長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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筑北村(旧本城村)  瓜生平

所在地・・・・筑北村岩戸                                訪城時間・・・・5分

別 名・・・・・瓜生長者館                                危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・社宮寺



                 ~瓜生平の歴史~

瓜生長者の館跡と伝えられている。
香爐山の西斜面にあり、山の神や神宮寺をまつったところより一段上に上がった平坦部である。
墓碑もあるが、大きな石地蔵が多数建立されているのが注目される。
この地蔵は、両墓制地方でいう埋墓特有の「受取地蔵」と思われる。
これが瓜生長者の出身地を両墓制の多い北陸地方と推定する根拠である。
吉野時代、南朝、北朝両者が一大決戦をした金が崎城の近くにあり、後詰の城として活躍した杣山城の城主が
瓜生左衛門尉保で、その子、瓜生三郎の館跡と推定する。
杣山城の指揮者は新田義貞の一族である脇屋義冶で、瓜生氏は落城後も脇屋氏と同行している。
一時、中国地方の児島高徳と協力して京都の足利勢と戦った後、関西方面の攻撃をあきらめ、下伊那にいる信濃宮宗親王のもとに退去した。
このとき、児島・脇屋・瓜生の三人はそれまで同様同行したものと考えられ、児島高徳は鹿塩の駿木城に入っていることから、随行の脇屋・瓜生両氏も協力していたものと思われる。
宗良親王は信濃に三十一年間滞在されているが、その内の六年間を仁科氏の案内で更級の里に住まわれている。
瓜生氏が東条に入ったのはその時で、小県方面からの攻撃に対する防備の館だったものと考えられる。
 



                  ~瓜生平の現状~

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館跡の入り口に建っている説明板。

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民家の裏に説明板と登山道があるが、まず地元の方しかわからないと思われるので聞くのが無難です。
道は途中に墓地があるので踏跡程度の道がついている。


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館跡入り口には虎口状の窪みと写真にあるように土塁状の盛り上がりが見られる。
????説明資料ではかなり古い館跡のはずであるが・・・・これが城郭遺構なら高度な防御だけど・・。


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館内部にはこのような段郭のようなものが見られたり・・・・

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縁部には土塁状遺構が見られたり・・・??
畑の跡かな?


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堀状の窪みがあったり・・・って畑に必要ないよな~?

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削平もきれいで・・・畑跡ではなかったら、かなり使われた中世城郭と云うことになるけど・・素人なので確信がもてない。

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どう見ても・・郭だよな。。。。(-_-;)
削平地の山側斜面際には・・・・


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説明ちゃんと読まなかったので知らなかった。。。
館跡を歩き回っているとお地蔵様に見られていた・・・・ 恐怖心が湧きおこってくる・・(゜-゜) 


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お墓もたくさんある・・・怖い・・怖い・・逃げたい・・一人は怖い(泣)
これが説明にある両墓制のやつか・・・こえ~。


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石列?石積?が見られるが、お墓によるものか、館によるものか恐怖で思考能力が低下していく・・・。

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このお地蔵様は比較的新しいような・・やっぱ畑の遺構かな・・。

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この削平地を区画するようにある大きな土塁状遺構は畑には必要ないような・・。
畑跡と館跡の遺構が重複して存在しているのであろうか・・・・誰か研究して・・・一人では怖くて行きたくない。


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尾根先の平坦部に築かれている。
(写真にある電柱の奥に説明板がある)


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後方に瓜生平と麓にある地蔵堂跡を見る。

瓜生平はいかがでしたでしょうか・・・中々資料に出てこないものを探すのも苦労するものです。
近くには番所跡が存在しているのでもしかしたらこの館も街道の監視という役目をになって改修されていた可能性も捨てきれませんね。誰かが研究していかなければ忘れ去られるのも時間の問題かもしれません。



~参考文献~

本城村の史跡と歴史を語る文化財   (本城村教育委員会)
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  1. 2012/05/26(土) 23:56:26|
  2. 筑北村
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松本市(旧四賀村) 殿村遺跡

会田氏関連遺跡

所在地・・・・松本市会田     

発掘期間・・一次発掘平成20年9月~22年1月・第2次・3次も行われている。


発掘経緯・・・・四賀地区統合小学校建設による発掘調査・その後保存が決まり2・3次は遺構確認調査。



               ~殿村遺跡発掘要約~

第一次発掘概報の要約を抜粋すると・・・
調査区を含む対象地(会田運動場)の大部分が室町~戦国時代(15c初頭~16c中葉)の大規模な造成跡であることが判明した。
造成は少なくとも四回にわたり、段階的に拡張さた平場は最終的に80m四方に及ぶ。
造成の前半(15c代)は盛り土の前面を自然石積みの石積で画していた。
造成面上からは礎石建物・掘立柱建物・柱穴列・炉跡等が多く検出され、また内部空間を画する石列や溝状遺構も多数見られた。
遺物は松本市内の中世遺跡としては数が多く、在地産の土師質土器皿・内耳鍋のほか、天目茶碗や折縁深皿等の古瀬戸系陶器・中国産の青磁・白磁・天目茶碗が多く出土した。
また、瓦質土器風炉や他地域産の高級石材製茶臼等、寺院や城館遺跡にしかみられない喫茶関係の遺物が出土した。
現状における遺跡の性格は十分明らかにできないが、これらの遺構・遺物のあり方から寺院等の宗教関係遺跡である可能性が最も高く、一方で中世の会田氏居館跡の伝承もあり、城館遺跡である可能性も残される。
また、会田氏の館跡を示す文献として・・・・
「四賀村誌」には「会田氏は現在の会田小学校のある殿村の地に居館し」と記され、
「東筑摩郡誌 松本市 塩尻市誌」にも「会田氏の居館は、現在会田小学校のある殿村の地」とされていて、
文禄3年「会田郷住古之略図」にも知見寺(広田寺)の南側に殿村が記載されその近くに「大手門ヲ改メ大門ト云フ」とあり館跡と大手門跡が伝承されていたことが分かる。



            ~殿村遺跡を発掘風景から見る~

P1210973.jpg

高台から一次調査発掘区を見る。
アングルはいいんだけど電柱が・・・ジャマ! (・へ・)


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教育委員会でもこの地が会田氏の館跡と想定していたようですね。

P1210985.jpg

発掘面を見る。
この面は1面段階(16世紀前葉~中葉)の遺構面である。
この面の特徴は写真中央にある石列である。


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この石列は敷地を区画する築地塀であると想定さている。

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西側から発掘区を見る。
手前にある溝は当初、堀ではないかと思われたが、発掘が進むにつれ通路であったことが分かった。


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発掘開始当初に大きな話題となった15世紀にさかのぼる石積みです。
この石積みは15世紀から二段階に分けて改変を受けている(写真手前の石積みが二重になっている部分


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石積みのこの部分は・・・報告書を読んでも良く分からないけど・・・・入り口かな?

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15世紀の石積みを見る。
石材は無加工のものを使用し、それをただ積み上げただけの初期の石積みの積み方である。
ただ、この石積みも何回かの改変がありそのたびに技術が上がっているとのことである。


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石で組まれた炉の跡も確認できた。

P5237109.jpg

南側台地の縁部分のトレンチでは、石列と土塁状の高まりが確認された為に堀跡と思われていた。
ただ、2次・3次調査で否定されることになるが・・・。


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これは、2次調査区です。
遺跡の保存が決まったので2次からは、範囲と遺跡の性格の確認に変更になり発掘区が小さくなりました。


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盛り土していることが確認できる。

022.jpg

この部分にも石積みがあったのか石が散乱していた。
なお2次調査では、下にあるマレットゴルフ場の部分も発掘されこの部分も大規模な平場の造成があることが確認された。・・・見落とした・・・・
 (-.- ) 


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殿村遺跡の3次調査です。
この間、発掘結果の発表があったので・・アップしてもいいですよね。


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2次・3次とも現地説明会はしていないので申し訳ないですけど・・・作業中に見学させていただきました。
写真に見える遺構は・・土塁状遺構と石積みです。


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上から見た土塁状遺構と石積み。

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南側から土塁状遺構と石積みを見る。

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発掘区はL字状になっており、こちらは造成された平場のほうである。

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ここでは加工された石を使用した石列が確認された。
この石列より西側には遺構が無いことが確認されこの石積みが平場の西限である。


この土塁状遺構部分周辺は通路で何回かの平場への入り口の改変が確認された。
なお、15世紀の寺院の絵には石積みを使用した池が書かれていることが多いようで、通路を塞いだ跡に池を造った可能性も考えられているようである。
なお、殿村遺跡の発掘はまだ当分続くようなので注意深く見ていきたいと思います。


2次・3次の発掘結果の説明資料が見つからなかったので・・・覚えていることを書きました・・・。
  間違っていたらゴメンナサイ。


~参考文献~

殿村遺跡第1次発掘概報         (松本市教育委員会 平成23年)

殿村遺跡現地説明会資料         (松本市教育委員会  平成21年)

殿村遺跡発掘報告会資料         (松本市教育委員会  平成22年)
  1. 2012/05/26(土) 20:30:20|
  2. 松本市
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筑北村(旧本城村)  小屋ノ平

会田氏関連城跡?


所在地・・・・筑北村乱橋西村                             訪城時間・・・・0分

別 名・・・・小屋場                                      危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・?



                 ~小屋ノ平の歴史~

旧本城村刊行の資料には、
 「小屋」は小さい家の意味ではなく、戦国時代ころまでの山城などの小屋をそう呼ぶことが多かった。
武田信玄は、自分で攻撃する以前に、山本勘助等の働き諸城を自分の勢力下に納めている。
それらの先遣隊の根拠地で、いつも虚無僧姿の間者が出入りしていたものと思われる。とあり、
長野県史蹟名勝天然記念物調査報告 第7集の小屋ノ平の項には、
 八木部落の東南方、大洞山より西にでている尾根の北側にある平地である。
小屋ノ平に立てば立峠・唐鳥屋城は指呼の間に在り、東條城・小仁熊城・青柳城が見える。
小屋ノ平は立峠から乱橋に入ってくる敵に対し、側面から要撃するために設けられた隠城の一種ではないかと思われる。
構築主については、南方に対しての備えであることから上杉氏によって設けられたと思われる。
なお、八木部落北方小尾根先の字山崎地籍に旗塚が七基のこっている。
これは、東條城の固めとして築かれたものと思われる。としている。
これらの資料を考えると・・・現在、西條・仁熊と乱橋間の山に挟まれた細い道(高速と国道403号線が交わる部分)を監視するための砦であったのではないだろうか?
築城者を考えてみると・・・・一番重要になるのが唐鳥屋城が会田方なのか青柳方なのかである。
虚空蔵山城と唐鳥屋城の位置関係をみれば、会田氏ではないかと思われ、乱橋にある帯刀屋敷は唐鳥屋城主の屋敷とされているので、乱橋一帯は会田氏の領地であったのではないか?
とすれば、近くにある小屋ノ平は青柳氏に備えた会田氏の境目の物見の砦と考えられるが・・・
どうでしょう?



                 ~小屋ノ平の現状~

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ちゃんと標柱が建っています。
まあ、どこでもそうなのですが・・標柱が建っているのは素晴らしいのですが・・・
そこまでの道のりがわからないんですよね~そっちの方が大事かも。(>_<)


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畑にでもなっていたのでしょうか?
山側には段々が見られます


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写真の民家部分が小屋ノ平と思われる。
手前には・・・自然の沢が見られ防御施設として利用されていたでしょうね。


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自然の沢であるが竪掘状に落ちていて斜面を切り離している。

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斜面の上から小屋ノ平を見下ろす。
家が建つくらいなので物見としては大きい方ではないでしょうか。


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小屋ノ平と下の道は乱橋宿内を通過してきた善光寺街道から分かれてきた道である。
この道を見張っていたのであろう。


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小屋ノ平裏には畑の跡や道の跡もありこの道を通って小屋ノ平に入っていたのか唐鳥屋城へ通じていたのか・・。

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小屋ノ平から見る本城(自説)の唐鳥屋城を見る

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アップで唐鳥屋城を見る。
唐鳥屋城の削平が美しいですね~ 
  (#^.^#) 


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乱橋部落から小屋ノ平を遠望する。


筑北村にある城跡はおおむね整備されず山奥の深い藪の中にあることが多い。どこもそうだけれど・・
帯刀原・小屋場・不寝見屋敷・高戸屋など多く地名が残っているが・・このままでは忘れ去られてしまうのではないか・・・
早く行かねばとあせってしまう今日この頃です。
どんな小さい城跡・遺構・伝承地・武将の墓石など必ず探しあてて伝えていきたいと思います。


~参考文献~

本城村の史跡と歴史を語る文化財      (本城村教育委員会)

長野県史蹟名勝天然記念物調査報告 第7集復刻  (長野県文化財保護協会  昭和50年)
  1. 2012/05/25(金) 23:30:31|
  2. 筑北村
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筑北村(旧本城村)  帯刀原

会田氏関連城跡

所在地・・・・筑北村東乱橋                               訪城時間・・・・5分

別 名・・・・帯刀屋敷                                  危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・ゴミ処理プラント(廃業)



                  ~帯刀屋敷の歴史~

「長野県名勝天然記念物調査報告 第7集」帯刀屋敷とその他の項に、
乱橋部落の東方に「だいとう屋敷」と称する箇所があり、両側は小さい沢によって境された二十四間四方の小郭が見られる。
土地の人々は、応仁の乱の頃、ここに唐鳥屋城主 藤沢帯刀なるものが居館していたと伝えるとある。
 旧本城村が刊行した資料には、
明治九年刷の「東筑摩郡誌」には、「唐鳥屋古城跡、昔時応仁年間藤沢帯刀なる者云々」とある。
しかし、この記述では、城主の守本尊である鏡大明神に奉られていた古鏡や菩提寺にあった吉野時代作と認定される聖観音立像と時代が矛盾する。
大葭原郷開基には「寛元二年(1244)藤沢大道という者、乱橋という所に館を建て居城すとあり、この方を採用したい。
この藤沢氏は、海野氏に係る藤沢氏で、上社大祝敦真を先祖としている。
木曽氏とも関係があって、初めの藤沢大道を木曽氏に用いられた帯刀に変えたものかとも考えるが、戦国時代にはこの藤沢氏は在城していないように思われる。
 「高白斎記」では、会田虚空蔵城を「会田」と表現し、唐鳥屋城を「海下」といっているように思われる。
つまり、城主は岩下豊後守であるといわざる得ない。
大道の館は、村の高札場より四町余り東西にあり、「八間半に三間半の御館なり」と記述されている。

他の資料を見た時たしか・・
思い出した・・・・(*^^)v
四賀村誌に「高白斎記」にある「海下」と略して書かれているのは、「海野系の岩下氏のことだ」と郷土史家の堀内千万蔵氏も唱えていたとあるしな~?
確かに会田氏関連の城だと思うが・・城主が岩下豊後守が直接いたとは思われない。



                   ~帯刀屋敷の現状~

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屋敷跡のある台地を見る。
帯刀原は乱橋部落など周囲の部落より高台にあり防御に優位な場所を選んでいることがうかがえる。


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台地上の先端にある目印のプラントを見る。
プラント脇の空き地に車を止めて歩く。


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屋敷跡にはプラント裏の林道を歩いていきます。
写真では奇麗に見えますが轍が深かったり、崩れてしまっていたりで普通の車は通れないと思います。


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林道を歩いて行くとこの「帯刀原」の標柱が建っています。

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周囲はただの・・藪・・・?
旧本城村刊行の本の写真では奇麗な田んぼだったので写真を参考に探していたから・・・かなりの苦労をした。
これは地元の方に聞かないと見つからない・・・。


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周囲はすべて藪です。

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よーく見ると・・畑や田んぼの跡がかすかに感じられる。

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現状、屋敷跡は田んぼの跡の段々が何段も確認でき、屋敷があった時地形はどのようになっていたのか確認は難しい。

この林道あたりを伝っていくと唐鳥屋城の北か北西尾根に到達するのであろうか?
だとしたらこちらの尾根筋が大手ということになる。
この尾根には多くの段郭があるというのでやはりこの尾根筋が大手ということになろうか?
このような地元にしか知られていないような城館跡を探し出すのも面白いものでお勧めですよ。



~参考文献~

本城村の史跡と歴史を語る文化財   (本城村教育委員会)

長野県史蹟名勝天然記念物調査 第7集復刻  (長野県文化財保護協会  昭和50年
  1. 2012/05/25(金) 22:15:06|
  2. 筑北村
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松本市(旧四賀村) 唐鳥屋城

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀会田・筑北村乱橋                        訪城時間・・・・乱橋側から60分

別 名・・・・乱橋城                                      危険度・・・・★★★☆☆

訪城目印・・・・乱橋宿



                   ~唐鳥屋城歴史~

「東筑摩郡誌」には、山上の平、東西十二間、南北六間、石礎存せり。
寛正年間、海野の一族 藤澤帯刀之を築き、後、天正年間に至り小笠原貞慶のために亡ぼさる。とあり、
また旧本城村発行の資料には、「寛元二年(1244)藤沢大道という者、乱橋という所に館を建て居城す。」
小県の海野氏は木曽義仲の四天王のひとりで、藤沢氏はその一族でありこの地を拝領して守っていた。とし
菩提所は禅宗の滝沢山久祥寺で、守本尊は鏡大明神と古書にある。としている。
ただ、資料により会田氏の城か青柳氏の城に意見が分かれている。



                     ~城跡の現状~

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乱橋部落から立峠への道と傍らの道祖神を見る。
現在はただの農道だがかつては多くに人々で賑わっていたのであろう。


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復元された立峠への石畳の道。
現在は石畳が復元され歩きやすくなっている。(奥に立峠が見える)


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立峠を見る。
かつてこの地にあった茶屋の石積などが残っていてこの峠の賑わいがうかがえる。


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立峠から乱橋方面を見る。
昔の人はこの景色を見ながら善光寺へ急いだのであろうか。


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峠奥にある城の案内標柱と説明板を見る。
後ろの尾根から唐鳥屋城へ行くことができる。


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唐鳥屋城西尾根を見る。
この尾根は結構細く岩などがあり険しい。


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西尾根(立峠から)最初の堀切を見る。

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最初の堀切を横から見る。
規模は小さいが尾根が険しい為この程度でもよかったのであろう。


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二本目の堀切?竪掘?を見る。

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竪掘状になっていて二重になっている。
自然地形を利用したものであろう。


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三本目の堀切である。
・・・・小さいけど確かに堀切です。


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横から見ればわかってもらえます? (#^.^#)

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西尾根最後の堀切です。
この堀切は岩を利用した厳重なものである。


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横から見ました。
尾根が細く、堀切も鋭角なのでこの尾根上の堀切の中で一番防御意識が強く感じる。
本郭に一番近い為であろう。


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西尾根から虚空蔵山城を見る。
ここからは虚空蔵山城の堀切が明確に見えるほど近く・・虚空蔵山峯の城でみたようにこの唐鳥屋城がすぐ下に見下ろせる位置にある。
やはりこの城は会田氏関連の城でなければ城内は敵方に丸見えでここに築城する意味を失ってしまう。


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西尾根から本郭がある山頂を見る。

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本郭を見上げる。
本郭は切岸のような自然の急斜面を登る必要があり防御施設としてうまく利用している。


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本郭は現在藪になっていて詳細は確認できないが、二段に分かれているのは確認出来、土塁は見られない。
夏は藪が酷く入ることも難しい。


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本郭に建つ消えてしまった唐鳥屋城跡の標柱

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本郭から見る景色・・絶景かな・絶景かな。
本郭周辺の尾根筋には段郭が多く見られるらしいが、藪の為に確認が難しい。


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この城にも本郭の北東と南側に石積が見られる。

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この石積も会田氏滅亡後の小笠原氏によるものであろう。中の陣城の石積に似ている。

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茨の藪が防御をしていて・・石積を見るのが苦労するのですよ。
見られる方は、ご注意を!



さあ唐鳥屋城を見てきましたが、いかがでしたか?
あなたは青柳氏の城説・会田氏の城説どちらと感じられましたか?
迷った方は是非訪れて確認してみて下さい。
などと言いながら・・会田氏に偏った書き方になってますが・・  (-。-)y-゜゜゜



~参考資料~

東筑摩郡誌    (信濃教育会   1919年)

信州の古城    (郷土出版社   平成7年)

本城村の史跡と歴史を語る文化財  (本城村教育委員会)
  1. 2012/05/25(金) 20:05:08|
  2. 松本市
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安曇野市(旧明科町) 三峯城

会田氏関連城跡

所在地・・・・安曇野市明科東川手                       訪城時間・・・・佐々野城から15分

別 名・・・・旭城・ごてんじょう・あざみ城                          危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・佐々野城北尾根から一本道



                ~三峯城の歴史~

「明科町史」記載の文献「元禄十一年潮山中村書上帳」にさみね城、古城、長六間、横三間、虎卯間より申酉間長し、城主存じ奉らず候・・・とある。
伝承として、ごてんじょうと呼び、青木の下に黄金を入れた甕が埋めてあると伝えられ、何人かが掘ったが何も出なかったという。
考察として、佐々野城と同様に会田氏の西端の出城であり、西北山の城と呼ばれる家の付近に番兵が居たと思われる。
潮沢川を境として向かい側は日岐(仁科)氏の勢力範囲ゆえ、それに備えたのであろう。としている。
その他「信府統記」にも城主知レズとあり名のある武将はいなかったのであろう。



                ~城跡の現状~

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佐々野城北尾根から尾根伝いに地滑り跡を越えるとこの土橋状の細尾根になる。
この細尾根も佐々野城・三峯城間の街道押える為の防御施設として利用されていたものと思われる


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三峯城近くの尾根上から佐々野城を遠望する。

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三峯城手前にある小ピークを見る。
街道はこのピークを回り込んで通っていて「山城探訪」ではこれを南堡塁としている。
なおてっぺんは人工の跡は見られない。


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尾根上の街道は三峯城の真下を歩いていて三峯城から監視出来る位置にある。
これは街道伝い三峯城の北東尾根にある堀切である。


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堀切はこの尾根に三本確認出来るが小規模の為、この堀切以外は写真を撮るのを断念した。

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堀切を越えるとすぐに本郭になる。
街道と本郭の比高差は小さく厳重な城郭施設と云うより街道に密着した関所的なものであったと思われる。


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本郭は狭く10人入れば座れないほどであり、削平も甘い

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本郭と二の郭には堀切により区画が小さいながらも一応されている。

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なお、この堀切は両脇を竪掘として落とされているので、堀切であったと理解出来る程度である。

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二の郭を見る。
細長い郭で、本郭より削平の加工度は高ことが確認出来るがやはり狭い (>_<)


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北西尾根から本郭を見る。
(切岸の角度も低く・・ただの斜面にしか見えない)


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北西尾根最初の堀切を見下ろす。
北西尾根には二本の堀切が確認されている。


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最初の堀切を横から見てみる。
佐々野城の堀切の残存状況から・・三峯城の堀は最初から小規模であったと思われ確認するのが大変である。


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ん?・・・っていうくらい小規模な・・二本目の堀切。

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二本目の堀切を横から見る。
???防御しようという意図はわかる。・・しかし・・本当にこの堀切で守れたのであろうか?
小規模な堀切の意図はどこにあるのだろう・・威嚇のため?


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三峯城の北限とされる北西尾根先端にある北堡塁とされる部分。
横から見れば、削平されていることは確認出来る・・たしか・・ここに稲荷社があったはずだが・・ないな~?


佐々野城・三峯城と続けて見てきましたがいかがでしたでしょう。
佐々野城には明確な堀切・平場が見られるのに対し、尾根続きの近くにある三峯城は平場があいまいであり、堀切も小規模である。
同じ会田氏関連で近くに隣接する城のこの違いは何を意味しているのであろう?
本城と支城のような関係があったのであろうか?疑問だ。
町史にあるように管理していた番士は違う集落であったようなのでこの関係は違うかな (-。-)y-゜゜゜



なお・・・三峯城から堀平へ帰る場合、街道が歩きやす過ぎて佐々野城を通り過ぎてしまい戻るのに苦労しました。堀平に戻る場合は、佐々野城を経由して戻ることをお勧めします。
山での遭難・迷子は自己責任ですのでなるべく安全な道を歩きましょう。




~参考文献~

山城探訪    (宮坂 武男   平成10年)

明科町史    (明科町史刊行会  昭和59年)

四賀村誌    (四賀村役場   昭和53年)

信州の古城   (郷土出版社   平成7年)
  1. 2012/05/24(木) 19:26:51|
  2. 安曇野市
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安曇野市(旧明科町) 佐々野城②

さあ・・佐々野城の第2回目です。 (^v^)


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郭から見る西尾根最初の堀切。

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これは佐々野城の西尾根にある一本目の堀切である。
(佐々野城内部で一番防御意識が高く堀切の規模・量が他の尾根より多い。
ただし、切岸はあまく防御技術的に低かったのか、物見なのでそこまで手を加えなかったのか・・会田氏の城を見るとこんなもんなのかな。)


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本郭下の堀切が一番明確で規模も大きい。
さらに堀切から両脇に竪掘として落とされている。


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西尾根にある二番目の堀切を見るが、規模が小さく倒木により荒れてしまっている。

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西尾根から見る安曇野市方面
すぐ下には塔原氏から分かれたといわれる大芦氏の館や茶臼山城などが見下ろせる。
(三本目の堀切があったが・・写真撮り忘れました・・・ゴメンナサイ 
(-_-メ))



つづきまして・・・北尾根でございます。
この尾根は三峰城へ続く尾根であり続けて三峰城も紹介していきたいと思います。


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本郭から北尾根を下ります。
中々の急斜面ですが・・ここに・・


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何段かの腰郭が見られる。
その下の斜面には規模は小さいながらも堀切が見られる。

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腰郭から下にある堀切を見下ろす。
わずかながら竪掘となっております。なぜわずかなのか・・・それは・・後でわかります。


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堀切をわずかな竪掘内部から見上げる。
笹が茂る堀は撮りづらくつらいものです・・・何枚撮ったことか・・その中のエリートです。(-。-)y-゜゜゜


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わずかな・・竪掘・・・(>_<)

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さらに下には二本の堀切がありますが・・・笹藪で・・撮れたのがこの二番目の堀切。

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ちょっと離れてみました・・わかってもらえますか?
三本目は・・・藪の底に埋没・・・誰か・・笹を刈ってください・・(-.-)


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北尾根から見る佐々野城・・なんとなく二本の堀切の跡がわかりますか?

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佐々野城北尾根の竪掘がわずかだった謎は・・・この山道です。

この山道は明科市街地方面から佐々野城の西脇斜面を通り三峰城の脇を通り東川手方面へ抜けています。

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この山道を重視するのは・・道の脇にこの石仏や・・

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三峰城下の道脇にあるこの馬頭観音です。
これらの石仏によりこの山道はかつてかなり使われ人々の往来や物流が多かったものと思われ、
佐々野城・三峰城は物見の城とされているが、城のすぐ下をこの街道が通っていることを考えるとこの道も監視する役割ももっていたのではないだろうか?

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歩きやすく今でも使われているんではないかと思われるほどきれいに残っています。
ここは三峰城下部分


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山の中にはそのほかにも多くの石仏が見られます。
城にいったら探索してみて下さい。いい運動になりますよ♫


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そして佐々野城と三峰城のちょうど中間にはこのような大規模な地滑り跡があります。

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地滑り跡が堀状になっていたりして視界が狭くなりここがもし城があった時にあったならかなりの防御施設となるであろうが・・・いつ地滑りが起こったのかわからない。

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地滑りの残存部分であろうか・・かなりの細尾根であり防御として使えばかなりの効果が期待できるけど。

今回は佐々野城と三峰城の間を見てきましたがいかがでした?・・次回・・・三峰城をお送りしたいとおもいます。

~参考文献~

四賀村誌      (四賀村役場  昭和53年)

山城探訪      (宮坂 武男  平成10年)

明科町史(上)   (明科町史刊行会  昭和59年)
  1. 2012/05/23(水) 22:29:11|
  2. 安曇野市
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安曇野市(旧明科町) 佐々野城①

会田氏関連城跡

所在地・・・・安曇野市明科東川手                       訪城時間・・・・堀平から5~10分

別 名・・・・笹野城・笹ヶ城                                危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・堀平部落(廃村)



                ~佐々野城の歴史~

「明科町史」には、堀平の上の四賀村との境で、城とよばれる見晴らしの良い山頂である。
この中で文献として、元禄十一年潮村書上帳をあげ、三峰佐々野城、古城峯敷地長八間南北、横六間西東、城主存じ奉らず候・・・」と書かれているとされる。
伝承では、堀平の堀平氏が番をしていたという。
考察として、会田氏の南端の出城で、三峰城と一連の出城であろうとしている。
堀平は番兵の居住地であるとする。
「信府統記」には、北山村ヨリ酉ノ方二十一町四十一間・本城の平東西八間・南北六間・南向ナリ、会田氏の持ナリ。とある。



                ~城跡の現状~

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根小屋といわれる堀平部落と佐々野城の所在する山を見る。
蔵があるってことはこの集落はかなり裕福だったのだろうか?


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堀平部落の廃屋と左側の山が佐々野城。
現在は堀平部落は廃村となり誰も住んでいないが、山仕事などで人は入っているようである。


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堀平部落には古い墓碑が多くありかつては、山の奥ながらかなり栄えていたことがうかがえる。

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堀平の人々の墓地から見る堀平と佐々野城(左の山)を見る。


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堀平に入る手前の道がカーブする部分は自然の沢になっており「一の堀」の地名が残っていて根小屋を守る施設があった可能性がある。


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堀平手前の林道から見る三峰城。
(林道は軽自動車なら十分通行が可能です。なお、林道の終点が堀平部落となっています。)


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堀平部落から裏の尾根に登ると佐々野城の番をしていたとされる堀平氏の墓所がある。
(現在は堀平氏は途絶えてしまったのか、墓所は荒れ果ててしまっている)


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堀平氏墓所の東側にある馬屋の窪と呼ばれる巨大な窪み。

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馬屋の窪の中に入って見てみる。
大きさが良く分かってもらえると思うが、周囲が土塁状になっていて見えないようになている。
まあ、自然地形を使用したものだと思うけど・・。


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佐々野城の二の郭とも云うべき平場。
この部分は馬屋の窪から尾根を北に向かうとこの平場が現れる。(なお南に尾根伝いに行くと、四賀村の鍋山城砦方面へ行ける)
北側・東側は細尾根が囲み土塁状になり守られている。


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二の郭には三本の堀が造られていて、平場を大きく使うより堀を多く使用して防御を高めようとしていることがうかがえるが、堀のせいで平場が三つに分断され狭くなってしまっている。

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堀を見る。
一部土塁を伴った堀も見られる。


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この三本の堀は、高等線に平行ではなく直角に造られているので・・・概念上は・・平場にありながら・・竪掘?
西側の斜面に行けばこの堀も竪掘として落とされているけど・・・平場のは・・?何になる?
それとも郭の区画の堀になるのかな?


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二の郭の東側を守って土塁状になっている細尾根である。
馬屋の窪から本郭へ行くには、二の郭の上にあるこの細尾根を通らないと本郭のは行くことは出来ない。
二の郭・この細尾根両方での二重の本郭への防御意識がうかがえる,
しかし、尾根上には堀切は見られない。


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南側尾根から本郭を見る

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本郭を見上げる。

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現在は荒れてしまっているが、本郭にあるあずまや社を見る。

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あずまや社の前には何の石仏か不明な石と塚状になっている部分が見られる。なんだろ?

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本郭のあずまや社と平場を見る。
居住用の小屋を建てるには狭く建てるなら物見の櫓程度であろう。


本郭を見てきましたが・・・今回はここまで・・・次回は佐々野城本郭周辺と三峰城への尾根を書きたいと思います
  1. 2012/05/22(火) 20:46:30|
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松本市(旧四賀村) 矢久砦

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀中川                         訪城時間・・・・40~60分

別 名・・・・召田城・覆盆子城                        危険度・・・・★★★★☆

訪城目印・・・・?


                ~矢久砦の歴史~

矢久砦の通説をまず書くと・・会田岩下氏は、小笠原氏に属していたが武田氏の信濃侵攻時に降り信玄に従うようになり、元亀四年、信玄が亡くなると勝頼に忠誠を誓った。
天正十年武田家滅亡時に岩下惣六郎昌盛・右近昌延の岩下氏が勝頼に従い殉死している。(田野寺記録)
天正十年七月になると、小笠原貞慶が深志城に返り咲くと旧領の経略に取り掛かると塔原氏など周囲の諸将が降るなか、会田岩下氏と家老の堀内氏は降らずに上杉氏を頼り小笠原氏と戦うため矢久に城を構えた。
城主は会田小次郎廣政(広忠ともされる)であったが、小次郎は幼少であった為に家老の堀内越前守が守将となり一日に三度の戦いとなるほどの激戦となり、小笠原方の川窪軍兵衛・青木加賀右衛門と堀内越前は相打ちとなり大手付近で討ち取られている。
天正十年十一月、矢久の砦は落城し、小次郎は青木村まで逃れたものの自刃し会田氏は滅亡した。とされる。

ただ、「四賀村誌」にも、天正十年に小笠原氏の侵攻に対して急造された新城であるとされているが・・

「東筑摩郡誌」では、本城の平、東西十一間・南北六間あり、
会田小次郎の三男、召田伊織の居城なり、天文二十一年八月甲軍の攻むる所となりしが城遂に陥れり。

「信府統記」では、召田山覆盆子古城地の項に、会田小次郎領主の時、家人召田監物ヲシテ置テ守ラシム

「平成18年 長野県文化財審議会議事録」にも、現在召田氏が所有する古文書によると、天正10年(1582)には、会田城主であった会田小次郎廣政の家人、召田監物が当地の城主であった。
召田監物の没後、菩提のためにカヤと桂が植えられたと伝える。

とあり現在も召田氏墓地にカヤがあるので確かに召田監物は存在し、召田の地を領して砦を守っていたと思われる。
この二つの伝承はどう考えたらいいのだろう。
召田氏の砦を会田小次郎達が改修して使用したのだろうか?
その改修を急造と書いたのだろうか?
確かに何個もの城を従える領主が覚悟して籠るには防御施設が脆弱すぎる気がするが・・・。
それとも、二つの砦があるのだろうか?
現在の砦の麓にある召田氏が居る所をイチゴ(字は確認していないが)と云っているのでここに召田氏が居館を設けていてその館を召田監物が守った所とし、山の上の砦を会田氏が築いた所とすることも考えられるけど・・どう理解したらいいのでしょう。



                ~城跡の現状~

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城の登り口と手前の家のところが「イチゴ(字未確認)」と呼ばれている地点。
大手で堀内越前が討死したのはこのあたりでしょうか?
城跡はかなり山奥なので麓からは確認できず。


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城跡までス~パ~急斜面でかなりきつい・・ (*_*;
秋はきのこ山なので注意!


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急斜面を登りきると、尾根の先端部につきそこから南へさらに登ると本郭に着く。
写真は本郭を見上げる。
本郭斜面には段郭らしきものが見られるけど小さすぎて・・確信がもてない。
さらに斜面中腹には昔かなり使われたような山道が通っている。


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ちゃんと標柱が建ってました。
これがないと・・・不安なほど山奥で・・・建てる四賀村もすごいけど・・。


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本郭を見ているんだけど・・・ん~。

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これなら削平されているのがわかるかな?

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本郭裏側南尾根続き(搦め手方面)に唯一ある堀切。
四賀村誌には、搦め手方面が小県に通じているので小県に逃げることを考えてここに築城したとある。


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浅い。。浅すぎる。。。これでいいのか。。会田氏。
本当に上杉氏の支援をへてここで戦ったのだろうか?


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尾根続きの搦め手方面から城内を見る。
尾根続きの堀切以降は自然地形が続き遺構は確認できない。
っということは・・・単郭の城・・・戦った?籠った?滅んだ?こんな狭い所で?


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この斜面は本郭から伸びる北西尾根へ下る斜面であるが結構緩やかなのでこちら側に遺構が集中している。
(登ってきたのは、北東の尾根筋から)


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本郭周辺の縁部にはこのような石がみられるので、土止め程度の石積みがあったのだろうか?

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尾根を下って行くと・・段郭が現れます。

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横から段郭を見るとこんな感じ。
大きくはないが明瞭である。


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ま~。段郭ですな。

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わかるかな~。
南西尾根には二本の堀切があるとされているが・・・ほかに見当たらないけど・・・これでしょうか?
ち・ち・小さすぎる・・・・・大丈夫か・・会田氏。


矢久城を見てきましたが・・・どうでした。
自分的には・・・4~5人いれば造れそうな~。
本当に会田氏が存亡をかけてまで造って籠った城には・・・見えん。
だって、上杉氏の支援を受けて籠って一日三回も戦ったなんて・・・・これで?
会田氏の他の堀がある城(雨戸屋城とか佐々野城とか)そっちのほうがいい気がするけど。
土豪の召田氏の城と言われたら納得するけど・・・ねえ。
見られた方はどう感じたでしょうか?



                 ~召田氏墓所とカヤ~

文化財審議会議事録をみると、文献によるとカヤの樹齢が400年と推定され召田監物の没後、菩提のためにカヤと桂が植えられたと伝えられる。
その後、召田門中の人々により阿弥陀堂が建立され、墓地と共に守られてきたが、明治2年に廃堂となり、その後、寺小屋、分校として子弟の教育に使われてきた。現在は公民館として使用されている。
カヤと桂は墓の守り木として大切に保存されてきたが、桂は昭和31年に落雷のため枯死してしまった。


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召田氏墓所の全景。
カヤが目印です。

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この地の領主に恥じない立派な墓所があります。
他の武将の墓地には見られないくらい大切にされています。


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古い五輪塔・宝筐印塔が見られるが・・・監物の墓がわからなかった。 (>_<)  

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議事録にあった阿弥陀堂跡です。


~参考文献~

信濃史源考(6)    (歴史図書社  昭和51年)

信州の山城       (信濃史学会  1993年)

四賀村誌        (四賀村役場  昭和53年)

東筑摩郡誌       (信濃教育会  1919年)

山城探訪        (宮坂 武男  平成10年)

長野県文化財審議会議事録  (平成18年)
  1. 2012/05/21(月) 22:04:52|
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松本市(旧四賀村) 虚空蔵山城砦群(峯の城)

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀中川・会田                            訪城時間・・・・40分

別 名・・・・会田城                                    危険度(登山道使用時)・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・岩屋神社参道入り口



                   ~峯の城歴史~

 「信濃戦国時代史」には、会田虚空蔵山頂にあり、山上眺望極めて絶佳なり、会田氏の詰城ならん、又中之陣・秋吉此の三城を総称して虚空蔵城と称するとの説あり。とあり、
「東筑摩郡誌」には、往昔 小笠原の属将・海野幸継の末孫会田小次郎廣政の居城なり。
初め幸継の二男会田小次郎此の地を領せしが應永七年の頃、中絶して同族岩下玄蕃・豊後・監物及び望月信濃等居れり。天文二十一年の夏、甲軍來り攻む、其の鋭鋒當り難く遂に出て降る。
後、小笠原貞慶深志城を復するに及び城将従わせしば貞慶の為に亡ぼさる。
一説に、建長年間、幸継の二男会田小次郎 當城を築き十代の後、長棟に属せりと。書かれている。
天文22年2月の武田氏による放火や、上杉氏による攻撃は虚空蔵山城のどこのことを指しているのかは不明である。
また、近年では峯の城を城ではなかったとする説と山自体が信仰の対象であり最初はお堂がありそこから城へ発展していったとの説も見られる。
 



                   ~城跡の現状~


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今回は、秋吉砦から本城の尾根筋に登りましたが・・・・やばい!雪がある・・・と思ったが・・・急斜面を登ってきたので戻れないし・・・
家族と登っていたので・・・子供はフリーズ状態・・・泣きそうだ・・・・ピンチ!


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ウサギの足跡があるよ・・・って気を紛らわせながら抱えて通過・・・・あせった~。 (;一_一)
こっちが泣きそうだったぜ!
ってなってしまうぐらい細尾根です。ほんとうに城跡かよ~。疑っちゃうよね。
後で知った・・反対側の尾根を進めば井戸跡があったなんて…グスン。


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細尾根が続きます・・・秋吉砦からはお勧めしません。

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また細尾根の岩場だ・・・また・・家族がフリーズした・・・どうしよ。。。(-_-)zzz
そうだ・・・。


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この絶景をほめながら通過しました・・・(-"-)
ってゆうか・・俺も高所恐怖症なのに・・・子供の世話で忘れてた。


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ちゃんとした登山道は岩場の尾根と山頂(本郭)の間に登り着きます。

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「山城探訪」にはこの部分が堀切となっていてその先(盛り上がり部分)が郭になっているけど・・・
木のある部分の脇、確かに窪んでいるような・・・宮坂さんすごいな~修行が足りないかも。


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わかりずらいかな・・・一応、堀切です。
二の郭になるのかな?本郭手前の削平地の前にあります。


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一応、二の郭と奥に本郭を見る。
本郭の壁が二の郭の北側を守るように土塁状に伸びています。


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二の郭と本郭から伸びた土塁状の壁。
たぶん、地山を二の郭を造った時に堀残して土塁としたものと思われる。


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本郭から見る二の郭と堀残しの土塁・・?
ここに土塁状に残っているってことは・・本郭はかなり削平しているってこと?


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こんな高山に城址碑・・・素晴らしい~ (●^o^●)

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かなりきれいな削平ですね。
土塁がないけど・・高いから必要ないのかな・・二の郭にはあったのに?


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郭の周囲に見られる石積み・・・げっ!
山城探訪の縄張り図を見たら・・2~3m下に1m未満の石積みがあるって・・・ガーン (-_-メ)
また・・・行かなくっちゃいけないのか・・・やだな・・。


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本郭から見下ろす唐鳥屋城・・丸見えですね~・・会田氏の城だからいいのか。

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本郭から見る東尾根。
すぐ下に堀切があります。


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本郭から見る東側尾根。
あまりにも細いんで・・・手を抜いてしまい・・行かなかった・・やっぱもう一回か~ (>_<)


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登山道を下って行くとこのような段郭が斜面を取り巻いていて全山要塞化されていることが理解できる。

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もちろん、所々で石積みも確認できます。

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隣の尾根に見える郭・・・こういうシルエットすきだな~。

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林道脇にある岩屋神社参道・・・いつか・・岩屋神社・・やるぞ!

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林道脇にある城の水の手の一つとされるオゲ水。
冷たくておいしかった~昔の人と同じ感じが味わえますね。


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取手砦付近から見る、霧に浮ぶ虚空蔵山城。

さあ・・皆様は、城と見ますか・・宗教施設と見ますか・・・結論は・・どうなるんでしょ。
近年、会田周辺の宗教施設の遺跡に注目が集まっていますので・・これからも色々な説が出るんでしょうな
 ♫


~参考文献~

山城探訪      (宮坂 武男   平成10年)

四賀村誌      (四賀村役場   昭和53年)

信州の古城     (郷土出版社  2007年)

殿村遺跡発掘概報  (松本市教育委員会  平成23年)

東筑摩郡誌      (信濃教育会   1919年)
  1. 2012/05/20(日) 19:08:43|
  2. 松本市
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松本市(旧四賀村) 虚空蔵山城砦群(中の陣城)

会田氏関連城跡


所在地・・・・松本市四賀中川・会田                        訪城時間・・・・5分

別 名・・・・中野陣ノ砦                               危険・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・水の手経由



               ~中の陣城の歴史~

会田虚空蔵山城城砦群の中で実質的な本城とされ、「殿村遺跡発掘概報」では小笠原氏の山城の特徴を有しているとしている。
「東筑摩郡誌」には、本城の平東西十九間、南北二十三間あり、会田氏の要害にして、天文年間中野右衛門、拒守せしが覆盆子と同時に陥落せりといふ。と書かれている。 
資料に沿えば、小笠原氏が攻めてきた時には会田小次郎は一期の城・中の陣城には中野右衛門が守っていて、落城後に中の陣城周辺は小笠原氏の改修を受けて現在の姿になったものと解釈できる。


               ~中の陣城の現状~

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中の陣城を本郭裏から見る。
城にきた~というこの景色・・・大好きです!


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本郭裏には堀切があるとされるが、確認出来るのは脇の堀型のみです。

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本郭土塁を横から見る。
土塁に施されていた石積みが崩れて散乱している。
土塁は他の会田氏の城に見られないので、土塁があるところが違う築城者によるものと解釈できると思われる。


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土塁上から本郭全景を見下ろす。
二等辺三角形ってところですかな。


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立派な城址碑と土塁を見る。
両脇には土塁は見られない。(東側下には、水の手・西側下には砦がある為と思われる。)


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本郭北側には三段の段郭が続くが一段目の本郭側壁面には石積みが見られる。
(この城の象徴で他のサイトさんでも良く見られますね。)


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別方向から見てみます。
(この石積みも小笠原氏のものでしょうね。会田氏の遺構はどこでしょう?)


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その下の二段の郭には石積みは見られません

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この角度・・・美しい~・・惚れ惚れ。 (●^o^●)

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中の陣城の石積みは北側だけではありません!
水の手側(東側)にも意外に立派な石積みがあります。


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斜面がきついけど、西側にもあるんですよ。

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城跡からの景色は絶景ですよ。

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中の陣城の西側斜面を下っていくと砦がまだ続いているんです。
わかりづらいですけど、写真には二段の段郭が写っています。


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砦の切岸というか・・段・・みてるあるよ。 (*^_^*)


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立派な郭ですな~。
明確な削平と切岸が美しい・・ここも小笠原氏かな?・・・会田氏には無理だよな。


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この削平部分にもわずかだけど石積みが確認ができる。
行っていないがこの先にも砦が続いていて竪掘などがあるらしい。


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会田が一望です。(ガスってるけどきれいなんです。)

中の陣城を見てきましたが、城砦群の中で際立って技術を集結していることがうかがえ小笠原氏時代には中心的役割をになったのは理解できるが、会田氏時代にはどうであったのだろう。
そこのところもわかるようになりたいものだ。


そうそう・・・「東筑摩郡誌の別編人名」を見ていたら、会田小次郎はもちろんですが、「岩下 長高」なる人名がありました・・内容は、岩下新十郎長高と称し、岩下衆の一人として永禄十年八月、武田氏のために生島足島神社に起請文を奉った。岩下衆といわれた人々は信濃資料によると、岩下幸実・岩下新十郎長高・岩下幸広・塔原幸知・古幡幸俊・小口忠清・宮沢泰忠・大口右午介・小□□助となっている。とされ会田氏直属の衆が居たのであろうか?一応気になったので書いておきました。
なお、岩下衆の中に見える塔原幸知は塔の原城主の塔原氏からの分かれであると「明科町史」に書かれている。



~参考文献~

山城探訪      (宮坂 武男  平成10年)

殿村遺跡発掘概報  (松本市教育委員会  平成23年)

東筑摩郡誌     (信濃教育会   1919年)

信州の古城     (郷土出版社   2007年)

東筑摩郡松本市・塩尻市誌 別編人名 (代表者 桐原 義司  昭和57年)
  1. 2012/05/20(日) 17:10:00|
  2. 松本市
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松本市(旧四賀村) 虚空蔵山城砦群(水の手)

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀会田                          訪城時間・・・・2~3分

別 名・・・・なし                                  危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・虚空蔵山林道水の手入口標柱



水の手部分は文献には記載がないものの、「殿村遺跡発掘概報」には、「秋吉城の西、中の陣城との間にある水の手付近の斜面には、石垣を伴う幅の狭い段郭が10数段見られ、水路状の石組や斜行する石垣等、一概に城郭施設と判断していいのかわからない遺構が存在する。」とある。


                ~水の手付近の現状~

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現在も水が湧く水の手を見る。
虚空蔵山林道から入ってくるとこの水の手につき、さらに進むと中の陣城へつながっている。
段郭・石積み群はこの下の斜面になる。
関係無いけど・・・真冬にはカエルの卵が産みつけてあったよ。氷の下で春を待ってました。


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段郭にある石積みと平場を見る。
(現状は、崩落がひどく大方は崩れてしまっている。)


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ただ・・段郭と関係がないところにもあるんだよな~。
城郭施設説・宗教施設説あなたは・・・どっち?


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秋吉砦から続く竪掘を見る。
秋吉砦から落ちてきて竪掘が後半になるとどんどん巨大になってくる。


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竪掘の大きさが理解いただけますか?

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水の手部分にも小笠原氏の改修と思われる、石積み竪土塁が見られる。

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石積み竪土塁と竪掘を見る。

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竪掘の一部に石積みが見られる。
桐原城の大手道にも竪掘内を通る部分に石積みを使用していたので、この部分も通路として使用されていたものと思われる。


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段郭壁面の崩れた石積み

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このような段郭が10段以上あるとされているが、なにに使用されたんだろ。

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一部にはこのような広い平場も確認出来、写真奥に見られる横積の石積みも見られる。

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中の陣城と水の手の間にある沢の上部を塞ぐように高い石積みが築かれている。

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上部にある中の陣城と水の手の石積みを見る。
宗教施設説もあるがやはりこの中の陣城と水の手の石積みの連携をみると城郭施設とみたいが・・。


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秋吉砦・中の陣城の石積みが小笠原氏の手によるものといわれており、この部分の石積みだけ違うってのもね~。(?_?)


~参考文献~

殿村遺跡発掘概報  (松本市教育委員会  平成23年)
  1. 2012/05/20(日) 12:49:02|
  2. 松本市
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松本市(旧四賀村) 虚空蔵山城砦群(秋吉砦)

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀中川                            訪城時間・・・・10分

別 名・・・・なし                        危険度・・・・★★☆☆☆(尾根通しに本城に行く場合は★★★★☆)

訪城目印・・・虚空蔵山林道水の手入り口


                 ~秋吉砦歴史~

東筑摩郡誌」には、山上の平、東西三十間、南北四間あり。
会田廣政の家臣 小岩井民部利行の居城なり、小笠原貞義來り攻め城ついに陥落せり。とあり、
「新符統記」には、会田小次郎取手ノ要害ナリ、家臣 岩下ト云ウ者ヲ置テ守ラシムトモ云ウ。
とあり新府統記の家臣岩下とは会田氏の本名なので、間違えなのか一族を置いたという事なのか不明であり
東筑摩郡誌の方が信憑性があるような気がする。


                   ~城跡の現状~


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秋吉砦から三本の竪掘が落とされていて、この竪掘は下にある水の手の脇を通り中腹辺りまで伸びる長大なものである。
現在は秋吉砦までの道は無く斜面か竪掘を直登する。


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竪掘には竪土塁が付属しており竪土塁には写真のような石積みが施されていて築城技術が他の城より発達している。
資料にはこの石積みなどは、会田氏滅亡後の小笠原氏によるものとの記載があるものもある。


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竪土塁と石積みを見上げる。
竪土塁と石積みの組み合わせは確か・・・青柳城にもあったな~。やっぱ小笠原氏か~。


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竪掘を見下ろす。
写真にはないが、三本の竪掘が放射状に落とされていて、林道から水の手入り口の道沿いに確認出来る。


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本郭周辺部の斜面には崩れた石積みが散乱していてかつては石積みで固められていたことが分かる。

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本郭の崩れずに残った石積み。
城があった時代には木が無かったのであろうから、麓から見たらかなりの威圧感があったんだろうな (^。^)y-.。o○


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本郭は二段に分かれている・・・・二つの郭と見てもいいけど・・基本は単郭の造りである。

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本郭には道が無い割に・・立派な城址碑が建っている

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本郭は削平はされているもののとても狭く多くの兵士が籠れるスペースはない。
築城技術は高いものの、ここで籠って戦うというほどの規模は無く本城へ敵が行くのを邪魔をする程度であったろう。(土塁は確認できない)


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本郭裏の本城へ続く尾根はだらだらと登っていき城域を区切るのは堀切一本である。

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城域を区切る堀切と竪掘であるが・・長年の風雨のせいか尾根上の堀切は浅くなっており竪掘の方が良く残っている。

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秋吉砦の城域は上の堀切で終わっていると思われるが、砦と山頂の間にはこのような崩れた石積みや郭が確認出来る。

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尾根上には小規模な段郭が続く

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尾根上からガレ場と山頂を見上げる。険しい山であることが分かる

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山頂直下にある明確な石積み。
尾根筋も厳重である。


・・・秋吉砦から尾根を伝い山頂に出るには最後の部分がかなり急であり自信の無い方はお勧めしません。
     登山道を利用してください。


~参考文献~

山城探訪  (宮坂 武男  平成10年)

四賀村誌  (四賀村役場  昭和53年)

東筑摩郡誌  (信濃教育会   1919年)
  1. 2012/05/19(土) 05:37:59|
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松本市(旧四賀村) 虚空蔵山城砦群(現 城)

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀会田                            訪城時間・・・・30分

別 名・・・・うつつ城                                 危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・無量寺     



                ~現 城 歴史~

城は文献資料には出てこない城跡であるが、本城である虚空蔵山城の西尾根続きにある為、本城の尾根続きの
防衛のために築かれたことは間違いが無いと思われる。
また、眼下に善光寺街道が通り立峠への入り口でもあり重要な部分を抑えてもいる。



               ~現 城 の現状~

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善光寺街道を立峠へ行く途中、無量寺脇にこの入り口があります。
(藪なので注意が必要です。)


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現城の山から発生した二本の尾根に挟まれた平地に出ます。
かなり広大な平地でかつては畑と三軒ほどの家が建っていたとのことであり、もしかしたらここが根小屋の可能性も・・・・。


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現在はすごい藪になっているが、散策をすると、石垣、井戸などが確認出来る

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無量寺裏の尾根を登っていくと城内最大(堀切はこれだけだけど・・)の堀切が出迎えてくれます (^○^)

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もう一丁!堀切別視線バージョン・・・美しい・・・ (#^.^#)

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本郭です・・きれいに削平されていますが土塁は確認できません。
盛り上がって見えるのは、郭内が二段に分かれている為です。


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横から見てみました・・明確に二段に分けているというわけではなく、緩いスロープ状になっています。
防御の性より居住性重視でしょうか?


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本郭の南側斜面(無量寺側)には、このような柵を立てたような細い郭が見られる。

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本郭裏斜面を下るこの竪掘が見えるものの防御施設はこの堀一本だけである。
この方向は、本城側なのであまり防御を考えていなかったものと思われるが竪掘一本とは貧弱としか言えない。


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搦手の尾根筋を見る。
後方に本城の虚空蔵山城が見え本城までの近さがうかがえる。


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尾根筋にある土塁状の盛り上がりが確認出来、「山城探訪」では、ここに郭があったのではないかとしている。
現状は藪などで細かく確認できなかったが、ここに郭があれば尾根が狭い為、本城へ行く為の障害となり有効ではある。


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この尾根からの眺望は抜群で刈谷原峠からと保福寺峠からの道がぶつかる部分が良く見える。

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うつつ城遠望(一番高い所)

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ついでに・・これ!
善光寺街道沿いに在り、うつつ城の麓に湧き出ていた「うつつの清水」です。


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このうつつの清水は、うつつ城の麓からこの場所へ水を引いていたが、善光寺地震の為に枯れてしまったらしい。
地元の方の話では、毎年この水を汲んで墓参りをしていたとのことである。
うつつ城の麓から湧いていたとのこてであるので、もしかしたら城の水の手として利用していたのだろう。


うつつ城は、造りを見てもわかるように、非常に簡素であるため、城というより物見と警備の為の砦であったものと思われる。しかし、会田氏の城砦の中では、手を加えているほうでもある。


~参考文献~

山城探訪  (宮坂 武男    平成10年)

四賀村誌  (四賀村役場    昭和53年)

殿村遺跡発掘概報 (松本市教育委員会  平成23年)
  1. 2012/05/19(土) 04:11:02|
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松本市(旧四賀村) 笹沢城

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀五常落水                  訪城時間・・・・20~30分
別 名・・・・落水の砦                         危険度・・・・★★★☆☆
訪城目印・・・・五常小学校



 
                ~笹沢城歴史~


笹沢城は、会田氏の支砦で会田斎田原の西端にあり五常小学校の南方に会田川を隔てて所在する。
「信濃戦国時代史」には、武田氏時代に会田氏の家臣、笹沢監物の居城であったという。
「東筑摩郡誌」では、山上の平東西六間、南北五間、東南に堀切あり。会田小次郎の持ち城にして、笹澤監物之を守れりと博ふ。とあり笹沢監物という城代が居たことが書かれている。



                ~城跡の現状~

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笹沢城を見る。
会田川が麓を流れていて自然の堀の役目をしている。


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会田川を渡り、道を沢沿いに歩いて行くとこの台地上の平地に出る。
ここはかなりの広さがありこの平地に居館があったのであろうか。


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さらに登っていくとこのログハウスが建っている。
このログハウスには泊まることが出来るようだが・・不気味だ・・・誰が泊まるんだろ・・勇気あるな ( 一一)


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ログハウスから急斜面を登ると(近くに道があるけど・・)この段郭が見えてくる。

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本郭南西斜面(登山口の沢側)にはこのような広い郭が造られている。

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本郭に建つ城址標柱(五常小学校の子供たちの手作り)と後方に山笹城を見る。
旧四賀村は城跡に対する扱いがすばらしい!


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郭を見る。本郭には土塁は見られない。

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本郭西側下には、小規模ながら二の郭が造られている。
木が無ければ眺望がよく、明科方面に対して備えていたようである。


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本郭裏の尾根続きには、写真のように2~3本の堀切状のものが見えるが・・・

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一応・・・堀切かな~・・これで防御出来たのかなぁ。

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堀切浅いな~。会田氏の築城技術って・・古式で自然地形を利用したものだったのかな?

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いつもながらのカモシカさんがこちらをうかがっておりました。
(黒かったので・・熊かと思ってビビりました)  ((+_+))


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尾根をさらに進むと・・・これがまた・・悩む遺構が続くんです。
全体的に見れば、地滑りの跡にしか見えないけど・・・これを遺構と見るか・・・ただの地滑りと見るか・・悩む。


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尾根筋には地滑りの跡があちこちに窪みとしてあり、またそれを山道として利用していて複雑になっている。

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東側斜面には土塁を伴った堀のようにも見えるけど・・・確かにこのあたりの城にも地滑り跡を利用した馬屋窪などの名称がついていたりする遺構があるけどこれもそうなのかな

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尾根筋から本郭を見る。雪がふぶいてきて・・・あせった(^_^;)

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東側斜面にある山仕事用の道から本郭裏尾根にある堀切から落ちる竪掘を見上げる。
(竪掘なんだか自然の地形なんだかわからないけど・・・一応あれば役に立つと思われる。)


笹沢城を見てきましたが、本郭周辺は確かに城郭遺構として認識できるものの、その他の尾根筋の地滑り跡は遺構に入るものか疑問である。会田氏系の城跡を見てきたがほとんどの城跡が本郭周辺に堀切を2~3本配しただけのもだった。この城だけそこまで城域が広がるものなのか・・・本当に疑問だな~。まあ、素人考えだけど。


~参考文献~

四賀村誌     (四賀村役場   昭和53年)

信濃史源考(6)  (歴史図書社  昭和51年) 

山城探訪      (宮坂武男   平成10年)
 
  1. 2012/05/17(木) 02:52:05|
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松本市(旧四賀村) 備前原の館

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀会田                      訪城時間・・・・5分
別 名・・・・なし                              危険度・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・・松本市四賀支所



             ~備前原の館歴史~

この館についての記載はほぼすべての資料で分布地図に位置が書かれているのみで、詳しい歴史が書かれているものは皆無に等しい。ただ、「信濃の古城」には、城主を岩下氏としているので会田岩下氏直轄の館なのであろうか?

              ~館跡の現状~

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館跡は現在の松本市四賀支所を見下ろす位置に所在する。
支所側から見ると見上げる位置にあり、尾根の先端部にある。


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台地上の大部分は、畑地として使用されている。

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下から道があるので簡単に台地上に登ることが出来る。
道を登っていくと台地上に出る直前で虎口と竪掘のような部分にでくわすが、遺構ではないようである。


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自然の沢・・・竪掘だったら良かったのに・・・・なんでも遺構に見えてしまう・・・病気かな?

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ここには・・城跡病の者を惑わす段々が・・・畑の跡らしいが・・・段郭が恋しい (>_<)

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このあたりが館跡の中心部のようであるが、畑と卵屋さんしかない・・

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台地上の先端部へ向かってみます。
トトロのトンネルがありました・・・誰が通っているんだろ・・謎だ?


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さらに進むと藪でした (-_-メ)
このあたりまで来ると自然地形で人工に加工された跡は見えない。
しか~し、先端部からの眺めはここの館の重要性がわかるものでした。


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北を見れば・・本城の虚空蔵山城が見え、眼下に会田宿と会田氏館の殿村が見える。

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さらに、北西には山笹城が見えこの位置の重要性がわかる。
現在遺構は見られないが、会田氏の一族が配置され厳重に防備を固めていたのであろう。



~参考文献~

山城探訪  (宮坂武男   平成10年)

四賀村誌  (四賀村役場  昭和53年)

信州の古城  (郷土出版社  平成19年)  
  1. 2012/05/16(水) 05:32:44|
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松本市(旧四賀村)  山笹城

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀五常西の宮                    訪城時間・・・・20~30分
別 名・・・・笹ヶ城                               危険度・・・・★★☆☆☆
訪城目印・・・・高速道高架下トンネル「麻績20」
  

                 ~山笹城歴史~  

会田氏の支砦で、会田川右岸の山の尾根にあり現在、高速道路により尾根先端部が削られている。
「信府統記」には「西ノ宮笹ヶ城跡、西ノ宮ヨリ未申ノ方、九町五十間、本城の平南北九間、東西六間、会田氏ノ持ナリ」とあり、「古小笠原分限録」には「西宮村笹ヶ城、城主会田小次郎」とある。
他の伝承として「東筑摩郡誌」には「山上の平南北九間、東西六間あり。会田氏の持ち城にして一説に岩下家の家老山笹丹冶といふ人之を守るといへり」とあり東筑摩郡誌は城主を山笹丹冶と詳しく伝えている。
   



                 ~城跡の現状~

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高速道路高架下「麻績20」を通って行きます。

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高速脇にこのような保守用の階段があります。
現在階段は藪になっているが我慢して登って行きましょう。


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尾根先端部にはこの祠がありので目印に。
この祠の部分は山笹城の物見場だったようである。


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祠の下には写真のような小さい郭が造られている。


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先端部の物見場と思われる所からの眺望はとても良い。
何故ここが物見場と考えられるかといえば・・・




本郭が鞍部を経て二番目のピークに築かれているからである。
たぶん、先端のピークは狭い為に二番目のピークに本郭を置く必要があったのであろう。


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本郭を見る。二番目のピークは郭を築くには十分な広さがある。
ちゃんと、旧四賀村により笹ヶ城の標柱が建っています。さすが!


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本郭の南西(物見場方面)にはわずかに確認出来る程度の土塁が確認出来る。

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本郭の北側は二段になっており(一応二の郭になるのかな)、このような切岸状の高い段により区別している。

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郭内部は平らに整形されているものの、尾根続き側は、写真のように自然の盛り上がりがそのまま使用されている。土塁として活用したのであろうか。

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本郭側を振り返ってみると、本郭切岸が明確に防御意識をもって構築されていることがうかがえる。

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一応、二の郭より尾根が続くが「山城探訪」ではこのあたりに堀切が書かれてるが現状は、写真のように崩れてしまい確認が出来ない。

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城跡の尾根続きから見る城跡。城跡裏の尾根はこのような細尾根が続いているためか、明確な防御遺構は見られない。

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城跡全景。二つのピークが確認出来る。

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笹沢城より見る山笹城。(一番高いピーク)

山笹城は、自然地形を活用し最小限の防御施設を施した戦をする為の城というよりは、物見程度で本郭部分に小屋を造って交代で見張りをしていたのであろう。伝承が無ければ見落とされてしまいそうである。
会田氏関係の城は虚空蔵山城塞群、雨戸屋城以外は防御意識が弱いものが多いが何故であろう?
築城技術が乏しかったのか・防御する必要がなかったのか。。。。小笠原氏・武田氏の傘下にいたのに?
誰か教えて・・・・(^○^)


~参考文献~

山城探訪     (宮坂 武男 平成10年)

四賀村誌      (四賀村役場  昭和53年)

東筑摩郡誌      (            )

信濃史源考(6)   (歴史図書社  昭和51年)
  1. 2012/05/16(水) 03:00:27|
  2. 松本市
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松本市(旧四賀村) 岩淵城

会田氏関連城跡

所在地・・・松本市四賀中川藤池                     訪城時間・・・・0分
別 名・・・・藤池館                               危険度・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・・国道143号線沿い


               ~岩淵城の歴史~

四賀村誌」には、会田川の左岸段丘上にあり、川をへだてて会田虚空蔵山城に対していて館跡を兼ねた城である。信濃戦国時代史には、武田時代に会田一族の岩淵丹後(豊後ともいう)の居城であったという。
また、「東筑摩郡誌」には、本城の平、南北三十四間にして東西北の三面に堀切ありて、南中川に流れに臨めり。会田廣政の部将岩淵豊後守の居城なりしが、本城と同時に陥落せり子孫其の地に留まり、今猶ほ民間にありといへり。とある


               ~城跡の現状~

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現在、城跡の中心を国道143号線が貫通していて一目では城跡とは分からない状態である。
自分も何回通り過ぎたことか(>_<)


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現在、旧四賀村により城跡の標柱が建てられている。(よ~く見ないとわからないけど・・・。)

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東筑摩郡誌にある三方に堀切ありて・・とはたぶんこの自然の沢を利用したものを言っていると思われる。
(ただ、方位が違うような・・・)


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自然の沢を利用したもので、幅が大きく鉄砲にも対応できたと思われる。
(刈谷原城の攻城で武田氏が鉄砲を使用した伝承があるのでこの部分も意識しているのかな?)


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郭の内部は現在、畑・家になっている。

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周囲や郭内部にも矢竹が茂っている。子孫かな?

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岩淵城は三方を自然の沢を利用した堀で囲まれ、一方を崖に守られている。
内部は、写真の堀と次の写真の堀により三つの郭に分かれている。


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この堀も大規模であり、防御の意識の高さがうかがえる。
城の分布を見ると、この城より青木峠側には城跡がたしか・・確認出来ていないので会田氏関連ではこの城が小県方面に備えていたことになる。


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矢竹で見えないが、西側の堀(自然の沢を利用)を見る。沢も国道に切断されている。

岩淵城は、無名の城ながら規模も大きく良く残っている城跡である。大切にしていきたいものである。


~参考文献~

四賀村誌 (四賀村役場  昭和53年)

東筑摩郡誌 (           )

山城探訪  (宮坂 武男  平成10年)
  1. 2012/05/15(火) 04:34:56|
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松本市   会田氏について…②

海野系会田氏に続いては・・・会田岩下氏について書いていきたいと思います。

海野系会田氏が会田の郷を去り、海野一族の岩下氏が会田を知行するようになったのが、「信濃史源考」では、応永年間とし、「四賀村誌」では文明年間としている。
岩下氏は、海野信濃守幸遠の二男、豊後守幸忠が小県の岩下に住して岩下次郎と称したといい(望月・矢島二氏系図)あるいは、幸遠の孫、海野宮内大輔幸房の二男、岩下豊後守幸実であるという説がある。 
「滋野三家系図」では、海野幸義の弟を岩下豊後守幸久とせり、一説に会田小次郎中絶の時、岩下玄蕃と云う人、会田虚空蔵山城に居り、岩下豊後の位牌広田寺に在り、豊後は、海野小太郎幸義の弟なり。「信府統記」には、広田寺は永正中、岩下豊後の建立と伝える。
会田岩下氏の系統について「信濃史源考」には、会田に岩下氏あり其の後、岩下豊後、岩下監物住せり。
岩下玄蕃、会田城に居住し其の後、豊後と称すとある。豊後と玄蕃は同一人物のようである。
その後、天文年間まで詳しい資料は無く、天文二十二年、武田氏による四賀地区への侵攻を「高白斎記」でみると、「三月二十九日深志ヲ御立、午の刻、刈谷原へ御着陣(中略)、四月三日、会田虚空蔵山迄放火」とあり、その後の会田虚空蔵山城の攻防等が記されていないので、会田氏は戦わずに降参したようであり、永禄十年八月七日、生島足島神社に於いて武田信玄に起請文を出した諸将の中に、岩下幸実・岩下長富・岩下幸広の三名の名がある。(ただし、全員が会田の岩下氏かは不明)また、「笠系大成」に郷士として、岩下筑前守・備前守・丹波守・源太・監物・志摩があり、岩下家家老として堀内越前守の名も記されている。
当時、武田家における岩下氏の軍役は十騎で武田逍遙軒に属していたようである。天正十年、武田氏・織田信長が滅ぶと深志城に小笠原貞慶が戻り、武田氏侵攻時に武田方に寝返った豪族を攻め始めると、会田氏は、小笠原氏との対決が避けられないのを知り、上杉氏の支援を得て矢久に砦を構えてこれに籠った。
この時の領主は、会田小次郎廣政(または広忠)であったが幼少であったので家老の堀内越前守が戦ったが、越前守は討死し砦は落城してしまった。領主の小次郎は逃れたものの青木村の十観山で自害したと伝えられる。


              ~会田氏関連遺跡~

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会田氏といえば・・ここ広田寺ですね。
広田寺は、会田氏の菩提を弔うために現在地に伽藍を移した寺院で、前身は知見寺である。知見寺は、会田岩下氏により中興されたが場所は東の山を越した知見寺と云う所にあったが、小笠原氏に焼かれてしまい、住職が岩下豊後の位牌をもって逃れ知見寺を広田寺として再中興したといわれる。また、永正年間(1504~1520)、小笠原氏の菩提寺として知られる里山辺の広沢寺4世雪江玄固の開山ともされる。


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別にお寺が趣味ではないが・・厳格な雰囲気がすきだな。!(^^)!

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本堂です。もちろん海野氏系の菩提寺なので六紋銭ですな

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殿村遺跡の発掘報告会の資料に広田寺にも古い宝筐印塔があるとの記載があったので・・・苦労して探しました(^_^;)雨の中、お墓をうろうろしてる不審人物が・・・通報されなくてよかった。。。お寺の古さがわかりますね。

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会田氏といえばこれかな。会田塚ですね!他のサイトさんにも詳しく書かれているので軽く書きます。
「広田寺過去帳前書」には、会田殿の御軍衣・御軍具を埋め奉り会田塚と称すなり」とあり、遺体の替わりに身に纏っていたものを埋めたことが分かる。


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最近注目を受けているのがここ・・(仮)長居原遺跡です。
会田虚空蔵山の麓知見寺沢沿いにある永井原といわれる平地があり、昭和50年代まで畑や荒れ地になっていた場所である。


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文禄三年の「会田郷往古之略図」には、「長居原」・「軍さの稽古場」などの記述がみられる。

id4.jpg

中世の信仰関係の遺跡群の可能性もあり、平成22年からは東海大学考古学研究室が石積みの測量を開始している。
(知見寺沢の関係からここが知見寺跡では・・・との話もあったが・・どうでしょう。)


もうひとつついでに・・会田地区の遺跡地図にしか見られないけど・・旗塚があります

mi6.jpg

現在、旗塚といわれているのは三峰社のある尾根と無量寺横の尾根・広田寺裏の尾根の三か所です。
今回紹介するのは「三峰社上の旗塚」といわれている遺構です。


sigamuramitumine1.jpg


尾根を登るとこの三峰社がありここからさらに尾根を登ると・・・

sigachikumitumine2.jpg


このような塚が確認できます。確認できた確実なものは8ヶくらいだったかな。
場所的に確かにそれぞれの場所は威嚇には効果的な場所ではあるが・・本当に旗塚ってあったのかな~。
教育委員会の講演会では、旗塚ではなく、三峰社・無量寺・広田寺の近くにあることを考えると宗教施設の十三塚ではないかとの説も出ていたけど・・これいかに?


会田氏についてご理解いただけたでしょうか?次回からはまた会田氏関係の城郭を紹介したいと思います。

~参考文献~

四賀村誌  (四賀村役場 昭和53年)

信濃史源考(6)  (歴史図書社  昭和51年)

殿村遺跡発掘概報  (松本市教育委員会 平成23年)

義民の里 青木村  (宮原 栄吉  昭和61年)
  1. 2012/05/15(火) 02:48:12|
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松本市  会田氏について・・①

会田氏関連の遺跡・城跡を紹介していきますが、その前に、細かいことはあまり良く分かっていない
ものの資料に書かれていることを抜粋しながら会田氏について紹介していきたいと思います。


会田氏とは、現在の松本市四賀地区を納めていた領主であり四賀地区には数多くの城跡・宗教遺跡が散見され会田氏の権力の大きさがうかがわれる。
なお、会田氏と一言でいっても、海野幸継の子供が起こした海野氏系会田氏と小県の岩下に領地をもっていて海野氏からわかれた岩下氏が海野氏系会田氏がいなくなってから入ってきて会田氏を名乗った会田岩下氏の二系統が存在しました。


ここからは、海野氏系会田氏について紹介します。
(なお、文献を調べてきていますが、素人が書いていますので間違えがあるかもしれませんので、あしからず。)


海野氏系会田氏については、朱雀院御宇の天慶二年、平将門謀反の時に海野幸恒に軍功があり筑摩郡田沢・塔原・光・会田・麻績の郷を賜ったのが海野氏が筑摩郡へ進出するきっかけとなった。(金沢系図)その後、海野氏が会田御厨の地頭職を有するようになる。「嘉暦頭後結番下知状」の嘉暦四年に会田御厨、海野信濃権守入道以下とあり、この海野入道が嘉暦四年に現存の人とすれば、元弘元年に討死した海野信濃権守幸康と思われる。海野幸康の曽祖父、海野信濃守幸継には六人の子供がおり、その六人の子供達に幸恒が賜った郷を分知し地頭職として入れた。子供達はそれぞれの郷の地名をとり家名とした。
会田の郷には幸継の二男が入って会田小次郎を名乗ったが、
「四賀村誌」では二男の名を幸持とし、「信濃史源考」では、幸元として、海野系図に幸持なし。と書いている。
この会田氏を名乗った二男の名については、資料により違いがあるが共通点は海野氏の分系であるとしているところである。この後の会田氏については、詳しい資料が無いが次に会田氏が資料に出てくるのは応永七年の「大塔合戦」であるが・・「四賀村誌」では、大塔物語に「会田・岩下」の記述があり間に点をいれ会田氏と岩下氏が海野氏について出陣して小笠原長秀と戦いその後、幕府の処置により小笠原氏を継いだ政康に会田氏も臣従するようになったが、文明六年の「諏訪御符礼の古書」に岩下氏の名が出てくるのでその頃に会田氏と岩下氏が入れ替わりその理由はわからないとしている。ただ、「会田岩下」として間に点を入れず会田岩下氏と解釈している資料もある。「信濃史源考」では、会田氏と岩下氏の入れ替えを大塔合戦の前の文安年間に鎌倉北条氏の遺児成氏から出た村上氏が国清・政清と持清が本領を争うことになると、小笠原氏と越後長尾氏は国清・政清を支援し、持清を海野氏と武田氏が支援し佐久小県で数次合戦をしたが海野氏方は散々に打ち負かされてしまった。これにより海野総領家は衰退し会田氏も衰退していった。戦いに敗れた村上持清が去ると会田氏は鎌倉成氏に仕え会田の地を去って行った。としている。


                 ~会田氏関連文化財~

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これは、殿村の西側にあるニゴミ堂(人埋堂)といわれるお堂の跡である。
文禄3年「会田郷往古之略図」には、此の堂は軍人の死人や百姓の死体を埋める地。
人埋堂に守りを置くと伝える。と描かれていて戦死した人を埋めていたことがわかる。


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現在は、このように石仏・卵塔などが無造作に集められていてあまり大切にはされていないようだ。
これでいいのか?日本人。てね。


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この堂跡には写真のような、五輪塔・宝筐印塔の残欠が見られ、道路建設時の発掘でも古い板碑が発見されかなり古い時期からあったことが確認されている。

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善光寺街道沿いにある岩井堂観音である。
信濃二十番札所観音霊場として街道を行き交う参詣者で賑わった観音堂であり、弘法大師伝説を伴っている。


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堂の脇には磨崖仏が彫られている。
「会田郷往古之略図」には、祝堂として会田氏施薗地、岩石ノ名所なるにより岩井堂と改めるという。とあり
会田氏との関係を伝えている。


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会田氏の館跡とされる殿村に隣接している長安寺である。
この寺は岩屋神社の別当で、文永5年(1265)蘭渓道隆(大覚禅師)の招聘開山とされる。
観音蔵菩薩を本尊とし、より古く遡る寺と推定され、会田氏滅亡とともに衰退したが現在まで細々と命脈を
保ち祈祷の寺として近年まで春に斎串状の田の神を売っていた。


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歴史ある寺も現在は、無住となり寺はボロボロである。

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現在の会田小学校体育館付近にあった補陀寺の石仏で、今は、長安寺の敷地にある。長安寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となった。この寺も会田氏の館跡に隣接していて濃い関係を窺わせる。
天正9年(1581)の「信濃道御祓いくばり日記」にその名が見える古い真言宗の寺院で、室町時代初期の製作とされる阿弥陀如来像が伝わっている。


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この寺は、岩井堂近くにある無量寺である。この寺の裏にはうつつ城が存在する。

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無量寺は、弘仁10年(819)に真言宗の寺院として開山したと伝わる。この寺も弘法大師伝説のあることも注目される。無量寺も「信濃道者御祓いくばり日記」にも記載されている

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裏の墓地には、古い宝筐印塔の残欠がみられる。

回は・・・会田岩下氏をお伝えしたいと思います。


~参考文献~

殿村遺跡発掘調査概報  (松本市教育委員会  平成23年)

四賀村誌  (四賀村役場  昭和53年)

信濃史源考(6) (歴史図書社  昭和51年)
  1. 2012/05/11(金) 10:00:26|
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松本市(旧四賀村) 取手砦

え~と・・・・前回に雨戸屋城・鍋山城砦と会田氏関係をやってしまったので・・・・・
これからは、当分の間は会田氏に関連する遺跡・城跡・宗教関係などを紹介していきたいと思います。


会田氏の資料をあさっていますが・・・準備ができるまで・・・無名の城跡で許して下さい。(-_-)zzz

所在地・・・・松本市四賀会田取手                   訪城時間・・・・0分
別 名・・・・取手館                              危険度・・・・★☆☆☆☆
訪城目印・・・・取手地区高札場


               ~取手砦歴史~

取手砦については、色々な文献の地図等には記載があるものの、歴史について記載があるものが確認できない。
ただ、「信濃の古城」の筑摩・安曇の諸城一覧に居城者の項に兒玉氏と確認出来るだけである。
兒玉氏については、「信州の山城」で、御師の日記にはないが小居館を持つ者に、笹沢・兒玉・海野・岩渕・中村・横内・中沢等がいていずれも古い村役人である。とあり、信州の山城にある兒玉氏と関係あるかは不明ながら
雨戸屋城の城主が小玉民部(式部とも)で小玉氏である。



                 ~砦跡の現状~

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現在、砦跡の近くには高札場がありこのあたりが集落の中心であったのであろう。
居住者とされる兒玉氏は会田氏配下でこの地の土豪だったのだろうか。
ちょうどこのあたりが刈谷原氏・大田氏と会田氏の領地の中間に近い場所なので会田氏の配下の砦であれば
会田氏最南端の城館ということになる。


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旧四賀村はいつもながら無名の砦まで標柱が建っている素晴らしさである。(現城にはなかったけどね!)

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現状は、砦の中心と思われる場所は畑となっていて東側に一段低い平場がある

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一段低い平場と堀跡を見る。
現在、北側のみに堀がみられ、東・南側は堀形は見られない。なお、西側は断崖絶壁のためこちらに防御は必要なかったと思われる。


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北側の堀を見る。
過去には畑として使用されていたようで堀はだいぶ埋まって浅くなってしまっている。


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本郭の北側にある堀に沿って土塁の痕跡のようなわずかな高まりが認められる。

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砦跡の中心部南側にある民家には水が湧いていて砦の水の手であったであろう。
もしかしたらこの民家も砦の一部だった可能性もありこの家の南側には土塁状の高まりがみられる。


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民家南側にある土塁状遺構。
この部分まで砦の内部であったならば、複郭の造りであったと思われるが、北側以外に堀跡が認められない為
なんともいえない。



取手砦を見てきましたが文献にも詳しいことが書かれているものが無い為、わからないことが多いがこの場所を守っていた人がいたということが現在でも確認出来ることは素晴らしいことである。
確実な遺構は堀が一本だけであるが、大切にしてほしいです。



~参考文献~

信州の山城   (信毎書籍出版センター  平成12年年)

信州の古城    (郷土出版  平成18年)

四賀村誌     (四賀村役場  昭和53年)


山城探訪    (宮坂  武男  平成10年) 
  1. 2012/05/08(火) 16:32:26|
  2. 松本市
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松本市(旧四賀村) 鍋山城砦③

では、3回目をはじめま~す。

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この斜面は、砦跡から南斜面を降りている所です。
現在では、この下の道から新しい山道が造られているが古くは日向集落などからはこの尾根を登っていたようであり、石仏が見られる。(現在、道形は見られない)


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尾根の中腹にある埋まりかけた祠・・かつては大切にされていたんだろうな~。
荒れた城跡には良くこのような祠がみられ、人が昔は入っていたことがうかがえて今の状態を考えると寂しいものだ。これを見てなるべく記録に残していく決意をするのである。 )^o^(


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中腹には一段だけ写真のような平場が見られる。
砦へ登る道でも守っていたのか・・・城を見て回るとただの平場が郭に見えてくる・・だだの畑跡だろうな。
山城探訪には記載が無いが・・記録だけ残しておこう。


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尾根登り口には、この馬頭観音があるんだ♪
ここを西に行くと鍋山集落・東に行くと日向集落へ通じる。


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鍋山集落で現在は2軒の家が建っている。
人の姿は見えないが、使われている痕跡があるので人の出入りはあるようである。
ここは鍋山城砦の根小屋の推定地であり確かに上にある家からは砦がある尾根上へ道が続いている


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写真にある尾根が砦跡へ通じている。

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続いては、日向集落です。
「山城探訪」によるとこの集落にいた伴在氏(坂西氏に関係あるのか?)は落人であると住人に聞いたと記載されている。


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集落内にはこのような石仏・社が散見され集落が栄えていたことを窺わせるが、現在は、廃墟が多くわずかしか住人はいないようである。

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廃墟って寂しいものですね・・・・(・へ・)

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眺めは最高なんですけどね~住むとなると・・・気持ちはわかるな。

*マレットゴルフ場~五本峠~五輪平集落~砦跡~鍋山集落~日向集落~公民館~五本峠~マレットゴルフ場
の全工程を歩きで約三時間半~四時間くらいで回りました。(雨戸屋城は別日に訪城)


以上で、雨戸屋城・鍋山城砦編は お・わ・り  です。
  1. 2012/05/07(月) 01:37:15|
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松本市(旧四賀村) 鍋山城砦②

さあ、ついに鍋山城砦を紹介していきたいとおもいます。

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今回は、五輪平集落へ向かう道沿いから砦へ登りました。
するとこの斜面にはこのような4段ほどの平場があります。畑などの跡かな~?。それとも砦の防備かな~?
後でも書きますが砦には城郭遺構は確認できないので、ここだけあるのは変だよな~。


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平場を斜面から見下ろしてみました。畑の跡とも見えるけど、この平場と平場の間の斜面の高さは畑とは思えないほどの高さがあり不可解です。
「山城探訪」でもこの砦の位置は砦には不向きであると記載がある。確かに比高があるので遠くは見えるものの近くは、集落がのる広大な尾根筋が広がっていて見えないので街道の監視等は出来ないと思われる。では何故この場に砦の伝承があるのか?もし想像するなら・・・この斜面の平場には柵を設け、砦跡といわれている場所は番所で尾根上の道を取り締まっていた・・・っていうのはどうかな?


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砦跡と上の写真の平場の間にある尾根道を見る。
この尾根道は、古くはかなり使用されていたようであり、五本峠の上にある古い街道につながっていたと思われる。さらにこの道は「山城探訪」には三峰城(東川手)の方につながっていたようである。と書かれている。


nb15.jpg

砦跡といわれている山頂であるが平らに整形されているだけで、その他の城郭遺構は見られない。

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砦跡にある吾妻大神の祠。
五輪平・鍋山両集落に人がいなくなり手入れがされなくなったものと思われ、荒れてしまっている。


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広い平場だけ・・・番所っていうのはやっぱ違うかな?だって、防御の意識ゼロだもん(?_?)

っと見てきました鍋山城砦ですが、次回は根小屋といわれる鍋山集落・落人伝説の日向集落を見たいとおもいます。城跡にしか興味がない人はごめんなさい。


~参考文献~

山城探訪 (宮坂 武男)

殿村遺跡第1次発掘調査概報 (松本市教育委員会  平成23年)
  1. 2012/05/07(月) 00:47:16|
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松本市(旧四賀村) 鍋山城砦①

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀五常中北山          訪城時間・・・・五本峠から徒歩(30分)・車(車で10分徒歩5~10分)  
別 名・・・・なし                      危険度・・・・★★☆☆☆
訪城目印・・・・五輪平集落・鍋山集落



              ~鍋山城砦の歴史~

鍋山城砦については、松本市が刊行した「殿村遺跡発掘調査概報」の周辺の遺跡と文化財の地図と、宮坂氏の「山城探訪」にしか今のところ記載している資料を見たことが無く、これらにも歴史の記載がない為、不明であるが鍋山城砦と尾根続きで近距離にあるので、会田氏に関係していると思われるが小規模すぎて歴史も残らなかったのであろう。「信府統記」にも記載は見られない。


                ~城跡の現状~

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鍋山城砦へは、五本峠(雨戸屋城と同じところ)から中北山林道を進みます。(車高の高い車だけにしておいたほうが・・)
写真左の高まりに雨戸屋城の時に書いた神社があります。

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ず~っと。林道を進むとこの分岐があります。
後ろにも分岐がありそちらは、公民館へでます。この写真では、右側が五輪平集落へ、左の尾根道(車不可)は鍋山城砦へ行けます。(私は、五輪平集落へ行き集落から砦へ登りました。道は無いけど。)


nb2 (2)

まずは・・五輪平集落から紹介したいと思います。
これは、五輪平集落に向かう道の途中にある馬頭観音、人がいなくなった今でも見守ってるんですね。


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五輪平集落(四軒ほどの廃墟があり廃村となっている)を見る。
写真上の尾根には鍋山城砦に通じている尾根道が通っている。


nb4.jpg

旧四賀村指定の「やまなし」という古木(枯れている)とその下には・・・・

nb7.jpg

これが、この集落の名前の元でしょうか?
五輪塔・宝筐印塔などの残欠をいろいろ組み合わせてあります。かなりの昔からこの山奥に人が暮らしていたんですね~。


nb9.jpg

家屋は倒壊していますが、現在でも水がたまっていて水には困らなかったであろう。
現在も、墓・畑の管理で人は入ってきているようできれいにされていた。

山の反対側にある鍋山集落が根小屋といわれているが、五輪平集落も比高・水・日当たり等問題ないようにも思うんだけど・・・山が遮っていて不便だったのかな?)

次回は・・・鍋山城砦を紹介したいと思います。
  1. 2012/05/06(日) 23:33:27|
  2. 松本市
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松本市(旧四賀村) 雨戸屋城②

前回は、長々と周りの環境を書いてしまい、お城を期待していた方には怒られてしまいそうですが・・・・
今回は、さすがに雨戸屋城を紹介したいと思います。



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五本峠の所から尾根を歩いて行くと、この細尾根が続きます。

iop (2)

すると・・最初のピークですが樹木が無ければここが一番眺望が良いのですが・・遺構がありません。
見張り番程度は居たのでしょうか?


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最初のピークからさらに細尾根を行くとこの二番目のピークに着きます。
一応、平らになっており中央に祠が倒れています。ま~ね、一人でいると不気味ですよ(*_*;


012.jpg

この二番目のピークは雨戸屋城側に緩やかに下っていきます。すると・・

025.jpg

小規模ながら、最初の堀切が現れます。(この写真は城内側からの撮影)

018.jpg

この堀切は、竪掘として北側に長めに落としています。


am.jpg

二本目の堀切を見ます。
二本目と三本目の間には堀残しの土塁があります。


080.jpg

三番目の堀切で、城内最大で写真右側は本郭の切岸となっています。

ak1.jpg

城内最大の堀切であり竪降の下ろし方も最長で両側に落としています。

076.jpg

本郭から見た三本目の堀切です。こういう角度の写真が好きです(*^_^*)

ak3.jpg

本郭ですが・・・まあ、いつもの藪ですね。
本郭は平らにはなっていますが土塁は見られません。高い山の上だからこの程度かな


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いつもながら、旧四賀村は素晴らしいですね。
死亡していますが標柱がありました、これがないとさびしいですね。


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本郭東側尾根続き(虚空蔵山側)の切岸を見ます。
これも切岸が緩いですね、手前に郭のような平場があります。


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宮坂氏の「山城探訪」では堀切となっています。
びみょ~な窪みが見えるような・・見えないような・・・宮坂氏は良く気付きますね。素人にはわからん!


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反対から見てみました・・・やっぱ・・平場にしか見えん!
この先には防御施設が見られないことから、この城は、五本峠側を意識して構築されていることがわかる。


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登り口のマレットゴルフ場から雨戸屋城を見る。

144.jpg

ついでに、松本市四賀支所から見た山笹城と雨戸屋城の配置です。

次回は・・・鍋山城砦とその周辺の歴史を書きたいと思います。お楽しみに!


~参考文献~

四賀村誌 (四賀村誌編纂委員会  昭和53年)

山城探訪 (宮坂 武男)

信府統記 (国書刊行会  平成8年)
  1. 2012/05/06(日) 18:43:16|
  2. 松本市
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松本市(旧四賀村) 雨戸屋城①

会田氏関連城跡

所在地・・・・松本市四賀会田・五常北山           訪城時間・・・・歩き(40~50分)・車(5~7分)
別 名・・・・なし                          危険度・・・・★★☆☆☆
訪城目印・・・・五本峠


今までは松本市街地周辺を紹介していきましたが、少しずつ範囲を広げていきたいと思います。なお、このブログの題のとおり周辺の歴史も紹介していきます。


               ~雨戸屋城の歴史~

この城は会田氏の支砦で北山の尾根上にあり、山笹城を見下ろす位置に築かれている。
『信府統記』には、「雨どや山ノ古城地、会田町ヨリ亥ノ方三十町十六間、本城ノ平東西五間、南北十間、南向ノ
城ナリ是仁科口押ヘノ執出ナリ会田氏ノ家人小玉民部ト云フ者アリ此城ヲ守リケルニヤ、甲州へ属セシ時ノ朱印感状等モ其末孫金蔵・金右衛門只右衛門ナリト云フ者後マデ此處ニアリ嫡孫ハ今ハ川中島二小玉何某トテアリ彼朱印感状等ヲモ持傳フルト云々」とあり、『文久三年会田町村明細書上帳』にも「字雨とやノ城、同断、壱ヶ所、右者会田氏之家臣、小玉式部住居仕候由申伝へ候」と書かれている、この二つの資料から見ると、雨戸屋城は
会田氏の家臣小玉民部(式部と同じ人か?)が仁科口(明科方面なのかな)に備えて守っていたことが書かれている。



                 ~城跡の現状~

まずは、林道・峠周辺の紹介から始めたいと思います。この紹介する五本峠から雨戸屋城・鍋山城砦の両方へ行けるので続けて書いていきたいと思います。

qqqq.jpg

この雨戸屋城へは、会田虚空蔵山麓の岩井堂近くにある四賀菅ノ田マレットゴルフ場の奥にある林道菅ノ田線を
登っていきます。(林道はかなり荒れているので歩いていくことをお勧めしますが、車高の高い車であれば走れると思います。実際、私も軽自動車で走ったら車の底を擦ってしまい嫁に怒られました(-_-)zzz


133.jpg

林道はきれいに見えますが・・・走ると怖いですよ(^_^;)
林業の方や狩猟の方が走っているようで轍は鮮明です)


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ここが五本峠です。この写真だと右が岩井堂・左が五輪平(鍋山城砦方面)・手前が北山・奥が東川手への道となります。雨戸屋城へは、写真にある林道の標識の裏にある尾根に登って岩井堂方向に戻ります。


aaa.jpg

五本峠の上にはこのような神社がありますが、峠からは気付かず2回も通り過ぎてしましました。

235.jpg

このような社と裏には石仏が祀られていますが、周辺の集落は廃村になっているので放置されています。

aaaaa.jpg

神社の脇にはこのような昔の道が藪の中にあり・・・


251.jpg

雨戸屋城へはこの林道脇の尾根上を登っていくのだが尾根上には

253.jpg

神社の脇にあった道とこの火の見櫓がある・・しかも・・

255.jpg

馬頭観音もある・・これらを考え合わせると・・この尾根上の道が本来の五本峠でありかなり使われたのであろう、現在のものは後世に車のために新しく造られたものと思われ、雨戸屋城はこの昔の五本峠と北側山下にある明科東川手への道を抑える為に築かれたものと考えられる

109.jpg

ついでに言うと・・五本峠を北山方面に行くと、この廃墟になった公民館に着く。
公民館手前の道を下っていくと五常へ出られるがこちらの道もかなり狭いので注意が必要。


113.jpg

公民館手前にはこの祭りに使われたであろう山車の格納庫があり、昔のにぎやかさがうかがえる。

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公民館の周辺には石仏も散見される。

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現在、この公民館周辺の集落は多くが廃墟になっていて寂しくなっているが、かつては多くの人が住んでいたようであり、雨戸屋城と周辺の集落の距離を考えるとこの集落が根小屋だったのではないのかな?と思ってしまうけど素人なんでね断定できません。城跡だけではなく周辺も歩き回ると気付くことが多いですよ!

次回は、メインの雨戸屋城を書いていきたいと思います。
  1. 2012/05/06(日) 14:24:07|
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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