長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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生坂村  日岐大城③

長々と日岐大城についてお送りしてきましたが、ついに最終回です。

今回は、本郭と京ヶ倉について書いていきます。
  


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この図を参考にご覧ください。


~ ⑤本郭 ~ 

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二の郭から見た本郭の切岸。
これも自然地形を利用したものなのだろうか?
二の郭から見ると巨大な壁のように見え圧迫感がある。
  


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本郭(山頂)を見る。
本郭は二段になっており上の郭?は写真のように削平されておらず自然地形のままである。
傾斜があり、狭い為に大きな建物を建てることは出来なかったと思われるが、
櫓程度の物を建てて、入山渓谷沿いの道などを監視していたのだろうか? 


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本郭の上の段と下の段を分ける段差(約1m程度)を見る。
この段の作成意図としては、下の段に小屋を建てる為に自然の斜面を削ったのもと思われる。
 


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本郭下の段を見る(スミマセン。。。時期が違う写真です)
写真を見てわかるように、下の段はまあまあきれいな平地となっており小屋をたてる程度の広さを確保している。
あと、上の段・下の段と書き段差があるとしていますが、郭の半分を段差・半分をスロープのようにしています。
下の郭と郭を分ける段差は明らかに加工されていることが分かるが、その他(スロープなど)は自然地形
のままと思われ城としては全体的に加工度が低いものと思われる。
 


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本郭にある説明板。
井戸が見たかったな~。。。。。もっと勇気があれば・・・・ (>_<) 


~ 本郭からの眺め ~ 

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この日岐大城の根小屋とされている万平の台地を見る。 
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入山渓谷と筑北村の岩殿山系を見る。(仁熊城の険しさも実感できる。)
いつか。。。。行きたいものです。
 


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旧入山部落跡も見下ろせます。
この建物は現在、子孫の方が小屋を建てているそうです。(屋号は矢本だったかな)
 



~ 京ヶ倉 ~ 

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大城から京ヶ倉へはこの細尾根を歩いていきます。(約20分程度でしょうか) 

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京ヶ倉にある説明板。
どこかの説明板に武田軍が京ヶ倉~大城~眠峠経由で進軍したとあったが。。。。。。無理だろ!
って思っちゃうほど狭いし、大軍だったら何人落ちるかな?っていう想像しか湧きません。


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京ヶ倉の山頂は意外に平坦で小屋掛けが出来る広さがあることにビックリである。
ここに何人の物見が詰めていたのだろう。。。。夜はヤダナ。。 (-_-メ) 


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京ヶ倉の石碑と大城を見る 

~ 京ヶ倉からの眺め ~ 

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やっぱこれ! 大城です。険しさが伝わるでしょうか? 

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あとは。。定番の日岐小城と生坂ダム!・・・木が邪魔だ~。 

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高津屋城から見た大城・京ヶ倉の遠望。 

最後に・・・・最初の説明内の記述についての追記。 

最初の日岐の領主で大城を築いたとされる高根主膳正について、大城には関係ないのですが信府統記にあったので書いておきます。

「高根主膳正舘ノ内に入部シテ居住景雲元年三月朔日卒ス玉主院殿道圓大居士ト號ス
一説玉主八幡ト祠ルト云々」とある。 


また、名鬼にいたとされる丸山肥後については、
「平氏ノ族小松三位重盛第四ノ子ト云當国二落チ下リ山中名鬼ト云フ所二住セシ人ノ末孫丸山肥後ト云者」
とある。

一応、気になったので書いておきました。
降幡備前については後で書きたいと思います。 


以上、3回に分けてお送りしてきた日岐大城いかがだったでしょうか?
城の遺構などが少なく自然の地形を利用した城なので見るべきものは少ないが、歴史的な意味としては
重要な価値があると思います。
地元の方の努力によりきれいな状態で管理されているのでみなさんも登って歴史を感じてもらえたらうれしいです。 
 

最後に整備されている地元の方に感謝です。 

*参考文献は第1回目に記載
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  1. 2012/07/30(月) 12:53:06|
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生坂村  日岐大城②

日岐大城第2回目は。。。。城の中心部です。 

といっても大城は自然地形が最大の防御のため、加工が少ないので紹介も難しいのですが。。。。。
最後までお付き合いください。


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なぜか。。。城の名前が。。。入ってないな~。
っていう程度のなんちゃて縄張り図でご案内します。


~ ①三の郭下の段郭 ~

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物見岩から尾根上を歩いて行くと城内に入る直前に急な斜面となる。
その斜面を登りきると、三の郭になるが、登りきった尾根脇(東側斜面)に明らかに人の手が入った
と思われる段郭が見られる。
この郭は、三の郭への虎口を防衛するためのものと思われ、急斜面と郭とで防衛力を高めていたのであろう。 
 


~ ②三の郭 ~

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三の郭への急斜面から三の郭を見る。
この写真の左側が①の段郭がある場所になる。


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三の郭虎口状遺構を見る。。。。ただの登山道によるものの可能性のほうが高いけど。。。
載せてみました。


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この三の郭とされる平地は、この城では最大の広さではあるが、削平がされていなくおおむね自然のままである。
また、この三の郭とニの郭は他の城と違い、堀切などの明らかに別の郭として区別するというような構築物が無く
この郭が落ちれば楽にニの郭へ入れてしまうという、防御意識がうかがえない場所でもある。
 


~ ③ニの郭 ~ 

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これは三の郭と二の郭の間にある尾根上の遺構?である。
先ほど書いたように二の郭と三の郭の間には通常あるはずの堀切が無い、その為、防御をどうしていたのか
という疑問が残る。
この写真を見ると、尾根の半分に土塁状に地山を残して通路を造り、通路を狭めて防御性を上げていた。。。
と位置的に考えたいが、ただの登山道による改変とも見える。
郭と郭の間に何も無かったなんてあり得るのであろうか?あなたならどう思いますか?
  


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二の郭で奥の斜面(切岸)が本郭である。 

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二の郭は、細長く縄張り図にあるように狭いものである。。。。。ただ。。。 

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この郭の特徴として縄張り図にも書いたように土塁状の土盛りが存在することである。
土盛りは登山道と郭を間仕切りするように造られていて通路から郭内を見えないようにしていた可能性もある。
郭を狭くしてまで造ったこの土盛りの意図を推測するならば。。。。。
この山の上に造られた城の最大の弱点である水場の存在である。
この城唯一の水場はこれから紹介する④の場所のさらに下に存在するとされている。(未確認)
これを隠す意図がありこの土塁は造られたのではないだろうか。
あくまで素人の推測にすぎませんが。。。 (-_-;) 
 


~ ④二の郭・本郭下にある段郭 ~ 

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二の郭から見下ろした段郭。 

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二の郭直下にある段郭でこの斜面を下って行くにつれ郭は小さくなっていく。 

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この段郭がある斜面は沢状になって下っていて、この斜面の下には城内唯一の井戸があるとされている。
(まだ確認した人を知らないが・・・・下りていく勇気が・・・無くて・・ (;一_一) )
写真の奥(斜面の下の方)のはるか下に小さい郭が見えるのがわかりますか?
 


日はここまで。。。。。いつもながら終わり方が中途半端ですが。。。。
説明力が無いと写真が多くなっちゃってね。。。。。スミマセン (>_<)

次回は・・・・・本郭と京ヶ倉をお伝えしたいと思いますので、お楽しみに!
 
  1. 2012/07/29(日) 23:34:51|
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生坂村  日岐大城①

要害堅固なること仁科四十八城中第一と称せり! 

所在地・・・・生坂村下生坂大城山                危険度・・・・★★★☆☆(登山道による)

訪城時間・・・眠峠口(2時間)・林道終点口(1時間)・万平口(?)・はぎの尾峠口(1時間30分)



               ~日岐大城の歴史~

 「東筑摩郡誌」 の日岐大城址の項には、

「本城の平東西八間・南北六間、二の郭長十間・幅六間、北方に冷泉あり。

稍、下りて三の郭長四五町・幅二町許中間に巨岩あり、物見岩と稱す。

南は険崖、東は大澤、其の規模宏大にして要害の堅固なること仁科四十八城中第一と稱せり。

古昔、高根主膳正城を築き生駒河内守が城代となす。大永の頃は仁科明盛の二男盛慶が城主たりしが、其の後

九鬼にありし丸山肥後守、仁科に属し日岐六郷の地を領して此の城に居り其の子孫兵庫・丹波相続して小笠原家に

属せり。小笠原長時亡後甲軍來り攻む。丹波守出で降る。小笠原貞慶深志を復するに及び其の年九月兵を進めて

囲み攻む。丹波城を致して越後に遁れしが翌年來りて貞慶に従い奮領を食めりという。」とある。

また、 「信府統記」 の日岐ノ大城の項には

「高根主膳トカヤ云ヒシ人領地ノ時、此城ヲ築テ生駒河内ト云フ者ヲ城代トセリ其後中絶シテ大破二及ヘリ、

大永ノ頃仁科氏六代弾正少弼平明盛ノ二男盛慶ト云ヒシ人ヲ當城ノ主トセリ其後、潮山中村ノ中九鬼村二アリシ

丸山肥後ト云フ者二日岐六郷ヲ仁科ヨリ賜ハリテ再ヒ城ヲ修覆セリ同兵庫丹波ナト云フ者相續ス丸山ハ平氏ナリ

信州二住シテ幾代ニヤ詳ナラス小笠原へ属セシ時、丹波守 武田家ト戦テ没落セリ甲州ノ手二入テ降幡備前ト云フ

者二賜フ此者ノ落着分明ナラス」とある。

「信府統記」と「東筑摩郡誌」の違いは丸山氏が平氏であるとしていることと、降幡備前が武田氏により日岐大城

を与えられていることであり、その他はおおむね同じである。

丸山氏は平氏とする説は、生坂村の丸山地籍は丸山氏発祥の地とされると共に平氏の落人伝説があるのでこのあた

りでこの説が発生した可能性もある。(これを裏付ける資料は昭和初期に丸山地籍で一番古く資料が残っていた家

が火災にあい資料すべて焼失してしまい確証がとれないという話を地権者の方から聞くことができた。)

降幡備前については、他の資料では丸山氏と武田氏の直接の戦いは無かったとするものもあり、本当の所はわから

ないが、仁科本家が武田氏に降ったのでそれにならって丸山氏も降ったのではないかと考えられている。

そうすると戦う前に降った丸山氏の領地を移動させ新しい領主を入れる必要があったのか疑問でもある。

しかし、安曇野市の九鬼には降幡備前の墓と称するものがある(後世のものとする説あり)ので備前は実在した 

可能性は高いのでなんらかの伝承に残るような出来事はあったのであろう。

この日岐大城は、深志を回復した小笠原貞慶に天正10年に攻められ日岐小城など周辺の関係城と共に落城

している。(詳しくは、カテゴリの武将で、丸山氏・日岐氏をご覧下さい)



              ~日岐大城の現状~

大城への多くの登山道(峠)

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現在の大城への登山道は、眠峠口・林道終点口・はぎの尾峠口・万平登山口があり、一番早く登れるのは、
林道終点口である。
この林道は大城がある山の尾根上まで車(普通車可)で行ける為に他の登山道より1時間程度短縮できる。
(林道は上に行くほど広くなっており終点や林道の途中などに駐車スペースがある。)


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林道の途中にある眠峠登り口を見る。

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眠峠の登山道途中には石仏があり昔は多くの人々が通っていたことがうかがえるが。。。登りはかなり厳しい!

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こちらは林道終点口で、駐車場完備で尾根上なので楽でした。。。

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この林道終点口からの道は地元の方による整備が行き届き歩きやすい。
こちらも途中には石仏がある。


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この眠峠は、眠峠登り口から登り、尾根上を林道終点口へ向かい林道を少し歩き入地方面に下るルートであったようで、現在もたどることができる。
大城があった頃も主要な生坂から坂北・大岡に抜けるルートであったのであろう。 


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はぎの尾峠は、眠峠と物見岩の中間あたりを通過している峠で、下生坂方面と入山地籍を結ぶ重要な峠であった。
こちらも登るのは大変なようであるが、資料によってはこの峠が大城の大手ではないかとするものもある。
はぎの尾峠の入り口と沢を挟んだ尾根には源三屋敷が存在する。

万平から京ヶ倉への登山道は今回登ってはいないが、説明板によると、
武田軍が使用していた道であり、尾根上は狭く4つある登山道の中で一番危険な道なようである。
この尾根は万平の居館からと小屋城から続く尾根で居館と城を結ぶ重要な道であった。


  「信府統記」・「東筑摩郡誌」記載による三の郭  

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東筑摩郡誌には、三の郭長四五町・幅二町許中間に巨岩あり、物見岩と称す。
信府統記には、三ノ郭ハ北ノ方ニアリ大キナル平ナリ今ハ草生ヲ原ノ如シ大概長四五町横ニ町とある。


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この場所は眠峠登り口を登りきった尾根上にあり、信府統記・東筑摩郡誌が云うようにここが郭であるならば、
位置的に眠峠を見張る為の郭となり、広さ的には居住区ともなる。
ただ、歩きまわったが、水場は確認できなかったし、本郭とされる場所からは約30~40分の距離があり、
ここを城内とするには無理がある。。。ただ物見岩のような感じで物見・番所のような施設は考えられる。


物見岩

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はぎの尾峠と大城中心部の中間にある物見岩である。
眺めがよく周辺の城も見ることができる。  
 


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物見岩からは正面に高津屋城が見え、後方には池田町の北山城などが見える。(奥は池田町である) 

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物見岩からは戦時の居館跡とされる源三屋敷も見える。

さあ、いかがだったでしょうか?
今回は峠や登り口などの説明でほぼ終わってしまいましたが、次回こそは城の中心部をお伝えしていきたいと
思っています。

なお、日岐大城は3回に分けてお伝えする予定です。お楽しみに。



~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会   平成9年)

信府統記復刻  (国書刊行会     平成8年)

東筑摩郡誌   (信濃教育会     1919年)

山城探訪    (宮坂 武男     平成10年)
  1. 2012/07/29(日) 09:49:23|
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生坂村  入地の大たて

所在地・・・・生坂村下生坂入地                        訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                            訪城目印・・・・入地集落内



               ~館跡の歴史~

「生坂村誌」によると、

下生坂入地の畑地・原野(50m×50m)であるが居館跡は不明である。

畑の上端に矢竹が群生し周囲にタテ・西タテ・竹ノ下・狐ヤ・上方に大手坂・郷土クボ・ノゾキト・ノゾキ下

などの地名がある。

タテは自然地形で、居館は麻績方面へ行く旧道端の竹ノ下・横マクリの位置が適している。

桐沢を通って大岡方面へ登る者や、麻績川沿いに坂北方面へ行く者を監視した武士の館であろう。

丸山益信氏は猿が城城主の居館であろうと記している。とある。


               ~ 大たての現状 ~

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この込地の集落の地図(一応縄張り図?)を見ながら説明します。
この居館は、遺構・伝承等は無く地名のみでの居館説ですので、推定居館跡です。


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国道から麻績川を渡り最初に見えるのがこの丸山氏が住む「西家」である。
この集落の屋号「西家」「北家」「中家」「イタヤ」のある家はみんな丸山家であり、
日岐の丸山氏の関係をうかがわせる。


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写真の右側の籔(矢竹の籔)は「中家」の丸山氏の屋敷で現在は廃墟となっていて荒れている。

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 「北家」周辺にある畑などの平坦地・・・・・現状、込地は過疎化が進み廃墟や耕作放棄地が増えている。 

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「イタヤ」「上手」お屋号の丸山本家を見る。
左の細い道が古道で旧大岡村へ通じていたという。


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旧古道を挟んで東側に丸山本家(写真上)と西側に「たて」の字(写真下)があり
このあたりが居館の候補地となっている。
このように、居館の遺構は確認出来ないものの古道の存在や「たて」の地名などこの地の重要性や
居館をうかがわせる地名の存在・また、集落の丸山氏の存在が居館跡の根拠となっていると思われる。



多くの推定としては、昔は山清路は通行が出来なかった為に、雲根峠(猿が城が守る)を越えて入山の谷(遠見・殿屋敷の地名)を通ってこの込地の古道を越えて大岡・長野方面に多くの人が通行していてその通行の地の要害である込地に丸山氏の一族などの重鎮を配置して猿が城・大たてを守らせていたのではないだろうか。
というものである。

ただ最初にも書いた通り、遺構・伝承がないので推定の域はでない。



~ 諏訪神社 ~

(関係ないけど、過疎化の為に今後、荒れそうなので現状を記しておく)

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諏訪神社の西側にある大日堂である。
説明板にあるように荒廃したので現在地に移されたとあるが、現状も荒廃が進んでいる。
説明板を新しくする前に大日堂をきれいにすればいいのにな~。。。


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過疎化は進んでいて祭りも行われなくなってしまったようである。

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使われなくなった舞台・・・・
周辺は老人しかいなかったし・・・廃れていくのかな。。。  


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境内はまだきれいでした。
城跡に行くと廃村や忘れられた石仏をよく見る。
この込路の集落がそうならないようにこれからも頑張っていただきたい。
と願ってやまない。 



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国道から見た大たての遠望

~参考文献~

生坂村誌  (生坂村誌刊行会    平成9年) 

山城探訪  (宮坂 武男      平成10年)
 
  1. 2012/07/20(金) 04:37:50|
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生坂村  日岐氏・丸山氏について②

第2回目は・・・・・・日岐氏についてお送りしていきたいと思います。

基本的に資料が少ないのでわからないことが多いですが出来るだけ書いていきたいと思います。

なお・・・素人ですので間違えがあるかもしれません。。。参考程度に見て下さい。


            ~ 日岐氏について ~

日岐氏の発祥は、安陪任清や仁科盛遠の祖父 仁科盛弘が末子を盛生を伴って日岐に隠居し日岐氏を称した。

その後、日岐盛生の流れは中絶したといわれている。

(なお、盛生は盛弘が隠居後に日岐で生まれたとする説もあるようである。)


その後、丸山政友の子 筑前守盛教が日岐氏を称するようになった。

その盛教の子がよく日岐大城の戦いで出てくる日岐丹波守盛武(盛次に比定)と盛直(盛正に比定)の兄弟で、

日岐盛直は、日岐大城と万平の館を守り、日岐盛武は日岐城と殿屋敷という説とその逆の説もあるが、

兄弟が協力して守っていたのは間違いないようである。
             
 *①
日岐盛次(盛武)は、天文22年10月武田氏の侵攻を受け神明の森から万平・下生坂の地に戦いを展開したが、

塩尻峠の戦い以来、武田氏の為に多くの主将を失った日岐城は陥落し、丹波守盛武は八幡(千曲市)に落ちたが

後に武田氏に属した。

永禄10年には仁科十将の一人として生島足島神社に起請文を提出して武田氏に忠誠を誓っている。

*②
天正10年、武田氏滅亡の機に乗じて日岐盛直は日岐盛武や同族の日岐上総守盛広の協力と上杉氏の加勢を得て

旧領奪還に成功し、日岐盛武を上杉方の日岐大城城代として在城させ、盛直は稲荷山城(千曲市)に在番していた。

*③
深志城に回復した小笠原貞慶が周辺の土豪の討伐を始めると天正10年9月日岐にも貞慶の軍勢が押し寄せ日岐

盛武の守る日岐城・大城を陥落させた。

小笠原氏に敗れた盛武は八幡(千曲市)に敗走したが、小笠原貞慶は日岐盛武の妹で穂高内膳の妻南姫を捕らえ、

盛武と穂高内膳の帰参を説得させようとしたがうまくいかなかったので、貞慶は誓紙を出している。

これにより、日岐盛武は小笠原貞慶に帰参し旗本大将となり、押野之内納万疋の地を宛行われ引き続き旧領の

日岐一跡・大穴等都合二百三十貫文を宛行われている。

一方、日岐盛直は天文12年上杉景勝に属している八幡の神官 松田民部之助の嗣となり、松田織部佐を称し

稲荷山城に在番して七百六十石を給されている。


注記

*①・・・・「信州の山城」では、「高白斎記」に武田氏による
日岐攻めの記事はなく、天文19年7月15日の項に「仁科道外(盛康)出仕」とあるので主家の仁科氏が武田氏に
投降した為、日岐氏も降服したのであろう。としている。


*②・・・・「生坂村誌」では、小笠原氏の日岐攻めは盛武が
前面にたって戦っている。これについては、盛直がすでに上杉方として千曲市の稲荷山城に在番していた為に
盛武が戦ったという説がある。しかし、盛直が稲荷山城主となったのは天正12年6月八幡宮の別当職を宛がわれ
松田織部亮盛直と名乗った時からであり、天正10年の日岐攻めの頃に上杉景勝から日岐の地を安堵されそのうえ
安曇郡池田郷・滝沢・萩原・細野・松川の諸郷と筑摩郡の潮の地を新たに知行されていて、10年12月景勝から
「信州一変の上、先判の所」と注をつけて盛直に所領安堵を約束している。さらに11年盛直が潮神明社に神田を
寄進している。これらのことから盛直は八幡に逃れたのではなく、上杉氏の配下として日岐のどこかで戦っていた
のではないか。としている。




*③・・・・「信州の山城」では天正10年3月に武田氏が滅びると
織田氏・上杉氏と支配したが、小笠原貞慶が深志城にはいると武田氏侵攻時に裏切った豪族の攻略を開始した。
これにより日岐大城にいた日岐盛直は6月上杉氏の元へ逃れ、生坂谷は盛武が守っていた。
貞慶は8月8日になると盛武を攻め13日には降している。
盛武はこれを聞き、日岐大城で盛武を説得し上杉方にさせている。とある。


「生坂村誌」では貞慶が日岐氏を攻めた理由を因縁ではなく、上杉氏の配下となっていた日岐氏が邪魔な存在で
あり、日岐の地を手に入れたいという願望が強くその為に日岐攻めが行われたのではないか。としている。


            ~ 日岐氏関連史跡 ~

日岐氏墓所

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日岐城主の居館跡の裏にある丸山盛慶開基の正福寺跡にある日岐氏の墓である。

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日岐氏の墓とは言われているが宝筐印塔と五輪塔の残欠の寄せ集めであり、完全なものは無い。

天神社跡

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日岐最大の神社だった天神社跡でこの神社は日岐氏の信仰があつかった。
説明板にある日岐盛貞が奉納した天神画像などは現在日置神社に保存されている。
(神社跡は日岐公民館前にある)



      ~ 天正10年小笠原氏による日岐攻め ~

日岐城攻めの状況については色々な資料があるが、「生坂村誌」を中心に書いていきます。

日岐城攻めについては小笠原氏側の文献資料だけしか残っていない。

小笠原家編纂の「笠系大成附録」の「御書集」に載る犬飼半左衛門久知らにあてた貞慶の書状五通と、

「岩岡家記」「二木家記」などでありそれらを総合してまとめてみる。

この戦いは、松本犬飼城主の犬飼久知と明科塔ノ原城主海野三河守を先鋒大将として開始された。

これより先、日岐城勢が塔原口へ戦いを挑んできたのでこれを迎えて戦い、穂刈監物が矢傷を負い川船次左衛門

が鑓で突かれ、岩岡織部が抗戦して敵を防ぎ、手負い人や戦死者を引き取って引き上げるという前哨戦があった。

ついで八月八日は本戦となる日岐城攻めが行われることになる。

塔ノ原城から北方の赤岩へは小笠原山城守長継・溝口定康が兵士を五手に分けて軍を進めているが、この隊は

日岐氏の南方の最前線にある中野山城などを攻撃したものと思われる。

九日には小笠原出雲守頼貞や百束氏らも援軍として府中を出発している。

この援軍は穂高に在陣じている古厩氏や渋田見氏ら旧仁科衆らと共に池田方面から中山城・白駒城などの日岐城の

搦め手側から進軍している。

一方、会田方面へは赤沢式部少輔を派遣し、青柳頼長勢が北方から小笠原勢を攻撃してくるのを牽制している。

また、大町方面からは牧之島の上杉勢を牽制する仁科勢らも差し向けている。

八月十日の貞慶の書状には、日岐盛武が降参を申し出てきているが、これをとりあげることなく断固として戦う

決意を表明している。しかし、日岐氏の抵抗が激しく長期化し、開戦から二十日経った八月二十九日の書状には、

日岐城の大手口からの攻撃準備が整ったので、日岐城の者共も退散し落城するだろうといっている。

しかし、日岐城は落城せずに月を越えている。そしてついに九月六日の書状では、貞慶自身が七日に出馬する旨

を伝えている。「岩岡家記」に貞慶の本隊が、西口の平出から東に向けて進んでいると、日岐勢が貞慶の本隊の

後方を襲う為五十騎で登波離に向けて日岐崎を船で乗り越えてきたので、後陣の味方の雑兵が応戦し、日岐勢

二十騎程を討ち取った。登波離橋詰めで日岐勢を追い崩したので、日岐勢は犀川へ走り、船を捨てて川へ逃げ込ん

だので流れ死ぬ者や泳ぎ這い上がる者もでた。

貞慶の命令で有無をいわず川を越して追うように下知されたが、人馬は川の深さに抗せず引き返した。

岩波・岩岡らは何とか中州までたどり着き、古厩・今井は徒歩で渡ったが岩波は矢傷を負い岩岡は馬の口取り人足

の物が鉄砲で撃たれたので、ようやくその場を脱したとして伝えている。

貞慶の出馬が書状通り九月七日だったと見れば日岐城落城は九月八日あたりであったかと思われる。

こうして小笠原貞慶による日岐城攻めは約一カ月かかったことになる。

この戦いを「岩岡家記」では、「未ノ九月、日岐ノ大城御責被成候御積ニテ深志衆赤岩ヘハ山城殿・

溝口殿人数合五手被仰付候、牧之島口ヘハ仁科衆二手、出雲殿・岩波平左衛門、都合五手ノ衆、御旗本衆弐十騎

ニテハ、平井口ヲ御オシ被成候時、跡ノ道トワリオトシヘ、日岐ヨリ足軽五十騎バカリ船ニテ日岐崎ヲ乗越、

味方ノフマルヲ備オシノ跡ニテ弐捨計討申候ニ付テ、御備ノ衆ミナミナ乗返シ、トワリ於トシ橋ノツメニテセリ合

日岐衆ヲ追崩シ申候ヘハ、船ヲハ捨、川ヘニケコミ、流候者モ御産候、オヨキハイアカリ申候」とある。

なお「池田町誌」では、日岐盛武は、落城に際して以前から貞慶に通じていて、戦いのあと貞慶の手をかりて

水内郡芋川城を攻めて手柄として降っている。この以前から通じていたという根拠は、日岐大城攻囲中の八月

十一日付けで貞慶は盛武に対し、兄(盛直)の領分まで日岐一跡は盛武に与えてるという安堵状を出している

ので通じていたのであろうと書かれている。(このあたりの解釈は資料によって違いが見られる)



以上、2回に分けてお送りしてきた丸山氏と日岐氏いかがでしたでしょうか。
資料により見解の違いなどがありまとめきれていない場所や間違いがあるかもしれませんが笑ってお許しください



少しでも日岐氏や丸山氏について興味をもってもらえたらうれしいです。



~参考文献~

生坂村誌       (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士      (丸山 楽雲     平成21年)

池田町誌       (池田町誌編纂委員会 平成4年)

信州の山城      (信濃史学会    1994年)
  1. 2012/07/18(水) 03:32:13|
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生坂村  日岐氏・丸山氏について①

              ~ 丸山氏について ~

今回は、丸山氏について素人ながらまとめてみました。
(素人ですので間違いがある可能性がありますのであしからず。。。(;一_一) )


中心資料としては「信濃古武士」を使用し、違う説などが書かれている資料がある場合は、注記として
最後に書くようにしています。


日岐大城城主丸山氏は、桓武平姓仁科氏で仁科盛忠の弟 盛光が文和2年(1353)頃に日岐六郷を領し丸山地籍に 
                              *①  
  
居館を構えて丸山氏を称したのが始まりとされている。

その後、丸山盛衡 ・ 盛恒 ・ 盛長と続いたが盛長に男子が無かった為、明応3年仁科明盛の二男 将監盛慶

を養子に迎えている。

明応3年は盛慶の元服の年で、妻は青柳氏から迎え、母は小笠原清宗の娘であったので、仁科宗家同様に

小笠原家旗本首班に列し、肥後守に任じられて三千貫文・九十騎の分地領主であった。
              *②
この肥後守盛慶は、明応3年に裏日岐に月松山正福寺を開基し、成就院を中興している。

降って大永元年には松本市笹賀神戸に長松寺を中興し、神戸の将監屋敷に盛慶の三男の肥後守盛直(貞清)を入れ

ている。(なお、盛直は日岐の城主として小笠原長時の為に野々宮合戦に出陣し天文21年9月12日に卒している)

盛慶の三男 筑前守政友は、高松薬師城・中野山城・小池城の城主で日岐丸山氏の家老をつとめていたが、

日岐城主で(丸山氏当主とされている)政友の弟の丹波守盛直が病の為陣代として天文18年二十騎・足軽五十人を
     *③
率いて桔梗ヶ原の戦いに参戦し、小俣(松本市笹賀)の筑前屋敷周辺に布陣し武田軍と戦ったが、武田方の

小幡孫次郎の為に打取られた。

また、政友の弟(四男?塔の原小丸山城主とされる)の将監盛古は、政友の幕下として神戸の長松寺付近に布陣

したが戦いにおいて深手を負ってしまい上鳥羽(安曇野市)の小庵で養生し、従弟の真々部尾張守に介抱されて

いたが落命している。


日岐城主で丸山氏当主の盛直は、二木豊後の四男 清蔵を養子として迎え丸山将監盛真と称した。

この将監盛真が丸山氏中興とされ、武田氏時代は本家仁科氏が武田氏に降っていたので丸山氏も従って武田氏に

降った。小笠原貞慶が梓川の金松寺に現れると盛真と子の貞政・貞広は小笠原氏の深志城回復や貞慶上洛のため

の用度調進等の功績により、貞慶の御諱名一字を天正16年に賜り、小笠原家の親族としてこの系統が日岐丸山家の

嫡流として主家小笠原家に認知されている。
      *④
なお、天正10年の小笠原氏による日岐攻めに際しては、未だ帰参に戸惑っている旧臣日岐氏の心情を察し、

丸山将監一門には軍令を発しなかった。

その後、丸山氏は小笠原氏の古河移封や飯田移封に従っている。


〈注記〉
*①・・・「信州の山城」では、日岐氏は仁科氏の分流で仁科明盛の二男 盛慶が大町から生坂谷に進出し、
日岐城主となって丸山肥後守と称した。とある。


*②・・・・「生坂村誌」には明応年間(1492~1500)に盛慶が婿に入り丸山肥後守を称し、日岐に臨済宗
成就院を建て、のち天文9年成就院を平出に移して曹洞宗の成就院としたと伝える。とある。


*③・・・桔梗ヶ原の戦いについては「塩尻市誌」では天文14年(1545)6月14日武田晴信、桔梗ヶ原において陣を進める。熊井の城自落し、小笠原の館に放火する。(高白斎記)
15日桔梗ヶ原において、勝鬨を上げ、翌16日帰陣する。(高白斎記)とあり戦いがあったとは記されていない。

「池田町誌」では、天文14年4月14日に桔梗ヶ原で小笠原軍と武田軍が小競り合いをし、武田軍は近辺の村々に
放火し、更に熊ノ井城も自落したので、桔梗ヶ原で勝鬨をあげて帰陣した。とあり「高白斎記」を参考にしている
と思われるが、月と小競り合いをしたという文が追加されている。

「武田信玄と松本平」では、桔梗ヶ原の戦いの伝説を造ったのは「甲陽軍監」であるとし、甲陽軍監の中で
天文22年5月6日信州桔梗ヶ原において、小笠原長時衆が三千騎で出てきて、武田軍と合戦をした。という記述
があるが、小笠原長時は天文21年大みそかに武田氏に深志を追われて中野市の草間に向かっており、以後信州には
帰ってこなかったし、勢力的に見てもこの年に三千騎を動かすことは出来なかったはずで、したがって、この年に
武田方の支配するところであった桔梗ヶ原で合戦することはあり得ない。とある。

この三つの資料の違いは、年月・甲陽軍監と高白斎記との参考資料の差・合戦があったか無かったの差である。
素人なので発言は控えるが参考として挙げておく。


*④・・・・小笠原氏の日岐攻めの頃には丸山氏は現在の安曇野市
吉野に居たようである。(日岐攻め後に日岐盛武に小笠原氏は押野・日岐一跡・大穴等都合二百三十貫を宛行われ
丸山盛真の子 丹波守政勝の居館である吉野に新たな本領を給される(笠系大成・二木家記など)とあり吉野の
居館に丸山氏が居たことがわかる。



~ 丸山氏関連史跡 ~

♦ 正福寺跡 ♦

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丸山盛慶が開基したとされる正福寺跡の標柱と説明板

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寺跡の入り口にある結界石

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正福寺跡
(殿屋敷の上の台地にあり広大な平場である。かつては日岐城の大手道に面していたので戦時は居館と城の
中間の砦の役割も担っていたのであろう。現在は栗が栽培されていてのどかである)
 


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正福寺歴代住職の墓
歴代住職の墓の中には戒名に正福寺の字が入っているものも見られる。
 


♦ 成就院 ♦

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丸山盛慶の中興開基とされる池田町平出にある成就院

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寺にある寺の沿革の書いてある看板

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裏山にある歴代住職の墓所
成就院は山城探訪によると平出城という城跡であるとされている。
この墓所の裏の山は水上遺跡であるという。


以上、丸山氏について書いてきましたがいかがでしたでしょうか?
資料によって書いてあることが微妙に違う為中々まとめきれませんでしたがお許しください。
次回は、日岐氏について書いていきたいと思います。
お楽しみに!

~参考文献~

生坂村誌      (生坂村誌刊行会    平成9年)

信濃古武士     (丸山 楽雲      平成21年)

池田町誌      (池田町誌編纂委員会  平成4年)

信州の山城     (信濃史学会     1993年)

武田信玄と松本平  (笹本 正冶     2008年)

塩尻市誌 別冊   (塩尻市       平成7年)

池田町の遺跡    (池田町教育委員会  1994年)
  1. 2012/07/15(日) 21:24:54|
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生坂村  日岐城③

日岐城第6回目は本郭周辺で最終回です。

本郭周辺も詳しく書いていきたいと思います。最後までお付き合いください。 

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~ ⑤本郭 ~

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ニの郭から見た本郭。
犀川側は急斜面であることがわかる。
 


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堀切②を越えて切岸を登ると本郭のこの場所に出る。


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本郭にある説明板

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本郭にある供養塔とされる石塔。
武田氏に攻められた時の物か、小笠原氏の時の物かは不明である。
 


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自然地形もしくは削り残しの土塁と思われる高まりを見る。
近年までこの土塁上に日岐氏が明応元年(1492)に氏神として勧誘した八幡社があったという。


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本郭全景を見る。  

~ 本郭石積み ~

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本郭の東側壁面にはわずかながら石積みが残存している。
崩落が激しくこのままだと消滅する可能性もある。
石積みの高さが無いことから本郭壁面の土止めの為に築かれたものと思われる。 


~ 本郭南尾根 ~

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本郭から発生する南尾根には郭が二段ほど築かれており、犀川側からの敵に備えている。

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本郭から切岸を下るとこの郭に来るが、この部分を堀切としている資料もある。
写真をみると確かにわずかな窪みが見えここに堀があれば厳重な防御となるが堀と見るか郭と見るかは
中々判別が難しい所である。


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最下段にある郭を見る。
ここから下は急斜面となり北の番所近くへ落ちていく。


~ 西尾根堀切① ~

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西尾根(搦め手)へは本郭西隅にあるこの石門のような場所から下って行く。

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本郭から急傾斜の階段を下って行くとすぐに橋が現れる。これが堀切①である。
この西尾根は遊歩道整備の為に尾根上が削られていると思われるので堀切も浅くなっているものと思われる。


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遊歩道整備の為に多少の改変があるものと思われる。

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尾根上の遊歩道は余りにも平坦すぎるのでかなりの削平を受けていることが分かる

~ 西尾根堀切② ~

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堀切②であるが削平の為にかなり浅くなってしまっている。
整備という名の破壊が多い長野県・・・・もっと考えればいいのにもったいない。 <`ヘ´> 


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堀切②と③の間にある元の地形を残している部分。
遊歩道整備の為に1m程度は削平されていることが分かり、この上には荒神社があったのだろう。


~ 西尾根堀切③ ~

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日岐城搦め手を守る一番最初の堀切であり西尾根上では最大の物である

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朽ちた空堀の標柱。。。。。。あるだけ良し (*^^)v 

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現在は遊歩道の切通しのようになっているが深さは3m程であり巨大である。
これが改変されていないものであるとすれば古い時代の物ではなく新しい時代の改修であろう。
では誰であろうか?
推測するには。。。天正10年に小笠原氏に降服し日岐を安堵された日岐盛武であろう。
落城後の改修によるものだろうか?


~ 日岐城遠望 ~

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犀川に浮ぶ日岐城

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国道から見る日岐城と西尾根堀切③のアップ


以上。。。日岐城関連を6回に分けてお送りしてきましたが、日岐城を理解していただけたでしょうか。

興味を持っていただけた方は、遊歩道が整備されていますので是非訪城してみて下さい。

気軽に行けるお勧めの城です。



~参考文献は第1回目に書いてありますのでそちらを見て下さい~
  1. 2012/07/15(日) 20:11:20|
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生坂村  日岐城②

日岐城第5回

こんにちは。。。。(*^^)v

前回は、日岐城物見台までお届けしてきましたので今回は③三の郭から進めていきたいと思います。

写真が多いですがお付き合いください。
 


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縄張り図を参考に見ていきます。(自信がないので参考程度に。。。。。してください。)

~ ③三の郭 ~

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大手道が尾根上に出た所の分岐を西側に進むと三の郭へ着きます。
三の郭は山のピークを利用しており登ってきた尾根より高くなっていて三の郭に入るには道が
虎口のように迂回して登って郭へ入っている。


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三の郭は通称かじ平と呼ばれており刀鍛冶が居たとされている。
刀鍛冶が普段こんな所にいるわけはなく、居たとしても戦時の籠城戦の時くらいであろう。
現在、三の郭は二段になっているように見えるがよく見ると現在通路となっている所は遊歩道の為に削られた
可能性があり、一段高い崖側の方を見ると元々は加工度の低い自然地形の郭であったと思われる。


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三の郭から見る本郭方面。
この城の犀川側は絶壁であり、近年も斜面が崩落する災害があった。


~ 三の郭から発生する北尾根 ~

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三の郭から北尾根が発生している。
①の郭で紹介した写真でもわかるように大手道とは小さい沢を挟んで存在する。


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この尾根には段郭が見られる。

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段郭を2段ほど降ると切岸を伴った小さな堀切が見られる。
この尾根は三の郭への防御と大手道の防御を担っていたものと思われる。


~ 堀切① ~

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三の郭西側にある自然地形を利用した堀切と思われるものがある。
現状は犀川側の斜面の崩落が激しく現状も進んでいると思われる。
  


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ニの郭側から堀切と三の郭を見る。
本によってはこれを堀切とみていないものもあるがニの郭と三の郭と分けるなら堀切がほしい所ではある。


~ ④ニの郭 ~

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堀切①を越えると段郭がありニの郭へ入って行く。

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ニの郭から堀切①を見下ろす。
ニの郭と堀切①の間には小さい郭があり郭には虎口状の入り口があるが公園化に伴って階段が造られていて
階段を造る為の削平か城の虎口か迷う所ではある。
なぜならここに虎口を造ると堀切①との比高さが無くなってしまいたやすく入られてしまうからだが、
虎口とするならかなり発達したもので生坂村の他の城には見られない遺構となる。


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ニの郭の東側(堀切①側)には土塁が造られている。
現在の登山道は写真で見ると土塁の左側を入ってくる。


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ニの郭を見る。

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ニの郭から堀切②を挟んで本郭を見る。
ニの郭は二段になっていて堀切②側に一段低く造られている。


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本郭から見たニの郭全景

~ 堀切② ~

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堀切②の手前には二の郭の下段の郭があり堀切との比高さを減らしている。
この構築の仕方は何を意味しているのであろうか?
通常堀切を掘るのだから郭との比高を稼ぎたい・敵の移動を邪魔したいという意思があるはずである。
なのにわざわざニの郭を一段下げて比高さをなくしている。


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本郭切岸から堀切②とニの郭を見下ろす。
推測するなら・・・ニの郭を落とした敵が本郭に攻めかかる際にニの郭下段と堀切の段差で躊躇して
進撃の速度を落としそのすきに本郭から鉄砲・弓矢で敵を打つ・・・・っていうのはいかがでしょ?
本郭の切岸は急斜面で登るのは困難であり堀切②辺りに敵をためて本郭から頭上攻撃することは考えていただろうけど。


今回はこれで・・・お・わ・り。
三の郭から堀切②まで見てきましたがいかがでしたでしょうか?
説明に素人考えが入っておりますが・・・・・気にしないでください。妄想ですから (-_-;)

次回は日岐城の最終回・・・・本郭周辺をお伝えします。   お楽しみに!
  1. 2012/07/15(日) 11:42:57|
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生坂村  日岐城①

日岐城第4回目はやっと本城の日岐城の紹介です。

所在地・・・・生坂村日岐                         訪城時間・・・・殿屋敷から20~30分

危険度・・・★★☆☆☆                          訪城目印・・・・生坂ダム・水鳥公園

別 名・・・・日岐小城



                ~日岐城の歴史~

日岐郷周辺の領主に関しては「信府統記」の「日岐大城」の項に城主日岐盛慶としていて、日岐城も盛慶と

されているので日岐城・大城の両方を総称して日岐城としていた可能性がある。

「信府統記」に記載されている高根主膳・生駒河内などは「日岐大城」の項にあるので日岐大城の時に書きたいと

思いますので、今回は戦国時代の日岐盛慶の時代から紹介します。

戦国時代、生坂地方は日岐氏・丸山氏の領有するところとなっていたが、明応年中(1492~1500年)頃に

大町の仁科明盛の子、盛慶が丸山氏に婿に入って丸山肥後守を称し日岐城を構築して本拠とした。

または、前期の高根主膳時代の城を改修して使用した可能性もある。

「丸山系図」によると盛慶から兵庫頭盛高・丹波守盛次・丹波守盛武などが天正18年〈1590)まで約100年続いた。

天文17年武田氏侵攻により本家の仁科氏が武田氏に降ると丸山氏も武田氏に降った。

武田氏統治下の30年間ほどは平穏であったが、天正10年〈1582)3月に武田氏が滅亡すると織田氏が統治し、

6月からは上杉氏が支配した。7月になると徳川氏の支援を受けた小笠原貞慶が深志城に復帰すると

武田氏侵攻時に裏切った豪族の攻略を開始した。

これにより日岐城の右岸にある日岐大城の城主織部佐盛直は6月に上杉氏の元へ逃れ、残った日岐丹波守盛武が

生坂谷を守っていた。

(生坂村誌では大城主盛直は6月に上杉氏の元に逃れ稲荷山城主(千曲市)となったという説があるが、盛直が

稲荷山城主となったのは天正12年(1584)で松田氏を名乗った時であるとし、天正10年にはまだ日岐にいて

上杉方として抵抗していたのではないか。としている。)

小笠原貞慶は8月8日頃より盛武を攻め13日には小笠原氏に降っている。

日岐盛直は盛武が小笠原氏に降ったことを聞き一族を率いて大城に来て盛直を説得し上杉方にさせている。

上杉景勝はこれを喜び盛直に感状を8月22日付で与えている。

これを聞いた小笠原貞慶は再び日岐攻略にかかり8月29日付けで島立大学・犬飼半左門に日岐大城の攻略を

命じている。「岩岡家記」に深志口赤岩(明科?)、牧の島口、貞慶は平井出口の三方から攻め、本隊は

とわり橋のつめで競り合い、日岐衆を追い崩し、犀川渡河戦では攻めあぐんでいる。

またこの戦いの中で岩岡織部の馬の口取り人足が鉄砲で撃たれていることが書かれていて、日岐方に鉄砲が

あったことがわかる。

小笠原貞慶の本隊が9月7日に出馬している。

日岐城の落城は9月8日頃であったと考えられていて日岐城攻略に約1ヶ月かかったことが分かる。

なお9月8日頃の日岐城落城の日岐城は大城・日岐城の総称と考えられるので8日の落城は大城の方と思われ

日岐城はもうちょっと前ではないだろうか。。

(この日岐城の攻略戦に関しては資料により違いがあり素人では断定出来ないので、大まかな書き方とした。)



                  ~日岐城の現状~

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拙い縄張り図ですが。。。参考に説明していきたいと思います。 (-。-)y-゜゜゜ 


~ ①大手道脇の郭 ~

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正福寺跡から大手道を登り、馬場跡とも考えられる広大な平地を越え現在遊歩道になっている大手道を登ると
左側に一段高く広い郭が見られる。


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この郭は大手道を登る人を監視する番所のようなものと思われる。
なおここには写真にあるようにこの城の水の手の一つとされる「はす池」がある。
現状は水は少ないが周りを土塁状に高まりがあるのでかつてはもっと水がたまっていたのであろう


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①の郭から見た北尾根の郭と堀切を見上げる。
大手道は北尾根と郭①で挟まれるように通っているので北尾根も大手道を守る一部であったと思われる


~ ②物見台 ~


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 ①の郭を通り過ぎ大手道が尾根上に着くと東側に物見台・西に三の郭への分岐がある。
まずは東の物見台へ階段を登って行く。
 


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登りきると櫓台と思われる幅広の高まりと平場、段郭が見られる物見場に着く。 

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櫓台上からそれを囲む平場を見下ろす。
(写真に見える柵の外側に段郭がある)
 


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物見台北側斜面にある段郭を見る。(物見台ながら立派な砦の造りになっている)

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物見台から見る下生坂方面
(現在木が茂りここより三の郭などの方が景色が良いのが悲しい)


今回はここまで。。。。。すみません説明が長すぎて。。。。。あまり進みませんでした。

次回は、③三の郭から紹介していきますのでお楽しみに!
  



~参考文献~

生坂村誌     (生坂村誌刊行会   平成9年)

信州の山城    (信濃史学会     1993年)

信府統記復刻   (国書刊行会     平成8年)

池田町誌     (池田町誌編纂委員会 平成4年)

信濃古武士    (丸山 楽雲     平成21年)

山城探訪     (宮坂 武男     平成10年)
  1. 2012/07/15(日) 10:08:17|
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生坂村  日岐殿屋敷

日岐城第3回目は、日岐城関連遺跡

日岐城主の居館跡の殿屋敷です。 

所在地・・・・生坂村裏日岐北陸郷                            訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                  訪城目印・・・・水鳥公園



                 ~日岐殿屋敷~

生坂村誌によると、

裏日岐の平地(40m×60m)で犀川が最も屈曲している先端にあった。

東と北は犀川となり南と北西は峡谷で、西は日岐城の山麓で背後に氏寺の正福寺跡があり、

尾根道を登れば数百mで日岐城に達っし、犀川の対岸の山にはこや城がある。

「信統府記」に「横三十間、長十八間、東ニ土手アリ横ニ間長十間、南土手横一間、長十五間、南向ノ屋敷ナリ」

とあり、寛政元年(1789)「池田組明細帳」には、

「東西土手形有り東方廿五間。堀形城地、東西五十間程、南北三十間程、当時畑ニ成、丸山肥後守居住・・・・」

とある。

土手は昭和20年頃まであったが開田により消滅した。北隣の犀川ベリには的場があったがダムに水没した。

屋敷の北端には氏神の日岐社跡があり、矢竹が群生する。

その上段は日岐氏氏寺の正福寺跡で、墓地には日岐氏一族の五輪塔がある。

殿屋敷に隣接してホリ、松葉、ツイジ下、郷蔵があり、南方の犀川断崖沿いに直路と番所屋敷がある。

なお、開田の際に土器や茶臼片が出土したというが、所在不明である。とある。

また、現地の説明板(館跡の看板裏)には、

日岐城の東方、裏日岐に在り横三十間、長十五間で近くに的場・水汲街道等の地名が残っている。

古くは高根主膳正のち生駒河内守・松平出雲守が居館したと推測され、丸山肥後守もこの館に住し、

明応中、正福寺を開基したという。

この人は日岐村に居住せし故に上生野・小立野・下生野・上生坂・日岐ののすべてを日岐大郷と唱えた。

屋敷の地が昭和20年頃、開田されその折に屋敷の礎石が数多く出土し今も田の中に埋められている。

とある。

(現地の説明にある高根主膳・生駒河内などは信府統記の日岐大城の項に出てくるがどうなのであろうか?

日岐城・大城を総称して日岐城といっていたという文献もあるので、信府統記の日岐大城はこの日岐城も

含まれていたと考えこの殿屋敷にも高根氏や生駒氏がいたと書かれたのであろうか)



                 ~殿屋敷の現状~

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生坂村誌に記載されている「切図」。

hiki tonoyasiki

殿屋敷周辺の図を書いてみました・・・・・この図を参考に見て下さい。(微妙ですが・・・(-_-;) )

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殿屋敷から見る京ヶ倉(日岐大城の物見台)

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こちらは・・殿屋敷の犀川対岸にあるこや城

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生坂村誌にある的場はこのあたりであろうか?
(的場は殿屋敷の北隣でダムに沈んだとあるのでこのあたりであると思われる)
 


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日岐殿屋敷の看板とブドウ畑になった殿屋敷を見る

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看板の裏にある説明(なにが出典なのでしょう?) 

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殿屋敷を見る

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正福寺跡から見下ろす殿屋敷と役場跡

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「切図」でいう松場(的場?)から正福寺跡がある段丘上を見る。 


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殿屋敷から続く大手道を見る
(現在は日岐城遊歩道となっていて殿屋敷~正福寺~日岐城へ行ける)


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日岐殿屋敷とは関係がないが近世になってもこの地が中心となっていた証拠の遺跡として
この陸郷役場跡と高札場・郷蔵跡がある。


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近世役場になった地もかつては殿屋敷に隣接していたので何かはあったとは思われるが・・・
と思い周辺を探してみました。


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役場跡の裏の田んぼの中心にある井戸を発見!
まあ。。役場に関係するものだろうけど・・・・館があった時も使ってたかも。
なんて想像しながら写真を撮ってました  (*^^)v


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役場跡から見た日岐城。 

殿屋敷いかがでしたか?
いかがでしたかって聞かれても何も残ってないのに困るって聞こえてきそうですが。。。。
中世の典型とされる在地領主の根小屋式山城としては貴重な存在であり、破壊されてしまったことは残念である


次回の4回目はやっと日岐城をお送りしたいとおもいます。
なお、日岐城は2~3回に分けて細かく書いていきたいと思います。


~参考文献~

生坂村誌           (生坂村誌刊行会   平成9年)

信州の山城          (信濃史学会     1991年)

山城探訪 補遺資料編 中南信版 (宮坂 武男  )
  1. 2012/07/14(土) 17:26:19|
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生坂村  日岐城②

日岐城第2回目は日岐城関連遺跡の 

~ 北の番所屋敷 ~  でございます。

所在地・・・・生坂村表日岐                            訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                             訪城目印・・・・日岐城直下



              ~北の番所屋敷の歴史~

生坂村誌によると、

日岐城の下でしし岩の真上の平地にある。

裏日岐の殿屋敷へ行く川べりの要所でもあり、他に番所屋敷道上、道下がニ筆で五畝十六歩ある。

明治六年の「切図」には畑五筆でニ反一畝十六歩ある。

表日岐には武士の屋敷があったので北と南の両方の入り口に番所を置いたと考えられる。

また両方の番所の屋敷の近くには犀川の渡船場っがあった。とある。



              ~北の番所屋敷の現状~

kitanobannsyo3.jpg

生坂村誌の記載されている明治六年の番所屋敷切図

kitanobannsyo.jpg

一応、現状を書いてみました。

~ ①番所屋敷 ~

kitanobannsyo1.jpg

kitanobannsyo17.jpg

 ①の番所屋敷にある説明板と①の部分を見下ろしてみる。
現状は荒れ地となっていて土塁等は見られないが犀川側に突起部のような平場が見られる。


kitanobannsyo99.jpg

①にある説明板と日岐城へ続く表道を見る。


~ ②番所屋敷 ~

kitanobannsyo4.jpg

 ②の番所屋敷の現状は荒れ地となっていて①とは段差によって分かれている。

kitanobannsyo10.jpg

日岐城側は細くなっていて形状は三角形である。
先端部の日岐城側は道が下りとなっていてこのあたりに門があったら防御に効果的である。



~ ①と②の間の段差 ~

kitanobannsyo2.jpg

 ①と②の平場の段差に沿ってわずかながら窪みが見られる。
(畑や田んぼの水路だった可能性もあるが。)


kitanobannsyo8.jpg

窪みを犀川側にたどっていくと、犀川への急斜面に竪掘状の窪みが落ちているのが確認出来た。
(これが自然の荒れなのか、堀から続く竪掘なのかは藪の為詳細は確認できず)


kitanobannsyo6.jpg

この段差の窪み部分が堀であるとすれば、この日岐城側から来た道が登りきった部分(段差の部分)
に門を設ければかなりの防御となると思われる。


~ ③番所屋敷道上 ~

kitanobannsyo9.jpg

 ①の番所屋敷から見た、③・④の番所屋敷道上。

kitanobannsyo12.jpg

kitanobannsyo15.jpg

kitanobannsyo19.jpg

 ③の部分は現状五段の田んぼ跡となっていて遺構らしきものは見られない。
この田んぼ跡の一部も番所屋敷と書かれているので番士の詰め所や屋敷があったと思われる。
田んぼの壁に古い石積みも見られる(田んぼによるものの可能性もあるが)のでもしかしたら
現状の段は昔のままの可能性も考えられる。


~ ④番所屋敷 ~

itanobannsyo0012.jpg

kitanobannsyo00024.jpg

 ④の部分は一番上部のみきれな平坦面となっていてその他の部分は下の写真のように緩い傾斜地となっている。
④の地名は一番上の辺りが城平・下の部分が番畑となっている。


kitanobannsyo000.jpg

 ④の部分から上へ登って行くとそんなに時間もかからずに日岐城の搦め手側の尾根上へ行けてしまう為
にこの部分にも何かの施設があったので城平の地名がつけられた可能性もあるのではないだろうか。


以上、北の番所を書いてきましたがいかがでしたか?
北の番所はちょうど犀川と日岐城の斜面に挟まれ道が狭くなった要所に築かれたものであり、
記載した溝が堀であったとすれば日岐城に付属する出城的なものであったろう。
南の番所と北の番所の間には武士の屋敷などがあったようなのでたとえてみると朝倉一乗谷のような
入り口と出口を門で守られた城下町であったと思われる。
ただ、城主の居館はこの中にはなかったが・・・・(-_-;)


さて、次回は。。日岐城城主の居館「殿屋敷」をお送りしたいとおもいます。
お楽しみに・・・(遺構は無いのであまり期待しないでね  ) 

~参考文献~

生坂村誌  (生坂村誌刊行会  平成9年)
  1. 2012/07/11(水) 21:43:03|
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生坂村  日岐城①

日岐城第1回目は日岐城関連の遺跡を紹介します。

  ~ 佃・南の番所屋敷 ~  

所在地・・・・生坂村日岐・表日岐                   訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                        訪城目印・・・・日岐城への犀川沿いの道脇


            ~佃・南の番所屋敷の歴史~

「生坂村誌」によると、

表日岐の南入り口、佃沢の南側の斜面にある。

「日岐村の切図」には、畑として六筆で計五反九畝ニ歩、隣接して佃上、佃下が三筆で一反四畝十四歩ある。

江戸時代には沢沿いに田も少しあったが地滑りで無くなったという。

50m北方の道下には番所屋敷があり、五筆で一反六畝十七歩の平地である。

伝承では日岐氏の家臣 佃氏が番所屋敷にいて日岐の南口を守り、佃の地を耕作していたが、

後に安曇の堀金へ移ったという。とある。



               ~屋敷跡の現状~

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  ~ ①日置神社 ~  

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番所屋敷の一角には、平安時代初期、朝廷によって編述された「延喜式神名帳」に載っている
「更級郡(中略)日置神社」に相当するという観点から明治時代に日置神社と改名された神社がある。
以前は「神明社」と呼ばれていた。
この神社には室町時代初期の享徳元年(1452年)の棟札が残されていて番所があった頃も存在していた。
この神社には日岐氏に関連するものなどが残されている。


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日置神社から見下ろす番所屋敷全景(田んぼの所)犀川に面した要害の地である。

~ ② 佃 ~

minami2.jpg

日岐氏の家臣佃氏が所有していた佃を見る。

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現状は何枚かの田は耕作されているが、この田の上段(佃沢上流側)は放棄され山林になってしまっている。

~ ③番所屋敷 ~

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この番所屋敷の前にある道は(推定)かつての日岐城への道であり、城下町のような集落があったものと思われる。
(番所屋敷はこの道を抑える為に設けられたと思われる)


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この道は桝形のように道が曲がっており、道沿いには古い家屋が並んでいる。
(日置神社の前の道は新しいものではないだろうか、このような古い家屋は見られない)


minak13.jpg

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番所屋敷跡の田んぼを見る。
(現状は遺構は残されていない)


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番所屋敷から見る本城の日岐城と後方に日岐大城の山。

~ ④ 佃沢 ~

minami10.jpg

池田方面からの道は佃沢を越えなければ日岐城方面には行けないと思われる(日岐城搦め手尾根は除く)
もしくは沢沿いに道があった可能性もあるが、この沢を利用して堀とみなし番所を設けて防備していたのではないだろうか。実質的には出城のようなものであったろう。


hikisiro104.jpg

関係無いけど・・・番所屋敷から見る池田町の田ノ入城(崩落している崖の部分)と
ままこ落とし(とんがっている土柱)。


以上みてきたように南の番所屋敷は日岐城へ通じる表道を見張る為の出城のような存在であったと思われ佃氏を入れていたのであろう、
番所から日岐城への不思議な道の形から宿場もしくは城下町のようなものも形成されていたようにも見える。


あまり注目されない番所・・・・番所にも歴史があるんだ・・・・
ってこのブログの為に北・南の番所・殿屋敷を再訪して歩きまわってきました。
今回こそは隅々まで拾えたかな?


次回は・・・・日岐城北の番所をお伝えしていきます。



~参考文献~

生坂村誌  (生坂村誌刊行会   平成9年)
  1. 2012/07/07(土) 01:03:32|
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生坂村  孫三屋敷・源三屋敷

所在地・・・・生坂村下生坂                             訪城時間・・・・10分

危険度・・・・★★☆☆☆                              訪城目印・・・・????

別 名・・・・孫次屋敷
 




          ~孫三屋敷・源三屋敷の歴史~

「生坂村誌」によると、

下生坂の東部で、大城の山麓にあり、樋ノ口沢と山諸沢に挟まれた山陵の突端上にある。

標高570mで国道19号線との比高さは70mである。

東西90m・南北100mのゆるい傾斜平地で、大城の真下に当たり険しい山路を登ると大城へ行ける。

下段に孫三屋敷げあり、三段ほど石垣跡らしいものがある。

関係地名として南に狐穴・竹ノ下・馬セバ、北方にノゾキ・物見岩下方の部落内には竹ノ花などがある。

地形的に見て交通に不便な山中であるから、戦時に一時的にいた居館か、妻子を隠しておいた所であろう。

とある。

この居館跡は、昭和63年によく参考にさせていただいている「信濃古武士」の著者「丸山 楽雲氏」により

発見されたものである。

この丸山氏の説としては、この孫三屋敷が日岐大城の居館跡であり、従来の居館跡とされる万平の館は

大城の出城であったとする説を発表されている。

この説には意見はあろうが、居館跡を発見された功績は大きいものである。

なお、この丸山氏の「信濃古武士」では、生坂村の城館跡は64ヶ所としている。

(丸山氏は地名から城館跡の場所を調べるやり方をされているのでこの数字となっていると思われる)




                   ~屋敷跡の現状~

IMG_0002.jpg

 「信濃古武士」に記載されている当時の記事。
新しい城館を探し当てるなど城好きの憧れですな。
   


IMG_0001.jpg

この拙い縄張り図で紹介していきたいと思いますのでお付き合いください。

  ~ ①孫三屋敷 ~  

magozou1.jpg

屋敷跡への道を見る。
奥の山頂が日岐大城で、屋敷跡へは写真中央の畑の脇を沢へ下って行く。
獣除けの柵沿いに行く良い


magozou2.jpg

沢を越えるとこの尾根の窪みに着く。
「信州の山城」では、孫三屋敷が三段ありその下に堀割があって道になる。
とあるのが、この窪みと思われる。
沢からの比高が低いのでここに堀切を置く意味は無いと思われるが・・・。


magozou3.jpg

屋敷跡へはこの獣除けの柵を開けて登って行くが、写真でもわかるように獣によって柵の下が掘られている。
〈イノシシと思われるので要注意である〉


magozou4.jpg

ちょと心細くなるような尾根を登って行きます。
(奥に説明板が見えているのがわかりますか?)


magozou7.jpg

こんな所にまである生坂村様の説明板。。。。逆に 「誰が来るんだよって」つっこみたくなりますね。
でも感謝です。


magozou8.jpg

magozou9.jpg

現状はすべて藪ですが、平地は微妙に傾斜があり削平が甘いので長く居住する意志は無かったと思われる。
なお、土塁・切岸・背後の堀切は見られない。


  ~ ②源三屋敷 ~  

gennzou1.jpg

孫三屋敷から斜面を下るとこの源三屋敷へ行ける。
(道は無いので注意)
 


gennzou7.jpg

このちょ~急斜面を下ります。

gennzou9.jpg

源三屋敷から見る孫三屋敷への登城路の尾根。

gennzou3.jpg

源三屋敷は大城から発生した尾根に守られるようにあり、隠れ城のような場所にある。
戦時の妻子を隠した場所であろうか、日当たりはあまり期待できない。
 


gennzou6.jpg

gennzou11.jpg

こちらもきれいな平地ではなく傾斜があり長く居住する場所では無かったであろう。

gennzou2.jpg

gennzou4.jpg

gennzou5.jpg

源三屋敷にある石積みを見る。
孫三屋敷がある尾根側の斜面にこの石積みがあるが、この平地はかつて耕作されたような
痕跡があるので一概に屋敷跡によるものとは言えないが、屋敷跡のものと思いたい。


gennzou10.jpg

源三屋敷の西側を流れる山諸沢を見る。(これを自然の堀としていたらしい)
この沢と屋敷跡の比高さは1m程度しかなく、沢の水が増水した時はどうしていたのであろうか?
水には困らないけどね!


  ~ ③物見台? ~ 

gennzou33.jpg

一応、堀切跡とする切り通しから③へ尾根を登って行く。

gennzou23.jpg

わかりづらいですが、とにかく藪がすごい小ピークがあります。
中央に何かいそうな洞穴があり不気味です。


gennzou34.jpg

ピークの頂上には、誰も訪れず荒れ果てた祠が二つと狭い削平地があり、西側下にもう一つ郭があります。
(矢竹の籔が酷くて・・・・・とても下の郭には入れませんでした。。。(・へ・) )


  ~ 周辺 ~  

magozou11.jpg

日岐大城と孫三屋敷の位置関係を表してみました。

gennzou55.jpg

居館近くから見る高戸屋物見がある山。

孫三屋敷はいかがでしたでしょうか。
見ていただいた通り、削平が甘い・日当たりが悪い、山中にある等普段の生活に支障がありそうである。
資料の否定をするものではないが、やはり万平の館がメインの居館であり、孫三屋敷は、妻子の隠し場所、
もしくは、日岐大城の中心部へ尾根を登ると直接行けてしまうのでそれを阻止するための砦というのが
妥当ではないでしょうか?
素人の考えなので断定はできませんのであしからず。



~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会    平成9年)

山城探訪    (宮坂 武男      平成10年)

信濃古武士   (丸山 楽雲      平成21年)

信州の山城   (信濃史学会      1993年)
  1. 2012/07/02(月) 23:21:17|
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生坂村  小屋城②

小屋城の第2回目を始めたいと思います。

IMG.jpg

今回は、郭②から西側尾根筋について紹介していきたいと思います。

 ~ 郭② ~  

ikusakakoya21.jpg

郭②は堀①と堀③に挟まれた狭い郭である。
この郭の特徴は郭の半分程を削り残したと思われる土塁状の高まりがあることである。


ikusakakoya22.jpg

元々が狭い郭なのに何故この高まりを造ったのであろうか?
この高まりは犀川崖側にあるため土塁ではないと思われるが。。。。。幅も広いし。
「山城探訪」ではこれを土塁としているが、何故攻められる可能性の無い犀川側なのであろう?


 ~ 堀③ ~  

ikusakakoyasiro100.jpg

郭②と郭③の間にある竪掘である。
この堀は尾根上の道を確保しつつ防御をしようと両脇を竪掘を落としている。
本当なら堀切にして橋でも渡せばいいのに何故か竪掘としている。
よほど郭②と郭③の連携強化が必要であったのであろうか。



~ 郭③ ~  

ikusakakoya91.jpg

郭③を見る(奥に郭④の高まりが見える)

ikusakakoya94.jpg

この郭は削平が甘く所々でこぼこしている。
戦時は周囲に柵を巡らして兵士が詰める場所として守れればよいので奇麗に削平する必要が無かったのであろう。


ikusakamoya97.jpg

こや地籍側には帯郭が造られている。
この部分にも柵が巡っていたのであろう。


~ 郭④ ~  

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ikusakakoya34.jpg

郭④の中核施設のなると思われる高まりである。(いろんな角度からどうぞ・・・ (*^^)v )
この高まりの上は狭いものの削平されているので物見台のようなものがあったと思われる。


ikusakakoya35.jpg

郭④の高まりの周囲を守るように郭が造られていてこの郭を守る意識が強いことがうかがわれる。 

ikusakakoya31.jpg

上部は郭となり斜面を下るにしたがって帯郭になっていく。
(この帯郭には柵列が築かれていたのであろう。)


~ 堀④ ~  

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堀④は尾根上では浅くなっていて確認は困難であるが、両脇の堀切から続く竪掘が明瞭に残っている

PC263130.jpg

PC263135.jpg

犀川側は竪掘の窪みが確認できるが崖の為に斜面下までは見ることができなかった。。

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こや地籍側の竪掘は良く残っており、埋まっていることを考えると、城が使われていたときもこの堀は深かったものと思われる。

~ 郭⑤と堀⑤ ~  

ikusakakoya71.jpg

堀④からは少し自然地形の尾根が続き郭⑤となる。

ikusakakoya72.jpg

郭⑤である。
自然地形にも見えるが、少し高まりとなりなんとなく平らになっている。
万平から登ると最初の場所が郭⑤の場所なのでここに防御施設がないと楽に敵が尾根上に登ってしまうことになる。


ikusakakoya75.jpg

ikusakakoya73.jpg

尾根の先端部にはこの祠があり、郭状になっている。

ikusakakoya78.jpg

郭⑤から見る万平居館の馬場跡。 

PC263150.jpg

尾根への登り口となっている堀⑤(堀とは断定できないが、ここに堀切があると効果的である。)

PC263154.jpg

小屋地籍から見上げる堀⑤
こや地籍からみるとどう見ても堀切にしか見えないんだよな~。


~ こや地籍 ~ 

ikusakakoya52.jpg

ikusakakoya53.jpg

小屋城の番兵がいたとされるこや地籍をみる。
戦前までは家があったとされるが、現状は荒れた畑跡と山林となっている。


~ その他 ~  

ikusaakoya57.jpg

大城万平登り口側からの小屋城登り口。
以前は本郭にでも神社がありここから登っていたのであろうが、現在は藪となっていて登るのは困難である


ikusakakoya58.jpg

万平の居館から見た小屋城と大城。 

ikusakaoya59.jpg

小屋城遠望。 

臨場的にすべてを拾ってみました。。。。。(?_?)

小屋城はいかがでしたか?写真の多用により長すぎだとお叱りを受けそうですが・・・・・・
ブログ的にはお城の図鑑を目指していますので・・・細かくお伝えしています。
御許しを。

小屋城は天正10年の小笠原氏による日岐攻めで落城したとされるが、小笠原氏の兵力の前では
こんな城はひとたまりもなかったと思われる。

この城のひとつ気になる所は、堀①の二重の堀が竪掘部分で一本になる所で、日岐氏の城では見られない技術である。

この技術が見られるのは小笠原氏の平瀬城・桐原城・林城・塔の原城などであり、
この小屋城も落城後に小笠原氏の改修の可能性をうかがわせるが素人にはどうも・・・・・(-_-;)



~参考資料~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会   平成9年)

山城探訪    (宮坂 武男     平成10年)  
  1. 2012/07/01(日) 08:28:10|
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ていぴす

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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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