長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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池田町  鵜山氏館

2年にわたる探索ついに断念!

所在地・・・・・池田町鵜山右衛門屋敷(確定不可)

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2年間で分かった鵜山地区周辺の史跡配置               国土地理院2万五千分の1地図

最初に鵜山氏について知ったのは『池田町誌』の『鵜山(仁科)氏』の項であった。

『池田町誌』には鵜山氏については詳しく書かれていないので『信濃池田町史話』を参考に書いてみると、

『筑摩安曇古城開基』に『(前略)、日岐城の一族にして鵜山虎之助の居城なり』

『北安曇郡誌』に『この城には始め神田将監之に拠り後、後の仁科の臣鵜山十太夫守りし所という。』

とあり鵜山氏が鵜山の地を治めていたことと、仁科の一族であったことが分かる。

今回は紹介しないが、鵜山氏の詰め城と思われる鵜山城については、池田町の遺跡に書かれている場所と、

宮坂氏が示す場所が違っている。

(町が示す場所は調査済み・宮坂氏の示す場所は尾根を間違え未調査でここを調査できれば池田町の城は終了)


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今回2年もかけて散々探し回った館跡については『池田町誌』に、

『鵜山氏館跡と伝えられる屋敷のあとが、鵜山の水田地帯の中にあって右衛門屋敷と言われている。

右衛門屋敷については『明暦弐申より元禄十二辰迄、信州安曇郡池田組鵜山村新切検地帳』(矢口源衛家文書)

のうち明暦弐申ノ新切(1656)に下田・下下田合三反七畝二十歩があり、また、同年の中野郷村新切検地帳

(滝沢久雄家文書)には下下田七畝二十六歩があって、両村合わせて四反五畝十六歩の右衛門(介)屋敷あとが

開田されている。(後略)。』


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鵜山氏館跡から見つかった面                    池田町誌掲載写真を転載

この屋敷の隅に小祠があって、この祠の中から『文化元年(1466)3月、奉納右衛門介』と刻銘がある天狗面と

無銘であるが、同年作と推定される烏天狗面が発見され鵜山の四神社に所蔵されている。


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面が所蔵されている鵜山の四神社(見たことがある人はかなり少数のようである)

この小祠は右衛門介屋敷の祝殿で、鵜山氏はここに住み東方鵜山上に鵜山城を構えていたものであろう。

としている。(町誌抜粋)


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聞き込み(中之郷の方々・中之郷四神社氏子総代・鵜山の方々・矢口源衛氏・池田町教育委員会)の中で、鵜山・中之郷

にある四神社の旧社地が鵜山にあったと聞き調査した。(上図の赤丸の位置が四神社旧地)


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四神社旧社地(構造改善により中之郷の四神社へ遷宮)

『池田町誌』に掲載の検地帳では鵜山村と中ノ郷村にまたがって右衛門屋敷があったと読めるのでここではないかと

考えたのであるが、矢口源衛氏(検地帳持ち主)によると構造改善前は森になっていたとの話を聞くことができた。

池田町誌の記載検地帳には右衛門屋敷は元禄には開田されているので。。。。違うのか?


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中之郷の四神社に建てられている遷宮記念碑

碑文には『当神社は遠い天平の昔、奈良正倉院の麻の調布の袴に銘文を止める前科郷開発の祖神として奉祀されたと

考察され、鎌倉時代この地に興った前見郷守護の霊神として(中略)、弘治2年田中の宮地に遷宮をする。(後略)』

*弘治2年は1556年にはこの辺りは武田氏の領地となっているが、仁科一族の鵜山氏もこの地にまだいたであろうが

四神社にある面の政策時代の文化元年(1466)とは大きく離れているが。。。。。。。遷宮と共に先祖伝来の面を神社に

治めたとも考えられるが。

神社の旧社地を構造改善前に発掘調査したところ、神社の台座と古銭などしか出土しなかったらしいので、違うので

あろうか。


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旧社地から中之郷の四神社に遷宮した本殿(本物)

ただ、鵜山氏の詰め城の麓には殿屋敷と称す削平地があるらしくそこに居館があったのではないかとの説もある。

また、この中之郷四神社の前には才の神遺跡がありここに元屋敷と呼ばれる地もある


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元屋敷地籍

ここには室町時代頃に有力者の屋敷があったとか集落があったなどの伝承があるらしい。

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中之郷四神社と伝鵜山氏宝篋印塔

『池田町誌』には「中之郷集落の東方中山丘陵の中断に土饅頭形の土盛(墓丘)の上に中世末と推定される宝篋印塔

二基の残欠がある。慶安四年の中野郷検地帳には『五輪』の地字が見える。

明治九年の七貴村誌に姓不詳右衛門の墓石との言い伝えを誌している。

この子孫と思われるものが、天正九年(1581)伊勢神宮の御師宇治久家の誌した『しなのの国道者御祓くはり日記』に

  『しなの分  なかのこう    にしなすわ千世殿    のし五十本    ちゃ十袋』

とあることによって、仁科氏系諏訪千世(か)の祖先と解される。以後の動向は不明である。』とある。


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五月の墓域。。。。。。。まったく手入れがされず藪です。

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宝篋印塔の全体が見えません。。。。。。。蛇が出そうです(汗)

そこで。。。。。用意しました。


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11月頃の宝篋印塔と鵜山氏が治めた鵜山・中之郷を見下ろす。

いかがだったでしょうか。。。。。。。。見つかりませんでしたが、ガンバリマシタ。

旧四神社社地のところが一番怪しいと思ったんだけど、鵜山の長老である矢口源衛氏ですら聞いたことがない!

とのことでもう手がかりを失ってしまいました。

ここで断念とします。(興味を持った方は探し出してみてください)

ここの所在地が見つからなかったということで、宮坂氏が示す鵜山城を調査すれば池田町の城館は終了となります。

長かった~。。。。。長々と書いてきた記事を最後まで見ていただきありがとうございました。


また、調査にご協力いただいた鵜山・中之郷・教育委員会の皆様ありがとうございました


~ 参考文献 ~

池田町誌             (池田町誌編纂委員会   平成四年)

信濃池田町史話         (仁科 宗一郎       1964年)
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  1. 2015/05/19(火) 20:29:34|
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池田町  鍛冶屋日影集落の詳細

前回まで2回に分けてお送りしてきた鍛冶屋日影陣屋敷山城ですが、麓にある鍛冶屋日影集落が根小屋であった
と言われております。
ただ、現在、3戸という小部落となり歴史が途絶えてしまう前に住民の古老にお話しが聞けたのでここで日影集落
について書いていきたいと思います。

お城の話ではないですが読んでくださいね!



集落の歴史について。。。。  

hikegezinn333.jpg

現在の日影集落(民家の為、正面からは写していません)


「池田町誌」によれば、

慶安3年(1650)~寛政元年(1789)に書かれた「池田組明細帳」によれば、「村より酉(西)方鍛冶屋 

悪所八斗 出水懸り」と記されている。

かじや日影には、天神・雨吹・鍛冶屋・池ノ平の地名がある。「池田組明細帳」にある鍛冶屋・池ノ平は現在

かじや日影村に包含されている。

かじや日影は桐山沢に東面した山腹斜面に立地し、小祠に氏神金山様が祀られ、村の上方に清水地名をもつ飲用・

灌漑用の水源があり、これを導水した水田は昔から早魃の伝承が無い。

稲作に恵まれた11枚の棚田が凹地溝に続き、中には1枚で四畝の大田があった。

背後の山腹に陣屋敷の地名があり、中世ここで烽火を上げた伝承がのこる。

鍛冶屋の名は陣屋敷にかかわる鍛冶の人々の村と考えられ、鍛冶の神金山様を氏神とした古村と推考される。

とあり、かなり古くからある集落であることがわかる。


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現在の集落へは細~い道しかありません 注意してね (;一_一) 

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集落から見た鍛冶屋日影陣屋敷城
集落の背後を守っている感じでてますね~ !(^^)! 


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集落にある唯一の墓地。。。。。多くの墓石がありかつてこの集落にも多くの人がいたんですね。

hikagezinn324.jpg

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墓石の中には古いものやきれいな彫刻?されたものがある。昔は裕福だったのかな~今は3戸しかないけど。。。

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集落の北側に広がる水田地帯です。。。昔ながらの萱葺屋根の農具倉庫があります。
歴史を感じますね。。。


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現在、広大な水田地帯だった場所も現在は。。。。小分けにされた細々な畑になってしまいました。
集落の住民はほとんどの方が高齢者ですからしょうがないですが・・・時代の変化ってやつですかね。
城跡へは、奥の方に見える鉄塔の所から登ります。


hikagezinn445.jpg

旧水田地帯から見る生坂村方面

~ 集落の氏神  金山様 ~

集落の歴史にもあるようにこの集落に鍛冶屋がいたとあり、集落の古老の話でも、

「この集落に落人が来て、鍛冶屋をやったので鍛冶屋日影という集落になり、金山様の祠はこの

鍛冶屋さんを祀ったものである」と言い伝えられていると教えてくれた。


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集落のはずれに祀られている金山様を見る。

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祠が新しくされており今でも大切にされていることがうかがえる。

鍛冶屋日影集落をお送りしてきましたがいかがでしたか?

現在3戸となりその内2戸は高齢者でした。。。。これからこの集落はどうなっていくのでしょうか。。

この陣屋敷・金山様の伝承などが廃れていかないよう多くの努力が必要でしょう。

これからも伝承などを伝える集落などがあればどんどん忘れられないように書いていきたいと思います。


~参考文献~ (集落・陣屋敷城共に)

池田町誌       (池田町編纂委員会    平成4年)

池田町の遺跡     (池田町教育委員会    1994年)

山城探訪       (宮坂 武男      平成11年)
  1. 2012/09/25(火) 21:49:41|
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池田町  鍛冶屋日影陣屋敷山城②

池田町最奥の城!鍛冶屋日影陣屋敷の第2回目を始めま~す! 

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~ ④の郭 ~

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 ③の郭より見た④の郭
この陣屋敷の中で最高所にある郭で、一番広い場所である。


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城内最大の郭で削平もきれいにされており、重要な場所であったことはわかるが、背後には何の防御施設が無いのが疑問
である。


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この郭の最大の特徴として。。。
背後の防御が無いのに池田町方面から池田町方面に抜ける街道を取り込んでいることである。
通常、城内に街道を取り込む場合は、堀、土塁などで城内を見えないようにすることや、門などで遮断し監視する
ようなことをすることが多いがこの城内を通過している部分については何も見られない。


~ 古道 ~

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 ④の郭内を通過した街道は、北側の急斜面沿いと⑤⑥の郭の間を通過している。
この部分の街道は、写真のように浅い窪みのような道となり通過していく。


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その後、生坂方面に抜けた部分は土橋状になって下っていくようになっている。

~ ⑤の郭 ~

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 ⑤の郭を見る (一段上は④の郭)

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こちらの郭はきれいな削平をされており広大である。
この郭と次の⑥の郭が街道に接している。


~ ⑥の郭 ~

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こちらもきれいな切岸が見られるが細長く狭い。
ただこの郭には街道につながる虎口状の入り口が見られる。
後世の物の可能性もあるが、城の遺構とすればこの城に居た人々もこの街道を使用していたことになる。


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さあ、鍛冶屋陣屋敷城を細かく見てきましたがいかがでしたでしょうか。

この城は、きれいな切岸・広大な郭・街道。。。。。

感じとして城と言うより名前にある「屋敷」の集まりのようなものにみえる。

まったくの防御意識の無さは物見を兼ねた下にある根小屋の日影集落住民の逃げ込み城だったということは

ないだろうか、これと似たものに筑北村にある不寝見屋敷の舅屋敷地籍がこれに近いように感じる。

この舅屋敷は不寝見屋敷の物見の根小屋とされるが、広大な平地と段々が見られ、数人の物見が住むには広すぎる

もので、陣屋敷に似ている。さらに言うなら不寝見屋敷の舅屋敷にも古い道が張り廻らされている点でも同じで

ある。これらを考えると住民の逃げ込みを想定した、物見の砦。。。。。っていうのはどうでしょうか?

ま~。。。素人考えですのでかる~く読んでください!



次回は。。。。。。鍛冶屋日影集落について。。。。です。

お城ではないですがお楽しみに!



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  1. 2012/09/24(月) 20:36:28|
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池田町  鍛冶屋日影陣屋敷山城①

池田町の城跡で一番見つけるのに苦労し、2つも山を間違えた城跡

所在地・・・・池田町広津鍛冶屋日影                       訪城時間・・・・40分~50分

訪城目印・・・・日影集落から鉄塔24番を目指す                 訪城日・・・2014年4月21日


注意!・・・・日影集落へは、普通乗用車では方向転換する場所が無いので乗り入れないことをお勧めする。

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鍛冶屋日影集落入り口から見る日影陣屋敷

          ~鍛冶屋日影陣屋敷城の歴史~

「池田町の遺跡」には、

「宇留賀城の小砦とあるが在城者その他不明(信濃戦国時代史)」とある。

また、「池田町誌」には、

「氏神本邑社の氏子である鍛冶屋・池ノ平・栗本・寺沢・本村・太郎・大岩・才光寺・石畑は旧宇留賀村の枝郷

である。」とあり、鍛冶屋は宇留賀領だったことがわかり「信濃戦国時代史」にある宇留賀氏の砦であるというの

もうなずけることである。

また、城跡として「集落の背後の山腹に陣屋敷の地名があり、中世ここで烽火を上げた伝承が残る」とあり、

宇留賀氏最西端の砦として隣の北山城の北山氏との境目の城であったのであろう。



              ~城跡の現状~

kazihikagezinnyasiki.jpg

今回も微妙だな~ (>_<) ちょっとはうまくなってるかな?

hikagezinnya0.jpg

日影集落から鉄塔24号を目指し登る。
鉄塔からきれいな道がついているのでこの道をたどると城跡に着く。
この鉄塔から①の堀状遺構までの間にこの段郭状遺構がある。(山城探訪では畑の跡であると書かれている)


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この段郭状遺構の脇を道が登っているがこの道が尾根の弛みに着く所に道が虎口状になっている部分がある。
この場所は城跡全体を見れば、城外となるのであろうが日影集落が根小屋とされていて、集落から城跡までは
この道しかないので関門として門を構えた可能性もあるのではないだろうか。
そうすると。。。前の段郭は前衛とも考えられるが・・・・城域が広がりすぎるか~(・へ・)
なんでも遺構に見えるのは病気かな?


~ ①堀状遺構 ~

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城域に入る直前にこの不自然なカーブする道跡らしきものがある、現在の道は尾根上をまっすぐ登っていてこの
堀状の場所は通っていない。
人が通った跡があるので道であったと思われるが、この場所だけ何故か堀状になっている


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写真を見ればわかるように城域側は、切岸のようになっていて防御としても使用できると思われるが。。。
このすぐ上が城内となるのでわざと道を堀状カーブとして防御を固めていたのであろうか。
この他には城域に堀は見られないのであるが・・・・?


~ ②の郭 ~

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大手道を登ってくると城内に入る直前にこの虎口状遺構が見られる。
この道は②の郭に入るが脇に一段高く③の郭があり入り口を見下ろすように造られていて入ってくる敵に攻撃が
可能となっている。
 


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 ②の郭の虎口部分を見る。(一段高い場所が③の郭)
③の郭が一段高く櫓台状に高く造られ防備を固めていることがうかがえる。


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この城跡の特徴として土塁・堀の防御施設は見られず、大規模で鋭い切岸によって防備を固めていることが目立つ
しかも郭は広大である。


~ ③の郭 ~

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 ③の郭は、②でも書いたように大手虎口を守る為に構えられた郭である。
この郭の先端、大手道を見下ろす場所は一番高くなっており、櫓が建てられ虎口を守っていたと思
われる

hikagezinn11444.jpg

 ③の郭から④の郭を見る。
郭③と④の高低差は3m程度であるが切岸が高く直接登るのは困難である。
この③の郭は細長く狭いので大手虎口を守る為だけに造られた郭であるように見える。



さあ~!!!!
鍛冶屋日陰陣屋敷城の第1回目をお送りしてきましたがいかがでしたでしょうか????

この城は、土塁・堀など多くの城好きが興奮するような物は有りませんが、メリハリの利いた切岸、

広大な郭は絶品ですよ、ただ、郭間の連携が弱いのがたまに傷 。。。どうやって使われたんだろ (-。-)y-゜゜゜

そんな所も考えながら、次回もお楽しみに!!!
  1. 2012/09/22(土) 17:53:04|
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池田町  渋田見氏館

所在地・・・・池田町会染渋田見内堀                         訪城時間・・・・0分

訪城日・・・・2010年5月30日                            訪城目印・・・・大雪渓酒造 



             ~渋田見氏館跡の歴史~

「池田町の遺跡」には、

「ほとんど現状を留めないが、地割、地名等によりわずかにその範囲を知ることが出来る。

渋田見氏の館跡である。」とあり、

「村誌」には

「渋田見耕地の午の方、字内堀と言所にあり。是平地にして、東西四十三間三尺(79m)、南北三十三間(60m)

回字形の城にして今畑なり。東より北へ土手の形、長二十四間(46m)あり。

西の方に、西南へ連り石垣、高五尺(1.5m)、長十八間(33m)現存し、戌亥の角に塚あり、其頂に栝

(びゃくしん)の木一株あり。」と渋田見氏の館跡として書かれている。



               ~館跡の現状~

sibutamiyakata.jpg

goo地図使用
地図内の点線で囲んだ所が渋田見氏の居館跡とされる内堀である。
周囲は現在、宅地・田圃となり遺構は確認できないが、村誌に書かれる塚らしきものは確認出来る。


sibutamisiyakata17.jpg

現在の館跡である。おおむね田圃となっており、奥に枯れた木が塚の上に立っている。

sibutamisiyakata1.jpg

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これが村誌にあった塚ではないかと思われるが・・・・確証はない。
塚の上には祠と枯れた木が立っている。(栝かは確認できなかった)
縄張り的には中途半端な位置にあり、後世の物の可能性もある。
(この近くの土地の持ち主の方は、この場所は昔、松本藩の蔵が立ち並んでいた場所であり、館跡であるとは聞い
たことが無いと言われていたので、もしかしたらその松本藩時代の遺構の可能性も否定できない)


sibutamisiyakata8.jpg

館跡は上記の塚以外確認出来ない。
村誌にある石垣が46mの記載はどうであろう?
池田町の中にある城跡・館跡を見ても石垣どころか石積みすら確認出来ない。しかも、詰の城である渋田見城
ですら発達した遺構が見られるのに石積みは確認出来ない。
記事通りあったとすれば池田町内では最先端の技術であり渋田見氏の力の大きさがわかる遺構となる。
発掘してくんないかな~。。。 (・へ・) 


sibutamisiyakata5.jpg

館跡から見た詰の城の渋田見城。 

村誌には79×60mの居館と書かれていて、通常、土豪の居館とされるものは50×50mほどとされていて渋田見氏の
居館はこれに比較するとかなり大規模なものになる。
渋田見氏は小笠原さんにかなり優遇されていたんでしょうな。。。。

それにしてもこの館跡といい、滝沢氏館跡・正科館といいなんで平地の館・城は残らないんだろうな~。
全部残ってたらいい研究が出来るのに。。。。。。それとも無いから見つけたくなるのかな?


~参考文献~

池田町誌    (池田町誌編纂委員会    平成4年)

池田町の遺跡  (池田町教育委員会     1994年)




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  1. 2012/09/20(木) 05:08:01|
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

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