長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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下諏訪町  萩倉砦

下社勢力の城砦群

所在地・・・・下諏訪町東山田                       訪城時間・・・・10分

危険度・・・・★☆☆☆☆                   別 名・・・・社中学上砦(旧東山田村の歴史散歩による)

訪城日・・・・2011年1月29日                       訪城目印・・・・社中学校



              ~ 萩倉砦について ~

「信州の山城」には萩倉砦について、

上の城から下る尾根の末端、下諏訪社中学校の裏山で、鋳物師沢を挟んで下の城と相対する。

標高は940m、比高70mで鋳物師沢側は沢底より、40mだが急峻で、東側星ヶ丘側は比較的なだらかな尾根上に立地

し、砥川の谷を挟んで山吹城とは指呼の近さである。(中略)


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下の城・萩倉砦の間にある鋳物師沢を見る。 

上の城・下の城の砦と考えられる遺構であるが、和田峠道に面した防御があまりにも手薄であるために、上の城

の番所もしくは見張台と考えたほうがよさそうである。また、鋳物師沢に面した備えが感じられることから、

鋳物師沢の道が重視されていたいたことがうかがえる。と書かれている。


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鋳物師沢にある馬飼場と萩倉砦が防御していたと思われる沢内部を通る古道
(馬飼場に馬が飼われており、沢内部には鋳物師が住んでいたのではないかとされている)
 


*宮坂 武男氏発見の砦とされる。 

              ~ 萩倉砦の現状 ~

imonosi.jpg

この図面に沿って説明していきます。

~ 堀③ ~

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砦部と上の城から下りてきた尾根を切断する最初の堀切であるが、現状は尾根の東側は埋められてしまったのか、
浅くなっており、西側(鋳物師沢側)は明確に残る。
 


089.jpg

「信州の山城」にはこの堀切は説明されていないが、上幅約6m・深さ約1mの堀が確認出来る。 

~ 郭② ~

077.jpg

堀③と堀②の間にある郭?であるが削平がほとんどされておらず、自然地形にしか見えない。
しかし、西側(鋳物師沢側)には帯郭が巡っているので何らかの施設は有った可能性もある。
 


082.jpg

郭②の鋳物師沢側に巡らされている帯郭を見る。(郭②の切岸は緩く防御の意志をあまり感じられない)
この帯郭は、尾根先端の郭①の下部を巡る横掘からつながっており、横掘が段々浅くなって郭②の下部に来る頃に
は帯郭となっていてもしかしたら、以前は横掘であったかもしれない。


~ 堀② ~

053.jpg

郭①の下部の帯郭から見た堀②
堀②は、郭①と②を分ける堀切で上幅約6m・深さ約1.5m、郭①側に土塁(高さ30~40cm程度)が構築されている。

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堀②を横から見る。

~ 郭① ~

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堀②に付属する土塁を郭①から見る。(あまりに低すぎて写らないので引いて撮ってみました) 

040_20130126233357.jpg

郭①は実質的な本郭で、郭②とは違い削平されていて細長い形をしている。
尾根の先端にあることから諏訪湖方面などの眺めはかなり良かったと思われるが、現在は木々により見通しが
悪いのが残念である。


~ 堀① ~

009_20130126234513.jpg

014.jpg

堀①を見る。 
郭①の南側・西側下部を巡る横掘で東側に行くと浅くなり次第に消えてしまう。

005_20130126234513.jpg

堀①の東側を見る。
こちら側は窪みがわずかに感じられる程度であり、ほぼ帯郭となっている。しかし、窪みが見られることから
かつては横掘であった可能性はある。
郭①の斜面は緩やかで切岸とは言えないようなものである。


030.jpg

郭①から横掘を見下ろす。

066.jpg

この写真は、郭①と②の間から堀①をみたもので、堀はここまでくると埋まってしまっていてほぼ帯郭状態である
ただ、他の場所と違い、下が鋳物師沢であることからなのか切岸がしっかりしているのが確認できる。


431.jpg

萩倉砦をお送りしてきましたが、いかが感じたでしょうか。
郭①の周りを巡る横掘は、上の城の堀と似ているように見え、上の城が武田氏による改修があったとされている
のでこの砦の堀も武田氏により鋳物師沢を守る為に構築された可能性があるのではないだろうか。

ただ、防御施設がほぼ鋳物師沢側に集中していることからその他の方向から攻められたらひとたまりもないので、
この砦は下の城の支援のみを任務として構築されたのであろう。


あ、、、わすれてた。。。関連遺跡?として・・・

422.jpg

419.jpg

お墓のことは良く分からないけど。。。珍しいお墓だったので一の釜墓地を撮ってみました。
かなり古くからある墓地のように感じましたが。。。このような墓地ってなんていうんでしょうか?


421_20130127000713.jpg

一の釜墓地と諏訪湖を見る。(この裏から下の城への登城口がある)


~参考文献~

山城探訪 諏訪資料編    (宮坂 武男)

信州の山城         (信濃史学会   1993年)

旧東山田村の史跡散歩    (増沢 五助   平成3年)



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  1. 2013/01/26(土) 20:34:02|
  2. 下諏訪町
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下諏訪町  下の城②

さーてと下の城の2回目をはじめますかな・・・・・・?

今回ご紹介する下の城の後半は、下諏訪町遺跡カードでは「下の城下の砦」とされる部分でございます。

これを一つの城とするのか、二つの城が至近にあると見るかはあなたの判断しだい!!ってね。
 


sitanosiro.jpg

~ 堀③ ~

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下の城から約100mほど尾根を下ってくると途中に2段程の郭らしきものがあるが、最初に見られるのがこの堀③である

ここからが下諏訪町の遺跡カードに記載のある下の城下の砦の城域であると思われる。
 


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堀③は尾根の西側に竪掘状に存在しているが、尾根上に平地を残して東側に堀④があるので、もしかしたら後世の

耕作により埋められて別の堀のようになった可能性ありかつては堀切であったかもしれない?
 


~ 堀④ ~

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堀④は、尾根東側をコの字状に掘られた堀で、竪掘・横掘をくっつけたような形をしている。
写真は堀③と尾根上を挟んだ東側にある竪掘部分
 


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竪掘部分を郭上から見下ろす。 

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横掘部分を見る。(奥の高まりが掘り残されて土橋状になった尾根)

横掘は尾根の半分ほどを削って構築されており、残された尾根は狭くなっていて土橋状となっている。
 


~ 郭③ ~

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堀③を挟んだ北側段郭上から見下ろす郭③

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郭③は、下の城下の砦内では2番目に大きな郭となっているが、削平は城内で一番きれいで周囲の堀の構築状況から

みればここに小屋掛けをしていたのではないだろうか。
 


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郭の南側から北側を見る。 

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郭③の西側斜面(福沢川側)には小規模ながら郭らしき削平地が確認できる。 

~ 郭④ ~

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郭④は、城内最大の郭ではあるが、現在笹藪が酷く詳細を見ることは厳しい。 

sitanosiro20 (7)

郭内部は緩やかに傾斜していて削平が甘く、写真のように笹の高低により段があることがわかる。 

sitanosiro20 (2)

ちょうど道により笹が無く、確認できた土塁。(高さ40cm程度)

土塁は鋳物師沢側(東側)には砦がある為か少なく、郭西側(福沢川側)に主に構築されていたようである。
 


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郭④からは諏訪湖が見えます。。。なんとか。 

~ 郭⑥(大手郭とも・・) ~

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尾根の先端には、大手郭とされる写真の郭は構築されていて、郭の西側を大手道とおもわれる道が登っている。 

sitanosiro30 (2)

郭西側(大手道側)には一部に土塁が構築されていて道から見えなくする工夫がされていたものと思われる。 

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大手郭切岸と左側に大手道を見る。

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昔の大手道(現在は林道?)は郭④と郭⑥(大手郭)の間の部分で尾根の堀残しにより明らかに人工的に

道をカーブさせている部分が確認でき、敵の直進を妨げる役割と郭の下部を通過していることから郭からの

攻撃を狙っていたものであろう。 


~ 消滅木戸跡 ~

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山城探訪では、下の城の乗る尾根の先端部と鋳物師沢への道の分岐部分に、木戸跡とされる土塁・竪掘が記載され

ていたが、現在は写真のように何かの工事により消滅してしまったようで確認出来なかった。

木戸跡の遺構であったとすれば珍しいものでもったいないことをしたものである。
 


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尾根の先端の林道入り口には道しるべがありますので迷う心配はないと思います。
(この看板から上の城までは一切の道しるべはありませんが、一本道ですので安心です)
 


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城跡遠望・・・・どの山だっけ??? (>_<) 


下の城をお送りしてきましたが、分かりずらい搦め手からの紹介ですみませんでした。
新しい技術と古い技術の混合のような城跡という感じを受けた下の城でした。

次回は。。。。鋳物師沢を挟んで存在する萩倉砦をお送りしていきますのでお楽しみに!!



~参考文献~

山城探訪 諏訪資料編    (宮坂 武男)

信州の山城         (信濃史学会編  1993年)

旧東山田村の史跡散歩    (増沢 五助   平成3年)
  1. 2013/01/16(水) 03:43:48|
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下諏訪町  下の城①

下社勢力による巨大城砦群

IMG_0002_20130109223218.jpg

国土地理院 二万五千分の一地図使用


訪城時間・・・・一の釜墓地から20分・上の城から15分              危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・一の釜墓地・鋳物師沢                       訪城日・・・・2011年1月29日




     ~ 上の城・下の城・萩倉砦関連記載文献記事 ~

「旧東山田村の史跡散歩」の「東山田の山城」の項には、

(前略)東山田の山城は現在上の城・下の城・社中学上砦(下浜・宮坂武男氏新発見)・下の城下の砦(下諏訪町

埋蔵文化財包蔵地調査カード)が判明している。(社中学上砦は萩倉砦のこと)

和田峠方面の防備として重要であったと考えられる。築城者は諏訪湖北一円を支配していた下社大祝金刺氏といわ

れる。伝承では山田氏が預かっていたという。(日本城郭大系)後武田時代には武田二十四将の一人横手備中守が

居城したと伝える。(史蹟要項)

山田氏としては、武田時代の永禄10年の諏訪五十騎起請文の内、今井春夫氏所蔵の古文書で山田備前守は東山田に

住む豪族にて、今井家の祖で子の半九郎は浪人した。(武田氏滅亡のためか?)

戦国時代末期には山田若狭守・山田新右衛門尉・山田源兵衛など有力武士があり、この三名は一族で山田郷出身と

みられるものである。よって上の城・下の城は山田氏の居城であったのではなかろうか。

この城はまた砥川をはさんで金刺氏の詰の城山吹城に相対し支城のごとく見え和田峠口の抑えとして構築し、

金刺氏支流の山田氏をこの地に配したのではなかろうか。(岡谷市史)

下の城下の砦は、下の城は二つの区画に分かれているので下の部分をそう呼んでいるものと思われる。


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下の城搦め手の入り口を見る。(城の脇を林道?が通っている。)

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下の城は、戦後開墾され畑として郭が使用されていたが、現在は笹藪となっており詳細の確認は難しくなっている

今回は上の城から下の城の城域にはいったので搦め手からの紹介となります。あしからず!(-_-メ)


~ 堀① ~

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搦め手から見た堀①と郭①(山探訪ではニの郭の記載) 

sitannosiro3 (2)

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搦め手を守る城内最後の堀切で、上幅約10m・深さ約3mあるが笹藪が酷く竪掘までは見ることが出来ない。 

~ 郭①(ニの郭) ~

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郭①(ニの郭)は、本郭北側にあり搦め手と接していてこちら側に土塁を鍵の手に構築されているようであるが、

写真のように笹藪が酷く詳細の確認は難しい。
 


sitanosiro5 (2)

郭①(ニの郭)と奥に郭②(本郭・奥の高まり)を見る。

郭①内部はきれいに削平されているようであり、この場所と郭②がメインの場所で建物があったと思われる。
 


sitanosiro5.jpg

郭の縁部に低いながら土塁が確認出来る。(城内は一応、笹が刈られた道があるので安心です) 

~ 堀②(郭①と郭②間の堀) ~

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郭①(ニの郭)から郭②(本郭)を見る。(郭②のほうが2mほど高い)
間に堀②があり鋳物師沢側に土橋があり斜面両側に竪掘を落としている。
 


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堀②は上幅約13m・深さ約5mとなっており、本郭とニの郭を分けるように構築されている。 

~ 郭②(本郭) ~

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下の城がある尾根のピークにこの郭②があり実質的には本郭と見られる、しかし、写真でもわかるように郭内部は

笹藪が酷く、周りに帯郭・段郭などが笹の凹凸によりわかるが直に見ることは難しい。 


sitanosiro7 (2)

sitanosiro7 (3)

本郭の西側縁部に確認出来る土塁。

わずかに笹が無い部分を見ると郭の削平は甘く、緩やかに南側に傾斜があるように感じた。
 


ちょっと長くなってしまったので、今回はここまで~V

次回は、下の城下の砦とされる堀③遺構をご紹介したいと思います。
  1. 2013/01/14(月) 10:37:25|
  2. 下諏訪町
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1月12日の訪城結果

1月12日は、会社の友達を誘って??ダマシテ???箕輪町を巡ってきました。。。(-。-)y-゜゜゜

記事はいつになるか分かりませんが、訪城の一部をご紹介します。 

地獄の訪城パート2!!!・・・物見ヶ城&遠見城(箕輪町) 

minowa.jpg

物見ヶ城と遠見城は、同じ尾根の近距離に構築されており二つで一つの城であったのではないかとの意見がある。

確かに近距離にある為一つの城のようにみえるが、両城の間には遺構の無い尾根が挟まれているので、別の城と

して紹介する。

城へは麓の澄心寺の北側の尾根を登るがこれが結構きつい。。。。やっと城に着いたと思ったら。。。地獄!
 


monomigasiro.jpg

物見ヶ城の最初の堀切(ここ以外は見るのは難しい。) 

尾根の先端にこの物見ヶ城があるが。。。。。。背丈2m以上の笹藪で一切先が見えない!

しかも、遺構もほぼ見ることも、撮影も不可能。城内は道すらない笹藪!!

かなりの地獄でした。。。。。ここは一人での訪城はヤメマショウ。
 


toomisiro.jpg

遠見城の郭達

物見ヶ城の地獄の笹藪をやっと抜けるとそこは。。。。笹藪 (-_-メ)

段郭・土塁・腰郭・掘切が確認でき遺構は素晴らしいが。。。。。移動も難しいほどでキズだらけ。

土塁の写真は。。。不可能でした。

下山は、どうしようか悩み右往左往すること20分。。。。。

やはり地獄の笹藪で訪城は合計3時間の地獄でした (^_^;) 



気軽に見れる広大な城跡・・・野口城 ・ キングオブ烽火台・・・・浅間社城 (伊那市)

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伊那市の野口城を攻めたついでに尾根伝いのある浅間社城も攻め落としてきました。。。。。遠かった (>_<) 

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野口城(別名春日城)のニの郭にある城址碑

城跡へは先端の八幡社からハイキングコース(荒れているが)があり城跡までは気軽に行くことが出来る。 


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本郭裏の堀切

城の遺構は土塁・堀切など放射状に延びる尾根に残っているが、何故か城址碑はニの郭にあり本郭は籔となって

いて残念な感じでした。。。。

今回は晴れ晴れでしたのでもう一度リベンジしたいと思っています。
 


senngennsyaminowa2.jpg

キングオブ烽火台の浅間社城へは、野口城から尾根伝いに山仕事の道があるので迷うことはないが、結構な距離が

あり一人ではかなり不安になること間違いなし???

しかし、尾根上は色々な集落からの山道(現在使われていないようでかなり荒れている)があり昔の古い街道であ

ったようであり、鏡岩などの遺跡も残されている。

道には一応、看板はあるが。。。。微妙です。
 


senngennsyaminowa.jpg

なんで浅間社城がキングオブ烽火台かって???

それはね。。。城ってついているが遺構はこの烽火台しかないのです!!!

今まで城跡に狼煙台跡と云うのは見たことがあるが本格的な烽火台だけの烽火台って見たことがないのでは

ないでしょうか?(自分は始めてで感動しました!!!)

烽火台の上にある窪み(写真下)の枯葉を少しどけてみたら(掘ってないですよ!!)炭が出てきました。

これも感動!!はしゃぎ回っていました。。。。。!(^^)!

絶対お勧めです!!!  烽火台の構造に興味がある方は是非行ってみてください感動しますよ! 



以上が1月12日の訪城結果です。

いつか記事にしたいと思いますが。。。。いつかな?
 
  1. 2013/01/12(土) 21:38:24|
  2. 本日の訪城
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下諏訪町   上の城(かみのじょう)

下社勢力の巨大城砦群

所在地・・・・下諏訪町東山田        訪城時間・・・・40分~50分

危険度・・・・★☆☆☆☆          訪城日・・・・平成11年1月29日

訪城目印・・・・下諏訪社中学校裏から荻倉砦脇を通る林道が上の城の脇を通過している。  
  


            ~ 上の城・下の城・萩倉砦の歴史 ~  

「高島城と諏訪の城」(郷土出版)の「上の城・下の城」の項によると、

「下社春宮の背後にあり、山吹城の対岸に対峙する大規模な山城。砥川と福沢川に挟まれた尾根にあり、上の城の

主郭は広大な面積を有する。上城址之碑と刻まれた石碑があり、北側には飯綱神社がある。

下の城は社中学校の背後に位置し、狭小な尾根にある。『下諏訪町誌』は当時の萩倉の位置から、大祝金刺昌春が

逃げ込んだ‘萩倉の要害‘を上の城に比定している。宮坂武男氏は天文年間に武田氏が改修したことを指摘。」

とあり、城主として山田氏・横手氏としている。


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上の城・下の城・萩倉砦については「信州の城」(信濃史学会編)が詳しいので紹介する。

下の城の背後の尾根を詰め、萩倉砦から馬飼場を経て沢筋を登り詰めて行き合った所に上の城がある。

円形の山で、眺望が開け下部からも良く見通せる場所である。標高1063m・比高250m奥深い所に上の城は位置する

昭和4年11月、東山田住人樋口辰之助茂冶氏建之による城跡に建つ「上城址之碑」の碑裏文を紹介すると、

①当城址は武田信玄の臣横手彦左ヱ門尉の居城址との伝説あり。

②発見遺物に拠れば先史原史時代より戦国時代まで引き続き山城として使用せられたるものなりとの説あり。

③城址内に三条の空濠址及古井を有し付近に下城・馬飼場・入堀切・前手堀切等の地名を存す。

とある。


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上の城の本郭にある城址碑

しかし、築城年代や城主も諸説ありはっきりしない点が多く、名称すら当時どのように呼ばれていたのかわからず

便宜的に上の城、下の城と後世呼ばれてきたのであろう。

下宮の重要拠点であり、築城者は下宮大祝金刺氏かその一党であろう。下宮の本城桜城の支城としての役割を持っ

たであろうが、砥川以西には、岡谷地区、塩尻峠から諏訪湖尻の釜口まで下宮の直轄地であった為、目立った砦が

存在しないことからして、この城がいかに重要だったかわかる。

永正15年(1518)の上下社の争いで、下社金刺氏は上社の諏訪頼満に攻められて滅亡する。

「当社神幸記」の永正15年条には「コノ年下宮遠江守金刺昌春、萩倉ノ要害二自落シテ一類面々家風悉ク断絶シ

畢(オワ)ンヌ。上宮刑部大輔頼満本意ニ属シ給フ、千秋万才後代ノ為メ之ヲ記ス、十二月十八日夜大城没落ノ

拠ニ、同廿一日夜重ネテノ御渡之有リ、稀代不思議ノ事也。」とあり金刺昌春は没落して、武田信虎を頼って甲府

に住み復帰を図るが、遂にその願いは達せられずに終わった。

その中で、永正15年の冬に自落した萩倉の要害がどこであったかが問題となる。


IMG_0001_20130111204412.jpg

この図面に沿って紹介します。

従来は、山吹大城が萩倉の要害であろうと言われてきたが、当時の萩倉の地名は砥川以西であるというので、最近

は上の城が有力視されている。

伝承では、この上の城の城主は山田氏が預かったとも、武田氏統治時代に川中島合戦の折にノロシ場であったとも

伝えられ、横田備中守や横手彦左ヱ門が居城したとも言われいるがいずれも確証はない。

天文12年(1542)に諏訪氏を滅ぼした武田氏が上原城を改修した際に下社の城(桜城か?)も普請しているので

上の城・下の城も塩尻峠や和田峠の抑えとして使用されたものと思われる。

「天文十二年五月廿五日(辛 未)巳刻、巳午ニ向ヒ上原ノ城鍬立七九・・・・七月十三日(初テ長坂上原在城衆

移ル、十五日下宮ノ城普請初、廿八日御帰府。」(高白斎記)



               ~ 上の城の現状 ~

~水の手~

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社中学校裏から続いている林道を登ってくると。。。。

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林道脇に「西尾根 上ノ城址」の看板があり、看板脇から尾根を目指して登る。
(道はないが踏み跡がついているのでわかると思う。)


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看板脇を登ると、二段の郭がありその一つが水の手とされ現在でも確認出来る。

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現在は。。。。動物たちの水の手かな (-_-)zzz 

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城内から水の手のある斜面の郭を見下ろす。

~郭①(本郭)を囲む堀~

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上の城は、図面を見てもらうとわかるように、本郭を囲むように横掘が掘られていて、東側は二重の横掘となって
いて写真は外側の横掘で内側より規模が大きい。 


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東側横掘の内側の堀を見る。
(埋まってしまっているのか深さ約1m程度で明確でない場所もある。) 


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城の南側が緩い尾根となっており、ここを下って行けば下の城へ通じる。(林道を行った方が楽だが・・・・) 

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南側は、下の城と尾根続きのせいなのか???東側と違い二重ではあるが堀の規模が小さく、一部明確でなくなる
(写真上は、内側(本郭側)の堀・写真下側は外側の堀)
 


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西側の横掘は一番規模が大きく切岸がしっかりしていて、三重の堀となっている。
笹と雪で詳細は確認できなかったが、上の城は西側(塩尻峠側)に防御の重点をおいていることが分かる 


simosuwakaminosiro4.jpg

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北側は搦め手の尾根となっているが、こちらも防御的に弱い感じを受ける。

堀は二重となっているが西側ほど切岸も明確ではなく、堀も小さい
。 


~ 郭①(本郭) ~

simosuwakaminosiro2 (5)

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本郭にある城址碑(上)と本郭から横掘を見下ろす(下)。 

simosuwakaminosiro2 (3)

本郭はたまご型をしていて70×50mの広さがあるが、郭内は削平が甘いものとなっている。
ここまで削平が甘いと説明にもあった武将たちの居城とするには疑問があり、やはり伝承であろうが、もしかした
ら下の城ではありえたかもしれない。
 


~ 搦め手 ~

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本郭北側の尾根をたどるとこの土橋状の細尾根が現れる、ここの以前は堀切があったのではないかとされている。

山仕事の為に埋められてしまったのであろうか?
 


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simosuwakaminosiro7.jpg

石尊社跡
本郭から250mでこの石尊社があり、ここから古刀が出土したと伝えられている。

確認はしていないが、石尊社から50mで馬場跡・さらに300mほどで手前堀切・入掘切などの自然地形をいかした
搦め手の防御施設があったようである。


simosuwakaminosiro7 (6)

上の城はいかがだったでしょうか?

あいかわらず長すぎ。。。。。っと怒られそうですが、最後まで見ていただいた方はありがとうございました。

上の城は、長野県下でも珍しい、本郭を何重にも横掘で囲むという築城方法が見られる城であり貴重なものである
が。。。。古い感じは否めないように感じる。
武田氏は、金刺氏が使用していたこの城をあまり手を加えずに使用したためであろうか?

次回は。。。。。下社城郭郡の下の城をお送りしますのでお楽しみに。。。V



~参考文献~

山城探訪  諏訪資料編  (宮坂 武男)

信州の山城        (信濃史学会  1993年)

高島城と諏訪の城     (郷土出版社)
  1. 2013/01/09(水) 21:43:23|
  2. 下諏訪町
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松本市  三才山城②

松本市にある三才山城の第2回目です。

今回は、防御の重点が置かれている東尾根、下山してきた南西尾根、城主居館を紹介していきます。
 


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~ (東尾根)堀② ~

PC216548.jpg

本郭から東尾根へ向かうと最初に見るのがこの堀②で、三本ある堀切では一番大きなもので、上幅約6m・深さ

(本郭側で)約3mである。(両側へ竪掘を落としている。)
 


~ 堀③ ~

misayamasiro80.jpg

堀③を見下ろす。。。。。。全然わかりませんよね。。。。そう! 

misayamasiro80 (2)

ものすごく浅いんです。これを堀切と呼んで良いものか悩む所ではありますが。。。。。(?_?) 

misayamasiro80 (3)

尾根続き側から見ると、切岸状の段差となっているのでかつては浅いながらも堀切として構築さてれたことが分か
り、上幅約5m・深さ約40~50cmでなんとなく竪掘として落とされていたことが確認出来る。
 


~ 堀④ ~

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東側尾根で城内と城外を分ける最後の堀切④を見下ろす。 

misayamasiro90 (2)

こちらの堀切も尾根上では微妙ですが。。。。。。

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斜面に竪掘として落としていることが確認でき尾根上のものが堀切であったとわかる。
(写真左側の木にはクーさんのマーキングがあり、生息域ですので注意が必要です!!)
堀④は、上幅5m・深さ(城内側)約3mである。
 


misayamasiro90 (3)

堀切④を越えると尾根続きの戸谷峰(1629m)へ尾根は登っていき尾根上には遺構は確認されていない。
東尾根は唯一三才山峠側につながっている為に厳重な防備となったと思われる。
 


~ 南西尾根(下山路) ~

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南西尾根には、この巨大な堀切・竪掘状のものが存在する。
一見、近世の城跡の巨大な堀切に見えてしまうが、この尾根以外にこのような巨大なものは見られないので、
「山城探訪」では、木落としの跡・自然の荒れではないかとしている。
そうすると、城があった時にはこの荒れがあれば堀切として使ったであろうが、無かった場合は防御遺構が
存在しなかったことになり不可解である。 


misayama100 (10)

南西尾根を下ってきたがこちらも、超絶なる急斜面で踏ん張ることは不可能で滑るように下ってきました。
(西尾根・南西尾根共にものすごい急斜面なのでかなりの覚悟と下りには度胸が必要です。) 


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大手の沢筋を見る。。。。。ここには、

misayama100 (11)

沢の入り口付近には、近世に桑畑に使用された石垣が残されており、宮坂氏はこの部分に木戸を想定している。 

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三才山城を遠望する。(城跡はかなり奥まった部分にある為、麓の集落からは見ることが出来ない。) 

~ 三才山城主居館 ~

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城主居館跡を見る。
居館跡は「大屋敷」と呼ばれ、南・東側が女鳥羽川に守られ、西側は高さ4~5mの段となり下は田圃が堀代わりと
なり防御をしていたのであろう。
北側は現在小日向集落内を通る一本道があるのでこれが往時の街道であろうか?そうなるとこちら側にも堀が
あってもよさそうであるが。。。。。


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館の北側にこのような窪みが見られるのでもしかしたら堀の痕跡であろうか。。。。素人では判断できないが。。

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居館内部は現在「明応社」という会社となっており、遺構は確認できない。

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さあいかがだったでしょうか。。。。三才山城は三才山峠の抑えとして根小屋式の城であったことがわかり、
赤沢氏の家臣の中でも境目を守る重要な任務を帯びた重臣がいて普段は大屋敷に住み、いざ何かあれば城に登り
本城の稲倉城に狼煙を上げたのであろう。

城は訪れるには厳しい場所ではあるが、期待せずに行ってみると遺構が良く残っておりかなりの満足であった。
しかし、山奥ということと急斜面の訪城・熊の生息域であるので単独での訪城はお勧めしません、是非、
地形図・方位磁石・縄張り図・熊除けアイテム・複数での訪城など万全の態勢で訪れて下さい。



~ 参考文献 ~

山城探訪         (宮坂 武男     平成10年)

信府統記 復刻      (国書刊行会     平成8年)

松本市史         (松本市       平成8年)

東筑摩郡誌        (信濃教育会     1919年)



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  1. 2013/01/06(日) 19:47:04|
  2. 松本市
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松本市  三才山城①

明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。 

新年の第1弾は・・・・・・・松本市の三才山峠の抑えとして構築された三才山城でございます。

写真はかなり前のものですが、城跡・館跡の紹介を2回に分けて書いていきたいと思います。

お付き合いください。。。(-。-)y-゜゜゜


IMG_0001_20130105202948.jpg
国土地理院 2万5千分の1地図使用


所在地・・・・松本市浅間温泉三才山小日向                 危険度・・・・★★★★☆

別 名・・・・秋葉様                               訪城時間・・・・40~50分

訪城目印・・・・小日向集落内に説明板あり。                訪城日・・・・2008年11月15日


misayamasiro10 (2)

                ~ 三才山城の歴史 ~

三才山城は、歴史には基本的に出てこない小さな砦であり、記載されている文献も少なく詳細な歴史は分からない

が記載文献の内容を挙げてみる。

「信府統記」には「三才山古城地」として、

「三才山村ヨリ丑寅ノ方二十四間 本城ノ平戌ヨリ辰へ二十四間 未ヨリ丑へ七間0此所一説御射山ト云ウ是諏訪

御射山ヲ勧請セリ當地モ赤澤氏ノ領ナレハ彼要害二ヤ」とあり、

「東筑摩郡誌」の「三才山砦址」には、

「本丸の平 東西二十四間・南北七間なり。赤澤氏の壘柵にして、本城と同じく陥落せり。」とある。

東筑摩郡誌の本城と共にとある本城は、赤澤氏の本城「稲倉城」のことと思われる。

近年の文献としては、「松本市史」があるが上記の文献などを参考にしていると思われ、

「小日向の東の山頂に位置する。赤沢氏の領地内なので赤沢氏の詰の城かとされる。山頂に東西約44m・南北約

13mの主郭とそれを取り囲む長い帯郭が残っている。」とあるのみで城主などには触れていない。

現地説明板にある赤沢氏の部将、赤羽大膳とあるがどんな人なのか、何の文献に記載されているのかは確認できな

かったが赤沢氏の領内の砦で、三才山峠から最初に出会う砦なので赤沢氏による三才山峠抑えの砦であったことは

間違えないと思われる。


IMG_0002_20130105202948.jpg

今回の登城路
(小日向集落内に鉄塔の巡視路の登り口があるのでこれを使えば尾根の先端に出られると思われるが未確認)


                ~ 三才山城の現状 ~

misayamasiro10.jpg

三才山城の入り口

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小日向集落内にこの説明板と入り口の標柱があるが、ここから先は一切の案内は無く、民家の間を抜け耕作放棄された畑跡の脇の細い道をたどり城跡のある沢筋を目指す。(かなり不安。。(>_<) )  

misayamasiro10 (4)

沢筋に入ると一切の道は無いので、写真のような斜度45°以上ある斜面を適当に登るが。。。。かなりキツイ!
(沢沿いのどちらの斜面を登っても城跡に行けるので好きな方を登る)
 


misayamasiro10 (7)

今回は城跡の西側の尾根を直登したので尾根に出たら、尾根を東に登った。 

misayamasiro6.jpg

西尾根には写真のような竪堀状の窪みが落ちているが、その他には遺構は見られないことから自然の荒れ、
木を落とした跡の可能性が高い。
 


misayama4729.jpg


ここから遺構の説明を始めます。(この図に沿って書いていきますので参考にしてください) 

~ 堀① ~

misayamasiro20.jpg

西尾根を東にたどると最初に出会うのが堀①である。
写真は堀①に付属する土塁で城外側に高さ30cm程度構築されており、低すぎて見逃してしまう程度である。 


misayamasiro20 (3)

misayamasiro20 (2)

堀①を見る。
堀①は上幅約5m・深さ(一番深い所で)約1m程度と小規模で遮断線としてはどの程度の効果があったかは疑問で
あるが、傾斜45°以上の斜面と比高310mという自然の防御があるのでこの程度でもよかったのかも知れない。
 


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堀①は深さは浅いものの、尾根の両脇に竪掘として落としており、敵の尾根斜面の横移動を防いでいる。 

~ 主郭を取り巻く帯郭 ~

misayamasiro30 (3)

misayamasiro30.jpg

平均巾3m程度の帯郭が本郭を取り巻いており、文献によってはこれを「馬場」としているが、そんなわけはなく、
本郭の防御の為に柵などを構築していた跡ではないかと思われる。
 


misayamasiro30 (2)

本郭から帯郭を見下ろす。 

~ 郭①(本郭) ~

misayamasiro40.jpg

本郭は、山頂に構築されているが、現在荒れ果てていて、倒木・雑木などで歩くのも苦労し、夏では詳細を見る
ことも難しいと思われる。
郭内部はきれいに削平されており砦の割に広く感じる。
 


misayamasiro40 (6)

本郭の周囲は高さ約2mほどの切岸が明確に確認できる。 

misayamasiro40 (8)

本郭南東隅部の土塁。
(U字形になっているのがわかるだろうか?この少し右側に虎口状の道が確認できた。) 


misayamasiro40 (10)

本郭には南側の一部を除き高さ約1mの土塁が取り巻いている。

misayamasiro40 (2)

三才山城は、別名秋葉様と呼ばれており以前は本郭に秋葉社があり、お祭りの為に良く登ったとされるが、
現在は社が確認できず、写真のような構築物が見られる。
これが秋葉社の跡かと思われる。(後方の高まりは土塁)
 


本郭は、街道見張りの砦としては素晴らしく土塁・切岸・虎口など確認でき本格的な築城のように感じた。
それだけ三才山峠がこの時代には重要な峠でこの砦の任務が重要なのであったのであろう。

次回は、東尾根と下りの工程、城主居館跡をお送りしたいと思いますのでお楽しみに。 

なお。。。。説明板に井戸の記載があるが確認は出来ませんでした。
  1. 2013/01/03(木) 22:03:31|
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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