長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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塩尻市  北熊井城⑤

巨大城郭北熊井城の最終回です。 

北熊井城は、領地防衛・他領地侵略など戦略的城郭の一面と地域支配としての城郭という面を兼ね備えていたこと

がうかがえ、今回は北熊井城の外郭の備え・侍町・鬼門除けの寺社・推定城主居館・伝城主五輪塔などの地域支配

をうかがわせる部分の紹介をしていきたいと思います。

(なお、塩尻市で外郭が見られるのは、以前紹介した西條城砦群と北熊井城のみである。)


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城を守る鎮守たち・・・・北熊井城には、鬼門除けの常光寺・裏鬼門を守る山王様が祀られていた。

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北熊井城の東側にある一本杉といわれる常光寺跡で、武田氏による北熊井城落城によりこの常光寺も兵火により

焼失したとされている。この寺は北熊井城の鬼門除けの為に城主により建立されたとする。
 


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現在も林の中に、寺院に関係するかわからないが、段差などが見られる。

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二代目の一本杉

この一本杉は、武田氏の兵火により焼失した常光寺の境内にあったもので、この杉だけが残った。

初代の杉は、幹周り約10mあり樹齢千年であったと記録にあるが、明治2年に落雷で焼失してしまい、現在の

杉は2代目であるとされている。


sannnousama3.jpg

北熊井城の裏鬼門を守る為に祀られていた山王様

sannnousam2.jpg

城の裏鬼門で、今の町村大沢公会所の所に京都より山王日枝神社「山王様」が祀って城の氏神様としていたが、

明治41年に諏訪神社に合祀され蚕玉社の社殿となっている。


また、北熊井城関連として中島の公会所付近に貯蔵庫らしき穴がいくつか確認されている。

町村の俎原(まないたはら)は馬場であり、松葉は的場、竹の花は館のはな、その他城下・前田・中屋敷・山王・

南久保・北久保など城に関係があると思われる地名が存在している。


kitakumai91 (2)

伝城主五輪塔と後方に北熊井城

城の南西に城主の墓と思われる五輪塔が2基と宝筐印塔の残欠があり、周辺の人はこれを五輪様と呼んでいます。

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伝城主五輪塔と推定城主居館跡(後方の錆びた屋根の家周辺) 

~ 出構え ~

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北熊井城の西側、侍町が切れる所に出構えとされる遺構が存在する。

本来なら、写真を撮り直す必要があったのだが。。。。。年末の大雪で断念してしまったのでこの写真で

説明すると。。。写真に見える1m程度の段をたどっていくと奥に出っ張りが確認出来る。

これが出構えとされるもので横矢を狙ったものと云われており、下の細長い田圃は堀跡とされている。
 


~ 出構えに関連する砦 (古堂) ~

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北熊井城には出構えに付属する古堂と呼ばれる砦が存在し、出構えと共に城の西側の総構えとして防御をになって
いたものと思われる。 


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砦跡を見る。

左側の高まりが砦跡で、右側青いトタンの建物のある部分が堀跡とされている。


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砦内部は、狭いものの周囲を2~3mの土塁が構築されている。

一部に虎口状の開口部が見られるが、砦当時のものか後世の墓地によるものかは不明。
 


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砦跡は、周囲を切岸で守られており一応、砦としての機能を備えていることが見える。 

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北側・東側には掘を巡らし、西側・南側は出構えと連結し高さ4~5m程の切岸で守るという形式になっている。 

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外郭である出構えの南側は、写真のように高さ4~5m程の段となっており砦(写真左の切れている籔)と

連結している為、ここも出構えの一部であったと思われる。
 



5回にわたってお送りしてきた北熊井城はいかがだったでしょうか。。。。。ちょっと長すぎた感もありますが、

戦略的城郭としての一面と地域支配城郭としての2面があることがわかっていただけたでしょうか。

地域の方の努力が報われることを願っております。


kitakumai91 (18)


今年の更新はここまでで終わらせていただきます。

いつも見に来て下さる方達には感謝しております。
また来年もよろしくお願いします。。。。。。。。。。。良いお年を!
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  1. 2012/12/28(金) 19:16:14|
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塩尻市  北熊井城④

さあ~北熊井城の後半戦でございます。。。。B地区編

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今回は、北熊井城の西側部分のB地区をお送りします。 

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~ 郭①(中の城) ~

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本城(本郭)から見る郭①(中の城)

B地区の郭①は、北熊井城跡内において実質的な二の郭にあたるものと思われるが、堀をはさんだA地区に比べこれ

からお送りしていくが郭の削平が甘いという特徴が見える。
 


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B地区郭①(中の城)の南東部には、神社が祀られていてこの神社を囲むように高さ30cm程度の土塁が、郭の

南東縁部に残る。
 


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A地区郭①(本城)から見る、B地区郭①(中の城)の南東隅部を見る。

郭の隅部が土塁によって高まりになっているのがわかり、この真下が伝大手であることから櫓台もしくは郭内の

目隠しの役割を担っていた可能性がある。
 


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郭①(中の城)内部を見る。(奥にA地区本城)

以前は笹藪で詳細を見ることが出来なかったが、現在、地元の方が笹刈りをしてくれているので以前では中々気付

かなかったが、郭がかなり北側に傾斜していることが確認できた。

城内で二番目に大きな郭ではあるが郭内部の削平が甘く居住区・恒久的な施設を置くような地区ではなかったので

はないかと思われる。
 


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B地区郭①(中の城)の北東隅部中段には、傾斜はあるが腰郭のような出っ張りが存在し、資料には、この腰郭と

A地区の郭①(本城)の北西隅部中段の堀状の出っ張りとを橋を渡して行き来していたのではないか、としている

ものもあるが、本来の使用目的は不明ながら、北熊井城の北側斜面には竹ノ花遺跡で見つかったような遺構が

埋まっている可能性もある。 


~ 堀① ~

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堀①は、B地区郭①(中の城)と郭②(下の城)間に構築されている堀で、上幅15mの大きな堀となっている。

郭の関係は、郭①(中の城)が、郭②(下の城)より約2mほど高く堀を挟んで見下ろす関係になっている。
 


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堀①は他の堀と違って、堀内部が平坦ではなく、写真のように山なりに構築されていて真ん中あたりは両端に

比べだいぶ浅くなっている。これは埋まったのではなく構築当初からこのような造りかたであったと思われる。

その後、堀①は堀③の横掘に接続し、接続部分は西門跡とされている。


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堀①の真ん中部分は浅くなっている。

以前は、かなりの籔であったがここも地元の方のおかげにより整備され見やすくなった。
 


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堀①遠望

~ 郭②(下の城) ~

kitakumai62.jpg

kitakumai61.jpg

郭②(下の城)はまったく整備されておらず、写真のように笹藪で詳細確認は出来ない。

しかし、笹の形状から西側に傾斜していることが確認でき、堀①に面して高まりが確認でき土塁があった可能性が

ある、このような自然地形のような郭に土塁があったかは疑問でもあるが。。。(?_?)
   


~ 郭③(西一の曲輪) ~

kitakumai300 (5)

郭③(西一の曲輪)は、郭②(下の城)の西側約3m下に存在し、こちらも明確な削平は見られない。

(写真の左側は、郭②(下の城)の切岸)
 


kitakumai300 (6)

郭③(西一の曲輪)は、堀③からは堀状の虎口から入るようになっており、車の奥にある高まりにより堀③からは

見えないようになっていて隠し郭のようになっている。
 


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郭②(下の城)切岸下と郭③(西一の曲輪)間の北側斜面には、堀状の窪みが確認できることから堀切もしくは

北側斜面への竪掘などがあった可能性がうかがえる。
 


~堀③(南側横掘) ~

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堀③は、B地区南側を守る為の横掘で長大に構築され、A地区の横掘と伝大手付近で食い違い虎口を構成している。

現在、郭③(シイタケ栽培がおこなわれている)への車道となっている。(写真は、郭①(中の城)下の部分)
 


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伝西門を見る。

この場所は、片丘村誌に西門と記載される場所で、堀③と堀①が交差し堀①がそのまま竪掘城に落とされている

土塁の切れ目を西門跡としている。
 


kitakumai71 (3)

この西門跡説を素人なので全く否定するものではないが、西門跡とされる窪みを下りてもこの堀③は二重の横掘

となっていてそのまま城外に出ることは出来ない。

さらにこの自然の沢を利用した外側の堀の城外は、門跡とされる窪みより高く逆に城外の敵に攻撃される恐れが

ありこの窪みを門跡とは疑問と考える要因となっている。


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伝西門跡の他にも堀③には土塁に切れ目がある部分がある為、あの場所だけが門跡とする説に疑問をもつことの

一つとなっている。 


kitakumai71 (11)

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自分としてはこの堀③の最西端部のこの部分が大手ではないかと考えている。

この部分は、郭③(西一の曲輪)の南側、堀③が終わる部分で堀が二重になっていて、郭③は高まりで見えなく

隠し郭のようになりこの部分からは分からない、しかも、城主の居館・侍町・外郭はこの西側に構えられている。

本城からも一番遠いい場所に位置するなど。。。。。ここでは?と考えている。
 


kitakumai91 (5)

北熊井城の最西端部を見る。(自然の沢が堀の役目をもっており、台地と切り離している) 


さあ、長々と書いてきたB地区はいかがだったでしょうか?
A地区と比べ郭の削平が甘いことや、堀(①)の構築のし方が違うなど、A地区とB地区との構築に違いが見られる
ように感じた。

素人なのでこれと云った確定的な説を言うことは出来ないが、大手の位置にはかなりの疑問をもっている。

どなたかが確定してくれるといいな~。。。(-。-)y-゜゜゜  (ひとまかせ~)


次回は。。。。北熊井城の最終回で外郭を紹介したいと思います。お楽しみに!!!
  1. 2012/12/25(火) 17:20:44|
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12月21日の訪城結果

12月21日は、有休をもらったので1日かけて満喫してきました。。。。!(^^)!

          ~ 12月21日の訪城結果 ~

念願の訪城・・・・あら城(中川村) 

arazyou.jpg

この頃は、南信ばかり訪城している。(北信は雪があるからね。)
中川村は、この間、船山城・葛島城・大草城と訪城していて離れた所にこのあら城があった。

あら城は、大草城の支城で烽火台であったとされる。

行かなければ・・・っと思っていたのだが、山奥にあるようだったので敬遠していたが、
地形図を見て訪城してみた。

城跡はというと。。。本郭はきれいに削平され土塁・虎口が存在し、満喫できた。
周囲はほぼ絶壁の沢に囲まれているので堀は必要なかったようだ。


やっとたどりついた城跡・・・・前沢城(中島古城)。。(中川村)

maesawasiro.jpg

以前に船山城などを訪城した時にここも計画に入っていた。。。。しかし、40分かけても見つからずあきらめて
しまった。
今回こそはリベンジしてやる。。。っと地形図を用意し挑んだ。
地形図の力は素晴らしく、以前彷徨った場所のすぐ横にあったのだ。。。。ここかよ。。。(-_-;)

城跡はというと。。。。。薄暗いスギ林の二の郭・笹藪、間伐したままの倒木、籔に埋もれた社の本郭。。。。
不気味だ。。。。。。っということでさっさと城跡を後にしたのであった。

・・・・・堀切はきれいでしたよ。。。V



発掘後の調査でもっと城域が広かったことがわかった・・・・原城(はらんじょう)。。。(高森町)   再訪

harannzyou.jpg

原城は近年に本郭南側の道路拡張により、堀切・切岸が確認された城跡である。

この城跡は、発掘調査の見学で何回も通ったが、原城のシンポジュウムに出た時に、原城の城域がもっと広かった
ことを知った。宮坂氏による再調査も行われ新しく作り直されたとのことであった。
どこで載せられるのであろうか?

ちゃんとしたものではなかったが縄張り図を教育委員会にもらったので全域を見てきた。



無名の城跡・・・・・天伯の城(高森町)

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この城を知ったのは、教育委員会に最近発見された城跡はないかと、問い合わせたところ。

この天伯の城と茶臼山烽火台を教えてもらった。
この城跡はどの本にも載っていないので歴史は分からないが、原城と同じ台地で近接しているので関係があった
と思われる。
たしか。。。。どこかのホームページにのってたな。。。。。。遺構は単純なもので古い形式のように見えた。



近世の陣屋と中世の城跡のマッチング・・・・・・山吹城(高森町)

yamabukisiro.jpg

ここは座光寺氏の居城であった所で、現在も中世の遺構と近世の陣屋遺構が残る貴重な遺跡である。

周囲には陣屋時代の石垣や中世期の城跡時代の堀切などが残り見どころ満載であったが中々分かりずらい場所で
あり高森町にしては珍しく標柱などはなかった。



整備が始まったようですよ!!・・・・吉田古城(高森町)

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本郭はきれいに整備され見やすかったが周辺の堀跡は一部が竹藪の間伐が進み見やすくなってきた。

竹に印があったので整備を進めて行くようで楽しみである。
堀跡の中に水の手のマークがあったので、ものすごい荒れた竹藪の中を歩いてきたが。。。枯れたようだ。(-.-)
せっかく彷徨ったのに~。
 



堀中の地獄の竹藪・・・・・吉田本城(高森町)

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吉田古城に近接するこの城は、整備がまったくされておらず、古城との差に驚かされる。

しかももっと驚いたのが本郭の籔・堀中の荒れた竹藪。。。。史跡なのにどこを見ろと?
といいつマニアですから。。。。歩いてきました。

堀中にお姫様井戸なる記述があったので、恐ろしいほどに荒れた竹藪を彷徨った。。。。しかし。。。。
彷徨えど彷徨えど一向に見つからない。。。。。40分たった。。。薄暗い。。。。怖い!
我にかえるとやはり恐ろしくなる。。。。。無いじゃん。。。埋まったか?

古城より優れた縄張り。。。。こっちを整備すれば~。。。(-。-)y-゜゜゜



消滅寸前だな~・・・・・吉田南城(高森町)

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史跡。。。。。といいつつも土塁がわずかでした。。。もっとはやく手をうってほしかったな~。

堀も埋められちゃったし、あまり見るべきものはなかったな。



小規模ながら良く残っていました・・・・・古御家(高森町)   再訪

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学校の近くに存在するのでどうしようか悩んだ挙句に行ってきました。。。。通報されたらどうしよう。
やはりこそこそしてしまう自分。(-_-メ)

城跡は単純な縄張りながら高い土塁・井戸・堀切が良く残り好印象。

楽に行けるのでお勧めですよ。。。!(^^)!



道路建設で半分無くなっちゃいました・・・・大下砦(高森町)   再訪

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近年、道路建設により本郭と堀切は消滅してしまったが、斜面には竪土塁・竪掘が残っているので見直してきた。

あれ本当に竪土塁なのかな~。。。。。。砦にあんなの造るのかな?
報告書を手に入れてあるので見直してみよ。



やっぱ素晴らしい縄張りです・・・・・北本南本城(飯田市)   再訪

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この城は、とても好きで良く残っている城跡で何年か前に訪城したが、寝惚けて写真を消してしまったので、
もう一度訪城した。。。もちろん、平日なので北本城は遠慮しました。(小学校が城跡なので通報されます)

少しまえより荒れてきた感はあるが、尾根上の馬出とされる周辺は、以前より草刈りなどが進んでいた。
堀切の多用・きれいな本郭の土塁・郭の削平。。。。。惚れ惚れでした。


始めて見る縄張りに興奮・・・・北山城(飯島町)

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ここは見けるのにかなり苦労しました。。。千人塚公園の近くとは聞いていたが特徴が無くウロウロ。

時間はすでに4時近く。。。。薄暗い。。。。林の中をウロウロ。。。写真はピンボケばかりでした (-_-メ)

遺構は、二重の横掘が単郭の本郭を囲むように構築され合流したところから竪掘りとして麓近くまで落とされて
いるようであるが。。。。さすがにくらい林の奥に行く度胸もなく。。。。。あえなく撤退したのでした。

もう一度、リベンジを誓ったのでした。



以上、満喫した12城でした。。。。。記事は。。。いつかな~???

これで訪城数は合計730城となりました。。。。パチパチ!(^^)!
  1. 2012/12/22(土) 21:21:27|
  2. 本日の訪城
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塩尻市  北熊井城③

A地区の続きですな。

長くなってしまいますが、お付き合いください。


kitakumai03.jpg

~堀②(城跡南側横掘)~

kitakumai11356 (6)

堀①はA地区の南側の守りと共に、巨大な土塁は大手とされる部分の

食い違い虎口を構成する一部となっている。

堀①の範囲は大手部分から郭②(東一の曲輪)の南面までの長大なものとなっている) 


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堀①の大手付近を見る。

大手付近は、巨大な土塁・深い堀・本城の中段に帯郭・本城の土塁切岸と四重の守りとなっている。
 


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堀①の土塁には開口部が存在する。

通常土塁に開口部があると敵に侵入される可能性が増えるので出来るだけ少なくしたいと言うのが普通であろう。

しかし、北熊井城はA.B地区合わせれば土塁には6ヶ所ほどの開口部が存在する。

一部には東門(上の写真)・西門などの名称がつけられているがその他の用途は不明のままとなっている。

何に使用したんでしょうね。 


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本城から見た郭②(東一の曲輪)側面を通る堀① 

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堀①は郭②に来ると小規模となり(道路により埋められた可能性もあるが)やがて郭②の東堀切部分で無くなる。
(地元の方の整備には感謝しているが、素人の整備では写真のように重機を入れてしまうなど部分的な破壊が見ら
れるので、やはり教育委員会など行政がかかわって整備をすすめるのが望ましいが・・)
 


~堀③(本城東側の三重堀切)~

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三重堀切の一番目(本城側)の堀切で上幅11m・深さ本城側で4mほどの規模となっており三重の中では一番小規模

で、南側末端は本城南側帯郭に接続している。(形的には帯郭に土塁を盛った様な形状をしている。)
 


kitakumai600 (2)

2本目と3本目の堀切間の土塁状から見た堀②(奥に本城の土塁が見える) 

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三重堀切の中間の堀で一番の規模を持ち、上幅20m・深さ約10mほどとなっている。
(この堀にも整備の際に重機が入った痕跡がある)


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この堀は、本城南側の横掘の堀①に接続していて堀が付き合たった部分の土塁が開口部となっている。   

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堀間の土塁上から見た三番目の堀切、右側は郭③(東一の曲輪)

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三番目の堀切の内部を見る。
規模は上幅10m・深さは約5mほどある。
 


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三重堀切を北側から見る。

郭③(東一の曲輪)の北西隅部が堀切を囲むように伸びてきていることがわかるだろうか。

用途は不明だが。。。。。敵に登られたらどうするんでしょうね。。。(?_?) 


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三重堀切全景。。。。。!(^^)!  美しい!!!(現在は藪に戻っているけど)

~郭②(東一の曲輪)~

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東一の曲輪内部を見る。(奥に本城の土塁が見える)

東一の曲輪内部は現在、畑となっていて土塁等の遺構は確認できない。
 


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東一の曲輪の切岸。

左側は、浅くなった堀①、東一の曲輪の東側にも堀切④が見られることからやはり堀①は道路により破壊された

ものと見られる。 


~堀④(東一の曲輪と二の曲輪間の堀切)~

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堀④は現在、畑への入り口の通路として使用されており、かなり埋められたようであるが縁部は原型がのこされ

ているようで、上幅約10m・深さ(一番深いところで)約5~6mとなっている。
 


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郭②(東一の曲輪)と堀切④を北側から見る。 

~堀⑤(東二の曲輪と竹ノ花間の堀切)~

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東二の曲輪と竹ノ花は現在、畑となっていて見るべき遺構はなく、堀⑤もわずかな段差があるだけで、道路として

改変されていて堀のようには見えないが横から写真のように見ると堀であったことが分かる。


~過去の発掘調査(土地改良事業)~

1988年に塩尻市教育委員会によって「竹ノ花遺跡」として堀⑤の西側「東Ⅱの曲輪」北側斜面の発掘調査が行われ

北熊井城にかかわる遺構が確認された。

発掘調査前には、東二の曲輪から1.5m下がった部分に巾2m前後の帯状平坦地が一段存在することが確認されていた

発掘はトレンチ調査であった為に全容は確認できていないが、

この平坦部分は、斜面への削平・盛り土によるものではなく、斜面を横に深く掘りこんだ溝状の遺構内にその後の

土が堆積した結果、帯状になったことがわかった。

形状としては、東二の曲輪から65~75°の傾斜で切岸を落とし、溝状の底部巾25~35cmを経た後、再び65~75°

の傾度で70cm立ち上り、幅30~40cmの平坦地を経た後に、26°の傾斜で下っていく形状となっていたことが分かっ

た。また、溝底部は緩やかに(傾斜郭5°)東側に立ち上っていくことが確認された。


kitakumai63528.jpg

報告書の記述と写真を参考に作成

この遺構について報告書の使用用途の推考として、

本址の時代属性については、遺物の伴出はみなかったものの、北熊井城に関連するものと考えられる。

検出範囲が狭く、その性格については限定は難しいが、空掘・土塁・馬出等が考えられる。

空掘としては、北熊井城に見られる他の施設に比して小規模すぎることと、郭上部までわずかの距離しかないこと

から可能性は薄いと思われる。

土塁については、結果的にその形態を呈していることから、土塁的役割は当然付されているとは思われる。

しかしながら、土塁が持つべき防御線としての役割を果たす為には、その内側、つまり溝部分の空間が行動空間

としてあまりに不十分であり、また主郭に見られるように、斜面中に築く以前に郭周辺部にまず構築されている

べきかと考えられる。


kitakumai41 (13)

夕日のなかの主郭土塁と昭和50年に約百本近く植えられた中で唯一残った桜の木

しかがって、土塁そのものを目的としてなされた施設とは考え難い。

最後に、いわゆる「馬出」については、溝底部の狭隘な点からやや疑問視されるものの、馬ばかりでなく、兵の

出入りを主な目的とした施設としては、充分その目的にかなうものと考えられる。

緩やかに西斜する底部がこれを裏付けていると考えたい。(後略)

としている。



今回も長々と書いてしまいましたが、なんとかA地区が終わらせることができました。

写真を多く使用して、説明してきましたが北熊井城の良さは伝わったでしょうか?

次回はB地区をお送りしたいと思いますので、お付き合いください。



~参考文献~

竹ノ花遺跡発掘調査報告書     (塩尻市教育委員会  1988年)

今泉・竹ノ花遺跡発掘調査報告書  (塩尻市教育委員会  1987年)
  1. 2012/12/22(土) 11:17:33|
  2. 塩尻市
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塩尻市   北熊井城②

やっと遺構編となりました北熊井城ですが。。。なんせ文章能力がないもので写真を多用しますが
どうかお付き合いください 
 

kitakumai02.jpg

書くのに6時間ほどかかってしまった図面をA地区・B地区に分けて紹介していきます。 

               ~ A地区 ~

kitakumai03.jpg

A地区拡大図

~堀①~

kitakumai82.jpg

堀①は本城(郭①・右側)と中ノ城(B地区郭①・左側)との間に構築された城内最大の堀切で、現在は車道となっ

ており普通車が通れるほどの巨大なものである、また大手とされる部分へとつながっていて本城の虎口への通路と

もなっている。 


kitakumai81.jpg

堀①の上幅は25mある。(中ノ城から堀①と大手方面を見る 

~大手?~

kitakumai6.jpg

現在、この堀①から南側に出た部分が大手とされていて保存会による標柱と説明板が建つ。

この大手とされる根拠は、「片丘村誌」掲載の図面の名称と伝承・食い違い虎口のようになっている。

と云う所だと思われるがこれはかなり疑問で、この大手とされる部分からわずか20mほど接続している堀①を

たどれば本郭とされる本城へ上がる為の通路・虎口へ直接入れてしまうからで、これでは無防備すぎる気がする

からである。 


kitakumai3.jpg

本城から見た大手(土塁が食い違いに構築しているのがわかるでしょうか) 

~郭①(本城)~

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大手から見た本城の虎口(資料によってはこの場所ではないのではないかと疑問を投げかけているものもある) 

kitakumai41 (11)

kitakumai41 (21)

広大な本城を見る。(2年ほど前の写真)

本城には北側・東側・南側に土塁が構築されていて東側の土塁が一番高い、虎口は西側にある。

始めて訪れた10年前は、この本城は西側半分が畑で東側はものすごい籔となっていて土塁さえ確認できない状態

であった。現状を見ると地元の方の努力には頭が下がる思いである。。。。現在はまた籔に戻りつつあるが。
 


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本城内で最大の高さの西側土塁を見る。(高さは一番高い所で2.5mほどある) 

kitakumai41 (14)

東側土塁と南側土塁の隅部をみる。(南側土塁は高さ1mほどとなっている) 

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北側土塁を見る。(高さ30cm程度)

北側は比高50mの切岸状の壁となっているので高い土塁は必要なかったと思われる


kitakumai41 (3)

本城の南側中段にある帯郭を見る。

この帯郭は西側へ行くと本城東側の三重堀切に接続することから横掘ではなかったのかと指摘されている。
 


kitakumai41 (17)

本城の北西中段で堀①に接して存在する使用意図不明な遺構。

この遺構の使用意図の説として、横掘であったのではないかとするものと、B地区の郭①(中ノ城)の北東隅の

中段にある腰郭と橋をかけて行き来していたのではないか。という説が挙げられている。


kitakumai41 (19)

本城からの眺め。

北熊井城の北側に山寺沢が沿うように流れていて沢に沿って田圃が細長く造られている。(写真真ん中)

この田圃部分を「旧常光寺跡」・「城下」と言われている。

城の北側の堀の役目などの防備として構築されたものと思われる。
 


あんまり熱くなりすぎて本城だけになってしまった!!! (-_-;)

次回はA地区の巨大な堀のオンパレードをお送りしますのでお楽しみに。
  1. 2012/12/20(木) 22:12:32|
  2. 塩尻市
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塩尻市  北熊井城①

巨大城郭は誰のもの???

所在地・・・・塩尻市片丘北熊井町村                         訪城時間・・・・5分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                別 名・・・熊野井城

訪城日・・・・多数(通いまくり !(^^)! )


この北熊井城は、大好きな城跡であり、毎年何回も訪城しています。しかし、地元の方の努力による
整備も広大な城域に中々追いつかず、草刈り場所が移るたびに前回整備した場所が籔になっていくという
イタチごっこになっている。

地元の方の努力とご苦労に感謝すると共に行政による関与や史跡指定を望むものである。

今回は(毎回であるが・・・)何回も通って撮りためた写真を多用し、北熊井城の魅力を皆様に伝えて少しでも
訪城してくれる方を増やせるようにしたいと思います。が・・・・結構長いかもしれません。
できればお付き合いください。。。。(-_-;)


                ~ 北熊井城の歴史 ~


kitakumai91 (3)

夕焼けに浮ぶ北熊井城の本郭。 

「信濃史学会」編の「信濃中世の館跡」を中心に書いていきます。

「熊井郷」は文治二年(1186)「乃貢末済之庄々注文」(吾妻鏡六)に初めて名前が出てくるが、鎌倉期には信濃

国府の支配下の国衙領として推移したもののようである。

南北朝動乱期に小笠原貞宗が守護に任ぜられると、熊井郷を塩尻西条と共に府中小笠原氏が南部の防衛拠点として

城を築き一族を配して、対立する諏訪上社の諏訪氏に備えたものと考えられる。

小笠原氏は諏訪上社諏訪氏と諏訪下社金刺氏の対立に着目し諏訪下社に社領の寄進状を出して友好関係を維持しよ

うとしている。


kitakumai91 (20)

夕日と北熊井城

南朝元中四年・北朝嘉慶元年(1387)九月二十六日、諏訪頼継と小笠原長基が熊井原で戦った。

「府中熊井合戦、諏訪打負大死、小笠原打勝候」(守矢文書)

この戦いは北熊井城の南にある支城とされる南熊井城の東側の犬原で行われ、小笠原氏が大勝を諏訪上社神長官

守矢氏が記録したものであり、合戦の場所から見て、北熊井城が大きな役割を果たしたと見られる合戦である。

天文十四年(1545)六月十三日、武田晴信が上伊那をほぼ平定した余勢を駆って、筑摩郡に侵入し桔梗ヶ原に陣

を据えて北方の小笠原氏の本拠地林城近くに放火し、次の深夜に林の館に放火するなど荒らして周り、十六日、

勝鬨を上げて引き上げた。その際、北熊井城は自落している。そのことを「高白斎記」には、

「十四日林近所迄放火、桔梗ヶ原御陣所(比叡の砦のことか?)熊野井城自落、子刻十五打立、小笠原ノ館放火」

と記されている。

天文十七年(1584)七月十日、塩尻峠の合戦の小笠原氏に勝った武田氏は、天文十九年(1550)七月になると

小笠原氏の本拠地府中の攻略に乗り出した。小笠原長時は「イヌイの城」が攻め落とされると、十五日深夜、

本拠林城を始め周辺の諸城は城を放棄して逃亡してしまった。

これらの流れの中で北熊井城は、武田氏のものとなっていったと思われるが詳細を示す文献は見つかっていない。


kitakumai91 (19)

北熊井城を東側から遠望する

その後、北熊井城が文献に登場するのは、武田氏のものとなってから七年経った天文二十二年(1552)六月八日

「八日(巳末)節、熊野井、城鍬立」とあり北熊井城は武田氏により改修されている。

武田氏滅亡後、小笠原貞慶が筑摩郡を回復すると溝口美作守に北熊井村において二百貫、塩尻郷において千貫を

宛行っている。貞慶は溝口美作守をして北熊井城の経営に当てたものと思われる。

*「信濃の山城」では、北熊井城の築城者を、対岸の高出に居住した下社領時代諏訪派遣の大和織部が、小笠原氏

の命を受けてこの城を大永・天文の頃に築城したのではないかと推測している。

なお、天正十七年三月七日小笠原貞慶から高出居住大和兵部衛門・織部丞・小兵衛宛吉田雅楽進分二十五貫文の

所を宛行われている。

また、よく出てくる城主ではないかとされる、熊井軍兵衛は北熊井城の支城である立小路城の城主であると

している。


             ~ 北熊井城の現状 ~

kitakumai01.jpg

北熊井城の立地は、鉢伏山の西麓にあって東街道・三州街道・西街道を望む位置にあり、城は東から西に傾斜した

舌状台地上にあって標高740m、東街道から比高50mである。

西側に城下町・砦・出構が構築されている。
 


kitakumai02.jpg

北熊井城は広大な城域を持つ為、説明はA地区とB地区に分けて紹介していきたいと思います。

ktakumai2.jpg

大手とされる場所に建つ保存会による説明板。(近年建ったものだが地元の方には感謝ですね。) 

っといいつつ長くなってしまったので遺構の説明は次回ってことで!!!

お楽しみに!!  !(^^)!



~参考文献~  

山城探訪       (宮坂 武男     平成10年)

信濃の山城      (信濃史学会      1988年)

信濃中世の館跡    (信濃史学会      2000年)
  1. 2012/12/19(水) 21:01:30|
  2. 塩尻市
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12月8日・9日の訪城

12月8日・9日の2日間の訪城成果を紹介したいと思います。 

~ 12月8日 ~

地域の方達の努力はいつ報われるのか。。。。・・・・北熊井城(塩尻市)    再再再再訪

kitakumai1.jpg

後方に北熊井城と伝城主の墓

8日は吹雪いていたが一年に5~6回くらい通っているのでなんとなく行ってしまった。。。
雪がふぶく中歩いている馬鹿は僕だけでしたが、行くたびに堀や郭がきれいになっていることに気付く。

地元の方の努力の成果であろうが。。。。。いかんせん広い城跡、整備場所が移るたびに前回に整備した
場所は藪になっていく・・・・イタチゴッコ・・・・・(-_-;)

地元の方の努力はいつ報われるのでしょうか。。。。



~ 12月9日 ~

この日は、らんまる攻城戦記のらんまるさんと共同で筑北村と旧四賀村を攻めてきました。

最強の山城・・・・・・仁熊城(筑北村)       途中断念

nyuumasiro2.jpg

仁熊城は青柳氏の物見の砦とされていますが。。。。。。。誰が行くんだよ!!!
っていうくらい険しい山であり、今回は準備不足?調査不足?と天候の急変により撤退を余儀なくされた。

道端には仁熊城入り口の標柱は建っているもののその後の道しるべ・登山道は無く。。。。。
危険で中々行けない城跡を何をもって史跡指定しているのか。。。筑北村よ。。。
トラロープ垂らしてくれ~。。。。。ここは本能的にやばいと感じた久々の城跡でした。

次回こそは命綱を使ってでも落としてくれようぞ (・へ・)
。 


nyuumasiro1.jpg

途中にはやつの痕跡もありかなりヤバい場所です。 

長大な竪掘に惚れ惚れ!!!・・・・掻揚城(旧四賀村・現松本市)      再訪

kakiage1.jpg

約2年ぶりに訪れた掻揚城。。。神が言うように2回3回と訪れないと全体は見れないものです。

前回、尾根先端から登り、下りも同じルートで下りたのでこの城に長大な竪掘があることを知らなかった。
らんまるさんのお誘いのおかげでこの惚れ惚れする竪掘を見ることができた。

感謝感激雨あられでございます。 



念願の城跡・・・・・・・猿ごや(旧四賀村)

sarugoya1.jpg

ここは旧四賀村を制圧するには避けては通れない城跡で険しい山であることを知ってしたので後回しになっていた
が今回やっと訪城することができた。

登ってみるとやはり険しく大変な工程であったが昔の人々がここにいたのか・・・・っと感じながら歩いてみれば
感慨深いものがあった。。。。しかし、遺構といへばやはり逃げ込み城なのでね。




もう一つ訪城した鷹巣根城では、カメラを忘れてしまい。。。。(涙)

今回も中々な冒険でしたが、あいかわらずこれらの記事がいつのなるのかは分からないのでございます。

ちょっとずつ書いていきたいと思いますのでお楽しみに。


また、今回もご一緒していただいたらんまるさんお疲れさまでした。

こういう微妙な趣味を共有できる仲間がいるのはうれしいことで、感謝でいっぱいでございます。
 
  1. 2012/12/13(木) 05:35:13|
  2. 本日の訪城
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辰野町  大城

歩くもよし!車で登ってもよし!の眺めだけが取り柄の烽火台

所在地・・・辰野町大字辰野唐木沢(大城山山頂)               危険度・・・★☆☆☆☆

訪城時間・・・(歩き)40分・(車)10分                      別 名・・・王城

訪城目印・・・禿げた山頂の目立つ山                      訪城日・・・平成10年3月14日



             ~ 大城の歴史 ~

「定本 伊那谷の城」には、

山頂の主郭部は、南北最大12m・東西58mの楕円形の平地で、東側に高まりが見られ、中央にわずかな段差が

認められることから、築造当時には二郭に分かれていたものと考えられる。

主郭部の周りには、幅3~4mの帯曲輪が巡っていて、帯曲輪の東側には一段低い郭と思われる平地、西側には

空堀が一本設けられている。(中略)この地に立てば伊那谷北部に点在する城館跡のほとんどを眼下におさめる

ことができる。まさに伊那谷最北の要衝である。(中略)

大城の名は、龍ヶ崎城跡の城山に対時する大きな城山という意味であろうか。横川川を隔てて立地するふたつの

城山は伊那郡と筑摩郡の交流を抑えるには、まさに要の地である。   とある。

この資料の言うとおり龍ヶ崎城の正面にあることから何らかの関係があったと見るのが良いと思われる。

ただ詳しい資料が無いので城主・所属大名等はわかっていない。



tatunooosiro100.jpg

おおよその縄張りはこんな感じです。。。。  

tatunooosiro32.jpg

登城路は二つあり、一つは林道を車で登る方法、こちらは約15分ほどで駐車場に着く、もう一つは林道の途中に

ある写真の登山道を登る方法である。
 


tatunooosiro31.jpg

今回は林道が雪で通行できなかったので登山道を登って見た。

登山道は、距離があり傾斜も厳しいが、写真のような馬頭観音や地元の方による「大城山山頂まで00m」などの

看板があり迷わず快適に登ることができる。(時間は約40分程度)
 


~ 堀① ~

tatunooosiro15.jpg

尾根にたどり着き尾根上を東に進むと山頂に着くが山頂手前50m程の所に堀①が存在する。 

tatunooosiro11.jpg

tatunooosiro12.jpg

堀①は上幅2m・深さ70~80cmという小規模なもので気を付けて見ないと見落としてしまう。

その他にもう一つあるとされているが今回確認できなかった。
 


~ 帯郭 ~

tatunooosiro1.jpg

本郭の切岸と帯郭を見る。
切岸は高さ8m程あり城のものとすれば立派である。(こんな烽火台に必要だったのかな?) 


tatunooosiro2.jpg

帯郭の北西部分には、土塁状の高まりが見られ、一部は横掘となっていた可能性がある。 

~ 本郭 ~

tatunooosiro8.jpg

tatunooosiro6.jpg

大城の本郭を見る。

現在、山頂(本郭)はパラグライダーの飛行場所となっている為、かなり改変されていると思われ、以前見られた

とされる2つの郭に分かれていた段差は確認できない。

(ピクニックなどにはサイコー!!な場所となっておりますが・・・(-_-;) )
 


tatunooosiro3.jpg

現在、駐車場方面から本郭へはこの虎口状の通路を登って入るようになっていて、わずかながら土塁状の高まり

が見られる、しかし、あまりにもきれいすぎて本当に虎口か疑わしい。

どちらか言えば、帯郭の東側の本郭切岸が低くなっておりわずかな段差があることからこのあたりではないかとも

感じるのだが・・・・・・・どうでしょ。 (>_<) 


tatunooosiro4.jpg

本郭の南側(結構な急斜面)に竪掘があるとされる。
写真のように上から見ると窪んでいるのが確認できるが斜面まで確認することが出来なかった。

こんな場所に本当に必要だったのだろうか?
 


tatunooosiro5.jpg

本郭東側の突端部

そういえば・・・・大城山にはもう一つの呼び方王城の伝説があるんです。。。

辰野町のすぐうしろに高くそびえている山を王城山といいます。

昔、坂上田村麿(さかのうえたむらまろ)が征夷大将軍となって東征したところ、蕗原の里を以前から領していた

親王がいました。この時、親王と田村麿は戦いを交え、親王もその妃も、弓矢を持って奮戦したといわれています

この戦いでどちらかが勝ったかはわかりませんが親王の居城のあったところを王城山と呼び、後、親王の妃を

まつったのが北大出の薬師寺であるといわれています。
 


tatunosooru78.jpg

大城山からの眺め

この伝説に出てくる親王は天皇に復服さない人々で、その人々が大城山に拠って抵抗していたのを、征伐にきた

田村麿(少納言三野王)が反乱軍と戦ったという伝承をもとに伝えられたのではないかと考えられている。。 


tatunooosiro45.jpg

とはいえ、現在の大城は戦国期に構築されたもので写真のようにここからは上伊那の城館が一望でき、この烽火台

の重要性が感じられると思う。

それにしてもこの烽火台は誰によって使われていたのでしょうか?

高所の城に不釣り合いな高い切岸・横掘状の遺構。。。。しょぼい堀切。。。。。?

小笠原? 武田? 保科?  さ~誰でしょうね。 (-。-)y-゜゜゜ 


tatunooosiro34.jpg

ま~。。。そんなことを考えながら山頂でお弁当を食べるのもいいのではないでしょうか。

この城は遺構を楽しむより眺めを楽しみ戦国時代に思いをはせる・・・そんな時間にお勧めです。

気軽に訪れられるのでぜひどうぞ!!!



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編      (宮坂 武男)

定本 伊那谷の城         (郷土出版社      平成6年)
 
辰野町誌             (辰野町誌刊行委員会  昭和63年)

辰野風土記            (日岐 三郎      昭和51年)

上辰野区史            (上辰野区       昭和40年)



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  1. 2012/12/09(日) 22:44:07|
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辰野町  狐城

樋口氏関連城跡

所在地・・・・辰野町樋口山際大久保山                     訪城時間・・・・20分

危険度・・・・★★☆☆☆                             訪城日・・・・平成10年3月28日

訪城目印・・・・伊那辰野停車場線「樋口」交差点


kitune1634.jpg

国土地理院 2万5千分の1地図使用 
周辺城跡配置図

               ~ 狐城の歴史 ~

「定本 伊那谷の城」によると、

狐城について「長野県町村誌」や「樋口家譜」では、戦国期樋口村を治めた樋口氏の物見の城あるいは館跡

と伝えているがさだかではない。ここから尾根伝いに登ると山頂は小式部城跡であることも考えると、

かなり広範囲にわたって城館の機能を考える必要がありそうである。

とあり、信濃史学会編の「信濃中世の館跡」には、

樋口郷の辰巳五町ばかりにあたりて究竟地あり、光安この山に於いて一城を築き居城となす。號して狐城という。

所領の知行八百貫、所謂樋口郷の下田・萬五郎・山際・漆戸・富岡・澤・澤底郷のうち山寺・鹿子屋・日向・

日陰・青山・新井・都合十二箇邑なり。光安子孫繁昌。而して後、居城五町ばかりにて要害の地あり。

ここにまた一城を築き隠居所となして家督を譲り、長子筑前守光忠、東山の城、狐城に齢居す。

光安没後、光忠、光安の隠居所に移り、この城より北五町ばかりに要害の地あり、光忠また一城を築き、

これを内城となす。長男筑前守光信に家督を譲りこの城に居さしめ、二男常陸に東山の城に居さしめ、

富岡・山際の二邑を与える。と樋口家譜に書かれている。

これらによると狐城は、樋口氏の城で光安・光忠などが居住したとされている。しかし、比高が低いとはいえ

山の上にあるこの城に常時住んでいるはずはなく「伊那谷の城」にあるように樋口氏の物見の城であったと

いう方が適しているように感じる。

なお城名にある狐は、見張所や見張りをしていた人に使われることが多く、狐は夜行性なので昼夜関係なく見張っ

ていたことを意味しているようである。


                ~ 狐城の現状 ~

kitune1928.jpg

この図に沿って紹介していきます。 

~ 平地 

kitune42.jpg

尾根の先端部にこのような山道の入り口がある。
この山道を50mほど登ると二又に分かれる、左へ登ればこれから紹介する平坦地へ、そのまま真直ぐに登っていく
と狐城の下を通り小式部城がある尾根へ通じる山道へとなる。
 


kitune12.jpg

先ほどの道を登ってくるとこの緩い傾斜のある平坦地の梅園に着く。
ここは尾根の突端にあり後方のピークに狐城が存在する。
狐城の本郭は狭いのでもしかしたらこの場所に兵士の小屋があったのではないのだろうか。
 


kitune16.jpg

kitune14.jpg

この梅園の西側に土を盛り小山を造って石碑を祀っている場所がある。
ここには物見櫓でも建っていたのであろうか。
 


~ 帯郭 ~

kitune30.jpg

平地の尾根を南にたどるとこの帯郭にたどり着く。
この帯郭は本郭の北側と東側を守るように巡らされている。
 


kitune32.jpg

先ほどから見えている切岸は本郭のもので高さは4mほどの立派なものである。 

~ 堀① ~

kitune19.jpg

堀①は、帯郭の北東斜面に竪掘として落とされている。

kitune20.jpg

東尾根には小規模ながら堀切は設置されているのに何故かこの北東尾根には竪掘が一本のみとなっている。
図を見ると掘切となっていた可能性もあるが、反対側には堀があった痕跡は確認できない。
それとも下に小屋掛けの平場があるために必要を感じなかったともとれるが・・・


~ 堀② ~

kitune23.jpg

東尾根にある城跡唯一のまともな堀切を見る。。。。が横から見ないとほとんど気付かない程度である。 

kitune24.jpg

堀切の規模は上幅3m・深さ40~50cm程度で土塁を伴わないものでどの程度の遮断線としての効果があったかは
疑問である。
 


kitune27.jpg

どうみても段郭にしかみえないけど・・・・これで大丈夫だったのかな~?

~ 本郭 ~

kitune66.jpg

本郭内部を見る。
内部は低い段差により3段に分けられているが用途は不明である。
(一部は常緑樹の籔となっており一番高い東側土塁は撮影出来なかった)
 


kitune63.jpg

本郭の縁部には北側の一部を除いて土塁が築かれていて、帯郭がある東側が最も高く2m、その他は30cm~1m
となっている。


kitune67.jpg

本郭の形はゴマ型をしており西側はとんがった先端部分のようになっていて土塁が両側からすぼまってきている
ことが見える。


kitune65.jpg

本郭西斜面下から見上げた本郭切岸。 

kitune55.jpg

本郭西下には唯一というべき?遺構が残っていて郭とされているが良く見ると横掘のようにも道跡のようにも
みえる。
このすぐ下には小式部城へ続くきれいな山道が通っているのでこれへの備えともとれるが・・・・・
備えは欲しい場所ではあるが素人なので判断出来ず。。。。。(-_-;) 


kitune44.jpg

狐城の遠望
城の裏の尾根の窪みは深い沢が食い込んでいる場所で山道は天然の土橋となっている。
 


kitune41.jpg

周辺緒城と狐城の遠望

狐城・・・・・いまさらですが読み方は「きつねん」ですのであしからず。

いかがだったでしょか、狐城は上伊那十三た騎に名を連ねる樋口氏に関係の深い城で、近くにある樋口内城の
物見の城であったと思われる。

山は現在荒れ放題となっているが山道は良く残っていて比高も低いので訪れやすい城跡となっています。
遺構もきれいなのでお勧めですので是非訪城して見て下さいね!!!!



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編  (宮坂 武男)

信濃中世の館跡      (信濃史学会  平成11年)

定本 伊那谷の城     (郷土出版社  平成7年)

樋口区の歴史拾い話    (高井 宗雄  平成16年)

辰野町誌         (辰野町    平成2年)
  1. 2012/12/06(木) 09:48:53|
  2. 辰野町
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12月1日・2日の訪城成果

12月1日と2日の土日の二日間を利用して訪城してきた成果を紹介します。

ただし、本格的な記事はいつになることやら  (-。-)y-゜゜゜ 


~ 12月1日 ~

kannnomine.jpg

飯田市にある神之峯城の発掘現地説明会に行ってきました。

この城は、箕輪町の上ノ平城周辺から移ってきた知久氏の本城として存在した城で、今回
三遠南信道路の建設により北側の尾根が消滅することになり発掘がおこなわれていました。

成果としては知久氏が建立した寺の礎石・城跡の段郭などです。
今年の10月にも訪問し全体を見せていただきましたが、今回の現説の記事共に発掘報告書が
刊行され次第記事にしたいと思います。(許可を取らないといけないですからね)

来年度も北東尾根を調査する予定のようですが、既に伐採され丸裸にされた尾根には堀切と段郭の
痕跡が現れていました。来年の調査も楽しみです。 



~ 12月2日 ~
今日は、以前から書いていた上ノ平城砦群をコンプリートする為に、歩きまわってきました。


椿の藪の中に残る遺構と看板に万歳!!・・・・中の小屋 (箕輪町) 

nakanokoya.jpg

上ノ平城の東にある支城で、堀切2本と単郭で構成される砦跡である。
この椿の藪の中に建つ看板は誰が見るのであろうか・・・・看板の前に整備を!!

この中の小屋周辺には城跡がまとまっているのでまとめて訪城してきました。
 



見事な二重竪掘に興奮・・・・岩ヶ城(箕輪町) 

iwagasiro.jpg

この岩ヶ城は、知久左衛門の隠栖の地と「東箕輪村誌」に書かれているが、もちろんこんな高い山の上に
隠栖するわけもなく、沢を挟んで中の小屋・でゑらの3つの城の中心的な城で規模も一番でかい。

上ノ平城の東を守る為の砦群の中心的な城として構築されたのではないだろうか。
 



彷徨いに彷徨った城・・・・でゑら(箕輪町)

deera.jpg

岩ヶ城と深い沢を挟んで存在する砦(ほぼ自然地形)で「箕輪町誌」では、藤沢及び諏訪に通ずる一の沢谷を
おさえる為に築かれたものとしている。しかし、他の資料では周辺住民の逃げ込みの城ではないかとしている。

ここはヨキトギ沢がかなり深く沢沿いを彷徨った挙句やっ辿り着きました。
他の2城が看板があったので期待していましたが、さすがに無くがっかり。大冒険でした。
 




最後は、上ノ平城砦群より樋口氏の内城・狐ん城(両方とも訪城済み)に所属していたのではないかと
思われる。

この砦・・・ 



砦とは思われない大きな堀切・・・・・船窪砦(辰野町or箕輪町) 

funakubotoride.jpg

山頂の本郭には立派な城址碑があります。
この砦の歴史は良く分かっていないのですが、北へ下れば狐ん城・南へ登れば小式部城へ通じているので
最初は樋口氏に属していたのではないかと思われる。

山は迷路のように堀状の山道が巡っていて分かりずらかったです。

帰りに興味本位で、南側下にある西光沢を下ったのですがこれが悲惨な帰路となりました。

沢は険しく、沢底には・・・・ 


sikahone.jpg

このようなシカの骨や不明な骨が転がっており薄暗く恐怖の連続でした・・・・(-_-;)

余計なことはせず、登った道を戻りましょうね。。。。。。本当に大変でした。
 



前回同様に冒険ばかりの日々でした。。。。普通がいいかも。

いつか記事を書きたいと思います。。。今回の訪城で719城となりました。(全然記事になってないけど)

次回は・・・・何書こうかな。
 
  1. 2012/12/03(月) 00:06:46|
  2. 本日の訪城
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伊那市  鳩吹城

今までにない最悪な訪城!!

所在地・・・伊那市横山大田山                危険度・・・(尾根直登で)★★★★★   

訪城時間・・・登り(2時間20分)・林道下り(1時間)+車まで(1時間)

訪城日・・・平成24年11月29日        

目印・・・尾根登り(内ノ萱公民館裏の大山神社)・林道(横山キャンプ場)



hatofuki100.jpg

今回の地獄の経路    国土地理院2万5千分の1地図使用

今回の本来の目的は、鳩吹城の隣にある伊那市最奥の城とされる義信の城を攻めることであった。
隣の鳩吹城は、林道があることが分かっていたので義信の城の後に攻める予定としていた。。。。
しかし、尾根を間違え地獄の登城となってしまった。。。(-_-;)





             ~ 鳩吹城の歴史 ~

この鳩吹城についての資料は少ないが、「伊那市史」には

「遺物・文献」の項には、刀・槍が出土しているとし、倉田将監安光(伊那温知集・伊那郷村鑑)天文年中

と記されているのみで詳しくは書かれていない。

一番詳しいのはやはり神の山城探訪で、

「長野県町村誌」に「本村(伊那村)の西方字小黒日向山にあり。事暦明詳ならず。」とあるが一説には、

天文年中(1532~54)に倉田将監安光が居城したと言われている。

倉田氏は鎌倉の出であり、最初は横山に住み、木曽義康と余地原で戦って敗れ、北殿の倉田城に移り、福与城の

藤沢氏に属したとされる。(伊那温知集・伊那郷村鑑)倉田氏が小黒川と小沢川の上流地帯に居り、権兵衛峠を

越えて侵入してきた木曽軍と戦ったのであろう。

鳩吹城は、初めのころの倉田氏の要害城と考えられているが、この城は大徳王寺城の候補の一つともなっている。

と書かれている。



               ~ 鳩吹城の現状 ~

hatofiuki102.jpg

この図に沿って紹介していきますが、籔がすごかったので西尾根は未確認となっています。 

~ 地獄の登城 ~

hatofuki71.jpg

参考にした山城探訪に「内ノ萱大山神社の左手の所から、微かな山道を辿って登る」とあった為、神社の脇の
急斜面の尾根を登ってしまったのが地獄の始まりだった。。。。。 


hatofuki31.jpg

最初の3分の1は、スパー急斜面を喘ぎながら登る。 

hatofuki33.jpg

次の3分の1は、背丈2m程の灌木と笹のミックスの籔をかき分けながら登るが全然先が見えない。。。。
このあたりから不安になってくる。
 


hatofuki35.jpg

次の3分の1は、間伐され放置された木と1mほどの笹藪が待ち受けている。
このあたりでカメラの高度計を見てみる????

標高1300m・・・あれ・・義信の城の標高は1202m・・・・100m登りすぎてる・・違くね!

ここでやばさが増してくる・・・しかし・・・・ 


hatofuki24.jpg

すこし登るとこの長大な平場が・・・そういえば、山城探訪に・・

「3分の2ほど登った所に平場があり・・・」の記述が・・・・これのことか???

まあ登ってみるか。。。と戻る勇気もなくまた登り始める。

後で調べると林道が廃道になったあとの痕跡だったようだ。しかし、ここに聞く人はいない。。。孤独だ。
 


hatofuki37.jpg

ここまでくれば馬鹿でも山を間違えていることに気付く。

しかし、もっと馬鹿は山頂が見えると登ってしまうようで。。。。行かねば!!っと思ってしまった。

ここから藪こぎをすること20分。。。。。 


hatofuki44.jpg

山頂付近に近づくと・・・・帯郭じゃね~か!!!

やっとついたか!!  さっきまで間違えたことを悔やんでいたのにテンションup!!

山城探訪の標高が間違ってたんじゃねの!!


hatofuki2.jpg

登り切って気付いた・・・僕が間違ってました(-_-;)

神!一瞬でも疑ってしまったことを御許しを。
 


~ 帯郭 ~

hatofuki10.jpg

帯郭は本郭の北側と南側の2m下に構築されている。
今回は藪が酷く、登り着いた南側の帯郭のみ確認できた。
 


hatofuki11.jpg

本郭から見る2m下の帯郭を見る。(山頂すべて1.2mほどある笹藪となっている 

~ 本郭 ~

hatofuki3.jpg

本郭は1.5m程ある標柱が埋まってしまうほど笹藪が繁茂しており詳細を確認することは不可能。 

hatofuki7.jpg

hatofuki8.jpg

笹のせいで地面は全く見えないものの、笹の高低で段差があることが確認出来る。
しかし、すごい藪で動き回ることもままならず。。。
 


~ 西尾根 ~

hatofuki101.jpg

山城探訪によれば、西尾根に二本の堀切があるとされるが、笹藪の猛攻にあえなく撤退し未調査となった。

是非!猛者の方が居れば確認を。
 


~ 堀① ~

hatofuki17.jpg

本郭の東側の尾根には二本の連続堀切が存在する。(ここは籔がすごいけど見れた!!)

上幅5~6m・深さ(本郭側から)3mで両側に竪掘として落とされているが、南側はパラグライダー台により
破壊されている。 


~ 堀② ~

hatofuki19.jpg

堀②も籔であったが何とか確認できた。

堀②は上幅約5~6m・深さ約2mでこの堀も両側に竪掘として落としている。
 


hatofuki20.jpg

北側に落とされた竪掘を見る。(南側はパラグライダー台により破壊) 

~ その他 ~

hato94367.jpg

竪掘2本を破壊したパラグライダー台と奥に本郭を見る。

hato1146.jpg

hato1111.jpg

パラグライダー台から見た伊那谷・・・&きれいな棚田を見下ろす。
城主もこの風景を見ていたんだろう。この山で唯一気を許した瞬間であった。
 


ここで気付く最大の難問が待っていることを!!!! (>_<)

あなたならどうする・・・   ①地獄の急斜面&ものすごい藪の尾根を戻る。
              
               ②どこに出るか分からないが楽な林道を歩く。

ファイナルアンサーは・・・・気力が萎え②林道を歩くを選んだ僕。。。。勇気のない僕。
 


~ 林道 ~

hatofuki51.jpg

山頂手前まで続く林道
(普通車も途中まで行くことは出来るが、四駆の方が無難。下りてくるのに1時間かかったので
歩いて登る場合は、1時間半~2時間はかかるであろう。) 


hatofuki45.jpg

何故か山頂1㎞手前にだけある看板(林道は脇道や廃道が沢山あり迷いやすいのでこの看板を探して下さい) 

hatofuki52.jpg

林道入り口はこの横山キャンプ場の看板から未舗装道路に入って行きます。
(キャンプ場の看板は小さいので注意)
 


hatofuki56.jpg

林道を抜けて車まで歩いている最中の聳え立つ鳩吹城を見る。
(林道入り口から、内ノ萱大山神社まで1時間の歩きでした。) 


hatofuki72.jpg

大山神社付近から見る、当初の目的の義信の城と間違えた鳩吹城を見る。

必ずリベンジすることを誓うのであった。

いかがでしたでしょうか、下調べ不足の地獄の訪城記録は皆様の警告となれば幸いです。

城跡は必ず下調べをしてから登りましょう。。。。。。勉強になりました。  (-_-メ)
 



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編       (宮坂 武男)

伊那市史              (伊那市   )

すみません調べておきます。



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  1. 2012/12/01(土) 19:07:11|
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現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

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