長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市  二木氏

出自が謎な小笠原氏の重臣

今回は現在の安曇野市豊科の一部(住吉庄の一部)を支配した二木氏について調べてみたいと思います。

ただ素人ですので色々な資料に出てくる二木氏の事跡を時系列に並べる程度しかできませんが。。。。

この後に二木氏の居館跡などを紹介する関係で避けられないので、お付き合いください。




~ 出自について ~


小笠原貞宗は足利尊氏に随い信州各郡に北条に与力する武士を討伐し、その戦功として建武2年9月尊氏の判を以て住吉庄

の地頭職を与えられた。

※元々、住吉庄南部は西牧氏が地頭職として勢力を広げていたが、北条方として参戦したために勢力が衰退した。

貞宗の四男小笠原七朗政経は、住吉庄内の二ッ木郷の地頭職を分与され二ッ木郷に居館を構え、応永6年8月卒す。

その裔小七朗貞明は二ッ木に生まれ、二木を屋号とした。




「梓川村誌」では、「二木氏は元来西牧氏の氏人であったが、住吉庄が小笠原氏の支配に入って以来その被官となり代官的

地位につくようになったものと思われる。」とある。

これについては、天文21年の中塔城籠城時の「溝口家記」の記載の

『(前略)、かの小屋半年ばかり御抱え候、これによって二木の名字を下される由申し候、(後略)。』によるものかと思われる。

という事で、二木氏の出自については小笠原一族説と西牧一族説があることが分かる。





~ 二木氏の系譜 ~

『信濃史源考』では色々な資料から抜粋し二木一族の流れを書いている。



小笠原政経

・小笠原貞宗の四男『二ッ木の郷を分与され、地頭として二ッ木郷に居館を構える』

・応永6年8月卒。   戒名『実相院如玄真禄大居士』



二木小七朗貞明・・・・二木を称した。

・永享10年(1438)・・・・永享の乱の時、小笠原氏に随って鎌倉攻めに先鋒として出陣し兵3000を率いて鎌倉方の将上杉掃部佐と

戦った。

・永享12年(1440)・・・結城合戦で小笠原政康は陣中奉公を命じられ、手兵の陣番を定めた陣番帳の18番に二木氏がある。

・寛正6年10月卒。   戒名『独笑院観光長園法師』


二木七朗重明・・・・文明13年(1481)6月卒。  戒名『義昌院凌台長雲大禅定門』



二木六郎右衛門重基

『二木寿斎記』に重明と重基の時のこととして、

『此の父子の代に堀野藤次と云へる金堀の人、奥州より金荷を携えて上洛の途、信州路に掛かりしに乱世となり、美濃、近江両国

の路次梗塞せしかば、西牧の内なる田尻に住居し、妻子を有するに至れり。

其の一女を二木六郎右衛門重基妻とせり。其の後堀野藤次病死せしを以て、遺せし金荷財宝悉く二木家の取得に帰せり。

之より金銀に富み、有福の家となれり。』とある。



二木六郎右衛門重信

・大永6年4月7日卒。  戒名『大慈院永沢全久大禅定門』



二木豊後守重高

・重信の長男で永禄元年11月卒。  戒名『節香院松山全貞大禅定門』

6-1 二木豊後守重吉(万太郎・弥右衛門)

・豊後守重高の長男

・慶長18年5月卒   戒名『雄心院高山寿最大禅門』

6-1-1 二木八右衛門重次

・二木豊後守重吉の子

・小笠原氏の明石・小倉移封に従い移住


6-2 二木六右衛門盛正(牛千代・源三郎)

・豊後守重高の次男


⑦二木土佐守政久

・右衛門重信の次男

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川の墓地にある明治20年に子孫の方が再建した二木土佐の墓


7-1 二木万五郎(縫殿助)

・土佐守政久の長男

7-1-1  岩波平左衛門重直(貞重)

・万五郎の子

・岩波家を継ぐ

・慶長25年大阪の陣にて戦死


7-2 草間肥前守綱俊(源五郎)

・二木土佐守政久の次男

・武田氏が小笠原氏の府中を攻撃した際に草間肥前が討死し、後継ぎが無かったので草間氏の養子となる。

・武田氏時代の軍役は12騎


7-3 二木藤左衛門(孫四朗)

・二木土佐守政久の三男(子、九左衛門へと続く)

7-4   二木善左衛門(藤三郎)

・土佐守の四男

7-4-1 二木彦兵衛政実

・二木左衛門の子

・天正10年槍傷を負う

・八幡宮棟札に二木彦兵衛朝家と見られる。


7-4-1-1 二木勘右衛門政信(政成)

・兵衛政実の子

・小笠原秀政の家老を務める

・慶長20年大坂の陣で戦死



⑧  二木市郎右衛門宗末

・二木右衛門重信の三男

8-1 二木市右衛門宗久

・右衛門宗末の長男

・八幡宮棟札に二木市右衛門と見られる。


※その他の名前も見られるが細かくなるので、事績が分かるもののみなるべく記載しました。

『二木系図』


※この中で戦国期によく出てくるのが、二木豊後・土佐・草間肥前・岩波平左衛門です。


~ 二木氏の歴史の中の動向 ~


・永享10年永享の乱(1438)

二木小七朗貞明、西牧氏・熊倉氏と共に守護小笠原氏に従って鎌倉攻めに先鋒として兵3千を率いて鎌倉方の将上杉掃部佐と戦う。



・永享11年(1439)

小笠原政康及び二木貞明大夫持長大膳、自ら鎌倉攻めに至り此場先鋒を為す。

・永享12年(1440)結城合戦

結城合戦の時、守護小笠原政康は陣中奉公を命じられ、その手兵の陣番を定めた陣番帳に18番二木殿の記載が見られる

・天文17年(1548)塩尻峠の戦い

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塩尻峠の主戦場であったとされる勝弦峠と古戦場説明版

・西牧の衆・二木一門の者は山辺氏・三村氏が背いたので本道を引くことができないので、桜沢から奈良井へ出て、奈良井孫左衛

門の所で飯米の合力を受けて御嶽越え(鉢盛山)をしてようやく西牧へ帰ったとしている。(二木家記)

・『溝口家記』では西牧四朗左衛門と洗馬の三村駿河守が背いたと書かれており、二木家記との記述の差があり、町村誌の中に

は西牧氏と一緒に二木氏も小笠原氏に背いており、自分たちの悪い歴史を消したいがために二木家記には嘘の記述が書かれた

とするものも見られるが真相は不明。


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城尻峠の戦いに敗れた際に討死した小笠原氏方の諸氏を葬ったとされる首塚と胴塚

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塩尻峠の戦いに敗れた小笠原方が府中に撤退するのを追い討ちした際に打ち取った小笠原方の諸氏の物とされる寿の首塚

・天文19年(1550)野々宮合戦

村上義清が砥石城の戦いで武田晴信に勝つと、この機に乗じて小笠原長時は府中回復を目指し村上義清の支援を受けて平瀬

まで兵を進めた。

義清は塔原に陣をとり、長時は犀川を越えて氷室に陣をとった。

この時に二木豊後・土佐・六郎左衛門と子供4人・親類が出陣している。


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三郷の野々宮神社境内にある野々宮合戦古戦場の標柱


・天文19年~21年  中塔城籠城について『二木家記』では。。。

・10月・・・野々宮合戦で勝利を得た長時は、『天地に離れたる長時かなと仰せられ、兎角腹を切らん』と仰せられたので、二木豊後

が御自害を御とめになり、『このころ妻子を隠し置く所で、中洞の小屋と言って、一段と堅固の地を城郭に(後略)』といって長時を

諌め中塔城への籠城を進めている。

・11月・・・・二木豊後・土佐の被官の内3人が逆心を企てたので、これから武田晴信の朱印を取り上げてその一族16人を成敗。

・12月・・・・夜に小笠原長時と一族・側近・二木六右衛門・草間肥前は川中島へ退陣し、二木豊後・土佐・一門は中塔城へ残り、

長時が無事中野草間へ到着した報を受けると二木一族も川中島へ行き、長時と一緒に越後に赴いている。(2年間滞在)

・長時は越後を去り上方へ向かう際、二木豊後重高に『法を講じて晴信に属し、本領を維持して、予が他年本意を達するの日の

草の種となり呉れよ。』といい、重高はこれに服すとある。


~  中塔城籠城について『溝口家記』では。。。

この軍の勝利(野々宮合戦)を以て中塔と申す山小屋を取立て、物主に中務少輔(小笠原貞保)を指し置かされ候、この時二木の

祖豊後・土佐の兄弟御忠信、かの小屋半年ばかり御抱え候、これによって二木の名字を下さるの由申し候、然して(後略)。』

とある。

また、溝口家記では貞保を中塔城に入れ、長時自身は籠城せずに直ちに小県の村上へ退いたとしている。



~ 天文23年(1554) 二木氏武田晴信に降る ~

小笠原長時を上方へ送った後、二木豊後重高は嫡子の弥右衛門(重吉)と共に戸隠山に登り祈願をし神意の決定に従い、大日向

上総の館を訪れ武田氏に臣従することの仲介を依頼している。

豊後は大日向氏に甲州へ同道してもらい重臣の馬場美濃と相談し武田晴信に詫言を言っている。

晴信は『これまでの二木一門は憎き仕合といたが、以後忠節を尽くせば咎にもあらず』と言い許され被官となった。

その後、山県三郎兵衛に預けられ二木の本領を安堵され帰郷している。


~ 天正10年(1582) 織田氏の進出と木曽氏の裏切り ~

木曽氏の裏切りに怒った武田勝頼は木曽氏討伐の軍を起こし木曽を攻めさせたが、鳥居峠で木曽氏と織田氏に敗れてしまった。

その後、木曽氏は深志城を攻め城代馬場美濃守を降している。

その際、木曽氏方にいた古幡伊賀守は深志城内にいた二木氏・横田氏等を退散させ二木氏を中塔城へ移らせている。


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鳥居峠の説明版と峠への道を見る


~ 天正10年 小笠原貞慶現れる ~

武田氏滅亡に際して府中回復を狙った小笠原貞慶が梓川の金松寺に現れ譜代の臣を集めた。

そこには二木豊後・子の八右衛門・二木六郎右衛門・その子市左衛門・同源蔵・二木藤左衛門・その子九左衛門・二木善左衛門・

その子彦兵衛・二木縫殿助・その子岩波平左衛門・草間肥前・二木六右衛門の名がみえる。

貞慶は府中を制圧した織田信長に拝謁を望んだが拒否され失意のうちに上方へ去って行った。

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小笠原貞慶が旧臣を集めるために現れた金松寺


しかし、残された家臣はたまったものではなく、貞慶の為に働いた二木氏などの旧臣は織田氏に府中を任されていた木曽義昌と

関係が悪くなり中塔城へ籠っている。

木曽氏は家臣になっていた西牧氏や降幡氏に二木氏討伐を命じ、小室原などで戦っている。

『岩岡家記』には、9日間取り合いをしたと書かれており、『二木家記』では20日間あまり中塔城へ追い上げられたとしている。

その後、『二木家記』によると、木曽義昌の家老山村氏を頼って義昌に詫び、娘を木曽に人質に出して被官になったとしている。

~ 天正10年  二木一族、武田氏を見捨てる ~

天正10年2月16日に、古幡伊賀と西牧又兵衛が木曽へ内通し、甲州方の深志と縁を切り、近辺の郷中の者を駆り立てて大野田

夏道の砦に立て籠もった。

同じ日に、岩岡佐渡・織部も甲州方の深志と縁を断ち近郷の者を引き連れて中洞山(中塔城)へ立て籠もっている。

同17日に深志から乗り出してきて中塔城の者を14~15人打ち取っている。

19日には岩波平左衛門(二木縫殿助の嫡男)が甲州方と縁を切り中塔城へ移っている。

その後、夏道の砦にいた西牧氏・古幡氏と中塔城に籠っていた岩波平左衛門・岩岡織部が談合し、深志方と戦っている



~ 天正10年 小笠原雪斎、府中復帰時の二木氏 ~

織田信長が本能寺に滅ぶと、後ろ盾を失った木曽氏は上杉氏が擁立した小笠原貞種(雪斎)と共に上杉軍が近づくと上杉氏の

武威を恐れ府中を明け渡し木曽へ退去した。

ついに小笠原氏が府中に往還したことを知ると旧臣が集まりその中に二木豊後がみえ、また、本領を安堵されている。

木曽義昌は深志から木曽へ撤退する際に、安筑両郡の人たちの人質を連れ去っていた。

人質達は西牧氏や古幡氏が籠る夏道の砦へ入れられたので、深志方の二木六右衛門・彦兵衛・岩波平左衛門などが乗り込み、

砦を落とし人質を取り戻すと共に雑炊橋付近で切り合いが行われている。


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大野田夏道の砦の内部を見る。(臨時の砦であったようで郭の削平は甘い)

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夏道の砦遠望

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木曽氏と岩波平左衛門達が戦った雑炊橋

~ 天正10年  小笠原貞慶 府中復帰時の二木氏 ~

府中に入った小笠原雪斎は、上杉氏の家臣である梶田・屋代氏の傀儡となってしまっていたために、小笠原旧臣は期待を裏切ら

れ落胆した。

二木豊後は六右衛門と謀り、惣領である小笠原貞慶の所在を探り府中へ迎えることとした。

その頃、貞慶は徳川家康を頼って三河に潜伏していたため、有賀又左衛門・平沢重右衛門を密使として三河に派遣した。

貞慶は三河から伊那郡に入り、下条氏・箕輪氏等の兵を率いて塩尻に到着し、7月深志城を攻めて雪斎を追い出し、深志を

松本と名づけている。

二木一門・岩岡氏らは直ちに人質として妻子を深志へ移して奉公を誓っている。

~ 天正11年  西牧氏滅亡、二木氏西牧氏の領地の代官となる ~

天正11年の小笠原貞慶が二木豊後に宛てた書状には、二木氏が西牧領分の代官に任命されており、西牧氏の本領であった

西牧郷が小笠原氏の支配下に入っていることが分かる。

この頃には西牧氏は木曽氏方となり梓川渓谷の奥地にわずかに命脈を保っているにすぎなかったが、貞慶の書状には、木曽氏

との境目が落着したならば、稲核・奈川・大野川の代官を勤めること西牧領の梓川河西の白木・材木・薪は二木の市で商売すべき

であるとの命を下しており。

西牧氏が僅かに命脈を保っていた梓川渓谷も小笠原氏の支配下に入ることが目前となっていたことがうかがえる。

その後、西牧氏は梓川渓谷をも支えきれずに木曽へ逃亡し、土豪としての西牧氏は滅亡し木曽氏の配下となって命脈を保っている。


~ 天正10年  会田氏討伐 ~

『岩岡家記』によると、小笠原貞慶が府中に復帰すると旧四賀村(現松本市)を治めていた会田氏は、貞慶に反発し上杉方に内通

し上杉の援軍を得て新規に取り立てた矢久の砦に立て籠もった。

小笠原勢は明科と刈谷原の両口から攻めているが、雪が降っていたようで苦戦を強いられている。

二木氏は明科口を担っていたようで、貞慶から用心の指示や鉄砲の弾薬などが送られている。

その後、矢久の砦は落城し会田氏は滅亡している。


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会田氏の本拠であった殿村地籍と詰め城の虚空蔵山城を見る。

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会田氏が抵抗を試みた矢久砦


~ 天正11年(1583) 二木氏と日岐氏討伐 ~

現生坂村を治めていた仁科氏一族の日岐氏は、府中まで上杉氏が進出した関係で上杉氏に属し、貞慶が府中に復帰以降も

貞慶に帰属する意思を示さなかった為、貞慶による討伐を受ける結果となった。

その中で日岐在番中の犬甘氏に貞慶が送った書状の中に二木彦兵衛を遣わす。というような内容のものがが見られる。

この文書は赤沢氏・塔原氏・古厩氏の謀反が発覚し誅殺したことを報告したもの二木氏は使者の役割を果たしている。



~ 天正12年(1584) 二木六右衛門、貞慶から土地を宛がわれる ~


『今度忠信、無比類に付而、弐百三十貫文之所出置候、似此旨、軍役等弥不油断者也、仍如件、

天正十二年二月十九日  二木六右衛門とのへ                   貞慶黒印』

この文書は、天正12年2月19日小笠原貞慶が二木豊後の二男六右衛門に230貫文の土地を宛行ない、軍役等いよいよ油断の

ないよう励ましているものである。


~ 天正12年 二木氏要害千見城へ在番する~

天正12年小笠原貞慶が平瀬氏や草間氏などに出した文書があり、貞慶の配下として仁科衆が鬼無里を攻め取り、これを在番中

の犬甘・草間氏等に報じて備えを厳重にさせているもので、その中で交通の要衝である千見城を陥れていることが見られる。

その後の事を書いた『岩岡家記』には、千見城在番衆が書かれており二木八右衛門などの安曇郡の武将が動員されて

いることが見られる。


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千見城登城口

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二木氏達が在番していた千見城本郭


~ 天正12年 二木氏貞慶の元で働く~

天正12年4月に小笠原貞慶から犬甘半左衛門に宛てた軍令状に二木氏が出てくる。

内容として、上杉景勝が海津城へ出陣してきたので、貞慶が景勝の属城である麻績城を攻めようとして更級郡篠木尾へ、

犬甘久知を筑摩郡睡峠へ出動させたもので、書中に其元城中之衆とあり睡峠との関係から日岐大城の事を指すものと考えられ

犬甘氏とその配下についていた二木氏は日岐大城に詰めていたことが分かる。

犬甘氏の指揮下の物として二木清三と豊後・六右衛門も麻績城攻めに参加したが、小笠原勢は敗北し二木清三重次は鉄砲

二玉を受けてしまい負傷している。

※この中に出てくる二木清三は二木系図には出てこない為、どの人にあたるのかは分からないが、六右衛門の子の源蔵ではない

かと『北安曇郡誌』では推測している。


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京ケ倉から見た日岐大城

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犬甘氏と二木氏が在番した日岐大城の本郭

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二木氏達が出動した睡峠

上記の文書に続くものとしてさらに貞慶から犬甘氏へ出された文書がある。

内容としては、

上杉景勝が海津城から兵を引いたので、更級郡境の猿が峠・八幡峠へ兵を出して敵情を監視させ、見合を定めて峠に放火させて

いる。更に城普請に念を入れ、丈夫にできていて結構であること、次期を見計らって真田・佐久衆とも相談して川中島の上杉領へ

も攻撃をかけること、仁科衆は今に至るまで篠木尾に陣取っていること、木崎の森の要害の普請以下の横目として二木九左衛門・

二木六右衛門を派遣したこと、などが書かれている。


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二木氏が派遣された森城の堀跡

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森城の本郭

発行時期が不明な文書で小笠原貞慶が千見城の普請を命じているものがある。

この文書で、仁科衆に千見城の普請を命じ、奉行として二木六右衛門と山田善兵衛両人を派遣してその指揮に従わせている

ものである。

小笠原氏が千見城を占拠したのが天正12年であるので、この文書が発行されたのは占拠した時期とそう遠くない時期に出された

ものと推測でき、二木氏が奉行などとして貞慶に重用されていたことがうかがえる。



~ 二木氏のその後 ~

戦国期を生き抜いた二木氏のその後として見られるものとして、

二木久光家所蔵の系図によると、二木土佐には四人の子供があり、三男藤左衛門が居残って堀之内で農業に従事し、四男

善左衛門の子彦兵衛が小笠原氏に臣従して北九州の小倉へ移住している。

彦兵衛は『御当家末書』によると、元和年間(1615~1624)小笠原忠真公御家老と書かれており家老にまでなっている。



長くなってしまいましたが、二木氏の流れを紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。

素人が調べたことなので間違いや誤字があるかもしれませんが笑って許してください。。。"(-""-)"

次回からは二木氏の居館を紹介していきたいと思いますのでお付き合いください。



~ 参考文献 ~

梓川村誌                 (梓川村誌編纂委員会     平成6年)

三郷村誌                 (三郷村誌刊行会        平成18年)

南安曇郡誌                (南安曇郡誌改訂編纂会   昭和43年)

生坂村誌                 (生坂村誌刊行会         平成9年)

新編信濃史叢書             (信濃郷土文化普及会       1929年)
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  1. 2015/07/13(月) 15:49:11|
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松本市   平瀬氏

資料に出てくる不屈の一族平瀬氏

平瀬氏は蟻ヶ崎に本拠を置く犬甘氏の一族として発生し同族の犬甘氏同様に府中小笠

原氏の配下として、武田信玄の府中侵攻により主家の小笠原氏が没落したにもかかわらず最後まで平瀬城に籠城し討ち

死にしたことで知られるが、平瀬城を紹介する前に資料に出てくる平瀬氏の事績を見てみたいと思います。


文和4年(正平10年・1355) 桔梗ヶ原の戦い

文和4年8月、当時の学識者として高名で、太政大臣でもあった洞院公賢(とういんきんかた)が京都でその日記『園太暦』

につぎのように記した。

「八月十七日、晴れ、恒例である駒牽ができないと馬所から報告が出来ないと聞いた。信州に合戦があったそうだ。

なんでも妙法院宮(宗良親王)が大将軍で、これに諏訪神社の祝部や仁科氏が加わっていうというが、もってのほかの

事である。この合戦により信濃は国中が騒動し、信濃国の牧から献上される馬が着かないという。」

8月16日は、天皇が信濃の牧から献上された馬を内覧する日であったが、これが出来なかった。その理由が、信濃で

宗良親王が諏訪・仁科氏を主力として軍勢を動かして合戦をしたためであるという。

後年、諏訪の矢島氏がしるした記録によると、諏訪勢は8月に府中に攻め込み、8月20日には桔梗ヶ原で大合戦になった

府中勢は小笠原長基(資料には長亮とある)をはじめとして、坂西・麻生・麻生・山家・平瀬・古野・新井・赤沢各氏で

あったとしており、府中勢に平瀬氏が加わっていたことが見られる。


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平瀬氏の要害城とされる平瀬本城(北城)

永享13年(1440)   結城合戦

永享10年(1438)、鎌倉公方足利持氏は不和であった上杉憲実を追討しようと軍を起こした。将軍足利義教は、この機会

をとらえて持氏を討つことにし、駿河・甲斐・信濃などの武士に命令を発し、小笠原政康も関東へ進発した。

幕府軍に攻められた持氏は翌11年に鎌倉で自害し四代続いた鎌倉公方は滅亡した。

これを永享の乱といい持氏の遺児安王丸・春王丸は日光へ、永寿丸は佐久の大井氏のもとへ逃れた。

1年後、下総結城を本拠とする結城氏朝は安王丸・春王丸をおしたてて結城城に挙兵した。

幕府は駿河・甲斐・信濃などの武士に動員をかけ結城城を攻めさせたが結城城を落とす事が出来なかった。

この時に小笠原政康は幕府軍の中で陣中奉行を勤めている。

小笠原政康は、率いていた信濃の武士を30組に編成し、1組1日ずつ陣中の警護にあたらせた。

この編成を記したのが「結城陣番帳」でこの中の20番に犬甘氏・村井氏・三村氏・小坂氏と共に平瀬氏の名が見られる。

翌年、結城城は幕府軍の総攻撃により落城している。


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平瀬本城と連携していたと思われる平瀬南城


諏訪の資料に見える平瀬氏

室町時代後期の信濃武士や在地の動向を知ることができる資料に「諏訪御符礼之古書」がある。

諏訪神社の祭礼は鎌倉時代から信濃の武士が奉仕して行ってきた。その奉仕の祭礼負担の様子を記したのがこの資料

で、これには諏訪上社に奉公した地域とその地域を統治して祭礼に奉仕した武士と、負担費用などがしるされている。

この資料に記されている人々は諏訪神社からそれらの地域を掌握して祭礼に奉仕できる勢力のあるとされた武士である。

この中で北内田(松本市)に平瀬氏が記されている。

寛政3年(1462)・・・・平瀬民部大輔国知               文明4年(1472)・・・・平瀬淡路守

文明11年(1479)・・・・平瀬淡路守政知                文明18年(1486)・・・・・平瀬


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平瀬氏滅亡後の増築か。。。。。。平瀬北の城本郭

天文17年(1548)    塩尻峠の戦い

天文17年、武田信玄は上田原の戦いにおいて村上義清に敗れ重臣を失うなど大敗を喫した。

これを機に諏訪の西方衆が武田氏に反旗を挙げ、これに呼応して小笠原長時も塩尻峠周辺に兵を進め陣を張った。

長時はこの戦いに挑むにあたり家老をあつめ「下の諏訪に武田晴信より城代を被レ置候事信濃侍の瑕瑾と被レ仰候、

諏訪の城代追払可レ申由被レ仰候」と檄をとばした。

これに応じたのが仁科氏・三村氏・山家氏・西牧氏・青柳氏・犬甘氏・島立氏などの諸将と長時の旗本衆であった。

この中に平瀬氏の名が見られ長時に従って出陣していたことが分かる。

この動きに対して武田信玄は諏訪の西方衆を撃破し、峠に布陣する小笠原氏に攻めかかった。これに呼応して

小笠原方の三村氏・西牧氏・仁科氏などが小笠原氏を裏切った。

小笠原方は裏切りが続出した為に武田方の勢いを支える事が出来ず、多くの戦死者を出す大敗を喫し府中に敗走した。

この敗戦を機に武田氏の府中侵攻が進む事になる。


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平瀬氏居館ではないかとされる川合鶴宮八幡社の北側100mほどに島内史談会により建てられた平瀬氏居館跡の標柱

天文19年(1550)    府中陥落

塩尻峠の戦いで武田信玄に敗北した小笠原長時は、武田氏による府中侵攻を止める力を失った。

天文19年7月15日、小笠原氏の本拠である林城の支城であるイヌイの城(場所不明)を落城させ勝鬨を挙げ村井の城へ


戻った。これを聞いた小笠原方の林城・深志・岡田(伊深)・桐原・山家の城は自落し、島立・浅間の城は降服した。

この間に山家・三村・赤沢・坂西・島立・西牧氏は武田氏に寝返ったことにより小笠原長時は戦う事が出来ずに平瀬城

落ち延び、やがて村上義清を頼って落ち延びて行った。


9月になると武田信玄が村上義清に砥石城で敗れると小笠原長時はこれを府中奪回の好機とし村上義清の援助で

平瀬城へ戻った。

しかし、武田信玄出馬という情報を聞いた義清は小笠原長時に無断で退却してしまった。

この義清の退却を知った小笠原長時の配下は勝てない事を悟り逃げてしまい、3000人程いた人数が800人程に減って

しまった。長時は残った者たちのみで最後の戦いをしようと野々宮で馬場・飯富氏の率いる武田軍と戦い撃退する事が

出来た。


syouinnzi (2)
平瀬氏の居館ではないかとされる下平瀬の川合鶴宮八幡社(武田氏が攻めたのはここではないかとされる)

小笠原長時、中塔城籠城

野々宮合戦に勝った小笠原長時であったが、局地戦での勝利にすぎず長時には味方する武士が少なく勢力を挽回する

ほどの力は無かった。これを悲観した長時は自害を決意するが二木氏などの味方に説得され二木氏の要害であった

中塔城への籠城を決意する。この中塔城への籠城の衆に平瀬氏が混ざっていることが見える。


hirase1 (2)
平瀬氏開基と伝わる松蔭寺跡と信玄平瀬城攻め時の陣地伝承地

天文20年(1551)     平瀬城陥落!平瀬氏の滅亡

その後、小笠原長時は府中奪回を諦め村上氏・上杉氏を頼って落ちていったが、平瀬氏の籠る平瀬城と古厩氏の籠る

小岩嶽城のみが旧小笠原領に孤立する結果となった。

天文20年、武田信玄はついに平瀬城攻めを開始した。

「高白斎記」には、「(前略)、廿四日戌刁、平瀬ヲ攻敗ル。敵ニ百四人被為討取候。終日細雨(中略)、酉ノ刻ヨリ大雨。

(後略)。」とあり城兵204人(200余人とも)が全滅するほどの激しい抵抗がされた事が窺える。

また、城主については資料によって異なり、「東筑摩郡誌」では「(前略)、天文年中犬飼家の支族平瀬甚義兼爰に居る。

同十八年の秋甲将大和越前守来り攻む。城将平瀬新之丞戦死して城終に陥れり。」とあり、「信濃戦国時代史 

附信濃城砦志」には、「(前略)、犬飼氏支族平瀬氏居城天文二十年十月信玄来攻二十四日落城、城将平瀬光信(八良

左衛門)弟仏法寺以下悉く討死、(後略)。)ともある。

また、「武家事記」記載の平瀬城攻め後の武田晴信が山家氏に出した感状に「今度於平瀬城頸壱、平瀬八郎左衛門ヲ

被討捕之条、戦功至、(後略)。」ともあり平瀬一族の悉くが死んでいることも注目される。


             *****やっと見つけた平瀬氏開基の松蔭寺跡*****

平瀬城の南方1km1には、平瀬城主平瀬和泉守信義が開基したとされる松蔭寺がかつて存在し、明治の廃仏毀釈で

廃寺になったとされるものがある事を知り、場所を特定するべく色々調べたがネットにも書かれているものがなかったが、

歩きまわりやっと特定する事が出来たのでご紹介します。


syouinnzi (12)
平瀬城の南側1㎞にあるラーメン大学がある大きな路側帯近くに、写真のような線路に向かって登る道がある(籔っている)

syouinnzi (11)
登り切った先に馬飼場踏切をわたりすぐに右へ。。。。。。。。

syouinnzi (10)
尾滝沢にかかる木製の橋を渡り山へ向かう

「東筑摩郡誌」に平瀬城主とあった平瀬新之丞について「東筑摩郡松本市塩尻市誌 別片人名」に

「(前略)、新之丞は島内下平瀬に在る平瀬城主であった。古昔、平瀬和泉守信義という人が威勢を張ってこの地を領し、

同地に松蔭寺を開基した。


syouinnzi (6)
橋を渡り尾滝沢沿いを進むが、旧参道と思われる道沿いには、石仏が見られる。

syouinnzi (4)
橋を渡っってすぐ脇には臾玉神社(何の神社かは不明)の碑が建つ。

syouinnzi (5)
尾滝沢沿いには仁王様も祀られている。

また、新之丞は、小笠原長時の直属の家臣として天文十一年二月瀬沢合戦に従軍し、同年十月の大門峠合戦にも加わ

った。天文十四~十七年に亘る塩尻峠付近の戦には常に長時幕下の部将として活躍し、天文十九年犬甘城落城の後も

よく狐城を支え武田の勢力に抗した。


syouinnzi (9)
薄暗い笹藪の中の踏み跡を辿る。

天文二十年三月の野々宮合戦にもこの一族は従軍したが、同年十月武田軍の来攻に城主新之丞は戦死し、城は落ち

た。」と書かれている。


syouinnzi (7)
山道の途中にある笹藪の平場には、松蔭寺跡の碑と石仏・卵塔が残っている。

syouinnzi (8)
松蔭寺跡の削平地を見る。

笹や竹の籔となっている中に広大な削平地が残っているのみで、その他の遺構は見られなかった。また、現在は杉が

茂っている為に見晴らしが利かないが、山の中腹にあるために寺があった時にはこの場からは犀川やアルプスが一望で

きたのであろう。

なお、この参道の山道は更に続いており登っていくと松蔭寺経塚(松本トンネルの道により破壊)や八滝神社へ繋がる

霊場を巡礼するような道であったようである。



~参考文献~

東筑摩郡松本市塩尻市誌  別編人名            (桐原義司     昭和57年)

東筑摩郡松本市塩尻市誌  第ニ巻             (東筑摩郡松本市塩尻市郷土資料編纂会    昭和48年)

信濃 第45巻 第11号 「山城平瀬城特集」         (信濃史学会     平成5年)

松本市史 第二巻  歴史編                  (松本市        平成8年)

信濃の山城                            (小穴芳実編      1988年)

武田信玄と松本平                        (笹本正治        2008年)



平瀬氏開基、松蔭寺跡位置


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  1. 2014/07/17(木) 22:40:19|
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松本市  西牧氏③

三回に分けてお送りしてきた西牧氏ですが、今回が最終回ですのでそうぞお付き合いください。

~ 天文17年(1548) ~

天文17年2月1日、武田晴信は大門峠から坂城へ向かって甲府を出発し、2月14日上だ原において村上義清と戦った

が敗れている(上田原の戦い)。この武田氏の敗戦に勢いを得た小笠原長時・仁科道外などが4月5日に諏訪地方へ

攻め込み下諏訪を攻略した。

この小笠原長時などの行動に対して武田晴信は、4月11日諏訪へ向かって出馬し、4月19日に塩尻峠において

小笠原・仁科連合軍と武田氏による合戦が行われた。

これを『塩尻峠の戦い』といいこの小笠原軍の中に西牧氏が参戦している。


katuurutouge.jpg
現塩尻峠の南側にある勝弦峠にある説明板

katuurutouge2.jpg
塩尻峠の合戦は、この勝弦峠を中心に行われたと考えられている

合戦の内容は『二木家記』が詳しいが、二木家記というくらいであるから二木氏に有利な記載や誇大に書かれてい

る部分も多く見られる。しかし、多くの資料がこの文献を採用しているので書いて見ると、

小笠原長時は、今井の四ッ屋に陣をとり夜明けをまって諏訪峠(塩尻峠・勝弦峠)に陣を移した。

その日の四つ時(午前十時・・・・南安曇郡誌では午前六時としてる)に戦いが始まり、この日は6回の戦いが

あったと書かれており、5回までは小笠原勢が勝っていたものの6回目の戦いが始まった時、小笠原勢の中にいた

三村氏・山家氏が逆心した為に小笠原勢は敗れてしまった。というものであるが。。。。



sioziritougehi2.jpg
知っている人は少ないが、現在の塩尻峠の北側を通っていた中山道の頂上部にも写真のような塩尻峠合戦碑がある。


この小笠原氏に逆心したとされる人たちも文献により異なる。

『溝口家記』では、西牧四郎左衛門・三村駿河守が逆心したとし、『二木家記』では、三村氏・山家氏であると

している。

ただ、塩尻峠の戦いのあと二木氏・西牧氏は「小笠原勢のいる本道(塩尻)を通って帰ることが出来ないので廻り

道をして桜沢へ出て、洗馬の三村氏を頼り御たけ越えをして自領に帰った。」と『二木家記』が書いていることか

ら逆心したのは三村氏・二木氏・西牧氏であろうと『梓川村誌』はしている。

">>『三郷村誌』では二木氏は逆心していないとしており、資料によっても解釈が異なっており本当のところは

よくわかっていないようである。


siozirikubituka.jpg
塩尻峠の麓の柿沢にある塩尻峠合戦に関係する首塚・耳塚
これらの史跡から、塩尻峠の戦いは現塩尻峠を中心に北側の中山道・南側の勝弦峠の広範囲にわたっての合戦であったものと考えられる。


天文19年7月、小笠原氏の本拠府中が武田氏に占拠されると、仁科道外が武田氏に降っており仁科氏と関係が深か

った西牧氏もこの頃に武田氏に降ったようである。


~ 天文20年(1551) ~

天文19年9月、武田氏が砥石城で村上義清に敗れると(砥石崩れ)打撃を受けた武田氏が動けないとみた小笠原氏

は本拠の府中を回復すべく、村上氏の援けを受けて平瀬に軍を進めたが、小笠原氏を支援する為に塔原に陣取った

村上氏は、武田氏が下諏訪へ現れたという虚報を信じ本拠が攻められる怖れを感た為に小笠原氏に無断で本拠へ

撤退してしまった。

これを知った小笠原軍は、後ろ盾を失っってしまったので軍の半数が逃亡してしまい、100騎(1000人)になって

しまった。(溝口家記では、馬廻り500~600騎としている)

しかし、もう引くことが出来ない小笠原勢は武田方の馬場・飯富・西牧氏の率いる軍勢と野々宮で合戦を行った。

(この戦いを『野々宮合戦』という)

nonomiya.jpg
野々宮神社の境内にある野々宮合戦跡の標柱

nonomiya1.jpg
野々宮合戦場跡を見る(奥の林が野々宮神社)

この戦いは、小笠原勢が勝利し武田方の首300を打取っている。

野々宮合戦後、二木氏の勧めにより中塔城へ小笠原長時が立て籠もると山家氏や三村氏が攻めて来たことや、

武田晴信が攻めて来て戦ったことが『二木家記』に書かれている。

(ただ、この二木家記にある武田晴信の中塔城攻めは、他の文献には出てこないので疑問視されてい)

その中で9月末の部分で、中塔へ同心する者も出てきて城(中塔城)も堅固になり、西牧の城へも攻撃を加えて

多くの敵を討ち取った。とある。

nisimaki (3)
険峻な山奥にある中塔城を遠望する。

nisimaki (2)
天嶮の要害な為か中塔城の堀の規模は小さい(中塔城に残る堀切を見る)



ここに出てくる西牧の城(北条城のことと思われる)は、天文15年時点では小笠原氏の城となっていたが、

この野々宮合戦のあった天文20年では武田氏方の城となっていることが注目される。

(現在、北条城の北側の尾根に構築された無数の防御遺構はこの時(天文20年)に中塔城に居る小笠原氏への

備えとして武田氏(西牧氏か?)によって改修されたものと考えられている。


nisimaki
西牧氏の本拠であった北条城の本郭裏に残る巨大な堀切を見る。


また、中塔城と北条城の間にあったとされる本神沢端砦(現在消滅)もこの時の小笠原氏と武田氏(西牧氏)との

境目の城として西牧氏により構築または強化されたものと書かれている資料もあるので、この時点では、西牧氏は

武田方として旧領(旧住吉庄周辺)を一時的に回復していた可能性が考えられる。


nisimaki (4)
小笠原氏と西牧氏の境目の城であった本神沢端砦推定地と奥に北条城(矢印)を見る。


~ 永禄1年(1558)・永禄4年(1561) ~

永禄1年8月4日、武田晴信が西牧の金松寺を常徳寺東堂(松本市渚)へ寄進している。

永禄4年1月27日、武田信玄が原彦八郎に西牧の逆徒勘助を討ち取ったとった賞として太刀一腰を与えている。

この二つの事柄をみると、西牧の地は武田氏に直接支配されるようになっていたようで野々宮合戦などに見られる

ように西牧氏は武田氏の重臣の手先として働く程度の武士となっており、武田氏の被官ではあるがあまり重用され

ていなく小領主ていどに勢力は低下していたようである。


~ 天正9年(1581)~天正10年(1582)① ~

天正10年2月、木曽義昌が織田信長に通じて武田勝頼に叛くと、武田勝頼は深志城代馬場信晴に命じて木曽氏に対

する押さえとして「いねこき口」を古畑伊賀と西牧又兵衛に守らせ、奈良井・贄川へも人数を派遣している。

ところが、武田氏の先行きに不安を感じた古畑・西牧又兵衛は逆に木曽氏へ内通し、大野田夏道城に立て籠もった。

nisimaki34 (4)
 「いねこき口」と推定されるかぎかけ山を見る。
この険しい崖の斜面を当時の街道である夏道が登っておりこの街道を押さえるためにこの山の上に砦が構えられた



nisimaki34 (5)
かきかけ山の頂上部には、平坦地が見られ街道もこの場所を通過しているのでこの場所に砦があったものと見る。

*この西牧氏の離反は、武田氏に重用されなかった西牧氏が織田氏に通じることによって勢力の挽回をはかったの

ではないかと「梓川村誌」は書いている。

その後、武田氏に背いて中塔城に籠っていた岩岡・岩波氏らと共に西牧氏は、深志方郷中(武田氏方)の七・八郷

を焼き払い、下神林・野溝・平田辺で深志城にいた武田勢と合戦をしている。

天正10年3月11日に武田氏が滅亡すると、この武田氏滅亡に際し小笠原貞慶(長時の子)は西牧の金松寺に現れ

旧臣を集めた。

これには二木・岩波・草間・岩岡氏らが集まり、各氏をつれて貞慶は上諏訪にいた織田信長に御機嫌伺いに行った

ものの会見は許されなかった。

これに失望した小笠原貞慶は失意のうちに京都に立ち去っている。

貞慶が去り残された二木・岩岡氏らは小笠原氏に与した為に深志城主となった木曽義昌との関係が悪くなり、

中塔城へ立て籠もっている。

これを木曽氏の配下となっていた古幡氏と西牧又兵衛は、木曽氏の命で中塔城を討伐する為小室原等で競り合いを

し、九日間の間城の取り合いをしたとしている。

*「二木家記」では、20日間あまり中塔城へ追い上げられたとしている。

その後、二木氏らは木曽義昌に詫び、人質を出して被官となったとされている。


~ 天正10年(1582)② ~

天正10年6月2日、織田信長が倒れると深志城へ上杉氏の支援を受けた小笠原洞雪(貞種)が攻めて来た。

すると、安曇周辺の小笠原旧臣が洞雪についてしまった為、他に支援を受けられなくなった木曽義昌は、洞雪に

深志城を明け渡し木曽へ撤退することにしたが、この撤退に際して安筑両郷の人たちの人質をとって大手の片平・

贄川と搦め手のいねこき口、大野田夏道城に立て籠もっている。

nisimaki34 (2)
大野田夏道城の遠望

nisimaki34.jpg
夏道城の郭内部は、削平が甘く一時的に使用する陣城の要素が大きかったようである。


この大野田夏道城を守ったのは木曽氏についていた西牧又兵衛と古畑氏であったと思われ、人質を取り返しに来た

岩岡・二木氏らと戦いになり夏道城は落城し、雑司(雑炊)橋でも戦いが行われている。

6月16日には、上杉景勝により市河信房に西牧氏跡を宛がわれているのでこの戦いにより西牧氏は本拠であった

西牧の地を小笠原氏(上杉氏)に奪われて失ったことが分かる。

その後、徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶が上杉氏の支援を受けていた小笠原洞雪を追い出し深志城主となり

深志を松本と改めている。

nisimaki34 (3)
西牧氏と岩岡氏・二木氏が戦った雑司(雑炊)橋を見る。


~ 天正11年(1583) ~

大野田夏道城の戦いに敗れた西牧氏は、天正11年までには最後の拠点であった梓川渓谷をも小笠原氏に奪われ

木曽氏を頼って落ちて行ったのである。

これにより領主としての西牧氏は滅亡し、江戸時代には木曽の山村代官の従士の中に50石取りの武士として

西牧氏の名が見えている。

◎西牧氏の滅亡の時期に関しては・・・・・小笠原氏が、

天正10年8月10日に西牧の北条慶徳山屋敷と同寺領三貫文を祝梅庵に、

天正10年9月2日に西牧の北条の内、五十貫文を金松寺に寄進しており、天正10年後半には西牧の地は小笠原氏に

支配されていたことが分かる。

また、天正11年8月の小笠原貞慶が二木豊後宛に出した書状には、

「木曽氏との境目が落着したならば、稲核・奈川・大野田の代官と西牧領の梓川河西の白木・材木・薪は二木の

市で商売すべき」との命をだしており、これらがかつての西牧氏の領地であったことから西牧氏の勢力がこの頃

までにこの地から失われていたことが分かり、領主としての西牧氏は滅亡していることが窺える。


3回に分けてお送りしてきた安曇南部の雄、西牧氏はいかがだったでしょうか。

間違っている部分やはっきりしない部分があるかも知れませんがどうぞ笑い飛ばして下さい。(-_-メ)

少しでも何かの役にたてば幸いでございます。


~ 参考文献 ~

山城探訪  補遺編     (宮坂 武男)

梓川村誌          (梓川村誌編纂委員会  平成6年)

信濃(西牧氏館跡)     (信濃史学会編 小穴 芳実氏投稿  平成11年)

南安曇郡誌         (南安曇郡誌改訂編纂会     昭和43年)

三郷村誌          (三郷村誌刊行会    平成18年)

北安曇郡誌         (北安曇郡誌編纂会)
  1. 2013/06/15(土) 02:36:59|
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松本市  西牧氏②

間が開いてしまいましたが、前回の続きの西牧氏を調べて行きたいと思いますのでお付き合いください。

~ 永享3年(1431) ~

永享3年、(西牧)讃岐守憲兼が長尾(現安曇野市)の平福寺に鰐口を寄進している。

heifukuzi.jpg
平福寺にある古い鰐口(これが西牧氏寄進のものかは未確認)

平福寺は、長徳年中(995~998)に創建されたと伝えられ、観音堂鰐口の銘に永享3年大檀那讃岐守憲兼とあり、

この頃には西牧氏の勢力は住吉庄内の長尾まで来ていたことがわかる。

また、楡(安曇野市)の阿弥陀堂跡・龍峰寺跡に残る宝筐印塔は、東信に先例が見られる形状をしていることから

滋野氏である西牧氏関連のものと見られここまで西牧氏の勢力が来ていたものと思われる。

heifukuzi1.jpg
長尾の平福寺

『信府統記』によれば、天正3年(1575)大檀那太守勝頼再興の棟札があるという。武田勝頼が天文年間の

兵火で焼失した伽藍を再興したものと考えられる。
(高原 正文氏による講座資料より)


~ 永享12年(1440年) ~

関東管領の足利持氏が幕府にそむいた事件(永享の乱)で、小笠原政康は幕府の命によって永享10年(1438)に

鎌倉の足利持氏を攻めている。足利持氏は敗れて翌年に自殺したが、下総の結城城にいた足利氏朝は永享12年

(1440)に足利持氏の遺児を立てて幕府に抵抗した。

これにより小笠原政康は陣中奉公として再び幕府の命によって出陣した。

これを『結城合戦』といい、その配下の陣番を定める『陣番帳』には30番(109人)まであり、西牧氏は、二木氏

や竹田氏(山形村)などと共に18番として名が見える。

この戦いで、『古敵当敵』の小笠原氏の指揮下に入って参戦しているのは幕府から地頭職を安堵されている西牧氏

にとって、幕府から任命されている守護小笠原氏の指揮下に入らないわけにはいかなかったものと考えられる。



~ 宝徳2年(1450) ~

(西牧)讃岐守信兼が西牧の対岸にある波田の若沢寺に鰐口を寄進している。

この鰐口の銘に、

「宝徳2年6月1日 院主為宥聖、奉施入鰐口讃岐守信兼」とある。

これにより西牧氏は、対岸の波田方面まで勢力を伸ばしていたことが窺われる。


nyakutakuzi.jpg
若沢寺の一宇であった波田にある田村堂(若沢寺は信濃日光として多くの参拝者が訪れていたが明治の廃仏毀釈

により廃寺となり現在、山奥に平場や石積を残すのみとなっている。また、参道脇には丁石が多く残されている)



~ 応仁2年(1468) ~

西牧信濃守満忠が、諏訪上社へ御符札銭一貫文などを納めている。

~ 文明12年(1480)① ~

西牧 前讃岐守満兼が諏訪上社へ銭一貫八百文などを納めている。

2月2日、西牧氏が諏訪上社於左口神祝へ銭一貫文を納めている。

4月、西牧讃岐守満兼の祖母が死去したことが見られる。



~ 文明12年(1480)② ~

文明12年、諏訪上社の「守矢満実書留」によると、

2月6日の夜に、上諏訪の東大町に下諏訪の金刺興春らの悪党が上社周辺に火をかけ雑物を奪取り、手負死人が出て

いる。この時、西牧の上社の精進屋左口神が炎上している。

8月16日に、小笠原長朝が仁科盛直を穂高に攻めてこれを破っている。

9月20日に、山家孫三郎が仁科氏・西牧氏に同心して小笠原長朝に背いた為、長朝は山辺孫三郎を攻めて討死

させている。

10月10日に、小笠原長朝は西牧へも攻撃を加えており『守矢満実書留』には、

「十月十日、西牧殿屋形焼候、大風吹小屋千間計焼失、満兼芳々御右口神御炎上、物恠共等也鳧、神慮難凡人計

者也(後略)」とあり、この戦いに敗れた西牧氏は小笠原氏に降り配下となったものと思われる。



~ 文明15年(1483)~天文13年(1544) ~

西牧氏は、文明15年から天文13年の間は大きな戦いなどの記録には登場せず、穂高神社(古幡牧)の造宮の所役や

諏訪上社の宮付の所役を勤めていることが見えるのみである。

これは、西牧氏が小笠原氏の配下となっていた為にあまり記録に出てこなかったものと思われる。

ただ、天文3年の『小笠原家譜代の家臣分限帳』(小笠原長時時代の家臣の所領等が書かれている文献)を見ると、

小笠原家に関係の深い重臣の項に、

(前略) 山中源太政俊    拾五騎       安曇郡北条山城主         (後略)

とあり、家老職衆七家に

高三千貫文  、紋 梶の葉   西牧美作守信道    百六十騎     安曇郡上野の城主(後略)

と書かれている。

このことから文明12年(1480)により小笠原氏に降った西牧氏は、小笠原氏により勢力をそがれ田屋城周辺のみ

とされてしまったようで、今までの西牧氏の居館(於田屋居館)や本城の北条城は、小笠原氏の重臣である、

山中氏が入り西牧氏を監視するようになっていたようである。 



~ 天文15年(1546) ~

『信府統記』に滋野讃岐守貞兼が真光寺を中興開基したことになっているが、『梓川村誌』では、

西牧氏は小笠原氏との争いにより天文15年には北条城をすでに失い、上野城(田屋城)だけになっている状態で

真光寺を中興し阿弥陀堂を造る力があったかと疑問視している。

また、『小笠原家臣分限帳』にある上野城主、西牧美作守信道と『信府統記』にある滋野讃岐守貞兼との関係も

分かっていないとしてる。

taya2.jpg
西牧氏の本城となった上野城(田屋城)遠望


上野城(田屋城)についても。。。。

天文15年(1546)に上野城を滋野讃岐守貞兼が構築したと『信府統記』ではしているが、『梓川村誌』では、

「この頃に若干の修築はあったとしても、以前から用いられていたものとみたい」としてる。

これらを考えると、今まで本城であった北条城を小笠原氏に奪われた西牧氏は、一支城であった上野城を本城と

すべく改修したことを「信府統記」では構築したと書いたのではないだろうか。

taya.jpg
西牧氏が構築?修築?した上野城(田屋城)の堀切を見る

なお、『安筑古城開基』には、田屋城を上野盛長なるものの三男、田屋三郎盛成の城としているがこの書は俗書で

信用し難く、この人物は史実から見て架空の人物であるとみられている。



今回は。。。。。。ここまでです。

次回は、西牧氏の最終回(西牧氏の滅亡)をお送りしますのでお付き合いください。
  1. 2013/06/13(木) 17:58:06|
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松本市  西牧氏①

ここの所、西牧氏関連の城館跡を紹介しているので西牧氏について調べてみました。。。。。(-_-;)

ただ、なにぶん素人でありますので複数の資料を調べて書いていますが間違いがあるかもしれません、

どうぞ笑って聞き流して下さい。また、文章をまとめる能力が乏しいので年号別にしか書けませんがどうぞ

長くなりますがお付き合いください。



~ 西牧氏の入郷について ~


住吉庄(現在の長尾・大妻・二木・真々部などの旧三郷村と旧豊科の一部・旧梓川村の東側一部が入っており、

西牧郷は入っていない)の開発領主は西牧氏であるとされている。

西牧氏は、本姓が滋野氏で来郷は古代と考えられており、滋野氏が国司として信濃へ下向しやがて所々へ一族を

配して繁栄していった。この中で西牧郷周辺に土着した者が西牧氏を名乗るようになったようである。

来郷の目的は、牧場経営であったが平安末期になると牧場は山間の適地である(旧安曇村の)一之瀬・番所・

(旧奈川村の)駒ケ原等へ移っていきこのあたりも西牧氏の領地となっていった。

その牧場の管理に西牧氏一党の古幡(古畑)氏が牧司として赴いて土着した。

古幡氏は戦国時代の武将に古幡伯耆・降旗三郎右衛門(後に岩原姓になる)等がみえ、古くは上野段丘下にあっ

たとされる古幡郷の牧を支配していた一族であったと思われるが、源平の騒乱で平氏に加担した為に失脚し、

古幡氏に代わって入ってきた西牧氏の配下または一族となったものと思われる。


西牧氏は上野原段丘上を牧場から水田開発へと変えていき、急流の梓川からの揚水する為の難事業を行い成功させ

ている。

この西牧氏の出自について「二木家記」によれば、「西牧殿は、志賀の局の子、皇子也」と書かれている。

これは、本姓である滋野氏が清和天皇の皇子から出ていると滋野系図に書かれていることによるものと思われる。


~ 建仁三年(1203) ~

西牧氏の名前が初めて見られるのは、建仁三年の真光寺の阿弥陀如来三尊像の

像内銘で「滋野兼忠」「滋野兼茂」の名が見られる。


sinnkouzi2.jpg
現在、真光寺にある阿弥陀如来像は保管庫に入っていて見ることは出来ないので説明板のみの掲載です。

この三尊像の造立は、滋野兼忠と一族の妻橘氏の子、男女八人の無事安穏を祈願する為に造立されたものである。

この真光寺については、「信府統記」に、

「当寺ハ建仁年中草創ノ地ナリ、天文十五年丙午年大檀那 滋野讃岐守貞兼、法名 海厳淵成了源大居士中興ノ

開基ナリ、支配ノ阿弥陀堂モ開基上ニ同ジ、阿弥陀堂ニ大木ノ糸桜アリ」と書かれている。


sinnkouzi1.jpg
真光寺の拝殿を見る。

また、金松寺も平安時代に中村に居館した西牧氏が祈願寺として建立したとされる。

(後には小笠原長時により旧臣の招集場所にも利用される。)


kinnsyouzi.jpg
金松寺を見る。(本堂は新しく建て替えられておりこの門以外見るべきものはない)


~ 嘉暦四年(1329) ~

嘉暦四年、鎌倉幕府の諏訪上社五月会御射山頭役等の結番を定めた下知状で「右頭西牧埋橋両郷地頭等」とあり

地頭である西牧氏が務めている。

西牧氏は一族の大妻氏などと共に神氏とされている。

これは諏訪上社との結びつきが大変強く、家紋に諏訪氏の四本根の梶葉を用いており信仰上の神氏(諏訪氏)一族

とされていたものである。


~ 建武二年(1335) ~

建武二年、小笠原貞宗が足利尊氏によって西牧氏の支配地である住吉庄の地頭職を宛がわれている。

これは、鎌倉幕府滅亡時に幕府方となって戦った諏訪氏や西牧氏など滋野氏の神氏一党は勢力が失墜したことに

より、討幕に働いた小笠原貞宗に勲功の賞として住吉庄の地頭職と武田孫五郎長高跡・市河惣部六郎跡の地が宛が

われたものと思われる。これにより西牧郷や住吉庄南部に支配を強めてきた西牧氏は、住吉庄への支配力が小笠原

氏によって狭まれていったのである。

wakamiyahachimann2.jpg
北条にある若宮八幡神社本殿の説明板


wakamiyahachimann1.jpg
若宮八幡社の本殿は覆屋に入っていて見ることは出来ない


(住吉庄には二木があるので二木氏はこの頃に小笠原氏の支配下へ入ったのではないだろうか。)

ただ、本来の地盤である西牧郷の上野郷・立田郷・古幡郷・小倉郷などにおける支配力は維持していたようで、

大宮熱田神社本殿や若宮八幡宮本殿などを建立している。


atuta1.jpg
大宮熱田神社の拝殿を見る。

atuta.jpg
国宝指定だったけ。。。の大宮熱田神社本殿???なのかな??を見る。

~ 応永七年(1400) ~

中世信濃において村上満信と行動を共にした西牧氏・宮高氏・香坂氏などの主として滋野氏系の武将が、信濃守護

小笠原氏に対して起こした国人一揆を「大文字一揆」と呼んでいる。

その中で代表的な合戦を「大塔合戦」と言っている。

この戦いは、足利義満から住吉庄と春近領の地頭職を返付され、応永七年八月に京都から信濃へ小笠原長秀は

信濃守護として入信し、信濃善光寺で国人達を集めて対面したが長秀の態度が不遜であった為に反感をかった。

その後も、国人達の領地へ守護史を入部させたりした為に国人達と対立するようになっていった。

この戦いは、南北朝の内乱期における北朝(室町幕府方)の守護小笠原氏と南朝を支持する国人層との対立が

再び再燃したもので、この頃の因縁で『古敵当敵』の関係で起きたものではないかとしている。


応永七年九月二十四日、国人達は団結し小笠原勢と四宮河原で戦い小笠原勢を籔っている。その後、長秀は塩崎城

へ逃げ込み、その他の者達は大塔の古要害(別の城との説もあるがここでは大塔古城とする)へ逃げ込んだ。


ootou.jpg
小笠原勢の残党が逃げ込んだとされる大塔古城の堀跡(住人の方による)

大塔古城に逃げ込んだ小笠原勢の軍勢は国人に攻められ全滅したが、長秀が籠った塩崎城は囲まれたものの落城は

せず、その後、小笠原一族の大井氏の仲介により長秀は京都へ逃れ信濃守護職を解任された。


~ 応永二十二年(1415) ~

大文字一揆を起こした信濃の国人は、応永二十二年に小笠原長秀が再び信濃守護として入ってきたことを良しと

せず、その上、長秀が国人達の領地をも侵し始めたので国人達は室町幕府の信濃国代官 飯尾美濃入道に長秀の

住吉庄と春近領の知行を止めるよう幕府に訴える書状を出した。

これを『大文字一揆注進状』と呼ばれている。


この書状の年号が応永六年(1399)とされてきたことで信憑性を疑われてきたが、近年この書状は応永二十二年

又は二十三年のものであるとされるようになったことや、内容が時代にあっていることからこの書状の重要なもの

であるとされるようになった。


この書状の中に西牧刑部左衛門尉・西牧宮内少輔時兼の名が見られ、時兼は西牧郷の地頭職・左衛門尉は小倉郷の

地頭職として住吉庄内で力を持っていた人たちで、小笠原氏によりこれらの身分と利権が失われる恐れを感じ、

それに対してのこの幕府への注進状であったと思われる。



長くなってしまったので今回はここまでとします。。。V

スミマセンがこれより一週間半ほどお休みします。。。。次回をお楽しみに。
  1. 2013/06/02(日) 22:51:45|
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