長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

生坂村  中山城②

写真が多くてウンザリしてる方も。。。興味を持って見ていてくれている方も。。。。

中山城の第2回が始まりますよ~。 !(^^)!


nakayamasiro.jpg

こいつを参考にみてやってくださいまし~。

 ③本郭・・・・の続き。 

ikusakanakayama10.jpg

本郭にある中山神社ですが。。。写真右に見える土盛。。。これが難題なんです。

ikusakanakayama9.jpg

ikusakanakayama22.jpg

跡マニアとしては土塁があるとテンションが上がるんですが。。。。
池田町の遺跡という資料では本郭は神社の造成によって原型を留めていないとある。。。
よ~く見ると下の写真の土盛は神社の形に削られていることがわかるし、舞台裏の土盛の高さとも同じ位である。
やはり神社造成の時の削り残しという教育委員会の言うことが正しいと思うのだがいかがだろうか。。?


 ④二の郭? 

ikusakanakayama15.jpg

本郭の神社裏から虎口のような通路が二の郭④に通じている。 

ikusakanakayama23.jpg

 ③本郭から見下ろした④二の郭である。
④の二の郭は城内二番目の広さで三角形をしたきれいな削平地となっている。


ikusakanakayama13.jpg

 ④二の郭から本郭切岸を見る。
やはり①の郭と同じように切岸があまく造られている。 


 ⑤二の郭下にある郭 

ikusakanakayana13.jpg

 ④の二の郭の下にもう一つ郭があった痕跡があるが、車道により削られていて細長くなってしまっている。 

ikusakanakayama34.jpg

 ⑤の郭を下から見上げる。半分くらいは削られているかな。 

 その他の写真 

ikusakanakayama44.jpg

 古い石仏と中山城 

ikusakanakayama24.jpg

 尾根の上を通過し城跡も削ってしまっている車道。
かつてはこの車道もただの尾根道であり、この中山城主もこの尾根道を通っていたようである。
尾根上に城主が休憩をしたと伝えられる茶屋峰という場所がある。
 


ikusakanakayama35.jpg

城址から見る明科方面

ikusakanakayama31.jpg

ikusakanakayama47.jpg

城跡東側斜面下には、畑などが広がっており、平地なども見られる。
池田町の遺跡地図では、このあたりまで中山城の範囲となっているので、このあたりに居館などを
想定しているのであろうか。



以上、中山城を隅々までお送りしてきましたが、いかがだったでしょうか。

感じとしては、これからお送りしていく予定の池田町の城跡の多くに見られる形で、堀が見られず、

切岸が甘い防御意識が低いあくまで物見の城といったものである。

なぜ、池田町の城はこのようなものが多いのか?

中山加賀守のように歴史にやっと名が残る程度の土豪が多く力が無い為に築城技術も無かったのであろうか。

これから池田町を見ていく過程でわかっていければいいと思います。 お楽しみに!

PS..中山城は次に紹介する白駒城と共に日岐氏の支城とされ日岐城の搦め手方面を守っていた。
(書き忘れちゃった (*^^)v )
スポンサーサイト
  1. 2012/08/07(火) 03:41:21|
  2. 生坂村
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

生坂村  中山城①

所在地・・・・生坂村長谷久保                              訪城時間・・・・0分

別 名・・・・北山古城・城峯                               危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・中山神社



                 ~中山城の歴史~

「生坂村誌」によると、

長谷久保の山頂、標高780mで、中山神社の境内となっており本郭は社殿と前庭となっている。

東西50m・南北33mで社殿の西南側に土塁と思われる跡が残っている。

北側の帯郭と思われる所は、祭りの山車を引く道となっている。空堀は確認できない。

「信府統記」に「中山城 本城の平東西十間、南北四間城主知レズ」とある。

城主は中山加賀守棟形と伝えられる。

東北尾根続きに茶屋峰があり、城主がお茶を飲み休んだ所と云われており下方に井戸がある。

南にノゾキ・城日向・こや畑の地名がある。

本城からの眺望は良く、北山城と万平、こや城との連絡的な物見台であろう。とある。

また「池田町誌」記載の資料では、北山古城地として。。。

城峯ト申(す)所、古城の由二候得ども城とも不知、本村(北山村)より午方二十町程。

(里老、中山城と言い伝える。)とある。

資料に出てくる中山加賀守については、広津法道の三社神社境内には、嘉吉年間(1441~1443)中山加賀守

勧誘の木柱がある。また、中山加賀守一族の守り本尊と言い伝える毘沙門天像が栂の尾にあるという。

城跡にある中山神社も中山加賀守の勧誘と伝えられる。



                  ~城跡の現状~

nakayamasiro.jpg

いつもながらの成長しない図ですが。。。 (;一_一)  参考にしてご覧ください。

 ①本郭南側の郭 

ikusakanakayama1.jpg

ikusakanakayama4.jpg

郭①から見た本郭
郭①は削平が甘くこれが城内に入るのかは疑問である。
ただ、この場所を祭りの山車が通っていたようなので改変があるかもしれないが。。。
本郭の切岸もあまくこちらからの防御意識も薄いように見える。


 ②帯郭(山車の通り道跡) 

ikusakanakayama2.jpg

郭①から見た②の帯郭の形状
きれいな郭の形状となっているが、城の物としては余りにも残りが良すぎる気がするが。。。。
山車を通していた時に帯郭をいじっているのであろうか。


ikusakanakayama5.jpg

ikusakanakayama7.jpg

郭①側の本郭切岸の甘さに比べ、②の帯郭側の本郭切岸は明確になっていてこのあたりはかなり改変がある
ものと思われる。(そう思う根拠としては。。。基本的に池田町にある城跡は切岸が甘くこのように明確に
残っているものは渋田見城・中島城くらいなものか。。)


 ③本郭(中山神社境内) 

ikusakanakayama21.jpg

車道から本郭である中山神社境内への入り口には立派な城址碑が建てられている。
また、周辺の集落は過疎化で廃墟が目立つのに、鳥居が立派で境内もきれいにされており周りとの隔たりを感じる。


ikusakanakayama11.jpg

本郭にある神社の舞台を見る。

ikusakanakayama8.jpg

この舞台の裏には土塁といわれている土盛が残る。
(ほとんどの資料ではこれを土塁としているが、池田町の遺跡という資料には神社境内造成の為に広く削平
され現状をほとんど残さないようである、とありこの土盛は造成時の削り残しと考えているようである)
 


ikusakanakayama18.jpg

本郭と神社社殿を見る。
池田町の遺跡に記載があるように平地がきれいすぎて明らかに造成がされていることがわかる。
 


今回はここまで、、、、中途半端ですね。。。 (;一_一)

結構好きな場所で何回も通っているのであまりにも気持ちが入ってしまい。。。。。

写真が多くなってしまった。。。。

ま~あ、次回も細かく解説しますよ~  お楽しみに!

~参考文献~ 
 


生坂村誌      (生坂村誌刊行会    平成9年)

山城探訪      (宮坂 武男      平成10年)

池田町の遺跡    (池田町教育委員会   1994年)

池田町誌      (池田町誌編纂委員会  平成4年)
  1. 2012/08/05(日) 23:52:55|
  2. 生坂村
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

生坂村  矢殿

所在地・・・・・生坂村下生坂丸山(入山とも。。。)

訪城時間・・・・丸山集落から約2時間くらい(清内路方面からは5㎞くらいとのこと)

訪城目印・・・・廃屋と墓地



              ~矢殿の歴史~

生坂村誌には、

明治六年の切図では矢殿として一二筆で畑がニ反八畝ある。

矢殿は小部落地名として残るが地滑りの為に遺構はわからない。としている。

弓矢の矢を作っていたとの伝承があるようであるが、詳細は不明である。

近くに矢本の屋号の家もあるようだ。



               ~矢殿の現状~

yatono6.jpg

yaono14.jpg

矢殿は周囲を竹藪に囲まれて、正面(南側)は沢が流れている。
丸山からの道は殿屋敷の湿地帯を通り過ぎ、崩落地を越えたら沢を渡りこの矢殿へたどり着く。
写真のように竹藪に囲まれているので道もあいまいになっており通り過ぎるのに苦労する。
ちなみに周囲にある竹は矢竹とは種類が違う竹である。


yatono2.jpg

yatono16.jpg

矢殿地籍の平坦地。
かつては土蔵・母屋など大きな建てものがたっていたようである。
現状は藪となっている。 
 


yatono7.jpg

yatono9.jpg

yatono11.jpg


建物の痕跡としては全体的に崩落してしまい、この柱しかないが規模の大きさはうかがえる。
なにが建っていたのかは分からないが、礎石も確認できた。


yatono12.jpg

歴史を感じるものとして、かつて牛にひかせて田んぼを耕していたこの器具が残っていた。
矢殿の田んぼは建物がある平地から沢へ下って行った所の沢沿いにあったらしく、現在も痕跡は残っている


yatono1.jpg

竹藪の中にひっそりと建っている「矢殿家」の墓である。
この矢殿家とは屋号のことであり、ちゃんと書くと矢殿井口家である。
矢殿家は、現在も五月に毎年訪れて墓参りと祭りを行っていて、その為に矢殿周辺と清内路からの道は整備さ
れているのである。

こんな山奥まで墓参りを毎年している矢殿家を自分も含めて現代の人々は見習う必要があると思う。


矢殿地籍を書いてきましたがいかがでしたか?

矢殿が城館跡との証拠はないものの、同じ渓谷に二つの殿屋敷の存在と矢殿の地名、大城存在を考え合わせれば
ここに城館があってもおかしくはないようであるが。。。。
決定づける遺構・資料が存在していないため不明としか言いようがないが城館の候補として記載しておく。



~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会    平成9年)
  1. 2012/08/05(日) 01:45:23|
  2. 生坂村
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

生坂村  入山(丸山)殿屋敷

所在地・・・・生坂村下生坂入山(地権者の方はこの場所は丸山であるとおっしゃっていた)

訪城時間・・・丸山集落から1時間から1時間半程度であるが道は崩落により存在しない



訪城目印・・・なし(この地の出身者以外はわからないと思われる)



               ~殿屋敷の歴史~

基本的にはこれに関する歴史を記した資料は今のところ見たことがありません。

資料にっては、矢殿屋敷と記されているが、現地では殿屋敷と矢殿は別のものとして認識されているようである。

何かの資料(忘れてしまいました、すみません)にはこの殿屋敷に丸山氏の配下を置き街道の監視に充てていた

としているものを見た気がするが、詳細は不明である。



               ~殿屋敷の現状~

maruyamachizu.jpg

(国土地理院 2万5千分の1地図を使用)

iriyamatonoyasiki.jpg

記憶を頼りに書いてみました。(藪が多かった為詳細は不明)

湿地帯・畦道?

tonoyasiki227.jpg

tonoyasiki212.jpg

tonoyaski216.jpg

この湿地帯が地権者の方が教えてくれた「殿屋敷」である。
かつてはこの場所に家が建っていららしい。
周囲には電線や電柱の痕跡があり確かに人が居たようであるが、現状は沢の氾濫や地滑りにより湿地帯となり
遺構などは見られない。
ちなみに。。。この地には昭和20年頃には電気が通っていたということである。
写真にある道のような場所は、現在人は余り入っていないので獣によるものと思われる。


田んぼ跡

tonoyasiki211.jpg

居住区(湿地帯)と田んぼの間には土手が造られている

tonoyasiki2345.jpg


tonoyasikii255.jpg

古い沢を利用したと思われる田んぼの跡が3~4段確認出来る。
この田んぼはかなり狭いもので一家を養うことはできなかったであろう


居住区?

tonoyasiki223.jpg

この場所は、湿地帯と田んぼを挟んで上部に位置し、明らかに切岸状に壁を造って区別している。
(下の居住区が流された跡の居住区であろうかここなら流される心配はない)
  


tonoyasiki229.jpg

tonoyaskiki244.jpg

細長い広大な平地があり、複数の家屋を建てられたと思われる。
(現在、使用された痕跡は確認できないが、一部に土質の違う黒土が見られた)


古道

tonoyasiki226.jpg

tonoyasiki233.jpg

平坦地の上部に一段の高まりを残し道が造られている。
(写真が微妙ですみません)
道は丸山から山の上の尾根上を通っていると思われるが入山方面は崩落のため寸断している。


tonoyasiki266.jpg

殿屋敷を見る。
周囲は崩落が進んでいて道などはわからなくなっていて、斜面などは今も崩落が続いているようであり、
近うちに地形が変わる可能性がある。


入山(丸山)殿屋敷いかがでしたでしょうか?
ただの屋敷跡のレポートでしたがこのような山奥に人が住んでいた。。。という驚きと何故このような
場所に居たのだろうか?という疑問がわく場所でした。

殿屋敷という名が伝わっていることから殿と呼ばれる位の高い人物がいたことは確実であろうが
此処にいた存在意義は何だったのであろうか?

地権者の方の話では、日岐の表街道が災害などで通れない場合は、丸山から入山を通り清内路方面に抜ける道が
裏街道として存在していたとのことなので、この地の人物は裏街道を見張る仕事をしていたと考えられるのでは
なおだろうか。

この殿屋敷は崩落により原型は留めていないので保存のしようがないが、この地が殿屋敷であるという標柱・
説明板などの対策をしないと忘れ去られるのは確実であろう。

現在、周囲の地面にひび割れや崩落痕が見られるので地形が変わる可能性が大である



~参考文献~

生坂村誌 (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士 (丸山 楽雲    平成21年)

*両資料とも、地図に殿屋敷の位置の記載があるのみである。
    
  1. 2012/08/05(日) 00:10:36|
  2. 生坂村
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

生坂村  丸山殿屋敷


所在地・・・・生坂下生坂村丸山                         訪城時間・・・・丸山集落から10分

別 名・・・・こうぼうさま               



               ~丸山殿屋敷の歴史~

「生坂村誌」の丸山殿屋敷の項には、

下生坂丸山北方1㎞の地で地滑りの為に地形が変わり、昭和39年約330平方mの畑と

660平方mの原野を残すのみである。

丸山氏発祥の地と伝える。(丸山益延)とある。

また、「信濃古武士」には、

日岐大城城主丸山氏は、桓武平姓仁科氏で、仁科盛忠の弟、盛光を日岐六郷に封じ、

丸山地籍に居館して丸山氏を称す。とある。

この二つの資料を合わせると、丸山地籍の殿屋敷は仁科氏から分かれた丸山氏が最初に居館を

築いた場所である。ということになり、丸山地籍の伝承の中に、平家の落人伝説があり、

仁科氏も平家とされていること、また、丸山の地が山々に囲まれていていかにも隠れ住む場所

というような立地などを考えると仁科の一族が戦いに敗れてこの丸山に落ちてきて丸山氏を

名乗ったというのは想像出来そうであるが。。。。

また、「東筑摩郡誌」の丸山氏ノ邸址の項に、

生坂村字丸山  日岐大城の南、二十町許に殿屋敷と称し約百坪の平地あり。

口碑に往昔 丸山肥後守が居館のありし所なりといふ。ともある。



                ~殿屋敷の現状~

maruyamachizu.jpg

(国土地理院 2万5千分の1地図使用)

maruyama5.jpg

丸山殿屋敷を見る。
殿屋敷は訪牧場跡(以前は畑)の急斜面に所在し、現在、遺構の確認は出来ない。
ただ、説明にあるように崩落により遺構が消滅しその斜面を利用して畑や牧場を造ったとも考えられる。 


maruyamatonoyasiki2.jpg

訪牧場跡にポツンと立つ木がある、ここ周辺が丸山殿屋敷である。
丸山の集落があった頃は、この木ではなく一本の松が立っていて麓に祠があったらしい。
集落では「こうぼうさま」と呼んでいたとのことである。
ここが丸山氏発祥の地となるのであろうか? 
 


maruyamatonoyasiki5.jpg

この殿屋敷は、丸山氏発祥の地とされている割に集落はすべて井口氏であり、丸山氏は存在しなかったようだ。
地権者の方に聞いた話では、そのような話は聞いたことがあるが古文書を持っていた一番古かった家が火災に
合いすべての古文書を焼いてしまいこれを裏付けることが出来ないらしい。

関係はないが、この家が火災に合い焼失した時に周りの家は「うちだけ残るのは申し訳ない」ということで
消火をせずに周りの家も焼いてしまった。という話があるらしくこの集落の絆の強さがうかがえる。


maruyamatonyaskii7.jpg

枯れてしまった松の痕跡。祠の痕跡は確認できなかった。
この殿屋敷を訪れて感じたことは、殿屋敷の位置である。
殿屋敷の存在する場所は、丸山集落が上段にあり集落から続く斜面の中段にあることである。
通常、領主であれば逆に集落を見下ろす位置にあってもよさそうなのに逆に見下ろされる位置にあることである。
そう思うと。。。平家の落人伝説である。
この丸山集落の人々がのちに丸山氏を名乗る人を匿っていた。。。。とは考えられないだろうか。
そうであれば集落の人々は井口氏でもいいわけで。。。


maruyamatonoyasiki10.jpg

想像では、この後に丸山氏を名乗る人(高貴な)が住んでいた場所は、集落からは見下ろす位置にあるが
周りは山に囲まれさらに集落がある高まりがあるおかげで周囲からは隠れて見えない。
更に三方はこの深い沢に囲まれていて守るには有利な立地である。
その後、この丸山氏を名乗る人が日岐に進出して勢力をもつと、この館があった場所は神聖な場所として
祠が祀られたのではないだろうか?(城跡にもよく祠が祀られることが多い) 


以上、殿屋敷を訪れて感じたことを書いてみました。
あくまで想像・感想なので史実に沿っていないかもしれないが、この地にいてこのように感じたしだいである。

今回はこの集落出身の地権者の方により行くことが出来たが、標柱・説明板などこの地の歴史を表すものが
ないし、あくまで私有地で関係者以外訪れない場所である為、中々伝わることが無いと思われる。
県内によくある山間の廃村と同じでこの場所も忘れられていく存在であることが悔やまれる。

このブログによって少しでも伝えることの手助けになれば幸いであるし、関係者はその努力をしなければいけない
と感じる次第である。
早期の対策が望まれる。

~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士   (丸山 楽雲     平成21年)
  1. 2012/08/04(土) 16:38:55|
  2. 生坂村
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
次のページ

プロフィール

ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
初めまして (1)
信濃の武将 (11)
松本市 (47)
安曇野市 (33)
塩尻市 (15)
筑北村 (5)
生坂村 (36)
池田町 (18)
箕輪町 (13)
伊那市 (7)
辰野町 (2)
下諏訪町 (9)
諏訪市 (1)
中川村 (3)
駒ケ根市 (6)
ニュース (4)
廃村 (1)
伝説 (2)
本日の訪城 (14)
飯島町 (1)
武将の墓地 (4)
松川村 (3)
千曲市 (1)
南箕輪村 (1)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。