長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市   塔原城③

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続けてこの図で紹介をしていきます。

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大手道を登って行き尾根上にでる直前に二段の段郭が現れます。

この写真の郭は下の段で尾根を削って郭を造成し、城内側に切岸を設けていますがこの切岸が鋭い!!

高さは約4m程あり下から登ってくると本当に壁です。しかも詳細に観察すると切岸直下の部分が堀状に窪んでいます。


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縁部分を見ると堀状の窪みは竪堀として斜面を下っているので、堀が構築されていた可能性が高いのでは無いだろうか。

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こちらは段郭の上の段ですが、こちらは明確に堀切が切岸直下に構築しているのが分かります。

さらにこの郭には切岸と堀切を挟んだ斜面側に、土塁を設けた平場が構築されており、この郭が落ちると城内中枢に敵に入り込ま

れてしまう為、大手道を登ってくる敵に厳重に備えています。


天正10年(1582)3月武田勝頼が織田信長に滅ぼされると信長により、筑摩郡・安曇郡一帯を木曽義昌に与えられ義昌は府中深志

城(松本城)へ入城したが、その3ヶ月後には織田信長が明智光秀により謀殺されると好機と見た上杉景勝は以前府中を収めてい

た小笠原一族であり長時の弟の洞雪斎を担ぎ上げ木曽義昌を追い出して府中を手に入れる。

塔原氏もこの頃には木曽氏や小笠原洞雪斎に主を順次変えていったと思もわれるが、7月には洞雪斎が上杉氏の傀儡と化してい

ることを嘆いた旧臣たちが長時の子である貞慶(徳川方)を担いで深志城に攻め寄せると、支えなれないと悟った上杉方は貞慶に

城を譲り、貞慶が城主として入城し武田氏に府中を追い出されて以来34年ぶりに府中小笠原本流が府中に復帰することとなっ

た。もちろん塔原氏(海野三河・仁科系塔原氏)も貞慶にいち早く降ったのであろう。


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2の郭の先端部に見られる堀残しの土塁と郭

大手道を登り段郭を登り切り城の中枢域に入ると最初に入るのが2の郭の先端部で、三角形の形をしているその先端部で細長い

形をしている。

西側の大浦沢側には堀り残しの土塁があり、東側には段郭が多数構築されている。


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郭の壁面の加工度は少し甘いが郭面はきれいに削平されている段郭

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2の郭には用途不明の突端部が窪んだ堀り残しの高まりがある。

この高まりと本郭が構築されている中心部との間には堀切があるのでその為だけに削り残したかも知れませんね。

用途なさそうだし。。。。。。。


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2の郭の西側は本郭下に設けられている郭の下を回り込むように帯郭の様になっている。

天正10年7月に府中に入城した貞慶は8月には上杉氏に内通した日岐氏・会田氏を攻めるため軍を出しているこの中に海野三河

の名が見える。

結果として日岐氏は兄は上杉方に走り弟は貞慶に降り、会田氏は滅亡している。

これらの仕打ちに恐れをなした赤沢氏(小笠原一族)・古厩氏(仁科氏)・塔原氏(海野・仁科氏)は上杉氏に内通し小笠原貞慶に

天正11年(1582)反逆を試みたが事前に謀反の情報が洩れ、松本城(貞慶が入城した時に深志城から松本城に改名)に呼びださ

れ打ち取られている。

この呼び出されたのは海野三河と思われるが、その後、貞慶によって塔原城が攻め落とされているので城を守っていた仁科系塔

原氏も討たれ滅亡したものと思われる。


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2の郭と本郭を区切る堀切②

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東側の沢に落とされる堀切②から落ちる竪堀

本郭と2の郭を区切る堀切は東側には竪堀を落としているが、西側の大浦沢には落としていない。

これは大浦沢側の斜面が険しく防御を考える必要がなかったものと思われる。


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2の郭から見る本郭方向

2の郭から本郭へ向かうには、堀切②を横断する必要があるが、堀切②の奥側には本郭下の帯郭から発生する土塁によって

視線を遮断すると共に通路を細くして多くの敵兵が本郭に殺到するのを防いでいると共に、

奥の帯郭には城兵が待ち構えて、一列づつ入ってくる敵兵をせん滅する作戦を想定していたものと思われる。


次回は、小笠原氏による改修と思われる本郭と裏尾根の堀切を紹介していきたいと思います。
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  1. 2016/04/25(月) 23:20:15|
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安曇野市  塔原城②

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塔原城関連遺跡の配置

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塔原城遺構配置図  (現地調査と信濃の山城と館を参考に作成)

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大手虎口を見る。

大手道を5分ほど登ると尾根の弛みに着く手前に虎口が設けられた堀切が現れる。

堀切は城内に入る関門となるもので、土橋を残して両側を掘り切っている。


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大手虎口を守る堀切を見る。

塔原城から逃亡した塔原氏は、後に武田氏に降っているが逃亡時に武田氏によって塔原城は破却されている。

その後、塔原氏は武田氏に降ることは許されたが城将として復帰することが出来ず、武田氏によって据えられた海野三河守幸貞

(甲陽軍艦には、『とうの原廿騎土屋右衛門尉相備、是れは本名海野也』ともある)

が城将となり仁科系塔原氏は副将の座に降格させられている。


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大手虎口を入ると二本の尾根に挟まれた広大な平場に出る

写真左側の尾根が大手道となっていて、右の尾根には平場を見下ろすように郭が築かれ大手を警戒している。


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大手を入ってすぐにある広大な平場(写真奥には大浦沢を挟んで旗塚がある)

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大手を警戒する為に築かれた郭、眼下には大手虎口と平場が見下ろせる

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また、大手を警戒すると共に大浦沢側にも削平した平場を作り、大浦沢を通って直接城の中心部に近づこうとする敵にも目を配っている。

永禄10年(1567)、武田信玄は嫡男義信を自害させると家臣団の動揺を静めるため、生島足島神社(上田市)で信玄に対して

二心無き事を誓う起請文を提出させているが、この中に塔原氏の名が見える。

『 海野三河守幸貞 ・ 塔原藤左衛門宗幸 』

またその他に、勝頼代分限帳には、塔原藤左衛門宗栄廿騎  塔原織部幸知(会田氏家臣)がある。

天正9年(1581)伊勢神宮の御師宇治家の『御祓くばり日記』にも塔原氏は見える。

『海野三河殿・・・・のし五十本 上ノ茶十袋       同名たうの原殿・・・・・のし五十本 ちや五つ』

と見え三河守との土産の量の差によってからも三河守が周囲からも上位として扱われていたことが分かる。


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大手側尾根を遮断する長大な横堀を見る。

更に大手の尾根を登ると尾根を遮断するように細長い平場が現れる。

この平場は大浦沢側へ尾根を細長く続いており、現状では間伐の作業用に使われているようで道の様に見える。

ただこの平場を大浦沢側の末端まで追ってみると、大浦沢へ落ちる末端は堀状になっておりこれがかつては横堀であったことが

分かるのである


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大浦沢へ落ちる横堀の末端部を見る

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段郭を見る。

横堀をすぎると大手道脇には小規模な平場が多数、見られるようになってくるので本格的に城内になってきた事が感じられる。


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大手道から城の中心部を見上げる。

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大手道の尾根からは会田街道と会田川を挟んだ対岸には会田氏の城砦が見られる。

(対岸には会田氏の家臣堀平氏が守った佐々野城や越氏が守った中沢の古屋敷がある。)


長くなってしまったので本日もここまで~次回は塔原城の中心部を紹介していきたいと思います。

お付き合いくださいませ。
  1. 2016/04/19(火) 19:01:27|
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安曇野市  塔原城①

我が町の宝!塔原城を徹底的に調べてみた。

所在地・・・・安曇野市明科

訪城時間・・・・・林道からは5分・大手口からは20分

危険度・・・・・★★☆☆☆

※城跡は間伐などがされ整備されているが、キノコの時期には立ち入り禁止になるので注意が必要。

また、長峰山系には熊の生息が確認されているので、一応の対策はしていったほうが無難。


~ 塔原城の歴史 ~

塔原城を最初に築城したのは、海野系塔原氏で、小県郡海野庄に本拠をもつ滋野氏分系の海野幸継の三男幸次が筑摩郡

塔原郷に来住し、その地名をもって塔原氏を称したとされる。(真田系図)

※滋野三家系図では、五男となっている。


応永七年(1400)、信濃守護小笠原氏と反守護方(村上氏など)が戦った大塔合戦では、反守護方に加わった海野宮内小輔幸義

の旗下に同属の光氏や大足氏などどともに塔原氏が見られる。

永享12年(1440)には、関東の結城城で結城合戦が行われ、この時の包囲陣を示す『結城陣番帳』には海野氏の名が見えるが、

塔原氏の名は見えない。ただ、塔原氏の同族光氏の『光氏系図』には戦場において苅屋原氏・会田氏・塔原氏等の一族と共に

勲功を尽くしたことが書かれており、塔原氏も参戦していたことが分かる


~ 訪城ルート①  林道からの近道 ~

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一番楽に訪城する方法が長峰林道を通り、林道から分岐するダート道(車での通行禁止)を歩いて城域に入る方法。

近くに石仏などを集めた広場があるので目印となる。(昔は城跡を示す案内板があったが今は無し)


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ダートの林道を5分ほど歩くと城跡の説明版がありここから城域となる。


信濃守護で井川城にいた小笠原長朝は、南北朝以来の宿敵である大町にいた仁科盛直の軍と安曇郡穂高で戦い、これを破っ

て仁科氏を旗下に加えている。

南北朝以来の仲間であった仁科氏が小笠原氏に負けたことで、滋野系塔原氏は領地を維持することが難しい事を悟り、

領地を捨て逃走又は小笠原氏に逐われたとされる。(時期に諸説あり)

その後、塔原領は仁科盛明の子盛綱が塔原式部少輔と称し塔原城に入った。(仁科系塔原氏)

『仁科氏旧記・天正寺記』には、「塔原氏地を逐はれし後、小笠原家の麾下に属したる仁科氏、之を領するの許諾を得たる如し。

仁科盛明の十男の一人盛綱は、塔原式部少輔と称せり。」とある。


~ 訪城ルート②  大手道からの訪城 ~

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大手道の入り口へは、明科から会田へ向かう街道沿い(近くに大足氏館跡あり)を走ると正面に塔原城が見える。

大足橋手前の大きくカーブした部分を吐中部落へ入る。


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吐中部落内の写真の消火栓がある場所から山方面に歩いていく。(車は吐中公民館に置ける)

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尾根の先端に大手道となる道形が明瞭に残っているのでここを登る。(20分程度)

その後、仁科系塔原氏は暫く資料には見えなくなるが、天正17年(1548)小笠原氏の麾下として武田晴信との塩尻峠の合戦に参

加したが小笠原氏は武田氏に敗れ本城の林城へ逃げ帰ったが、塔原氏も同様に本拠の塔原城へ帰り防御を固めていたものと

思われる。

天文19年(1550)小笠原氏の本拠府中が落とされると、武田氏はまだ小笠原氏領内に残って抵抗している城の掃討戦を行うことに

なる。

天文21年(1552)から小岩嶽城・苅屋原城など武田氏に降らずにいた城が落城すると、城を固めて沈黙を守っていた塔原氏は

ついに支えきれないと悟り城を捨てて逃走し城は落城している。


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仁科系塔原氏の建立である雲龍寺が塔原城と居館跡の間にある。

『信濃史源考』によると「塔の原村の源川山雲竜寺は、仁科盛明(享禄3年卒75)の子塔原式部少輔盛綱の建立にして、霊松寺6代

竜門薫和尚(明応5年普山)を開山とす。(後略)」(天正寺記・仁科氏旧記)とある。


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明科から見た塔原城と関連遺跡

長くなってしまったので、城跡の紹介は次回にしたいと思います。。。。。長らく放置してしまいすみませんでした。

またお付き合いください。
  1. 2016/02/25(木) 19:02:30|
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安曇野市   等々力城

仁科氏の重臣等々力氏の城

所在地・・・・・安曇野市穂高等々力

訪城時間・・・・0分

危険度・・・・・★☆☆☆☆

訪城時間・・・・2008年6月15日・2009年12月19日・2009年12月26日


※城域内は畑地となっているので時期に注意が必要。

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安曇野市穂高域にある城館配置図                             国土地理院2万5千分の1地図

等々力城は、安曇野市穂高の東部、穂高川の右岸の水田地帯に構築されている。

一帯は平坦地で南に欠の川が流れ、北側にはワサビ田があり、これらに挟まれた微高地に立地している。

そして、領地防衛として北方の北等々力には北城(貝梅城)・東方穂高川端にあら城(主水城)を配備している。


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等々力城立地                                            国土地理院2万5千分御1地図使用

等々力氏の初見は、応永7年(1400)の大塔合戦を叙述した『大塔物語』で、反守護軍の大文字一揆の仁科勢の中に、戸度呂木と

見える。

等々力氏の出自は明白ではないがこの頃に仁科氏に被官化していたことが分かる。

(※穂高町誌では等々力氏が海野氏からの出の可能性を書いている。)


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等々力城遺構配置図                               信濃の山城の宮坂図を参考に作図

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残存遺構を記入してみると意外によく残っていることが分かる。

天文20年頃には等々力氏は武田氏に配下となっており、仁科氏の親類被官として永禄10年の生島足島神社の神前起請文に

等々力豊前守貞厚の名が見られる。

武田氏の元で等々力氏が活躍していたことが分かる資料に、武田氏発給の文書がありこれに等々力氏が見られる。

天正5年9月5日の文書では、

『今度越州境遠近敵城まで、隠便として案内を遂げ、これに加えてかの城主の行、格法を密に見分くる条、微細注進を数え、寔

比類なき働き感慨の至り、尤も掌握の所これ如何かな、弥向後走り舞い、忠義を抽んすべき者なり』

これは、天正5年(1577)に仁科盛信が等々力次右衛門と細野甚四朗に宛てた感状で、この度両人が越後境の敵城へ隠便(密)

として案内をし、敵城主の行格法(きそく)を密かに探って微細に報告したことは、比類のないことで、その働きは感慨の至りで

あり、いよいよ向後走り廻って忠義を抽んでてほしい、ということが書かれている。

穂高町誌では、この敵城というのは越後の根知城あたりのことではないかとしている。


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等々力城の大手口。(ここからは訪城時期の違う写真が混ざっていますのであしからず)

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大手馬出に建つ城址碑。

次は天正6年の文書で等々力氏が見られる。

『越国境迄小谷筋荷物弐疋前相違なく通すべき者なり、仍って件の如し』

この文書は、天正6年(1578)2月12日仁科盛信が等々力次右衛門に越後境まで小谷筋への荷物馬二疋分を通行税を取らずに

自由に通すことを許可したものである。


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等々力城の大手を守る櫓台。

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櫓台上部の平坦地、ここにはどのような櫓が建っていたのだろうか。

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櫓台と共に大手を守る土塁

等々力城の大手は櫓台と土塁によって厳重に防御されていて、城の周囲も欠の川が巡っており往時も橋を渡って大手を通って

城内に入っていたものと思われ、かなり厳重な構えとなっている。


天正8年(推定)文書には、

『来礼披見、仍って不動山衆番替近日仰せつけられ候の間、弥御番普請聊油断あるべからずの旨、申し越さるべき候、随って

馬町毎年下知なされ候といえども、町人侘言故、一着なく候、然らば則ち、領中の馬幷に大町、真々部市の儀、この砌穂高へ引か

れ然るべく候、猶替儀重て申し越さるべく候、 恐々謹言』

この文書は、天正8年頃に仁科盛信が等々力次右衛門に宛てた書状で、次右衛門からの書状を見て返信したものである。

越後不動山衆の番替を近日中に仰せつけるので、いよいよ御番普請を油断しないこと、馬市を毎年開いているが、町人が侘言

して開催場所が決着しないので、仁科領の馬市の大町・真々部市を今回は穂高へ移して開きたいと思っている。

猶番替について重ねて申し越すはずである。という内容となっている。

ここでは、等々力氏達が越後不動山城まで城番として出張していることが分かり、上杉景勝と武田勝頼との和睦により武田氏が

越後不動山城まで進出していたものと思われる。


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郭内部から見た大手虎口と郭北側に残存する土塁上から見た大手虎口

次も天正8年の文書にも等々力氏が出てくる。

『一鳥羽・栗毛の馬、十八に来着候事、一夫馬如何様にも相調え、同日指越すべき事、一乗馬衆・同手明の者、毎度結付候間、

定武具等寄(騎)羅吟これあるべきか、今度嗜なき人においては、一途過怠あるべく候事、一新御軍法として、鉄砲持一切に御普

請御赦免たるべきの由仰せ出され候間、如何様にも過分に相調え候様に肝煎尤に候、一俄の出陣候間、不足の儀は和泉守・

将監・かたへ相憑のまるべき候事、一細萱河内守、同心、被官召し候連れ、十九に当府へ参着尤に候、一真々部同心・被官同前

の事、彼衆帰城候間、長生寺根知へ罷越さるべき事、一軍兵衛。小兵へ、是も十九に参着候事、一相残候道具、十人衆申しつけ

同日差越すべき事、一各立物の儀、かんばんを申し請け候間、両地在番衆は、今度の留守に支度尤に候、ひたきんたるへく候、

恐々謹言』

この文書は、天正8年頃仁科盛信から等々力次右衛門に宛てた書状である。

鳥羽、栗毛の馬を18日に来着させること、荷物輸送の馬をいか様にも多く調えて指越すこと、乗馬衆や主人の護衛に当る歩兵の

者に毎度言いつけていることであるので、定めて武具等の整備をよくしていると思うが、今度嗜のない人に対しては処罰をすること

新軍法として鉄砲持のものには一切御普請請役を免除するので、いか様にも過分に調えること、にわかの出陣で人数等に不足の

あった場合は、倉科和泉守・丸山将監方へ依頼すること、細萱河内守(穂高町)は寄子同心と被官を召しつれて19日に大町に参

着すること、かの衆が帰還したならば、替りに長生寺(渋田見氏・・・池田町)が、根知へまかり越すこと、松川軍兵衛(松川町)・

岡村小兵衛も19日に大町に参着すること、残った道具は小谷十人衆申しつけて、同日に差越すこと、おのおの甲の飾りの立物は

薄い銅板を付けることにしたので、不動山根知の両在地番衆は今度の留守に支度をよくすること、専一に忠勤を励むこと、という

ないようとなって等々力氏が直接、仁科盛信から指示を受け在地の土豪たちに支持を出す立場にいたことが分かる。


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北側に残る土塁を見る。(高さは約3m)

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等々力城の残存土塁と郭内部を見る。

武田氏滅亡後の等々力氏の動静を示す資料は見られないが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で小笠原秀政の

従兵に等々力善左衛門の名が見える。

松本城主石川氏の代の文禄5年(1596)宮本神明宮棟札に宮本神明宮造営の助成衆の中に郷士として等々力三衛門尉が見える。


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西側の城域を区切る堀を見る。

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堀切は欠の川へ落とされている事が分かる部分

『未だ申し承わず候と雖も、啓せしめ候、仍って大竜寺御指南をもって監物参陣、殿様の御備に踞り候由承り及び候、彼の者不届

物に御座候の条、只今に至るも拙夫許容致さず候、然りと雖も、当御陣中然るべき様に御取りなし頼み入り候、随って一種壱荷

進上致し候、御取り合せ仰ぐ所に候、委細大和五兵衛申し上ぐべく候、恐々謹言』

この文書によれば、等々力右衛門は大阪の陣に出陣しており、その陣に三枝元久が、子息監物が大竜寺の指南によって参陣し

ており、監物は不届者で勘当の身であるが、よろしく御世話を願いたいとの書状を送ったものである。

等々力氏は石川氏の家臣ではなく、郷士として名字帯刀を認められていたので、軍役を命じられていたので小笠原忠脩に従って

大阪の陣に参陣していることが分かる。

その後、等々力氏は元和・寛永年代に百姓になっており、一族は柏原・重栁等に排出しており、江戸時代に穂高組の大庄屋と

なっている。


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欠の川沿いには帯郭状の一段低い平地がある。

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穂高に根付いた豪族等々力氏の城はいかがでしょうか。

大きな城跡ではないですが、遺構がよく残る地域の宝ですから大事ににしたいものですね。

この間、城跡の近くを通ったら標柱が無くなってました。。。。。。残念。




~ 参考文献 ~

穂高町誌                     穂高町誌編纂委員会

信濃の山城と館                 宮坂 武男



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  1. 2015/10/05(月) 18:01:51|
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安曇野市   草間肥前屋敷

小笠原氏の重臣草間氏の居館跡

所在地・・・・・・安曇野市三郷盛一日市場

訪城時間・・・・・・0分(近年宅地化が進んでいるのでプライバシーに注意)

危険度・・・・・★☆☆☆☆

訪城日・・・・・2008年7月5日・2013年6月2日



s-IMG_20150729_0002_NEW.jpg
木氏関連の居館跡配置                                      国土地理院2万5千分の1地図使用

草間肥前は小笠原氏の譜代の重臣で府中付近に居住していたが、武田信玄と小笠原氏とn府中の戦いで林城が武田氏によって

攻撃された際に草間肥前は討死している。

その後、草間氏に後継ぎが無かったので二木土佐の二男源五郎が草間氏の養子となり、一日市場に移住したものと考えられて

いる。


futatugi1245 (6)
三郷村誌記載の草間肥前屋敷絵図                                             三郷村誌より転載

s-kusama (3)
草間氏屋敷の北隣にある神明宮

草間肥前屋敷と言われる場所は、一日市場の南西の下長尾と境にある神明宮の北隣とされる。

文化13年(1816)の絵図によると、屋敷跡とされる場所は水田となっていて、その南西に西側20間(36m)、南側26間(47m)のほぼ

直角の土塁と北側に幅4間(7m)の堀跡が見られる。


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2008年の神明宮境内

s-kusama (3)
現在の神明宮

草間肥前について天正12年(1584)と13年の知行地の年貢を記した『給地土地の調書』にその名が見られる。

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2008年時点の草間肥前屋敷

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s-kusama (11)
現在の草間肥前屋敷

草間肥前屋敷は発掘調査もされずに宅地化が進んでおり、残念な状態となっている。

旧状と現状を記事として残しておく。

ただ。。。。。。。。。。。。記事にする内容が無かっただけですけどね(笑)



~ 参考文献 ~

三郷村誌                 (三郷村誌刊行会       平成18年)



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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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