長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市   林六郎屋敷

所在地・・・・松本市里山辺林               訪城時間・・・・0分
別 名・・・・なし                       危険度・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・・林大城と林小城の間



            ~林六郎屋敷の歴史~

『林 六郎』という人物は、奈良時代末期から平安時代初期にかけて今の林、神、筑摩、庄内地区にかけて支配していた『里長』といわれている。林を名乗っているのはこの地の豪族だろうか?
慈眼寺(廃寺)を開基し、千鹿頭神社を御請したという。
小笠原の家臣に林を名乗る人物がいたような気が・・林六郎を調べようといろいろな資料を見たけど確認できず。



            ~屋敷跡の現状~

P8179851.jpg

屋敷跡は林大城を見上げる位置にある。
林六郎って何者?  資料がない・・(^_^;)

P8179844.jpg

六郎屋敷の標柱がたっている。すばらしい! 

P8179845.jpg

現在は畑になっていて小規模な平地が段々になっているに過ぎない。
奥は林小城だよ
\(^o^)/


P8179854.jpg

歴史がある場所っていつまでいても飽きないな~❤

P8179850.jpg

屋敷跡からの眺めは・・う~ん・・びみょう・・六郎の時代にも周囲の山に城でもあったのかな?
じゃないと権力者なのにこんな場所生活しづらいよな~。


P8179858.jpg

屋敷跡を見上げる。(木が茂っている所)

075.jpg

そういえば~近くの千鹿頭神社(砦の伝承地・・近々書きます)に神様として六郎の名が・・ある。
なぜ?神様?えらいから?もっと資料があればな~。



~参考文献~

現地標柱
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  1. 2012/04/26(木) 05:08:58|
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松本市   浅田城

所在地・・・・松本市北内田字浅田           訪城時間・・・・0分
別 名・・・・なし                       危険度・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・・桃昌寺近くの水田


                       ~浅田城の歴史~

『私本信府統記』によれば応永2年に浅田三郎義景がこの城を築き在城する。天文20年(武田氏に)降参し武田家
家臣城伊庵に属した。浅田城に天文25年より曽根原孫右衛門が在城するとあり、『私本信府統記』の内田八幡古城の項には曽根原孫右衛門と云う者、城伊庵の婿にて浅田城に居住する。元来仁科の人なり、天文22年仁科没落後、城伊庵に属す。とあり、『信濃戦国時代史』に浅田城主について先祖浅田忠長・長政兄弟木曽義仲に従う。
天文の初め浅田長康、その子長寧が武田氏の攻められその子長周と共に栗林村に退去廃城す。とある。
(塩尻市の北熊井城周辺での戦いなどは報告されているものの浅田城周辺での戦いは伝えられていない、この二冊の資料の武田氏に攻められたという記述は何を指しているのか不明。)                                        現在城跡には昭和11年建碑の浅田城碑が建っている。


                 ~城跡の現状~

IMGP1867.jpg

浅田城跡に建つ城址碑む~立派だ~♪

IMGP1865.jpg

でも・でも・でも~こんなの読めるわけね~・・てね。漢文は読めません(^_^;)

IMGP1868.jpg

碑と水田のアングル、こうゆうの大好き♪

IMGP1869.jpg

跡の現状は、水田と水路があるのみで遺構は確認できていない。
この為に城の存在自体を疑問視する意見もある。


IMGP1870.jpg

城があったか無かったかは置いといて・・・ここにはロマンがあるのだ~・・・てね


~参考文献~

片丘村誌 (片丘村誌編纂委員  昭和60年) 

山ふところの里 内田めぐり (内田公民館)
  1. 2012/04/25(水) 14:06:01|
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松本市   横谷入城

所在地・・・松本市浅間温泉             訪城時間・・・・40分~50分
別 名・・・・物見城                  危険度・・・・★★★☆☆
訪城目印・・・・浅間温泉から美ヶ原高原への林道沿いに看板あり


           ~横谷入城歴史~

赤沢氏の本城稲倉城の支城として機能し、別名物見城と言われている。天文年間(1532~1555)に武田氏の侵攻じ浅間孫太郎が守っていたが稲倉城が落城すると共に落城し、破却されたという。主郭は東西15m・南北20mとされる。


            ~城跡の現状~

PB304476.jpg

城跡への登山口を見る。この山は過去に山火事がありその為、雑木等が多く(この頃は植林がされているが)夏場などは登山道が整備されているにもかかわらず、登るのは厳しい

PB304378.jpg

登山口にある城跡案内版・・だけど・・城跡にはないんだよな~・・山火事で燃えちゃったのかな~。

PB304396.jpg

城跡までは二つのピークを越える必要があり、ピークを越えるたびに着いたかな・・という期待を持たされ心が折れる。辛いけど振り返ると見える景色が頑張らせてくれる。写真に見える奥にある尾根は犬甘城である。

PB304455.jpg

伊深城方面を見る。素晴らしい景色が物見城と言われている理由が理解できる。

PB304460.jpg

二つ目のピークから主郭を見る。登りが辛かっただけに・・うれし~けど・・まだ遠い(^_^;)

PB304387.jpg

主郭手前にある堀状遺構・・堀・・だよね。

PB304392.jpg

堀状遺構を横から見てみる・・窪みある・・よね。

PB304403.jpg

主郭だけど・・山火事のせいか藪です。この山は砂っぽい山なので長年の雨などで削れてしまったか明確な切岸等は見られない。

PB304426.jpg

主郭から大音寺山方向に下ると段郭のような遺構が見られる。

PB304412.jpg

城跡と大音寺山との間にある堀切(城跡唯一の看板)がある。

PB304419.jpg

堀切を横から見る。この堀は現在は別の登山道としても使用されている

PC064517.jpg

城跡の遠望。下は浅間温泉であり温泉街には赤沢氏の居館跡がある。


城跡好きには行く価値があるけど・・遺構を求めるなら行く必要はないかもね(^_^;)


~参考文献~

松本市史  (松本市)

松本市史研究 創刊号  (行政管理課市史編纂室)
  1. 2012/04/21(土) 20:37:14|
  2. 松本市
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松本市    清水丸館

所在地・・・・松本市清水           訪城時間・・・・0分
別 名・・・・清水丸義高館          危険度・・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・槻井泉神社

                      ~清水丸館歴史~


仁安元年(1166)4月、信濃に新しく海野幸親が国主に任命され松本市惣社の伊和神社付近にあったとされる信濃国府へ入ることになり、ここの御所にいた中原兼遠に育てられていた木曽義仲の遺児駒王丸(清水義高)・巴御前は住まいを移すこととなり、清水の地に居館を構えたとされる。
この居館のことは松本城普請の際の文書に「石川玄蕃頭康長、松本御城普請ニ付、清和源氏木曽義仲公没落之後、巴前之清水丸御住居・・・云々」とあり縄張を載せている。


                  ~館跡の現状~

PC192734.jpg



現在の槻井泉神社周辺が義高・巴の館跡と伝わり、古図に書かれている縄張り図には、この神社は館の北側隅に近い部分に書かれている。

PC192725.jpg


清水義高は、松本市清水で生まれ、この槻井泉神社の湧水を産湯に使用した為に清水義高と名付けられたといわれている。写真のように現在も水が湧き出ている。

PC192737.jpg

現在、館内部は住宅街になり遺構は見られない。


PC192742.jpg


縄張り図には、西側を女鳥羽川を堀代わりにし、北・東・南側に堀を巡らせた方形居館で北と南に虎口が開いているのが見られる。

~参考文献~

朝日将軍 (松本歴史研究会  平成7年)

タウン情報 (信濃毎日新聞社  2010年8月24日版)



  1. 2012/04/15(日) 19:20:51|
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松本市    今村館

所在地・・・・松本市笹賀            訪城時間・・・・0分
別 名・・・・なし               危険度・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・諏訪神社・公民館 


                       ~今村館歴史~

 戦国時代末期に周囲45m×63mの堀と土塁を巡らした豪族の館があった。
この館の伝承では、武田信玄の一族上條備前守の三男上條佐渡守が天正2年(1574)今村に館を構え、この地に居たとされるが天正10年(1582)武田勝頼が織田信長に敗れ天目山で滅亡すると、この地に帰農したとされている。 この館跡は、旧JA農業倉庫があった地点より西南の方向とされ昭和10年代までは塀と土塁を巡らした跡がやや高く痕跡をとどめていたとされる。            


                  ~館跡の現状~

CIMG0661.jpg

館跡は現在、住宅地となり遺構は見られないがこの道路より右側が館跡といわれているようでこの道路は堀跡かもしれない

CIMG0674.jpg

館跡の南西隅に上條氏菩提寺跡といわれる墓地がある。

CIMG0443.jpg

この墓所の中には今も上條氏の墓があり墓はみな立派で古い墓石もみられる

CIMG0658.jpg

館跡より南側に上條氏一族の家がならんであり(館跡内部ではないが)各家にある蔵の家紋は武田一族だけに武田菱である

CIMG0654.jpg

現在、館跡を示す標柱は上條本家の蔵の裏にひっそりと建っているが、この場所は館跡ではない、この標柱は館跡の家々に立てる時に立てさせてもらうお願いをして回ったが、みんなに断られしかたなく本家が引き取ったとのことで家の裏に建っているらしい。


この館跡の記載は、自分が調べた文献の中で今村地区誌にしか記載されていないので、調べるのに苦労しました。
笹賀地区の館跡を調べる際は、笹賀公民館の方々を頼ることをお勧めします。
笹賀公民館館長様には大変お世話になりありがとうございました

     
~参考文献~

今村地区誌(今村地区誌編纂委員会 平成20年)

今村地区誌編纂委員小澤氏ご教授
  1. 2012/04/15(日) 18:06:38|
  2. 松本市
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松本市   御城山物見

所在地・・・・松本市大字中山埴原南          訪城時間・・・・0分
別 名・・・・音渡山・音声山              危険度・・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・松本電鉄古屋敷バス停



~御城山歴史~
埴原東の畑中と埴原南の古屋敷の間の音渡川の北に御城山と呼ばれている尾根に10×14mほどの平場が二段あり南側には地山を残した土塁状のものがあり、矢竹が茂っていたが山砂採取により平成5年に消滅してしまった。
埴原城の東の物見の役割をしていたと思われる。
 御城山(おんじょうやま)と呼ばれているが砦の近くを流れる音渡川と御城山の呼び方は似ていてどちらの
呼び方が古いかはわかっていない。


~御城山砦の現状~

P9281126.jpg

御城山砦の全景です。わかりずらいけどね・・(^_^;)

P9281132.jpg

いちば~ん大事なところがな~い!削られてます!でも・・
ここに砦があったのかーって想像するのも楽しいね。

P9281135.jpg


御城山砦からは中山の鍬形原砦が見えます。

城跡を破壊する場合はせめて発掘調査をしましょうね!見てみたかったな~

~参考文献~

ふるさと中山縄文のむかしから(松本市教育委員会)

松本市史 旧市町村編Ⅳ(松本市)

山城探訪 第十三集 (宮坂 武男)
  1. 2012/04/14(土) 02:40:33|
  2. 松本市
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はじめまして(*^^)v

  はじめまして・・・ていぴすです。
 このブログは長野県内にある城跡・館跡・砦跡など伝承地も含めた城館跡を中心に紹介していきたいと思います。
 また、それらにかかわる武将も紹介し戦国時代の辞典のようにしていきたいと思っています。
僕は素人ですので・・縄張り図は描けないし、間違え等あると思いますがなるべくいろいろな資料で調べていきますので参考程度に見て下さい。
(城跡への行き方は調べるのも楽しみだと思いますので目印のみ書いていきます。どうしても知りたい方はお問い合わせください。)
  1. 2012/04/13(金) 22:27:29|
  2. 初めまして
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松本市  小屋城

所在地・・・・松本市芳川小屋         訪城時間・・・・・0分
別 名
・・・・村井城               危険度・・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・村井駅・泉龍寺                              

     ~小屋城歴史~               
                                              
城跡の創建者は村井氏(埴原氏)であり、文献上の初見は建武2年(1335)の足利尊氏宛行状で、三浦介平高継の尊氏は「信濃国村井郷内小次郎知貞跡を早く領知するように」と命じている。
村井氏は、筑摩郡から安曇郡にかけて栄えた犬甘氏の一族で埴原勅旨牧から興った武士である。
勢力の拡大と共に小屋集落に居館したものと思われる。
天文17年(1548)7月19日
武田晴信が筑摩郡へ侵攻を開始し、林城主小笠原長時と対峙するようになると村井氏は小笠原氏に属し筑摩郡南部を固めたが小笠原長時が塩尻峠の戦いに敗れると小屋城は武田氏に占拠され村井氏は歴史上から姿を消した。
天文17年10月2 日                                            
「高白斎記」に村井の城の鍬立、高白致し候。四日ご普請始め、廿四日上原までご帰陣とあり小屋城は武田流の城になっていったと思われる。
天文19年(1550)7月3日                                             
「高白斎記」に天文十九年七月三日出馬、十日屋形様村井へ御着城とあるように武田氏にとって小屋城は小笠原氏攻略のための拠点となっていった。
    

  ~城跡の現状~           

IMGP2029.jpg



小屋集落に説明板があるが、周囲は宅地化が進み遺構らしいものは見られない


IMGP2032.jpg


集落内にある井戸・・・もしかしたら・・・城の遺構(?_?)

P4105807.jpg


小屋城の中心部とされる筑摩犂製作所の南側にあった堀と土塁とされる遺構

P4105793.jpg


右側の水路が堀跡で左側が土塁である

P4105797.jpg


土塁の断面をみる
(この土塁はこのあと消滅してしまった。)

小屋城跡は歴史としては重要な城であったが現代では重要視されず破壊された悲しい城である。
  もったいないなー


~参考文献~

山城探訪 第十三集(宮坂 武男)

日本城郭大系 山梨・長野県

芳川の成り立ち(松本市芳川史談 昭和57年)

信濃33巻2号(信濃史学会 「小屋館と村井氏」 岩垂 俊雄)




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  1. 2012/04/12(木) 21:21:12|
  2. 松本市
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ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

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