長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市  田多井古城

土豪田多井氏の城館達

4回にわたってお送りしてきた田多井氏の城館達ですが、今回が最終回です。
今回お送りするのは、古城下居館時代の古い物見砦であったと思われる田多井古城です。

所在地・・・・安曇野市堀金田多井清水                   訪城時間・・・・・1分

危険度・・・・☆☆☆☆☆(猿に注意)                    訪城目印・・・・加茂神社     

訪城日・・・・2009年8月15日・2011年12月17日・2013年4月21日



            ~ 田多井古城の歴史 ~

これ城に関して書いている物は少ないが、図書館で調べられた限りを書いて見る。

①.「信濃」。。「細萱氏館と細萱・堀金両郷の開発過程」(小穴 芳実)に少しだけ載っている。

「(前略)、古城山は小丘上に築かれた茶臼式の楕円形の帯郭をほどこした城で、丘上の古墳を崩して上部を平に

しており、おそらく室町期に使用されたものである。(後略)」

②.「山城探訪 安曇資料編」(宮坂 武男)には、

「館背後の神沢入り口の砦 見張所か。」とある。


tataisiro72.jpg
田多井氏関連の城館跡配置図   国土地理院2万5千分の1地図使用

③.「 アルプスの里「堀金」~その歴史と文化~ 」(宮下 一男)には、

「田多井加茂神社の北参道左側で、屋台倉の手前に突き出た松林の小丘がある。この屋台倉のそばの参道脇に標柱

が建っている。それには「田多井古城址」と記されていた。


tataikozyou 5 (20)
土塁上の古城址の標柱

道で見ると松林の奥の方に、高さ3m位の小丘が見られ、その周りには窪みも見られる。ここが田多井古城址であり

その空掘跡である。空堀に続いて西側に帯郭をほどこした簡単なものである。


tataikozyou01 (2)
神社参道から見た古城跡

本城の平は東西22m、南北35mの楕円形をしており、空堀との間に土塁を築いている。更に本城の中央に南北17m、

東西11mの小丘がある。この小丘は古墳であり、古墳を崩して平らにしたものである。(中略)この古墳ができ、

長い年月を経て室町時代、田多井古城主がここに古墳があることに気付かず城郭を築いたことになる。」

と書かれている。



          ~ 田多井古城の現状 ~

tataikozyou34.jpg

こんな感じで説明していきます。

~ 堀① ~

tataikozyou 1 (3)

tataikozyou 1 (4)

堀①は、城の南側に構築されている。

堀幅は約6m程度・高さは城内側で約3mだが城外側では50~60cmと浅くかなり埋まっているようである。

(往古は、東側以外を巡っていたようであるが、堀は途切れ途切れに残っているのみである。)


~ 堀③ ~

tataikozyou2 (5)
帯郭から見た堀③

tataikozyou2 (7)

堀③は、城の西側切岸を沿うように掘られており、深さはここも50~60cm程度で埋まっている部分も見られる。

切岸はこの場所が一番、美しく明瞭であり、高さは4m程度で鋭い。


tataikozyou2 (6)

切岸は鋭く残っているが、堀はほとんど埋まりかけておりもうすぐ見られなくなってしまいそうである。

~ 堀② ~

tataikozyou3 (2)

帯郭から見下ろした堀②

tataikozyou3 (3)

堀②は、城の北側に掘られており、上幅約4m・深さは城内側で2.5mだがほぼ埋まっており城外側では、30cm程度

である。


~ 帯郭 ~

tataikozyou 5 (6)

tataikozyou 5 (7)
東側の帯郭と奥に土塁を見る。(両方の写真の斜面は、本郭のもの)

堀の上部には、本郭を取り巻くように帯郭が構築されており幅は約2~5m程で、南側の堀①側のみ土塁が構築

されている。


tataikozyou 5 (4)

帯郭の南側、堀①に付属して構築されており、高さは約1.5~2m、土塁上に標柱が建っている。

後世の改変の為か、元から構築されなかったのか土塁はこの場所しか見られない。


~ 本郭 ~

tataikozyou8 (4)

本郭は古墳の頂部を利用して構築されているが、現状では凹凸が目立ち削平されていたのかは不明である。    
規模は17×11m程で中央部に古墳の石室跡?大きく窪んでいる。


tataikozyou8 (2)

tataikozyou8 (3)

本郭にある古墳の石室跡?の窪みを見る。

この窪みについては、アルプスの里「堀金」が詳しいので、城跡には関係ないが紹介します。

「この古墳の掘られた跡を見ると、幅約2m・南北の長さ数mあり、相当大きな古墳であったことが知られる。

この古墳は明治15~16年頃石材を採る時副葬品が多数発掘された記録がある。それによると、堤甕2・弥生式土器

椀・直刀5・轡・金環・曲玉が出土したと記されている。また、それ以前の寛政10年(1798)に発掘されていたこ

とが、古文書で明らかとなっている。この記録によると下は石畳・焼物合計18・太刀三振(四尺、三尺、二尺)、

小づか一振等都合八振、くつばみ等が出てきたので驚いて松本藩に届けたところ掘りだしてはいけないと言われ、

元のように埋めてしまったと記されているから、明治15~16年の発掘時にかなり散逸してしまった事になる。

その出土品は今はちりぢりになり、僅かに猿田氏所蔵の完全な壷1個が明らかなだけである。」とある。


kozyousitakyokann1 (4)

四回にわたってお送りしてきた田多井氏関連の城館はいかがだったでしょうか。

城館を見た感じでは、田多井氏が古城下居館を構築した頃には、田多井城は無く古城が物見の砦であり戦乱が

激しくなり古城では、要害としての用をなさなくなり要害性を求めて田多井城が構築されたのではないだろうか。

田多井城が構築されたのはいつだろうか。。。。ん~。。。堀金氏が勢力を伸ばしてきて田多井氏を脅かすように

なってきた頃か、武田氏が安曇野地方に攻め出してきた時か。。。。。。

まあ、田多井城が構築された頃には古城は放置されその後の改修は無かったのであろう。

田多井城は、段郭が多く使用されており古い時代のものとの見方があるのでここは堀金氏の圧力を受けた時代、

本郭の大土塁・虎口・堀切などは武田氏に降って以降の改修か青柳氏時代の改修であろうか。

素人なりの考えですのでお聞き流しくだされ。。。(-_-;)



~参考文献~

山城探訪 安曇資料編        (宮坂 武男)

アルプスの里「堀金」        (宮下 一男  1986年)

田多井古城下遺跡          (堀金村教育委員会  1988年)

信濃 38巻3号           (信濃史学会   昭和61年)



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  1. 2013/04/29(月) 18:26:26|
  2. 安曇野市
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安曇野市   田多井古城下居館

土豪田多井氏による城郭達

所在地・・・・安曇野市堀金田多井清水              訪城時間・・・・0分

危険度・・・・☆☆☆☆☆                      訪城目印・・・・県道塩尻鍋割穂高線の道沿い

訪城日・・・・2009年8月15日・2013年4月21日


発掘歴・・・・圃場整備に関するトレンチ発掘調査 1988年3月 「田多井古城下遺跡」 


        ~ 田多井古城下居館の歴史 ~

田多井氏居館跡(田多井古城下遺跡)とされる場所は、「との畑」と呼ばれる周りより小高い畑1枚分である。

そこから望む城跡は山頂の城山(田多井城)は西方はるかに高く山腹の古城跡は南西上方、距離約300mの加茂神社

境内にある。


tataisiro72.jpg

田多井の城館跡配置 (田多井の字が間違えていますね。。。スミマセン!)国土地理院2万5千分の1地図使用

田多井氏については、田多井城で書いたが発掘報告書にも書かれているのでもう一度書いて見る。

「信府統記」によると、田多井城主に田多井 大隅の名が見えるが、他の文献には出てこない。

天正7年の上諏訪造宮帳には、上野郷の造宮所約徴収官として田多井 安右衛門尉の名が見られる。田多井氏が武田

氏の支配下にあって西牧氏の勢力圏に本拠を移していく事情などは明確になっていないが、武田氏被官としての

堀金氏の勢力の伸長、武田氏の下で西牧氏の目付的な立場に組み込まれていく田多井氏などを考えてみる必要が

あろう。また、田多井氏が去った後には、青柳 対馬が村地頭として入っている。


tataikozyou34 (2)

赤線で囲んだ部分が、居館推定地となっています。


            ~ 田多井古城下居館の現状 ~

kozyousitakyokann1 (7)

2008年訪城時には倒れていた標柱も、2013年訪城時には無くなっていた。

安曇野市となって三郷町の城館跡達は幸せになったのだろうか??もう少し。。。。ねぇ。


kozyousitakyokann1 (2)

県道東側に分断された「殿畑」地籍。(一部は宅地となっている)

この殿畑地籍は、1988年に圃場整備の為に発掘調査が行われた。

結果としては、図面に示した堀跡(幅2m以上・深さ2m・V字の薬研堀であった)と竪穴状遺構が見つかり、堀底

からは、中世常滑産陶器片が出土した為、この遺構は中世のものと考えられ居館跡に関係するものと考えられている。


kozyousitakyokann1 (3)

殿畑地籍から県道を挟んで、館跡の中心と見られている「城下」地籍を見る。

kozyousitakyokann1 (5)

kozyousitakyokann1 (6)

居館の中心部と見られている「城下」地籍を見る。

耕地整理などにより遺構は見られない。


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居館跡から見た田多井の城館跡達


今回は、田多井古城下居館跡を紹介してきましたが、いかがだったでしょうか?

遺構のない居館ではありますが、伝承などが残り遺構が出土している点など重要な遺跡だと思います。

標柱や説明板を建てるなどもっと地域の住民などにも興味を持ってもらう努力が安曇野市には必要だと感じました。

居館主としては、田多井氏が有力ですがその後に入ってきた青柳氏や付近に若狭垣内と云う地名があり、若狭なる

人物も想定でき青柳氏と若狭の居館が特定されていないのでここが田多井氏だけの居館であったとは断定できず、

これらの人々が同じ場所に居館を構えた可能性もあるのではないでしょうか。



~参考文献~

山城探訪 補遺資料編 中南信版      (宮坂 武男)

田多井古城下遺跡発掘調査報告書      (堀金村教育委員会  1988)



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  1. 2013/04/27(土) 23:15:55|
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安曇野市  田多井城への道しるべ

前回、田多井城を紹介したがどう見ても城跡までの道が分かりずらいと思われるので補遺編として

田多井城・物見砦への行き方を紹介して皆様にも訪れていただきたいと思います。

なお。。。前回紹介した物見砦ですが、やはりあの写真では納得できなかったので。。。。。。。

。。。。。。再訪してきちゃいました  (゜-゜) 。。。。。病気の進行がすすむ・・・・



         ~ 田多井城・物見砦への道 ~

tataisiro113 (9)

加茂神社前の道を100mほど山側へ登って行くと、写真のような林道入り口が現れる。

この林道に入っていく。

(林道は普通車でも入れるほどきれいだが、一応、広い場所に置いて歩くことをお勧めします。)


tataisiro113 (10)

林道を進んでいくと・・・・・・・

tataisiro113 (8)

林道の分岐が現れます。

右は、田多井城へ。左は、田多井城物見砦への道となります。


tataisiro113.jpg

田多井城へは、右側へ進んで行くと写真のようなコンクリの壁があります。(目印はこれのみ)

さらに道なりに進み突当たりの急な斜面が見えたら、そこが田多井城への斜面となります。

(道は最後無くなりますが、とにかく真っすぐ進む、また、熊や猿が出るので注意が必要です。)


tataisiro113 (6)

田多井城物見砦へは、分岐を左に進み最初の大きなカーブを曲がった場所に、このような看板とあやしい分岐が

ありますが、その手前の藪の中にわずかな踏み跡があるのでそこを入っていきます。


tataisiro113 (2)

今回の再訪は、4月22日に行ったのですが30匹ほどの猿の群れに出会いました。

この群れは砦址まで一緒で。。。。。ドキドキ。。。

ずっと10mほど前を歩いているので群れの一員の気分でした。  (-_-メ)  

目を合わせないようにして、相手にしなければ大丈夫です。


tataisiro113 (5)

分岐脇の籔道を進むと、尾根の斜面にぶつかるので沢を渡って直登します。

tataisiro113 (3)

尾根上に、山ノ神の社があるのが目印です。

この田多井城・物見砦のある尾根は分かりずらい場所にあるので必ず地形図を持って行きましょう。

              ~ 物見砦再訪 ~

tataisiro21 (2)

ん~。。。。何度見てもいい加減だ。。。。(-_-;)

~①砦の郭~

tataisiromonomitoride34 (3)

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尾根の弛みに築かれた物見の砦で、10×8mの単郭と堀切一つの小さな造りである。

tataisiromonomitoride34.jpg

小さな物見の砦ながら、高さ3mほどの切岸が見られ防御性を高めている。

~堀切~

tataisiromonomitoride34 (8)

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本郭の裏の尾根続きには、上幅7m・深さ50cm程度の堀切が造られているが防御の為というよりも、城域の区切り的

なもののような感じで防御性を感じない。


tataisiromonomitoride34 (7)

搦め手尾根から堀切を挟んで本郭を見る。

tataisiromonomitoride34 (9)

砦の北側下の神沢谷側の斜面から見上げた砦

ものすごい急斜面に守られていることがわかるであろうか。


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麓の田多井氏居館跡から見た本城の田多井城と物見砦

前回の掲載写真に納得いかずに、再訪してきたが単郭の砦ながら切岸や郭の削平・堀切など丁寧に手を加えていた

ことを再確認出来たことによかったと思う。

ただ、新しい記事を期待して見て下さる方々には二回続けて同じ城跡の掲載は申し訳なく思っていますが。。。。

このブログの一番の目的は、「写真で見て一目で理解出来るきれいな写真の掲載」「城跡の図鑑」を作ることなの

でこれからも納得のいかない写真は再度、訪城して撮り直し掲載していきたいと思いますのでどうぞお付き合い

下さい。


次回は。。。。。田多井氏居館跡と田多井古城をお送りしますのでお付き合いください。

(この二つも4月22日に再訪し写真を撮り直してきました。)
  1. 2013/04/24(水) 12:13:26|
  2. 安曇野市
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安曇野市  多田井城・多田井城物見砦

土豪田多井氏による城郭達

所在地・・・・安曇野市堀金三田多田井          訪城時間・・・・田多井城は50分・物見砦は20~30分

危険度・・・・★★★★☆                  訪城目印・・・・加茂神社

訪城日・・・・田多井城 2011年12月17日 ・ 物見砦 2010年11月22日

注意事項・・・・迷いやすいので地形図・方位磁石を必ず持っていく事。また、猿・熊が出没するので注意が必要


tataisiro123.jpg

多田井城で猿の群れに囲まれ、ヒヤヒヤ。。。。。。注意しましょうね (-_-;)

               ~ 田多井城の歴史 ~

「信府統記」には、「城主多田井大隅ト云者アリト云伝フ、年代知レズ」と記されている。

また、「信濃」記載、「田々利牧は安曇郡田多井郷か(小穴 芳実)」には、

「(前略)当堀之内は、「信府統記」の伝える田多井大隅(守)の屋敷跡と思われる。天正七年の上諏訪造宮帳に

よれば、西牧の内上野郷の代官に田多井安右衛門尉が見え、彼の後裔と思われる南北条の田多井氏の墓石に元暦元

年・文明・天文等の古年号が刻まれている(過去帳によって江戸時代に刻んだものらしい)ことからして、

田多井に在住した在地領主であったことが推定される。

(武田氏支配時代に西牧郷へ移動を命じられ、この後へ青柳氏が来住している。)(後略)」とある。


tataisiro72.jpg

田多井氏関連の城跡配置図


同じく「信濃」記載、「細萱氏館と細萱・堀金両郷の開発過程(小穴芳実)」には、

「(前略)、標高840m、比高240mで本郭(15×23m)の外に三つの郭と十数個の帯郭が東北に向かって施されてい

る。おそらく戦国期の築城と思われる。「信府統記」は田多井大隅を城主と伝えている。天正年代には青柳対馬が

村地頭になっている。」とある。


             ~ 田多井城・物見砦の現状 ~

tataisiro21.jpg

でっかく書きすぎてしまった。。。。が、このまま紹介します。(-_-;)

tataisiro123 (3)

登城路は、加茂神社の裏にある林道(名前不明)に入り、50mほど進むと西側に向けて廃道となったような踏み跡

がある。現在は籔となっていて分かりづらいがとにかく進む。(地形図は必ず持参すること)


tataisiro123 (2)

山の麓まで来ると小さい沢が流れているのでこれを越えて山の急斜面に取り付きとにかく登る。(こやぶろ沢の南側の山を登る)

この山は、金毘羅山の北東に突き出した尾根にあり、比高240m・斜面は斜度40度近くあり登りはかなり辛い。

道は無いので難易度も高く注意が必要である。(初心者にはお勧めしない。)


tataisiro2 (2)

猛烈な急斜面を30分ほど登って行くと。。。。。段郭が現れてくる。

tataisiro2 (5)

この段郭は小規模であるが、急斜面に段郭が築かれているためにかなりの防御的な威力があったと思われ、この

段郭を縫うように堀状の道が現れる。(この道は、山の三分の二ほど登ったあたりから現れこれがかつての大手道

であったと思われるが、下部では見られずどこを登ってきていたのかは不明)


~ 本城域 ~

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段郭が現れてからさらに急斜面を約10分ほど登ると、急な切岸が現れ本城域となる。

tataisiro31 (3)

tataisiro31 (4)

本城域の帯郭は、本郭の前面に3段見られ一部は郭を囲むようにU字型に構築されている。

tataisiro31 (2)

本郭から帯郭を見下ろす。

tataisiro4 (8)

最後の帯郭と奥に本郭を見る。

tataisiro4 (7)

tataisiro4 (3)

本郭は、15×23mで城平と呼ばれる平地で東側を除き、U字に土塁が構築されていて尾根続きの西側は高さ4mの

大土塁となっていて防御は厳重である。


tataisiro4 (6)

この城には、安曇野市の城跡ではあまりみることの出来ない虎口が本郭の南側に見られる。

tataisiro4 (4)

4mの土塁上から見下ろした本郭全景

~ 堀① ~

tataisiro6 (3)

tataisiro6.jpg

本郭の西側尾根続きには、二本の堀切が構築されている。

この最初の堀切①は、上幅6mで深さは約1mで両脇に竪掘として落としている。


~ 堀② ~

tataisiro11 (3)

堀②は、上幅3mであるが深さは約50cm程度で小規模である。ただ。。。。

tataisiro11 (5)

北側のこやぶろ沢側の斜面の傾斜が緩い為に、斜面の中間あたりまで竪掘として長く落としている。

この堀切から尾根続きには遺構は見られない為に、この堀切以降は城外となるようである。


tataisiro4 (5)

本郭にある標柱(田多井城には、二本の標柱が建てられているが、登山道が無い荒れた山に誰が登るのであろう。

標柱の前に、登山道の整備や道しるべなどの整備が優先だと思うのだが。。。。。(-.-) )


~ 田多城物見砦 ~

tataisiro72.jpg

ちょっと長くなってしまうのですが、お付き合いください。この田多井城の南側も神沢谷を挟んだ尾根上には

物見の砦とされる遺構が散在する。(行く価値があるかといえば疑問だが。。。。)なので行ってみた。


tataisiromonomi1 (7)

大雨の日に登ったので、写真が全体的にボケっぽいですがお許しください。  

tataisiromonomi1 (2)

物見砦は、琴平山の尾根上標高750m地点(麓の屋敷跡から比高142m)の尾根の弛みに構築されている。

砦へは、道が無く急斜面を直登するしかないが、麓の神沢谷沿いは籔が酷く尾根への取り付き場所がわかりにくい。



tataisiro21 (2)

手抜きの図面で許して。。。。。下さい。(こんな感じ。。。)

tataisiromonomi1 (3)

砦は、10×8mの平場と堀切が一本あるだけのもので小規模なものである。

なのに、標柱が建っている。。。。スゴイけど。。。。これも誰がくるんだろ?


tataisiromonomi1 (5)

ちょ~ボケボケの写真でスミマセンが、この程度のものに再度見に行く時間も無く。。。。(-_-;)

砦の切岸の雰囲気だけでもお伝えできれば・・・・・えへ。。。ゴメンナサイ。


tataisiromonomi1 (6)

尾根続き堀切を見る。 

tataisiromonomi1.jpg

堀切は、上幅7m・深さ50cm程度で申し訳程度に構築されていて、最初から守って戦う意思は無かったのであろう。

この砦は、田多井城が奥まった位置にある為に南側の小倉方面が見えない欠点があった。それを補う為にこの物見

砦が構築されたものと見られている。



長々と書いてきた田多井城はいかがだったでしょうか?

最後までお付き合いいただいた方には感謝です。普通の人は中々行くことが出来ない山奥にも領地を守る為に城跡

が造られた時代があったと云うことが伝われば幸いです。

この城跡は、よく前面にたくさんの段郭が構築されていることから古い時代の城として紹介されることが多いです

が全体的に見て、高い土塁・虎口など新しい技術も見られるように思えるがどうであろうか。


~ 参考文献 ~

山城探訪  安曇資料編・補遺資料編 中南信版   (宮坂 武男)

日本城郭大系 8巻                (新人物往来社)

アルプスの里「堀金」~その歴史と文化~      (宮下 一男)

信濃 38巻3号                  (信濃史学会)
  1. 2013/04/17(水) 23:13:33|
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安曇野市  茶臼山城

塔ノ原城の支城

所在地・・・・安曇野市明科東川手            訪城時間・・・・居館跡へは5分・山城部へは15分

危険度・・・・★★☆☆☆                  訪城目印・・・・こや城(城山公園)と会田川を挟んだ対岸

訪城日・・・・2008年8月16日・2011年3月13日


備考・・・・居館部は畑地なので、人が居たら許可をもらってから入りましょう。(畑地は立ち入り禁止)


             ~ 茶臼山城の歴史 ~

「明科町史」の茶臼山城の項には、

施行田の会田川が屈曲する所で茶臼山と呼ばれる200m×200mの一帯で、山頂に本郭の平があり下の段に根小屋

(居館)がある、また、本郭の北側少し下に第ニ郭と思われる平地がある。

東側の登り口には細い腰郭と思われるものが畑となって四段あり、空堀は東側の尾根との境に畑となっており、

北側の幅に三条ある。下の根小屋1haの周囲には西から東にかけて、高さ1m、巾0.8mの築地の石垣が80m余も続い

ている。現在の石垣は昭和20年頃に古い築地のあった上へ、開墾の石を更に積み上げたという。

東側には土塁が約30m残り、西の入り口には馬入口が残っていて、下には会田への旧道が通じている。

伝承としては、北側の下屋敷に青木氏の先祖が番をしていたとされ、塔ノ原氏がこや城と同時に会田口の押さえと

して築城し配下の青木氏を配置したもので、天正10年に塔ノ原氏滅亡時に茶臼山城は廃城となったと思われる。

青木氏は、天正9年の御祓くばり日記には見られない。(青木氏は伊勢御師宇治久家の檀家ではなく、御師堤家の

檀家であったと思われるが堤家の記録は残っていないので青木氏がどの程度の力を持っていたかは不明)

ただ、青木氏は中級武士であったので、塔ノ原氏滅亡後には帰農したものと考えられている。


             ~ 茶臼山城の現状 ~

akasinacyausu23.jpg

この図面に沿って紹介していきます。

~ 居館跡 ~

akasinacyausu12 (3)

会田川東岸沿いを会田への旧道がかつて通っており、この旧道から茶臼山城の居館跡へ登る道がついている。

この道を「馬入」と呼んでおり、かつての大手口であったのはないかと考えられている。


akasinacyausu1 (2)

居館跡と後方に茶臼山城を見る。

akasinacyausu1.jpg

居館跡の広大な平地

居館跡の規模は一番広い所で、96m×94mでかつてはすべて耕作地であったようであるが、現在は北西の一部が耕作

地で残りの部分は籔となっている。


akasinacyausu3.jpg

akasinacyausu3 (2)

居館跡の中央部よりやや東側に「矢塚」と呼ばれる高まりが存在する。

この塚からは、茶臼三個と土器の破片が見つかっている。


akasinacyausu12 (6)

旧明科歴史資料館所蔵の茶臼山城矢塚出土の茶臼

akasinacyausu2 (2)

居館跡の南側には、西から南側にかけて高さ1m、巾0.8mの築地の石積みが約80mほど見られる。これは、居館を

区切る築地の跡と見られるが、昭和20年頃に古い築地の上に開墾時に出た石を積み上げたとされているのでこの

下には居館に関係すると見られる築地跡が今でも埋まっていると考えられる。


akasinacyausu5.jpg

居館跡の東側段丘端には、長さ約30m・幅2m・高さ約0.5mの土塁が残る。

この土塁は、会田川を挟んだ対岸または下を通過する会田への古道に対しての目隠しや防御であったと思われ

かつては居館を囲むように縁部に構築していたのであろうが現在は一部のみである。


~ 山城部分 ~

akasinacyausu7 (2)

akasinacyausu7.jpg

居館跡後方の茶臼山には、茶臼山城の物見砦が存在し山頂に本郭の広大な削平地が存在する。

削平地の規模は、約100m×30mで何棟もの建物が建つ広さであるが現在は、笹と雑木の籔となり土塁等は見られな

い。(かつて耕作されたようであるので、土塁は削平された可能性もある。)


akasinacyausu8.jpg

本郭から見る掘切

本郭から東側に尾根を下ると、何段かの段郭状の削平地があり堀切とされる低い平地に至る。

この斜面にある削平地は、かつて堀切無いも畑となっていたので耕作による削平の可能性が高い。


akasinacyausu8 (4)

堀切内部を見る

堀切とされる鞍部は、かつて畑地となっていたらしく現在は籔となっており、幅は約20mである。

明科町史には、堀切内部の北側斜面には竪堀が3本書かれているので、かつては3重の堀切であった所を、耕作の

為に平らに削平した可能性があるのかも知れない。


akasinacyausu11 (4)

ニの郭と奥に本郭の高まり

本郭から北西に約24m緩やかな斜面を下るとニの郭が構築されている。

akasinacyausu11 (3)

ニの郭からは、会田川と麓の集落をはさんで対岸に同じ塔ノ原城の支城のこや城がよく見え、協力して街道を

守っていたことがよくわかる。


akasinacyausu11 (2)

ニの郭は、約85m×20mで弓矢のような形をしていて削平は丁寧にされているが、土塁等の防御施設は見られない。

akasinacyausu12 (2)

こや城がある北側の会田への古道から見た茶臼山城

akasinacyausu12.jpg

会田川を挟んだ南側の大葦方面から見た茶臼山城

隅々まで見てきた茶臼山城はいかがだったでしょうか。

この城は、こや城と共に西側対岸山上にある塔ノ原城の支城とされていて、天正11年(1583)に塔原氏が、

小笠原貞慶に誘殺されて塔原氏が滅亡した時点で、廃城となりその後は改修を受けることが無かったものと思われ

切岸の甘さや不明瞭な堀切などに古さを感じられる。ただ、居館部の築地や土塁は山城部には見られないもので

青木氏は廃城後も、ここに居住していたのではないだろうか。



~ 参考文献 ~

山城探訪 松塩筑資料編       (宮坂 武男)

明科町史              (明科町史刊行会  昭和59年)



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  1. 2013/04/11(木) 04:53:38|
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安曇野市  久保殿屋敷

塔ノ原城支城のこや城主居館跡

所在地・・・・安曇野市明科中川手                      訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                           別 名・・・・明科古殿屋敷

訪城目印・・・・犀川砂防事務所                      訪城日・・・・2008年8月18日・2009年6月3日


                ~ 久保殿屋敷の歴史 ~

「明科町史」の明科古殿屋敷の項に、

「犀川砂防事務所、明科幼稚園のある所で、50m×100mの会田川段丘上の平地で、東側に堀の跡が僅かに残り東、

南側の周囲及び北側の段丘下には用水路を回している。

元禄11年明科村書上帳には「東久保平、古殿屋敷、東西二十ニ間、北南十四間、城主存じ奉らず候」とある。

天文9年御祓くばり日記には久保しま殿の名前が出ていて、こや城の城主の屋敷であるという。」とある。



              ~ 久保殿屋敷の現状 ~

kubotonoyasiki.jpg

この図面に沿って紹介していきます。(赤字は、地字名を記載)

kubotonoyasiki1 (3)

久保殿屋敷は、図面でいう「やしき」「堀畑」と犀川砂防事務所の所の段丘先

端部にあったとされる。写真は犀川砂防事務所の西側にある「やしき」地籍で現在は更地となっている。


kubotonoyasiki1 (8)

この「やしき」地籍は外郭部であったと思われ、段丘崖側には写真のように大きな欅や土盛りの上に社が祀られて

いて土塁の可能性もあるのでは。。。とされている。

なお、このやしき地籍の西南側の「くぼ」地籍には館主「久保志摩」(関氏)関係かと思われる関氏が住んで居

いて、関氏はこの周辺には大きな勢力を持っていたようだ、この他に関氏関連と見られる居館が二つ確認されてい

て墓所には古い五輪塔の残片を見ることが出来る。


kubotonoyasiki1 (6)

居館跡の「やしき」地籍から北側の会田川方面を見る。

居館の北側は、会田川の河川敷と約4mほどの高低差があり崖状となっている。奥に見える山と山の間の窪みは

現千曲市へ通じる街道となっているのでこの屋敷も街道を見張る役目も担っていたものと思われる。


kubotanoyasiki2.jpg

屋敷の北側下の会田川河川敷より見る久保殿屋敷

kubotonoyasiki1 (4)

館跡の外郭部と見られる「やしき」地籍の会田川段丘崖縁には、大きな欅と根元に高さ約1mの土塁痕のような土盛

りと祠が祀られている。


kubotonoyasiki1.jpg

kubotonoyasiki1 (2)

久保殿屋敷に関係する土塁と見られる高まり

また、中心部と見られる犀川砂防事務所敷地の南西隅部には、関氏一族が祀っている飯綱稲荷社が高さ約2mほどの

土盛りの上に祀られていて、かつて土塁上に祀られていた館跡の鎮守であったものと思われる。


kubotanoyasiki2 (3)

犀川砂防事務所の東側には「堀畑」地籍があり、この場所は1.5~2mほど低くなっていてかつての堀跡と見られて

いてこの「堀畑」から水路が「やしき」地籍方面へ伸びているのでこれらもかつての堀跡と見られる。


kubotonoyasiki1 (7)

 「やしき」地籍から見る池田町方面 

今回は、こや城主の居館をお送りしてきましたがいかがだったでしょうか。

中々、居館跡に興味をもって記事を書かれることが少ないですが、これらの小規模居館跡が忘れられることが無い

ようにちゃんと探し当てて皆様にお伝えしていきたいと思います。

興味が無い方も、興味が無い方もどうぞお付き合い下さい。



~参考文献~

山城探訪 補遺資料編 中南信版      (宮坂 武男)

明科町誌                 (明科町史刊行会  昭和59年)




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  1. 2013/04/10(水) 03:52:58|
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安曇野市(旧明科町)  こや城

塔の原城関連城館

所在地・・・・安曇野市明科中川手                      訪城時間・・・・5分

危険度・・・・★☆☆☆☆                            別 名・・・・小屋城・小谷城・明科城

訪城目印・・・・城山公園             

訪城日・・・・2009年12月3日・2011年3月13日・2013年4月6日


発掘経歴・・・・昭和53年11月22日~12月12日(国鉄篠ノ井線複線化に伴う路線変更による発掘調査)


                ~  こや城の歴史 ~

明科町教育委員会刊行による「こや城遺跡』発掘調査報告書内でのこや城についての考査を参考にまとめると、

鎌倉時代の初めに筑摩郡に進出した小県郡の海野氏の一族である塔ノ原氏が塔ノ原城を築き、小笠原氏の家臣と

なっていたが、小笠原氏が武田氏に敗れると武田氏に降り天正10年(1582)に武田氏が滅び、旧領を回復した

小笠原貞慶に塔ノ原氏が滅ばされるまで、会田口や生坂口への押えとして監視哨または番所的役割をもって構築

されていたものと思われ、塔ノ原氏滅亡時に廃城となったようである。

また、こや城に関する古文書では、

元禄11年に中川手村から松本藩主水野家に報告した古文書には、「こや山古城、本城北南十四間、東西六間。

ニのくるわ、北南三十三間西東六十七間、城主存じ奉らず候」とある。

その他、信用が置けない文書には小笠原氏の部将、榛葉代の説があるようであるが、報告書は否定している。


akasinakoya2 (6)

こや城から見た、こや城主居館の久保殿屋敷と高野氏・矢花氏・丸山氏が守った押野城

こや城主について書いてあるものはほぼ皆無であるが、「明科町誌」では、

天正9年(1581)の「御祓くばり日記」の中に見える中級武士で、慰斗二十本、茶三袋をもらっている久保志摩が

城主で久保殿屋敷に普段居住してこのこや城を守ったものとしている。

なお、久保志摩はこの地の土豪で関氏であったようである。


             ~  こや城の現状 ~

akasinakoya32.jpg

この図面に沿って紹介していきます。

akasinakoya2.jpg

現在の城山公園入り口で、往古はこや城の大手口であった。

この大手口の手前、現国道の場所には堀切があったとされていて道の建設により消滅したようであるが、


akasinakoya21.jpg

akasinakoya21 (2)

国道の橋の付け根部分には、堀③とした竪掘状の窪みが見える。これが掘跡だとは断定できないが、一応載せてみた。

~ 堀② ~

akasinakoya13.jpg

入り口から20~30mほど細尾根を進むと、傾斜の緩い北側に向けて竪掘が落とされている。

akasinakoya13 (2)

この竪掘は麓まで落とされており、敵が緩い斜面の横移動することを防止している。

~ 堀① ~

akasinakoya8 (3)

堀②からさらに進むと本郭手前には、写真のように両脇に落とされた竪掘①が現れる。

この城の堀が、堀切とされていないのはこの城ののる尾根が細く敵が一気に攻めてこれない為、両脇を竪掘として

削るだけで防御としては足りていたのであろう。


akasinakoya8 (4)

落とされている竪掘①を上から見る。

akasinakoya8 (2)

この竪掘①は、竪掘②よりさらに長く落とされていて現在中腹にある遊歩道を越え、麓にある慈光院跡まで

落とされていていかにこの城にとってこの堀が重要だったか分かる。


akasinakoya8 (6)

慈光院跡から堀①を見上げると、窪みが2本見えもしかしたらこの竪掘は二重だった可能性がある。

(上からは分かりずらい)


~ ①(本郭) ~

akasinakoya10 (3)

郭①(本郭)は、城山の最高地点にあり25×11の広さの平坦地である。

ここはきれいに削平されていて(公園化のための可能性も)土台石とされる平たい石があるとされるが、

確認できなかったがもし、礎石があったとすればかなり遅くまで使用された可能性もでてくるのではないだろうか。


akasinakoya10.jpg

郭①から東側下にある郭②(二の郭)を見下ろす。

akasinakoya3 (3)
akasinakoya3 (2)

郭①(本郭)の北側の切岸には、麓を流れている会田川の川床から持って来たと思われる石積みが見られる。

この北側斜面は、こや城で唯一土が露出しており更に、傾斜が緩いことから土止めと威嚇を兼ねて構築された

のではないだろうか。また、ニの郭から慈光院跡へ降る道沿いにも石積みが見られる。


~ 郭②(二の郭) ~

akasinakoya6.jpg

郭②(ニの郭)は広大で40×140(破壊部分除く)の広さがあり、東側先端には城山稲荷(小谷稲荷)が祀られる

三角形の平坦地が付属していて通称「こや」と呼ばれている。

明治にこの平坦地は全面、桑畑に開墾されたとされていて、この平坦地にある凹凸がどこまで城のものか判断が

つかない。(写真奥の高まりは、郭①(本郭)の切岸)


akasinakoya6 (3)

ニの郭の東側先端部にある城山稲荷がある三角形の郭。

この郭は会田川の流れにより全面絶壁となっているが、先端部にはけもの道ような下へ降りる道が付けられていて

もしかしたら、会田川へ水を汲みに行く道として使用された可能性がある。

また、この城山稲荷は報告書によれば城の存在していた頃にもあったようで城の守り神であったようである。


akasinakoya6 (4)

国鉄により破壊されたニの郭北側部(発掘箇所)

この箇所での発掘出土遺構としては、階段状の石積み(川原石)と浅い溝状の遺構などであるが、発掘箇所が郭の

端で部分的であったので使用目的が分かっていない。また、出土遺物としては内耳鍋・青磁・釘・碁石などで

生活痕が見られることからここにも屋敷のようなものがあったのであろう。


akasinakoya11.jpg

akasinakoya11 (5)

旧明科歴史資料館に展示されていた出土物

今回の発掘では、穀倉跡と見られる方形竪穴遺構や不整方形の竪穴が出土し石臼や穀粒が沢山見られた。

この穀粒などは炭化しており戦時に備えた穀倉が何らかの理由により火災にあい焼失したものと考えられている。


akasinakoya2 (4)

城山稲荷のある郭から見た茶臼山城

会田川を挟んだ対岸には茶臼山城の麓を通過した会田への旧道が通っており、茶臼山城と共に塔ノ原城の支城とし

て共にこの街道を押さえていたのであろう。


~ その他 ~

akasinakoya2 (8)

こや城の北側麓には慈光院跡の平坦地がある。

ここには数年前まで、慈光院の建物があったがいつの間にか解体されていた。


akasinakoya2 (10)

この慈光院跡には、御膳水と呼ばれる井戸があり現在は、ニの郭の木々の水やりに使用されているようで蛇口が

付けられていてちゃんと見ることは出来ないが、城の水の手の一つであったものと思われる。


akasinakoya739 (2)

こや城南側の会田川を挟んで対岸から城山稲荷のあるニの郭先端部の絶壁を見る。

こや城の自然の険しさをを利用した要害堅固さが伝わる部分である。


akasinakoya739.jpg

こや城全景と茶臼山城を見る

さあ、いかがだったでしょうか。

こんな小さな砦に長々と書きすぎだ!!と怒られそうですが。。。。。。。

こんな小さな砦にも意外に見どころがあることをお伝えしたくて。。。。結構この城好きだし。。。(>_<)

まあ、興味をもってくれた人は隅々まで見て回ってこの城を好きになって下さいね。

次回は、こや城の城主の居館である久保殿屋敷をお送りしますのでお付き合いください。



~参考文献~

山城探訪 松塩筑資料編    (宮坂 武男)

明科町史           (明科町史刊行会   昭和59年)

こや城遺跡発掘調査報告書   (明科町教育委員会  昭和54年)



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