長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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池田町 花岡山城②

さあ~お待たせしました!!!
花岡山城の第2回でございます。今回からは城内の御案内です。
  


hanaokasiro.jpg

まあまあ。。いつもながらの微妙な図にて案内していきましょう。 (>_<) 

~ ②の郭 ~ 

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前回書い鉄塔が建つ平坦地から少し登るとこの②の郭の上の段にたどり着く。
ここは明確に削平されていて人工であることがうかがえる。


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この上の段の平場には、礎石を思わせるような平たい石が埋まっていたり、転がっている。
これから説明して行く堀などを見ると戦国期後半の改修も考えられるとも思うがいかがでしょう。


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 ②の郭の上の段と下の段を分ける段差を見る。
二段に分けたとは言っても最初にあった地形の一番高い部分を削って郭にした為に二段のようになってしまった
っというのが本当であろう。
 


hanaokasiro31.jpg

下の段から上の段を見る。美しい・・惚れ惚れ・・・城跡のこの角度・・好き! !(^^)!
奥には無理やり付き合わせられた同伴者が・・・いますね・・・すねて、ず~と座ってました!!


 ~ 南東尾根・堀① ~ 

hanaokasiro35.jpg

 ②の郭から伸びる南東の尾根を下って行くと堀①が現れる。
この尾根は緩やかな為に防御が必要だったものと思われる。
(城までがきつかったので。。。。ここも意外にきつかったけどね。。) 


hanaokasiro001123.jpg

堀①を見る。
かなり埋まってしまっていると思われるが、明確に確認出来る。
堀の両側に高低差がある為、下からの敵にはかなり有効に働いたと思われる。
この堀①の下にも堀かな?と思わせる段差のような遺構が確認できた。 


 ~ 郭②と③の間の堀② ~ 

hanaokasiro46.jpg

 郭②から郭③へ行く間にはこの堀②が防御をしている。
この堀②は城内で一番きれいに土塁を伴う堀となっていて、写真にあるように土塁の左側が
通路として空けてあり城内道であった可能性がある。
 


hanaokasiro45.jpg

この堀も規模は小さいものの土塁を伴い、両側は竪掘として落としてあり改修の可能性をうかがわせる。

hanaokasiro41.jpg

斜面の下の方は急になっているので、竪掘としては短いものとなっている。 

hanaokasiro42.jpg

郭③から堀・土塁を見る。(奥は郭②の上の段の高まり) 

 ~ 郭③ ~ 

hanaokasiro56.jpg

hanaokasiro54.jpg

この花岡山城の特徴として堀・土塁・段郭は明確な防御意識をもって構築されているのに、
何故か郭に至ってはほぼすべて(郭②のぞく)自然地形のままで削平がされていないか甘いままである。
この郭③も自然のままで人工的な構築は見られない。 


 ~ 堀③ ~ 

hanaokasiro62.jpg

この堀③は、花岡城がある幅広な尾根を分断するかのように長大に掘り切っている。
ただ、開墾の為か、長年の風雨による埋没かは分からないがかなり埋まってしまっている。
 


hanaokasiro65.jpg

hanaokasiro61.jpg

尾根の端の方はきれいに残っており、堀切であったことが確認出来る。 

今回はここまで。。。
いや~。
広いので写真いっぱい載せちゃいますね。見るの疲れるって怒らないでくださいね。
出来るだけこの城跡の魅力を皆様にお伝えしたいので。。!(^^)!
次回も気合を入れて書くぞ~。
お楽しみにね。
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  1. 2012/08/31(金) 05:17:49|
  2. 池田町
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池田町  花岡山城①

所在地・・・・池田町池田堀之内                        訪城時間・・・・30分

別 名・・・・堀之内城・堀之内花岡城                    危険度・・・・★★☆☆☆



                ~花岡山城の歴史~

「池田町の遺跡」の堀之内花岡山城跡の項には、

堀之内氏の拠った山城であろう。(蜷川親元日記)とあり、遺構の形状として、不整な円形の主郭と、

南方にのびる尾根先に副郭があり、その間と主郭の背後に空濠を切り、主郭の周囲に複数の段郭や帯郭を

構える。連郭式山城。とある。

「池田村誌」の花岡山城址の項には、

堀之内城山より丑の方八町の距離に方り(あたり)、花岡山の内城平と唱ふる二段の地あり。

上平東西二十間・南北二十八間、下平東西十六間・南北二十間なり。

是又古昔の城址にして今に尚、其周辺に溝形を存す。とある。

近くの居館と共に堀之内氏のものと考えられている。



                ~城跡の現状~

hanaokasiro.jpg

この池田町の中では最大の城域を誇る花岡山城をこの図に沿って紹介します。

 ~登山口(大手?)~ 

hanaokasiro13.jpg

登山口からはるか上にある城跡を見上げる。(鉄塔部分)

hanaokasiro11.jpg

hanaokasiro10.jpg

斜面の登山道(鉄塔巡視路)を登り尾根上に出る部分は堀切状に窪んでおりここに門があれば
かなりの防御効果があったと思われる。
 


hanaokasiro16.jpg

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山上に出るとこの鉄塔(犀川線61番鉄塔)が建つ広大な平坦地に出る。
この部分には城郭遺構は見られないがもう少し登れば城内なのでここにも何かしらの施設はあったものと思われる。(兵の駐屯地か民衆の避難所か?)


hanaokasiro8.jpg

しかし。。。
この広大な平坦地からは写真のようにほんの少し登れば城内となってしまうのでここに遺構が無いと
さっきの門跡(推定)が破られるとその後の防御施設が無く簡単に城内に入られてしまう。
後世の耕作などにより破壊されたのであろうか?(山上の部分は郭②) 


花岡山城第1回目は今回ここまで~。

次回は郭②から詳しく紹介していきたいと思います。

お楽しみに!!!! 
  1. 2012/08/28(火) 04:16:49|
  2. 池田町
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池田町  まま子落としの伝説

池田町陸郷に伝わるまま子落としの伝説を紹介したいと思います。

この伝説は田ノ入城に関係するものである。


               ままこ落とし

むかしむかし、東山の高い所に田の入城という山城がありました。

そこには太郎丸という母のいない若君がおりました。


tanoiri99.jpg

ある日のこと太郎丸に、おりくという二度目の母君がこられました。

太郎丸はうれしさのあまり、おりくのひざもとへかけよりました。おりくは太郎丸の手をとって、

「そなたが太郎丸か?今日からはこのおりくがそのたの新しい母じゃ、そなたはたいへん良い子じゃと

聞いていたが年はいくつになったのかな?」

「五歳でございます。」

「そうか、本当にかしこい子じゃ、お父上のように立派な殿様にならなくてはいけませんよ。」

と、やさしげに言いました。

所が、次の年におりくは男の子を産みその名を次郎丸と名付けました。

おりくは次郎丸を見ているうちに、次郎丸がかわいくなり太郎丸を邪魔に思うようになりました。

(なんとかして次郎丸をこの城の城主にしたいものだが、太郎丸がいたのではそうもいくまい。)

おりくは毎日このことを考え続けていました。

ある暑い日、おりくは城の裏の崖のそばで涼んでいました。


tanoiri12.jpg

現在の田の入城の崩落地

その時、急に崖の下から吹き上げてきた強い風にあおられて、もう少しで崖下に落ちそうになりました。

おりくはその瞬間あることを思いつきました。

(そうだ、この崖へ太郎丸を落としてしまいさえすれば、この城は次郎丸の物になるぞ。)

おりくは自分の心の恐ろしさを感じながらも今日こそは、今日こそはと太郎丸を崖から落とす機会を

狙っていましたが、夏が終わり、秋も終わりに近づいてしまいました。

おりくは何とかして太郎丸をだます方法はないものかと考えたすえ、やさしげに言いました。

「太郎丸殿、あの空一面に飛んでいるあきつ(トンボ)を見てごらん、取ってみたいと思わないか?」

「はい、とても欲しゅうございますが、太郎丸には中々捕まえられません。」

と、太郎丸は甘えるように言いました。


hikisiro104.jpg

下生坂から見た田の入城とままこ落とし

「それはそうよのう、では誰にも内緒でたくさん取れる所を、このおりくが教えてしんぜよう。」

「本当でございますか、母上それはどこなのでございますか?」

太郎丸は目を輝かせて尋ねました。

するとおりくは、太郎丸の耳元で小さな声で言いました。

「よいか、あすの朝、日の出の頃にそっと裏の崖をのぞいて見るがよい。前の日に太陽で暖められた岩はだに

何千何百とも知れぬあきつ(トンボ)の大群が羽を休めているに違いない。」

ここまで聞いた太郎丸は、おりくの顔を見上げて心配そうにもう一度たずねました。

「母上、あの崖のあきつ(トンボ)が太郎丸に捕まえられるのでございましょうか?」

「ああ、捕まえられるとも、あきつの羽が朝露で濡れているうちは飛べないのじゃ。」

次の朝、太郎丸は夜明けと共に裏の崖へと出かけて行きました。


mamako7.jpg

そして、おりくの言ったとおり崖のはしに腹ばいになって下をのぞくと、切り立った絶壁の岩肌が見えない

ほど真っ赤なあきつ(トンボ)の群れが止まっていました。

(うわーすごい!)

母上の言ったことは本当だ。

そう思った太郎丸は息を止めて、小さな手を力いっぱい伸ばしてあきつの羽を捕まえました。

その瞬間、後から付いてきたおりくは、鬼のような顔になって太郎丸を崖に突き落としました。


「わぁー」という叫び声を残して谷底へ落ちて行った太郎丸は犀川から立ち上る朝もやの中へ消えて行きました。

mamako5.jpg

現在のままこ落とし

それから間もなくして太郎丸が居なくなったことに気付いた城の内外では、夜になっても

太郎丸を呼ぶ声が山にひびきました。

険しい谷間のことなので太郎丸の姿は中々見つからないまま秋も深まり冬が近づいてきました。

そして初雪が舞い始めた数日後、板に乗せられた太郎丸は氷のように冷たく無残な姿になって

城に運び込まれてきました。

かわり果てた太郎丸の真っ白い手には色のあせたあきつがしっかりと握られていました。

いまでもこの崖を、まま子落としと呼んでいます。


田の入城にまつわるまま子落としの伝説はいかがでしたでしょうか?

城にかかわる伝承などは近年忘れられることが多くなってきています。

このブログではこのような伝承・伝説も多く取り上げ伝えていこうと思っております。


mamako4.jpg

また最近では、このまま子落としの土柱の上にあった三本の松が土柱の風化により倒れてしまった。

という新聞の記事がありました。

この土柱もどんどん風化が進んでいるようなのでその内無くなってしまう運命のようです。

土柱の風化が進んだからといってこの伝承が風化してもいいわけではありません。

ぜひ伝えていってもらいたいものです。



~参考資料~

池田町ホームページより

出典 あづみ野池田の民話  (平林 芳子)
  1. 2012/08/24(金) 10:51:28|
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池田町 田ノ入城②

池田町の遺跡に記載の城跡部分 

今回は、池田町教育委員会発行の池田町の遺跡(分布調査報告書)記載の田ノ入城を②としてお送りしたいと思います。

この場所は、田ノ入城①から南へ尾根を300m程度遊歩道を歩くとあるピーク上にある。

tanoiri899900.jpg




こちらも余り人工的なものは少ないが紹介しておく。

池田町の遺跡には、主郭 東西9m 南北16m 楕円形 北東に7段の段郭を設ける。

とあるが今回は、2段程度しか確認出来ていない。
 



           ~田ノ入城②の現状~ 

tanoiri2999.jpg

田ノ入城②は、田ノ入峠頂上部から南側に尾根道(遊歩道)をたどる。

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尾根上は現在、東山尾根歩きコースとして整備されておりきれいな道となっている

①2つ目のピーク

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池田町の遺跡では、峠から2つ目のピークと3つ目のピークを城域としている。
このピークは峠から2つ目のピークです。


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遊歩道はピークの側面を通過していて、ピークの側面には人工的な加工の跡は見られない

tanoiri21112.jpg

ピーク上は、細長く横幅は1m程度の幅しかなく狭い。
さらに自然地形でここも人工的な加工の跡は見られず何故ここが城域とされたのか疑問である。
 


 ②3つ目のピーク(中心部か?) 

tanoiri2116.jpg

2つ目のピークから尾根を南へたどると3つ目のピークが鞍部を挟んで現れる。
(鞍部は一部に土橋状に細くなる部分も見られる)


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田ノ入城②の中心部と思われる3つ目のピークを見る。 

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3つ目のピークが池田町の遺跡にある本郭東西9m・南北16mの場所と思われる場所であるが、
9×16の広さは無いのだがどこを測ったのだろうか。
このピークは上が明らかに人工的に削平されたとわかる平地となっている。


tanoiri2121.jpg

この本郭と思われる場所の東側(遊歩道側)には土塁の残欠かと思われる高まりがある

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本郭全景
この郭は狭く小屋掛けは無理であり、砦・城というよりは狼煙台といった感じであろう。
 


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本郭と手前に段郭を見る。
この段郭は東側(遊歩道側)にあり明確なものは一段のみである。、
これが郭であるならば土塁と共に尾根道(現遊歩道)に備えていたということになるのか。


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東斜面のみ切岸状に急斜面になっている。
このピークの東側にある防御施設を思わせる段郭・土塁状遺構を考えるとこれも人工的な切岸とも思える。


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本郭から見る明科方面

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本郭の東斜面を通過する尾根道。
この尾根道が通過している部分は段郭のようにも見えるが…。


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東側の遊歩道より下は、人工的な遺構は見られない。

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田ノ入城②いかがだったでしょうか。

3つ目のピークは明らかに人工的な削平や土盛がされていて何かに使用されていたことは確認できた。

しかし、池田町の遺跡にあるようにここが城跡とするには疑問が残る。

ここにはどうみても小屋掛けや複数の郭を造ることは不可能で人が籠ることは出来ない。

あえて考えるなら、峠にあった田ノ入城①が本城で、本城が見えない明科方面をカバーする為に、

田ノ入城②の場所に出丸を置いた。というのはどうだろうか?

田ノ入城①がほぼ消滅した今、確認は難しいと思われる。
 



~参考文献~

池田町の遺跡     (池田町教育委員会   1994年)



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  1. 2012/08/20(月) 01:03:32|
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池田町  田の入山城①

長野県中世城館跡・山城探訪記載場所

所在地・・・・池田町陸郷田の入                       訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★★☆☆☆                           訪城目印・・・・田の入峠・ままこ落とし

別 名・・・・寺村山古城・茶臼山城(推定)



              ~田の入山城の歴史~

「信府統記」の寺村山古城地の項には、

古城跡 寺村ヨリ酉ノ方七町 本城の平東西九間 南北十間 城主知レズ

此所ハ大穴 泉福寺ト言フ 真言宗ノ寺アリ 御朱印地ナリ とあり、

「明科村誌」の茶臼山ノ城跡の項には、

古城跡 村より未申方 十六丁程 泉福寺御朱印地の内 茶臼山ノ城ト言 山上平十ニ間 四面程

堀切ト言べき歟(か)五段程あり、尤(もっとも)城主不知。

(寺村古城地・茶臼山ノ城址は古老の言う田ノ入城と思える。城址の位置については、今後の研究に残した。)

とある。

また、「信濃池田町史話」には田ノ入城址として、

城主は安陪五郎丸で別名を、安陪貞高といい鎌倉時代初期の人で田ノ入城もこの頃の物だとしている。

城の施設として厩の跡とされる平地、空掘の跡、城主が鮒を釣ったという伝承のあるふなくぼというものが

残っていたという。また本城の平は十町歩あり少し下った位置には雷電社があったとされる。

(すべて崩落してしまったという)

*田ノ入城の位置としては(今回①として記載)いままで言われてきた茶臼山ノ山頂の殿城と呼ばれる崩落地

と池田町の遺跡に記載される殿城から尾根のピークを3つ越えた位置の(次回②として記載)2つが伝わっている

ようであり①の方はおおむね崩落してしまいどちらが城跡なのかは断定が難しくなってしまっている。

今回は①と②として2か所を一応、記載して紹介しておく。



              ~田ノ入城①の現状~

tamoirisiro.jpg



滝沢マレットゴルフ場から林道を登りまま子落としの下を通過してさらに林道を登ると田ノ入峠へ至り、
さらに林道を行くと田ノ入集落へ行く。
 


P4045570.jpg

田ノ入峠を見る。
現在は峠に標柱がありわかりやすくなっていて、峠の上、左側斜面上が田ノ入城①で、右側にある遊歩道を
行くと田ノ入城②へ行くことが出来る。 


P4045606.jpg

林道を行くと田ノ入集落へ。(左側上が城跡①。) 

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峠にある田ノ入城の入り口を示す標柱
(斜面を登っていくと・・・)
 


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田ノ入集落の方達によって建てられた城址碑。(立派です! (#^.^#) ) 

 平場② 

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頂上部を見る。
頂上部は以前は十町歩あったと言われているが現状は崩落しまっていてわずかながら平地が残っているのみである
しかし、平地は自然地形であり人工が加わった跡は確認出来ない。
 


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また、田ノ入峠側の斜面にも段郭などの人工的な遺構は見られない。 

 平場③ 

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平場②の下で原型をとどめないもう一つのピークの間にあり、平場といっても人工的な跡は無い。 

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平場③から平場②を見上げる。 

堀切① 

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断定的なものではなく、これが堀切だったのではないだろうか?という推定的なものである。
上部は崩落してしまい田ノ入峠側の斜面に竪掘状に窪みが残っている程度である。
 


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林道から見上げる堀切状遺構。
もしこれが堀切であったとしてもこの深さでどこまで防御力があったのかは疑問である。
 


山頂崩落地 

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山頂で本郭がかつてあったとされる部分を見る。
大規模な崩落で原型はつかめない。
現在も崩落が進んでおり時折崩れる音が響いていて、そのうち現在残っている部分も消滅するものと思われる。
この城跡だけは残念ながら保存は不可能であり詳細な記録の保存が必要である。
 


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崩落地を覗き込むと底から噴く風で足がすくむ絶壁であるが、まま子落としの伝承があるのでかつては
まま子落としがある所まで台地がつながっていたのであろう。
 


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日岐城南番所から見た田ノ入城① 

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田ノ入峠から見た田ノ入城① 

以上、田ノ入城①をお送りしてきましたが、城跡伝承地は崩落してしまい確認のしようがありませんでした。

もしこの場が城跡であるとすれば、池田町滝沢から生坂村へ抜けるこの田ノ峠を抑える役目と生坂方面の

監視の役目を帯びていたものと思われるが、明科方面が(現状では)見えないのが気にかかるところである。

次回紹介する、城跡②とされる所はこの①では見えない明科方面が眼下に見えるところにあり、①の見えない

部分をカバーできる位置にある所も気になる所である。



~参考文献~

池田町誌     (池田町誌編纂委員会   平成4年)

信濃池田町史話  (仁科 宗一郎      1964年)

山城探訪     (宮坂 武男       平成10年)



田ノ入城①の位置
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  1. 2012/08/18(土) 17:14:13|
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池田町  白駒城と登波離橋の伝説

白駒城を紹介してきたのでこの伝説を紹介したいと思います。

登波離橋の伝説は、池田町会染にある白駒城と登波離橋に関係する伝説です。



池田町         白駒城と登波離橋の伝説

昔、白駒の城主に樋口行時というものがあった。

米持氏の娘 ふじ を正妻として幸せな日々を送っていたが子が生まれなかった為に、

側室に家臣清野勝左衛門の娘 きよ を迎えて女の子を産ませた。

その為、正妻の ふじ と側室の きよ はお互いに憎しみ合うようになっていった。

正応4年4月(1291)行時は花見の催しその帰り、きよ はこの時とばかりに ふじ

登波離橋のたもとに誘い出した。


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登波離橋のたもとにある登波離橋伝説が書かれている説明板。

ふじ も きよ の企みを事前に気付いていたので、こっそりと きよ と自分の着物の袂を十針

ほど縫い合わせておきました。

袂を縫い合わせてあることを知らない きよ は ふじ を登波離橋の中ほどまで誘いだした時、

きよ は ふじ の背中を突き橋から落としてしまった、しかし、着物の袂を縫い合わせてあった為、

きよ も ふじ と一緒に谷底に落ちて死んでしまった。


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現在の登波離橋。

我にかえった行時ははじめて女の貞節を知り、その死をいたく悲しんで葬儀を済ませると物見の城へ籠り

きよとふじの冥福を祈っていた。


toharibasto7.jpg

登波離橋からの眺め(断崖絶壁なのがわかる)

その後、二人の霊が行時の夢枕に立ち「妾共二人は、一身二頭の蛇となって行くべき所へも行き得ず迷いに

迷っている」との告げがあった。

行時は深く心を痛め、物見の城に隠居して念仏三昧の日々を送ったが、翌年城を去り法衣をまとい諸国行脚の

旅にでた。たまたま、善光寺に詣で、大僧正の諭しを受け行知法師と名を改め再び白駒へ帰って、長者ヶ池の

ほとりに草庵を結び妬張山相道寺と名付けた。


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長者ヶ池を見る

この堂に籠って阿弥陀如来と地蔵菩薩の像を彫り、只ひたすら二人の冥福を祈り続けていたが、老齢のため

長老の伝三法師に後を譲り、ここに老後を養っていたが、七十五歳で行時はこの世を去った。

建武二年七月十五日(1335)頃といわれている。


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現在の長者ヶ池観音周辺が相道寺跡の伝承地となっている。

その後、延文五年登波離橋の架け替えが行われた時、橋の南方岩上の松の古木に一身二頭の蛇が現れ工事のなど

人々を驚かせた。早速、寺方を招き橋の上で大般若経を読誦して両女の供養を行った。

また、登波離橋周辺には一根二幹の松、双体の竹など不審な霊異の噂が巷に流れたという。


二本松(一根二幹の松)  
登波離橋後方の尾根先端部には二本松という一根二幹の松があったが、松くい虫の為、平成19年に伐採された。

この場所が樋口行時が花見を開いた場所であったと思われ。説明板には「白駒城主の野点のお茶場」とある。


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説明板の写真(昭和14年頃)

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説明板の写真(平成17年頃)

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現在(平成24年8月)


以上、白駒城に関係する登波離橋伝説を伝説地と共にお送りしてきましたがいかがだったでしょうか?

このような城跡に関係する伝説は各地にあるのでこれからもお送りしていきたいと思います。



~参考文献~

池田町誌        (池田町誌編纂委員会   平成4年)

写真が語る池田町    (池田町教育委員会    昭和60年)

池田ものがたり     (池田町教育委員会    平成24年)
  1. 2012/08/16(木) 22:02:10|
  2. 伝説
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池田町  長者ヶ池屋敷

所在地・・・・池田町会染花見                                訪城時間・・・・0分

別 名・・・・白駒城家老屋敷                                危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・登波離橋・長者ヶ池



                  ~長者ヶ池屋敷の歴史~

 「池田町の遺跡」の長者が池居館跡の項には、

東西30m・南北50m白駒山城跡のある山麓にあり、すぐ近くに水源がある。

出土物として、白磁(椀の破片)・擂鉢・内耳鍋の破片

伝承では相道寺の跡というが、特に寺跡の証拠もないので一応居館跡としておく。とある。

しかし、 「信濃池田町史話」 の白駒城の項では、

野間ののすっと山の、この城の牢屋の跡、長者屋敷という白駒城家老の屋敷跡、長者が池という城の用水池跡

が伝えられている。とあり長者が池周辺に白駒城の家老の屋敷があったことを伝えている。

ついでに・・・・・

池田町の「信濃いけだかるた」というのがあり、そのかるたの「ち」は「長者池白駒城の家老邸」であり、

相道寺から登波離橋へ山頂近く、微かに池の伝承が残っていた。

探索の末、700年前にさかのぼる白駒城の家老邸とされた付近に、泉の湧き出しと池の跡が現れた。

地元の人々を中心に、有志は付近に観音堂を建て、(後略)。とある。



              ~長者ヶ池屋敷の現状~

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屋敷の近くにある長者池観音。
屋敷は現在、この観音堂の裏にあり林になっている。


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観音堂にある観音堂にかんする縁記が記されていて、白駒城と登波離橋の歴史が刻まれている

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屋敷跡とされる場所は白駒城外郭から伸びてきた尾根の窪み(弛みかも)のような場所にあり
一方以外を尾根に囲まれた位置にある。


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周囲にはマウンド状のような高まりがある。

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屋敷跡にあった腐って倒れてしまった標柱。

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この尾根の窪みにある平坦地が屋敷跡と思われるが周囲は尾根の傾斜があるのみで
土塁や堀は見られない


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屋敷跡は車道開設により一部破壊を受けている可能性もあるが、たぶん元から防御施設は無かったであろう。

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城跡遠望


長者が池屋敷はいかがでいたか?。。。。。。っていっても何も見るべきものは無いですけどね (>_<) 一応、居館伝承地として記載しておきます。

なぜこの屋敷は、家老の屋敷の伝承なのでしょうか?

本当ならこの場所は城主の居館跡の伝承の方が有りがちな気がするんですが。。。。

白駒城には城主はおらずに家老が城代としてこの城を守っていてここに居館を持っていたって云うことになるんで

しょうかね~。それとも城主は城内にいたということでしょうか?

周辺の池田町の城にはおおむね居館の伝承地があるのにこの白駒城には家老屋敷のみで城主の居館伝承地がない

のが気になる所ですが。。。。



次回は、白駒城に関係する「登波離橋伝説」をお送りしたいとおもいます。

~参考文献~

池田町誌     (池田町誌編纂委員会     平成4年)

信濃池田町史話  (仁科 宗一郎        1964年)
  
  1. 2012/08/14(火) 21:46:09|
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池田町  白駒城②

白熊???? 
じゃなくて。。。白駒城の第2回目を始めたいと思います。


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本郭周辺

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本郭の斜面②側には、腰郭が1~2段築かれている

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腰郭の間には、このような虎口を思わせる窪みが見られる。
「池田町誌」の白駒城実測図にはここを「大手」と記載されている。


 ② 馬場

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本郭下には、馬場と称されている細尾根に囲まれる窪地がある

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本郭の高まりと小山のような高まりに挟まれて昼間なのに薄暗い場所である。
ここは馬場跡と伝承されているようであるが、馬を走らせるほど広い場所ではないので、小屋掛け場所か厩などが
あったのではないだろうか。


sirokomasiro18.jpg

この高まりがあまりにも薄っぺらいのでもしかしたら、この小山と本郭の高まりは築城以前は一つの山で
城を築くにあったって造成した可能性は。。。。。。無いかな?


sirokomasiro31.jpg

図を見てもらえば分かるが、②の馬場跡には端の方に写真のような堀?虎口?とも見える窪みがある。
本郭の虎口状の窪みとこの窪みの位置関係を見るとここがこの城の大手と見ることが出来るのではないだろうか?
(この窪みを下って行くと登波離橋方面になり、確か日岐氏と小笠原氏との戦いの時に登波離橋で戦いが行われた記事があったのでその可能性も捨てきれないのでは。。。。?)
町誌の実測図にはここから道が出ていることが記載されている。


 ③堀2 

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馬場跡とされる郭の裏にある小山から続く尾根には二本の堀切状の窪地が確認出来る。
ここが一本目であるが上幅が広くこれを堀切と見てよいのか、ただの尾根の窪みと見るのか迷う所であるが
ここに堀切は欲しい所ではある。


sirokomasiro41.jpg

二本目は、尾根の上では窪みが確認出来ないが、側面に写真のような窪みが見られる。
これら二本の窪みを堀切が欲しい場所にあるからこれは堀切だと断定して良いのか素人には判断できない所である。


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その先は、尾根がダラダラと続いて先端部が少し高まりとなって終わっている。
この高まりが物見台であったことも考えられる。


 ④郭? 

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この現在きれいに整備され公園のようになっている場所である。
この部分には「池田町誌」の白駒城実測図の図面に「馬入」「馬道」の記載と共に郭として記載されている。


 ⑤外郭 

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堀①の尾根を車道に分断された尾根先に外郭⑤がある。
外郭とはあるがここが城域であるのならば、城の中で一番尾根の先端にあるので出丸のような存在であったはず
である。


sirokomasiro0.jpg

小高い頂上には、白駒城二の丸の標柱がたっている。。。。?  二の丸って。。?だだ側面には狼煙台とある。

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ほぼ自然地形であり明確な城郭遺構は見られない。
資料によっては堀切があるとの記載があるものがあるが確認は出来なかった


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周囲には、窪みや平場のようなものも見られるが。。。。。自身をもって遺構だとは。。。。言えないな~。

sirokomasiro 8

この部分はのろし山と言われているようなので往古はそのような伝承があったのであろう。

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白駒城遠望

池田町内の城跡の中では、伝承・口碑が残っているほうなので大切にしたい城跡である。



PS;池田町誌には、白熊城と白駒城は同じ城とされ紹介されていますが、信濃池田町史話には、別の城として紹介されています。

所在地としては、「筑摩安曇古城開基」では、池田村となっており、「白熊の城という是は池田殿の家臣白熊左衛

門尉勝盛の居城なり」とあり、「北安曇郡誌」では渋田見が所在地となっていて「小笠原の臣 岩波新左衛門

二百五十間十三騎の将としてこれに拠る」とある。

一応、気になったので追記しておく。



~参考文献~

生坂村誌     (生坂村誌刊行会    平成9年)

池田町誌     (池田町誌編纂委員会  平成4年)

池田町の遺跡   (池田町教育委員会   1994年)

信濃池田町史話  (仁科 宗一郎     昭和39年)

山城探訪     (宮坂 武男      平成10年
 
  1. 2012/08/11(土) 04:34:41|
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池田町  白駒城①

所在地・・・・池田町会染                                 訪城時間・・・・0分

別 名・・・・白駒の城・白駒山城・白熊城                            危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・登波離橋



                  ~白駒城の歴史~

 「信府統記」 には、

「(前略)(源)義重ノ息ノ内一人宇留賀殿ト称ス又犬養ノ家へ養子トナリシ人アリ、即此宇留賀殿二ヤ別人二ヤ

俄二シレス手塚太郎カ子ヲ三郎兵衛ト云フ白駒ト云フ所ノ城二置ケリ(後略)」

とあり、白駒城主を手塚太郎の子 三郎兵衛であるとしている。


また、 「池田町誌」 の白駒城址の項には、

「本村(池田町村)より東三十二町の距離のあたりにあり、池田山白駒ノ城址、東西十四間・南北八間なるあり。

城主詳らかならずといえども袖山上野介の守る所なりと、里人の口碑に伝う。

其年暦に至りては更に知るべきなし。」とある。


さらに詳しく伝承などが書かれている資料に 「信濃池田町史話」 というのがあり、

その中に白駒城の項がありそれによると、

池田町に残されている城では白駒城が一番古い城で、この城が築かれたのは鎌倉時代と考えられている。

妬割の伝説で有名な樋口行時、兼時とも言われていて後に袖山上野介という武士が居たという言い伝えがある。

北安曇郡誌には、「鎌倉時代 仁科義重に臣樋口兼時の拠る所なりという」とある。

この仁科義重が鬼無里の安吹屋へ落ち延びた時の家臣に樋口次郎・手塚の太郎・山田次郎などがあり、この内の

手塚の太郎の子に三郎兵衛という人があって、この人に白駒の城を下されたということが安曇開基という資料に

書かれている。

白駒城主をまとめると、樋口行時(兼時・行晴とも言われている)、手塚三郎兵衛後に、袖山上野介がなっていた

ことが分かる。

廃城の時期は、天文22年安曇郡、筑摩郡が武田領なった時との記録があるとしている。

ただ、天正10年(1582)の小笠原氏による日岐攻めの時の「生坂村誌」の記事に、

7月9日には小笠原出雲守頼貞や百束氏の援軍が穂高へ行き、穂高にいた古厩因幡守盛勝、渋田見源助ら旧仁科衆

の勢力と共に軍略を練り、西口の池田から中山城・白駒城などを攻めたとある。

そうなると最後の城主は袖山上野介で天正10年に小笠原氏と戦いこの時に白駒城は落城し廃城となったと考えられ

るのではないだろうか。


しつこいようですが・・・・・

池田町誌」記載の池田町上原卓郎家文書の日岐村の項に、

「(前略)西方、白駒之城と言、袖山上野介ト言人居住之由、(丸山)肥後守隠居城とも説有之、(後略)」

ともあり丸山肥後守の隠居城という説も載せている。



                 ~白駒城の現状~

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いつもながらの微妙な図ですが理解していただけたらと思います。

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道路脇にある白駒城のことをうたった俳句の碑を見る。

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城跡を破壊して通過している道路から、本郭下郭と堀①がある城域を見る。

堀①

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堀①を見る。
現状は道路により外郭がある尾根と分断されているが、道路建設以前は尾根が続いていたので外郭と城中心部とを
区切る必要があり、その為に掘られた堀切であったと思われる。
規模的に小さく深さは1m程度である。


土取跡

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本郭下郭には、この陶器を作る為に土を取った堀状の溝があり、看板が無ければ堀と間違えてしまう。
このように城跡では、城跡の遺構か、後世の土取や木を落とした跡や自然の荒れなど判断に悩むことが多い。


本郭下郭

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 ①本郭下にある郭である。
現在見る限りでは、郭内は凹凸があり削平が甘く、ほぼ自然地形である。
ただ、間伐?の為の倒木が表面を覆っているし、土取跡などもある為、後世にいじられている可能性もあるが。


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間伐され放置された倒木に覆われた郭と後方に①本郭の高まりを見る。
この頃、城跡に行くと良く見られる光景で間伐をしたまま切った木を放置してしまうことが多い。
その為に城跡の詳細の観察が困難になってしまっている。


 ①本郭 

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 手作りの城跡の標柱がありがたいですね。
土地の方が城跡の存在を理解して下さっている証拠です。
 


sirokomasiro61.jpg

本郭はきれいに削平されているが土塁は見られない。

今回は、ここまで~す。
あまり長すぎると見るのも疲れますからね!

次回は、本郭周辺から紹介していきたいと思いますのでお楽しみに!
  1. 2012/08/09(木) 04:09:06|
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生坂村  中山城②

写真が多くてウンザリしてる方も。。。興味を持って見ていてくれている方も。。。。

中山城の第2回が始まりますよ~。 !(^^)!


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こいつを参考にみてやってくださいまし~。

 ③本郭・・・・の続き。 

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本郭にある中山神社ですが。。。写真右に見える土盛。。。これが難題なんです。

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跡マニアとしては土塁があるとテンションが上がるんですが。。。。
池田町の遺跡という資料では本郭は神社の造成によって原型を留めていないとある。。。
よ~く見ると下の写真の土盛は神社の形に削られていることがわかるし、舞台裏の土盛の高さとも同じ位である。
やはり神社造成の時の削り残しという教育委員会の言うことが正しいと思うのだがいかがだろうか。。?


 ④二の郭? 

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本郭の神社裏から虎口のような通路が二の郭④に通じている。 

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 ③本郭から見下ろした④二の郭である。
④の二の郭は城内二番目の広さで三角形をしたきれいな削平地となっている。


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 ④二の郭から本郭切岸を見る。
やはり①の郭と同じように切岸があまく造られている。 


 ⑤二の郭下にある郭 

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 ④の二の郭の下にもう一つ郭があった痕跡があるが、車道により削られていて細長くなってしまっている。 

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 ⑤の郭を下から見上げる。半分くらいは削られているかな。 

 その他の写真 

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 古い石仏と中山城 

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 尾根の上を通過し城跡も削ってしまっている車道。
かつてはこの車道もただの尾根道であり、この中山城主もこの尾根道を通っていたようである。
尾根上に城主が休憩をしたと伝えられる茶屋峰という場所がある。
 


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城址から見る明科方面

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城跡東側斜面下には、畑などが広がっており、平地なども見られる。
池田町の遺跡地図では、このあたりまで中山城の範囲となっているので、このあたりに居館などを
想定しているのであろうか。



以上、中山城を隅々までお送りしてきましたが、いかがだったでしょうか。

感じとしては、これからお送りしていく予定の池田町の城跡の多くに見られる形で、堀が見られず、

切岸が甘い防御意識が低いあくまで物見の城といったものである。

なぜ、池田町の城はこのようなものが多いのか?

中山加賀守のように歴史にやっと名が残る程度の土豪が多く力が無い為に築城技術も無かったのであろうか。

これから池田町を見ていく過程でわかっていければいいと思います。 お楽しみに!

PS..中山城は次に紹介する白駒城と共に日岐氏の支城とされ日岐城の搦め手方面を守っていた。
(書き忘れちゃった (*^^)v )
  1. 2012/08/07(火) 03:41:21|
  2. 生坂村
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生坂村  中山城①

所在地・・・・生坂村長谷久保                              訪城時間・・・・0分

別 名・・・・北山古城・城峯                               危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・中山神社



                 ~中山城の歴史~

「生坂村誌」によると、

長谷久保の山頂、標高780mで、中山神社の境内となっており本郭は社殿と前庭となっている。

東西50m・南北33mで社殿の西南側に土塁と思われる跡が残っている。

北側の帯郭と思われる所は、祭りの山車を引く道となっている。空堀は確認できない。

「信府統記」に「中山城 本城の平東西十間、南北四間城主知レズ」とある。

城主は中山加賀守棟形と伝えられる。

東北尾根続きに茶屋峰があり、城主がお茶を飲み休んだ所と云われており下方に井戸がある。

南にノゾキ・城日向・こや畑の地名がある。

本城からの眺望は良く、北山城と万平、こや城との連絡的な物見台であろう。とある。

また「池田町誌」記載の資料では、北山古城地として。。。

城峯ト申(す)所、古城の由二候得ども城とも不知、本村(北山村)より午方二十町程。

(里老、中山城と言い伝える。)とある。

資料に出てくる中山加賀守については、広津法道の三社神社境内には、嘉吉年間(1441~1443)中山加賀守

勧誘の木柱がある。また、中山加賀守一族の守り本尊と言い伝える毘沙門天像が栂の尾にあるという。

城跡にある中山神社も中山加賀守の勧誘と伝えられる。



                  ~城跡の現状~

nakayamasiro.jpg

いつもながらの成長しない図ですが。。。 (;一_一)  参考にしてご覧ください。

 ①本郭南側の郭 

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ikusakanakayama4.jpg

郭①から見た本郭
郭①は削平が甘くこれが城内に入るのかは疑問である。
ただ、この場所を祭りの山車が通っていたようなので改変があるかもしれないが。。。
本郭の切岸もあまくこちらからの防御意識も薄いように見える。


 ②帯郭(山車の通り道跡) 

ikusakanakayama2.jpg

郭①から見た②の帯郭の形状
きれいな郭の形状となっているが、城の物としては余りにも残りが良すぎる気がするが。。。。
山車を通していた時に帯郭をいじっているのであろうか。


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郭①側の本郭切岸の甘さに比べ、②の帯郭側の本郭切岸は明確になっていてこのあたりはかなり改変がある
ものと思われる。(そう思う根拠としては。。。基本的に池田町にある城跡は切岸が甘くこのように明確に
残っているものは渋田見城・中島城くらいなものか。。)


 ③本郭(中山神社境内) 

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車道から本郭である中山神社境内への入り口には立派な城址碑が建てられている。
また、周辺の集落は過疎化で廃墟が目立つのに、鳥居が立派で境内もきれいにされており周りとの隔たりを感じる。


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本郭にある神社の舞台を見る。

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この舞台の裏には土塁といわれている土盛が残る。
(ほとんどの資料ではこれを土塁としているが、池田町の遺跡という資料には神社境内造成の為に広く削平
され現状をほとんど残さないようである、とありこの土盛は造成時の削り残しと考えているようである)
 


ikusakanakayama18.jpg

本郭と神社社殿を見る。
池田町の遺跡に記載があるように平地がきれいすぎて明らかに造成がされていることがわかる。
 


今回はここまで、、、、中途半端ですね。。。 (;一_一)

結構好きな場所で何回も通っているのであまりにも気持ちが入ってしまい。。。。。

写真が多くなってしまった。。。。

ま~あ、次回も細かく解説しますよ~  お楽しみに!

~参考文献~ 
 


生坂村誌      (生坂村誌刊行会    平成9年)

山城探訪      (宮坂 武男      平成10年)

池田町の遺跡    (池田町教育委員会   1994年)

池田町誌      (池田町誌編纂委員会  平成4年)
  1. 2012/08/05(日) 23:52:55|
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生坂村  矢殿

所在地・・・・・生坂村下生坂丸山(入山とも。。。)

訪城時間・・・・丸山集落から約2時間くらい(清内路方面からは5㎞くらいとのこと)

訪城目印・・・・廃屋と墓地



              ~矢殿の歴史~

生坂村誌には、

明治六年の切図では矢殿として一二筆で畑がニ反八畝ある。

矢殿は小部落地名として残るが地滑りの為に遺構はわからない。としている。

弓矢の矢を作っていたとの伝承があるようであるが、詳細は不明である。

近くに矢本の屋号の家もあるようだ。



               ~矢殿の現状~

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矢殿は周囲を竹藪に囲まれて、正面(南側)は沢が流れている。
丸山からの道は殿屋敷の湿地帯を通り過ぎ、崩落地を越えたら沢を渡りこの矢殿へたどり着く。
写真のように竹藪に囲まれているので道もあいまいになっており通り過ぎるのに苦労する。
ちなみに周囲にある竹は矢竹とは種類が違う竹である。


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矢殿地籍の平坦地。
かつては土蔵・母屋など大きな建てものがたっていたようである。
現状は藪となっている。 
 


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建物の痕跡としては全体的に崩落してしまい、この柱しかないが規模の大きさはうかがえる。
なにが建っていたのかは分からないが、礎石も確認できた。


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歴史を感じるものとして、かつて牛にひかせて田んぼを耕していたこの器具が残っていた。
矢殿の田んぼは建物がある平地から沢へ下って行った所の沢沿いにあったらしく、現在も痕跡は残っている


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竹藪の中にひっそりと建っている「矢殿家」の墓である。
この矢殿家とは屋号のことであり、ちゃんと書くと矢殿井口家である。
矢殿家は、現在も五月に毎年訪れて墓参りと祭りを行っていて、その為に矢殿周辺と清内路からの道は整備さ
れているのである。

こんな山奥まで墓参りを毎年している矢殿家を自分も含めて現代の人々は見習う必要があると思う。


矢殿地籍を書いてきましたがいかがでしたか?

矢殿が城館跡との証拠はないものの、同じ渓谷に二つの殿屋敷の存在と矢殿の地名、大城存在を考え合わせれば
ここに城館があってもおかしくはないようであるが。。。。
決定づける遺構・資料が存在していないため不明としか言いようがないが城館の候補として記載しておく。



~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会    平成9年)
  1. 2012/08/05(日) 01:45:23|
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生坂村  入山(丸山)殿屋敷

所在地・・・・生坂村下生坂入山(地権者の方はこの場所は丸山であるとおっしゃっていた)

訪城時間・・・丸山集落から1時間から1時間半程度であるが道は崩落により存在しない



訪城目印・・・なし(この地の出身者以外はわからないと思われる)



               ~殿屋敷の歴史~

基本的にはこれに関する歴史を記した資料は今のところ見たことがありません。

資料にっては、矢殿屋敷と記されているが、現地では殿屋敷と矢殿は別のものとして認識されているようである。

何かの資料(忘れてしまいました、すみません)にはこの殿屋敷に丸山氏の配下を置き街道の監視に充てていた

としているものを見た気がするが、詳細は不明である。



               ~殿屋敷の現状~

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(国土地理院 2万5千分の1地図を使用)

iriyamatonoyasiki.jpg

記憶を頼りに書いてみました。(藪が多かった為詳細は不明)

湿地帯・畦道?

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この湿地帯が地権者の方が教えてくれた「殿屋敷」である。
かつてはこの場所に家が建っていららしい。
周囲には電線や電柱の痕跡があり確かに人が居たようであるが、現状は沢の氾濫や地滑りにより湿地帯となり
遺構などは見られない。
ちなみに。。。この地には昭和20年頃には電気が通っていたということである。
写真にある道のような場所は、現在人は余り入っていないので獣によるものと思われる。


田んぼ跡

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居住区(湿地帯)と田んぼの間には土手が造られている

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古い沢を利用したと思われる田んぼの跡が3~4段確認出来る。
この田んぼはかなり狭いもので一家を養うことはできなかったであろう


居住区?

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この場所は、湿地帯と田んぼを挟んで上部に位置し、明らかに切岸状に壁を造って区別している。
(下の居住区が流された跡の居住区であろうかここなら流される心配はない)
  


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細長い広大な平地があり、複数の家屋を建てられたと思われる。
(現在、使用された痕跡は確認できないが、一部に土質の違う黒土が見られた)


古道

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平坦地の上部に一段の高まりを残し道が造られている。
(写真が微妙ですみません)
道は丸山から山の上の尾根上を通っていると思われるが入山方面は崩落のため寸断している。


tonoyasiki266.jpg

殿屋敷を見る。
周囲は崩落が進んでいて道などはわからなくなっていて、斜面などは今も崩落が続いているようであり、
近うちに地形が変わる可能性がある。


入山(丸山)殿屋敷いかがでしたでしょうか?
ただの屋敷跡のレポートでしたがこのような山奥に人が住んでいた。。。という驚きと何故このような
場所に居たのだろうか?という疑問がわく場所でした。

殿屋敷という名が伝わっていることから殿と呼ばれる位の高い人物がいたことは確実であろうが
此処にいた存在意義は何だったのであろうか?

地権者の方の話では、日岐の表街道が災害などで通れない場合は、丸山から入山を通り清内路方面に抜ける道が
裏街道として存在していたとのことなので、この地の人物は裏街道を見張る仕事をしていたと考えられるのでは
なおだろうか。

この殿屋敷は崩落により原型は留めていないので保存のしようがないが、この地が殿屋敷であるという標柱・
説明板などの対策をしないと忘れ去られるのは確実であろう。

現在、周囲の地面にひび割れや崩落痕が見られるので地形が変わる可能性が大である



~参考文献~

生坂村誌 (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士 (丸山 楽雲    平成21年)

*両資料とも、地図に殿屋敷の位置の記載があるのみである。
    
  1. 2012/08/05(日) 00:10:36|
  2. 生坂村
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生坂村  丸山殿屋敷


所在地・・・・生坂下生坂村丸山                         訪城時間・・・・丸山集落から10分

別 名・・・・こうぼうさま               



               ~丸山殿屋敷の歴史~

「生坂村誌」の丸山殿屋敷の項には、

下生坂丸山北方1㎞の地で地滑りの為に地形が変わり、昭和39年約330平方mの畑と

660平方mの原野を残すのみである。

丸山氏発祥の地と伝える。(丸山益延)とある。

また、「信濃古武士」には、

日岐大城城主丸山氏は、桓武平姓仁科氏で、仁科盛忠の弟、盛光を日岐六郷に封じ、

丸山地籍に居館して丸山氏を称す。とある。

この二つの資料を合わせると、丸山地籍の殿屋敷は仁科氏から分かれた丸山氏が最初に居館を

築いた場所である。ということになり、丸山地籍の伝承の中に、平家の落人伝説があり、

仁科氏も平家とされていること、また、丸山の地が山々に囲まれていていかにも隠れ住む場所

というような立地などを考えると仁科の一族が戦いに敗れてこの丸山に落ちてきて丸山氏を

名乗ったというのは想像出来そうであるが。。。。

また、「東筑摩郡誌」の丸山氏ノ邸址の項に、

生坂村字丸山  日岐大城の南、二十町許に殿屋敷と称し約百坪の平地あり。

口碑に往昔 丸山肥後守が居館のありし所なりといふ。ともある。



                ~殿屋敷の現状~

maruyamachizu.jpg

(国土地理院 2万5千分の1地図使用)

maruyama5.jpg

丸山殿屋敷を見る。
殿屋敷は訪牧場跡(以前は畑)の急斜面に所在し、現在、遺構の確認は出来ない。
ただ、説明にあるように崩落により遺構が消滅しその斜面を利用して畑や牧場を造ったとも考えられる。 


maruyamatonoyasiki2.jpg

訪牧場跡にポツンと立つ木がある、ここ周辺が丸山殿屋敷である。
丸山の集落があった頃は、この木ではなく一本の松が立っていて麓に祠があったらしい。
集落では「こうぼうさま」と呼んでいたとのことである。
ここが丸山氏発祥の地となるのであろうか? 
 


maruyamatonoyasiki5.jpg

この殿屋敷は、丸山氏発祥の地とされている割に集落はすべて井口氏であり、丸山氏は存在しなかったようだ。
地権者の方に聞いた話では、そのような話は聞いたことがあるが古文書を持っていた一番古かった家が火災に
合いすべての古文書を焼いてしまいこれを裏付けることが出来ないらしい。

関係はないが、この家が火災に合い焼失した時に周りの家は「うちだけ残るのは申し訳ない」ということで
消火をせずに周りの家も焼いてしまった。という話があるらしくこの集落の絆の強さがうかがえる。


maruyamatonyaskii7.jpg

枯れてしまった松の痕跡。祠の痕跡は確認できなかった。
この殿屋敷を訪れて感じたことは、殿屋敷の位置である。
殿屋敷の存在する場所は、丸山集落が上段にあり集落から続く斜面の中段にあることである。
通常、領主であれば逆に集落を見下ろす位置にあってもよさそうなのに逆に見下ろされる位置にあることである。
そう思うと。。。平家の落人伝説である。
この丸山集落の人々がのちに丸山氏を名乗る人を匿っていた。。。。とは考えられないだろうか。
そうであれば集落の人々は井口氏でもいいわけで。。。


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想像では、この後に丸山氏を名乗る人(高貴な)が住んでいた場所は、集落からは見下ろす位置にあるが
周りは山に囲まれさらに集落がある高まりがあるおかげで周囲からは隠れて見えない。
更に三方はこの深い沢に囲まれていて守るには有利な立地である。
その後、この丸山氏を名乗る人が日岐に進出して勢力をもつと、この館があった場所は神聖な場所として
祠が祀られたのではないだろうか?(城跡にもよく祠が祀られることが多い) 


以上、殿屋敷を訪れて感じたことを書いてみました。
あくまで想像・感想なので史実に沿っていないかもしれないが、この地にいてこのように感じたしだいである。

今回はこの集落出身の地権者の方により行くことが出来たが、標柱・説明板などこの地の歴史を表すものが
ないし、あくまで私有地で関係者以外訪れない場所である為、中々伝わることが無いと思われる。
県内によくある山間の廃村と同じでこの場所も忘れられていく存在であることが悔やまれる。

このブログによって少しでも伝えることの手助けになれば幸いであるし、関係者はその努力をしなければいけない
と感じる次第である。
早期の対策が望まれる。

~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士   (丸山 楽雲     平成21年)
  1. 2012/08/04(土) 16:38:55|
  2. 生坂村
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生坂村  丸山集落跡

今回、地権者の方の御好意により丸山地籍へ行くことが出来ました。

一番の目的は生坂村誌にある「丸山殿屋敷」「入山殿屋敷」「矢殿」の城郭地の探索でした。

お付き合いいただいたのは地権者の方と地権者の御友人そして。。。。

ブログ「らんまる攻城戦記」の管理人であられるらんまるさまにお付き合いいただきました。

とても過酷な状況な中、地権者の方、ご友人、らんまるさまにはお付き合いいただき貴重な体験

をさせていただきとても感謝しております。

改めてお礼を言わせていただきます。  ありがとうございました. (●^o^●)  



所在地・・・・・生坂村丸山            

訪問方法・・・・・地権者との交渉が必要(私有地なので必ず許可をとること)

廃村時期・・・・・昭和30年後半から40年前半

現状・・・・畑・藪


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国土地理院2万5千分の1地図使用(横尾峠~丸山集落跡)

 ①横尾峠頂上ゲート 

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横尾峠の頂上部には、ゲートが設けられ関係者以外は入ることが出来ない。
(写真は、ゲートを開けている地権者の方です。)
この生坂村の池沢から丸山までの林道は丸山集落の住人による最後の公共事業で
この林道が完成したのと同時に住人は集落を下り廃村となったとのことです。
 


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峠から下りた集落手前の丘陵地を見る。(地図②)
現在は、玉ねぎの種を採る為の畑が広がっている。
 


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この地からは岩殿山も見える。 

 ③丸山集落跡 

丸山集落は、三方を高い山に囲まれており、通称入山渓谷と呼ばれていて細長い谷間の斜面の中段に存在した。
丸山・入山には平家落人伝説があり、落ちてきて隠れ住むには外界との交流もなくうってつけの場所である。
この事とを裏付けるように丸山集落は自給自足の生活であったらしい。


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丸山集落は牧場開設の為に廃村となったので、家屋などはほぼ取り壊されて存在しないが、二軒のみ確認出来る。 

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この二軒の廃屋は、廃村となった後も村を離れることを良しとしなかったご老人が残ったらしい。
(このご老人は100歳近くまでここに住んでおられたようであるが、二軒とも現在は廃墟となっている)
 


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丸山集落から見る横尾峠 

 牧場跡 

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村を廃村にまでして造った村営の牧場であったが、ブタを肉食獣に襲われたり、採算の悪化などにより
経営が続かず経営者が何回か移ったがやはり続かなかったようで廃業となってしまった。
 


 地図④牧場跡 

maruyama9.jpg

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かつては牛が放牧されていた牧場跡の斜面である。
集落があった頃は渓谷の谷底へ続く傾斜地で段々畑が造られていた。
この段々畑に沿って入山経由込地方面への道が通っていて重要な生活道でもあったようである。
(なお、一番目の目的地である殿屋敷はこの斜面の中段に存在した)
 


 集落跡にある石仏 

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集落内にある神社跡と境内の祠。
現在は神社は倒壊してしまい、基礎部の木のみ残っている。(神社の名前は忘れてしまったとのこと)
 


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丸山集落内の井口氏墓所をみる。
丸山集落の住人はすべて井口氏であり、丸山集落は日岐の丸山氏発祥の地とする説に疑問を持ってしまう。
 


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集落跡の外れにある石仏群をみる。
ここには筆塚や庚申塔などが建てられている。
 


 お気に入りショット 

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かつての放牧地には丈の大きな木は育っておらず大きな木が一本立っている風景はなんかきれいでした。 

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生活の痕跡がうかがえる味噌を炊いた鍋。
人が生活していたんだな~と想像するのも楽しいものです。
かつては丸山集落では映画の観賞会があると近隣の村々から山を越えて180人ほどが集まったほど賑わっていた
という。
現在の景観からはとても想像できないことで、時代の移り変わりを考えさせられた。
 


 集落関連 

maruyama21.jpg

集落から放牧地脇を通っている道が沢筋へ下って行く古道を見る。
この丸山集落は三方を山と沢に囲まれている要害の地であり横尾峠とこの古道を抑えてしまえば
簡単には集落に近付くことはできない。 
伝承にあるような武士が隠れ住むには絶好の場所である。
 


maruyama23.jpg

集落がある台地を囲むように存在する深い沢を見る。
(古道はこの沢を越えて通っている。) 


maruyama24.jpg

入山へ続く峠への斜面にあるかつての段々畑跡をみる。
「なばたけ」地籍である。 


maruyama18.jpg

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丸山集落と入山集落の中間にある峠「おねのこし」(字はわからないとのことである。)
古道はこの峠を越えて入山を通って込地(清内路方面)に抜けている 。
この先の古道は沢の崩落などが進み矢殿までは消滅している。
 


この先は険しい道が続く・・・・(矢殿まで行きました。)
(入山殿屋敷・丸山殿屋敷・矢殿は城跡として後で紹介します。)  


maruyama7.jpg

maruyama8.jpg

丸山から矢殿までは深い沢・崩落地・沼地・竹藪などがあり方向を見失いやすいので安易に入ることはお勧め
しません。
もし、行くのであればこの地に詳しい方の案内や綿密な計画が必要であることを忠告しておきます。
なお、清内路から矢殿まではきれいな道が通っているので行くことは出来ます。
 


丸山集落をお伝えしてきましたがいかがでしたでしょうか?
集落がメインでの訪問ではなかったのであまり詳しく書けませんでしたがこの地に人が住んでいた。。。
その歴史の存在が伝わったらうれしいです。

この訪問(探検?)にご同行いただいた方々また地権者との仲介をして下さった方々には改めてお礼申し上げます。 


~参考文献~

生坂村誌  (生坂村誌刊行会  平成9年)
  
  1. 2012/08/03(金) 17:31:44|
  2. 廃村
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