長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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箕輪町  小式部城

樋口内城郭群?。。。上ノ平城郭群?どちらに所属??? 

所在地・・・・箕輪町北小河内                           訪城時間・・・・60分(林道歩き)

別 名・・・・小式ヶ城・小式賀城・城山                      危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・竹ノ腰公園・無量寺                        訪城日・・・・2010年3月28日


kosikigasiro.jpg
国土地理院2万5千分の1地図使用

                ~小式部城の歴史~

樋口区の東、北小河内区との境界に海抜1120mの小式部城山があり、そこに小式部城が所在している。

この山城は鎌倉時代初期より戦国時代末期に至るまで使用された狼煙台であったと言い伝えられている。しかし、

その築城の経緯について「長野県市町村誌」の「朝日村」の城址には、小式ヶ城は狐ヶ城(辰野町)と共に

大石城主(樋口氏)の物見の城であった。としている。

(大石城は、樋口の内城地籍の近く荒神山の東にあったとされるが詳細不明)

また、「箕輪町誌」では、

上ノ平城における戦時の山城の一つとして築城された。とあり樋口氏関連・上ノ平城関連の二つの説が挙げられて

いる。小式部城についてさらに詳しく書かれているものとして、城跡本郭に昭和8年に樋口区により城跡について

の概略が書かれた石碑が建てられている。


kosikiga33.jpg


この碑文を略して書いてみると。。。。。。

城址の創始は、文治年間に小笠原氏が信濃守に任じられ松尾城と信府(松本)に居城していた時、信府・松尾間の

連絡の為に小笠原氏により築城され、武田氏による伊那侵攻時に武田氏の物となり甲府・伊那間は元より三遠の地

に兵を出してからは杣路峠に狼煙台を設けて連絡する等、天文~天正年間まで約40年間武田氏に利用され、武田氏

滅亡後に自然廃絶していった。と書かれている。


上ノ平城の発掘調査により16世紀の遺物が出土していて武田氏伊那侵攻の時代に時代があうことから、上ノ平城は

武田氏により使用されていたと推測されている。そう考えると。。。

最初、小式部城は樋口内城にいた樋口氏(小笠原氏家臣か?)により近くの狐ヶ城と共に狼煙台・物見の城として

使用されていたものを、武田氏侵攻後に上ノ平城を拠点とした武田氏により周辺の砦と共に上ノ平城の城砦群とし

て整備されたとは考えられないだろうか?



              ~城跡の現状~

kosikiganawabari.jpg

いつもの図面です。。。参考にしてください (-。-)y-゜゜゜

kosikiga1.jpg

無量寺脇の砂防堤防脇の林道を登って行くとこの説明板が林道脇にあるので迷う心配は有りません。
(途中に寺窪砦の入り口があるので先に砦跡を見てからでもいいと思います。) 


kosikiga2.jpg

説明板から尾根上を歩くと城跡のある城山が見えてきます。

kosikiga3.jpg

城の水場があったとされるヨキトギ沢にはこの山の主が居ました。。。 !(^^)!

~ 堀① ~ 

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林道から尾根を歩いてくると最初にこの堀①が現れる。
この堀は、西側はきれいに堀が残っているが東側はほぼ埋まってしまっている。
 


kosikiga6.jpg

堀①西側のきれいに残っている方を見る。
きれいには残っているが浅くなってしまっているが掘の両脇に土塁を備えていて厳重である。
 


kosikiga9.jpg

ほぼ埋まってしまっている堀①の東側。
しかし、本郭側土塁の切岸はきれいで明瞭に残っている
。 


~ ①本郭土塁 ~ 

kosikiga11.jpg

堀①に伴う本郭側土塁を見る。

kosikiga12.jpg

城址碑と土塁を見る。
土塁はこの林道側尾根続き側のみに見られる。
 


~ ①本郭 ~

kosikiga14.jpg

本郭にある新城址碑と古城址碑とのコラボ♪
(説明板といい城址碑といい、この小式部城周辺の城跡には城址碑・説明板が設置されており大切にされているの
が感じられる地域であります。地元の方には感謝しなければいけないですね!) 


kosikiga19.jpg

郭半分程掘られている横掘状の窪み。。。。ここから竪掘として落とされている。 

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上の写真の堀状遺構のすぐ横にこの竪掘状遺構が見られる。
この2本の堀状遺構は何に使用されていたのであろうか?謎。。。。ですね~。
 


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本郭全景
郭内部は凹凸があり、削平があまく大規模な建物は立っていなかったと思われる。


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本郭北西の張り出し部分を見る。
この場所からは辰野市街地方面が見えるので、ここは物見台で大城からの烽火を見てたのであろうか?
 


~ 帯郭 ~

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本郭西側下にある帯郭を見る。
この帯郭は本郭を取り巻くように造られており、南側は堀①へつながっている。
 


kosikiga59.jpg

本郭北側下の帯郭部分を見る。
帯郭は削平と切岸がはっきりしており残りも良い。
 


kosikiga42.jpg

本郭下東側斜面(切岸)にある帯郭から続く犬走り状の段差を見る。

~ 遠望 ~ 

kosikiga5.jpg

城跡遠望

さあ、小式部城はいかがだったでしょうか・・・・
この城は、最初はただの狼煙台として造られ、その後武田氏により改修されたという説がある。
確かに物見台と言うには、堀切・それに伴う土塁・帯郭など手の込んだ築造がなされていて戦国期の改修をうかが
わせる。これをもって武田氏によるものだとはいえないが、下にある城ヶ峯と共に改修され戦国末期まで使用され
たという説はうなずけるものがある。

訪城には整備された林道が通っており、車高が高い車であれば城跡近くまで気軽に行ける高山の城である。
是非、興味を持っていただいた方は訪れてもらいたい城跡である。
(ただし。。。。眺めは悪いですが。。。 (>_<) )



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編    (宮坂 武男          )

樋口区の歴史拾い話      (高井 宗雄      平成16年)

辰野町誌           (辰野町誌刊行委員会  平成2年)

箕輪町誌           (箕輪町誌編纂委員会  昭和61年)

上ノ平城跡発掘調査報告書   (箕輪町教育委員会   平成12年)
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  1. 2012/09/30(日) 16:46:20|
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池田町  鍛冶屋日影集落の詳細

前回まで2回に分けてお送りしてきた鍛冶屋日影陣屋敷山城ですが、麓にある鍛冶屋日影集落が根小屋であった
と言われております。
ただ、現在、3戸という小部落となり歴史が途絶えてしまう前に住民の古老にお話しが聞けたのでここで日影集落
について書いていきたいと思います。

お城の話ではないですが読んでくださいね!



集落の歴史について。。。。  

hikegezinn333.jpg

現在の日影集落(民家の為、正面からは写していません)


「池田町誌」によれば、

慶安3年(1650)~寛政元年(1789)に書かれた「池田組明細帳」によれば、「村より酉(西)方鍛冶屋 

悪所八斗 出水懸り」と記されている。

かじや日影には、天神・雨吹・鍛冶屋・池ノ平の地名がある。「池田組明細帳」にある鍛冶屋・池ノ平は現在

かじや日影村に包含されている。

かじや日影は桐山沢に東面した山腹斜面に立地し、小祠に氏神金山様が祀られ、村の上方に清水地名をもつ飲用・

灌漑用の水源があり、これを導水した水田は昔から早魃の伝承が無い。

稲作に恵まれた11枚の棚田が凹地溝に続き、中には1枚で四畝の大田があった。

背後の山腹に陣屋敷の地名があり、中世ここで烽火を上げた伝承がのこる。

鍛冶屋の名は陣屋敷にかかわる鍛冶の人々の村と考えられ、鍛冶の神金山様を氏神とした古村と推考される。

とあり、かなり古くからある集落であることがわかる。


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現在の集落へは細~い道しかありません 注意してね (;一_一) 

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集落から見た鍛冶屋日影陣屋敷城
集落の背後を守っている感じでてますね~ !(^^)! 


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集落にある唯一の墓地。。。。。多くの墓石がありかつてこの集落にも多くの人がいたんですね。

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墓石の中には古いものやきれいな彫刻?されたものがある。昔は裕福だったのかな~今は3戸しかないけど。。。

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集落の北側に広がる水田地帯です。。。昔ながらの萱葺屋根の農具倉庫があります。
歴史を感じますね。。。


hikaehzinn344.jpg

現在、広大な水田地帯だった場所も現在は。。。。小分けにされた細々な畑になってしまいました。
集落の住民はほとんどの方が高齢者ですからしょうがないですが・・・時代の変化ってやつですかね。
城跡へは、奥の方に見える鉄塔の所から登ります。


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旧水田地帯から見る生坂村方面

~ 集落の氏神  金山様 ~

集落の歴史にもあるようにこの集落に鍛冶屋がいたとあり、集落の古老の話でも、

「この集落に落人が来て、鍛冶屋をやったので鍛冶屋日影という集落になり、金山様の祠はこの

鍛冶屋さんを祀ったものである」と言い伝えられていると教えてくれた。


hikagezinn103.jpg

集落のはずれに祀られている金山様を見る。

hikagezinnyasiki100.jpg

hikagezinn101.jpg

祠が新しくされており今でも大切にされていることがうかがえる。

鍛冶屋日影集落をお送りしてきましたがいかがでしたか?

現在3戸となりその内2戸は高齢者でした。。。。これからこの集落はどうなっていくのでしょうか。。

この陣屋敷・金山様の伝承などが廃れていかないよう多くの努力が必要でしょう。

これからも伝承などを伝える集落などがあればどんどん忘れられないように書いていきたいと思います。


~参考文献~ (集落・陣屋敷城共に)

池田町誌       (池田町編纂委員会    平成4年)

池田町の遺跡     (池田町教育委員会    1994年)

山城探訪       (宮坂 武男      平成11年)
  1. 2012/09/25(火) 21:49:41|
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池田町  鍛冶屋日影陣屋敷山城②

池田町最奥の城!鍛冶屋日影陣屋敷の第2回目を始めま~す! 

kazihikagezinnyasiki.jpg


~ ④の郭 ~

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 ③の郭より見た④の郭
この陣屋敷の中で最高所にある郭で、一番広い場所である。


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城内最大の郭で削平もきれいにされており、重要な場所であったことはわかるが、背後には何の防御施設が無いのが疑問
である。


hikagezinnya33.jpg

この郭の最大の特徴として。。。
背後の防御が無いのに池田町方面から池田町方面に抜ける街道を取り込んでいることである。
通常、城内に街道を取り込む場合は、堀、土塁などで城内を見えないようにすることや、門などで遮断し監視する
ようなことをすることが多いがこの城内を通過している部分については何も見られない。


~ 古道 ~

hikagezinnyasiki77

 ④の郭内を通過した街道は、北側の急斜面沿いと⑤⑥の郭の間を通過している。
この部分の街道は、写真のように浅い窪みのような道となり通過していく。


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その後、生坂方面に抜けた部分は土橋状になって下っていくようになっている。

~ ⑤の郭 ~

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 ⑤の郭を見る (一段上は④の郭)

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こちらの郭はきれいな削平をされており広大である。
この郭と次の⑥の郭が街道に接している。


~ ⑥の郭 ~

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こちらもきれいな切岸が見られるが細長く狭い。
ただこの郭には街道につながる虎口状の入り口が見られる。
後世の物の可能性もあるが、城の遺構とすればこの城に居た人々もこの街道を使用していたことになる。


hikagezinyasiki51.jpg

さあ、鍛冶屋陣屋敷城を細かく見てきましたがいかがでしたでしょうか。

この城は、きれいな切岸・広大な郭・街道。。。。。

感じとして城と言うより名前にある「屋敷」の集まりのようなものにみえる。

まったくの防御意識の無さは物見を兼ねた下にある根小屋の日影集落住民の逃げ込み城だったということは

ないだろうか、これと似たものに筑北村にある不寝見屋敷の舅屋敷地籍がこれに近いように感じる。

この舅屋敷は不寝見屋敷の物見の根小屋とされるが、広大な平地と段々が見られ、数人の物見が住むには広すぎる

もので、陣屋敷に似ている。さらに言うなら不寝見屋敷の舅屋敷にも古い道が張り廻らされている点でも同じで

ある。これらを考えると住民の逃げ込みを想定した、物見の砦。。。。。っていうのはどうでしょうか?

ま~。。。素人考えですのでかる~く読んでください!



次回は。。。。。。鍛冶屋日影集落について。。。。です。

お城ではないですがお楽しみに!



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  1. 2012/09/24(月) 20:36:28|
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池田町  鍛冶屋日影陣屋敷山城①

池田町の城跡で一番見つけるのに苦労し、2つも山を間違えた城跡

所在地・・・・池田町広津鍛冶屋日影                       訪城時間・・・・40分~50分

訪城目印・・・・日影集落から鉄塔24番を目指す                 訪城日・・・2014年4月21日


注意!・・・・日影集落へは、普通乗用車では方向転換する場所が無いので乗り入れないことをお勧めする。

kazihikage1.jpg

鍛冶屋日影集落入り口から見る日影陣屋敷

          ~鍛冶屋日影陣屋敷城の歴史~

「池田町の遺跡」には、

「宇留賀城の小砦とあるが在城者その他不明(信濃戦国時代史)」とある。

また、「池田町誌」には、

「氏神本邑社の氏子である鍛冶屋・池ノ平・栗本・寺沢・本村・太郎・大岩・才光寺・石畑は旧宇留賀村の枝郷

である。」とあり、鍛冶屋は宇留賀領だったことがわかり「信濃戦国時代史」にある宇留賀氏の砦であるというの

もうなずけることである。

また、城跡として「集落の背後の山腹に陣屋敷の地名があり、中世ここで烽火を上げた伝承が残る」とあり、

宇留賀氏最西端の砦として隣の北山城の北山氏との境目の城であったのであろう。



              ~城跡の現状~

kazihikagezinnyasiki.jpg

今回も微妙だな~ (>_<) ちょっとはうまくなってるかな?

hikagezinnya0.jpg

日影集落から鉄塔24号を目指し登る。
鉄塔からきれいな道がついているのでこの道をたどると城跡に着く。
この鉄塔から①の堀状遺構までの間にこの段郭状遺構がある。(山城探訪では畑の跡であると書かれている)


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この段郭状遺構の脇を道が登っているがこの道が尾根の弛みに着く所に道が虎口状になっている部分がある。
この場所は城跡全体を見れば、城外となるのであろうが日影集落が根小屋とされていて、集落から城跡までは
この道しかないので関門として門を構えた可能性もあるのではないだろうか。
そうすると。。。前の段郭は前衛とも考えられるが・・・・城域が広がりすぎるか~(・へ・)
なんでも遺構に見えるのは病気かな?


~ ①堀状遺構 ~

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城域に入る直前にこの不自然なカーブする道跡らしきものがある、現在の道は尾根上をまっすぐ登っていてこの
堀状の場所は通っていない。
人が通った跡があるので道であったと思われるが、この場所だけ何故か堀状になっている


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写真を見ればわかるように城域側は、切岸のようになっていて防御としても使用できると思われるが。。。
このすぐ上が城内となるのでわざと道を堀状カーブとして防御を固めていたのであろうか。
この他には城域に堀は見られないのであるが・・・・?


~ ②の郭 ~

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大手道を登ってくると城内に入る直前にこの虎口状遺構が見られる。
この道は②の郭に入るが脇に一段高く③の郭があり入り口を見下ろすように造られていて入ってくる敵に攻撃が
可能となっている。
 


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 ②の郭の虎口部分を見る。(一段高い場所が③の郭)
③の郭が一段高く櫓台状に高く造られ防備を固めていることがうかがえる。


hikagezinnya19.jpg

zinnyasiki20.jpg

この城跡の特徴として土塁・堀の防御施設は見られず、大規模で鋭い切岸によって防備を固めていることが目立つ
しかも郭は広大である。


~ ③の郭 ~

hikagezinn7778.jpg

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 ③の郭は、②でも書いたように大手虎口を守る為に構えられた郭である。
この郭の先端、大手道を見下ろす場所は一番高くなっており、櫓が建てられ虎口を守っていたと思
われる

hikagezinn11444.jpg

 ③の郭から④の郭を見る。
郭③と④の高低差は3m程度であるが切岸が高く直接登るのは困難である。
この③の郭は細長く狭いので大手虎口を守る為だけに造られた郭であるように見える。



さあ~!!!!
鍛冶屋日陰陣屋敷城の第1回目をお送りしてきましたがいかがでしたでしょうか????

この城は、土塁・堀など多くの城好きが興奮するような物は有りませんが、メリハリの利いた切岸、

広大な郭は絶品ですよ、ただ、郭間の連携が弱いのがたまに傷 。。。どうやって使われたんだろ (-。-)y-゜゜゜

そんな所も考えながら、次回もお楽しみに!!!
  1. 2012/09/22(土) 17:53:04|
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池田町  渋田見氏館

所在地・・・・池田町会染渋田見内堀                         訪城時間・・・・0分

訪城日・・・・2010年5月30日                            訪城目印・・・・大雪渓酒造 



             ~渋田見氏館跡の歴史~

「池田町の遺跡」には、

「ほとんど現状を留めないが、地割、地名等によりわずかにその範囲を知ることが出来る。

渋田見氏の館跡である。」とあり、

「村誌」には

「渋田見耕地の午の方、字内堀と言所にあり。是平地にして、東西四十三間三尺(79m)、南北三十三間(60m)

回字形の城にして今畑なり。東より北へ土手の形、長二十四間(46m)あり。

西の方に、西南へ連り石垣、高五尺(1.5m)、長十八間(33m)現存し、戌亥の角に塚あり、其頂に栝

(びゃくしん)の木一株あり。」と渋田見氏の館跡として書かれている。



               ~館跡の現状~

sibutamiyakata.jpg

goo地図使用
地図内の点線で囲んだ所が渋田見氏の居館跡とされる内堀である。
周囲は現在、宅地・田圃となり遺構は確認できないが、村誌に書かれる塚らしきものは確認出来る。


sibutamisiyakata17.jpg

現在の館跡である。おおむね田圃となっており、奥に枯れた木が塚の上に立っている。

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これが村誌にあった塚ではないかと思われるが・・・・確証はない。
塚の上には祠と枯れた木が立っている。(栝かは確認できなかった)
縄張り的には中途半端な位置にあり、後世の物の可能性もある。
(この近くの土地の持ち主の方は、この場所は昔、松本藩の蔵が立ち並んでいた場所であり、館跡であるとは聞い
たことが無いと言われていたので、もしかしたらその松本藩時代の遺構の可能性も否定できない)


sibutamisiyakata8.jpg

館跡は上記の塚以外確認出来ない。
村誌にある石垣が46mの記載はどうであろう?
池田町の中にある城跡・館跡を見ても石垣どころか石積みすら確認出来ない。しかも、詰の城である渋田見城
ですら発達した遺構が見られるのに石積みは確認出来ない。
記事通りあったとすれば池田町内では最先端の技術であり渋田見氏の力の大きさがわかる遺構となる。
発掘してくんないかな~。。。 (・へ・) 


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館跡から見た詰の城の渋田見城。 

村誌には79×60mの居館と書かれていて、通常、土豪の居館とされるものは50×50mほどとされていて渋田見氏の
居館はこれに比較するとかなり大規模なものになる。
渋田見氏は小笠原さんにかなり優遇されていたんでしょうな。。。。

それにしてもこの館跡といい、滝沢氏館跡・正科館といいなんで平地の館・城は残らないんだろうな~。
全部残ってたらいい研究が出来るのに。。。。。。それとも無いから見つけたくなるのかな?


~参考文献~

池田町誌    (池田町誌編纂委員会    平成4年)

池田町の遺跡  (池田町教育委員会     1994年)




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  1. 2012/09/20(木) 05:08:01|
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池田町  渋田見城②

池田町中一番の遺構を誇る渋田見城の第2回目をお送りします。

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~ ③本郭 ~

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 ②の帯郭から本郭を見上げる。
現在、登山道は写真に見えるようにそのまま斜面を登っている。しかし。。


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 ②の帯郭と本郭の間にはこの犬走り状の細い平場がある。
これを辿ると・・・・


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本郭の南側にある窪み(虎口)に出る。
この遺構も池田町の他の城跡には見られないもので段郭だけの城郭が多い池田町の城郭内では先端技術になるのではないだろうか。
(城内道がたどれるのは渋田見城のみ)


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本郭はきれいに削平されおり、土塁により郭は二つに分けられている。
(以前は桜が植えられており、一族で花見をしていたという。。。。山の持ち主の方の談)


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搦め手尾根側、堀②にある土塁を見る。
尾根続き側に高さ約1m程度の土塁を構築し、堀切と合わせて高さを増し防御を高めている。
この尾根続きを土塁と深い堀切で遮断する技法は小笠原氏に多いとされていてそれらに類似している。
(松本周辺では、伊深城・林小城・塔原城などに見られる)


~ 堀② ~

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尾根続きにある堀②は鋭いV字の堀となり、渋田見城が現役だった頃はこの堀を登るのは不可能だったと思われる。

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堀②を東斜面中腹から見上げる。
この堀②は竪掘として両脇に落とされていてこちらから攻める事をより困難にしている。


~ 遠景 ~

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麓にある美術館から渋田見城山を見上げる。
訪城時は、木が伐採されてすぐだったので城の形がきれいに見えた。


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望遠により①の段郭を見る。

さあ、2回にわたってお送りしてきた渋田見城はいかがだったでしょうか。
池田町内において土塁・堀・虎口・切岸がそろっているのはこの渋田見城だけであり、他の城郭と違い渋田見氏が
慶長まで存続し小笠原氏に従属したことにより近世まで改修されて使用されたことによるものと思われる。
池田町内においてこれほどきれいに残っている城跡は無く、早めの保存・対策が望まれる。


~参考文献~

池田町誌     (池田町誌編纂委員会    平成4年)

山城探訪     (宮坂 武男        平成11年)

信濃池田町史話  (仁科 宗一郎       1964年)



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  1. 2012/09/15(土) 16:30:33|
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池田町  渋田見城①

所在地・・・・池田町会染渋田見                     訪城時間・・・・20分

危険度・・・・★★☆☆☆                       訪城目印・・・・町立美術館クラフトパーク裏山

訪城日・・・・2011年3月27日・5月22日


           ~渋田見城・渋田見氏の歴史~

 「池田町誌」 によると、

渋田見氏は仁科氏の支族で、初め長生寺に入って僧籍となったが、後に故あって長生寺を氏称する。

その初見は天文23年仁科氏は、千国道での関所の通過料を取る権利を持っており、その徴収を長生寺氏に行わせて

いる文書で、弘治2年(1556)8月1日の大町市仁科神明宮棟札には、奉公人長生寺、同仁科四郎三郎の名がある。

弘治2年9月の大町市若一王子神社棟札写には、仁科修理亮盛康、渋田見長生寺盛近、王子宮造営奉公として王子宮

造営奉公として仁科四郎三郎盛冬の名が見えている。

永禄10年(1567)8月の上田市塩田の生島足島神社所蔵の起請文によれば、仁科盛政の親類被官衆として

渋田見源助政長がいる。

天正9年(1581)の伊勢神宮の御師宇治久家の「御祓くばり日記」に「しふたミ(み)主水殿 のし五十本、

上々茶十袋」とあって在地土豪として渋田見氏が在住している。

天正10年7月小笠原貞慶が深志城を回復すると渋田見氏はいち早く降り、以後部将の一人として安曇郡の北部や

筑摩郡北部の平定戦に従っていたようで、8月から始まった日岐城攻略戦に渋田見源助は古厩氏らと共に戦っている。

その後、天正13年~千見城の攻略や防衛に当たっていることが見える。

渋田見源助政長はこの時、かつて上杉景勝の部下であったが、子細あって小笠原氏へ降った有沢善助に対して

上水内郡小川村高府内の仮宛行状を小笠原貞慶の職務代行として出している。

天正18年(1590)小笠原秀政が下総国古河に転封するが、渋田見源助はこれに従わず残留した。

永禄5年(1596)7月1日仁科神明宮所蔵棟札には助成の衆に渋田見源助の名が見えている。

渋田見氏は慶長18年(1613)、小笠原秀政が再度松本城へ入封するとこれに出仕している。


また、「信濃池田町史話」によると、

北安曇郡誌には「渋田見勘解由(かげゆ)之を築く」とあり、筑摩安曇古城開基には「城主は渋田見能登守盛仲

これも池田殿の家人なり」とあって共に渋田見氏としているが、勘解由と盛仲は同族か同一人物かははっきりして

いない。尚渋田見城主については、「小笠原の臣古見但馬三百五十貫を領し十三騎の将としてこれに居る、その後

仁科の臣渋田見助兵衛盛重の守りし所なり」とも記されている。

とにかくこの渋田見城は渋田見氏が築き居城としていたことは間違いが無いと思われる。

渋田見氏の祖は仁科伊勢守長盛といい、その子を渋田見源助正直(政長)と称し、共に渋田見に住んでいたという

記録が見られる。その時代は室町時代末期で永禄4年川中島の戦があり、森の仁科盛政の支族に仁科伊勢守長盛が

あり、この人を別に長生寺長盛とも記録されている。(中略)

弘治2年に仁科神明宮の式年造営の行事があり、この行事の奉公に渋田見盛近があり、この盛近も別に長生寺盛近

と称しており、この子盛たねも渋田見に居たと伝えられている。(後略)とある。


                ~城跡の現状~

sibutamisiro.jpg

この図面に沿って説明していきます。

sibutamisiro19.jpg

渋田見氏の居館跡とされる内堀から背後の沢(美術館裏にある沢)を登ると、大手道と思われる旧登山道がある。

sibutamisiro3.jpg

この大手道は、①の段郭につながっており、城内に入る部分に窪みがあり虎口が構成されていたと思われる。
(現状は、この大手道入り口は森林整備の名の元に破壊されている)


sibutamisiro5.jpg

3月訪問時、南側斜面をこの森林整備の為の道が通され景観を損ねてしまっている。
しかも、図のようにこの道は段郭一番下の郭の一部を破壊してしまっていた。


~ ①段郭 ~

sibutamisiro26.jpg

段郭を多く使用する城郭は古い時代のものとされており、渋田見城も古い時代からの城を改修しながら
使用されてきたものと思われる。


sibutamisiro24.jpg

段郭は切岸がはっきりしないものが多く遠目に見て段々に見える程度でありこのあたりが古さを感じさせる部分である。

sibutamisiro2.jpg

段郭からの眺め。。。。。絶景ですが・・・・木を切ってしまったのでいつまでこの景色が見られるか・・
何年か後には籔かな~ (>_<)


~ 堀・土塁① ~

sibutamisiro44.jpg

段郭を登り切るとこの堀・土塁・切岸が現れる。
池田町では中々見られない遺構であり、他の豪族が没落していく中、慶長まで土豪として生き残った渋田見氏は
この城を改修しながら使用していてこのあたりを新しい技術として取り入れたのであろう。


sibutamisiro31.jpg

sibutamisiro35.jpg

堀は、東側斜面中腹まで竪掘として落とされている。


sibutamisiro22.jpg

この城は東側斜面に防御の重点を置いており、西側斜面は急な為か斜面に段郭は築かれていない。
それとも。。。。。沢を挟んだ隣に居た鵜沼氏に備えていたのだろうか。。。。。?


sibutamisiro32.jpg

sibutamisiro34.jpg

②の帯郭から堀①を見下ろした写真。
撮った時期は違うが、堀と土塁がカーブしていることや、堀の大きさがわかってもらえるだろうか?


~ ②帯郭 ~

sibutamisiro56.jpg

堀①の上にある帯郭を見る。
この郭は本郭を西・南側を囲むように築かれていて規模が大きいのでニの郭の役目を負っていたものと思われる。


sibutamisiro71.jpg

 ②の帯郭から西側斜面にある段郭を見下ろす。
こちらは規模が小さく狭いものなので、柵などを建てていたものではないだろうか。 


長々と書いてしまいましたが次回は本郭周辺をお伝えしたいと思いますのでお楽しみに!
  1. 2012/09/13(木) 10:02:50|
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池田町  小海戸

中島城主居館跡伝承地

所在地・・・・池田町会染中島                              訪城時間・・・・0分

訪城目印・・・・中島神社



                ~小海戸地籍の歴史~

池田町教育委員会発行の「池田町の遺跡」には、

「(前略)この城の大手はおそらく中島神社方向にして、その下方の小海戸地籍が居館跡ならん。」


この小海戸地籍が居館跡という記事はこの文献のみであるが、ブログの基本として城跡+居館跡(伝わっていれ

ば)を探し伝えるのを基本にしているので少しでも記事があれば徹底的に探し出し皆様に伝えていきます。

それがこのブログの一番重要課題と考えます。

ただの田んぼや畑・荒れ地だけかも知れませんがそこにも歴史があった事を想像していただけたら幸いです。



             ~小海戸の現状~

中島小海戸

国土地理院2万5千分の1地図使用。

この小海戸地籍は、地元の方にはあまり地名としても伝わっていないようで多くの方に聞いて回ったがわからなかった。
ただ、2人の方からは話を聞くことが出来た。
なので多くの方の意見としてここがそうだと確定は出来ないが少数の方の話の伝承地として紹介する。


nakazimakokaito11.jpg

小海戸地籍は、中島城から南西400mほどの所に所在し、現在は圃場整備が行われたようであり遺構は消滅している。
この場所は、たまたまこの田んぼの持ち主の方に話を聞くことが出来特定することが出来た。 


nakazimakokaito4.jpg

nakazimakokaito6.jpg

nakazimakokaito2.jpg

ただの田んぼの写真ですみません。。。。(>_<)
この地は西向きの斜面となっており居住地としては日当たりがよく最適な場所と言える。

この小海戸地籍の話を聞かせていただいたご婦人は、義父から聞いた話として、
「昔、このあたりは海でせんしゅう(漢字不明)松というものがあり、舟をつないだ」という伝承があると
教えていただいた。
この話は、この地区の方は結構知っているようで近年までこの松は残っていたという。(城と関係無いけどね!) 


nakazimakokaito8.jpg

推定小海戸居館跡から中島城跡を見る。

追記・・・・・・

資料をあさっていたら、違うことを書いた資料を見てしまった。。。。それは、「信濃池田町史話」だ。。。

これには、

「中島部落のニ、三丁という辺りの谷間にも、城跡と呼ばれている別な広い地域があって現在は杉や檜の林に包ま

れておりちょうど三社神社(中島神社?)の北に当たる谷間で、何百年かたっていると思われる二本の松が立って

いて、人の手を加えたと思われる段々の複雑な地形がある。この松の根元には二基の碑石があり、一基が半から

折れていて文字の全体は分からないが、「・・・禅男位」は読め、もう一基には「皈元理勝禅定尼位」と書かれ、

元文五年十一月四日と書かれており禅宗門夫婦の墓石と思われる。ここが中島城主の居館跡と思われる。」

とある。


この推定地として調べてみたところは・・・・

nakazimakokaito44.jpg

中島神社の北側下にある段郭状になっている所である。

nakazimakokaito33.jpg

nakazimakokaito556.jpg

前記の資料はここに居館があったと推定しているようであるが、現状は広大な平地や段差があるが、写真のように

古い墓石があり、かつてここに寺院があったのではないかと推定される。(遺跡地図には記載なし)

しかもこの場所は尾根に南側と北側が挟まれていて視界が利かないし、日当たりも悪く居館には適さないような

場よである。

これらを考えるとやはり小海戸地籍の方が居館に向いている場所であると言えると思われる。


この「信濃池田町史話」には中島氏のことも詳しく書かれている。参考までに略しながら記載する。

中島城は池田殿(池田次郎盛国のことと思われる)の家臣中島龍弥国任という人が池田殿の命により築いたと

言われています。(中略)また北安曇郡誌には中島内膳これに拠るとも記されている。

日本歴史大辞典に尾張蟹江の城主小笠原貞興の曾孫四郎左衛門尉は父豊後守宗近が信濃中島を領したので中島氏を

称した。四郎左衛門尉は、深志城主小笠原長時の家中であったが、大永年中病気の為に京都に出て風流を友とした

云々とあり、(後略)」とある。

この信濃池田町史話には中島氏の名前について、四代目内膳宗忠・五代太郎左衛門宗徳とあり中島氏は代々内膳を

称したようである。

内容が長かったので省略した部分が多いので詳しく知りたい方は「信濃池田町史話」をご覧下さい。



~参考文献~

池田町誌      (池田町誌編纂委員会   平成4年)

信濃池田町史話   (仁科 宗一郎      1964年)
  1. 2012/09/10(月) 19:52:39|
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池田町 中島城

所在地・・・・池田町会染中島                            訪城時間・・・・5分

危険度・・・・★☆☆☆☆                        訪城目印・・・・中島神社・林道中島支線
  


              ~中島城の歴史~     

「池田町の遺跡」には、

山頂を削平して細長い主郭を構える他、北側に副郭・帯郭、東側と西側に段郭あり、さらに西南訪の尾根に段郭を

2つ構える。西方の尾根先に古城山と呼ばれる地点があるも、構えの状態不明。

その下方の帯郭状の所も当時のものとは言い難い。この城の大手はおそらく中島神社方向にして、その下方の

小海戸地籍が居館跡ならん。中島なにがしの拠る所というも確証なし。とある。

「信府統記」の中島山古城地の項では、

「中島村ヨリ卯ノ方八町、本城ノ平東西四間・南北十一間 城主知レズ 」となっている。

「池田村誌」の中島古城墟の項では、

中島耕地の卯の方、字(あざ)城山と言にあり。(中略)当時秋葉の小社あり。外に堀等の形もなし。

古昔、中島内膳と言う者爰(ここ)に住すとかや。里老の言伝にて事情不詳。とあり城主の名が書かれている。

「池田町誌」に中島氏について、中島氏は池田氏の分かれで、中島村に住んだと伝えられているが、資料的

裏付は今のところ見当たらない。とされている。

地元の方に聞いた話では、お嫁に来た時に義理の父親から聞いた話として、

「中島城は城を造ろうとしたが、平地を造っただけで放棄されてしまった。」という伝承があると聞かされたという。
この伝承は、中世の城を知らない人が中島城を訪れた時に切岸と郭しか無かったのでそのように考えたというのが

本当の所ではないだろうか。実際、写真を見てもらえば分かるが池田町の城跡の中では城としての体裁を整えて

いる方だと感じるからであり、土豪の城としてはこの程度で十分であったと思われる。 



               ~城跡の現状~

nakzimasio.jpg

いつもながらの図面で説明していきます。。。!

nakazimasiro3.jpg

中島城へは、中島神社から続く林道中島支線へ入って行きます。

nakazimasiro1.jpg

中島支線の中間あたりから斜面を直登します。(道はありませんがすぐに鉄塔72号が見えるのでわかりやすいです) 

nakazimasiro55.jpg

林道脇にはこのもっとも恐れる看板がありました。。。(>_<) 
一人でしたがビクビクしながらも好奇心には勝てませんでした。。。病気ですな!


 ~ ①東尾根の郭 ~ 

nakazimasiro11.jpg

林道から斜面をよじ登り鉄塔をすぎると、あきらかに人工的な段が出迎えてくれる。
ここですでにテンションはup! 熊のことを忘れて走ってました。。。。。(-_-;) 


nakazimasiro13.jpg

きれいな削平がされており、郭の形も明確で美しい・・・・・!(^^)! 

~ ②本郭下の帯郭 ~ 

nakazimasiro21.jpg

東尾根①の郭を登るとこのため息が出るほどきれいな本郭切岸と帯郭が見えてくる。

nakazimasiro12.jpg

郭①から登るとこの部分の平場にでる。
ここも帯郭の一部であるが良く見ると平場が窪んでいるように見える。
この帯郭が横掘であれば池田町を代表するような遺構の城であったろうが・・・・
こんな小さな城にあるわけないか。。。。。 


nakazimasiro25.jpg

本郭西側下にある帯郭と本郭切岸を見る。

~ ③本郭 ~ 

nakazimasiro6.jpg

本郭には土塁は見られず、中央部に緩やかな段差が見られるだけである。

nakazimasiro7.jpg

本郭の削平は丁寧でありこの部分に小屋掛けなどをしていたものと思われる。 
小さな小屋程度であれば二軒くらいは建つであろう。
 


~ ④西尾根の郭 ~

nakazimasiro37.jpg

本郭から西尾根を見下ろす。
緩やかな下りで、このまま下って行けば中島神社へ着く。
池田町の遺跡では神社の方が大手としているので、この西尾根を登ってくるのが大手であったと思われる。
 


nakazimasiro31.jpg

本郭斜面から西尾根にある郭をみる。

nakazimasiro33.jpg

この郭も東尾根と同じくきれいに郭の輪郭が残っている。
ただ、この西尾根が大手だとすると郭一つしか無く、何故かこの西尾根には帯郭が回り切っていないので
大手の防御としては弱いのである。
そう考えるとこの城は東側に備えている感じになるが。。。。郭一つの違いだし。。。。
搦め手を守る為に尾根に一つ追加しておくか・・・って感じで造っちゃったのかな?


nakazimasiro4.jpg

中島城遠望

中島城は、地元では築城途中で放棄されたものと伝わっているようであるが、実際城跡を見てみると、
池田町の多くの城に見られる郭のみで堀・土塁がないものと同じであり、これによって途中放棄されたという
伝承になったと思われるが、私としては池田町のほとんどを見た中でも郭の残り具合・明瞭な切岸など
一番興奮した城であり一番お勧めするものである。
比高差がほとんど無いので是非訪れてもらいたいものである。


~参考文献~

池田町誌     (池田町誌編纂委員会  平成4年)

山城探訪     (宮坂 武男      平成11年)




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  1. 2012/09/06(木) 21:45:49|
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池田町  堀之内館

所在地・・・・池田町池田堀之内                           訪城時間・・・・5分

別 名・・・・城山                                   危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・堀之内三嶋神社



               ~堀之内館跡の歴史~

「信府統記」の池田山古城地の項で、

「池田町ヨリ卯ノ方五十間・本城ノ平南北三町三十六間・東西三町十間今ハ畑ニナル城主知レス」とある。

「池田町の遺跡」では、

遺構・規模として、現在城山と呼ばれる所は、緩やかな尾根先であるが実際の居館跡はその背後のかなり広範囲

を想定しなければならない。

伝承としては、さまざまな伝承があるが堀之内氏の居館跡とみるのがよいであろう。としている。


「信濃池田町史話」の堀之内館関連として、

寛正六年五月十八日付の主計奉書、蜷(にな)川親元記という書物に、「矢原庄池田郷堀之内事同名堀之内七郎殿

知行分、云々」という記事がある。確かなことはわかっていないがこの堀之内七郎は堀之内城主で仁科氏に関係が

ある一族であるといわれている。

この書き物は室町幕府引付衆かといわれる、野依主計という者から仁科持盛に宛てた書物の一部で、解釈としては

仁科持盛と同名と書かれている堀之内七郎は仁科氏の一族であったという解釈もできるが、堀之内の地名と同じ

堀之内七郎とも解釈できる。そこの所はよくわかっていないが、いずれにしてもこの記事によって堀之内七郎と

いう人が堀之内に居て知行を受けていたということが実証できるわけである。と書かれている。



                   ~城跡の現状~

horinouchiyakata.jpg

館跡の周辺図を書いてみました。。。

hanaokayakata1.jpg

館跡後方尾根続きから館跡を見る。
池田町の遺跡では尾根先端から後方の広範囲を館跡と見る必要があると書いてあるのでもしかすると
このあたりまで館跡の可能性がある。
この周辺は民家・畑・田圃になり館跡に関係する遺構は確認できない。


hanaokayakata3.jpg

城山と呼ばれる尾根は現在、民家・墓地・畑・境内地となっていて遺構は見られないが、池田町中心部などが
一望に見える位置にある。


hanaokayakata15.jpg

hanaokayakata6.jpg

尾根上は耕作により撹乱されているものと思われる。また西側斜面は緩やかな斜面となっていて要害性が
うかがえない、いざとなれば北北東500mにある花岡城に逃げれば良かったので、普段の居館はこの程度でよかったのであろうか。


hanaokayakata11.jpg

城山東斜面は切岸を思わせる急斜面となっているが、尾根の東側全体になっているので元々の自然地形かと思われる。

hanaokayakata8.jpg

城山尾根の先端部を見る。
現在は、小さな社の境内地となっているが居館があった頃は物見台に使われていたことが想像できる。


hanaokayakata12.jpg

hanaokayakata14.jpg

この先端部も社の境内地造成により土が動かされているものと思われるが、写真上のように土塁状の高まりも
見られる。


hanaokaykata17.jpg

公民館から城山を見る。
想像するなら。。。
城山先端部に物見台を置き、後方尾根付け根部分に居館を構えて、現在の公民館周辺に城下町のような集落を
構えていたのではないだろうか。
遺構が失われた現在では所詮想像ではあるが。。。。(-.-)


なお、この堀之内館を池田山城に想定する意見もある。
この池田山城は応永の頃の築城と考えられ、清和源氏の孫で井上三郎満実の五男、須田九郎為実が森仁科の一族
としており、為実の二男、池田次郎盛国という人が池田山城を築いたとされている。
この池田山城の位置・堀之内館と同じものなのか違うのか解明が待たれる。
城跡好きのロマンですな~。


・・・・遺構の無い居館跡の説明は難しいですな。。。。(-。-)y-゜゜゜ 


~参考文献~

池田町の遺跡           (池田町教育委員会      1994年)

池田町誌             (池田町誌編纂委員会     平成4年)

信濃池田町史話          (仁科 宗一郎        1964年)

信府統記復刻           (国書刊行会         平成8年)

山城探訪 補遺資料編中南信版   (宮坂 武男        
  1. 2012/09/04(火) 21:35:29|
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池田町  花岡山城③

3回にわたってお送りしてきた花岡山城も終盤となりました。
今回は本郭周辺をお送りしますが。。。また、写真が多いですがお許しを!
 


hanaokasiro.jpg

今回はこの図で④~⑦をお送りします。

 ~ ④の郭 ~ 

hanaokasiro87.jpg

 ④の郭まで来ると本郭の全貌が見えるようになってきました。 

hanaokasiro82.jpg

 ④の郭は二段の郭からなっていて、この郭から堀④を間に入れて本郭まで段郭が続く。 

~ 堀④ ~

hanaokasiro71.jpg

hanaokasiro72.jpg

この堀④の特徴は尾根の半分までしか堀切が無く、西側斜面のみに竪掘を落としていることである。

hanaokasiro74.jpg

hanaokasiro75.jpg

上の写真が尾根東側・下が尾根西側である。
尾根の西側では堀跡が明確に確認できる、しかし、東側になると少しずつ浅くなり端の方では確認できなく
なってしまう。一番の謎は東側斜面には竪掘跡が確認出来ないことである。
本来、堀の上部が何らかの原因で埋められたとしても斜面の堀跡までは埋まることはほとんどないはずである。
そうなると、元から東側斜面には竪掘は無かったという結論になるが。。。。?
堀切の埋まり方も不思議である。何故、故意に埋めたとすれば東側だけであったのであろう。
この疑問を解明するには発掘しかないのであろうか。。。。しかし、池田町の城跡は藪がすごい!
 


~ 郭⑤ ~

hanaokasiro92.jpg

郭⑤から本郭を見る。。。なんか。。。手前の木に。。。爪跡のようなものが・・・(-_-;)
池田町にも熊が出没するようなので。。。お気を付けて!


hanaokasiro99.jpg

hanaokasiro93.jpg

郭⑤は、堀④から本郭の間の段郭によって構成されている。
ただ切岸がはっきりしている段ではなく、登っている感覚としては緩やかな斜面を登っているような感じで
見た目で段郭とわかる程度である。
 


~ 郭⑥ (本郭) ~

hanaokasiro100.jpg

花岡山城最大の郭・・・本郭の全景である。
なんか~斜めってない?。。。そう!自然地形なのである。
ほとんど遺構らしいものは見られず、あるとすれば・・・・


hanaokasiro102.jpg

この本郭東側の郭⑦との間のわずかな高まり土塁である。(写真じゃわかりずらいけど・・・)
写真下の平場は郭⑦である。


hanaokasiro106.jpg

何故こんな大きな城跡なのに一番重要な本郭の削平がなされていないのであろうか?
こういう場合に一番に考えるのが、陣城などの一時しのぎの場所で長く居る必要が無かったなどであるが。。。?堀之内氏の居城という伝承もあるしな~ (?_?) 


hanaokasiro1000.jpg

hanaokasiro105.jpg

本郭北側にある土塁として利用した自然地形の高まりを見る。
何故自然地形と見るかというと、高さ・幅・形が東側と西側ではバラバラで成形した痕跡がうかがえない為である。


hanaoaksiro106.jpg

hanaokasiro103.jpg

本郭北西隅に建つ鉄塔部分を見る。
この斜面は緩やかであるが、鉄塔周辺には遺構が見られないので鉄塔による破壊は無かったものと思われる。


~ 堀⑤ ~

hanaokasiro2000.jpg

hanaokasiro20033.jpg

本郭背後を守る唯一の防御施設である。
堀幅・深さは城内一番の規模ではあるが、今までの本郭までの堀の本数の厳重さを考えると・・・・
堀一本っていうのはなんか不安じゃなかったのかな~と考えてしまう自分がいる。


hanaokasiro2010.jpg

惚れ惚れするきれいさだったので。。思わず座り込んで眺めていました。  城跡最高 !(^^)! 

~ 郭⑦ ~

hanaokasiro3466.jpg

まあ、おまけの本郭東尾根にある郭⑦である。
なんで他の尾根には堀切を入れているのにこの尾根には段郭なんでしょ?
一本くらい増やしても変わらなさそうですがね~。


hanaokasiro4.jpg

本郭からの眺め
ガスってなければアルプスがきれいなんですが・・・・残念 (-。-)y-゜゜゜ 


hanaokasiroennbou.jpg

花岡山城全景
登城口は、赤い屋根の建物の裏にある水路に沿って登っていきます。(山道あり)
  


三回にわたってお送りしてきた花岡山城はいかがだったでしょうか?

地元の土豪堀之内氏の居城もしくは要害城との伝承がありますが、城の規模は土豪程度では維持できる

物ではなくもっと大きな力によって築かれたのではないかと感じました。

ただ、写真でみてもらったように、郭はほぼ自然地形のままで削平がされていない場所が多いのも気になる所である。

誰によって、何の目的で築かれたのであろうか?  本当に堀之内氏なのかな疑問だな~


なお、城主とされる堀之内氏は、旧四賀村の一期の城で戦死した堀内氏と同族と言われていて、

堀之内氏とは地名により堀之内としているだけで資料では堀内となっており本当はどちらかわかっていないようである。

堀之内氏は仁科氏の支族で何代目かに分かれたかは不明としている。

~参考文献~

池田町誌        (池田町誌編纂委員会   平成4年)

山城探訪 安曇資料編  (宮坂 武男       平成11年)
 
  


 
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  1. 2012/09/01(土) 04:12:36|
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ていぴす

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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

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