長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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筑北村  不寝見屋敷(大持)

村の権力者は烽火台の元締めか

所在地・・・・筑北村西条伊切                          訪城時間・・・・40分(伊切分校跡より)

危険度・・・・★★☆☆☆                  

訪城日・・・・2012年4月1日

*大持地籍は、現在も個人の持ち分で管理地となっています。許可なく立ち入ると不法侵入となります。


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不寝見屋敷と周辺の城砦              国土地理院2万5千分の1地図使用

立地からすると青柳氏の物見場で、高登屋物見やたかうちば物見と同様、西方の仁科領(日岐氏)を見張ったものと

思われる。

『本城村の文化財』の「不寝見屋敷」の項に、ここの地名(屋号)で「大持」というのがあり、これは広い土地と牛などたくさ

ん持っている事を指し、ここの見張り人は相当の武士であったことを裏付けている。とある。

伝承では高登屋の番兵が居たともいわれていて、西裏の高登屋集落は兵の休む場所であったといわれている。

しかし、「明科村誌」では、高登屋物見の番兵は南下のまたぎ沢と呼ばれる場所に居たのではないかとしている。


nezumi (2)
この図面に沿って紹介していきます。

daimochi (10)
郭②と奥に郭①を見る。

郭②は67×22mで砦内で最大の面積を持ち、ここが砦主の屋敷地であったものと思われる。

現在は写真の方(後ろ姿)が、隠れ家としてたまあに通ってきているとのことであったが、昭和30年代の地図を見ると

この地には2軒の家屋があった事が確認できる。

daimochi.jpg
郭①を見る。

郭①は郭②より約7m 程高くなっており、砦があった時は物見台の役割をしていたものと思われる。

daimochi (2)
倒れてしまった標柱

ここにも倒れてしまっていたが本城村時代の標柱がありました。  すばらしい!

daimochi (3)
物見台であったであろう高台の上を見る。

高台上は、祠が祀られており北側には削り残しの土塁のような高まりが見られる。

現在では松などが茂ってしまっているが、往時は本城である青柳城などが良く見通せたであろう。

daimochi (4)
物見台(郭①)より郭②を見下ろす。

daimochi (5)
郭①に付属する帯郭を見る。

daimochi (9)
郭①・②を遠望する。

郭①・②の南側は登路などがあり険しさは感じないが、郭の北側は傾斜が緩い事もあり切岸が設けられて防備を固めて

いることが窺える。

daimochi (7)

また防備を固めると共にこの緩い傾斜を利用して、畑を営んでいたようで耕作跡が見られる。

写真は耕作地跡と湧水溜まりを見下ろす。

daimochi (12)

この地には深さ約4mの掘りぬき井戸も存在しており、山奥ながら家畜を飼う事や耕作作業・生活には全く困る事が無かっ

たであろう地の利を得ている場所である。

この地を昭和30年代の屋号で見てみると「大持」「本家」「大持の下」がある。

これらの屋号・最も良い立地に住んでいることからこの地に住んでいた人たちがこの周辺の物見を統括する権力をもった

土豪であったことが想像出来る。

また地図では「花岡氏」が多く見られこの方達の屋号には「分財」「庄屋」「大上」「矢塚」などが見られ、この周辺の権力

者をうかがわせる屋号であり、この花岡氏がこの周辺の物見を統括する役目を持った土豪ではなかったかと想像する。

daimochi (17)

今回紹介した不寝見屋敷「大持」のすぐ上の尾根には、「大持の峠」という峠道が通っており「池桜」や「一石」などの

集落や物見の番をしていたと伝わる人たちがいたという地に繋がっていて、この峠を通して重要事項の伝達や命令が

各集落や物見砦に伝えられていたのであろう。

daimochi (18)
峠に残されている石仏

この峠道を使用して潮沢谷沿いの集落と現筑北村の集落を結んでいた重要路であったようで、現在廃村となった集落名

のついた「矢下峯道」や今は一軒のみになってしまった「池桜峯道」などが見られる。

daimochi (16)
誰も通らなくなってしまった峠を見守る石仏

不寝屋敷はいかがだったでしょうか?

ほとんど人が訪れることが無くなった山奥にも、このような峠や物見の砦が数多く残されていることを存在すら忘れられて

しまう前に伝えて行く事が大事なのではないでしょうか。

これからも潮沢沿いに日岐氏・青柳氏・会田氏により数多く構築された有名でもなく、遺構すらあいまいな。。。。。。

しかし、その時代には無くてはならなかったであろう忘れられた存在の砦達を紹介していきたいと思いますので

どうぞお付き合いください。


~ 参考文献 ~

山城探訪           (宮坂 武男)

伊切ふるさと会資料    (桐沢 寛江)

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  1. 2014/05/18(日) 14:52:04|
  2. 筑北村
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筑北村  不寝見屋敷①(鼠屋敷)

青柳氏による境目の砦達

所在地・・・・筑北村西条伊切                      訪城時間・・・・30分(旧伊切分校より)

危険度・・・・★★☆☆☆(廃村となっているのでそれなりの注意が必要)       

屋 号・・・・鼠屋敷                            訪城日・・・・2012年4月1日


nezumi.jpg
不寝見屋敷と関連城砦群          国土地理院2万5千分の1地図使用


かつて現安曇野市の潮沢を境に、日岐氏・青柳氏・会田氏の勢力の境界となっていた。

また、この潮沢を囲む山々には数多くの古道が通過しており、この道の数だけ無名の砦が存在していた。

今回紹介するのは、青柳氏と日岐氏の勢力の境目に築かれた不寝見屋敷です。

nezumi_2014051422202541f.jpg
周辺の見取り図(城館に関わるような遺構は見られないが、戦国期は重要な場所であったのであろう)


この砦は、東側にある西条城の出城として築かれたと見られ、名前の通り寝ないで番をしていたところである。

ただし、この不寝見屋敷には2つあり屋号「鼠屋敷」と「大持」が存在し宮坂氏の山城探訪では「大持」が紹介されてい

るが「鼠屋敷」の方は紹介されていない。

周辺の屋号として「鼠屋敷」「鼠屋敷尾根」「池の下」の屋号と共に現在は西條に移転した寛昌寺の故地であり、集落の

中心をなしていたものと思われる。


syuutoyasiki (2)
旧伊切分校跡から砦跡へ続く山道

昭和30年代の家屋の所在を見ると35軒存在していたことが確認出来る。

現在の伊切は平地に数軒残っているが、山間部となると廃村と同じ状態で住んでいる方は見当たらない。

かつてはこの山道も山間の家々に続く重要な道で、道沿いには神社跡なども見られ、幟旗の残骸も見られたことから

かなり賑わっていたことも感じられたが。。。。。遠いい昔のことであろう。


syuutoyasiki (3)
山道から見た遥か遠くに見えるたかうちば物見

たかうちば物見は、日岐氏との境目の砦で尾根を辿れば日岐氏の猿ケ城や高松薬師城へ繋がっており重要な物見の砦であった。

syuutoyasiki (5)
鼠屋敷の平坦地を見る

山道を30分程登っていくと分岐があり上に行くと「大持」下へ行くと「鼠屋敷」へ通じており下へ下ると広大な平坦地

が見えてくる。

これが不寝見屋敷の一つである「鼠屋敷」で、平坦地には住居跡をうかがわせる造作の跡や水路が見られる。


syuutoyasiki (4)
平坦地に落ちていた臼片を見る。

この「鼠屋敷」には昭和30年頃には、3軒の住居があり最奥には寛昌寺が建立されていた。


syuutoyasiki (6)
鼠屋敷の広大な平坦地

この山奥にこのような広大な平坦地があるのか。。。。と思わせるような広さである。

この広大な平坦地に3軒しか存在していなかったのが不思議であるが、昔は家屋の周囲に畑などを作っていたのでこの

位必要だったのであろう。。。。。。。絶対住みたくないが。。。。(怖)


syuutoyasiki (8)
不寝見屋敷の標柱を見る。

この忘れ去られた場所に標柱が建てられていること自体驚きであるが、それだけこの地の歴史を残したいという情熱も

感じられる。どこかの村の史跡さえ破壊してしまう所と大違いである。


syuutoyasiki (11)
倒壊中の家屋を見る。

不寝見屋敷は2つ存在するが、「大持」は高所に築かれこの「鼠屋敷」は沢沿いの見通しのきかない薄暗い場所に存在

する。では、何故この「鼠屋敷」も砦とするのか?


syuutoyasiki (10)
鼠屋敷最奥の家なのか寛昌寺跡なのか。。。。。分からなかったが写真だけ撮ってきました。

それは、昭和30年代の伊切の様子を見ると分かるが、この「鼠屋敷」の周りの尾根や沢沿いには「寛昌寺坂」

「小切山道」「ヤリコ坂」「池田道」など数多くの古道が存在していたことが窺える。

この「鼠屋敷」はこの脇道を見張る為の番所的な場所であったと考えられるのである。

周囲の『一石』『矢下』などの集落(廃村)は、かつて物見の番をしていた人たちの集落であったとの言い伝えがある

ことからこの『鼠屋敷』もそれらと同じで脇道の古道を見張るために配された人たちの集落であったのであろう。




見るべき城館遺構は無いが、この山間地の奥にも戦乱に巻き込まれた人々の痕跡が残されていた。めったに人が来る事のないであろうこの場所は、みんなに忘れられて自然に帰っていくのを待っているようであった。

次回は。。。。この鼠屋敷よりワンランク上の方の物見でござんす。

お楽しみに!



~参考文献~

山城探訪            (宮坂 武男)

伊切ふるさと会資料       (桐沢 寛江)
  1. 2014/05/08(木) 03:32:05|
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筑北村(旧本城村)  瓜生平

所在地・・・・筑北村岩戸                                訪城時間・・・・5分

別 名・・・・・瓜生長者館                                危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・社宮寺



                 ~瓜生平の歴史~

瓜生長者の館跡と伝えられている。
香爐山の西斜面にあり、山の神や神宮寺をまつったところより一段上に上がった平坦部である。
墓碑もあるが、大きな石地蔵が多数建立されているのが注目される。
この地蔵は、両墓制地方でいう埋墓特有の「受取地蔵」と思われる。
これが瓜生長者の出身地を両墓制の多い北陸地方と推定する根拠である。
吉野時代、南朝、北朝両者が一大決戦をした金が崎城の近くにあり、後詰の城として活躍した杣山城の城主が
瓜生左衛門尉保で、その子、瓜生三郎の館跡と推定する。
杣山城の指揮者は新田義貞の一族である脇屋義冶で、瓜生氏は落城後も脇屋氏と同行している。
一時、中国地方の児島高徳と協力して京都の足利勢と戦った後、関西方面の攻撃をあきらめ、下伊那にいる信濃宮宗親王のもとに退去した。
このとき、児島・脇屋・瓜生の三人はそれまで同様同行したものと考えられ、児島高徳は鹿塩の駿木城に入っていることから、随行の脇屋・瓜生両氏も協力していたものと思われる。
宗良親王は信濃に三十一年間滞在されているが、その内の六年間を仁科氏の案内で更級の里に住まわれている。
瓜生氏が東条に入ったのはその時で、小県方面からの攻撃に対する防備の館だったものと考えられる。
 



                  ~瓜生平の現状~

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館跡の入り口に建っている説明板。

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民家の裏に説明板と登山道があるが、まず地元の方しかわからないと思われるので聞くのが無難です。
道は途中に墓地があるので踏跡程度の道がついている。


ur24.jpg

館跡入り口には虎口状の窪みと写真にあるように土塁状の盛り上がりが見られる。
????説明資料ではかなり古い館跡のはずであるが・・・・これが城郭遺構なら高度な防御だけど・・。


ur3 (2)

館内部にはこのような段郭のようなものが見られたり・・・・

ur12.jpg

縁部には土塁状遺構が見られたり・・・??
畑の跡かな?


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堀状の窪みがあったり・・・って畑に必要ないよな~?

ur22.jpg

削平もきれいで・・・畑跡ではなかったら、かなり使われた中世城郭と云うことになるけど・・素人なので確信がもてない。

ur4.jpg

どう見ても・・郭だよな。。。。(-_-;)
削平地の山側斜面際には・・・・


ur5.jpg

説明ちゃんと読まなかったので知らなかった。。。
館跡を歩き回っているとお地蔵様に見られていた・・・・ 恐怖心が湧きおこってくる・・(゜-゜) 


ur6.jpg

お墓もたくさんある・・・怖い・・怖い・・逃げたい・・一人は怖い(泣)
これが説明にある両墓制のやつか・・・こえ~。


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石列?石積?が見られるが、お墓によるものか、館によるものか恐怖で思考能力が低下していく・・・。

ur11.jpg

このお地蔵様は比較的新しいような・・やっぱ畑の遺構かな・・。

ur25.jpg

この削平地を区画するようにある大きな土塁状遺構は畑には必要ないような・・。
畑跡と館跡の遺構が重複して存在しているのであろうか・・・・誰か研究して・・・一人では怖くて行きたくない。


ur26.jpg

尾根先の平坦部に築かれている。
(写真にある電柱の奥に説明板がある)


ur26 (2)

後方に瓜生平と麓にある地蔵堂跡を見る。

瓜生平はいかがでしたでしょうか・・・中々資料に出てこないものを探すのも苦労するものです。
近くには番所跡が存在しているのでもしかしたらこの館も街道の監視という役目をになって改修されていた可能性も捨てきれませんね。誰かが研究していかなければ忘れ去られるのも時間の問題かもしれません。



~参考文献~

本城村の史跡と歴史を語る文化財   (本城村教育委員会)
  1. 2012/05/26(土) 23:56:26|
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筑北村(旧本城村)  小屋ノ平

会田氏関連城跡?


所在地・・・・筑北村乱橋西村                             訪城時間・・・・0分

別 名・・・・小屋場                                      危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・?



                 ~小屋ノ平の歴史~

旧本城村刊行の資料には、
 「小屋」は小さい家の意味ではなく、戦国時代ころまでの山城などの小屋をそう呼ぶことが多かった。
武田信玄は、自分で攻撃する以前に、山本勘助等の働き諸城を自分の勢力下に納めている。
それらの先遣隊の根拠地で、いつも虚無僧姿の間者が出入りしていたものと思われる。とあり、
長野県史蹟名勝天然記念物調査報告 第7集の小屋ノ平の項には、
 八木部落の東南方、大洞山より西にでている尾根の北側にある平地である。
小屋ノ平に立てば立峠・唐鳥屋城は指呼の間に在り、東條城・小仁熊城・青柳城が見える。
小屋ノ平は立峠から乱橋に入ってくる敵に対し、側面から要撃するために設けられた隠城の一種ではないかと思われる。
構築主については、南方に対しての備えであることから上杉氏によって設けられたと思われる。
なお、八木部落北方小尾根先の字山崎地籍に旗塚が七基のこっている。
これは、東條城の固めとして築かれたものと思われる。としている。
これらの資料を考えると・・・現在、西條・仁熊と乱橋間の山に挟まれた細い道(高速と国道403号線が交わる部分)を監視するための砦であったのではないだろうか?
築城者を考えてみると・・・・一番重要になるのが唐鳥屋城が会田方なのか青柳方なのかである。
虚空蔵山城と唐鳥屋城の位置関係をみれば、会田氏ではないかと思われ、乱橋にある帯刀屋敷は唐鳥屋城主の屋敷とされているので、乱橋一帯は会田氏の領地であったのではないか?
とすれば、近くにある小屋ノ平は青柳氏に備えた会田氏の境目の物見の砦と考えられるが・・・
どうでしょう?



                 ~小屋ノ平の現状~

ko9.jpg

ちゃんと標柱が建っています。
まあ、どこでもそうなのですが・・標柱が建っているのは素晴らしいのですが・・・
そこまでの道のりがわからないんですよね~そっちの方が大事かも。(>_<)


ko15.jpg

畑にでもなっていたのでしょうか?
山側には段々が見られます


ko3.jpg

写真の民家部分が小屋ノ平と思われる。
手前には・・・自然の沢が見られ防御施設として利用されていたでしょうね。


ko15 (2)

自然の沢であるが竪掘状に落ちていて斜面を切り離している。

ko11.jpg

斜面の上から小屋ノ平を見下ろす。
家が建つくらいなので物見としては大きい方ではないでしょうか。


ko12 (2)

小屋ノ平と下の道は乱橋宿内を通過してきた善光寺街道から分かれてきた道である。
この道を見張っていたのであろう。


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小屋ノ平裏には畑の跡や道の跡もありこの道を通って小屋ノ平に入っていたのか唐鳥屋城へ通じていたのか・・。

ko7.jpg

小屋ノ平から見る本城(自説)の唐鳥屋城を見る

ko9 (2)

アップで唐鳥屋城を見る。
唐鳥屋城の削平が美しいですね~ 
  (#^.^#) 


k90.jpg

乱橋部落から小屋ノ平を遠望する。


筑北村にある城跡はおおむね整備されず山奥の深い藪の中にあることが多い。どこもそうだけれど・・
帯刀原・小屋場・不寝見屋敷・高戸屋など多く地名が残っているが・・このままでは忘れ去られてしまうのではないか・・・
早く行かねばとあせってしまう今日この頃です。
どんな小さい城跡・遺構・伝承地・武将の墓石など必ず探しあてて伝えていきたいと思います。


~参考文献~

本城村の史跡と歴史を語る文化財      (本城村教育委員会)

長野県史蹟名勝天然記念物調査報告 第7集復刻  (長野県文化財保護協会  昭和50年)
  1. 2012/05/25(金) 23:30:31|
  2. 筑北村
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筑北村(旧本城村)  帯刀原

会田氏関連城跡

所在地・・・・筑北村東乱橋                               訪城時間・・・・5分

別 名・・・・帯刀屋敷                                  危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・ゴミ処理プラント(廃業)



                  ~帯刀屋敷の歴史~

「長野県名勝天然記念物調査報告 第7集」帯刀屋敷とその他の項に、
乱橋部落の東方に「だいとう屋敷」と称する箇所があり、両側は小さい沢によって境された二十四間四方の小郭が見られる。
土地の人々は、応仁の乱の頃、ここに唐鳥屋城主 藤沢帯刀なるものが居館していたと伝えるとある。
 旧本城村が刊行した資料には、
明治九年刷の「東筑摩郡誌」には、「唐鳥屋古城跡、昔時応仁年間藤沢帯刀なる者云々」とある。
しかし、この記述では、城主の守本尊である鏡大明神に奉られていた古鏡や菩提寺にあった吉野時代作と認定される聖観音立像と時代が矛盾する。
大葭原郷開基には「寛元二年(1244)藤沢大道という者、乱橋という所に館を建て居城すとあり、この方を採用したい。
この藤沢氏は、海野氏に係る藤沢氏で、上社大祝敦真を先祖としている。
木曽氏とも関係があって、初めの藤沢大道を木曽氏に用いられた帯刀に変えたものかとも考えるが、戦国時代にはこの藤沢氏は在城していないように思われる。
 「高白斎記」では、会田虚空蔵城を「会田」と表現し、唐鳥屋城を「海下」といっているように思われる。
つまり、城主は岩下豊後守であるといわざる得ない。
大道の館は、村の高札場より四町余り東西にあり、「八間半に三間半の御館なり」と記述されている。

他の資料を見た時たしか・・
思い出した・・・・(*^^)v
四賀村誌に「高白斎記」にある「海下」と略して書かれているのは、「海野系の岩下氏のことだ」と郷土史家の堀内千万蔵氏も唱えていたとあるしな~?
確かに会田氏関連の城だと思うが・・城主が岩下豊後守が直接いたとは思われない。



                   ~帯刀屋敷の現状~

di1.jpg

屋敷跡のある台地を見る。
帯刀原は乱橋部落など周囲の部落より高台にあり防御に優位な場所を選んでいることがうかがえる。


di2.jpg

台地上の先端にある目印のプラントを見る。
プラント脇の空き地に車を止めて歩く。


di3.jpg

屋敷跡にはプラント裏の林道を歩いていきます。
写真では奇麗に見えますが轍が深かったり、崩れてしまっていたりで普通の車は通れないと思います。


di6.jpg

林道を歩いて行くとこの「帯刀原」の標柱が建っています。

di5.jpg

周囲はただの・・藪・・・?
旧本城村刊行の本の写真では奇麗な田んぼだったので写真を参考に探していたから・・・かなりの苦労をした。
これは地元の方に聞かないと見つからない・・・。


di8.jpg

周囲はすべて藪です。

di7.jpg

よーく見ると・・畑や田んぼの跡がかすかに感じられる。

di4.jpg

現状、屋敷跡は田んぼの跡の段々が何段も確認でき、屋敷があった時地形はどのようになっていたのか確認は難しい。

この林道あたりを伝っていくと唐鳥屋城の北か北西尾根に到達するのであろうか?
だとしたらこちらの尾根筋が大手ということになる。
この尾根には多くの段郭があるというのでやはりこの尾根筋が大手ということになろうか?
このような地元にしか知られていないような城館跡を探し出すのも面白いものでお勧めですよ。



~参考文献~

本城村の史跡と歴史を語る文化財   (本城村教育委員会)

長野県史蹟名勝天然記念物調査 第7集復刻  (長野県文化財保護協会  昭和50年
  1. 2012/05/25(金) 22:15:06|
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ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

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