長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

箕輪町   中の小屋

続・上ノ平城砦群

所在地・・・・箕輪町東箕輪南小河内                       危険度・・・・★☆☆☆☆

訪城日・・・・2012年12月2日                            訪城時間・・・・30分

訪城目印・・・・東山山麓歴史コースを歩く(道はきれいながら看板は無し)



              ~ 中の小屋の歴史 ~

中の小屋についての歴史を記した文献は現在見つかっておらず、城主・城歴等は不明である。

沢を挟んだ隣の尾根にある岩ヶ城(次回掲載予定)は、知久左衛門の隠棲の地とされている。

本城である上ノ平城からは、中の小屋がある尾根が邪魔をして直接に岩ヶ城が見えない為に、これを補う為に

中継の砦として築城されたのではないだろうか。。。(想像ですが。。。(-.-) )

「箕輪町誌」では、上ノ平城の背後を守る城砦と考えられ、一の沢の谷筋を押さえるものとされる。

ともある。


bakanokoya

中の小屋・岩ヶ城・でゑら・上ノ平城の位置関係          (国土地理院 2万5千分の1地図使用)

bakanokoya (3)

今回の訪城経路                     (国土地理院 2万5千分の1地図使用)

~ 訪城経路(分かりずらいので紹介します) ~

nakanokoya3 (8)

福沢の集落内を通る道沿いに、写真のような山へ入る狭い道がある(奥に車を止めるスペース有り)

ここが東山山麓歴史コースの入り口となる。(案内看板無し)


nakanokoya3 (7)

入り口から沢沿いに進む道が付いているので道沿いに歩いて行く。

(今回は道に気付かず尾根を直登してしまった。。。。。。(汗))


nakanokoya3 (6)

歴史コースには写真のように道沿いに番号が記載された看板がある。(小さいので要注意)

この番号が『13』番の場所が今回紹介する中の小屋の搦め手尾根の付け根となる。

今回の訪城で間違えた尾根の直登は、雑木や椿の籔・倒木があり危険なのでお勧めしません。


               ~ 城跡の現状 ~

bakanokoya (2)

この図面に沿ってお送りしていきます。

~ 郭①(本郭) ~

nakanokoya4 (9)

郭①内部を見る。

この城内唯一の郭である①は、現在椿の籔となっており愕然としてしまうほどである。

郭の規模は、27m×17mの広さでやや変形した台形のような形をしていて、削平はされているものの南側に緩やか

に傾斜している感じを受ける。


nakanokoya4 (8)

郭①の周囲には、高さ1m以下の高さで土塁が全周している。(写真は北側の土塁で高さは約1m)

nakanokoya4 (4)

推定・北東虎口部分を見る。

郭を全周している土塁には、虎口を思わせる開口部が西南・北東側に見られる。


nakanokoya4 (2)

この全く無名の城にも、東山山麓歴史コースが近くを通っていた為に城跡を示す看板が建てられている。

(誰が来るのかは疑問ながら。。。。。南小河内区。。。。。素晴らしいです !(^^)!  )


~ 帯郭 ~

nakanokoya4 (7)

郭①から見下ろした帯郭

この帯郭は、郭①の南側と西側に見られる。


nakanokoya5 (2)

nakanokoya5 (3)

宮坂氏は『山城探訪』では、この帯郭状の平地は山道によるものではないか。としているが下の写真のように

郭①の隅部の下は結構な広さがあり道によるもの。。。。とは思えないのだが??

西側の帯郭は、郭①の斜面を巻いて堀①まで続いているのが見える。


~ 堀① ~

nakanokoaya7 (2)

郭①の北東、搦め手尾根続きを2本の堀切で遮断している。

堀①は、上幅約9m・深さ(郭①側で)約4mであるが搦め手側は深さが1m程度しかない小規模な堀切である。


nakanokoaya7.jpg

堀①の北西斜面には竪掘が中段まで落とされている。(反対側は、藪の為に確認出来ず)

~ 堀② ~

nakanokoya9 (2)

堀②は、上幅約8m・深さ約1.5mで堀①よりも規模が小さくなっている。

nakanokoya9.jpg

この堀②も北西斜面の中段まで竪掘が落とされており、堀①と合わせて二重堀切+二重竪掘となっていてこの

小規模な砦には、似つかわしくないほど搦め手に気を使っている。


~ その他 ~

nakanokoya3 (4)

堀②遺構の尾根筋には一切の手を加えていない自然の尾根が100mほど続いていて、五郎山から下りてきた尾根斜面

と砦の乗る平坦な尾根の付け根部分に、東山山麓歴史コースが登ってくる。

このコースの配置を見ると、中の小屋と岩ヶ城の搦め手部を押さえていることから、城が稼働していたころからの

道であったことがうかがえ、その道を遊歩道として整備した感じを受ける。


nakanokoya3.jpg

中の小屋の搦め手へ登ってきた遊歩道。

(ここから左へ100m尾根を辿れば中の小屋へ行くことが出来るが案内看板は無い)

堀底道のような感じとなていて古くから使われていたことをうかがわせる。


nakanokoya3 (5)

山は松山でかつてはキノコ山となっていたそうであるが、現在は写真のように籔となっているので注意が必要です

nakanokoya3 (9)

城跡を正面から見る

nakanokoya3 (10)

城跡遠望

いかがでしたか、小規模な砦ながら土塁で囲んだ郭や二重掘切・竪掘など後世まで手を入れていた感じで

よほど重視した砦であったようである。

次回は沢を挟んだ隣にある岩ヶ城をお送りしますのでお付き合いください。



~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料編  (宮坂 武男)
スポンサーサイト
  1. 2013/02/28(木) 04:28:31|
  2. 箕輪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

諏訪市  大熊新城

大祝諏訪継満の執念の築城!

所在地・・・・諏訪市湖南大熊                 訪城時間・・・・・40分

危険度・・・・★★☆☆☆                    別 名・・・・荒城

訪城日・・・・2011年11月20日                訪城目印・・・諏訪大社上社 近くの片山古墳西の山


              ~ 大熊新城の築城 ~

この大熊新城は、築城の時期がはっきり確認できる珍しい城跡として知られている。

「諏訪御符札之古書」という文献に築城のことが書かれていて、

「文明十八年丙午御射山明年御頭足


一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)

一 左頭、高梨本郷、御符札五貫六百六十六文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、

下位殿当郡大熊荒城取立候
、六月十日甲申除如此御座候間、(後略)」


とあり、文明18年(1486)年6月頃に、下位殿(諏訪 継満)により築城されたことがわかる。

ookumaarasiro.jpg
城跡位置図  国土地理院 2万5千分の1地図使用

               ~ 築城の経緯 ~

上社大祝であった諏訪継満は、総領家の地位を狙い天文15年正月8日夜に、前宮神殿の酒宴の席で総領家の

諏訪政満・嫡子の宮若丸・舎弟小太郎などを殺害し総領家を滅亡させた。

しかし、この継満のやり方に反発した総領家方の矢崎肥前守政継・千野入道・有賀・小坂・福島・神長官

守矢氏等に攻撃され、2月19日夜干沢城から伊那高遠へ落ちて行った。

その一ヶ月後の3月19日、下社金刺興春が諏訪継満に味方して、寄力勢百騎で高嶋城(茶臼山城)を落城させ、

上桑原・武津を焼き高鳥屋小屋に籠った。これに対して総領家側は、矢崎・千野・有賀など諸氏が金刺興春と戦い

下社側は、戦いに負け興以下これに従っていた下社勢の大和・武居氏らが打取られ、興春の首は大熊城に晒され、

下社も焼かれてしまった。


ookumaarasiro4 (3)

城跡のある尾根の南側を流れる権現沢川沿いから登った今回の登城路 

文明16年になると諏訪継満は伊那の軍勢(松尾小笠原・知久・笠原氏など)を率いて杖突峠を越えて諏訪へ攻め

込み磯並・前山に陣を張った。翌日には片山古城(武居城)を整備し直し立て籠もった。

これに対し総領家側は干沢城へ籠っているところ、府中小笠原氏が筑摩・安曇郡の軍勢を引き連れ援軍として、

片山の向城(大熊城か?)へ入り伊那勢を挟みこむ布陣を敷いた。

この戦いの結果については伝わっていないが、ふりを悟った継満は伊那へと引き上げていったものと見られている


ookumaarasiro4.jpg

登っていくとすぐに踏み跡はあるものの笹藪となり苦労をするが構わず登る。

その後、文明18年に荒城の築城となるのだが、「諏訪市史」では、

「(前略)、伊那の旧大祝側と諏訪の総領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加

となったのであろうが、これは伊那へ追放された旧大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう」

とあり、「山城探訪」では、下諏訪ではすでに新しい大祝が立っていて存在感が薄れていく継満は、諏訪への往還

への意志表示とここへ城を築き籠ることによって誰かが取りなしをしてくれることを期待しての築城であったので

はないかとしている。


ookumaarasiro15.jpg

笹藪を抜けると、斜面を荒れにより二分された急斜面を直登し、

籔を抜けると、そこには。。。。。。。


ookumaarasiro15 (9)

はい! きれいな道でした。。。。?   え。。。。? (>_<)

そんなバナナ。。。。。。汗だくで登ってきたのに。。。。鉄塔の巡視路が尾根上を通っていたんですね~。。。(涙)

皆様は、素直に尾根の北側、唐沢川沿いにある鉄塔NO.64の巡視路から登りましょうね。


ookumaarasiro1_20130221100001.jpg

この図に沿って紹介していきます。 

~ 堀①(竪掘) ~

ookumaarasiro5.jpg

ookumaarasiro5 (2)

尾根を登って行くと城内最初に現れるのがこの竪掘で、尾根の両側に落とされている。

防御的に弱く感じるが、尾根が細い為、この程度でも良かったものと思われる。


~ 推定門跡 ~

ookumaarasiro7.jpg

竪掘から少し歩くと、急に道が狭くなり両脇が切り立ったような場所が現れる。

これが、門跡と推定されている場所で、この道の両脇の切岸には。。。。


ookumaarasiro7 (3)

この諏訪地区では珍しい石積みが見られる。

諏訪地区で石積みの見られる城跡は、峰畑城・山吹大城・上原城居館。。。。と少数で貴重な遺構である。


~ 段郭 ~

ookumaarasiro9 (3)

ookumaarasiro9 (2)

門跡を抜けると急斜面となる。それを登り切ると本郭となるが、その前の防御として本郭前面の斜面に4段の

段郭が切岸の高さ約2~3mで構築されている。

現在は常緑樹の椿に覆われてきていて、もうすぐ椿の籔となることだろう。


~ 郭①(本郭) ~

ookumaarasiro11 (3)

尾根のピーク標高1000m・比高230mに築かれた郭①(本郭)には、尾根続き側のみに高さ約2mの土塁が構築されている。

ookumaarasiro11 (4)

郭内部は、16m×8mの狭さで20人程度籠ればいっぱいになってしまいそうである。

郭の削平は丁寧でここに小屋など継満の居住区があったものと思われる。



ookumaarasiro11 (6)

麓から伸びてきた鉄塔巡視路は、本郭の南側下を通過して奥へ延びている。

この巡視路から矢印のように、虎口への道が入っているのがわかり、この事からこの巡視路はかつての城道を

使用して造られたように考えられる。そのことは前に紹介した門跡部分も通過していることから考えられる。

本郭の切岸は、基本自然地形で手を加えたあとは感じられない。


~ 堀②(本郭裏の堀切) ~

ookumaarasiro12 (5)

ookumaarasiro12 (2)

郭①(本郭)裏には、城内唯一の堀切が見られる。

規模的には、上巾約9m・深さ約1.5m程度の小規模なものである。


~ 本郭後方尾根続き ~

ookumaarasiro18 (2)

ookumaarasiro18.jpg

尾根続きには、諸資料では郭があるとされている部分であるが、現在は常緑樹の椿に占領され詳細は見えない。

しかし、下の写真のように平坦な部分も見られることから、継満のわずかな兵などの駐屯地としての構築がなされ

たものであろうか。


ookumaarasiro15 (8)

ookumaarasiro15 (5)

現在の巡視路は、本郭の南側下を通過しているが、この城域部分のみ堀状の通路となっている。

資料では、雨水などで掘られてこうなったもので、築城時のものではないとしている。しかし、この部分だけ

堀状になっているのも不自然と言わざる得ない気がする。

これがもし荒れだとしてもこの堀状通路が、城が現役の時存在すれば防御効果は大きかったであったであろう。


ookumaarasiro11.jpg

郭①(本郭)からは、現在木が邪魔をしているが隙間からは、諏訪湖や市街地が見え麓からも良くこの城が見えた

であろう、これこそが継満の自身の存在を知らせるという狙いだったのだと思われる。


ookumaarasiro4 (4)

大熊新城の遠望

大熊新城は、いかがだったでしょうかこの城の廃城時期については、資料は存在しないものの、「諏訪市史」

には、天文12年(1543)頃、武田氏により諏訪全域の支配がかたまり、高遠氏の諏訪支配の望みが断たれた頃、

これに伴って高遠側の出城であった大熊新城も廃城になったのではなかとしている。

これほど詳しく城の歴史が分かるものも珍しいので大切に整備して欲しいものですね。

(現地に、標柱・説明板など城跡を示すものは設置されていないので。。。。。)



~参考資料~

山城探訪 諏訪資料編  (宮坂 武男)

諏訪市史        (諏訪市史編纂委員会  昭和51年)    




大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2013/02/18(月) 14:15:07|
  2. 諏訪市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

下諏訪町  山吹城白鷺山砦?

山吹大城の西尾根の先端に存在する白鷺山は砦か? 

山城探訪の宮坂氏は、「(前略)奥まった所に大城があり、その前衛として、山吹沢を挟んで小城と白鷺山(石尊

山)を配置する構えは、砥川を軸にして上の城があって鋳物師沢を挟んで下の城と萩倉砦があるのと対称になり、

よく似た構成である。」として、白鷺山を萩倉砦同様の砦であったのではないかとしている。

ってことで。。。。。調査してきました。


yamabukikozyou2.jpg

今回のルート(国土地理院 2万5千分の1地図使用)


訪城時間・・・大城から15分・麓から・・・・15分程度      

危険度・・・・★★★☆☆(迷いに注意し、地形図・方位磁石を持って行きましょう)

訪城日・・・・2012年3月4日


       ~ 大城~白鷺山への現状 ~

yamabukioosiro90 (3)

大城の西尾根から先端にある白鷺山を目指すが、途中の尾根上には写真のような段郭が無数に刻まれている。

これが耕作によるものか城跡によるものかは判断が難しいが、堀状遺構も存在する。


yamabukioosiro90.jpg

yamabukioosiro90 (2)

これも堀切かどうかは判断が難しいが、この尾根上にはこれ以外に堀状遺構は存在せず、ここに堀切が無い方が

不自然であり、大城で紹介した西尾根から分岐した北西尾根にあった堀切の規模に類似していることから

堀切であったものと思われる。(この尾根上の遺構は山城探訪には記載ないのが不安だな~)


yamabukioosiro086.jpg

さらに尾根上を歩いていき、尾根の中ほどにこの広大な削平地が突如現れる。

今までの小規模な削平地と違い屋敷が建つほどの広さであり、切岸も大きい!


yamabukioosiro086 (3)

削平地から大城方面の西尾根を振り返ってみる。 

尾根をざっくり削平して構築されていることがわかる。(切岸の高さは3~4mほどの規模)

yamabukioosiro086 (2)

尾根を削った壁には、写真のような古い石積み跡が見られ。。。。しかも。。。

yamabukioosiro086 (5)

yamabukioosiro086 (6)

削平地の斜面にも帯郭?と古い石積みが施されている。。。。これは?。。どう見ても城郭遺構ではないのか?

まあ、ここも耕作されたであろうことは想像できるし、石積みは耕作によるものであろう。(本郭以外に山吹城で

は石積みは見られないので。)しかし、個人の力でここまで耕作の為に尾根を削るであろうか?

どう見ても屋敷地だよな~。。。金刺氏の要害と云うことは、一族や領民の逃げ込み場所か。。。たぶん (-_-メ)


yamabukisirasagiyama.jpg

さらに尾根を白鷺山へ向かって歩いて行くと、尾根上に石仏が目立ち始める。。。もうすぐ目指す白鷺山だ。

yamabukisirasagiyama (2)

そして。。遂に白鷺山が見えてきた。。。!(^^)!

ここまで、結構迷ったな~。。。。地形図にある鉄塔の場所違うし。。。皆様も惑わされないように注意してね。

yamabukisirasagiyama (12)

山吹大城から伸びる西尾根先端部が、白鷺山(通称石尊山)である。

麓にある説明板によると、「正平年間(1350年代)この山中の岩が爆然と光るので苔を払ったところ、「不動」

の二文字が現れ人々は不動明王の影向として崇めた。宝暦の頃(1750年代)白鷺が巣をかける端兆があったので

白鷺山と呼ぶようになった。。(後略)」・・・・って城跡と全く関係ないな。。。(>_<)


yamabukisirasagiyama (4)

yamabukisirasagiyama (17)

山頂部には、二段の削平地が見られ上段には、石尊大権現(天狗)と白鷺稲荷大明神が祀られている。

この削平地は神社のものか砦によるものかは分からないが、地元では信仰の山であったのであろうし、逆に、

信仰の山に城を築くことも良くあることで。。。。現在は木によって見晴らしが悪いが、木が無ければ真下に

和田峠からの旧中山道が見られることからここには。。。砦(物見)があったのではないだろうか。


yamabukisirasagiyama (19)

尾根の先端を下りると露出した岩を利用した堀切状の遺構も見られるが。。。。上には不気味な石仏が立つ(恐)

yamabukisirasagiyama (30)

白鷺山の登り口と右側に山吹沢を見る。

山の斜面が超急なことが分かるであろうか。。。。沢と合わせてかなりの要害性をもつ。


yamabukisirasagiyama (32)

白鷺山と和田峠からの道を見る。

本当にすぐ真下を通っているのがわかり、ここを突破されればすぐ金刺氏の本拠下諏訪となってしまう重要な

場所であったことが分かる。


さあ、いかがだったでしょうか。。。。白鷺山は砦か?

素人の考えとしては。。。尾根先端は物見の砦・尾根上の広大な削平地は一族・領民の逃げ込み場所であった。。

っていうのはいかがでしょうか?あなたならどう見ますか???

長々とお送りしてきました金刺氏の要害「山吹城」。。。お付き合いいただきありがとうございました。。

次回は。。。。。。何がいいかな???   お楽しみに!


~参考文献~

山城探訪 諏訪資料編    (宮坂 武男)



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2013/02/16(土) 14:22:09|
  2. 下諏訪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

下諏訪町  山吹大城②

諏訪下社大祝金刺氏の要害。。。パート2!!

近頃。。。記事を書くのが後回しになってしまっている。。。ど~しても訪城を優先してしまい、

帰ると疲れ果て、ビールを飲んで寝てしまう。。。。ど~にかしなくては。。。。イカン!

まあ、間は開いてしまったが、山吹大城の後半戦を久しぶりに書くことにしよう。


yamabukioosiro4 (2)

後半戦は、郭③(本郭)の北側にある堀①からお送りします。

~ 堀① ~

yamabukioosiro11.jpg

郭③(本郭)から堀①を見下ろす。(写真右側に写る石は、本郭切岸にある石積み)

yamabukioosiro11 (4)

この堀①は、郭③(本郭)の4mの切岸と約50~60cmの郭④側の段差で構成されているが、どう見ても往時の

深さではないことは、一目瞭然で過去に耕作された時に埋められたものと思われる。


~ 郭④ ~


yamabukioosiro12 (6)

郭④は、実質的なニの郭で49m×28mの広さがあり城内で最大の郭である。

郭内の削平がしっかりなされており、ここに居住区があったものと思われる。


yamabukioosiro12 (4)

郭④(ニの郭)から堀①を挟んで、郭③(本郭)の切岸を見る。 

~ 堀② ~

yamabukioosiro13 (7)

yamabukioosiro13 (4)

堀②は、二重堀切のようになっており、これは一本目の堀切で堀切の両側が竪掘ではなく、郭になっていて

珍しい構築方法になっている。


yamabukioosiro15.jpg

堀②の二重堀切の間の堀残しの土塁。

右側の堀より左側の搦め手側の堀切の方が、深いことが分かる。


yamabukioosiro15 (2)

搦め手最後の防御施設の堀切。 

yamabukioosiro15 (5)

こちらの堀切は、竪掘として東側斜面のみ落とされている。 

yamabukioosiro17.jpg

用途不明な窪み。

二本目の堀切の延長上にこの窪みが見られるが、二本目の堀切の西側は竪掘ではなく郭状の平地となっている。

郭状の平地が耕作により二本目の堀切の間が埋められ残ったのがこの窪みともとれるが、不明である。


~ 郭⑤(西尾根) ~

yamabukioosiro23 (4)

郭⑤は、郭④(二の郭)から西側に発生した尾根の付け根にあたる場所で、土塁と郭を二つに分ける段差によって

構成されていて尾根上にあるために細長い郭となっている。

削平は丁寧な感じを受けるが、耕作によるものの可能性もある。ただ重要な場所な為それなりに手をいれていた

であろう、部分的に土塁が残る。


yamabukioosiro23 (7)

西尾根の両斜面には、写真のような段郭が見られる。

和田峠側は、二段程度しか見られずこれは(写真)は城跡に伴うものと思われる。


~ 堀④ ~

yamabukioosiro759 (2)

郭⑤から見た堀④

yamabukioosiro759 (3)

堀④を横から見る

この堀は、西尾根で最大の防御遺構であると思われるが、深さは城内側で3m程あるが堀の切岸が緩やかで

頼りないものとなっていて、この城の古さを感じさせる。(耕作により改変の可能性もあるが。)


~ 西尾根のその他の遺構 ~

yamabukioosiro21 (2)

yamabukioosiro21 (5)

西尾根は、先端部からさらに和田峠方面の北西尾根と白鷺山方面の西尾根へ分かれて下っていく。

この尾根の分岐と各尾根には写真のような段郭が見られる。

上記の堀④は、この二つの尾根の合流点の防御として構築されたものと思われる。


yamabukioosiro50.jpg

西尾根からの尾根の分岐部分には、写真のような堀⑤の竪掘が一本落とされている。

yamabukioosiro40 (4)

yamabukioosiro40 (3)

西尾根分岐から北西尾根を50mほど下っていくと(間に段郭あり)この堀④が尾根を掘り割っているが、

城内の堀としては一番小規模なものとなっている。

これは、北西尾根の先端部が和田峠方面に急斜面となって下りていて敵に攻められる恐れが少無かった為であろう


西尾根から続く西尾根については、宮坂氏の山城探訪でも和田峠を見下ろす位置にあり物見の砦があったのでは

ないかとしていることから次回「白鷺砦」としてご報告したいと思います。

ニ回にわたって長々と紹介してきた山吹大城はいかがだったでしょうか?

城域が広大なために写真が多くなってしまったが最後までお付き合いいただきありがとうございました。


回もよろしくお付き合いください!!
  1. 2013/02/11(月) 17:41:41|
  2. 下諏訪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

山吹大城①

諏訪下社大祝・金刺氏の要害

yamabukikozyou2.jpg
国土地理院 2万5千分の1地図使用

前回紹介した山吹小城から、搦め手尾根伝いにたどり山吹沢を越えると金刺氏の詰の城である大城南西尾根に
行くことが出来る。
今回はこの南西尾根から大城を紹介していきたいと思いますのでお付き合いください。

なお、城跡の歴史については山吹小城を参照下さい。


yamabukioosiro4.jpg

今回の詳細なルートは、こんな感じ。。。 

yamabukioosiro3 (2)

小城の搦め手から細い鉄塔巡視路を歩いて行くと、この小城と大城の間を隔てる山吹沢を渡る。
(沢には一応、橋がかかっているので安心して渡ることが出来ます。)
この山吹沢は、かつて沢上部まで耕作されていたという。今は荒れ荒れですが。。。
 


yamabukioosiro3 (5)

巡視路は、おおむね歩きやすいが道が細い場所や、写真のような崩落地があるので注意を要する。
(沢はかつて人の手が入っていたとはいえ、かなり深いので地形図があったほうが無難。) 


              ~ 城跡の現状 ~

yamabukioosiro4 (2)

この図に沿って紹介していきますが、この大城は郭③(本郭)以外はかつて全山耕作されていたらしく、
どこまでが城に関わるものか分からなくなっているが、城跡の現状を紹介していきます。
 


~ 南西尾根郭①段郭 ~

yamabukioosiro6 (3)

yamabukioosiro6 (5)

鉄塔巡視路から南西尾根を直登すると、すぐに段郭群が現れる。しかし、この尾根もかつて耕作されたようで、
どこまでが城跡のものか判断がつかない。
段郭の切岸は、写真上の高さ1m程度の緩やかなものから、写真下のような高さ3~4mもあるようなメリハリの
きいたようなものがあるが、全部城跡のものだったら。。。。すばらしいのに。
 


~ 郭① ~

yamabukioosiro7 (4)

南西尾根上の郭①を見る。
この南西尾根は、山吹沢を詰めた敵が最初に取り着く尾根で、ここが落ちればすぐ郭③(本郭)となってしまう
重要な郭であったと思われる。


yamabukioosiro7 (6)

郭①と奥に郭③(本郭)の切岸を見る。 
郭①にはわずかな段差がみられ、かつては二段に分かれていたようである。

~ 郭②(実質的な三の郭) ~

yamabukioosiro8 (2)

郭②の南尾根先端部を見る。(きれいに削平されていることが分かる)

yamabukioosiro8 (3)

郭②と奥に郭③(本郭)の切岸を見る。
郭②は、郭③(本郭)の南側に存在し、郭の規模・削平の丁寧さから実質的な三の郭であったとみられている。
この南尾根は、小城が落城した場合に敵が尾根伝いに攻めてくるとこの尾根に取り着くと思われるので、
南尾根・南西尾根間の斜面には帯郭が巡らされており厳重な構えてなっている。(耕作されていると思われるが)


~ 郭③(本郭) ~

yamabukioosiro9 (3)

本郭に建つ大日如来の碑と後方に虎口とされる土塁の切れ目
この大日如来の碑は、天保9年4月に河西氏によって建立されたもののようで、他にも本郭内には神仏不明の碑が
建つ、この郭③は宝光院の所有で大城の中でもこの場所だけ耕作されなかったことと碑が建っていることから
特別な場所として地元でも意識されていた場所であったのだろう。


yamabukioosiro9 (6)

郭③(本郭)を東側から見る。 

yamabukioosiro9 (7)

郭③(本郭)を西側から見る。 

yamabukioosiro9 (5)

土塁内側に見られる石積み
(城跡に伴うものかは分からないが、郭の切岸にもわずかに痕跡が見られるので城跡のものと思いたい)

郭③(本郭)は、東西23m・南北16mの広さで、四周を高さ1~1.5mの土塁が取り巻いており、土塁の内側に
石積みが見られる。
郭の北側に、土塁の切れ目が見られここが虎口であると考えられていて全体的に良く残っている。




。。。。また長くなっちゃた。。(-_-メ)

今日はここまでにしよ。。。。次回は、堀①から細か~くお送りしますのでお付き合いください。V
  1. 2013/02/07(木) 03:08:00|
  2. 下諏訪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

下諏訪町  山吹小城

下社金刺氏の要害

この訪城は、山吹小城を見て小城の搦め手から現在の鉄塔保守道を使って大城に行き、大城から白鷺砦?と
山城探訪がする尾根の先端までの隅々まで見て約3時間の訪城をしてきました。

ですので、下社金刺氏の要害として約3~4回に分けてお送りしたいと思います。


yamabukikozyou2.jpg
国土地理院 2万5千分の1地図使用

所在地・・・・下諏訪町下ノ原                            訪城時間・・・・10分

危険度・・・・★☆☆☆☆(狩猟期間は、注意が必要)             別 名・・・・山吹沢城

訪城目印・・・・水月公園                              訪城日・・・平成12年3月4日


              ~ 山吹城の歴史 ~

山吹城に直接関係した文献は少ないため、築城と廃城時期が明確ではないが、下社金刺氏の詰城とされてきた。

諏訪上社と下社は、鎌倉時代以来しばし抗争してきたが、長享3年の「雪村大和尚行道記」に「諏訪郡地令ニ上下一

ノ大祝分守、其間神湖出為」とあり、室町初期に至ってもしばし戦いが行われたことがうかがえ、文明12年には

下社の金刺興春が上社前宮付近の大町に放火した。

文明15年(1483)には更に高島・上桑原・武津をも焼き払い上社に差し掛かって放火合戦を行った結果、下社方は

敗北し、大祝金刺興春は大熊城(諏訪市)に首をさらされ、下社は上社方の為にやき払われてしまった。

これを「文明の内訌」といわれ興春の跡には金刺昌春が大祝となった。

永正15年(1518)、上社方に居城の桜城を攻め落とされた昌春は、「萩倉の要害」に逃げ込み、戦わず逃散した。

この様子が、「コノ年下宮遠江守金刺昌春、萩倉ノ要害ニ自落シテ一類面々家風悉ク断絶シ畢(おわ)ンヌ

(中略)十二月十八日夜大城没落ノ処ニ・・・(後略)」と「當神社幸記」に見られる。

この記事に見られる「萩倉の要害」については、山吹城とする説と当時の萩倉の位置から、対岸の上の城をあてる

説(下諏訪町誌)とがあり、現在明確な結論は出ていない。


               ~ 山吹小城の現状 ~

yamabukisiro 101

この図面に沿って説明していきますので。。。お付き合いください。

~ 堀① ~

yamabukikozyou3.jpg

この堀①は、尾根の先端にある水月公園から登ってくると最初に出会う城郭遺構で、敵の直進を遮る効果を狙った
ものと思われるが、写真のように土塁を伴っているものの堀の傾斜が緩く古い時代の感じを受ける。

この堀の感じは、対岸の上の城・萩倉砦の横掘に似ていて同一の築城主体を思わせる。
 


~ 郭①(三の郭) ~

yamabukikozyou10 (3)

郭①は、尾根の最初のピークに存在している。
郭の中心部は、きれいな削平がされていて、西側(ニの郭側)に土塁が構築され、この郭から螺旋状に北側
(山吹沢側)へ帯郭のように郭中心部を取り巻くように下っていく。


yamabukikozyou10 (6)

ニの郭側に構築された土塁(高さ約40~50cm程度)を見る 

yamabukikozyou10 (5)

三の郭中心部か螺旋状に下ってきた郭は、中心部を取り巻くようになっているが笹藪が酷く細かい所は確認できな
いが、削平は甘いように感じた。(山吹沢側に存在)
 


yamabukikozyou10 (9)

三の郭南側の塁壁を見る。
この城の南側に駒ヶ原と呼ばれる湿地(現在、清掃処理場や墓地)が存在しているが、こちら側には
写真のように甘い塁壁となっており現在の通路状の平場以外の備えがなされていなくこの城が、山吹沢側に
防御重点を置いていたことがうかがえる。(駒ヶ原が湿地帯であったことが防御が甘くなったとも考えられるが
・・・・どうであろう。)


~ 堀② ~


yamabukikozyou5 (5)

堀②は、三の郭とニの郭間を区切る堀切で、上幅約15m・深さは郭①側で約4mほどの切岸となっている。
現在は、笹藪となっており山吹沢側は詳細を見ることは難しいが、駒ヶ原側には竪掘は見られない。


~ 郭②(ニの郭) ~

yamabukikozyou8 (3)

郭②を見る。
郭②は、郭①・③と違い加工度が低くほぼ自然地形である、唯一の城郭遺構としては郭①側に小規模な土塁が見られる。


~ 堀③ ~

yamabukikozyou7 (3)

堀③を見る。
堀③は、郭②と郭③の間に構築された堀切で、上幅約10m、深さ約3mで山吹沢側に竪掘として落としているが、
駒ヶ原側には竪掘は見られない。


~ 郭③(本郭) ~

yamabuki kozyou92

郭③の西側(堀③側)に構築された高さ約2mの土塁を見る。
郭③は他の郭に見られない郭の三方に土塁が構築されており、防御が一番厳重になっている。


yamabukikozyou4 (3)

山吹沢側に構築された土塁で他の土塁は、堀を掘った土を盛り上げて構築したと思われるが、この土塁は幅が
広く土塁の立ち上がりも緩やかなことから、郭を削平する際に削り残して構築したものと思われる。


yamabukikozyou4 (9)

郭③の東側(尾根続きに大城が存在)に構築された土塁を見る。
この土塁の奥に堀④が構築されており、この堀を掘った土を盛って構築されたものと思われるが、奥に大城が
存在することから、土塁も規模が小さいものとなっている。高さは約1m。



yamabukikozyou4 (2)

郭③内部全景を見る。(奥に堀③に伴う土塁が見える) 

~ 堀④ ~

yamabukikozyou78.jpg

郭③(本郭)から見下ろした堀④

yamabukikozyou6 (3)

堀④は、小城の城域最後の堀切で、本郭裏の堀切でもある。
基本的な城では、本郭をその他の郭で挟むなどの構築方法が取られることが多いが、小城は尾根続きに大城が存在
するのでこのような構築方法となったものと思われる。
堀切に関しては、上幅14m・本郭側での深さは約7mで、小城の搦め手を守るというよりは、大城の支城として大城
へ行かせない為の遮断線としての堀切であったのではないだろうか。


yamabukikozyou1 (5)

小城の搦め手の尾根伝いを行くと写真のような鉄塔の保守道があり矢印の方向へ向かう。
ここを辿って行くと山吹沢を越えて大城の西尾根へたどり着き、更に辿ると白鷺山への尾根へ辿り着く。
現在は鉄塔保守道であるが、往古はここが大手ではなかったかと思うがいかがであろうか。。。。。

*なお、駒ヶ原の車道を行けば車で大城近くまで行けるようで、こっちの方が楽ではあるがすべてを見るには
この保守道がお勧めですが、少々荒れているので注意が必要です。
(山吹城の記事を書いている方はほとんどこの車道で訪城しているようである。)


yamabukikozyou1 (4)

搦め手尾根から見る山吹大城。
山吹小城の標高は947m(山吹沢から比高120m)。山吹大城の標高1015m(山吹沢から比高200m)あり両城の比高
差は約80mある。


yamabukikozyou1 (8)

駒ヶ原から見た山吹小城。
駒ヶ原からの比高が低いことが分かるが、駒ヶ原方面に防御遺構がほぼ見られないことから往古は湿地帯で自然の
堀のような役目を果たしていたのであろう。



金刺氏の要害である山吹小城を紹介してきましたがいかがだったでしょうか?
郭②に見られるようにほとんど自然地形のままの郭・甘い切岸など古い築城を感じますが、堀切の規模・郭③の
高さのある土塁など新しい感じもありと二つの時代の遺構が混ざっているようにも感じました。

大城が後の改修があったとしている資料もあるので、大城の大手を守る小城も改修されたのであろうか。。。。
素人にはわからないが。。。。。苦労しないで見れる魅了ある城であった。

次回は。。。。。もちろん山吹大城をお送りしますのでお楽しみに!  (#^.^#)


~ 参考文献 ~

山城探訪 諏訪資料編  (宮坂 武男)

長野県史蹟名勝天然記念物調査報告  (長野県文化財保護協会  昭和50年)

高島城と諏訪の城    (郷土出版社)
  1. 2013/02/03(日) 08:45:51|
  2. 下諏訪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

プロフィール

ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
初めまして (1)
信濃の武将 (11)
松本市 (47)
安曇野市 (33)
塩尻市 (15)
筑北村 (5)
生坂村 (36)
池田町 (18)
箕輪町 (13)
伊那市 (7)
辰野町 (2)
下諏訪町 (9)
諏訪市 (1)
中川村 (3)
駒ケ根市 (6)
ニュース (4)
廃村 (1)
伝説 (2)
本日の訪城 (14)
飯島町 (1)
武将の墓地 (4)
松川村 (3)
千曲市 (1)
南箕輪村 (1)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。