長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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塩尻市  西條城①

「西條城砦群」   府中小笠原氏南方の要を守る比高400mの指令塔 

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国土地理院 2万5千分の1地図使用

所在地・・・・塩尻市塩尻町下西条                 訪城時間・・・・(麓から)120分・(嵐城から)40分

別 名・・・・城・城ヶ嶽・塩尻城                     危険度・・・・★★★★☆

訪城目印・・・・慈光院から登る                   訪城日・・・・2010年4月10日          



          ~ 西條城の築城経緯 ~

寳徳元年(天安6年)4月29日、諏訪上社と下社が合戦となり、5月10日には下宮がが敗れ社殿などが上社方に焼か

れてしまった。そこで、下宮方は、井川(府中)小笠原持長を頼った。

持長が下宮方に協力する事となったことを知った上宮方の大祝 諏訪信満は小笠原持長に対応する為、松尾の小笠

原長宗を頼った。これに対して小笠原長宗は承諾し兵を整えて府中へ侵入した。

これを聞いた(府中)小笠原持長は小笠原長宗・諏訪信満軍を迎え撃って、8月24日 桔梗ヶ原南端において

戦ったが、(府中)小笠原持長・下宮方が敗れ井川城へ逃げ帰った。

しかし、諏訪信満・(松尾)小笠原長宗方も相当の損害があり、追撃することが出来ず撤退した。

この敗戦により南方に脅威を感じるようになった府中小笠原氏は、城ヶ嶽に西條城を築くこととなり持長の二男

宗則を城主として守らせることとした。(塩尻町誌)


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西條城は標高1199mにある城ヶ嶽(洞峰)に存在する。

             ~ その後の西條城 ~

西條城と特定出来る文献は現在発見されていないが、西條城と推定されているものとして、

天文6年(1537)2月、諏訪頼満の孫 諏訪頼重を大将とする諏訪勢が塩尻へ押し寄せ、赤木・吉田に放火した。

この内容が「神使御頭之日記」に書かれており、「この年2月2日塩尻へ指し寄せ、赤木・吉田まで放火候、

刑部頼重大将初めてに候。同10月13日塩尻の城 刑部頼重責め落とされ候。」とある。

この中に出てくる頼重に責め落とされた「塩尻の城」が、小笠原一族が抑えていた西條城ではないかとされる。

(だだ、塩尻町誌では高所にある西條城がそんな簡単に責め落とされるはずはなく、北東にある平城の高須城

(桟敷城)ではないか?としている。)

その後は文献には出てこなくなる。塩尻周辺は天文17年(1548)年に起った塩尻峠の合戦で小笠原氏が武田氏に

よって敗退したことで支配権が武田氏に移ったことにより、西條城は自落もしくは武田氏により攻め落とされた

ものと推定される。

なお、この西條城主とされる小笠原閑斎は、小笠原氏府中陥落後の天文19年(1550)の野々宮合戦に参戦している

ので西條城は自落したとも考えられるのではないだろうか。


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嵐城の後方尾根から見た西條城のシルエット

              ~ 西條城主について・・・ ~

西條城主については不明なことが多くほとんどの資料には小笠原閑斎くらいしか書かれていないが、

「塩尻町誌」は多くの文献を研究されているので長くなるが参考になるので記載したいと思います。

読むのが面倒な方は飛ばして下さい。。。。。。(-.-)


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本郭から見た塩尻市街地(眼下には支城の嵐城・上の山城が見える)
冬以外は周辺の木々に葉がありきれいに見えないようなので、真冬がお勧めです!!!!! 


検証文献

 吉澤翁の著「信陽雑誌」に宝徳元年小笠原光政 西條家を襲い西條城主となるとあり。私按之(しあんこれ)は

宗則の誤りならん宗則と光政とは叔父甥の間柄なれどこの宝徳元年頃は光政は生後わずかに2・3歳にして宗則は

壮年なればなり。尤此(もっともこの)光政は叔父宗則の後を継ぎ次代の西條城主なり。


「笠系大成」に小笠原持長の次男 遠江守宗則より則長・道長・宗春 西條城主たり。

又、天文年間小笠原閑斎西條城主たりとあり。私按(しあん)、この中で道長・宗春の名此外に見えず、或は

光政 光保(別名呼・法名呼ならんか)


「溝口家記」に持長次男 近江守宗則 法名喜高、其(その)子長門守 正月13日於松尾討死

(正月13日松尾において討死)、其子中務少輔 法名號道意其弟 式部少輔 法名號閑斎是迄

(これまで)にて畢(おわ)りぬとあり。


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小野にある霧訪山烽火台から見た西條城

「小笠原譜代門葉集居城分限」の内に左記あり。(尤も此の書にはあまり信をおけぬものであるが)

一高  五百貫文  紋・丸の内に萬字  小笠原閑斎  三拾騎


中村仲琮著、「蕗原拾葉中」に西條家臣、大田兵庫・大田源六居城す、後天文年間 西條次郎長斎居城す

西條城主たりとあり。(歳は利の誤り也・閑は簡の誤り也)


「信府統記」に洞の城主 洞伯耆との口碑ありとあり。

(私按に之は前掲人名中に洞を氏称し伯耆を名乗りし者ありしならん。


ある古文書に嵐城(中西條山古城)に中島玄蕃・平城(上ノ段の館)に宮坂彌三郎 之に據(よ)るとあり。

又、口碑に中村左近正 之(これ)に居ると云う。

(私按之等は何れも西條家小笠原家の臣下にして城代なりしものならん。


上西條村正徳年中の書上帖に簡斎 剃髪して一口観音堂(今の慈光院)に居るとあり。

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以上の文献を総合研究して次の如く西條城主を推定す。

西條城主

第1代     小笠原遠江守宗則 ( 孫次郎 ・ 入道喜高 )

井川城主小笠原持長の次男也 即ち小笠原清宗の弟なり宝徳年間西條城主となる。 洞に居館す。


第2代     西條長門守光政 (後に則長 ・ 中務少輔 ・ 七郎 )

井川城主小笠原清宗の次男也 前城主宗則の甥也 西條家を襲ひ西條を氏称とす。 洞に居館。


第3代     西條長門守光保  七郎 ・ 中務少輔 )

2代城主光政の嫡男也 天文元年正月13日松尾登城の登上、毛加澤に於て伊那定基(本姓 小笠原)の兵の襲撃

に遭い下條時氏と共に戦死す之れ迄は洞に居館ならん。

但しこの代頃、南方には伊那、北方には仁科、水内の地にて連年戦争ありしに依り支族たる光保等も多くその

方面に滞陣し、西條には城代を置きしか。


第4代     西條貞保 (入道道意 ・ 小笠原七郎 ・ 中務少佑輔 )

3代城主光保の嫡男なり按ずるに此代頃に嵐城を修め、本城となし其城麓「上ノ段」へ居館せるならん小笠原長時

と共に中塔に籠城し殊(こと)に同城物主に推挙せられたるも其の後不明。


第5代     西條頼貞 (後に長利 ・ 入道簡斎次郎 ・ 式部少輔 )

4代城主貞保の弟也 大手に居館す、即ち今の慈光庵 天文17年塩尻峠敗軍にて桔梗ヶ原一帯西は洗馬・今井

東は内田迄武田氏に降りし為、同年西條城を棄てて林(小笠原本家)へ退きたりものなり、

この簡斎 天文20年野々宮合戦にて手を負い長時と共に中塔籠城したるも其の後不明。


これらの他に道長・宗春も西條城主とあるがその他の資料には記載なく詮考なしとある。

また2代城主光政において西條家を襲い西條を氏称とす。とあるが按ずるに西條には鎌倉時代に豪族西條氏

あり、西條家を襲いとは此故き西條氏を継襲したるの意ならんか。とある。




以上、長くなってしまいましたが、西條城主と西條城についての文献資料を書いてきました。

確実な文献が見つかっていない現在、推測であるが少しは参考になればいいと思います。。。。!(^^)!


次回は・・・・西條城の遺構についてお送りしていきますので。。。。お楽しみに! 



~参考文献~

塩尻町誌     (大森 利球冶 ・ 三澤勝衛 共著 昭和12年)

塩尻地史     (堀内千萬蔵            大正14年)
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  1. 2012/10/30(火) 04:41:40|
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箕輪町  上ノ平城③(最終回)

さあ~長々と書いてきました、上ノ平城の最終回をお送りします (●^o^●)

今回は堀⑤からです。 


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~ 堀⑤ ~

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堀⑤はかじや畑と③の郭を分けるように掘られた長大な堀である。

この堀は現在、堀③からカーブして堀⑥へつながるという、上ノ平城の2分の1ほどの規模を有する。


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幅は4~2m程度・深さは2.5~1.5m程度の規模である。

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かじや畑と③の郭を二分する堀⑤
堀①・③に比べてこの堀⑤は規模・鋭さが甘くなっていて長大なことからもしかしたら通路として使用されて
いたとも考えられる。


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一部、緩やかなカーブしながら掘られている。
通路とした場合の見通しを悪くするための工夫かな???


~ 堀⑥ ~

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堀⑤が伸びてきてカーブする部分が堀⑥となる。(堀⑤の延長だが一応堀⑥として区切って説明する) 

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堀⑤からカーブしてきた堀⑥は城内と城外を区切る最後の堀となる。 

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堀⑥は竪掘のようにして北側斜面を下っていく。

~ 堀⑦ ~

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 ③の郭の東側、城内と城外を区切る堀であったと思われるが、現在はわずかな痕跡のみである。 

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現在では確認できないが、元々は堀⑥とつながっていて城内と城外を分けていたものと思われる

~ ③の郭 ~

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 ③の郭を見る。(竹藪の所は堀⑦) 

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 ③の郭は現在、畑地となっており広大な平坦地となっている。 

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上ノ平城の南斜面には無数の段郭状の平場が存在する。

このすべてが城に関するものとは思わないが、南側の傾斜が緩いために往古も何段かは存在したと思われる


~ 全景 ~

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この城は比高が低く広大な城域を誇ることから戦うだけの城ではなく、政治を行う機能も持った城だったのでは
ないだろうか?
その理由としては。。。。。城下町・祭礼場所があったようなのである。
 


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南小河内区内にある看板。。。。。城跡北側下には城下町を思わせる「殿屋敷小路」「立小路」などの
地名が残り道路なども明確に区画されている。

その為、普段城主はこのあたりに居館を構えていたと考えられている。
 


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さらに、堀⑥⑦の東側の城外には、この御射山平と呼ばれる御射山社の祭礼を行ったとされる場所も存在する。 

~ 発掘調査で出土した遺物による時代と築城主の推考 ~(報告書抜粋)

今まで上ノ平城は、知久氏が下伊那へ移った鎌倉時代以降使われず鎌倉時代のまま残っているとされてきた。

しかし、発掘調査の成果から戦国時代(15世紀中期~16隻中期)に機能していた城であることが確認された。

近隣の福与城跡が文献資料に登場する時期と等しく、位置的に近いことから何らかの関係があったものと考えられ

ている。


*県埋文の河西氏による報告書内の論文の見解

築城者・改修者について・・・二つの推論か書かれている。

①礫を多量に投棄しての虎口の破壊は在地武士を越えた戦国大名によりなし得た行為との前提から、武田氏が

1期の上ノ平城に放火したうえで破壊し、その上部に2期の上ノ平城を築城したとの解釈である。

②武田氏の侵攻などで生じた上伊那の軍事的緊張状態の中で、在地勢力が1期の上ノ平城を廃絶、2期の上ノ平城

を構築したとの見方である。

①は武田氏、②は在地勢力が築城主体者となる。

しかし、資料的な限界により推測の域を脱しないが、武田氏侵攻段階の軍事的緊張状態により1期の上ノ平城が

破壊されたと理解することは出来よう。としている。



・・・なお。。この発掘では鎌倉時代の遺物は発見されていなのである。

知久氏はここに居たのでしょうか???? 



~参考文献~

箕輪町誌                   (箕輪町編纂刊行委員会  昭和61年)

上ノ城跡発掘調査報告書            (箕輪町教育委員会    平成13年)

長野県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第16集  (市村 咸人   昭和10年)

山城探訪  上伊那資料編           (宮坂 武男)




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  1. 2012/10/24(水) 19:11:05|
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箕輪町   上ノ平城②

箕輪町最大の城郭 上ノ平城の第二回目です。。。。。今回は①の郭から! 

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~ ①の郭 ~ 

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 ①の郭は、発掘調査後埋め戻され公園となっている。
発掘の成果として、1期と2期の時代があったことがわかった。(奥にははしゃいで遊ぶ我が子か。。!(^^)!)

1期は北・西・南の郭縁部に土塁があったことが確認された(東側は調査区外)そして、西側と南側の土塁中央
には虎口が開いており、礎石を伴う門があったことがわかっている。
 


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 ①の郭西側縁部と下段②の郭堀跡

西側虎口跡と①の郭内部では大量の炭化物が発掘され、1期の遺構がなんらかの理由で焼失し、その後、虎口を
破壊する等の目的により、意図的に石を投棄した、いわゆる「破城」があったのではないかと考えられている。

2期では、1期が焼失により機能が停止した後に土塁が虎口が完全に埋没する状況になるまで40cmの土を盛り、
北側1m・南側2.5mほど郭を拡張している。 


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かじや畑から堀③越しに見た①の郭

郭の拡張後、北側と東側に土塁が構築された。
(西側・南側については、構築されなかったのか、耕作等で削平されたのか確認出来ていない。)

この2期の造成により②の郭で書いたように、①と②の郭間の堀が埋められたことがわかった。
 


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鋭い切岸で囲まれている①の郭、北側には腰郭が造られている。

~ 堀③ ~

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 かじや畑と郭①の間にある堀③を見る。
現在はこの堀から城内に入る為の通路となっているが、郭①の中央部で曲がっている部分(堀③)とそのまま
まっすぐ浅くなりながら掘られている部分がある。
 


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かじや畑から見た堀③(奥は①の郭)
①の郭の南側土塁中央に虎口が確認されたことから、この堀③が城が活動していた時も通路として使用され、
この堀③から回り込んで①の郭南虎口に入っていたのではないだろうか。
 


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堀③がカーブし堀⑤へと続いていく。以前はT字型であったと思われる。

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以前は堀③へとつながっていた①の郭と③の郭間の埋められた堀跡。
ここが①の郭南虎口へとつながる通路であったと思われる。(写真左は③の郭・右側が①の郭)
 


~ かじや畑 ~

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堀⑤の北側の郭をかじや畑を呼んでいる。
ここは以前は畑地であったが現在、地面が見えないほどの籔となっていて詳細は確認できない。


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かじや畑から見る①の郭

名前から言えば鍛冶屋があったように考えられるが、この郭は①の郭より堀③を挟んで1mほど高くなっており、
城の中心部である①の郭を見下ろせる位置なので重要視された郭であったと思われる。
 


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かじや畑の北側斜面には巨大な腰郭が存在する。
(説明板がある場所は、①の郭の腰郭で間に堀③が存在する)

郭①の北側とかじや畑の北側に腰郭が堀③を挟むように存在することからやはり堀③を通路とした場合の城内への

入り口としてこの場所を防備するための施設と推定する。
 


~ 堀④ ~


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かじや畑の中心部分にある堀④とされる堀跡らしき窪み

推定としては、かじや畑を二分するように掘られ堀⑤へつながっていたと考えられている。


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この堀④を確認する為に①の郭の調査と同時にここもトレンチ調査が行われている。

結果としては、生活面としての土の移動は確認されているが、堀④は確認されなかった。しかし、写真のような
窪みがあることから調査地よりも東側または西側の可能性も残されているとしている。

出土物は①の郭と同様なものが確認されていることから15世紀中期から16世紀中期ころに機能していたと考えら
れている。


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堀④より東側のかじや畑。。。。堀⑥へと続く。

第二回目はいかがだったでしょうか。。。。発掘報告書の内容ばかりで堅い内容になってしまいましたが、

このお城の良さが伝わっているでしょうか?

次回は最終回ですのでおたのしみに!!!!
  1. 2012/10/24(水) 10:50:52|
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箕輪町  上ノ平城①

上ノ平城砦群中核の巨大城郭

kosikigasiro.jpg

国土地理院2万5千分の1地図使用


所在地・・・・箕輪町大字東箕輪                        訪城時間・・・・0分

別 名・・・・丸山城                               危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城目印・・・・日輪寺                       訪城日・・・・2011年1月17日・2012年4月11日


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①の郭からの眺め

              ~ 上ノ平城の歴史 ~

上ノ平城についての直接の資料は現在発見されていないが、上ノ平城周辺に関連する資料・伝承を上げてみる。

後3年の役(1083~1087)の功労をもって、源 為公が信濃に領土を賜り伊那の小河内に居館を構え箕輪領一帯

を支配することになった。箕輪の小河内に落ち着いた為公は、伊那源氏・信濃源氏の祖といわれている。

この為公には多くの子があり、嫡子は知久姓の祖となり、片桐・飯島・名子・大島・赤須などの多くの家に分かれ

各地に勢力を持つようになって行った。


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現地の説明板には、諏訪氏の同族知久氏が拠ったとある。

これについては、「南信資料」に、

源為公・・・(嫡男)乗ノ太郎為衡・・・乗ノ太郎為貞・・・乗ノ太郎頼継(子が無く)・・・(諏訪)中津信忠

その姪たるをもって家を継ぐ。源姓を改めて知久を名乗る。とあり諏訪氏の一族が継いだことに由来すると思われ

るが、「信濃二千六百年史」では、

神氏の分流に知久・中沢氏があり、大祝為貞の四世敦忠の第四弟敦俊が祖であって、小河内に居たが後、南方の

知久に移って知久氏を名乗ったともある。

別説としては、源為公の第一子為衡が中津乗氏の祖となりその孫の頼継の子信貞の代に下伊那の知久に移り、

その郷名をとって知久氏を名乗ったともあり、どれが本当なのかは分からない。


前回、紹介した日輪寺畑から上ノ平へ移り城郭を築いたのは、源氏の勢力が確定してから本格的な築城を行った

のではないかと推定したとある。(説明板では、最初からこの上ノ平に為公がいたと書かれているがほとんどの

資料でこれを否定している。)



                 ~ 城跡の現状 ~

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この図面に沿って説明していきます。 

~ 堀① ~ 

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上ノ平城がある尾根の先端部にある堀切である。
この堀から先端は明確な平場が存在しないことから、発掘報告書ではこの堀が城内と城外を分ける遺構ととらえて
いる。


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城外側には堀残しの土塁状遺構があり、現在は上に祠が祀られている。 

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堀幅は約7~8m・深さ約3mほどの大きなもので厳重な防備である。 

~ ②の郭 ~ 

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 ②の郭は城の中心となる①の郭西側下段にあり、現在は畑地と公園?になっている。
以前は堀①近くに井戸があったとされるが、現在は見当たらない。
 


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この郭②と郭①の間にはかつて堀②が存在した。 

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堀②が存在した痕跡として、この郭南側に残る窪みと・・・ 

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郭の北側に残るこの堀②の痕跡である。 

uenohira9.jpg

上の郭が①で下が②の郭となっており、平成11年~12年にかけて箕輪町によって行われた学術調査により、
この段差の部分で幅6~6.8m・深さ下段から2.1~2.3m、上段から5m以上の緩やかなV字状の堀②が確認された。

この堀からの出土物の時期は15世紀中期~16世紀中期のものとされている。

この堀②は、後で書く郭①の2期造成時に埋められ、郭②として使用されていたことが分かった。
 



今回は、説明が長くなっちゃたのでここまで~次回は郭①をお伝えしたいと思いますのでお楽しみに!!!
  1. 2012/10/22(月) 14:57:54|
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箕輪町  日輪寺畑

上ノ平城砦群の中核・・・知久氏の居館?

kosikigasiro.jpg
国土地理院 2万5千分の1地図使用


所在地・・・・箕輪町南小河内                             訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                訪城日・・・・2012年3月20日

訪城目印・・・・日輪寺                                別 名・・・洞田



              ~日輪寺畑の歴史~

「箕輪村誌」には、

洞田は上ノ平城の北約100m、知久沢と梨久保とに挟まれた小丘上にあって、土地の人は日輪寺畑と呼んでいる。

地形は低く、城砦というより居館跡としたほうが適当である。その距離から推してあるいは城主隠棲の所かと思わ

れる。(後略)とある。

「伊那の古城」には、

日輪寺の北、知久沢を隔てた台地に洞田という居館の址がある。洞田の北は梨久保川という深い川と二つの川に

挟まれた台地で、南の平場三百坪、北の広場四百四十坪、一ノ堀切、ニノ堀切、各々四間巾のものが残されていた

という。源為公らが、伊那に最初に赴任してきた時はこの辺にいたのではなかろうか。

としている。

*源為公は、伊那源氏の祖とされ為公の嫡男が知久氏を名乗り祖となったとされる説と諏訪氏から知久氏が
出たとする説があるようである。



                     ~館跡の現状~

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この図を参考に説明していきます。 

~ ①の郭 ~


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 ②の郭から見た①の郭
①の郭は民家となっている為に近くからの写真は遠慮するが、先端部に土塁状の土盛があり、高さが約50~60cm程度である。現在、この土盛の上に芝桜などが植えられている為、これが土塁であるとは断定が出来ない。
 


~ 堀① ~

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堀①とされる窪みである。
この堀①とされる部分は、梨久保川方面のみに残存し知久沢側には痕跡は確認できない。
この周辺が畑であった頃は、梨久保川に下りる為の道として利用されていたようである。


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 ②の郭から堀①を見る。
この部分は道として利用されていたであろうが、この窪み・幅はどうみても堀として構築されたものである。
幅約5~6m程で深さは一番深い所で2mくらいであり往時はもっと深かったことは想像できる。
 

文字色
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梨久保川から堀①を見上げる。   

~ ②の郭 ~

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 ②の郭には南小河内区による洞田の看板がある。 
城跡に看板があることはとても感謝しなければいけないだろう。なぜなら、ほとんどの城跡には無いのだから!! 


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 ②の郭を見る。(奥には③の郭の切岸が見えている)
この郭がこの館跡の内部で一番削平されており(畑によるものかもしれないが)広大である。
堀①・堀②に挟まれているここが館の中心的建物があったと思われる。
 


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 ③の郭から郭①②を見る。 

~ 堀② ~

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堀②は図にあるように郭②と③の間に梨久保川斜面と知久沢斜面に遺構を残す。
中間部は耕作により埋め立てられたようで、わずかながら郭③の切岸下部に窪みが見られる。
 


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梨久保川側に見られる堀跡の残存遺構


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知久沢側に見られる堀②の残存遺構。
堀②が大規模な堀であったことがうかがえる遺構である。
 


~ ③の郭 ~

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 ③の郭は、②の郭側の切岸がはっきりしているものの尾根続き側がどこまでが城域か判断出来ない程、ダラダラと
豊久保砦への尾根へと緩やかに上昇していく。
切岸に近い部分はかつて耕作されていたので平坦地となっているがその他は緩やかな傾斜となる。
耕作による破壊なのであろうか?あったであろう堀切はどこへ??? 


~ 周辺状況 ~

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知久沢と居館跡の切岸を見る。
知久沢の居館跡側は写真に見るように垂直の壁となっていて高さ4m程ある絶壁である。
なお、知久沢の対岸には知久氏開基とされる日輪寺がある。
 


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知久氏がこの地に居館を構え、次に築城したとされる上ノ平城は知久沢を挟んだ南側に存在し良く遺構を残す。 


 さあ、長々と?見てきた日輪寺畑はいかがだったでしょうか。。。。 (-。-)y-゜゜゜
知久氏が最初に居館を構えたとされるが、一般に言われる方形館ではなく連郭式のような造りとなっている。
想像するなら。。。
最初に居館を造ったのは郭②で上ノ平城に知久氏が移った後も一族か重臣がここに居て、戦国期に増築をした。。
っていうのは素人考えでしょうか。。

次回は・・・・本城の上ノ平城をお届けしたいと思いますのでお楽しみに!!!
 



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~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料編    (宮坂 武男   平成14年)

箕輪町誌           (箕輪町誌編纂刊行委員会  昭和61年)

伊那の古城 改訂       (篠田 徳登   平成22年) 
  1. 2012/10/12(金) 03:08:20|
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箕輪町   豊久保砦

上ノ平城砦群??

kosikigasiro.jpg
国土地理院 2万5千分の1地図使用


所在地・・・・箕輪町南小河内豊久保                        訪城時間・・・・10分

危険度・・・・★☆☆☆☆                              訪城日・・・・2012年3月20日


                ~豊久保砦の歴史~

「箕輪町誌」には、

小式部城の支脈が南に延びて普済寺の台地で終わろうとする所の突端を豊久保という。

東は梨久保沢が流れ、西麓は南小河内の平地で山背を平にした簡単な山城で、郭の広さは東西約18m・南北約16m

ほどで、郭の北縁辺部には土塁が現存する。郭の北端に第1の堀切があり、それより約75mへだたる山背に第2の

堀切がある。1の堀切は長さ約22m・上部幅約5m深さは南側約3m・北側は約0.6mである。2の堀切は長さ南側

約13m・深さは約6m・北側約0.5mである。城地には雑木が密生する。とある。

その他の資料にも城主や来歴が記されているものはないが、日輪寺畑(館)・上ノ平城を見下ろす位置にあること

から上ノ平城に関係する砦であることは間違いないと思われる。



                ~砦跡の現状~

toyokubonawabari.jpg

いつもながらの図面で紹介していきます。。。。。少しは成長したかな?

toyokubo1.jpg

所々に看板が設置され、現在地区の方達?により遊歩道が整備中である。しかし、ここも笹藪である

~ 郭① ~

toyokubo2.jpg

本郭(単郭だけどね一応)にある城跡を示す看板。
奥には堀①に伴う土塁がある。


toyokubo5.jpg

土塁上から本郭内部の全景を見る。
内部の削平はあまくほぼ自然地形のままである。しかも、籔が酷い為に詳細な観察が出来る状況にない。
看板も必要であるが藪を解消しないと遊歩道を整備しても人は来ないのではないだろうか。


toyokubo22.jpg

本郭北側の堀①に伴う土塁で高さ50~60cm程度である。
かなり低くなってしまっていると思われるが、堀①の本郭側切岸が高いのでもしかしたら最初からこの高さだった
可能性もあるかも??


~ 堀① ~

toyokubo11.jpg

堀①を見る。
現在は本郭側からの深さは約2.5mで上幅約5mの規模となっている。


toyokubo21.jpg

別角度からもう一度。。。堀① !(^^)!

お気に入りの切岸!!!

toyokubo7.jpg

この砦には簡素な造りのわりには鋭い切岸が存在する。

toyokubo410.jpg

高さ2.5mの壁は尾根続きから攻めてきた敵にはかなりの圧迫感を与えることができたであろう。

~ 堀② ~

toyokubo9.jpg

堀①から写真のような笹藪を75mほど歩いて行くと藪の中に堀②か現れる。

toyokubo8.jpg

堀②の規模は上幅約5m・深さ約1.5m程度である。
小規模な砦の堀切としては良く残っている方であるが、籔が酷く写真を撮ることも苦労する。


toyokubo18.jpg

尾根東側にある林道??から見た堀②の断面。

~ ②城とは関係ないけど・・・・・富士塚 ~

toyokubo15.jpg

豊久保砦と鞍部を挟んだ尾根先端には浅間様と呼ばれる富士塚がある。

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富士山の浅間社に参詣が出来ない人がこの塚に登ってお参りしたという。
そうすると浅間様に参詣したのと同じ効果が得られるとされる。
城跡とは関係ないが遺跡として存在するので記載しておく。


~ 遠望 ~

toyokubo19.jpg
南小河内区方面から見る。 

toyokubo4.jpg

日輪寺畑の居館から見た豊久保砦。 

豊久保砦を見てきましたがいかがだったでしょうか。

上ノ平城に付属する砦という見方がされていて南西にある岩ヶ城・でゑら・中の小屋と共に外郭を守っていた

ようである。造り的には簡素で郭内部は自然地形で堀2本というものであるが物見の砦ではこの程度でよかった

のであろう。上ノ平城の発掘では武田氏時代の物と思われる遺物が出ているのでこの砦もその頃も使われていた

ものと思われる。



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編    (宮坂 武男)

箕輪村誌            (箕輪村誌編纂刊行委員会   昭和61年)



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  1. 2012/10/10(水) 02:54:10|
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箕輪町  城ヶ峰③

よっしゃー!!!いくぞー第三回 城ヶ峰・・・・・・堀切だぞ~。 

お鉢図面


~ 堀 ① ~

ohachi61.jpg

本郭から見下ろした堀①
規模としては、上幅11m・底の幅約1.5m・深さ最大9mの規模である。


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堀①を横から見る。
堀①②③とも笹藪が酷く堀内部を歩くことはほぼ不可能である。
 


ohachi65.jpg

堀切から続く大規模な竪掘を見る。
この竪掘は下の沢まで落とされている大規模なものである。
 


ohachi66.jpg

城が使われていた頃には、敵はこの竪掘の為に斜面の横移動はほぼ不可能であったと思われる。

~ 堀 ①と②の間 ~

ohachi90.jpg

堀①と②の間には幅2~3m程度の堀残しの高まりがある。
ここは郭のような削平がなされていないので堀切を効果的に使用する為の堀残しただけのようだ。
(藪がすごいので詳細は観察できていないが・・・・)
 


~ 堀 ② ~

ohachi71.jpg

城内最大の堀切②を見る。
こちらの堀切の規模は上幅27m・下幅4m・深さ最大12mという今まで見たことの無いような規模である。


ohachi73.jpg

南側斜面にも竪掘として長大に落とされているが、こちらも藪が酷く最後まで追うことは難しい。

ohachi74.jpg

ohachi78.jpg

竪掘を角度を変えてみてみる。
このような大規模な竪掘は見たことが無く、単郭の城に何故このような堀切・竪掘が必要だったのか考えさせられ
る遺構である。


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北側斜面に落とされている竪掘を中腹より見上げてみる。
堀切の幅が大きい分、竪掘の幅も大きく斜面の横移動の困難さを実感した。。。(-.-) 



~ 堀 ③ ~

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尾根続き最後の堀切である堀切③を見る。
こちらも藪が酷く全体像はうかがいしれないが、規模としては幅約3.6m・深さ約4mである。
 


ohachi88.jpg

南側斜面は藪の為見ることは出来ないが、北斜面には沢まで届く長さの竪掘が落とされている。
写真で見てもわかるように、籔と切ったままの木が散乱しており歩くことも困難である。


ohachi81.jpg

見ずらいですが、堀切から竪掘を見下ろす。
これらの三本の竪掘はすべてしたの沢まで届く長さで落とされており籔さえ無ければ壮大な遺構が見られる貴重
な城址となることは間違いないのであるが。。。。もったいないかな、荒れ放題となっている。


~ 立地 ~

ohachi24.jpg

北側に沢を挟んで寺山砦が立地し、山体は写真を見てもわかるように険しい。

三回にわたってお送りしてきた城ヶ峰はいかがでしたでしょうか?

この城は、二蔵という城主が武田氏に敗れ退去したという伝承がある。その後のことはわからないが、小式部城と

この城ヶ峰は戦国期の改修を受けているという見解がある。

確かにこの城砦群には見られない大規模な堀切・竪掘・土塁が見られ他の城との時代差が感じられる。

小式部城が武田氏により改修・使用されたとの説もあるのでこの城も二蔵が退去後に武田氏より改修を受けたので

あろうか?段郭の多用は古い城郭に見られる言われているのでここは二蔵時代のままであろう。

本郭背後の大規模な堀切や土塁は誰の改修によるものだろうか。。。。素人では謎としか言えないが。

天正壬午の乱後は、高遠城の保科氏がこのあたりを領したことも考え合わせる必要があるかもしれませんね。



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編             (宮坂 武男     )

伊那の古城 改訂版               (篠田 徳登   2010年)

長野県史史蹟名勝天然記念物調査報告書  第五巻 (長野県文化財保護協会   昭和50年)

箕輪町誌                    (箕輪町誌編纂刊行委員会  昭和61年)



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  1. 2012/10/07(日) 23:30:02|
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箕輪町  城ヶ峰②

感動の堀切をもつ城ヶ峰の第2回目で~す。。。

お鉢図面

~ ②悪夢の西尾根 ~

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西尾根中腹から見上げる。
西尾根は、約1.5mほどの笹が繁茂しかつてあったであろう道は消滅している。。。。ここから悪夢は始まった


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西尾根の特徴は、西南尾根より段郭の規模が大きいことであるが。。。。。
笹の高さ1.5m+段郭1m=2.5m・・・・人生始めて笹に弾き飛ばされる経験をしたのであった。


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笹の下に何が潜んでいるかわからない恐怖と戦いながら、山頂を目指す!
西南尾根を登る家族と裏腹に西尾根を登る自分は・・・・倍の時間をかけて力尽きるのであった。
。。。。。。西南尾根を登ればよかったと後悔するばかり (-.-)


ohachi32.jpg

笹地獄をやっと抜けると、この本郭の切岸にたどり着く。

ohachi33.jpg

本郭切岸と下の段郭の美しさに笹地獄の疲れも忘れ走りだしてしまった。。。。まだ若さが残っていたようだ。

~ ①本郭 ~

ohachi47.jpg

本郭には2005年に北小河内区による城址碑が建てられている。
すばらしいのだが。。。。。籔をなんとか。。。。


ohachi49.jpg

本郭の規模は、東西約23m・南北約20mとなっており、南側半分は笹藪となり土塁は確認できるものの詳細を
観察することは難しい状態である。
写真の土塁は、東側土塁で堀切に接しており、高さは城内最大の3mである。


ohachi45.jpg

北側土塁であり高さ約1mある。(西・南側土塁は、藪の為に撮影不可)
本郭は、四周を土塁で囲まれており、西側に虎口が開いている。この四周を囲んでいる形状がお鉢の名前の由来
とされている。


ohachi53.jpg

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本郭内は笹藪と間伐され放置された木により荒れ放題であり、間もなく笹により本郭は制圧されるのであろう。

ohachi51.jpg

最初の本城であったと思われる小式部城を本郭から見る。

~ 堀切①②③の全景 ~

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南斜面に刻まれた連続竪掘を見る。(なんとなくでも連続しているのがわかってもらえると。。。)
南斜面は笹の繁茂により下りて行くことは不可能であり詳細を観察できる状態ではない。



今回もここまで・・・次回はフィナーレの堀切3連続をお送りしたいと思います。

長くなってしまいましたが次回もお付き合いください!!! (●^o^●) 
  1. 2012/10/04(木) 19:23:46|
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箕輪町  城ヶ峰①

笹藪の中に眠る超絶品の堀切!!!! 上ノ平城砦群?

所在地・・・・箕輪町東箕輪北小河内中村             訪城時間・・・・西尾根(40分)・西南尾根(20分)    

危険度・・・・西尾根★★★★☆ 西南尾根★☆☆☆☆             別 名・・・・お鉢・堀の内  

訪城日・・・・2012年3月20日          


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国土地理院2万5千分の1使用

                 ~城ヶ峰の歴史~

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「箕輪町誌」によると、

城ヶ峰は俗にお鉢(または堀の内)と呼ばれ、北小河内中村の東方にある。小式部城の一支嶺で、南の渓谷は

一の堀川(二蔵沢)、北には前林沢川が流れている。主郭は標高860mの山背を削って造った正八角形の平地で、

東西の経約23m・南北の経約20mの広さがあり周囲には高い土塁をめぐらしているので、形状はあたかも鉢のよう

で、お鉢の名が起ったのはこのためである。(中略)お鉢の主郭と雛壇状三か月郭とは、本城郭の一特徴であり、

この城も上ノ平城周囲山城系列の一つをなすものとして取り上げたが、小式部城と同じく戦国時代に補修され、

再び山城または狼煙台として用いられたものと信ずる。とある。また、「伊那の古城」には古老の話として、この

お鉢の城主は「二蔵」云々と言っていたが、西箕輪の羽広に退散したという伝承があるそうだ。と書かれており城

主が二蔵と言ったので南の沢を二蔵の沢と呼ぶようになったという。


~普済寺跡~

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寺山砦と城ヶ峰の間にある法華沢にある普済寺跡。(近年、土石流災害があったらしい) 

ohachi21.jpg

普済寺は現在、南小河内の台地上にあり妙心派の禅寺であるが、本来は法相宗にて天平のころの開基だと言われ、
後中興の祖源三位頼政公建立と伝えられる。
伝説の真偽はわからないが南都六宗の一つで極く古い寺であり、南小河内に移っても、尊氏・信玄・小笠原氏の
尊宗を受けていたという。


~登城口~ (入り口がわかりずらいので紹介します。)

ohachi18.jpg

登城口は城があるお鉢の南側(二蔵の沢)から登ります。
ここは西南尾根になり、西にも尾根(後で紹介)があるが藪が酷く登るのはかなりの覚悟が必要です。


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二蔵の沢の入り口に、中村家・久保田家の祝殿?があります。

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この祝殿の脇にわずかながらの踏み跡があるのでここを入って行きます。
この道は山仕事の為のもので一応籔がはらってあるので迷うことはあまりないと思います。
(自分の場合は、西尾根から登り、帰りにここから下りてきました。)


お鉢図面

城跡の紹介を始めていきますのでこの図を覚えてね!!!

~ ①西南尾根(登城口) ~

ohachi5.jpg

この尾根を登っていきます。(尾根途中から下を見た所)
下の方は笹藪が酷いが中腹あたりは下草はあまり見られない。


ohachi4.jpg

西南尾根を登った本郭近くを見上げた所です。
スペシャルな籔です。。。。。。(>_<) 


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本郭に近づくにつれて高さ1mほどの段郭が現れてくる。
山の傾斜が急なのでここに柵などを張り巡らせばかなりの防御効果が得られたと思われる。
この道をたどると本郭の土塁の切れ間に着くので、ここが大手であった可能性がある。


ohachi6.jpg

尾根中腹からの眺め。。。。籔さえなければ・・・・・(-.-) 

長くなってしまったので今回はここまで~。。。。(-。-)y-゜゜゜

次回は・・・・地獄の西尾根からの紹介をしたいと思います。

お楽しみに!!!!!
  1. 2012/10/04(木) 10:08:57|
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箕輪町  寺山砦

上ノ平城砦群??

所在地・・・・箕輪町東箕輪北小河内                     訪城時間・・・・10分(林道歩き)

危険度・・・・★☆☆☆☆                            訪城目印・・・・無量寺

訪城日・・・・2010年3月28日


kosikigasiro.jpg
国土地理院2万5千分の1使用

               ~寺山砦の歴史~

「箕輪町誌」には、

北小河内の東部において、小式部城の支峰が無量寺の上にのび、南は法華経沢、北は西光沢との間に突き出した

所の丘頂にある山城である。(後略)「城の構造の説明」が書かれているだけで歴史については書かれていない。

その他の資料においても歴史には触れていない。

小式部城にも書いたように、樋口内城の樋口氏(この地の豪族の可能性も)、上ノ平城関連が指摘されているが、

構造が簡素であることから戦国時代の改修は無かったのではないかとの見方もある。

そうすると、樋口氏の支城またはこの地の豪族の詰城であったのが、武田氏侵攻時に上ノ平城砦群に組み込まれ

小式部城の登り口の砦として利用された。。。。という考えもあるかも?

ただ、無量寺付近に竹ノ腰・小屋場の地名があるので寺山砦もしくは小式部城の居館があった可能性も考えられる。


                ~寺山砦の現状~

terayamatoride.jpg

この図に沿って説明していきます。

terayama1.jpg

竹ノ腰公園から小式部城へ通じる林道脇にある寺山砦入り口の説明板。
(平成10年には無く12年再訪時には建てられていたもの)
 


terayama2.jpg

説明板を見る。
(説明板には村人の避難所ではないかとあるが。。。。もっと山奥に逃げるでしょ~。。。
麓から10分じゃ~すぐつかまっちゃいますよね。違うと思うんですけど???) 


~ 堀① ~

terayama11.jpg

林道から30mほど笹藪をかき分けて行くと最初にこの堀切が現れる。
上幅は3mほどあり。。。。深さは。。


terayama15.jpg

2mくらいかな?。。。。この周辺の城砦群は笹籔がすごいんです (>_<) 

teramayama13.jpg

堀切は斜面を3分の1程、竪掘として落とされています。。。。籔でわかりませんけどね。

~ 郭① ~

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堀切①を渡った所から見た郭①。。。。ム~。。。籔ですな。 (・へ・) 

terayama31.jpg

郭①から堀切①方面(尾根続き側)を見た所。
奥に一段高くなっている所は堀切の対岸で郭側に土塁がないので城内が丸見えであることがわかる。


terayama17.jpg

郭①内部は削平が甘く自然地形に近い感じとなっている。
写真では帯郭のように見えるが明確な段差ではなく緩く下がっているような感じで人工か自然か悩む所である。


terayama34.jpg

郭①には感激の城址碑があります!!!! !(^^)!
こんなマニアしか来ない砦跡に建ってるなんて~感動です! 


~ 堀② ~

terayama43.jpg

郭①から見下ろした堀②(藪からいきなりの高低差2mの壁ハンパなく垂直で。。。冷汗ものでした。)

terayama48.jpg

こちらも藪に覆われていて正確な深さはわかりませんが。。。。鋭い堀となっています。

terayama45.jpg

郭②から見た堀②の切岸。。。。。。。鉄壁な防御!!!

~ 郭② ~

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堀②から見た郭②.。。。。。籔が酷くて思わず引いてしまいました。 (-_-;) 

terayama67.jpg

なんかの資料に尾根の先端にみんなの憩いの東屋が建っています。。。。って憩えね~。。。
郭②は平場は確認出来るものの籔がすさまじく・・・・詳細は見れませんでしたが、このあたりにもう一本堀切が
あると書かれている資料もあるが、埋まってしまったのだろうか?
それとも。。。見落としたかな???


~ 遠望 ~

terayama5.jpg

寺山砦をお送りしてきましたが、堀切は立派なのに郭内部は自然地形・土塁もないという不思議な城跡でした。

籔が酷く見落とした遺構もある可能性もありますが、小式部城の大手を見張る程度の砦で少数の兵士が入って守っ

ていたのであろうと思われます。

堀はお勧めですので小式部城へ訪れるついでに見て下さい。。。。籔すごいですが。。。。(-。-)y-゜゜゜



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編            (宮坂 武男      )

箕輪町誌                   (箕輪町誌編纂刊行委員会   昭和61年)

長野県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第5巻  (長野県文化財保護協会  昭和50年)




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  1. 2012/10/01(月) 16:55:23|
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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