭④からの通路が入っている。

現状は虎口を守っていた石積みは崩れてしまっているが、往時は厳重な防御であった事が窺える。


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郭①内部から見た虎口

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郭①(本郭)を見る。

郭①は18×30mの長方形で、周囲を30cm~1m程の高さの土塁が取り巻いている。

特に南西尾根方向(郭②側)は高さが一番高くなっておりこの砦がどこに防御の主体をおいて構築されたかが窺える。


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低いながらも郭の周囲を取り囲むように構築されている土塁

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郭①の周囲の壁面にはほとんど崩れてしまっているが、石積みが見られる。

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防御の重点を置いている南西尾根方面には良く残る石積みが見られる。

こんな山奥の高所の砦に石を積む意味は何だったのだろうか?


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郭②から郭①(本郭)を見上げる。石積みが取り巻いている事が窺える。
郭①と郭②との比高差は約10~15mほどあり厳重な切岸の防御施設となっている。

郭①から鉄砲をうたれたら隠れる場所は無く、待っているのは死あるのみ。。。。。。。。(汗)


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郭②を見る。(奥に郭①が見える)

郭②は10×50mの長方形で丁寧に削平されており、尾根続き側には土塁と壁面に石積みが見られる。


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郭②の尾根続き側に構築されている土塁を見る。

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尾根続き側の壁面のみに構築されている石積みであるが、この石積みはそのまま南側のみ列となって斜面を下っており

敵の横移動を邪魔する防御施設として利用している。


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郭②から見れる抜群のロケーション。。。。。。。。。。一人だけど。。。。。(-。-)y-゜゜゜

この砦の存在意義が窺われますね。


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郭③から見た郭②の壁面

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郭②から見下ろした郭③

郭③より先には城郭遺構は見られないことから、この郭③が敵に攻められた際の證城での最前線となる郭である。

三島氏は兵員配備用の塹壕ではないかと推測している。


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郭③の壁面に構築されている石積み

往時は尾根続きから見た敵は、郭③・②・①の壁面に構築された石積みを見てかなりの圧迫感と恐怖感を感じたことであろう。

尾根続きには姨捨山にある坊城と呼ばれる烽火台が存在するが、この烽火台が敵の手に渡った事を想定しての防御なの

か現在では確認できない尾根道が存在し、これに備えての防御なのかが分かっていないので、これから解明が必要な

課題であろう。


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郭①から発生する3本の尾根の一つである北尾根は、他の尾根と違い急斜面で険しいものとなっているが、ここにも砦内

唯一となる堀切が見られる。


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小規模な堀切ではあるが、細尾根や急な傾斜を取り入れて防御力を増す構造をとなっている。

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荒砥城跡群の全景を見る。

證城はいかがだったでしょうか。

歴史がはっきりしていない砦である為に、遺構の写真が中心となり長くなってしまいましたが、このような山奥に今でも

素晴らしい遺構が残っている砦がある事が伝わり、興味を持っていただけたらうれしいです。

なお。。。。。この訪城写真。。。。。2009年の時のものなので若干、籔が進んでいたり石積みが崩れてしまっている

可能性があります。


*證城への尾根は昔に山火事があり灌木類の籔となっています。山登りや経験の浅い方はお勧めしません。

地形図やマーキングテープ・方位磁石などは必ず持って行きましょう。
  


~ 参考文献 ~

信濃の山城と館           (宮坂 武男)

中世城郭研究 第25号  『葛尾城と周辺の山城』(三島正之)    (中世城郭研究会発行)
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  1. 2014/11/25(火) 22:24:53|
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