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長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

生坂村  中山城①

所在地・・・・生坂村長谷久保                              訪城時間・・・・0分

別 名・・・・北山古城・城峯                               危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・中山神社



                 ~中山城の歴史~

「生坂村誌」によると、

長谷久保の山頂、標高780mで、中山神社の境内となっており本郭は社殿と前庭となっている。

東西50m・南北33mで社殿の西南側に土塁と思われる跡が残っている。

北側の帯郭と思われる所は、祭りの山車を引く道となっている。空堀は確認できない。

「信府統記」に「中山城 本城の平東西十間、南北四間城主知レズ」とある。

城主は中山加賀守棟形と伝えられる。

東北尾根続きに茶屋峰があり、城主がお茶を飲み休んだ所と云われており下方に井戸がある。

南にノゾキ・城日向・こや畑の地名がある。

本城からの眺望は良く、北山城と万平、こや城との連絡的な物見台であろう。とある。

また「池田町誌」記載の資料では、北山古城地として。。。

城峯ト申(す)所、古城の由二候得ども城とも不知、本村(北山村)より午方二十町程。

(里老、中山城と言い伝える。)とある。

資料に出てくる中山加賀守については、広津法道の三社神社境内には、嘉吉年間(1441~1443)中山加賀守

勧誘の木柱がある。また、中山加賀守一族の守り本尊と言い伝える毘沙門天像が栂の尾にあるという。

城跡にある中山神社も中山加賀守の勧誘と伝えられる。



                  ~城跡の現状~

nakayamasiro.jpg

いつもながらの成長しない図ですが。。。 (;一_一)  参考にしてご覧ください。

 ①本郭南側の郭 

ikusakanakayama1.jpg

ikusakanakayama4.jpg

郭①から見た本郭
郭①は削平が甘くこれが城内に入るのかは疑問である。
ただ、この場所を祭りの山車が通っていたようなので改変があるかもしれないが。。。
本郭の切岸もあまくこちらからの防御意識も薄いように見える。


 ②帯郭(山車の通り道跡) 

ikusakanakayama2.jpg

郭①から見た②の帯郭の形状
きれいな郭の形状となっているが、城の物としては余りにも残りが良すぎる気がするが。。。。
山車を通していた時に帯郭をいじっているのであろうか。


ikusakanakayama5.jpg

ikusakanakayama7.jpg

郭①側の本郭切岸の甘さに比べ、②の帯郭側の本郭切岸は明確になっていてこのあたりはかなり改変がある
ものと思われる。(そう思う根拠としては。。。基本的に池田町にある城跡は切岸が甘くこのように明確に
残っているものは渋田見城・中島城くらいなものか。。)


 ③本郭(中山神社境内) 

ikusakanakayama21.jpg

車道から本郭である中山神社境内への入り口には立派な城址碑が建てられている。
また、周辺の集落は過疎化で廃墟が目立つのに、鳥居が立派で境内もきれいにされており周りとの隔たりを感じる。


ikusakanakayama11.jpg

本郭にある神社の舞台を見る。

ikusakanakayama8.jpg

この舞台の裏には土塁といわれている土盛が残る。
(ほとんどの資料ではこれを土塁としているが、池田町の遺跡という資料には神社境内造成の為に広く削平
され現状をほとんど残さないようである、とありこの土盛は造成時の削り残しと考えているようである)
 


ikusakanakayama18.jpg

本郭と神社社殿を見る。
池田町の遺跡に記載があるように平地がきれいすぎて明らかに造成がされていることがわかる。
 


今回はここまで、、、、中途半端ですね。。。 (;一_一)

結構好きな場所で何回も通っているのであまりにも気持ちが入ってしまい。。。。。

写真が多くなってしまった。。。。

ま~あ、次回も細かく解説しますよ~  お楽しみに!

~参考文献~ 
 


生坂村誌      (生坂村誌刊行会    平成9年)

山城探訪      (宮坂 武男      平成10年)

池田町の遺跡    (池田町教育委員会   1994年)

池田町誌      (池田町誌編纂委員会  平成4年)
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  1. 2012/08/05(日) 23:52:55|
  2. 生坂村
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生坂村  矢殿

所在地・・・・・生坂村下生坂丸山(入山とも。。。)

訪城時間・・・・丸山集落から約2時間くらい(清内路方面からは5㎞くらいとのこと)

訪城目印・・・・廃屋と墓地



              ~矢殿の歴史~

生坂村誌には、

明治六年の切図では矢殿として一二筆で畑がニ反八畝ある。

矢殿は小部落地名として残るが地滑りの為に遺構はわからない。としている。

弓矢の矢を作っていたとの伝承があるようであるが、詳細は不明である。

近くに矢本の屋号の家もあるようだ。



               ~矢殿の現状~

yatono6.jpg

yaono14.jpg

矢殿は周囲を竹藪に囲まれて、正面(南側)は沢が流れている。
丸山からの道は殿屋敷の湿地帯を通り過ぎ、崩落地を越えたら沢を渡りこの矢殿へたどり着く。
写真のように竹藪に囲まれているので道もあいまいになっており通り過ぎるのに苦労する。
ちなみに周囲にある竹は矢竹とは種類が違う竹である。


yatono2.jpg

yatono16.jpg

矢殿地籍の平坦地。
かつては土蔵・母屋など大きな建てものがたっていたようである。
現状は藪となっている。 
 


yatono7.jpg

yatono9.jpg

yatono11.jpg


建物の痕跡としては全体的に崩落してしまい、この柱しかないが規模の大きさはうかがえる。
なにが建っていたのかは分からないが、礎石も確認できた。


yatono12.jpg

歴史を感じるものとして、かつて牛にひかせて田んぼを耕していたこの器具が残っていた。
矢殿の田んぼは建物がある平地から沢へ下って行った所の沢沿いにあったらしく、現在も痕跡は残っている


yatono1.jpg

竹藪の中にひっそりと建っている「矢殿家」の墓である。
この矢殿家とは屋号のことであり、ちゃんと書くと矢殿井口家である。
矢殿家は、現在も五月に毎年訪れて墓参りと祭りを行っていて、その為に矢殿周辺と清内路からの道は整備さ
れているのである。

こんな山奥まで墓参りを毎年している矢殿家を自分も含めて現代の人々は見習う必要があると思う。


矢殿地籍を書いてきましたがいかがでしたか?

矢殿が城館跡との証拠はないものの、同じ渓谷に二つの殿屋敷の存在と矢殿の地名、大城存在を考え合わせれば
ここに城館があってもおかしくはないようであるが。。。。
決定づける遺構・資料が存在していないため不明としか言いようがないが城館の候補として記載しておく。



~参考文献~

生坂村誌    (生坂村誌刊行会    平成9年)
  1. 2012/08/05(日) 01:45:23|
  2. 生坂村
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生坂村  入山(丸山)殿屋敷

所在地・・・・生坂村下生坂入山(地権者の方はこの場所は丸山であるとおっしゃっていた)

訪城時間・・・丸山集落から1時間から1時間半程度であるが道は崩落により存在しない



訪城目印・・・なし(この地の出身者以外はわからないと思われる)



               ~殿屋敷の歴史~

基本的にはこれに関する歴史を記した資料は今のところ見たことがありません。

資料にっては、矢殿屋敷と記されているが、現地では殿屋敷と矢殿は別のものとして認識されているようである。

何かの資料(忘れてしまいました、すみません)にはこの殿屋敷に丸山氏の配下を置き街道の監視に充てていた

としているものを見た気がするが、詳細は不明である。



               ~殿屋敷の現状~

maruyamachizu.jpg

(国土地理院 2万5千分の1地図を使用)

iriyamatonoyasiki.jpg

記憶を頼りに書いてみました。(藪が多かった為詳細は不明)

湿地帯・畦道?

tonoyasiki227.jpg

tonoyasiki212.jpg

tonoyaski216.jpg

この湿地帯が地権者の方が教えてくれた「殿屋敷」である。
かつてはこの場所に家が建っていららしい。
周囲には電線や電柱の痕跡があり確かに人が居たようであるが、現状は沢の氾濫や地滑りにより湿地帯となり
遺構などは見られない。
ちなみに。。。この地には昭和20年頃には電気が通っていたということである。
写真にある道のような場所は、現在人は余り入っていないので獣によるものと思われる。


田んぼ跡

tonoyasiki211.jpg

居住区(湿地帯)と田んぼの間には土手が造られている

tonoyasiki2345.jpg


tonoyasikii255.jpg

古い沢を利用したと思われる田んぼの跡が3~4段確認出来る。
この田んぼはかなり狭いもので一家を養うことはできなかったであろう


居住区?

tonoyasiki223.jpg

この場所は、湿地帯と田んぼを挟んで上部に位置し、明らかに切岸状に壁を造って区別している。
(下の居住区が流された跡の居住区であろうかここなら流される心配はない)
  


tonoyasiki229.jpg

tonoyaskiki244.jpg

細長い広大な平地があり、複数の家屋を建てられたと思われる。
(現在、使用された痕跡は確認できないが、一部に土質の違う黒土が見られた)


古道

tonoyasiki226.jpg

tonoyasiki233.jpg

平坦地の上部に一段の高まりを残し道が造られている。
(写真が微妙ですみません)
道は丸山から山の上の尾根上を通っていると思われるが入山方面は崩落のため寸断している。


tonoyasiki266.jpg

殿屋敷を見る。
周囲は崩落が進んでいて道などはわからなくなっていて、斜面などは今も崩落が続いているようであり、
近うちに地形が変わる可能性がある。


入山(丸山)殿屋敷いかがでしたでしょうか?
ただの屋敷跡のレポートでしたがこのような山奥に人が住んでいた。。。という驚きと何故このような
場所に居たのだろうか?という疑問がわく場所でした。

殿屋敷という名が伝わっていることから殿と呼ばれる位の高い人物がいたことは確実であろうが
此処にいた存在意義は何だったのであろうか?

地権者の方の話では、日岐の表街道が災害などで通れない場合は、丸山から入山を通り清内路方面に抜ける道が
裏街道として存在していたとのことなので、この地の人物は裏街道を見張る仕事をしていたと考えられるのでは
なおだろうか。

この殿屋敷は崩落により原型は留めていないので保存のしようがないが、この地が殿屋敷であるという標柱・
説明板などの対策をしないと忘れ去られるのは確実であろう。

現在、周囲の地面にひび割れや崩落痕が見られるので地形が変わる可能性が大である



~参考文献~

生坂村誌 (生坂村誌刊行会   平成9年)

信濃古武士 (丸山 楽雲    平成21年)

*両資料とも、地図に殿屋敷の位置の記載があるのみである。
    
  1. 2012/08/05(日) 00:10:36|
  2. 生坂村
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現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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