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長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

生坂村  日岐氏・丸山氏について②

第2回目は・・・・・・日岐氏についてお送りしていきたいと思います。

基本的に資料が少ないのでわからないことが多いですが出来るだけ書いていきたいと思います。

なお・・・素人ですので間違えがあるかもしれません。。。参考程度に見て下さい。


            ~ 日岐氏について ~

日岐氏の発祥は、安陪任清や仁科盛遠の祖父 仁科盛弘が末子を盛生を伴って日岐に隠居し日岐氏を称した。

その後、日岐盛生の流れは中絶したといわれている。

(なお、盛生は盛弘が隠居後に日岐で生まれたとする説もあるようである。)


その後、丸山政友の子 筑前守盛教が日岐氏を称するようになった。

その盛教の子がよく日岐大城の戦いで出てくる日岐丹波守盛武(盛次に比定)と盛直(盛正に比定)の兄弟で、

日岐盛直は、日岐大城と万平の館を守り、日岐盛武は日岐城と殿屋敷という説とその逆の説もあるが、

兄弟が協力して守っていたのは間違いないようである。
             
 *①
日岐盛次(盛武)は、天文22年10月武田氏の侵攻を受け神明の森から万平・下生坂の地に戦いを展開したが、

塩尻峠の戦い以来、武田氏の為に多くの主将を失った日岐城は陥落し、丹波守盛武は八幡(千曲市)に落ちたが

後に武田氏に属した。

永禄10年には仁科十将の一人として生島足島神社に起請文を提出して武田氏に忠誠を誓っている。

*②
天正10年、武田氏滅亡の機に乗じて日岐盛直は日岐盛武や同族の日岐上総守盛広の協力と上杉氏の加勢を得て

旧領奪還に成功し、日岐盛武を上杉方の日岐大城城代として在城させ、盛直は稲荷山城(千曲市)に在番していた。

*③
深志城に回復した小笠原貞慶が周辺の土豪の討伐を始めると天正10年9月日岐にも貞慶の軍勢が押し寄せ日岐

盛武の守る日岐城・大城を陥落させた。

小笠原氏に敗れた盛武は八幡(千曲市)に敗走したが、小笠原貞慶は日岐盛武の妹で穂高内膳の妻南姫を捕らえ、

盛武と穂高内膳の帰参を説得させようとしたがうまくいかなかったので、貞慶は誓紙を出している。

これにより、日岐盛武は小笠原貞慶に帰参し旗本大将となり、押野之内納万疋の地を宛行われ引き続き旧領の

日岐一跡・大穴等都合二百三十貫文を宛行われている。

一方、日岐盛直は天文12年上杉景勝に属している八幡の神官 松田民部之助の嗣となり、松田織部佐を称し

稲荷山城に在番して七百六十石を給されている。


注記

*①・・・・「信州の山城」では、「高白斎記」に武田氏による
日岐攻めの記事はなく、天文19年7月15日の項に「仁科道外(盛康)出仕」とあるので主家の仁科氏が武田氏に
投降した為、日岐氏も降服したのであろう。としている。


*②・・・・「生坂村誌」では、小笠原氏の日岐攻めは盛武が
前面にたって戦っている。これについては、盛直がすでに上杉方として千曲市の稲荷山城に在番していた為に
盛武が戦ったという説がある。しかし、盛直が稲荷山城主となったのは天正12年6月八幡宮の別当職を宛がわれ
松田織部亮盛直と名乗った時からであり、天正10年の日岐攻めの頃に上杉景勝から日岐の地を安堵されそのうえ
安曇郡池田郷・滝沢・萩原・細野・松川の諸郷と筑摩郡の潮の地を新たに知行されていて、10年12月景勝から
「信州一変の上、先判の所」と注をつけて盛直に所領安堵を約束している。さらに11年盛直が潮神明社に神田を
寄進している。これらのことから盛直は八幡に逃れたのではなく、上杉氏の配下として日岐のどこかで戦っていた
のではないか。としている。




*③・・・・「信州の山城」では天正10年3月に武田氏が滅びると
織田氏・上杉氏と支配したが、小笠原貞慶が深志城にはいると武田氏侵攻時に裏切った豪族の攻略を開始した。
これにより日岐大城にいた日岐盛直は6月上杉氏の元へ逃れ、生坂谷は盛武が守っていた。
貞慶は8月8日になると盛武を攻め13日には降している。
盛武はこれを聞き、日岐大城で盛武を説得し上杉方にさせている。とある。


「生坂村誌」では貞慶が日岐氏を攻めた理由を因縁ではなく、上杉氏の配下となっていた日岐氏が邪魔な存在で
あり、日岐の地を手に入れたいという願望が強くその為に日岐攻めが行われたのではないか。としている。


            ~ 日岐氏関連史跡 ~

日岐氏墓所

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日岐城主の居館跡の裏にある丸山盛慶開基の正福寺跡にある日岐氏の墓である。

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日岐氏の墓とは言われているが宝筐印塔と五輪塔の残欠の寄せ集めであり、完全なものは無い。

天神社跡

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日岐最大の神社だった天神社跡でこの神社は日岐氏の信仰があつかった。
説明板にある日岐盛貞が奉納した天神画像などは現在日置神社に保存されている。
(神社跡は日岐公民館前にある)



      ~ 天正10年小笠原氏による日岐攻め ~

日岐城攻めの状況については色々な資料があるが、「生坂村誌」を中心に書いていきます。

日岐城攻めについては小笠原氏側の文献資料だけしか残っていない。

小笠原家編纂の「笠系大成附録」の「御書集」に載る犬飼半左衛門久知らにあてた貞慶の書状五通と、

「岩岡家記」「二木家記」などでありそれらを総合してまとめてみる。

この戦いは、松本犬飼城主の犬飼久知と明科塔ノ原城主海野三河守を先鋒大将として開始された。

これより先、日岐城勢が塔原口へ戦いを挑んできたのでこれを迎えて戦い、穂刈監物が矢傷を負い川船次左衛門

が鑓で突かれ、岩岡織部が抗戦して敵を防ぎ、手負い人や戦死者を引き取って引き上げるという前哨戦があった。

ついで八月八日は本戦となる日岐城攻めが行われることになる。

塔ノ原城から北方の赤岩へは小笠原山城守長継・溝口定康が兵士を五手に分けて軍を進めているが、この隊は

日岐氏の南方の最前線にある中野山城などを攻撃したものと思われる。

九日には小笠原出雲守頼貞や百束氏らも援軍として府中を出発している。

この援軍は穂高に在陣じている古厩氏や渋田見氏ら旧仁科衆らと共に池田方面から中山城・白駒城などの日岐城の

搦め手側から進軍している。

一方、会田方面へは赤沢式部少輔を派遣し、青柳頼長勢が北方から小笠原勢を攻撃してくるのを牽制している。

また、大町方面からは牧之島の上杉勢を牽制する仁科勢らも差し向けている。

八月十日の貞慶の書状には、日岐盛武が降参を申し出てきているが、これをとりあげることなく断固として戦う

決意を表明している。しかし、日岐氏の抵抗が激しく長期化し、開戦から二十日経った八月二十九日の書状には、

日岐城の大手口からの攻撃準備が整ったので、日岐城の者共も退散し落城するだろうといっている。

しかし、日岐城は落城せずに月を越えている。そしてついに九月六日の書状では、貞慶自身が七日に出馬する旨

を伝えている。「岩岡家記」に貞慶の本隊が、西口の平出から東に向けて進んでいると、日岐勢が貞慶の本隊の

後方を襲う為五十騎で登波離に向けて日岐崎を船で乗り越えてきたので、後陣の味方の雑兵が応戦し、日岐勢

二十騎程を討ち取った。登波離橋詰めで日岐勢を追い崩したので、日岐勢は犀川へ走り、船を捨てて川へ逃げ込ん

だので流れ死ぬ者や泳ぎ這い上がる者もでた。

貞慶の命令で有無をいわず川を越して追うように下知されたが、人馬は川の深さに抗せず引き返した。

岩波・岩岡らは何とか中州までたどり着き、古厩・今井は徒歩で渡ったが岩波は矢傷を負い岩岡は馬の口取り人足

の物が鉄砲で撃たれたので、ようやくその場を脱したとして伝えている。

貞慶の出馬が書状通り九月七日だったと見れば日岐城落城は九月八日あたりであったかと思われる。

こうして小笠原貞慶による日岐城攻めは約一カ月かかったことになる。

この戦いを「岩岡家記」では、「未ノ九月、日岐ノ大城御責被成候御積ニテ深志衆赤岩ヘハ山城殿・

溝口殿人数合五手被仰付候、牧之島口ヘハ仁科衆二手、出雲殿・岩波平左衛門、都合五手ノ衆、御旗本衆弐十騎

ニテハ、平井口ヲ御オシ被成候時、跡ノ道トワリオトシヘ、日岐ヨリ足軽五十騎バカリ船ニテ日岐崎ヲ乗越、

味方ノフマルヲ備オシノ跡ニテ弐捨計討申候ニ付テ、御備ノ衆ミナミナ乗返シ、トワリ於トシ橋ノツメニテセリ合

日岐衆ヲ追崩シ申候ヘハ、船ヲハ捨、川ヘニケコミ、流候者モ御産候、オヨキハイアカリ申候」とある。

なお「池田町誌」では、日岐盛武は、落城に際して以前から貞慶に通じていて、戦いのあと貞慶の手をかりて

水内郡芋川城を攻めて手柄として降っている。この以前から通じていたという根拠は、日岐大城攻囲中の八月

十一日付けで貞慶は盛武に対し、兄(盛直)の領分まで日岐一跡は盛武に与えてるという安堵状を出している

ので通じていたのであろうと書かれている。(このあたりの解釈は資料によって違いが見られる)



以上、2回に分けてお送りしてきた丸山氏と日岐氏いかがでしたでしょうか。
資料により見解の違いなどがありまとめきれていない場所や間違いがあるかもしれませんが笑ってお許しください



少しでも日岐氏や丸山氏について興味をもってもらえたらうれしいです。



~参考文献~

生坂村誌       (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士      (丸山 楽雲     平成21年)

池田町誌       (池田町誌編纂委員会 平成4年)

信州の山城      (信濃史学会    1994年)
  1. 2012/07/18(水) 03:32:13|
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生坂村  日岐氏・丸山氏について①

              ~ 丸山氏について ~

今回は、丸山氏について素人ながらまとめてみました。
(素人ですので間違いがある可能性がありますのであしからず。。。(;一_一) )


中心資料としては「信濃古武士」を使用し、違う説などが書かれている資料がある場合は、注記として
最後に書くようにしています。


日岐大城城主丸山氏は、桓武平姓仁科氏で仁科盛忠の弟 盛光が文和2年(1353)頃に日岐六郷を領し丸山地籍に 
                              *①  
  
居館を構えて丸山氏を称したのが始まりとされている。

その後、丸山盛衡 ・ 盛恒 ・ 盛長と続いたが盛長に男子が無かった為、明応3年仁科明盛の二男 将監盛慶

を養子に迎えている。

明応3年は盛慶の元服の年で、妻は青柳氏から迎え、母は小笠原清宗の娘であったので、仁科宗家同様に

小笠原家旗本首班に列し、肥後守に任じられて三千貫文・九十騎の分地領主であった。
              *②
この肥後守盛慶は、明応3年に裏日岐に月松山正福寺を開基し、成就院を中興している。

降って大永元年には松本市笹賀神戸に長松寺を中興し、神戸の将監屋敷に盛慶の三男の肥後守盛直(貞清)を入れ

ている。(なお、盛直は日岐の城主として小笠原長時の為に野々宮合戦に出陣し天文21年9月12日に卒している)

盛慶の三男 筑前守政友は、高松薬師城・中野山城・小池城の城主で日岐丸山氏の家老をつとめていたが、

日岐城主で(丸山氏当主とされている)政友の弟の丹波守盛直が病の為陣代として天文18年二十騎・足軽五十人を
     *③
率いて桔梗ヶ原の戦いに参戦し、小俣(松本市笹賀)の筑前屋敷周辺に布陣し武田軍と戦ったが、武田方の

小幡孫次郎の為に打取られた。

また、政友の弟(四男?塔の原小丸山城主とされる)の将監盛古は、政友の幕下として神戸の長松寺付近に布陣

したが戦いにおいて深手を負ってしまい上鳥羽(安曇野市)の小庵で養生し、従弟の真々部尾張守に介抱されて

いたが落命している。


日岐城主で丸山氏当主の盛直は、二木豊後の四男 清蔵を養子として迎え丸山将監盛真と称した。

この将監盛真が丸山氏中興とされ、武田氏時代は本家仁科氏が武田氏に降っていたので丸山氏も従って武田氏に

降った。小笠原貞慶が梓川の金松寺に現れると盛真と子の貞政・貞広は小笠原氏の深志城回復や貞慶上洛のため

の用度調進等の功績により、貞慶の御諱名一字を天正16年に賜り、小笠原家の親族としてこの系統が日岐丸山家の

嫡流として主家小笠原家に認知されている。
      *④
なお、天正10年の小笠原氏による日岐攻めに際しては、未だ帰参に戸惑っている旧臣日岐氏の心情を察し、

丸山将監一門には軍令を発しなかった。

その後、丸山氏は小笠原氏の古河移封や飯田移封に従っている。


〈注記〉
*①・・・「信州の山城」では、日岐氏は仁科氏の分流で仁科明盛の二男 盛慶が大町から生坂谷に進出し、
日岐城主となって丸山肥後守と称した。とある。


*②・・・・「生坂村誌」には明応年間(1492~1500)に盛慶が婿に入り丸山肥後守を称し、日岐に臨済宗
成就院を建て、のち天文9年成就院を平出に移して曹洞宗の成就院としたと伝える。とある。


*③・・・桔梗ヶ原の戦いについては「塩尻市誌」では天文14年(1545)6月14日武田晴信、桔梗ヶ原において陣を進める。熊井の城自落し、小笠原の館に放火する。(高白斎記)
15日桔梗ヶ原において、勝鬨を上げ、翌16日帰陣する。(高白斎記)とあり戦いがあったとは記されていない。

「池田町誌」では、天文14年4月14日に桔梗ヶ原で小笠原軍と武田軍が小競り合いをし、武田軍は近辺の村々に
放火し、更に熊ノ井城も自落したので、桔梗ヶ原で勝鬨をあげて帰陣した。とあり「高白斎記」を参考にしている
と思われるが、月と小競り合いをしたという文が追加されている。

「武田信玄と松本平」では、桔梗ヶ原の戦いの伝説を造ったのは「甲陽軍監」であるとし、甲陽軍監の中で
天文22年5月6日信州桔梗ヶ原において、小笠原長時衆が三千騎で出てきて、武田軍と合戦をした。という記述
があるが、小笠原長時は天文21年大みそかに武田氏に深志を追われて中野市の草間に向かっており、以後信州には
帰ってこなかったし、勢力的に見てもこの年に三千騎を動かすことは出来なかったはずで、したがって、この年に
武田方の支配するところであった桔梗ヶ原で合戦することはあり得ない。とある。

この三つの資料の違いは、年月・甲陽軍監と高白斎記との参考資料の差・合戦があったか無かったの差である。
素人なので発言は控えるが参考として挙げておく。


*④・・・・小笠原氏の日岐攻めの頃には丸山氏は現在の安曇野市
吉野に居たようである。(日岐攻め後に日岐盛武に小笠原氏は押野・日岐一跡・大穴等都合二百三十貫を宛行われ
丸山盛真の子 丹波守政勝の居館である吉野に新たな本領を給される(笠系大成・二木家記など)とあり吉野の
居館に丸山氏が居たことがわかる。



~ 丸山氏関連史跡 ~

♦ 正福寺跡 ♦

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丸山盛慶が開基したとされる正福寺跡の標柱と説明板

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寺跡の入り口にある結界石

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正福寺跡
(殿屋敷の上の台地にあり広大な平場である。かつては日岐城の大手道に面していたので戦時は居館と城の
中間の砦の役割も担っていたのであろう。現在は栗が栽培されていてのどかである)
 


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正福寺歴代住職の墓
歴代住職の墓の中には戒名に正福寺の字が入っているものも見られる。
 


♦ 成就院 ♦

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丸山盛慶の中興開基とされる池田町平出にある成就院

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寺にある寺の沿革の書いてある看板

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裏山にある歴代住職の墓所
成就院は山城探訪によると平出城という城跡であるとされている。
この墓所の裏の山は水上遺跡であるという。


以上、丸山氏について書いてきましたがいかがでしたでしょうか?
資料によって書いてあることが微妙に違う為中々まとめきれませんでしたがお許しください。
次回は、日岐氏について書いていきたいと思います。
お楽しみに!

~参考文献~

生坂村誌      (生坂村誌刊行会    平成9年)

信濃古武士     (丸山 楽雲      平成21年)

池田町誌      (池田町誌編纂委員会  平成4年)

信州の山城     (信濃史学会     1993年)

武田信玄と松本平  (笹本 正冶     2008年)

塩尻市誌 別冊   (塩尻市       平成7年)

池田町の遺跡    (池田町教育委員会  1994年)
  1. 2012/07/15(日) 21:24:54|
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生坂村  宇留賀氏について

生坂村の宇留賀周辺を紹介していますので、ここで宇留賀氏についてわかる範囲で紹介したいと思います。

ただし、地方の小豪族なので残っている資料も少ないのでわかっていることも少ないですがお付き合い下さい。


宇留賀氏の所領は現在の生坂村広津の宇留賀に本拠を置き、金熊川下流域を支配していた豪族である。
宇留賀氏の初見は「大塔合戦記」で、応永七年九月の更科郡大塔付近で行われた大塔合戦で、
宇留賀氏は仁科弾正少弼盛輝の配下として大日向氏と共に戦っている。

宇留賀氏は定紋に上羽蝶を使用し支流のようであり、「渋田見系図」には、
「勢州ヨリ信州ニ来ル時、従属シ来ル旧臣三代 宇留賀能登守教経ノ孫也ト云」
とあり伊勢国から信州に移住して、仁科氏に仕え仁科家所領のうち安曇郡宇留賀村を領して宇留賀氏を称した。

「生坂村誌」では、鎌倉時代に大町仁科氏が一族の仁科六郎隆俊を宇留賀に送り込み宇留賀氏を名乗らせたという伝承をのせている。どちらにしても仁科氏の関係した氏族が宇留賀氏を称して仁科氏の北方の拠点として守っていたものと思われる。

天文二十年(1551)武田氏来攻の時の伝承として、宇留賀城主宇留賀四郎兵衛が武田氏と戦おうとしていた時、
家老の井口氏が裏切り宇留賀四郎を追放し武田氏に降ってしまったと伝えられている。

その後、宇留賀氏は安曇郡等々力に土着し宇留賀四郎の子孫、宇留賀与兵衛は、天正十年(1582)に小笠原長の三男貞慶が府中深志城を回復すると小笠原氏に仕えるようになり、筑摩、安曇両郡の平定戦に士大将として転戦している。

資料には、天正十二年(1584)四月の貞慶の麻績城攻めに、犬飼久知の部将として宇留賀与兵衛が活躍しており、
天正十八年(1590)六月下旬の豊臣秀吉の武蔵八王子攻めの時、貞慶の子、貞政(秀政)に従属していた宇留賀与兵衛は貞慶から戦況を伝える書状を受けており、小笠原氏から厚遇されていたことがうかがえる。




            ~宇留賀氏・井口氏関連遺跡~

井口氏五輪塔

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現在、宇留賀氏(井口氏)の五輪塔といわれているものは生坂村の文化財に指定されている。
ここには井口氏=宇留賀氏とあるが・・・宇留賀四郎を追放した後井口氏は宇留賀氏を名乗ったのであろうか?
そこのところを詳しく書かれている資料が無いのでわからないのであるが?


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説明板には宇留賀氏の五輪塔・標柱には井口氏の五輪塔・・・わからん。
「生坂村誌」によれば、この五輪塔は宇留賀才光寺の井口氏屋敷地にあり(宇留賀城下より移した)、安山岩製で高さ約120cmの大きいもので、形状が大変整っていて室町時代中期と推測される。
大きさからみて名のある武士か僧侶のものであろうとしている。


才光寺跡

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この才光寺は八坂村の覚音寺の坊があったといわれていてこの寺跡に井口氏の五輪塔がある。
八坂村といえば・・仁科氏の勢力範囲であり、宇留賀氏も仁科氏関係の氏族であるのでその関係でここに覚音寺の坊があったのであろうか?
ここに五輪塔があるということは、宇留賀氏もしくは井口氏の菩提寺であったのであろうか?


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才光寺跡を見る。奥にある藪の中に五輪塔・毘沙門堂がある。

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寺に関係する石仏・卵塔が残る。 

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寺跡には古い五輪塔の笠が残りこの寺の古さがわかる。 

会の宝筐印塔

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村の指定文化財となっている宝筐印塔である。
宝筐印塔のある会は宇留賀の枝郷であった。
「生坂村誌」によれば、「正長元年」、「嘉吉三年」、「盛重」、「蔵之進」などの陰刻銘があり、字形や彫りの状況からみて刻字は室町時代とするには疑問が残るが、塔の形状からは室町時代の早いころの造立とみてよいようにおもわれ、宇留賀氏または家臣の牛越氏のものと思われる。
宝筐印塔のある場所は、牛越氏の墓地の中にある。


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とてもじゃないけど・・・読めん。でも・・「盛」の字くらいは読めます。(#^.^#)

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左の物は完存・右の物は寄せ集めですな。
でも・・500~600年前のものが残ってるってすごいですよね!


才光寺の毘沙門天像

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この毘沙門堂にある毘沙門像は高さ八十六cmほどで木造ヒノキ材寄せ木造りの彩色像であるが、
宝塔を捧げる形はとらず鉾を持つ異形である。
かつては宇留賀氏居館跡に安置されていたものであるが、井口氏により才光寺跡に移された。


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毘沙門天像は室町時代後期の彫制と推測され、宇留賀氏にゆかりをもつと推測されている。

以上、宇留賀氏に関係すると思われるものをアップしてきましたが、少しでも地方小豪族宇留賀氏を
御理解いただけたらうれしいです。 (*^^)v   
 



~参考文献~

生坂村誌         (生坂村誌刊行会  平成9年)

生坂村誌 文化財編

目で見る郷土の誇り生坂  (生坂村誌刊行会  平成2年)
  1. 2012/06/09(土) 04:51:49|
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生坂村  大日向(方)氏について

さ~・・高見の居館・城坂屋敷・馬場跡と大日向氏関連を見てきましたが、大日向氏とはどんな人たちだったのでしょうか。
一応、わかる範囲で調べてみましたので紹介したいと思います。



               ~大日向(方)氏について~



大日向氏は、応永七年の大塔合戦に近隣の宇留賀氏と共に仁科盛輝の旗下として反小笠原方として参戦している。

大日向氏初代 長利は井川城主小笠原貞朝の四男であったが父の貞朝と意見が合わずに貞朝の元を去った。

その後、仁科氏に仕えるようになり安曇郡大日向村に住んで在名を名乗り大日向氏を称した。

室町中期になると、水内郡牧之島城主の香坂氏の招きの応じて大日向の地を去り、水内郡小川村にあって

下末に住んだので下末大日向(方)氏と呼ばれるようになった。

この頃は武田氏に属していたが、武田氏が滅亡すると上杉氏に従うようになり各地を転戦していたが、

慶長三年(1598)の上杉景勝の会津移封に随行せず、元和八年(1622)に真田氏が松代に入封すると

その家臣となり200石を与えられたが致仕して帰り、以後は郷士の待遇を与えられ明治に到った。

小川村下末の大日向氏の居館は真那板城と呼ばれていて現在も子孫の方が住んでいる。

なお、大日向家には、応永七年大文字一揆党の目標として掲げた「大」文字入旗一流が所蔵されている。



『大日方系図』 上水内郡小川村高府  大日方英雄家所蔵によると・・



源長利(大日方小五郎) _____ 直政(讃岐守民部小舗) ______ 直忠(主税助弾正小弼)
      (改 長政)                 (信龍斎)                    (美作守)

となっている。(この系図に疑問を持っている資料もあるが・・。)



                  ~大日向氏関連史跡~

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彦左衛門屋敷近くにある大日向氏の氏寺玉泉寺跡の説明板

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玉泉寺跡へのあぜ道
(奥には砦跡とされる城平を見る。)


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少し高台にあり現在は畑と墓地になっている。
(遺構は見られない)


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古い宝筐印塔の笠を見る。

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他にも五輪塔・宝筐印塔の残欠も見られ、この寺の古さがうかがえるものの、大日方氏の物は伝えられていないようだ。

(一番下の写真の墓石の下から人骨が出ていてビックリ!いつのものだろ。。) (>_<) 


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こちらは大日方氏の居館とされる内城近くにある氏寺とされる常円寺跡の説明板です。
(大日方氏には何故、氏寺が二つもあるのであろう。。。?)


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現在は、分校跡、畑になっていて石仏・墓碑が藪の中にあるのみである。

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寺跡にある分校の建物・・・ただの・・廃墟でした。不気味だ・・。

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高見の居館近くにある古い墓所である。

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ここにも混在した五輪塔の残欠が見られる。



               ~その他の周辺宗教施設~

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大日方神社を見る。

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高見の居館近くの阿弥陀堂を見る。

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地蔵堂を見る。

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内城の中にあったと思われる阿弥陀堂跡を見る。

この台地上には氏寺の二つ以外に、大日方神社・延命地蔵堂・阿弥陀堂など宗教関係のものが見られこの地がかつては
かなりの財力と宗教観をもった地域だったことがうかがえる。
大日方氏によるものであろうか。


~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会    平成9年)

池田町誌    (池田町誌編纂委員会  平成4年)
  1. 2012/06/02(土) 22:33:07|
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松本市   会田氏について…②

海野系会田氏に続いては・・・会田岩下氏について書いていきたいと思います。

海野系会田氏が会田の郷を去り、海野一族の岩下氏が会田を知行するようになったのが、「信濃史源考」では、応永年間とし、「四賀村誌」では文明年間としている。
岩下氏は、海野信濃守幸遠の二男、豊後守幸忠が小県の岩下に住して岩下次郎と称したといい(望月・矢島二氏系図)あるいは、幸遠の孫、海野宮内大輔幸房の二男、岩下豊後守幸実であるという説がある。 
「滋野三家系図」では、海野幸義の弟を岩下豊後守幸久とせり、一説に会田小次郎中絶の時、岩下玄蕃と云う人、会田虚空蔵山城に居り、岩下豊後の位牌広田寺に在り、豊後は、海野小太郎幸義の弟なり。「信府統記」には、広田寺は永正中、岩下豊後の建立と伝える。
会田岩下氏の系統について「信濃史源考」には、会田に岩下氏あり其の後、岩下豊後、岩下監物住せり。
岩下玄蕃、会田城に居住し其の後、豊後と称すとある。豊後と玄蕃は同一人物のようである。
その後、天文年間まで詳しい資料は無く、天文二十二年、武田氏による四賀地区への侵攻を「高白斎記」でみると、「三月二十九日深志ヲ御立、午の刻、刈谷原へ御着陣(中略)、四月三日、会田虚空蔵山迄放火」とあり、その後の会田虚空蔵山城の攻防等が記されていないので、会田氏は戦わずに降参したようであり、永禄十年八月七日、生島足島神社に於いて武田信玄に起請文を出した諸将の中に、岩下幸実・岩下長富・岩下幸広の三名の名がある。(ただし、全員が会田の岩下氏かは不明)また、「笠系大成」に郷士として、岩下筑前守・備前守・丹波守・源太・監物・志摩があり、岩下家家老として堀内越前守の名も記されている。
当時、武田家における岩下氏の軍役は十騎で武田逍遙軒に属していたようである。天正十年、武田氏・織田信長が滅ぶと深志城に小笠原貞慶が戻り、武田氏侵攻時に武田方に寝返った豪族を攻め始めると、会田氏は、小笠原氏との対決が避けられないのを知り、上杉氏の支援を得て矢久に砦を構えてこれに籠った。
この時の領主は、会田小次郎廣政(または広忠)であったが幼少であったので家老の堀内越前守が戦ったが、越前守は討死し砦は落城してしまった。領主の小次郎は逃れたものの青木村の十観山で自害したと伝えられる。


              ~会田氏関連遺跡~

koudennzisiag1.jpg


会田氏といえば・・ここ広田寺ですね。
広田寺は、会田氏の菩提を弔うために現在地に伽藍を移した寺院で、前身は知見寺である。知見寺は、会田岩下氏により中興されたが場所は東の山を越した知見寺と云う所にあったが、小笠原氏に焼かれてしまい、住職が岩下豊後の位牌をもって逃れ知見寺を広田寺として再中興したといわれる。また、永正年間(1504~1520)、小笠原氏の菩提寺として知られる里山辺の広沢寺4世雪江玄固の開山ともされる。


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別にお寺が趣味ではないが・・厳格な雰囲気がすきだな。!(^^)!

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本堂です。もちろん海野氏系の菩提寺なので六紋銭ですな

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殿村遺跡の発掘報告会の資料に広田寺にも古い宝筐印塔があるとの記載があったので・・・苦労して探しました(^_^;)雨の中、お墓をうろうろしてる不審人物が・・・通報されなくてよかった。。。お寺の古さがわかりますね。

P3235234.jpg

会田氏といえばこれかな。会田塚ですね!他のサイトさんにも詳しく書かれているので軽く書きます。
「広田寺過去帳前書」には、会田殿の御軍衣・御軍具を埋め奉り会田塚と称すなり」とあり、遺体の替わりに身に纏っていたものを埋めたことが分かる。


id10.jpg

最近注目を受けているのがここ・・(仮)長居原遺跡です。
会田虚空蔵山の麓知見寺沢沿いにある永井原といわれる平地があり、昭和50年代まで畑や荒れ地になっていた場所である。


do2.jpg

文禄三年の「会田郷往古之略図」には、「長居原」・「軍さの稽古場」などの記述がみられる。

id4.jpg

中世の信仰関係の遺跡群の可能性もあり、平成22年からは東海大学考古学研究室が石積みの測量を開始している。
(知見寺沢の関係からここが知見寺跡では・・・との話もあったが・・どうでしょう。)


もうひとつついでに・・会田地区の遺跡地図にしか見られないけど・・旗塚があります

mi6.jpg

現在、旗塚といわれているのは三峰社のある尾根と無量寺横の尾根・広田寺裏の尾根の三か所です。
今回紹介するのは「三峰社上の旗塚」といわれている遺構です。


sigamuramitumine1.jpg


尾根を登るとこの三峰社がありここからさらに尾根を登ると・・・

sigachikumitumine2.jpg


このような塚が確認できます。確認できた確実なものは8ヶくらいだったかな。
場所的に確かにそれぞれの場所は威嚇には効果的な場所ではあるが・・本当に旗塚ってあったのかな~。
教育委員会の講演会では、旗塚ではなく、三峰社・無量寺・広田寺の近くにあることを考えると宗教施設の十三塚ではないかとの説も出ていたけど・・これいかに?


会田氏についてご理解いただけたでしょうか?次回からはまた会田氏関係の城郭を紹介したいと思います。

~参考文献~

四賀村誌  (四賀村役場 昭和53年)

信濃史源考(6)  (歴史図書社  昭和51年)

殿村遺跡発掘概報  (松本市教育委員会 平成23年)

義民の里 青木村  (宮原 栄吉  昭和61年)
  1. 2012/05/15(火) 02:48:12|
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