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長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

生坂村  日岐氏・丸山氏について①

              ~ 丸山氏について ~

今回は、丸山氏について素人ながらまとめてみました。
(素人ですので間違いがある可能性がありますのであしからず。。。(;一_一) )


中心資料としては「信濃古武士」を使用し、違う説などが書かれている資料がある場合は、注記として
最後に書くようにしています。


日岐大城城主丸山氏は、桓武平姓仁科氏で仁科盛忠の弟 盛光が文和2年(1353)頃に日岐六郷を領し丸山地籍に 
                              *①  
  
居館を構えて丸山氏を称したのが始まりとされている。

その後、丸山盛衡 ・ 盛恒 ・ 盛長と続いたが盛長に男子が無かった為、明応3年仁科明盛の二男 将監盛慶

を養子に迎えている。

明応3年は盛慶の元服の年で、妻は青柳氏から迎え、母は小笠原清宗の娘であったので、仁科宗家同様に

小笠原家旗本首班に列し、肥後守に任じられて三千貫文・九十騎の分地領主であった。
              *②
この肥後守盛慶は、明応3年に裏日岐に月松山正福寺を開基し、成就院を中興している。

降って大永元年には松本市笹賀神戸に長松寺を中興し、神戸の将監屋敷に盛慶の三男の肥後守盛直(貞清)を入れ

ている。(なお、盛直は日岐の城主として小笠原長時の為に野々宮合戦に出陣し天文21年9月12日に卒している)

盛慶の三男 筑前守政友は、高松薬師城・中野山城・小池城の城主で日岐丸山氏の家老をつとめていたが、

日岐城主で(丸山氏当主とされている)政友の弟の丹波守盛直が病の為陣代として天文18年二十騎・足軽五十人を
     *③
率いて桔梗ヶ原の戦いに参戦し、小俣(松本市笹賀)の筑前屋敷周辺に布陣し武田軍と戦ったが、武田方の

小幡孫次郎の為に打取られた。

また、政友の弟(四男?塔の原小丸山城主とされる)の将監盛古は、政友の幕下として神戸の長松寺付近に布陣

したが戦いにおいて深手を負ってしまい上鳥羽(安曇野市)の小庵で養生し、従弟の真々部尾張守に介抱されて

いたが落命している。


日岐城主で丸山氏当主の盛直は、二木豊後の四男 清蔵を養子として迎え丸山将監盛真と称した。

この将監盛真が丸山氏中興とされ、武田氏時代は本家仁科氏が武田氏に降っていたので丸山氏も従って武田氏に

降った。小笠原貞慶が梓川の金松寺に現れると盛真と子の貞政・貞広は小笠原氏の深志城回復や貞慶上洛のため

の用度調進等の功績により、貞慶の御諱名一字を天正16年に賜り、小笠原家の親族としてこの系統が日岐丸山家の

嫡流として主家小笠原家に認知されている。
      *④
なお、天正10年の小笠原氏による日岐攻めに際しては、未だ帰参に戸惑っている旧臣日岐氏の心情を察し、

丸山将監一門には軍令を発しなかった。

その後、丸山氏は小笠原氏の古河移封や飯田移封に従っている。


〈注記〉
*①・・・「信州の山城」では、日岐氏は仁科氏の分流で仁科明盛の二男 盛慶が大町から生坂谷に進出し、
日岐城主となって丸山肥後守と称した。とある。


*②・・・・「生坂村誌」には明応年間(1492~1500)に盛慶が婿に入り丸山肥後守を称し、日岐に臨済宗
成就院を建て、のち天文9年成就院を平出に移して曹洞宗の成就院としたと伝える。とある。


*③・・・桔梗ヶ原の戦いについては「塩尻市誌」では天文14年(1545)6月14日武田晴信、桔梗ヶ原において陣を進める。熊井の城自落し、小笠原の館に放火する。(高白斎記)
15日桔梗ヶ原において、勝鬨を上げ、翌16日帰陣する。(高白斎記)とあり戦いがあったとは記されていない。

「池田町誌」では、天文14年4月14日に桔梗ヶ原で小笠原軍と武田軍が小競り合いをし、武田軍は近辺の村々に
放火し、更に熊ノ井城も自落したので、桔梗ヶ原で勝鬨をあげて帰陣した。とあり「高白斎記」を参考にしている
と思われるが、月と小競り合いをしたという文が追加されている。

「武田信玄と松本平」では、桔梗ヶ原の戦いの伝説を造ったのは「甲陽軍監」であるとし、甲陽軍監の中で
天文22年5月6日信州桔梗ヶ原において、小笠原長時衆が三千騎で出てきて、武田軍と合戦をした。という記述
があるが、小笠原長時は天文21年大みそかに武田氏に深志を追われて中野市の草間に向かっており、以後信州には
帰ってこなかったし、勢力的に見てもこの年に三千騎を動かすことは出来なかったはずで、したがって、この年に
武田方の支配するところであった桔梗ヶ原で合戦することはあり得ない。とある。

この三つの資料の違いは、年月・甲陽軍監と高白斎記との参考資料の差・合戦があったか無かったの差である。
素人なので発言は控えるが参考として挙げておく。


*④・・・・小笠原氏の日岐攻めの頃には丸山氏は現在の安曇野市
吉野に居たようである。(日岐攻め後に日岐盛武に小笠原氏は押野・日岐一跡・大穴等都合二百三十貫を宛行われ
丸山盛真の子 丹波守政勝の居館である吉野に新たな本領を給される(笠系大成・二木家記など)とあり吉野の
居館に丸山氏が居たことがわかる。



~ 丸山氏関連史跡 ~

♦ 正福寺跡 ♦

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丸山盛慶が開基したとされる正福寺跡の標柱と説明板

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寺跡の入り口にある結界石

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正福寺跡
(殿屋敷の上の台地にあり広大な平場である。かつては日岐城の大手道に面していたので戦時は居館と城の
中間の砦の役割も担っていたのであろう。現在は栗が栽培されていてのどかである)
 


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正福寺歴代住職の墓
歴代住職の墓の中には戒名に正福寺の字が入っているものも見られる。
 


♦ 成就院 ♦

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丸山盛慶の中興開基とされる池田町平出にある成就院

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寺にある寺の沿革の書いてある看板

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裏山にある歴代住職の墓所
成就院は山城探訪によると平出城という城跡であるとされている。
この墓所の裏の山は水上遺跡であるという。


以上、丸山氏について書いてきましたがいかがでしたでしょうか?
資料によって書いてあることが微妙に違う為中々まとめきれませんでしたがお許しください。
次回は、日岐氏について書いていきたいと思います。
お楽しみに!

~参考文献~

生坂村誌      (生坂村誌刊行会    平成9年)

信濃古武士     (丸山 楽雲      平成21年)

池田町誌      (池田町誌編纂委員会  平成4年)

信州の山城     (信濃史学会     1993年)

武田信玄と松本平  (笹本 正冶     2008年)

塩尻市誌 別冊   (塩尻市       平成7年)

池田町の遺跡    (池田町教育委員会  1994年)
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  1. 2012/07/15(日) 21:24:54|
  2. 信濃の武将
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生坂村  日岐城③

日岐城第6回目は本郭周辺で最終回です。

本郭周辺も詳しく書いていきたいと思います。最後までお付き合いください。 

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~ ⑤本郭 ~

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ニの郭から見た本郭。
犀川側は急斜面であることがわかる。
 


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堀切②を越えて切岸を登ると本郭のこの場所に出る。


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本郭にある説明板

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本郭にある供養塔とされる石塔。
武田氏に攻められた時の物か、小笠原氏の時の物かは不明である。
 


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自然地形もしくは削り残しの土塁と思われる高まりを見る。
近年までこの土塁上に日岐氏が明応元年(1492)に氏神として勧誘した八幡社があったという。


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本郭全景を見る。  

~ 本郭石積み ~

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本郭の東側壁面にはわずかながら石積みが残存している。
崩落が激しくこのままだと消滅する可能性もある。
石積みの高さが無いことから本郭壁面の土止めの為に築かれたものと思われる。 


~ 本郭南尾根 ~

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本郭から発生する南尾根には郭が二段ほど築かれており、犀川側からの敵に備えている。

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本郭から切岸を下るとこの郭に来るが、この部分を堀切としている資料もある。
写真をみると確かにわずかな窪みが見えここに堀があれば厳重な防御となるが堀と見るか郭と見るかは
中々判別が難しい所である。


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最下段にある郭を見る。
ここから下は急斜面となり北の番所近くへ落ちていく。


~ 西尾根堀切① ~

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西尾根(搦め手)へは本郭西隅にあるこの石門のような場所から下って行く。

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本郭から急傾斜の階段を下って行くとすぐに橋が現れる。これが堀切①である。
この西尾根は遊歩道整備の為に尾根上が削られていると思われるので堀切も浅くなっているものと思われる。


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遊歩道整備の為に多少の改変があるものと思われる。

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尾根上の遊歩道は余りにも平坦すぎるのでかなりの削平を受けていることが分かる

~ 西尾根堀切② ~

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堀切②であるが削平の為にかなり浅くなってしまっている。
整備という名の破壊が多い長野県・・・・もっと考えればいいのにもったいない。 <`ヘ´> 


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堀切②と③の間にある元の地形を残している部分。
遊歩道整備の為に1m程度は削平されていることが分かり、この上には荒神社があったのだろう。


~ 西尾根堀切③ ~

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日岐城搦め手を守る一番最初の堀切であり西尾根上では最大の物である

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朽ちた空堀の標柱。。。。。。あるだけ良し (*^^)v 

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現在は遊歩道の切通しのようになっているが深さは3m程であり巨大である。
これが改変されていないものであるとすれば古い時代の物ではなく新しい時代の改修であろう。
では誰であろうか?
推測するには。。。天正10年に小笠原氏に降服し日岐を安堵された日岐盛武であろう。
落城後の改修によるものだろうか?


~ 日岐城遠望 ~

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犀川に浮ぶ日岐城

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国道から見る日岐城と西尾根堀切③のアップ


以上。。。日岐城関連を6回に分けてお送りしてきましたが、日岐城を理解していただけたでしょうか。

興味を持っていただけた方は、遊歩道が整備されていますので是非訪城してみて下さい。

気軽に行けるお勧めの城です。



~参考文献は第1回目に書いてありますのでそちらを見て下さい~
  1. 2012/07/15(日) 20:11:20|
  2. 生坂村
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生坂村  日岐城②

日岐城第5回

こんにちは。。。。(*^^)v

前回は、日岐城物見台までお届けしてきましたので今回は③三の郭から進めていきたいと思います。

写真が多いですがお付き合いください。
 


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縄張り図を参考に見ていきます。(自信がないので参考程度に。。。。。してください。)

~ ③三の郭 ~

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大手道が尾根上に出た所の分岐を西側に進むと三の郭へ着きます。
三の郭は山のピークを利用しており登ってきた尾根より高くなっていて三の郭に入るには道が
虎口のように迂回して登って郭へ入っている。


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三の郭は通称かじ平と呼ばれており刀鍛冶が居たとされている。
刀鍛冶が普段こんな所にいるわけはなく、居たとしても戦時の籠城戦の時くらいであろう。
現在、三の郭は二段になっているように見えるがよく見ると現在通路となっている所は遊歩道の為に削られた
可能性があり、一段高い崖側の方を見ると元々は加工度の低い自然地形の郭であったと思われる。


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三の郭から見る本郭方面。
この城の犀川側は絶壁であり、近年も斜面が崩落する災害があった。


~ 三の郭から発生する北尾根 ~

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三の郭から北尾根が発生している。
①の郭で紹介した写真でもわかるように大手道とは小さい沢を挟んで存在する。


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この尾根には段郭が見られる。

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段郭を2段ほど降ると切岸を伴った小さな堀切が見られる。
この尾根は三の郭への防御と大手道の防御を担っていたものと思われる。


~ 堀切① ~

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三の郭西側にある自然地形を利用した堀切と思われるものがある。
現状は犀川側の斜面の崩落が激しく現状も進んでいると思われる。
  


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ニの郭側から堀切と三の郭を見る。
本によってはこれを堀切とみていないものもあるがニの郭と三の郭と分けるなら堀切がほしい所ではある。


~ ④ニの郭 ~

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堀切①を越えると段郭がありニの郭へ入って行く。

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ニの郭から堀切①を見下ろす。
ニの郭と堀切①の間には小さい郭があり郭には虎口状の入り口があるが公園化に伴って階段が造られていて
階段を造る為の削平か城の虎口か迷う所ではある。
なぜならここに虎口を造ると堀切①との比高さが無くなってしまいたやすく入られてしまうからだが、
虎口とするならかなり発達したもので生坂村の他の城には見られない遺構となる。


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ニの郭の東側(堀切①側)には土塁が造られている。
現在の登山道は写真で見ると土塁の左側を入ってくる。


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ニの郭を見る。

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ニの郭から堀切②を挟んで本郭を見る。
ニの郭は二段になっていて堀切②側に一段低く造られている。


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本郭から見たニの郭全景

~ 堀切② ~

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堀切②の手前には二の郭の下段の郭があり堀切との比高さを減らしている。
この構築の仕方は何を意味しているのであろうか?
通常堀切を掘るのだから郭との比高を稼ぎたい・敵の移動を邪魔したいという意思があるはずである。
なのにわざわざニの郭を一段下げて比高さをなくしている。


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本郭切岸から堀切②とニの郭を見下ろす。
推測するなら・・・ニの郭を落とした敵が本郭に攻めかかる際にニの郭下段と堀切の段差で躊躇して
進撃の速度を落としそのすきに本郭から鉄砲・弓矢で敵を打つ・・・・っていうのはいかがでしょ?
本郭の切岸は急斜面で登るのは困難であり堀切②辺りに敵をためて本郭から頭上攻撃することは考えていただろうけど。


今回はこれで・・・お・わ・り。
三の郭から堀切②まで見てきましたがいかがでしたでしょうか?
説明に素人考えが入っておりますが・・・・・気にしないでください。妄想ですから (-_-;)

次回は日岐城の最終回・・・・本郭周辺をお伝えします。   お楽しみに!
  1. 2012/07/15(日) 11:42:57|
  2. 生坂村
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生坂村  日岐城①

日岐城第4回目はやっと本城の日岐城の紹介です。

所在地・・・・生坂村日岐                         訪城時間・・・・殿屋敷から20~30分

危険度・・・★★☆☆☆                          訪城目印・・・・生坂ダム・水鳥公園

別 名・・・・日岐小城



                ~日岐城の歴史~

日岐郷周辺の領主に関しては「信府統記」の「日岐大城」の項に城主日岐盛慶としていて、日岐城も盛慶と

されているので日岐城・大城の両方を総称して日岐城としていた可能性がある。

「信府統記」に記載されている高根主膳・生駒河内などは「日岐大城」の項にあるので日岐大城の時に書きたいと

思いますので、今回は戦国時代の日岐盛慶の時代から紹介します。

戦国時代、生坂地方は日岐氏・丸山氏の領有するところとなっていたが、明応年中(1492~1500年)頃に

大町の仁科明盛の子、盛慶が丸山氏に婿に入って丸山肥後守を称し日岐城を構築して本拠とした。

または、前期の高根主膳時代の城を改修して使用した可能性もある。

「丸山系図」によると盛慶から兵庫頭盛高・丹波守盛次・丹波守盛武などが天正18年〈1590)まで約100年続いた。

天文17年武田氏侵攻により本家の仁科氏が武田氏に降ると丸山氏も武田氏に降った。

武田氏統治下の30年間ほどは平穏であったが、天正10年〈1582)3月に武田氏が滅亡すると織田氏が統治し、

6月からは上杉氏が支配した。7月になると徳川氏の支援を受けた小笠原貞慶が深志城に復帰すると

武田氏侵攻時に裏切った豪族の攻略を開始した。

これにより日岐城の右岸にある日岐大城の城主織部佐盛直は6月に上杉氏の元へ逃れ、残った日岐丹波守盛武が

生坂谷を守っていた。

(生坂村誌では大城主盛直は6月に上杉氏の元に逃れ稲荷山城主(千曲市)となったという説があるが、盛直が

稲荷山城主となったのは天正12年(1584)で松田氏を名乗った時であるとし、天正10年にはまだ日岐にいて

上杉方として抵抗していたのではないか。としている。)

小笠原貞慶は8月8日頃より盛武を攻め13日には小笠原氏に降っている。

日岐盛直は盛武が小笠原氏に降ったことを聞き一族を率いて大城に来て盛直を説得し上杉方にさせている。

上杉景勝はこれを喜び盛直に感状を8月22日付で与えている。

これを聞いた小笠原貞慶は再び日岐攻略にかかり8月29日付けで島立大学・犬飼半左門に日岐大城の攻略を

命じている。「岩岡家記」に深志口赤岩(明科?)、牧の島口、貞慶は平井出口の三方から攻め、本隊は

とわり橋のつめで競り合い、日岐衆を追い崩し、犀川渡河戦では攻めあぐんでいる。

またこの戦いの中で岩岡織部の馬の口取り人足が鉄砲で撃たれていることが書かれていて、日岐方に鉄砲が

あったことがわかる。

小笠原貞慶の本隊が9月7日に出馬している。

日岐城の落城は9月8日頃であったと考えられていて日岐城攻略に約1ヶ月かかったことが分かる。

なお9月8日頃の日岐城落城の日岐城は大城・日岐城の総称と考えられるので8日の落城は大城の方と思われ

日岐城はもうちょっと前ではないだろうか。。

(この日岐城の攻略戦に関しては資料により違いがあり素人では断定出来ないので、大まかな書き方とした。)



                  ~日岐城の現状~

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拙い縄張り図ですが。。。参考に説明していきたいと思います。 (-。-)y-゜゜゜ 


~ ①大手道脇の郭 ~

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正福寺跡から大手道を登り、馬場跡とも考えられる広大な平地を越え現在遊歩道になっている大手道を登ると
左側に一段高く広い郭が見られる。


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この郭は大手道を登る人を監視する番所のようなものと思われる。
なおここには写真にあるようにこの城の水の手の一つとされる「はす池」がある。
現状は水は少ないが周りを土塁状に高まりがあるのでかつてはもっと水がたまっていたのであろう


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①の郭から見た北尾根の郭と堀切を見上げる。
大手道は北尾根と郭①で挟まれるように通っているので北尾根も大手道を守る一部であったと思われる


~ ②物見台 ~


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 ①の郭を通り過ぎ大手道が尾根上に着くと東側に物見台・西に三の郭への分岐がある。
まずは東の物見台へ階段を登って行く。
 


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登りきると櫓台と思われる幅広の高まりと平場、段郭が見られる物見場に着く。 

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櫓台上からそれを囲む平場を見下ろす。
(写真に見える柵の外側に段郭がある)
 


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物見台北側斜面にある段郭を見る。(物見台ながら立派な砦の造りになっている)

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物見台から見る下生坂方面
(現在木が茂りここより三の郭などの方が景色が良いのが悲しい)


今回はここまで。。。。。すみません説明が長すぎて。。。。。あまり進みませんでした。

次回は、③三の郭から紹介していきますのでお楽しみに!
  



~参考文献~

生坂村誌     (生坂村誌刊行会   平成9年)

信州の山城    (信濃史学会     1993年)

信府統記復刻   (国書刊行会     平成8年)

池田町誌     (池田町誌編纂委員会 平成4年)

信濃古武士    (丸山 楽雲     平成21年)

山城探訪     (宮坂 武男     平成10年)
  1. 2012/07/15(日) 10:08:17|
  2. 生坂村
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

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