長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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生坂村  小屋城①

小屋城第1回目

所在地・・・・生坂村上生坂字万平こや                          訪城時間・・・・5分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                  訪城目印・・・・大城万平登山口




                 ~小屋城の歴史~

生坂村誌には、

犀川の右岸山上で、万平居館跡の山頂にあり、南は犀川の断崖で、北は谷となり東は尾根を登れば京ヶ倉・

大城に通じている。居館の万平との比高さは50mである。

元禄十一年「上生坂書上帳」に「東西十三間、北南七間・城主丸山丹波守・・・・」とある。

本郭は20m×14mの長方形で、東下に10m×8m・5m×7mの小郭が二か所ある。

本郭の西下に幅4m・深さ1.5mの掘割が二条あり、30m下で合流して一条になる。

堀割の西に25m×8mと約30m登った所に6m四方の小郭がある。

小屋城からは犀川を隔てて日岐城が指呼の間にあり、大城も北に望まれる。

東の斜面下には山ノ神を祀っていて、水の手は北側の小屋沢の上流にあり、享保五年(1720)の

「万覚書」には「戌の方一町水ござ候」とある。大手は堀割から見て西の斜面であろう。

周辺の地名としては、付近一帯を「こや」というが特に西北下段の平地にはこや部落があり、

現在家はないが元禄十一年には四軒あり番兵の居住地であったのであろう。

南斜面下には城日向・城下・かまの口(構え口)、西方下に注進口・馬場先、こや沢下方のこや藪・のぞきがある。

急な尾根道を登れば大城に達し、道をよきとぎ(よき峠)と呼ばれている。

また「信府統記」の上生坂小屋ノ山古城地の項には、

「丸山丹波守持ナリ、此丹波守ハ日岐没落ノ後更科郡八幡へ行テ在住セシカ立帰リ池田興北山ノ枝村寺間ト云所ニ

テ死ス其子孫ニヤ丸山丹後ト云フ者石川玄蕃頭ニ仕ヘテ此筋郷村奉行ノ中ニ其名見ユレトモ詳カナラス」とある。

この事から丸山丹波守が普段は万平の居館に住み、戦時にはこの小屋城に入り大城へ続く尾根を守っていたものと

思われ、天正10年の小笠原氏による日岐攻めの時に大城と一緒に落城したものとされる。



               ~城跡の現状~


IMG.jpg

山城探訪の縄張り図と記憶を参考に初めて書いてみました・・・三時間かかってしまった。。。

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こや地籍から小屋城を見上げる。
小屋城は比高が低いので既に本郭と竪掘が見えている。


 ~ 掘① ~  

ikusakakoya6.jpg

城跡へは手っ取り早く堀①の竪掘を登りました。

ikusakakoya2.jpg

堀①の竪掘を斜めから見て見るとその大きさがわかってもらえると思います。

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竪掘を登って行くと上部は二股に分かれているのがわかると思います。
(縄張り図にあるように堀切①の一部のみ二股になっている。)


ikusakakoya100.jpg

掘①の尾根上部分を見る。

ikusakakoya8.jpg

犀川側は断崖絶壁なので竪掘はわずかにあるものの掘り込は甘い。

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本郭上から掘①の竪掘を見下ろす。

 ~ 郭①(本郭) ~  

ikusakakoya64.jpg

郭②から見た本郭。
掘①に続いている為、郭の壁面(切岸)の角度が急であることがわかる。


ikusakakoya66.jpg

ikusakakoya67.jpg

現状、郭①はきれいに削平されているのは確認できるが、土塁は確認できない。
(写真は、ただの籔ですが。。。(-_-;)。)
本当なら比高が低いし、堀切が掘られているのだから土を郭①の縁に盛ればいいのにそれがされていない。
比高が低いので畑にでもされ土塁は崩されたのか?でも痕跡もないし・・。
小池城・中野山城・高松薬師城などにも土塁は確認できるので技術が無かったわけではないだろうが・・
何故だろう。。。不思議だな~。


ikusakakoya65.jpg

郭①にある生坂村様の定番説明板を見る。

ikusakakoya68.jpg

郭①の東側(掘②側)の切岸を見る。

ikusakakoya11.jpg

郭①から日岐城を見る。
現在は樹木が邪魔で良く見えないが、城が使われていた時は木が伐採されていて良く見えていたことだろう。


~ 堀②周辺 ~ 

ikusakakoya17.jpg

堀②周辺は藪になっていて確認は難しいく、なんとなく認識できる程度である。
この写真は、郭①と堀②の間にある腰郭である。
(手前の木が立っている所が郭であり、奥に郭①の斜面が見えている。)


ikusakakoya12.jpg

ikusakakoya15.jpg

堀②を見る。
藪の為に写真を撮るのも難しいが、現状堀の深さは20~30cm程度と浅くなってしまっている。


以上、郭①(本郭)周辺を紹介してきました。。。。次回は西側尾根筋の城域を紹介していきたいと思います。

お楽しみに。
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  1. 2012/06/29(金) 03:32:46|
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生坂村  万平の館

所在地・・・・生坂村上生坂字万平                              訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                   訪城目印・・・・生坂小学校





             ~万平の館の歴史~

「生坂村誌」によると、

上生坂の小屋城下2ha余りの平地で、館の遺構は開田の為に消滅しているが、

元屋敷には矢竹が群生し付近には古井戸も残る。

丸山氏が天文時代末に殿村の館から移った居館で天正10年9月に小笠原氏に攻略された。

中央部の馬場先には長さ200m余りの松並木があり、元禄4年(1691)に史跡と防風林を兼ねて植えたものである。

並木の南側には昭和初年まで旗塚が10基ほどあったというが、開田により現在は1基が残るのみである。

馬場先に東に注進口の地名があり、犀川べりの街道釜ノ口(構え口)に通ずる。

西下には狐原があり監視兵がいたと思われ、その下の街道筋には関屋(関所)がある。

上生坂は南口を釜ノ口で守り、北口を関屋で守れば攻めることの困難で、集落全体が城ともいえる。とある。

また、居館の主は、隣接している小屋城主丸山丹波であるとされている。



追記・・・「東筑摩郡誌」を見ていたら古戦場の項に「萬平古戦場」の項があり、

天正10年9月小笠原貞慶兵を率いて丸山丹波守を日岐大城に攻む。城主丹波之を城南萬平に邀へ戦ひ利あらず。

明日城陥り丹波、仁科(確か穂高氏だったような)内膳と共に越後に遁る。

其當時の於る戦場の旗塚数個今尚ほ存せり。との記載があった。




               ~館跡の現状~ 

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殿村の居館近くから見上げる万平の居館のある台地。
居館とはいっても小高い台地上にあり、防御力は高く戦国時代に殿村から移ったことは理解できる。




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万平の馬場先にある旗塚と松並木の説明板。

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馬場先に唯一残る旗塚を見る。
この旗塚は、丸山氏が天正10年に小笠原氏に攻められた時のものであろうか。


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居館跡の元屋敷と後方に本城の日岐大城を見る。
居館は現在、田んぼと民家になっている。


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元屋敷地籍を見る。

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元屋敷の中心部と後方に松並木を見る。
ここに唯一の居館の遺構である古井戸が現存する。
  


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この井戸を丸山丹波も使ったのだろうか。

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 「戦国時代に丸山丹波守がこの付近にいて使用していた古井戸」と書かれている。  

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本城の日岐大城から見た小屋城(手前にある尾根)と万平の台地を見る。

この程度の居館では、小笠原氏の日岐城攻めにはあっけなく落城したか、戦わずに大城などに籠ったことだろう。


~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会   平成9年)

信州の山城   (信濃史学会     1993年)

東筑摩郡誌    (信濃教育会    1919年)
  1. 2012/06/26(火) 03:41:20|
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生坂村  殿村

所在地・・・・生坂村上生坂                                訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                 訪城目印・・・・生坂中学校




                 ~殿村の歴史~

「生坂村誌」によると、

生坂中学校の南側の2ha以上の耕地および宅地であり、地名として残るだけで、開田の為館跡は消滅した。

南端の幅に城主の使用した御竹藪が、地域内には、元禄十一年の「書上帳」に載る毘沙門堂と地蔵堂がある。

毘沙門堂は降旗氏の後生堂といわれ、現在も丸山氏武田氏から日岐六郷を賜ったと伝える降旗氏の仲間が祀る。

西方には、ばんば・郷蔵跡・真言宗の照明寺。

北隣には川手の古道が通り、東の入り口に釜の口(構え口)、西北の出口には関屋の地名がある。

犀川の対岸東方には日岐殿屋敷がある。

丸山氏が大町方面から進出した最初の館であったろう。とある・・・・?

たしか・・生坂村誌の丸山殿屋敷の項では、丸山地籍は丸山氏発祥の地である。とあり、

「信濃古武士」にも仁科盛光が日岐六郷を賜り、丸山に居館して丸山氏を名乗った最初の地であるとしていて、

大きく食い違いがある。

殿村の地名から丸山氏の一族が居たことはうかがえるが丸山氏が最初に入った最初の居館であったというのは

疑わしいものである。

(これから丸山地籍の調査をする予定であるが、丸山の地を写真で見たことが無いのでどのような場所であるか

わからないけど、筑北村の仁熊方面から峠でつながっているらしいので重要な地であったことは分かっている。)

平地に在り眺望は期待できないので、この館の存在意義があるとしたら、犀川の抑え・監視くらいなものであろうか。



                 ~館跡の現状~

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殿村の標柱と犀川縁にある居館跡を見る。
現状は、田んぼ・民家・保育園などになり遺構は見られない。
(奥に見える竹藪が御竹藪)


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まあ、居館跡といわれている所・・。
周囲は保育園などなので・・・ここくらいしか写真が撮れなかった。
(どうみても不審者ですからね。)


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殿村から見る小屋城。
この居館があった頃には小屋城は存在したのであろうか?
居館と小屋城の位置から根小屋と詰の城の関係があってもよさそうだか・・・。
 


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居館に付属する御竹藪の標柱と後方に竹藪を見る。

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現状はただの荒れた汚い竹藪になってしまっている。
歴史ある竹藪も人に忘れられればこの通り。もったいない。


たしか・・何かの資料に万平の居館を築く前の居館が殿村にあり攻められる危険度が上がった為に台地上の
万平に居館を移したという説を見たな・・・(?_?)

あなたどのように思いますか?

もっと勉強しなきゃな・・・。 
 




~参考文献~

生坂村誌  (生坂村誌刊行会    平成9年)

信濃古武士 (丸山 楽雲 著    平成21年)
  1. 2012/06/24(日) 16:09:41|
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生坂村  中海道居館

所在地・・・・生坂村下生野                                   訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                     訪城目印・・・・五社宮



              ~中海道居館の歴史~

「生坂村誌」には、

下生野の下段、五社の西方、60m×60mの耕地および宅地で、現在は三方が道路により囲まれていて、

遺構は開田により消滅している。

北側に北がいと、北の屋敷、西側の犀川べりに竹の花、上段に狐田の地名がある。

東隣に郷蔵跡、北側に稲荷社、東に大日堂跡、その上に五社宮がある。

開田の時に土器が出土したといわれていて、犀川に近く古くからの渡船場もあり、

館を構えるには好適地である。

丸山氏の家臣の館であろう。としている。

が・・・遺構が無いので確認ができないのでコメントのしようがない。



                  ~居館跡の現状~

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中海道居館跡の全景。(写真奥にある一番高い木があるあたり)

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居館跡は現状、田んぼと民家になっていて見るべきものは無い。
居館がある台地は犀川との比高がほぼ同じであり、犀川が氾濫すれば流されてしまうような立地にある。
現在は犀川沿いに土手と水門が築かれ守られているが館があった時はどうなっていたかは不明であるが、
このような所に築かれたのは渡船場があり、渡船場と犀川を抑えるためであったろう。


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これが居館の東にあった稲荷社かな?
現在もお堂が祀られている。


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空き地の中央になぜか井戸が・・・ここも居館内部になるので、何かあったのかな?

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居館の東側台地上にある五社宮を見る。
この五社宮は古いものであり居館があった頃もここに存在していたのだろう。


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犀川の渡船場・川自体を抑える重要な役目を帯びていたこの居館の主は丸山氏の中でも重臣クラスが
ここにいたのであろう。
残念ながら遺構が消滅していてわからないが、土塁と堀をもった典型的な館であったと思われる。



~参考文献~

生坂村誌   (生坂村誌刊行会    平成9年)
  1. 2012/06/23(土) 13:54:39|
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生坂村  猿が城

所在地・・・・生坂村下生野池沢と安曇野市明科矢下沢の境

訪城時間・・・・高松薬師城から尾根伝いに30分

危険度・・・・★★★☆☆                                訪城目印・・・・岩洲公園内




                ~猿が城の歴史~

「生坂村誌」によると・・・

岩洲の中央で猿とび岩の上の平地にあり、東西南の三方は断崖でその上に自然の小規模な平地が

あるのみで、人工の跡は確認出来ない。

江戸時代の「潮沢村下生野村山論絵図」に載っていて、下方の長ノ尾の藤原氏が番をして

大名屋敷に住んでいたが、その後、元屋敷に移りさらに長ノ尾部落に下ったという。

猿が城の落城の際にお姫様は猿飛岩から飛び降りて自殺したといわれている。

周辺の地名では、猿が城・猿飛岩、北方100mの所に馬やくぼ(舟くぼ)と呼ばれる自然の窪地がある。

岩洲通りの古道は善光寺道ともいわれ、潮沢沿いの道が不通のときは、この道を通って本城・坂北方面へ

出て善光寺街道に合流していたとされる。

この猿が城は、高松薬師城の尾根続き北方600mの山頂にあり、高松薬師城の詰の城と見られている。



                 ~城跡の現状~

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薬師城から尾根伝いに進みます。
尾根上には色々な奇石がありそれぞれにちゃんと説明板がついているので楽しく歩けます。
写真は「白州岩」


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船こは」とあるが、生坂村誌にあった舟くぼのことであろうか?
堀のようにも見えるけど・・・・微妙だな。


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?????生坂村誌では、ここからお姫様が飛び降りて自殺したことになってたけど・・・
武士になってるぞ?  まあ、誰かが飛び降りたってことだろう。ってことで納得しておきましょ。


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薬師城から歩いて行くと、猿が城に入るところにこの虎口状になっている所があります。

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城内側から見る。
これはどう見ても門跡でしょう!。
ここに木戸でも置けば厳重な防御施設となり尾根上の交通を制限することができ、これを目的としたのであろう。
 


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門跡から少し登ると・・・

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この本郭につき、写真のこの部分が説明にある小規模な平地であると思われる。

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ここにもいつもの生坂村様の説明板があります。感謝!

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本郭周辺はこのような斜面などで、平場は本郭以外見られず居住区は無いくらい狭く、
やはり、物見もしくは避難所的なところであったのであろう。


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本郭からは筑北村の伊切にある不寝見屋敷・高戸屋物見・たかうちば物見のある山々が見える。(正面の峰) 

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猿が城の本郭から見る高松薬師城。

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ちょっと藪なんですけど・・・・本郭の北方100mくらいにある馬やくぼを見る。
尾根上の脇を少し下るとあり、地滑り跡を利用したものと思われる。
(ここで、大スズメ蜂に追いかけられ・・・・恐怖でした。 (>_<) )
 


ikusakasaru9.jpg

もう一度、本郭から筑北方面の眺めをどうぞ・・・絶景ですが、城を見る為に行くとなると・・・遺構は期待できないので・・ 
行く必要があるのかどうか・・・決めるのは、あなた次第です。


岩洲公園とは名ばかりで、自然の山登りと変わりありません。
行くならば、それなりの装備が必要であり、所々、登山道があやしくなる所があるので、注意が必要です。



~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会   平成9年)
 
  1. 2012/06/22(金) 11:41:00|
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生坂村  高松薬師城

丸山 政友 四部作 最終章


所在地・・・・生坂村小立野                         訪城時間・・・・(林道使用出来れば)20分

別 名・・・・横谷城                              危険度・・・・★★★☆☆

訪城目印・・・・岩洲公園



                ~薬師城の歴史~

「生坂村誌」には、薬師峰と明科潮沢との境で、生坂山地岩洲地帯の東南端、急な岩山の頂上で、

北側は比較的緩やかであるが残る三方は断崖である。

北側と東側の下には俗に善光寺街道とも呼ばれる川手方面から西条・坂北方面へ通じる古い山道がある。

標高870m  麓の集落との比高さは220mである。

明治の頃に薬草の根を掘った人が、刀のつば、こうがいを発掘したというが所在は不明である。

北方の尾根続き600mには猿が城がある。(次回、アップ予定)

「信府統記」には「丸山氏の持城ニヤ」とあり、

「安筑古城開基」には、「天文年間丸山丹波の伯父、丸山筑前政友ここにいる」とある。

この城は武田氏に備えて南方の守りとして築かれたと考えられ、本郭からは会田氏関係の山城や

日岐大城は見えるが、万平・日岐城は見えないので西方尾根先700mにある薬師の峰までが城域で

戦いのための城というより、物見・威嚇のための城であったと思われる。



   
             ~城跡の現状~


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高松薬師城のある岩洲公園の略図を見る。
(写真では見ずらいが、現地で見ても見ずらい! (・へ・)
  


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林道から見る城跡がある山頂
(岩がむき出しで険しさが登る前からわかってしまうのが恐怖)
 


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登山道はきれいに整備されており、迷ったりする心配はないが、岩などがあり険しい。

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高松薬師城(横谷城)入り口の看板 (たぶんここが大手)

(ここから登ると険しいんです。。。実はここを通り過ぎ搦め手から入ると簡単に入れるんです。)


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大手から登るとこの不思議な岩があります。
(なんで穴があいているんだろ?)


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大手から登ると本郭の切岸と堀切があります。
(切岸の手前にはかなり埋まってしまっているが堀切があります。) 


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堀切を横から見る。
(掘切は埋まってしまっていて普通に通り過ぎてしまいそうなくらいです。)


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定番の生坂村様の説明板をありがたく拝見します。

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本郭の南側には土塁が確認できます。

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土塁を横から見る。
(この土塁は城内で唯一のもので、高さは20~30cm程度で防御施設としては意味があるのか疑問である。)
 


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本郭全景を見る。
(藪でわかりずらいが・・・本物を見ても狭いです。本郭とはいうものの居住空間が取れないほど狭いです。)


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本郭の西側にある堀切を見る。
(説明板にあるように埋まってしまって正面から見てもよくわかりません。)


ikusakatakamatu15.jpg

なので。。。斜面を降りて下から撮ってみました。なんとなく掘ってあるのがわかりますよね。
(堀切は二本あるそうですが藪の為、もう一本は未確認)


ikusakatakamatu16.jpg

本郭の斜面から堀切を斜めから見てみました。
(わからんかな?)


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本郭の北側下にある馬やくぼの説明板を見る。
こんな岩山の上に馬がいたのだろうか?


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馬やくぼから本郭を見上げる。

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馬やくぼを見る。
(北側斜面の下にあるので昼間でも薄暗く。。。写真も光量不足になってしまいました。 (-_-;)
この馬やくぼ。。。。佐々野城のうまやくぼに似ている。。。この周辺の城にはうまやくぼが多い。。?)


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東尾根続き側にある自然の岩を利用した切岸と堀切を見る。
この東尾根を約500mたどると猿が城があり薬師城の詰城といわれている。


ikusakatakamatu26.jpg

堀切を横から見る。
この堀切と切岸が城内で一番防御意識がうかがえる。


以上、高松薬師城を見てきましたが、この城は狭く、土塁・堀も小さい為、戦う城というよりやはり
物見・威嚇程度が限度であろう。
政友が居城していたといわれているが、丸山氏の家老の政友がこんな城に居るわけもなくただ管理していた。。。
っという程度であろう。

今回の訪城は6月という事もあり、藪になっていて写真も見難いものとなってしまった。
これでは・・・・許されない。いずれ・・・絶対リベンジだ。
今回は、薬師の峰の物見もいけなかったので、必ず冬にリベンジしたいと思います。こうご期待。



次回は・・・・薬師城の詰城とされる猿が城をお届けします。


~参考文献~

生坂村誌   (生坂村誌刊行会   平成9年)
  1. 2012/06/20(水) 20:44:29|
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ついにやったぜ!

  ついにやりました!  

生坂村の池沢地籍から池沢の部落を林道走り、横尾峠を越え旧丸山部落(昭和30年頃廃村)・旧入山部落(廃村)

へ行くことが出来る。

この旧丸山部落にある殿屋敷はあまり知る人は少ないが、日岐大城城主丸山氏の発祥の地とされている。

「生坂村誌」の丸山殿屋敷の項には、

下生坂丸山北方1㎞の地。地滑りで地形が変わり、昭和39年約330平方mの畑と660平方mの原野を残すのみである。

丸山氏発祥の地と伝える。とあり。

入山地籍の矢殿は小部落名」として残るが遺構はわからない。としている。(丸山氏の家臣がいたとされる)

また「信濃古武士」には、丸山氏は桓武平姓仁科氏で、仁科盛忠の弟盛光を日岐六郷に封じ、

丸山地籍に居館して丸山氏を称す。とある。

池沢の方に聞いた話では、丸山・入山部落には落人伝説があるらしい。


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池沢からの林道は現在かなり荒れており軽トラなどでないと無理である。(落石の危険あり)
この林道を延々と登って行くと・・・


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横尾峠に着く。
林道の途中には炭鉱跡や峠入り口などの史跡があり歩いていて楽しい。


ikusakakumayokootouge1.jpg

しか~し!苦労して登ってきたのに・・・封鎖されいる・・・・・ (-.-)
しかも、周辺至るところには・・・無断で侵入すると関係省庁(たぶん警察・・)に通報します。とある。
・・・・無理なのだろうか?
周りをウロウロしてみたが斜面まで有刺鉄線が張られていて厳重である。



マニアとしては・・・なんとか入りたい・・・入れないと余計はいりたい・・・

夜も眠れない日々が・・・続く・・・

生坂村の振興課に相談してみた・・・

すると地権者と仲介してくれると言ってくれた・・・・

そして・・今日・・・ついに・・・・

許可が下りたのであった。 !(^^)! 



近いうちに紹介出来ると思いますが、今は夏・・・たぶん藪であろう。

そこで冬の通過も条件に入れておいたのである。 (*^^)v


お楽しみに・・・V


~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会    平成9年)

信濃古武士   (丸山 楽雲 著    平成21年)
  1. 2012/06/19(火) 19:41:23|
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生坂村  小池城 ③

さ~小池城の最終回行きますか!

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またこのへたくそな図にて説明していきますのでお付き合いください。

 〈 2の郭と3の郭間の堀切① 〉 

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3の郭西側斜面から見た堀切①を見る。
見てわかるように堀切①は小規模で箱掘状になっていて堀切②とは明らかな差が見られる。


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ikusakakoikehorikiri2.jpg

堀切①を見る。
上の写真は、掘切を西側(犀川側)から見たもので、下の写真は東側(古屋敷側)から見たものである、
この写真を見て堀切?っと思われた方も居るかとは思いますが、2の郭側には土塁があることから堀切と思われる


  〈 2の郭 〉  

ikusakakike2kaku4.jpg

ikusakakoike2kaku2.jpg

2の郭にあり、堀切①に付属する土塁を見る。
上の写真は、2の郭からみたところで、下の写真は土塁を横から見たところである。
堀切①の深さから見るとこの土塁は高さがかなりあり、掘った土を盛ったにしては土の量が合わないので、
もしかしたら堀切①はかなり埋まっている可能性もある。


ikusakakkoike2kaku1.jpg

2の郭を見るが、見てわかるように小池城は尾根の制約により、城全体が弓状に曲がって造られている

ikusakakoike2kaku5.jpg

2の郭を見る。(奥に土塁が見える。)
この郭は3の郭ほど削平が十分ではなく郭内はきれいな平らとはなっていない。
また、比高があるせいか郭の切岸などは確認できない。



  〈 1の郭   

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1の郭を見る。
この郭は小池城の最北端にあり、櫓代状に高くなっている。(犀川側は崖で攻められる心配はない)


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1の郭の上部は平坦に削平されている。(祠を祀る為とも考えられるが)
この郭の役目は上生坂方面の監視であったと思われる。


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ikusakakoike1kaku2.jpg

1の郭に祀られている祠と平地を見る。
この郭からは明科・池田・上生坂の三方を見ることが出来る。
(????この祠ってどうやって持って来たんだろう?疑問だ。)



  〈 小池城遠望 〉  


ikusakakoikeennbou2.jpg

小池城の遠望です。
右端の方に訪城の一番の恐怖の崖が見えるでしょうか?
 


ikusakakoikeennbou1.jpg

小池城のアップです。
堀切・郭がわかるでしょうか?(見える堀切は②の堀です。)


  〈 番兵の屋敷跡とされる古屋敷 〉  

最初に言っておきますが・・・行くことはお勧めしません。
でも行ってみたいという方は、方位磁石・2万5千分の1の地図など登山には必要なものは必ず持って行って下さい。
私自身・・・なめてました (>_<)
この場所から抜け出すのに3つの尾根と2つの沢を越えてやっと出れたくらいで、遭難を覚悟したくらいやばかったです。


ikusakafuruyasiki11.jpg

古屋敷へは、山上の屋敷跡から東尾根を下っていくと行くことが出来ます。(わずかな踏み跡?があります)
東尾根先端部はスーパー急斜面(崖に近いです)になっていて降りられるところを探しながら降りていきます。
斜面の途中にこの「昭和2年・社宮司神社・藤原 昇」と刻まれた祠があります。


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ikusakafuruyasiki4.jpg

古屋敷には二段の平地があり、上の段は畑だったのかポンプや脱穀機のようなものがありました

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現状は、人の入っている形跡はなく、獣の足跡のみでした。

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下の段には倒壊した家屋がありました。
ここが番兵の子孫の方が住んでいた家と思われます。
この家屋がある場所は、両脇に尾根がせまっていて、沢底にあり、隠れ家のような場所である。
番兵で身分が低かった為にこのような場所に住んでいたのでしょうか?(家屋はこの1軒だけでした。)


ikusakafuruyaski3.jpg

古屋敷にあった謎の石仏(見たことが無いような模様でなにが彫られているんでしょう?)

ikusakafuruyasiki12.jpg

古屋敷付近から見た、中野山城。
中野山城の郭の形がよくわかりますね!


以上が古屋敷です。
古屋敷は沢底にあり、沢の下流方面にかつては道(沢に古い砂防堰堤がある)あったものと思われるが、
下流方面は竹や藪により通行は不可能になっている。
古屋敷に番兵が居たということは、降りてきた東尾根を登っていたのであろう、小学生の通学や買い物をしに
小池城脇を通る尾根道を使用していたようなので間違いないと思う。
(尾根道も藪になっているが道形は確認出来る)
もう一つの番兵がいたとされる白牧部落(廃村)は断念しました。


三回に分けて見てきた小池城・古屋敷はいかがだったでしょうか?
小池城は2本の堀切に技術の差があり、丸山政友時代と櫛木氏時代の二つの時代の遺構が重なっていると見ることが出来ると思われ、
このような山奥の高山の城にも改修を加えながら使用していたことはこの城の重要度が分かるようである。
また、古屋敷の地に立つと番兵の生活の過酷さ(沢底の為、朝・夕は日が当らないと思われる)も体験できる。
番兵とはそんなに身分の低いものだったのだろうか?考えた事もなかったな~ (?_?) 



~参考文献~

生坂村誌       (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士      (丸山 楽雲 著   平成21年)

山城探訪       (宮坂 武男 著   平成10年)

信州の山城      (信濃史学会     1993年)
  1. 2012/06/19(火) 10:37:31|
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生坂村  小池城 ②


小池城の2回目を始めたいと思います。今回は城跡の中枢部です。(*^^)v

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このへたくそな図を参考に見て下さい。  

  〈 5の郭 〉  

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居館跡から斜面を登りきると、この5の郭に着く。
この郭は二段に分かれており奥にわずかな高まりが見える。


ikusakakoike5kaku1.jpg

このには祀神不明の石仏がある。。。けど。。。倒れていました。
もちろん直しておきました。


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5の郭の二段目の高まりと堀切を挟んで奥に4の郭(大きい松がある所)を見る。

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堀切を挟んで4の郭を見る。 

ikusakakoike5kaku8.jpg

5の郭の二段目から5の郭全景を見る。

  〈 5の郭と4の郭間の堀切② 〉  

ikusakakoikehorikiri11.jpg

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この城で最大規模(2本しかないけどね)の堀切である。
この堀切は鋭く中野山城・小池城2本目の堀切などと違う為、この堀切は小笠原貞慶時代の改修であろうか?


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堀切②と4の郭切岸を見る。
いろんな角度から堀を撮るのって苦労しますね~。。。。落ちるかと思った (-。-)y-゜゜゜


  〈 4の郭 〉  

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堀切②の内部から見た4の郭。
(この郭?は狭く建て物を建てることは不可能であり、建てられても柵くらいであったろうが一応、郭とした。) 


ikusakakoike4kaku11.jpg

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いつも感激させられる生坂村の説明板と白牧部落だったけな?が建てた城址碑を見る。
よくぞこの山奥の城跡に建ててくれた!っと叫んでしまいそうになるほど感動しました。感謝です。


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4の郭は写真で見るように石仏・碑・説明板を建てたらいっぱいになってしまうほど狭い。
(奥は3の郭である。)


  〈 3の郭 〉  

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上の写真は3の郭を4の郭上から見たところであり、下の写真は東斜面から見たものである。
3の郭はこの城跡内で一番広い郭で、削平もきれいである。


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3の郭から4の郭を見る。

ikusakakoike3kaku1.jpg

ikusakakoike3kaku5.jpg

3の郭全景と後方に4の郭を見る。
この郭が一番広い為、城の中枢部であったのであろう。


ikusakakoike3kaku7.jpg

惚れ惚れしますな~。昔の人たちはよくここまで尾根を平らに削れる技術を持っていたものです。
昔の人は。。。すごい!


今回は以上です。
次回は小池城の最終回で堀切①からですお楽しみに。。。。写真が多いって言わないでね。 (;一_一)
 
  1. 2012/06/17(日) 20:46:33|
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生坂村  小池城

丸山 政友 四部作 第三部

所在地・・・・生坂村小立野                                    訪城時間・・・・80分

別 名・・・・大池城                                         危険度・・・・★★★★★

訪城目印・・・・中がいと居館




                   ~小池城の歴史~


「信府統記」の小立野小池山古城地の項には、

「小立野村ヨリ丑ノ方十七町、本城ノ平南北七間・東西三間ニノ曲輪長十三間、横三間・城主知レズ」とあり、

「東筑摩郡誌」の小池山ノ砦址の項では、

「丸山氏の持城にして、天文年間、櫛木紀伊守政盛之を守れり。」と書かれている。

「生坂村誌」の小池城の項を見ると明確な城の歴史の記載はないものの他の資料にはない記載がある。

「犀川右岸、天神沢出口の山頂にあった。東と西は急な斜面、北はやせ尾根続きに下生野山の三角点に通じ、

西は尾根続きに低くなり犀川へ下る。標高750m、平の集落との比高230mである。

周辺の地名は城の峰・城の下・やっこがあり、東南50m下には「古屋敷」があり、大田氏が昭和30年代まで居住した。

大田氏は番兵の末孫であるといわれており、300m東には白牧部落が昭和30年代まであり、平野氏がいた。

平野氏も番兵の末孫といわれていた。

山城のすぐ下を通る峰道を古来から峰々を結ぶ大事な道であった。

この城は、犀川ベリを監視し、峰通りをおさえるための丸山氏の砦であろう。とある。

これらの資料をまとめると、小池城は天神沢の道や峰道を抑えるために丸山氏が築いた砦で、丸山政友が守って

居たが武田氏との戦いで政友が討ち死にしてしまうと、城番が置かれたものと思われる(名前伝わらず)。

府中に小笠原氏が復活すると小笠原氏家臣の櫛木紀伊守政盛が入り城主となっていて、普段は櫛木氏の下にいた

大田氏・平野氏などが城番をして古屋敷や白牧に住んでいたのであろう。



                   ~城跡の現状~

ikusakakoikekyokann16.jpg

説明が難しいので・・へたくそながら「山城探訪」を参考に書いてみました。・・・笑わないでね。
前回書いた中野山城と隣接し、城主も同じなのに規模が段違いに違い城の重要度がうかがわれる。
この図の郭の名前に沿って説明していきます。


ikusakakoikenobori1.jpg

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小池城へは、天神沢方面の尾根先端から尾根筋に道がありそうだが、未確認である。
今回は天神沢の道路沿いの登りやすい場所から尾根上へ直登しました。(かなりきつかった)
尾根筋は写真のように細尾根で気を使う。


ikusakakoikenobori3.jpg

一番の難関は尾根上の居館直前にあるこの垂直に切り立った高まりである。
ここは最後に載せる遠望でわかるんですけど・・・犀川側は崖で、落ちたら100%死亡である。
かなりの注意が必要なのと一人での登山はお勧めしません。


ikusakakoikenagame2.jpg

尾根上の崖の難関からの眺め。
犀川側は崖の為に眺めは最高である。。。。。。落ちないようにね!


ikusakakoikekyokann1.jpg

居館入り口の土橋状の尾根と居館(竹藪)さらに後方に見えている山頂が小池城である。
この高い山の上に突然竹藪が現れビックリです。
  


ikusakakoikekyokann2.jpg

ikusakakoikekyokann3.jpg

居館手前の尾根の脇(犀川側)には段郭が見られる。
何故この高い山の崖側に段郭が必要だったのだろう?  不思議だ!


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戦時の居住区と思われる居館跡の虎口である。
この虎口は明確であり、尾根筋が土橋状で郭側に切岸・土塁が築かれている。
  


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居館跡の虎口に付属する土塁を見る。
明らかに虎口を守る目的をもった土塁であり、虎口・土塁・切岸など発達した築城技術が見られる。


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居館跡はきれいな削平がされているが、竹藪がひどく見て歩くのが大変である。

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居館跡には井戸跡といわれる窪みがあり、掘ってみるとすぐに湿ってくるが埋まっていて探すのに苦労する。

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居館跡の平地と右側は小池城の斜面を見る。
たぶん以前は、この斜面を巻くように道があったと思われるが、現在この踏み跡は崩落しており歩くことは難しい。
今はこの高さ約30m程の急斜面を這うようにしてよじ登るしかない。


以上、今回は城跡の居館跡を見てきましたがあと2回程かけて小池城中枢と番兵が居たとされる古屋敷を紹介していきたいと思いますのでお付き合いください。
  1. 2012/06/17(日) 00:14:03|
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生坂村  中野山城

丸山 政友 四部作 第二部

所在地・・・・生坂村小立野                                 訪城時間・・・60~70分

別 名・・・・なし                                        危険度・・・・★★★☆☆

訪城目印・・・・なし

とにかく道が無く細尾根・急斜面が多いので注意が必要!危険度高いです。




                  ~中野山城の歴史~


「信府統記」の小立野中野山古城地には、

「小立野辺ハ昔シ日岐ノ城主ノ領地ナレハ以下ノ三城共ニ皆丸山氏ノ持ナルニヤ分明ナラス

一説ニ 阿坂左衛門大夫 ト云フ人アリ此小笠原家ヘ叛キシ故ニヤ一城ヲ預置シ家老氏ハ知レス筑後

トカヤ云フ者主人左衛門大夫ヲ討テ小笠原家ヘ出ケル所ニ小笠原其主ヲ弑スル不義ヲ悪ミテ筑後ヲ

成敗セラレケル其跡丸山氏三城共持テルニヤ」とあり、

「生坂村誌」には、

「中野山城周辺の地名に城峯・城下・じんが(陣側)があり、尾根続きの上に「新ノ城」と呼ばれる峰があるが、

遺構は無い。

西側下の平地には「中がいと」の居館があり、東斜面下に「くるみぞう城下」の地名があり、番兵の屋敷と伝える。

北側天神沢を挟んで山上に小池城がある。

この城は下の中がいと居館にいた丸山政友の城で、犀川右岸では丸山氏最南端を守る山城である。」とあるが、

「信府統記」の阿坂左衛門の名とそれにまつわる伝承は他の資料には見られない為、真偽は不明である。

生坂村誌他、多くの資料は丸山政友の城であるとしている。

「東筑摩郡誌」の中野山ノ砦址の項には、

「小立野右衛門大夫の居りし所にして、天文年間小笠原長時の部下、一宮河内守只成之を守るといふ」とある。

その他の記載資料として、「信濃古武士」に政友討死後、政友の城だった、中野山城・小池城・薬師城の

三城は小笠原氏の家臣で波多(松本市)西光寺城主の櫛木氏や一宮氏は入って守っていたと書かれている。

櫛木氏や一宮氏が入ったのは小笠原氏による日岐氏討伐後でこの城が重要な場所であった為、家臣を入れたのであろう。



                  ~城跡の現状~

訪城時、天気が良すぎたので写真が見づらかったらゴメンナサイ。 (-_-;)  

ikusakamuranakanoyama1.jpg

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今回の訪城は、西側尾根から登り、北側斜面から降りるルートをとりました。
この城は、麓を沢が囲んでいる為に西側の登城口は流されてしまい消滅している。
登りはよじ登る必要があり・降りはかなりの急斜面を降りる為に注意が必要です。けがの無いように!


ikusakamuranakanoyama3.jpg

西尾根の途中にはこの祠があります。昔は大切にされていたんだろうな~。
倒れていたのでこの後もちろん直しておきました。




きつ~い 西尾根を登ると山頂の本郭に着きますが、本郭手前には二段の小規模な段郭があります。

ikusakanaknaoyama16.jpg

ikusakanakannoyama19.jpg

下の写真は本郭から見下ろしたところです。
西尾根にはこの二段の段郭の防備のみである。
こちらの方には居館がありあまり防御を必要としなかったと思われるが、それにしても貧弱である。
 


ikusakankanoyama19.jpg

本郭にある生坂村による説明板。
このような人の入らない山城に説明板を設置してあるところがすごいですが・・・
こんな生息数の少ないマニアを対象としているのでしょうか?普通の人は来ないですよね!


説明板にある東側と西側にある石積み跡

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西側石積み跡(跡?というほど残ってはないのですが・・・石が転がっている程度です。) 

ikusakanakannoyama25.jpg

東側石積み跡
こちらもね  (゜-゜) 石積みがあるっていうから期待してたのに・・・・この程度ですか・・・・土止めですね (-"-) 



本郭

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ikusakanakanoyama23.jpg

本郭を見る。
本郭は狭いながら削平がきれいであり、土塁は北側と東側に見られる。
夏はただの籔になっちゃうんでしょうね。


ikusakanakanoyama28.jpg

本郭の東側にある土塁を見る。
高さが50cm程度しかなく、写真を撮るのも一苦労です。
奥に見える山影は東尾根続きにある「新ノ城」であるが、遺構はないらしいので行きませんでした。


ikusakanakannoyama26.jpg

本郭北側にある土塁を見る。
こちら側には堀切と二の郭があり土塁が東側よりわずかに高くなっている。(わかります?)


本郭と二の郭間の堀切

ikusakamuranakanoyama6.jpg

ikusakanakanoyama7.jpg

この城唯一の堀切です。
規模は小さいもののこの堀切は特殊な造りになっているんです。


ikusakanakanoyama13.jpg

ikusakanakanoyama14.jpg

この堀切は本郭側に堀切を入れ間に土塁を築き二の郭側には西側の斜面のみ竪掘を落としています。
間に土塁を置いているので二重堀切だった可能性も捨てきれないが、東斜面には竪掘は一本である。


ikusakanakanoyama12.jpg

ど~見ても・・堀切ないよな~埋まったのかな~?

ikusakanakanoyama9.jpg

ikusakanakanoyama8.jpg

上の写真は東斜面の竪掘で一本であるが、下の写真は西斜面の竪掘で二本である。
ここで疑問が・・西尾根から本郭へは段郭が二個だけだったのに、西斜面は竪掘が二本掘られたのであろう?
普通、重要視するのは尾根筋のはずなのに、何故、斜面の方を重要視したのであろう?



ikusakanakanoyama11.jpg

一応、二番目に広い郭なので二の郭としましたが・・・緩い傾斜があり削平が甘く土塁も見られない。
堀切・二重竪掘で防御を強めているのに二の郭は防御の意識が見られない。
何故であろう・・・・中野山城と小池城の間を通る街道を見張るための物見の場所だったのだろうか?
そうすると・・中野山城は単郭の城と云うことになるが・・・。


ikusakanaknoya39.jpg

中がいと居館から見る中野山城遠望。
手前の山頂が中野山城で、奥にあるピークが新ノ城である。


中野山城を見てきましたがいかがでしたか?
写真が見ずらい?っという方すみませんでした。でも・・きついので・・・登りたくないんです。。ゆるして。
中野山城ですが、城というより砦的な造りであり単郭であったと思われる。
機能的には隣の小池城と連携して、街道・犀川の流域を監視した物見の砦であろう。
この地域(小立野)で石積み・二重竪掘等の技術は他では見られないので、丸山氏の後に入った櫛木氏らの改修あろうか。
一応、感じたことを書いておきましたが素人なので本当のところはわかりません、興味のある方は訪れて見て感じて下さい。一回だけなら・・楽しいですよ。



次回は・・・小池城を書きたいと思いますのでお楽しみに。



~参考文献~

生坂村誌          (生坂村誌刊行会     平成9年)

信濃古武士         (丸山 楽雲 著     平成21年)

信府統記          (国書刊行会       平成8年)

長野県の中世城館跡 復刻  (長野県文化財保護協会  昭和58年)

東筑摩郡誌         (信濃教育会       1919年)
  1. 2012/06/16(土) 02:11:42|
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生坂村  中がいと居館(中海道)

丸山 政友 四部作  第一部

所在地・・・・生坂村小立野中がいと                            訪城時間・・・・0分

別 名・・・・小立野の館                                   危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・県道下生野明科線(道路沿い)



                ~中がいと居館の歴史~

「生坂村誌」によると・・・

小立野中がいとにある100m四方の地で、犀川の河岸段丘上にある。

南と北は小さな沢を利用した堀があり、西は犀川の断崖で東の堀は昭和22年開田まであり、堀の底部を街道が通っていた。

東の山上に中野山城と小池城があり、天文時代に丸山政友が居住していたと伝えられている。

政友は中野山城・小池城・高松薬師城の城主であったとされる。

天文十八年(1549)四月丸山氏当主丹波守盛直が病に伏していたため、陣代として政友は二十騎、足軽五十人を

率いて武田氏と戦うため「桔梗が原合戦」に参戦し、小俣(松本市笹賀)の筑前屋敷付近に布陣した。

しかし、政友は武田方の小幡孫次郎に討ち取られてしまっている。

政友討死後、中野山城・小池城には小笠原氏配下の櫛木氏、一宮氏が入っているのでどちらかが

この居館を使用したものと思われる。



                  ~居館の現状~



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いつも感謝の生坂村の説明板です。
こんな居館跡にまであるなんて・・・・・素晴らしい。 (●^o^●)


ikusakanakagaito2.jpg

中がいと居館跡と後方に、政友の城であったとされる中野山城と小池城を見る。
居館の前面は犀川の崖で後ろは山城が二つもあり鉄壁の守りである。
なお、中野山城と小池城の間の道を行くと川はさま物見がありこの付近に重要な道が通っていたことがうかがえる。


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居館の犀川側の崖沿いには今も矢竹が茂っている。
(今は居館内を県道下生野明科線が通過している)


ikusakanakagaito3.jpg

居館の現状は、道路・民家・田んぼとなっている。
明瞭な遺構は・・・・堀のみである。


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居館跡北側を守る堀の説明板と堀を見る。

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居館にしては大規模な堀であり、ただの居館ではなく防御機能を重視したものであったろう。

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北側の堀跡から東堀跡へ続く堀の痕跡を見る。
この山側へ向かっている道が北側堀跡であり微妙な窪みとなっている。


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居館跡の道路となった東側堀跡を見る。
堀が現存していた頃も、堀底を川手の街道が通っていたと伝わっている。


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居館跡の南側堀跡を見る。

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こちらも大規模なもので自然の沢を利用したものであるが犀川河川敷まで落ちており竪掘のようである。

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南側の堀は民家の裏などに道路に分断されているものの明瞭に残っている。

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居館跡の南堀外側にはこの十王堂跡がある。
このお堂は居館に関係するものと思われ、政友もここで御祈りでもしていたのであろうか。
・・・・・政友は死んじゃったけど。。。。 (;一_一) 
 


ikusaknakagaito13.jpg

ついでに居館跡に咲いていたきれいなコスモス。。。ついきれいなので撮っちゃった (*^^)v

政友は丸山氏の家老であり、中野山城・小池城・高松薬師城の三城を持っていた有力者であったので、
この居館跡も厳重であり規模も大きいものである。
政友は丸山氏の所領の南側を守るという重要な任務を担っていたのであろう。


~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会      平成9年)

信濃古武士   (丸山 楽雲 著     平成21年)
  1. 2012/06/15(金) 23:43:32|
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生坂村 宇留賀城

所在地・・・・生坂村東広津                                    訪城時間・・・・5分

別 名・・・・なし                                          危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・宇留賀地区授産所・宇留賀就労センター



                ~宇留賀城の歴史~

「信府統記」には、「宇留賀山古城地、西ノ方一町十五間、本城ノ平東西六十間、南北八間、城主宇留賀小次郎ナリ」とある。

また、寛政元年「池田組明細帳」には、「城主知レズ、但シ宇留賀四郎兵衛ト云ウ人居住、油云伝へ、信玄時代ノ由」とある。

仁科の一族宇留賀氏が金熊川域の東端を守る重要拠点である。

井口氏は宇留賀氏が去った後に入ったと思える。と「生坂村誌」にあるが・・・

「池田町誌」では、武田晴信は日岐谷にいる、丸山・日岐・宇留賀氏などを帰服させるために小幡尾張守の一隊を派して平定しているが、

この時、宇留賀城主宇留賀四郎兵衛は降らず、家老 井口兵庫は城主宇留賀氏を追って自ら城主になり、

甲州軍を引き入れたと伝えられる。としている。



                 ~城跡の現状~

宇留賀氏居館跡

urugasairo2.jpg

宇留賀氏の居館跡とされる「古屋敷」にある宇留賀就労センターの平場を見る。
現状は、センター建設による改変が激しく遺構は見られないが、居館跡は何段かの平場で構成されている。
センターの裏にも平場が見られる。


urugasiro1.jpg

宇留賀氏居館跡から見る宇留賀城。
宇留賀城は比高が小さく要害性は低く在地土豪の城の域は出ないものである。


urugasiro5.jpg

就労センター裏の平場(畑跡)「こや」にある居館跡の標柱。
せっかくの居館跡の遺構も訪れる人も途絶え(城跡マニアは除く (^。^)y-.。o○ )藪となり詳細は確認できない。

でも・・ここまで標柱を建てる生坂村は素晴らしい! 

urugasiro3.jpg

まあ~。。。畑跡のただの藪ですな。
矢竹がすごく、その内山全体を覆ってしまう勢いであり、どこかで整備を行なわなければ忘れ去られる存在であろう。


宇留賀城跡

urugasiro6.jpg

ここにもあるか!っていうくらい尊敬します生坂村!
まあね、城跡マニア的には説明板より・・・草刈りの方が・・・・いいな (;一_一)
って贅沢かな。


urugasiro8.jpg

矢竹の藪に埋もれそうになっている石段を登ると本郭になります。
昔はきれいにしてたんだろうな~その頃見たかったな。
子供はもちろん・・・ビビってました。


urugasiro9.jpg

本郭の切岸には・・土豪の城には珍しい石積みが見られますよ。

urugasiro11.jpg

本郭は・・・す~ごい藪と極小の平場でした・・・。
ここに大きな建て物は。。。無理。では・・・何があったんでしょうね。謎だ。


urugasiro18.jpg

urugasiro14.jpg

本郭の周囲には、狭い本郭に似つかわしくない幅広の土塁が回っています。
下の写真はわかりずらいですが、石段を登りきった脇にある虎口を構成する土塁であり、石段が大手道であった証拠である。 


urugasiro19.jpg

urugasiro20.jpg

本郭切岸にある石積みである。
土止程度であり高さはない。
石積みは木の根・矢竹により崩れるのも時間の問題と思われる。早急な整備が望まれる!


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北側?にある二の郭を見る。
この城はどこを見ても藪であり、見て回るのに苦労します。 (>_<)
本郭南側尾根筋にもいくつかの段郭があるらしいが・・・見れるか~ <`ヘ´> ってくらい藪です。
現状入ることすら無理な状態です。


urugasiro22.jpg

urugasiro29.jpg


二の郭下にある堀切を見る。
この城で一番の厳重な防備であり、城側の切岸は鋭い。
現状は、堀切内が墓地となり改変もあるとみられる。


urugasiro23.jpg

この城の特徴は、石積みと写真にみる二重堀切である。
この堀切の二本目(墓地ではない方)が現在の登城となっているが、城があった当初もここが大手であったと思われる。


urugasiro24.jpg

urugasiro26.jpg

本郭側から二本目の堀切を見る。
現在、堀切は墓地への道となっているが、形は薬研堀的な形であり鋭いものである。


urugasiro31.jpg

二本目の堀切を尾根筋に沿って(墓地までの道がある)50mほど進むと三本目の堀切が現れる。
写真の道の中央あたりが窪んでいるのがわかるでしょうか


urugasiro30.jpg

道は尾根側面を通っているので気付きにくいが上を見上げると藪の中に確認出来る。
三本目は規模は小さいようであるが、道からも確認出来るので竪掘として落とされているようである。


宇留賀城は規模が小さく土豪の城の域は出ないものの、築城技術は土塁・石積み・堀切は周辺の土豪とは違うものである。
石積みは、小笠原氏のものとも積み方が違うし・・・ではだれのものでしょう?
感じ的には・・・日岐城の物に似てる気がするんですが。
日岐城の石積み・削り残しの土塁・尾根筋の堀切の大きさ・・・同じですね。
同じ築城技術をもった地域で日岐氏と宇留賀氏は連携をしていたのでしょうか?確認はできませんが・・。



追記・・・・・写真にこだわっているつもりですが・・・・今回藪が酷く・・ピントがずれた写真が多かったですよね~。。。。
ゴメンナサイ。これからはいい写真を撮るよう気をつけます。 (-.-)



~参考文献~

生坂村誌         (生坂村誌刊行会    平成9年)

池田町誌         (池田町誌編纂委員会  平成4年)

山城探訪         (宮坂 武男      平成10年)

目で見る郷土の誇り生坂  (生坂村誌刊行会  平成2年) 
  1. 2012/06/13(水) 20:35:01|
  2. 生坂村
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生坂村  宇留賀氏について

生坂村の宇留賀周辺を紹介していますので、ここで宇留賀氏についてわかる範囲で紹介したいと思います。

ただし、地方の小豪族なので残っている資料も少ないのでわかっていることも少ないですがお付き合い下さい。


宇留賀氏の所領は現在の生坂村広津の宇留賀に本拠を置き、金熊川下流域を支配していた豪族である。
宇留賀氏の初見は「大塔合戦記」で、応永七年九月の更科郡大塔付近で行われた大塔合戦で、
宇留賀氏は仁科弾正少弼盛輝の配下として大日向氏と共に戦っている。

宇留賀氏は定紋に上羽蝶を使用し支流のようであり、「渋田見系図」には、
「勢州ヨリ信州ニ来ル時、従属シ来ル旧臣三代 宇留賀能登守教経ノ孫也ト云」
とあり伊勢国から信州に移住して、仁科氏に仕え仁科家所領のうち安曇郡宇留賀村を領して宇留賀氏を称した。

「生坂村誌」では、鎌倉時代に大町仁科氏が一族の仁科六郎隆俊を宇留賀に送り込み宇留賀氏を名乗らせたという伝承をのせている。どちらにしても仁科氏の関係した氏族が宇留賀氏を称して仁科氏の北方の拠点として守っていたものと思われる。

天文二十年(1551)武田氏来攻の時の伝承として、宇留賀城主宇留賀四郎兵衛が武田氏と戦おうとしていた時、
家老の井口氏が裏切り宇留賀四郎を追放し武田氏に降ってしまったと伝えられている。

その後、宇留賀氏は安曇郡等々力に土着し宇留賀四郎の子孫、宇留賀与兵衛は、天正十年(1582)に小笠原長の三男貞慶が府中深志城を回復すると小笠原氏に仕えるようになり、筑摩、安曇両郡の平定戦に士大将として転戦している。

資料には、天正十二年(1584)四月の貞慶の麻績城攻めに、犬飼久知の部将として宇留賀与兵衛が活躍しており、
天正十八年(1590)六月下旬の豊臣秀吉の武蔵八王子攻めの時、貞慶の子、貞政(秀政)に従属していた宇留賀与兵衛は貞慶から戦況を伝える書状を受けており、小笠原氏から厚遇されていたことがうかがえる。




            ~宇留賀氏・井口氏関連遺跡~

井口氏五輪塔

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現在、宇留賀氏(井口氏)の五輪塔といわれているものは生坂村の文化財に指定されている。
ここには井口氏=宇留賀氏とあるが・・・宇留賀四郎を追放した後井口氏は宇留賀氏を名乗ったのであろうか?
そこのところを詳しく書かれている資料が無いのでわからないのであるが?


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説明板には宇留賀氏の五輪塔・標柱には井口氏の五輪塔・・・わからん。
「生坂村誌」によれば、この五輪塔は宇留賀才光寺の井口氏屋敷地にあり(宇留賀城下より移した)、安山岩製で高さ約120cmの大きいもので、形状が大変整っていて室町時代中期と推測される。
大きさからみて名のある武士か僧侶のものであろうとしている。


才光寺跡

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この才光寺は八坂村の覚音寺の坊があったといわれていてこの寺跡に井口氏の五輪塔がある。
八坂村といえば・・仁科氏の勢力範囲であり、宇留賀氏も仁科氏関係の氏族であるのでその関係でここに覚音寺の坊があったのであろうか?
ここに五輪塔があるということは、宇留賀氏もしくは井口氏の菩提寺であったのであろうか?


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才光寺跡を見る。奥にある藪の中に五輪塔・毘沙門堂がある。

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寺に関係する石仏・卵塔が残る。 

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寺跡には古い五輪塔の笠が残りこの寺の古さがわかる。 

会の宝筐印塔

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村の指定文化財となっている宝筐印塔である。
宝筐印塔のある会は宇留賀の枝郷であった。
「生坂村誌」によれば、「正長元年」、「嘉吉三年」、「盛重」、「蔵之進」などの陰刻銘があり、字形や彫りの状況からみて刻字は室町時代とするには疑問が残るが、塔の形状からは室町時代の早いころの造立とみてよいようにおもわれ、宇留賀氏または家臣の牛越氏のものと思われる。
宝筐印塔のある場所は、牛越氏の墓地の中にある。


aihouyouinntou2.jpg

とてもじゃないけど・・・読めん。でも・・「盛」の字くらいは読めます。(#^.^#)

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左の物は完存・右の物は寄せ集めですな。
でも・・500~600年前のものが残ってるってすごいですよね!


才光寺の毘沙門天像

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ikusakamuraurugasyuuhenn 012

この毘沙門堂にある毘沙門像は高さ八十六cmほどで木造ヒノキ材寄せ木造りの彩色像であるが、
宝塔を捧げる形はとらず鉾を持つ異形である。
かつては宇留賀氏居館跡に安置されていたものであるが、井口氏により才光寺跡に移された。


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毘沙門天像は室町時代後期の彫制と推測され、宇留賀氏にゆかりをもつと推測されている。

以上、宇留賀氏に関係すると思われるものをアップしてきましたが、少しでも地方小豪族宇留賀氏を
御理解いただけたらうれしいです。 (*^^)v   
 



~参考文献~

生坂村誌         (生坂村誌刊行会  平成9年)

生坂村誌 文化財編

目で見る郷土の誇り生坂  (生坂村誌刊行会  平成2年)
  1. 2012/06/09(土) 04:51:49|
  2. 信濃の武将
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生坂村  金戸山城

所在地・・・・生坂村東広津金戸                            訪城時間・・・・60~70分

別 名・・・・なし                                     危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・会神社(裏に登山道あり)



                ~金戸山城の歴史~

宇留賀氏の砦で、標高766mの山清路の左岸山上にある100mの平地で、人工を加えた跡はない。
寛政元年『池田組明細帳』に「古城一ヶ所、金床山(略)上ノ平百間ニ五十間程、下ノ平百間ニ三十間程、
当時草場ニ相成ル、頂上ニ秋葉大権現社有リ、外小堂有リ」とある。
上の平には石灯籠と百体観音の一部が、やや下に秋葉社がある。
200mほど北へ下った所に、古城と呼ばれる独立した小峰があるが、崖崩れで平地も狭い。
人口を加えた跡はないが、犀川べりを見下ろす高台で眺望良く、対岸には猿が城があり、宇留賀氏の物見台であろう。
「文治四年(1188)落城 平乗頼公が住居の由」と『長野県町村誌』に載る。
周辺に城・古城・陣が沢・スグジなどの地名がある。
登り口の南会には「嘉吉三年(1443)盛重 、 蔵之進 」と刻んだ会の宝筐印塔と呼ばれるものがある。



                 ~城跡の現状~

kanatokoyama1.jpg

城跡の登り口、会神社にある金戸山の案内板を見る。
この山は地元の方々が整備をされていて登山道・休憩所などきれいで安心して登ることが出来る。
地元の方に感謝です。


kanatokoyama2 (2)

神社裏の登山道を少し登るとこの「いのくぼ」と呼ばれる広大な平地に出る。
「長野県町村誌」に出る「平乗頼公が居住」とあるのはこの部分で、山頂に物見を置いたのではないだろうか。


kanatokoyama3.jpg

山頂側にある壁面には多くの石仏がある。
この山は信州の城によくある、信仰の対象だった山を城郭にし、神様の力を味方にしようとしたのであろう。


kanatokoyama2.jpg

「いのくぼ」から山頂に向かってさらに登って行くとこの「馬止石」なるものが現れる。
城跡に関連するものか、山頂にあった御嶽社に関連するものか不明。
この細い山道に石を置き、敵の進撃を食い止める関門であったのであろうか?
そもそも・・・ここまで・・馬はむりだろ・・・。


kanatokoyama7.jpg

いのくぼから結構険しい道を登ってくるとこの広大な開けた場所に出る。
こんな険しい山の上とは思えないほど広い平地である。
右に見えるピークが城跡で、逆に左に行くと神社の跡がある小高いピークがある。


kanatokoyama8.jpg

城跡のあるピークに行く手前の自然の窪み?(上の写真の窪みから続いている)
これも防御に利用したのであろうか。


kanatokoyama9.jpg

広大な平地を過ぎて山頂に登って行くと写真のような大きな岩が現れるようになり、石仏も増えてくる。

kanatokoyama10.jpg

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題名「石の上にも三年」です。
山頂付近には百体観音の石仏が沢山ある。石仏に興味がある人は是非!


kanatokoyama11.jpg

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城跡のある山頂の周りを見る。
周囲は岩と急斜面により自然の切岸に守られ手を加える必要が無かったのであろう。


kanetokoyama15.jpg

城跡にある説明板です。
山頂まで登ったご褒美ですね。


kanatokoyama18.jpg

城跡を見る。
山頂に平場があるとされているが、登ってみると岩が多く自然のままで、人工の平場ではないことが分かる。
これは岩が邪魔で加工が出来なかった為であろう。


kanetokoyama19.jpg

平場の隅に狼煙岩といわれている岩がある。
近づいてみると・・・


kanatokoyama14.jpg

穴が開いていました・・・ここで狼煙を上げたのかな?そんな馬鹿な・・小さいだろ。
岩がある場所は、本城の宇留賀城のある方向にあるので狼煙を上げた岩であろうということになしちゃえ・・・・
なんてことだったりして・・・・ (-_-;)


kanatokoyama16.jpg

これが、説明にあった下ノ平百間×三十間ってやつかな?
こちらも結構大きな平場で信州新町方面が見える。
けど・・物見の砦にこんな大きな平場二つ必要だったのかな?


kanatokoyama17.jpg

下ノ平は明らかな人工の跡できれいに削平されていて、番士の小屋掛けであろうか。
宇留賀氏の詰の城説もあったような~?
確かに、本城の宇留賀城は石積・堀切等技術的には良くできた城ではあるが、比高が小さく要害の地ではない。
金戸山が宇留賀氏の御天城的なものであったのではないだろうか。
だから神様の力が必要だったのかな?


kanatokoyama6.jpg

山頂付近からの景色・・・絶景かな・絶景かな・・苦労した人だけの御褒美ですな。

一応、ついでに・・・・


kanetokoyama22.jpg

城跡とは別に山頂付近にはもう一つピークがあり、御嶽神社跡がある。
この神社跡には現在、石段の跡と礎石のような石があるのみである。
あとは・・ただの藪です。行く価値があるかどうかは・・あなた次第!


kanetokoyama22 (2)

神社跡から見上げる城跡のピーク。
城跡があった頃にはもちろん神社もあったであろうから神聖な場所への築城・神社と城の関係・
この周辺の宗教観等考えてみる必要があるものと思われる。



~参考文献~

生坂村誌   (生坂村誌刊行会   平成9年)

山城探訪   (宮坂 武男     平成10年)
  1. 2012/06/08(金) 03:33:44|
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生坂村  高津屋城

所在地・・・・生坂村東広津                             訪城時間・・・・駐車場から5~7分

別 名・・・・高津屋物見                               危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・高津屋森林公園内



                  ~高津屋城の歴史~

『生坂村誌』には、大久保と大日向の境の標高776mの山頂に在り、約50m×30mの平地があるだけで人の手を加えた跡は見られない。
*『山城探訪』には本郭裏に堀切があるとしている、・・・(藪で確認できず。)
寛政元年『池田組明細帳』に「高津屋城、十四、五間四方程、山ノ峯ニ松木立ノ当時、秋葉大権現社アリ」とのる、明治40年代大日向神社に合祀された。
山頂からの眺望がよく、北山方面と犀川べりを見張る物見台であろう。
高津屋城は日岐大城の目の前にあるので大城の支城で大城がらは山が邪魔で死角となる池田町北山方面を見張っていた物見の砦であろうか?しかし、説明板では大日向氏の城で日岐の殿さまと戦ったと記されている。
大日向氏と丸山氏が戦うには時間的にずれがあり(大日向氏が去ってから丸山氏が入ってきたとされる)この二氏が戦うことはありえないので、大城に誰が居て、高津屋には誰が居たのであろうか・・・??
信じられない伝承である。
なお、高津屋へは確かに大日向氏の内城の近くから道があるものの、高津屋から大日向氏の本拠は直接見ることは出来ない。
大日向氏の城とするなら、どこを経由して緊急を伝えていたのであろうか・・・課題ですね。


ikusakatakatuya8.jpg

高津屋城は現在、高津屋森林公園として整備され、一年中きれいな状態で見て回ることが出来る。
山の上にありながら車で訪れ駐車場も完備されている、最高ですな!
なお、写真にある狭い車道(大きい車は無理)を尾根通しに進むと中山城のある中山神社へ車で行ける。


ikusakatakatuya7.jpg

森林公園内に展望台として道が整備されているので安心です。
ニホンシカがいたのはビックリしましたが・・・ (゜-゜)


ikusakatakatuya6.jpg

山頂の本郭とされる平場を見る。
手前が二段になっているように見えるけど公園化による改変であろうか?


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本郭の平場である?・・・これは・・・土俵です・・・誰が相撲をこんな山の上でするのであろうか。
ここまでいじられると・・・どこまでが遺構かわからん!


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本郭の裏側(北側尾根続き)には土塁ともとれるような高まりがみられる、
『山城探訪』では、この奥に堀切があると書かれている(藪で確認出来ず)のでもしかしたら土塁かも。


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神社跡・城跡の説明板を見る。

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だらだらとなっている山頂付近・・・・目立ったものは無し!

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説明板にあった日岐の殿さまと高津屋城での戦い・・・ありえないだろ。
戦いができる遺構は無く、ただの物見の砦である。絶対攻められたら・・逃げるね!


ikusakatakatuya9.jpg

本郭からの眺め・・・本当に目の前に大城があります。 
伝承が本当だった場合、こんな近くで敵にいつも見下ろされてたら怖いよね~ (-.-) 


皆さんは、誰に属した物見だと思われますか?


それとも~・・・ん~・・天正10年頃の日岐大城を落とした小笠原貞慶軍と丸山氏の残党の戦いとか?あったのかな~?
素人にはわかりませんな~  (-_-;)
 




~参考文献~

生坂村誌   (生坂村誌刊行会   平成9年) 
 
  1. 2012/06/07(木) 04:21:58|
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生坂村  城が原・こやしき

所在地・・・・生坂村下生坂雲根                             訪城時間・・・・5~10分

別 名・・・・なし                                       危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・雲根バス停



              ~城が原・こやしきの歴史~

下生坂雲根の北部、犀川の第二段丘の平地で畑(120m×60m)で、南側に自然の堀がある。

関係地名として東上に馬セバあり馬場としては適地で、南隣のカマ田は南方の構えであろう。

東の山の上には猿が城と雲根峠があって込地方面へ行く要地である。

段丘上の平地で犀川べりの監視もでき、猿が城や、眠峠方面を守る武士が居たところであろう。

その他の説として、上にある猿が城の根小屋であったとするものもある。

なお、標柱では丸山氏の家臣の屋敷地であろうとしている。


             ~城が原・こやしきの現状~

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城が原・こやしきの遠望。
国道19号線の南側少し高くなった台地上にある。


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台地上は狭い道と畑・住宅になっていて、藪の中に忘れられたように標柱が建っている。

ikusakakoyasiki1.jpg

消えそうな標柱を見る。
現在生坂村では遺跡などの説明板を立て直しているのでもしかしたら新しいものになっているかも?


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台地上に上がる道沿いに見えるこの窪みのことを自然の沢を使用した堀としているのであろうか。

ikusakakoyasiki8.jpg

こやしきの平地と後ろに猿が城のある山をみる。
後ろの猿が城の根小屋との見方があるが、確かにこのこやしきは自然の沢を使用した堀状のものはあるものの、
要害の地ではないので、猿が城が雲根峠を抑える為の城で、こやしきが城主の根小屋であったのであろう。


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畑になっている城が原を見る。
ここが馬場跡であろうか?広い平地が広がっている。


ikusakakoyasiki2.jpg

犀川がある北側には一段低い田んぼがある。
ここも防御の為の郭であろうか。奥に矢竹が茂っている。


このこやしきは、西側にある日岐大城の本城にかかわる丸山氏の家臣の屋敷地であり、猿が城の根小屋であったものと思われる。


追記・・・・12,7,22 日岐大城再訪

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日岐大城を再訪した時に大城への林道から城ヶ原を見下ろすことが出来ました。 

oosiro0000.jpg

城跡が上から見えるってわかりやすくていいですね。。
訪城する時はご参考にしてください。


~参考文献~

生坂村誌   (生坂村誌刊行会    平成9年)
  1. 2012/06/07(木) 03:28:03|
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生坂村  彦左衛門屋敷

所在地・・・・生坂村大日向北平                               訪城時間・・・・0分

別 名・・・・大日向彦左エ門屋敷                                         危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・玉泉寺跡



               ~彦左衛門屋敷の歴史~

大日向北平の北部、犀川の段丘上にあり規模は50m×50mである。
『信府統記』に「大日向山古城 亥の方五町十三間、本城の平東西二十間、南北十二間、城主知レズ」とあるが所在不明である。
方向や距離的に見れば彦左衛門屋敷に当たる。
戦前に調査に来た栗岩英治氏によれば、
『大日向氏の家臣、遠根彦左衛門の居館で、玉泉寺は彦左衛門の氏寺である』と語ったという。
地形的にみれば居館としては好適地で、北方の宇留賀方面に対して構えたところであろう。
北西の山上には城平・ノゾキの地名がある。
なお、屋敷の西方を大門と呼び、その西に玉泉寺跡の墓地があって、室町時代の宝筐印塔の笠と五輪塔の笠が
あり五輪の地名がある。
あれ?玉泉寺は大日向氏の氏寺じゃなかったっけ?ど~なってるんでしょう。



                 ~屋敷跡の現状~

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玉泉寺跡から見た彦左衛門屋敷(青い屋根のところ)。

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彦左衛門屋敷を見る。
民家になっているので詳しくは撮れませんでしたが土塁は無いようです。


hikozaemonn6.jpg

この道路あたりが屋敷の区画でしょうかね。

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屋敷の裏側(北側)には唯一の確認出来る遺構として、自然の沢を利用した堀跡です。

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規模は大きいのですが・・藪が酷くって入れませんでした (>_<)

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屋敷跡の前面の畑にはなぜか・・中央に井戸が・・・?・・貞子?
ここも屋敷の施設でもあったのでしょうか?


大日向氏の関連史跡にも書いたように、この台地上には多くの宗教施設があり大日向氏・その家臣なのどの繁栄がうかがわれる。
この屋敷も大日向氏の一族もしくは家臣が守っていたと考えるのが順当であろう。



~参考文献~

生坂村誌   (生坂村誌刊行会  平成9年)

山城探訪   (宮坂 武男    平成10年)
  1. 2012/06/04(月) 13:46:14|
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生坂村  南平の内城

所在地・・・・生坂村東広津                                 訪城時間・・・・5分

別 名・・・・大日向城                                        危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・湯の沢温泉



                   ~内城の歴史~

大日向南平の150m×100mの田畑にあり、なろう沢に面した段丘上の突端、西側に大きな堀があり『堀ばた』の屋号の家がある。
区画内には、堀ノモト・下屋敷の地名があり犀川べりから登る道を城坂という。
その上段に氏寺の常円寺跡があり、北のなろう沢の対岸は狐幅という。
なろう沢は、なるこをつるして警戒した沢であり、大日方氏の居館跡の一つである。



                   ~城跡の現状~

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なろう沢を見る。
写真の左側の段丘上にある。


uh10.jpg

生坂村の素晴らしい説明板をみる。
初めて見た時は、こんなところにもあるのか~と感動しました。


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内城の全景・・・これといって際立った遺構が中心部にはないので・・書くことがあまりないんです

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主郭部を見る。
(開田の為に土塁は確認出来ない。)


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なろう沢沿いには矢竹が群生していて城から周囲は見渡すことが出来ない。

uh11.jpg

本郭北側(なろう沢側)には一段下に郭状の田んぼがある。
なろう沢から攻めてくる敵に対しての備えと思われるが・・・あまりにもきれいすぎて・・・・
かなり改変されているんだろう。


uh3.jpg


城の中心部から南西方面にだいたい50mくらい?離れたところにある『堀ばた』の屋号の家と堀跡を見る。

uh5.jpg


道路の微妙に曲がっている部分が自然の沢を利用したとされる堀跡である。

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堀跡を正面から見る。
上が現在(6月3日)の写真で下が9年12月である。
微妙に道際を改修してしまったようであるが・・・いつ見ても藪であり詳細の確認は出来ない。
唯一の堀の遺構なので何とかきれいにしてほしいものである。

~参考文献~

生坂村誌  (生坂村誌刊行会   平成9年)

山城探訪  (宮坂 武男     平成10年)
  1. 2012/06/03(日) 22:48:05|
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生坂村  大日向(方)氏について

さ~・・高見の居館・城坂屋敷・馬場跡と大日向氏関連を見てきましたが、大日向氏とはどんな人たちだったのでしょうか。
一応、わかる範囲で調べてみましたので紹介したいと思います。



               ~大日向(方)氏について~



大日向氏は、応永七年の大塔合戦に近隣の宇留賀氏と共に仁科盛輝の旗下として反小笠原方として参戦している。

大日向氏初代 長利は井川城主小笠原貞朝の四男であったが父の貞朝と意見が合わずに貞朝の元を去った。

その後、仁科氏に仕えるようになり安曇郡大日向村に住んで在名を名乗り大日向氏を称した。

室町中期になると、水内郡牧之島城主の香坂氏の招きの応じて大日向の地を去り、水内郡小川村にあって

下末に住んだので下末大日向(方)氏と呼ばれるようになった。

この頃は武田氏に属していたが、武田氏が滅亡すると上杉氏に従うようになり各地を転戦していたが、

慶長三年(1598)の上杉景勝の会津移封に随行せず、元和八年(1622)に真田氏が松代に入封すると

その家臣となり200石を与えられたが致仕して帰り、以後は郷士の待遇を与えられ明治に到った。

小川村下末の大日向氏の居館は真那板城と呼ばれていて現在も子孫の方が住んでいる。

なお、大日向家には、応永七年大文字一揆党の目標として掲げた「大」文字入旗一流が所蔵されている。



『大日方系図』 上水内郡小川村高府  大日方英雄家所蔵によると・・



源長利(大日方小五郎) _____ 直政(讃岐守民部小舗) ______ 直忠(主税助弾正小弼)
      (改 長政)                 (信龍斎)                    (美作守)

となっている。(この系図に疑問を持っている資料もあるが・・。)



                  ~大日向氏関連史跡~

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彦左衛門屋敷近くにある大日向氏の氏寺玉泉寺跡の説明板

gy2.jpg

玉泉寺跡へのあぜ道
(奥には砦跡とされる城平を見る。)


gy3.jpg

少し高台にあり現在は畑と墓地になっている。
(遺構は見られない)


gy6.jpg

古い宝筐印塔の笠を見る。

gy8.jpg

gy4.jpg

他にも五輪塔・宝筐印塔の残欠も見られ、この寺の古さがうかがえるものの、大日方氏の物は伝えられていないようだ。

(一番下の写真の墓石の下から人骨が出ていてビックリ!いつのものだろ。。) (>_<) 


zo1.jpg

こちらは大日方氏の居館とされる内城近くにある氏寺とされる常円寺跡の説明板です。
(大日方氏には何故、氏寺が二つもあるのであろう。。。?)


zo2.jpg

zo3.jpg

現在は、分校跡、畑になっていて石仏・墓碑が藪の中にあるのみである。

zo5.jpg

zo4.jpg

寺跡にある分校の建物・・・ただの・・廃墟でした。不気味だ・・。

tk2.jpg

高見の居館近くにある古い墓所である。

tk1.jpg

ここにも混在した五輪塔の残欠が見られる。



               ~その他の周辺宗教施設~

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大日方神社を見る。

ob3.jpg

高見の居館近くの阿弥陀堂を見る。

ob5.jpg

地蔵堂を見る。

P6037408.jpg

内城の中にあったと思われる阿弥陀堂跡を見る。

この台地上には氏寺の二つ以外に、大日方神社・延命地蔵堂・阿弥陀堂など宗教関係のものが見られこの地がかつては
かなりの財力と宗教観をもった地域だったことがうかがえる。
大日方氏によるものであろうか。


~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会    平成9年)

池田町誌    (池田町誌編纂委員会  平成4年)
  1. 2012/06/02(土) 22:33:07|
  2. 信濃の武将
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生坂村  城坂屋敷

所在地・・・・生坂村東広津                                   訪城時間・・・・0分

別 名・・・・なし                                          危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・大日向神社



                 ~城坂屋敷の歴史~

大日向北平の犀川段丘上にあり東側は断崖となり、規模は100m×150mである。
周辺には矢竹が群生している。
犀川べりから登る坂を城坂といい、東側の犀川へ面した幅を狐幅と呼び、その下の平地をバンバという。
バンバは馬場で、犀川に沿って200m余りある。
詳しいことは不明であるが、大日向氏の家臣 落水氏が居たところという説がある。
この台地上には他にも城館があるので犀川から登るこの城坂を守る為に設けられた砦ではないだろうか?


                 ~屋敷跡の現状~

P6037343.jpg

犀川沿いにある大日向氏馬場跡の標柱を見る。

P6037345.jpg

馬場跡とされる平地は他より1mほど高くなっている。

P6037346.jpg

現状は畑と水田になっているものの長い平地が続く感じは確認出来る。
昔は大日向氏もここで馬を走らせていたのであろうか。


P6037348.jpg

城坂屋敷の標柱を見る。
周囲は現在、畑と水田、民家になっている。


P6037352.jpg

標柱と城坂を見る。
坂に沿って平地がありこの坂を守る為の砦であったことがわかり、矢竹が繁茂しているのが確認できる。


P6037355.jpg

城坂屋敷の削平地と奥の高まりに高見の居館が見える。

P6037356.jpg

城坂屋敷の中心部を見るが現在は遺構が確認出来ない。

落水氏の居館というよりも台地へ上がる為の坂を守る小規模な砦の跡ではないかと思われる。


12年6月3日再訪しました。

za21.jpg

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説明板が新しくなっていました。
さすが生坂村!最近何カ年計画で調べているらしいですよ。村民の方が言っていました。


za22.jpg

犀川沿いから上がる道『城坂』を撮り直してきました。

~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会    平成9年)

山城探訪    (宮坂 武男      平成10年)
  1. 2012/06/02(土) 20:59:31|
  2. 生坂村
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生坂村  高見の居館

所在地・・・・生坂村東広津                    訪城時間・・・・車の置く場所によるが、公民館前なら5~10分

別 名・・・・                             危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・大日向神社



                ~高見の居館の歴史~

大日向北平の大日向神社前150m×100mの段丘上の平地にあり、南側は、なろう沢で幅を狐幅という。
現在は開田され遺構は見られないが、なろう沢をはさんだ対岸に内城と相対している。
「信府統記」には「大日向古城地、亥ノ方一町十八間、本城ノ平東西七十五間、南北四十五間、城主小幡尾張守
トテ甲州へ属セリ、本国上州ヨリ此所城代ニ置カレケルニヤ永禄六年ニハ上州嶺ノ城へ□参ナリ」とある。
大日向氏が水内の方へ去ってから、武田氏時代に小幡氏が入ったものと思われる。


                 ~居館跡の現状~

P6037386.jpg

なろう沢と上段にある高見の居館をみる。
大日向氏の城跡はこのなろう沢を挟んで点在している。


P6037358.jpg

現在の高見の居館は開田に明確な遺構は見られないがなろう沢方面に段郭のような田んぼが見られる

P6037359.jpg

高見の居館といわれている田んぼの脇にあるこの道は堀跡のように見えるが確認は出来ない

P6037360.jpg

北側は台地続きになっているが、居館を区画する明確な遺構は見られないがこの道が区画する堀跡の可能性も。

P6037361.jpg

居館の中心部を見る。
写真の右側の人が居る部分は居館の西側にあたり、縁部に微妙な窪みが確認でき、堀跡の可能性が感じられる。
この田んぼの持ち主の方に聞いたが、居館のことは知っていたが反応が薄かったな~。 
あまり関心を持っていないようである。


P6037363.jpg

居館全景を見る。

P6037364.jpg

なろう沢方面の斜面にある腰郭状の田んぼ。
沢との比高が少ない為にこのような段郭を築いたのではないだろうか?
遺構であるというのが前提ですけど・・・(>_<)
沢側には竹藪が密集していて狐幅の地名が残り、この居館の存在意味をあらわしているのではないだろうか?


この居館は大日向氏ももちろん使用したであろうが、大日向氏から小幡氏(武田方)への移る中で居館の防御はどのように変わっていたのであろう・・気になるところであるが、開田工事の為に確認出来ないのが残念である。


~参考文献~

生坂村誌      (生坂村誌刊行会     平成9年)

信府統記      (国書刊行会       平成8年)

池田町誌      (池田町誌編纂委員会   平成4年)
  1. 2012/06/02(土) 18:33:25|
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