長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  柳坂上砦

安曇南部の雄 西牧氏城砦群⑦

nisimakinotoride1.jpg
西牧氏城砦群配置図                国土地理院 2万5千分の1地図使用

所在地・・・松本市梓川梓                           訪城時間・・・・0分

危険度・・・★☆☆☆☆                            別 名・・・はば屋敷

訪城日・・・・2008年7月13日・2013年5月26日

砦内部はリンゴ畑や畑となっているので訪城の際は、必ず地権者の許可をとってから入るようにしてください。



              ~ 柳坂上砦の歴史 ~

「北安曇郡誌」を参考に書いて見ると。。。。。。

この砦は桜坂上砦の西4町、段丘最南端の地点にあり尾入沢を隔てて田屋部落の荒海渡砦を相のぞみ、上丸田部落

より大久保部落に至る「柳坂」の上に位置している。尾入沢に面している段丘の縁辺を東西に4条の堀をもって切り

その東より2条目のものは中途にて西に折れ、更に2条に分かれて段丘を切っている。

北側には堀のあとは見当たらないが、北辺は若干高く、土塁の跡と推定したい。

かつてここからは屋敷の土台石や茶臼の破片が出土しており、通称「はば屋敷」と呼んでいる。

ここは桜坂上砦の右側面を受け、尾入沢、降旗田圃を眼下にし、中村居館と共に飛騨・木曽口に備えたものであろう。

また、この柳坂を登り切って直進すると於田屋居館や北条城へ行けてしまうのでこの柳坂は重要な関門として

柳坂上砦は重要視されていたものと考えられる。



               ~ 柳坂上砦の現状 ~


yanagisaka1 (6)

この図面に沿って紹介していきます。(赤線は北安曇郡誌に掲載の図面に書かれている堀を入れてみました)

~ 堀① ~

yanagisaka 2 (2)

堀①は、段丘南側斜面に竪掘の痕跡として残るのみで全貌を見ることは出来ない。

~ 堀② ~

yanagisaka7 (3)

堀②も南側斜面の縁部に痕跡として残っているのみでどのような形跡だったかは分からないが、北安曇郡誌の

図面を見る限りでは堀①・③と繋がっていて段丘上で方形状の区画を構成していたようである。


~ 堀③ ~

yanagisaka6 (3)

yanagisaka6 (4)

堀③は、比較的堀①・②よりは形状が確認できるが藪に包まれており全貌を見ることは出来なかった。

この堀③と堀①・②で柳坂上砦の主要部を構成していたようであるが、畑となった現状でも砦内部は平坦ではなく

凹凸が見られるので砦があった時代でも削平は甘かった可能性がある。


~ 推定土塁 ~

ynagisaka3 (5)

砦の主郭であったと思われる部分は、ほぼリンゴ畑となっており改変が激しいものと思われ遺構らしきものは

見られない。


ynagisaka3 (4)

ただ、リンゴ畑の西側の畑部分には砦の歴史の部分に赤字で書いた「北安曇郡誌」の記事の部分「北側には堀のあ

とは見当たらないが、北辺は若干高く、土塁の跡と推定したい。」とある土塁跡がこの部分である。


ynagisaka3 (3)

推定残存土塁を北側から見たところであるが、この微妙な高まりがわかるであろうか。

ynagisaka3 (2)

現地で確認してもらうのは一番なのであるが、分かりずらいので補助線を入れてみた。

これが柳坂上砦の土塁の痕跡であろうとされている高まりである。しかし、この土塁の北側には柳坂上砦の北限と

なったであろう堀の痕跡は確認できない。

土塁を崩して堀を埋めることはよく行われることであるが、土塁が残って堀の痕跡は一切見られないのは不思議である。

また、北安曇郡誌に記載の図面には堀③の西側にも1本の堀が書かれているが、現在はその痕跡すらうかがえない。


ynagisaka3 (7)

砦跡からみた支城で後の本城となった田屋城を見る。

~ 柳坂 ~

yanagisaka1 (4)

現在の柳坂の位置を見る。

現在は、段丘上には車道が砦跡脇に登ってきているがそのすぐ脇の藪の中には旧柳坂が残っているのである。

この位置関係をみると柳坂を登ってくると砦の真横に辿りつく為のこ坂を押さえるには格好の位置にあることが

分かる。


ynagisaka3 (9)

また、この柳坂を上り切った道を直進すると本城の北条城や於田屋居館に直接通じてしまうのでこの砦は西牧氏の

居館の前衛の守りとして重要な位置にあったことが窺える。(写真左側のリンゴ畑が砦跡)


yanagisaka1 (3)

旧柳坂で、段丘上へ出る部分を見る。

このあたりに砦の門や関所のような関門が設けられていたことは想像できるところである。


yanagisaka1 (5)

段丘下へ降っていく旧柳坂を見る。

現在人が歩くことがあまりないようで、籔になっておりその内自然に帰ってしまうであろう。


yanagisaka9 (3)

砦のある段丘南側斜面は、写真のように急であるがかつては細い山道が堀の中に登っていたようである、今は痕跡

は見られないが昔は脇道のような細かい道が張り巡らされていたのであろう。


yanagisaka9 (5)

荒海渡砦と柳坂上砦を隔てる尾入沢を見る。

西牧氏の砦には、このような隣り合って構築されている場所はないことからこの尾入沢にはかつて段丘上に登る

重要な道があってその道を二つの砦が警備していたという仮説も考えられるところである。

現状は道の痕跡は見られないが、どうであろう。


yanagisaka9 (6)

段丘下(降旗の牧)から段丘上の砦を見る。


柳坂上砦はいかがだったでしょうか。

こんな取るに足りない砦でも細かく見て行くと意外に多くの伝えたいことが見つかるものだと感じました。

これからもこまか~く伝えていけたらと思いますのでお付き合いください。



~参考文献~

山城探訪 補遺編 中南信編       (宮坂 武男)

北安曇郡誌               (北安曇郡誌編纂委員会)

梓川村誌                (梓川村誌編纂委員会)



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  1. 2013/06/28(金) 22:35:47|
  2. 松本市
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松本市  長坂上砦

安曇南部の雄 西牧氏城砦群⑥

西牧氏に関係すると思われる城館跡はいくつあるのであろう。。。。。?

ちょっと数えてみた。。。(-_-メ)

①中塔城 ・ ②城日影砦 ・ ③尖屋敷 ・ ④本神沢端砦 ・ ⑤城の上砦 ・ ⑥北条城 ・ ⑦柳坂上砦

⑧荒海渡砦 ・ ⑨鞠子山砦 ・ ⑩大妻氏館 ・ ⑪氷室館(中野氏館) ・ ⑫殿小屋・明カ平・上向小屋平

⑬向かい屋敷(瑠璃光寺屋敷) ・ ⑭小倉城(推定) ・ ⑮鬼小屋・高見・小屋の平 ・ ⑯亀山砦

⑰伊藤坂上砦 ・ ⑱於田屋館 ・ ⑲西林砦 ・ ⑳田屋城 ・ 21 桜坂上砦 ・ 22 中村館 ・ 

23 長坂上砦 ・ 24 長尾城 ・ 25 岩岡氏館 ・ 26 大野田夏道砦 ・ 27 上総屋敷 ・ 

28 かぎかけ山物見 ・ 29 奈川古幡氏館


ん~・・・推定(一時期でも関わっていたと思われるもの)や一族の物を含めても29ヶ所もある。。。。

今まで26ヶ所は訪城しているのであと。。。3こ?

しか~し(汗) 残りは最大の難所である梓川渓谷沿いの殿小屋や鬼小屋などの険峻な場所ばかり・・・・・

西牧氏の逃避行にお付き合いできるのかな・・・・・(-_-;)

ってことで今回も西牧氏の砦である長坂上砦をお送りしていきます。



所在地・・・・松本市梓川梓字上野                   訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                        訪城目印・・・・真光寺

訪城日・・・・2008年7月13日・2010年12月27日

注)砦内部はすべてリンゴ畑となっているので立ち入る際は、地権者の許可が必要です。


nisimakinotoride1.jpg
西牧氏城砦群配置図             国土地理院 2万5千分の1地図使用


                ~ 長坂上砦の歴史 ~

この砦は、中村館(西牧氏の旧居館)の西に構築されていて上野段丘上の南西隅の穴沢の深い谷に浸食されて尖角

をなしている箇所に所在する。

この砦では、常住の監視の武士が居たことを実証する石臼と平面円形の礎石(直径50cm位)がリンゴ畑造成中に

発見されている。

この砦の役割は木曽・飛騨口に当たる為にこれらの監視と段丘下から登ってくる長坂を監視する為の砦であったも

のと考えられている。


nisimakisi134 (2)

この図面に沿って紹介していきます。(赤い点線は推定堀跡)

~ 郭① ~

nagasak8 (2)

この砦は、単郭で小規模なものであるが西側・南側は穴沢の深い谷になっていて、北側は田屋城のある高い山々に

守られており東側だけを守ればよいという要害の地にある。

写真は郭の西側で穴沢へ付き出ている段丘上突端部分を見ている。


nagasak8.jpg

郭内部は、構造改善によりすべてリンゴ畑となっていて土塁などの構築物は台地上には見られない。

(郭内部にはいるには、必ず地権者の許可を受けてから探索してください。)



~ 郭①突端部 ~

nagasak1 (3)

郭①の西側穴沢に面した部分には、写真のような出っ張りや竪掘状の窪みが見られるが台地の縁に沿って獣除けの

電気柵が張り巡らせてあり近づくことが出来なかった。もしかしたら、竪掘がある可能性も考えられる。


nagasak1 (4)

さらに先端部分には、三角形の形をした平坦地が見られる。

ここも電気柵によって近づけなかったが、城内でも一番西側(飛騨方面)にあるのでここに物見・烽火の櫓が

構築されていたのであろうか。


~ 堀① ~

nagasaka2 (2)

この砦で唯一の堀で城内と城外を分けていたと思われる堀であるが、残存状況は悪く西側の斜面と南側の斜面に 

その痕跡が見られるのみである。

この写真は、西側の堀の痕跡で城内を通って来たであろう堀が穴沢に向けて竪掘として斜面を下っていることが

確認出来る場所である。

城内側は、コンクリで固められて消滅している為にどのようになっていたかは想像するしかない。


nagasaka2 (3)

竪掘は長く穴沢の沢底近くまで伸びていることが窺える。

~ 堀② ~

nagasaka5 (2)

この部分は、堀①から伸びて来たであろう堀が上野段丘崖南斜面に落ちて行くところが見える場所である。

nagasaka5 (3)

この堀も斜面を竪掘として落ちて行くところが見えるが、穴沢側の竪掘より少し規模が大きいように見えた。

これは、西側の穴沢対岸には鞠子山砦がありそれほど防御を固める必要が無かったのであろうし、南側の段丘下

には古幡牧でなおかつ冬道が飛騨方面からも通っていてこの冬道から長坂が砦東側に登って来ている為防御を強化

する必要があり南側の堀の規模が大きくなったのであろう


~ その他 ~

nagasak1 (7)

砦跡からは、松本方面が一望でき物見の砦としては最高の位置である。


お送りした長坂上砦。。。。。小規模&遺構がほぼ消滅という条件の元、伝えることもあまりなく。。(-_-;)

でも・・・ここには確かに西牧氏が砦を築き名もなき人々が日々守っていたのである。

それを少しでも伝えていくことが微妙な趣味を持った者の定めなのである・・・・(゜-゜)  なんてね。



~参考文献~

山城探訪 補遺編 中南信編     (宮坂 武男)

梓川村誌              (梓川村誌編纂委員会   平成6年)

北安曇郡誌             (北安曇郡誌編纂委員会  昭和55年)



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  1. 2013/06/18(火) 21:12:18|
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松本市  本神沢端砦

安曇南部の雄 西牧氏城砦群⑤

******聞き込み9回目にしてやっとたどりついた砦跡*******

nisimakisi134.jpg
西牧氏城砦群北部の分布図         国土地理院 2万5千分の1地図使用


所在地・・・・松本市梓川北北条                   訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                       訪城目印・・・・北北條揚水機場

訪城日・・・・2014年6月16日(他8回)


           ~ 本神沢端砦の歴史 ~

この砦跡は、西牧氏により構築された砦であると考えられ築城年代は不明である。

ただ、この砦が構築された目的は本拠の於田屋居館の北方に備えた防御拠点であり「丑寅のやぐら」と伝承されて

来たようである。

西牧氏の勢力が最大となった頃には住吉庄の長尾(旧三郷村)まで勢力下に入っており長尾には長尾城を築いて

最北端の防御施設としている。

この於田屋居館と長尾城の間には、詰城であった中塔城と根小屋とみられている尖屋敷があるが尖屋敷と於田屋居

館にはかなりの距離がありすべてが同時期に使われていたとすれば、その間の空白地帯を埋めるための砦であった

とも見れる。

この砦が一番活躍したであろう時期は、天正19年(1550)に武田氏に敗れた小笠原長時が二木氏に伴われて中塔城

に立て籠もった時期であろう。

この天文19年には、西牧氏は田屋城より北側を小笠原氏により奪われていたが、小笠原氏が武田氏に敗れると、

武田氏配下であった西牧氏は勢力の挽回を図る為に北条城を奪い返し中塔城に籠った小笠原氏に備えたのであるが

その時期にはこの本神沢端砦が、北条城の西牧氏と中塔城の小笠原氏との境目の城として西牧氏に重要視されてい

たのであろう。

この時期に西牧氏により改修を受けたのか、他の上野段丘上に築かれた砦では見られない水堀が明治初年までは

北・東・南の三方に見られたという。

また、大宮熱田神社は、この砦の西北にあり砦跡とみられる場所には「大庭」という伝承地名があり、この付近

一帯は大宮熱田神社の神苑でもあったようである。


nisimakisi134 (4)
北安曇郡誌記載の図面を使用しています。(赤字は、分かりやすいように追加で書き加えています。)

この本神沢端砦は宮坂氏の山城探訪にも記載が無く、また、この砦跡の周辺一帯は構造改善により地字区分も

消滅してしまい構造改善後には畑の持ち主もほぼ変わってしまったようで、聞き込みをしても中々わかる方が

見つからなかったが、遂に9回目にして大方の場所を特定できる話が聞くことができた。


nisimakisi134 (3)
聞き取り調査により、聞くことが出来た地名と周辺図(北安曇郡誌の図面と比べてみてください)


              ~ 本神沢端砦の現状 ~

~ 一本松の地 ~

hannkamisawa1.jpg

北安曇郡誌の図面内で、砦跡の南側に一本松の名前が見られる。

その一本松がこの共同墓地で、この墓地は土地改良事業以前には畑に点々とあった古い墓地をまとめた墓地で新く

造られたものであり、墓地が出来る以前にはここに一本松と呼ばれる大きな松が立っていたという。


hannkamisawa1 (4)

墓地の入り口にたたずむ六地蔵と後方に西牧氏の本拠であった北条城を見る。


~ 屋敷添 ~

honnkamisawa45.jpg

北安曇郡誌に記載の図面で、砦の西側に記載されている「屋敷添」地籍が写真にある家が立ち並んでいる場所で、

ここは今でも古く住む方は屋敷添と呼んでいるようである。


honnkamisawa45 (3)

屋敷添地籍の東側の赤線の部分あたりから水路をまたいだ東側一帯の「大庭」地籍に及んで砦があったものとみたい。

(水路は、構造改善時に黒沢ダムから水を引く為に造られたもので砦があった時代には無かったもの)



~ 大庭 ~

hannkamisawa2.jpg

砦の西側にあった屋敷添地籍と砦の中心部の大庭地籍を見る。

hannkamisawa2 (2)

hannkamisawa2 (3)

大庭地籍を見る。

現在、砦跡の推定地は構造改善によりリンゴ畑や田圃畑などになり一切の地形の変化は見られない。


hannkamisawa2 (5)

大庭地籍にある大きな木と祠・墓地を見る。

この木が立っている場所は周囲より約1m程高くなっていて持ち主の方によると、この場所は構造改善以前から

あるとのことなので、この木の部分の高さが昔の土地の高さであった可能性があり、とすると1mほど削られてしま

ったことになり砦の遺構は発掘をしても望めそうにない。


hannkamisawa2 (6)

大庭地籍にある大きな木の麓にたたずむ墓石

この墓石は、構造改善以前にこの土地を持っていた方のもので由来は分からないらしい。

今の土地の持ち主の方は扱いにかなり困っておられたが。。。。。。どんな歴史が眠っているんだろ(-_-;)


hannkamisawa2 (7)

一本松から大庭の砦跡を見る。(一段高くなっているリンゴ畑)


~ 砦跡から ~

honnkamisawa45 (10)

大庭地籍と本神沢の間の畑地には、写真のような微妙な高まりが見られた、砦の位置からは少し北側にズレている

が一応関係は分からないが報告しておきます。


honnkamisawa45 (4)

砦の南西には、本城の北条城が近くに見られ。。。。。

honnkamisawa45 (7)

北西には、敵方となった中塔城が遠望できこの本神沢端砦が西牧氏と小笠原氏の境目の城であったことが分かる。

honnkamisawa45 (8)

最後は、砦跡の「大庭」地籍と本城の北条城の遠望でおしまいです。

本神沢端砦は、いかがだったでしょうか???

構造改善によって100%消滅しており確実にこの場所であったという特定は出来なかったものの、地元の方に聞い

た一本松・大庭・屋敷添の地名からある程度絞れたと思っています。

この砦の研究にある程度の貢献できていれば幸いです。



~参考文献 ~

北安曇郡誌         (北安曇郡誌編纂委員会  昭和55年)

梓川村誌          (梓川村誌編纂委員会   平成6年)




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  1. 2013/06/17(月) 18:25:39|
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松本市  西牧氏③

三回に分けてお送りしてきた西牧氏ですが、今回が最終回ですのでそうぞお付き合いください。

~ 天文17年(1548) ~

天文17年2月1日、武田晴信は大門峠から坂城へ向かって甲府を出発し、2月14日上だ原において村上義清と戦った

が敗れている(上田原の戦い)。この武田氏の敗戦に勢いを得た小笠原長時・仁科道外などが4月5日に諏訪地方へ

攻め込み下諏訪を攻略した。

この小笠原長時などの行動に対して武田晴信は、4月11日諏訪へ向かって出馬し、4月19日に塩尻峠において

小笠原・仁科連合軍と武田氏による合戦が行われた。

これを『塩尻峠の戦い』といいこの小笠原軍の中に西牧氏が参戦している。


katuurutouge.jpg
現塩尻峠の南側にある勝弦峠にある説明板

katuurutouge2.jpg
塩尻峠の合戦は、この勝弦峠を中心に行われたと考えられている

合戦の内容は『二木家記』が詳しいが、二木家記というくらいであるから二木氏に有利な記載や誇大に書かれてい

る部分も多く見られる。しかし、多くの資料がこの文献を採用しているので書いて見ると、

小笠原長時は、今井の四ッ屋に陣をとり夜明けをまって諏訪峠(塩尻峠・勝弦峠)に陣を移した。

その日の四つ時(午前十時・・・・南安曇郡誌では午前六時としてる)に戦いが始まり、この日は6回の戦いが

あったと書かれており、5回までは小笠原勢が勝っていたものの6回目の戦いが始まった時、小笠原勢の中にいた

三村氏・山家氏が逆心した為に小笠原勢は敗れてしまった。というものであるが。。。。



sioziritougehi2.jpg
知っている人は少ないが、現在の塩尻峠の北側を通っていた中山道の頂上部にも写真のような塩尻峠合戦碑がある。


この小笠原氏に逆心したとされる人たちも文献により異なる。

『溝口家記』では、西牧四郎左衛門・三村駿河守が逆心したとし、『二木家記』では、三村氏・山家氏であると

している。

ただ、塩尻峠の戦いのあと二木氏・西牧氏は「小笠原勢のいる本道(塩尻)を通って帰ることが出来ないので廻り

道をして桜沢へ出て、洗馬の三村氏を頼り御たけ越えをして自領に帰った。」と『二木家記』が書いていることか

ら逆心したのは三村氏・二木氏・西牧氏であろうと『梓川村誌』はしている。

">>『三郷村誌』では二木氏は逆心していないとしており、資料によっても解釈が異なっており本当のところは

よくわかっていないようである。


siozirikubituka.jpg
塩尻峠の麓の柿沢にある塩尻峠合戦に関係する首塚・耳塚
これらの史跡から、塩尻峠の戦いは現塩尻峠を中心に北側の中山道・南側の勝弦峠の広範囲にわたっての合戦であったものと考えられる。


天文19年7月、小笠原氏の本拠府中が武田氏に占拠されると、仁科道外が武田氏に降っており仁科氏と関係が深か

った西牧氏もこの頃に武田氏に降ったようである。


~ 天文20年(1551) ~

天文19年9月、武田氏が砥石城で村上義清に敗れると(砥石崩れ)打撃を受けた武田氏が動けないとみた小笠原氏

は本拠の府中を回復すべく、村上氏の援けを受けて平瀬に軍を進めたが、小笠原氏を支援する為に塔原に陣取った

村上氏は、武田氏が下諏訪へ現れたという虚報を信じ本拠が攻められる怖れを感た為に小笠原氏に無断で本拠へ

撤退してしまった。

これを知った小笠原軍は、後ろ盾を失っってしまったので軍の半数が逃亡してしまい、100騎(1000人)になって

しまった。(溝口家記では、馬廻り500~600騎としている)

しかし、もう引くことが出来ない小笠原勢は武田方の馬場・飯富・西牧氏の率いる軍勢と野々宮で合戦を行った。

(この戦いを『野々宮合戦』という)

nonomiya.jpg
野々宮神社の境内にある野々宮合戦跡の標柱

nonomiya1.jpg
野々宮合戦場跡を見る(奥の林が野々宮神社)

この戦いは、小笠原勢が勝利し武田方の首300を打取っている。

野々宮合戦後、二木氏の勧めにより中塔城へ小笠原長時が立て籠もると山家氏や三村氏が攻めて来たことや、

武田晴信が攻めて来て戦ったことが『二木家記』に書かれている。

(ただ、この二木家記にある武田晴信の中塔城攻めは、他の文献には出てこないので疑問視されてい)

その中で9月末の部分で、中塔へ同心する者も出てきて城(中塔城)も堅固になり、西牧の城へも攻撃を加えて

多くの敵を討ち取った。とある。

nisimaki (3)
険峻な山奥にある中塔城を遠望する。

nisimaki (2)
天嶮の要害な為か中塔城の堀の規模は小さい(中塔城に残る堀切を見る)



ここに出てくる西牧の城(北条城のことと思われる)は、天文15年時点では小笠原氏の城となっていたが、

この野々宮合戦のあった天文20年では武田氏方の城となっていることが注目される。

(現在、北条城の北側の尾根に構築された無数の防御遺構はこの時(天文20年)に中塔城に居る小笠原氏への

備えとして武田氏(西牧氏か?)によって改修されたものと考えられている。


nisimaki
西牧氏の本拠であった北条城の本郭裏に残る巨大な堀切を見る。


また、中塔城と北条城の間にあったとされる本神沢端砦(現在消滅)もこの時の小笠原氏と武田氏(西牧氏)との

境目の城として西牧氏により構築または強化されたものと書かれている資料もあるので、この時点では、西牧氏は

武田方として旧領(旧住吉庄周辺)を一時的に回復していた可能性が考えられる。


nisimaki (4)
小笠原氏と西牧氏の境目の城であった本神沢端砦推定地と奥に北条城(矢印)を見る。


~ 永禄1年(1558)・永禄4年(1561) ~

永禄1年8月4日、武田晴信が西牧の金松寺を常徳寺東堂(松本市渚)へ寄進している。

永禄4年1月27日、武田信玄が原彦八郎に西牧の逆徒勘助を討ち取ったとった賞として太刀一腰を与えている。

この二つの事柄をみると、西牧の地は武田氏に直接支配されるようになっていたようで野々宮合戦などに見られる

ように西牧氏は武田氏の重臣の手先として働く程度の武士となっており、武田氏の被官ではあるがあまり重用され

ていなく小領主ていどに勢力は低下していたようである。


~ 天正9年(1581)~天正10年(1582)① ~

天正10年2月、木曽義昌が織田信長に通じて武田勝頼に叛くと、武田勝頼は深志城代馬場信晴に命じて木曽氏に対

する押さえとして「いねこき口」を古畑伊賀と西牧又兵衛に守らせ、奈良井・贄川へも人数を派遣している。

ところが、武田氏の先行きに不安を感じた古畑・西牧又兵衛は逆に木曽氏へ内通し、大野田夏道城に立て籠もった。

nisimaki34 (4)
 「いねこき口」と推定されるかぎかけ山を見る。
この険しい崖の斜面を当時の街道である夏道が登っておりこの街道を押さえるためにこの山の上に砦が構えられた



nisimaki34 (5)
かきかけ山の頂上部には、平坦地が見られ街道もこの場所を通過しているのでこの場所に砦があったものと見る。

*この西牧氏の離反は、武田氏に重用されなかった西牧氏が織田氏に通じることによって勢力の挽回をはかったの

ではないかと「梓川村誌」は書いている。

その後、武田氏に背いて中塔城に籠っていた岩岡・岩波氏らと共に西牧氏は、深志方郷中(武田氏方)の七・八郷

を焼き払い、下神林・野溝・平田辺で深志城にいた武田勢と合戦をしている。

天正10年3月11日に武田氏が滅亡すると、この武田氏滅亡に際し小笠原貞慶(長時の子)は西牧の金松寺に現れ

旧臣を集めた。

これには二木・岩波・草間・岩岡氏らが集まり、各氏をつれて貞慶は上諏訪にいた織田信長に御機嫌伺いに行った

ものの会見は許されなかった。

これに失望した小笠原貞慶は失意のうちに京都に立ち去っている。

貞慶が去り残された二木・岩岡氏らは小笠原氏に与した為に深志城主となった木曽義昌との関係が悪くなり、

中塔城へ立て籠もっている。

これを木曽氏の配下となっていた古幡氏と西牧又兵衛は、木曽氏の命で中塔城を討伐する為小室原等で競り合いを

し、九日間の間城の取り合いをしたとしている。

*「二木家記」では、20日間あまり中塔城へ追い上げられたとしている。

その後、二木氏らは木曽義昌に詫び、人質を出して被官となったとされている。


~ 天正10年(1582)② ~

天正10年6月2日、織田信長が倒れると深志城へ上杉氏の支援を受けた小笠原洞雪(貞種)が攻めて来た。

すると、安曇周辺の小笠原旧臣が洞雪についてしまった為、他に支援を受けられなくなった木曽義昌は、洞雪に

深志城を明け渡し木曽へ撤退することにしたが、この撤退に際して安筑両郷の人たちの人質をとって大手の片平・

贄川と搦め手のいねこき口、大野田夏道城に立て籠もっている。

nisimaki34 (2)
大野田夏道城の遠望

nisimaki34.jpg
夏道城の郭内部は、削平が甘く一時的に使用する陣城の要素が大きかったようである。


この大野田夏道城を守ったのは木曽氏についていた西牧又兵衛と古畑氏であったと思われ、人質を取り返しに来た

岩岡・二木氏らと戦いになり夏道城は落城し、雑司(雑炊)橋でも戦いが行われている。

6月16日には、上杉景勝により市河信房に西牧氏跡を宛がわれているのでこの戦いにより西牧氏は本拠であった

西牧の地を小笠原氏(上杉氏)に奪われて失ったことが分かる。

その後、徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶が上杉氏の支援を受けていた小笠原洞雪を追い出し深志城主となり

深志を松本と改めている。

nisimaki34 (3)
西牧氏と岩岡氏・二木氏が戦った雑司(雑炊)橋を見る。


~ 天正11年(1583) ~

大野田夏道城の戦いに敗れた西牧氏は、天正11年までには最後の拠点であった梓川渓谷をも小笠原氏に奪われ

木曽氏を頼って落ちて行ったのである。

これにより領主としての西牧氏は滅亡し、江戸時代には木曽の山村代官の従士の中に50石取りの武士として

西牧氏の名が見えている。

◎西牧氏の滅亡の時期に関しては・・・・・小笠原氏が、

天正10年8月10日に西牧の北条慶徳山屋敷と同寺領三貫文を祝梅庵に、

天正10年9月2日に西牧の北条の内、五十貫文を金松寺に寄進しており、天正10年後半には西牧の地は小笠原氏に

支配されていたことが分かる。

また、天正11年8月の小笠原貞慶が二木豊後宛に出した書状には、

「木曽氏との境目が落着したならば、稲核・奈川・大野田の代官と西牧領の梓川河西の白木・材木・薪は二木の

市で商売すべき」との命をだしており、これらがかつての西牧氏の領地であったことから西牧氏の勢力がこの頃

までにこの地から失われていたことが分かり、領主としての西牧氏は滅亡していることが窺える。


3回に分けてお送りしてきた安曇南部の雄、西牧氏はいかがだったでしょうか。

間違っている部分やはっきりしない部分があるかも知れませんがどうぞ笑い飛ばして下さい。(-_-メ)

少しでも何かの役にたてば幸いでございます。


~ 参考文献 ~

山城探訪  補遺編     (宮坂 武男)

梓川村誌          (梓川村誌編纂委員会  平成6年)

信濃(西牧氏館跡)     (信濃史学会編 小穴 芳実氏投稿  平成11年)

南安曇郡誌         (南安曇郡誌改訂編纂会     昭和43年)

三郷村誌          (三郷村誌刊行会    平成18年)

北安曇郡誌         (北安曇郡誌編纂会)
  1. 2013/06/15(土) 02:36:59|
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松本市  西牧氏②

間が開いてしまいましたが、前回の続きの西牧氏を調べて行きたいと思いますのでお付き合いください。

~ 永享3年(1431) ~

永享3年、(西牧)讃岐守憲兼が長尾(現安曇野市)の平福寺に鰐口を寄進している。

heifukuzi.jpg
平福寺にある古い鰐口(これが西牧氏寄進のものかは未確認)

平福寺は、長徳年中(995~998)に創建されたと伝えられ、観音堂鰐口の銘に永享3年大檀那讃岐守憲兼とあり、

この頃には西牧氏の勢力は住吉庄内の長尾まで来ていたことがわかる。

また、楡(安曇野市)の阿弥陀堂跡・龍峰寺跡に残る宝筐印塔は、東信に先例が見られる形状をしていることから

滋野氏である西牧氏関連のものと見られここまで西牧氏の勢力が来ていたものと思われる。

heifukuzi1.jpg
長尾の平福寺

『信府統記』によれば、天正3年(1575)大檀那太守勝頼再興の棟札があるという。武田勝頼が天文年間の

兵火で焼失した伽藍を再興したものと考えられる。
(高原 正文氏による講座資料より)


~ 永享12年(1440年) ~

関東管領の足利持氏が幕府にそむいた事件(永享の乱)で、小笠原政康は幕府の命によって永享10年(1438)に

鎌倉の足利持氏を攻めている。足利持氏は敗れて翌年に自殺したが、下総の結城城にいた足利氏朝は永享12年

(1440)に足利持氏の遺児を立てて幕府に抵抗した。

これにより小笠原政康は陣中奉公として再び幕府の命によって出陣した。

これを『結城合戦』といい、その配下の陣番を定める『陣番帳』には30番(109人)まであり、西牧氏は、二木氏

や竹田氏(山形村)などと共に18番として名が見える。

この戦いで、『古敵当敵』の小笠原氏の指揮下に入って参戦しているのは幕府から地頭職を安堵されている西牧氏

にとって、幕府から任命されている守護小笠原氏の指揮下に入らないわけにはいかなかったものと考えられる。



~ 宝徳2年(1450) ~

(西牧)讃岐守信兼が西牧の対岸にある波田の若沢寺に鰐口を寄進している。

この鰐口の銘に、

「宝徳2年6月1日 院主為宥聖、奉施入鰐口讃岐守信兼」とある。

これにより西牧氏は、対岸の波田方面まで勢力を伸ばしていたことが窺われる。


nyakutakuzi.jpg
若沢寺の一宇であった波田にある田村堂(若沢寺は信濃日光として多くの参拝者が訪れていたが明治の廃仏毀釈

により廃寺となり現在、山奥に平場や石積を残すのみとなっている。また、参道脇には丁石が多く残されている)



~ 応仁2年(1468) ~

西牧信濃守満忠が、諏訪上社へ御符札銭一貫文などを納めている。

~ 文明12年(1480)① ~

西牧 前讃岐守満兼が諏訪上社へ銭一貫八百文などを納めている。

2月2日、西牧氏が諏訪上社於左口神祝へ銭一貫文を納めている。

4月、西牧讃岐守満兼の祖母が死去したことが見られる。



~ 文明12年(1480)② ~

文明12年、諏訪上社の「守矢満実書留」によると、

2月6日の夜に、上諏訪の東大町に下諏訪の金刺興春らの悪党が上社周辺に火をかけ雑物を奪取り、手負死人が出て

いる。この時、西牧の上社の精進屋左口神が炎上している。

8月16日に、小笠原長朝が仁科盛直を穂高に攻めてこれを破っている。

9月20日に、山家孫三郎が仁科氏・西牧氏に同心して小笠原長朝に背いた為、長朝は山辺孫三郎を攻めて討死

させている。

10月10日に、小笠原長朝は西牧へも攻撃を加えており『守矢満実書留』には、

「十月十日、西牧殿屋形焼候、大風吹小屋千間計焼失、満兼芳々御右口神御炎上、物恠共等也鳧、神慮難凡人計

者也(後略)」とあり、この戦いに敗れた西牧氏は小笠原氏に降り配下となったものと思われる。



~ 文明15年(1483)~天文13年(1544) ~

西牧氏は、文明15年から天文13年の間は大きな戦いなどの記録には登場せず、穂高神社(古幡牧)の造宮の所役や

諏訪上社の宮付の所役を勤めていることが見えるのみである。

これは、西牧氏が小笠原氏の配下となっていた為にあまり記録に出てこなかったものと思われる。

ただ、天文3年の『小笠原家譜代の家臣分限帳』(小笠原長時時代の家臣の所領等が書かれている文献)を見ると、

小笠原家に関係の深い重臣の項に、

(前略) 山中源太政俊    拾五騎       安曇郡北条山城主         (後略)

とあり、家老職衆七家に

高三千貫文  、紋 梶の葉   西牧美作守信道    百六十騎     安曇郡上野の城主(後略)

と書かれている。

このことから文明12年(1480)により小笠原氏に降った西牧氏は、小笠原氏により勢力をそがれ田屋城周辺のみ

とされてしまったようで、今までの西牧氏の居館(於田屋居館)や本城の北条城は、小笠原氏の重臣である、

山中氏が入り西牧氏を監視するようになっていたようである。 



~ 天文15年(1546) ~

『信府統記』に滋野讃岐守貞兼が真光寺を中興開基したことになっているが、『梓川村誌』では、

西牧氏は小笠原氏との争いにより天文15年には北条城をすでに失い、上野城(田屋城)だけになっている状態で

真光寺を中興し阿弥陀堂を造る力があったかと疑問視している。

また、『小笠原家臣分限帳』にある上野城主、西牧美作守信道と『信府統記』にある滋野讃岐守貞兼との関係も

分かっていないとしてる。

taya2.jpg
西牧氏の本城となった上野城(田屋城)遠望


上野城(田屋城)についても。。。。

天文15年(1546)に上野城を滋野讃岐守貞兼が構築したと『信府統記』ではしているが、『梓川村誌』では、

「この頃に若干の修築はあったとしても、以前から用いられていたものとみたい」としてる。

これらを考えると、今まで本城であった北条城を小笠原氏に奪われた西牧氏は、一支城であった上野城を本城と

すべく改修したことを「信府統記」では構築したと書いたのではないだろうか。

taya.jpg
西牧氏が構築?修築?した上野城(田屋城)の堀切を見る

なお、『安筑古城開基』には、田屋城を上野盛長なるものの三男、田屋三郎盛成の城としているがこの書は俗書で

信用し難く、この人物は史実から見て架空の人物であるとみられている。



今回は。。。。。。ここまでです。

次回は、西牧氏の最終回(西牧氏の滅亡)をお送りしますのでお付き合いください。
  1. 2013/06/13(木) 17:58:06|
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松本市  西牧氏①

ここの所、西牧氏関連の城館跡を紹介しているので西牧氏について調べてみました。。。。。(-_-;)

ただ、なにぶん素人でありますので複数の資料を調べて書いていますが間違いがあるかもしれません、

どうぞ笑って聞き流して下さい。また、文章をまとめる能力が乏しいので年号別にしか書けませんがどうぞ

長くなりますがお付き合いください。



~ 西牧氏の入郷について ~


住吉庄(現在の長尾・大妻・二木・真々部などの旧三郷村と旧豊科の一部・旧梓川村の東側一部が入っており、

西牧郷は入っていない)の開発領主は西牧氏であるとされている。

西牧氏は、本姓が滋野氏で来郷は古代と考えられており、滋野氏が国司として信濃へ下向しやがて所々へ一族を

配して繁栄していった。この中で西牧郷周辺に土着した者が西牧氏を名乗るようになったようである。

来郷の目的は、牧場経営であったが平安末期になると牧場は山間の適地である(旧安曇村の)一之瀬・番所・

(旧奈川村の)駒ケ原等へ移っていきこのあたりも西牧氏の領地となっていった。

その牧場の管理に西牧氏一党の古幡(古畑)氏が牧司として赴いて土着した。

古幡氏は戦国時代の武将に古幡伯耆・降旗三郎右衛門(後に岩原姓になる)等がみえ、古くは上野段丘下にあっ

たとされる古幡郷の牧を支配していた一族であったと思われるが、源平の騒乱で平氏に加担した為に失脚し、

古幡氏に代わって入ってきた西牧氏の配下または一族となったものと思われる。


西牧氏は上野原段丘上を牧場から水田開発へと変えていき、急流の梓川からの揚水する為の難事業を行い成功させ

ている。

この西牧氏の出自について「二木家記」によれば、「西牧殿は、志賀の局の子、皇子也」と書かれている。

これは、本姓である滋野氏が清和天皇の皇子から出ていると滋野系図に書かれていることによるものと思われる。


~ 建仁三年(1203) ~

西牧氏の名前が初めて見られるのは、建仁三年の真光寺の阿弥陀如来三尊像の

像内銘で「滋野兼忠」「滋野兼茂」の名が見られる。


sinnkouzi2.jpg
現在、真光寺にある阿弥陀如来像は保管庫に入っていて見ることは出来ないので説明板のみの掲載です。

この三尊像の造立は、滋野兼忠と一族の妻橘氏の子、男女八人の無事安穏を祈願する為に造立されたものである。

この真光寺については、「信府統記」に、

「当寺ハ建仁年中草創ノ地ナリ、天文十五年丙午年大檀那 滋野讃岐守貞兼、法名 海厳淵成了源大居士中興ノ

開基ナリ、支配ノ阿弥陀堂モ開基上ニ同ジ、阿弥陀堂ニ大木ノ糸桜アリ」と書かれている。


sinnkouzi1.jpg
真光寺の拝殿を見る。

また、金松寺も平安時代に中村に居館した西牧氏が祈願寺として建立したとされる。

(後には小笠原長時により旧臣の招集場所にも利用される。)


kinnsyouzi.jpg
金松寺を見る。(本堂は新しく建て替えられておりこの門以外見るべきものはない)


~ 嘉暦四年(1329) ~

嘉暦四年、鎌倉幕府の諏訪上社五月会御射山頭役等の結番を定めた下知状で「右頭西牧埋橋両郷地頭等」とあり

地頭である西牧氏が務めている。

西牧氏は一族の大妻氏などと共に神氏とされている。

これは諏訪上社との結びつきが大変強く、家紋に諏訪氏の四本根の梶葉を用いており信仰上の神氏(諏訪氏)一族

とされていたものである。


~ 建武二年(1335) ~

建武二年、小笠原貞宗が足利尊氏によって西牧氏の支配地である住吉庄の地頭職を宛がわれている。

これは、鎌倉幕府滅亡時に幕府方となって戦った諏訪氏や西牧氏など滋野氏の神氏一党は勢力が失墜したことに

より、討幕に働いた小笠原貞宗に勲功の賞として住吉庄の地頭職と武田孫五郎長高跡・市河惣部六郎跡の地が宛が

われたものと思われる。これにより西牧郷や住吉庄南部に支配を強めてきた西牧氏は、住吉庄への支配力が小笠原

氏によって狭まれていったのである。

wakamiyahachimann2.jpg
北条にある若宮八幡神社本殿の説明板


wakamiyahachimann1.jpg
若宮八幡社の本殿は覆屋に入っていて見ることは出来ない


(住吉庄には二木があるので二木氏はこの頃に小笠原氏の支配下へ入ったのではないだろうか。)

ただ、本来の地盤である西牧郷の上野郷・立田郷・古幡郷・小倉郷などにおける支配力は維持していたようで、

大宮熱田神社本殿や若宮八幡宮本殿などを建立している。


atuta1.jpg
大宮熱田神社の拝殿を見る。

atuta.jpg
国宝指定だったけ。。。の大宮熱田神社本殿???なのかな??を見る。

~ 応永七年(1400) ~

中世信濃において村上満信と行動を共にした西牧氏・宮高氏・香坂氏などの主として滋野氏系の武将が、信濃守護

小笠原氏に対して起こした国人一揆を「大文字一揆」と呼んでいる。

その中で代表的な合戦を「大塔合戦」と言っている。

この戦いは、足利義満から住吉庄と春近領の地頭職を返付され、応永七年八月に京都から信濃へ小笠原長秀は

信濃守護として入信し、信濃善光寺で国人達を集めて対面したが長秀の態度が不遜であった為に反感をかった。

その後も、国人達の領地へ守護史を入部させたりした為に国人達と対立するようになっていった。

この戦いは、南北朝の内乱期における北朝(室町幕府方)の守護小笠原氏と南朝を支持する国人層との対立が

再び再燃したもので、この頃の因縁で『古敵当敵』の関係で起きたものではないかとしている。


応永七年九月二十四日、国人達は団結し小笠原勢と四宮河原で戦い小笠原勢を籔っている。その後、長秀は塩崎城

へ逃げ込み、その他の者達は大塔の古要害(別の城との説もあるがここでは大塔古城とする)へ逃げ込んだ。


ootou.jpg
小笠原勢の残党が逃げ込んだとされる大塔古城の堀跡(住人の方による)

大塔古城に逃げ込んだ小笠原勢の軍勢は国人に攻められ全滅したが、長秀が籠った塩崎城は囲まれたものの落城は

せず、その後、小笠原一族の大井氏の仲介により長秀は京都へ逃れ信濃守護職を解任された。


~ 応永二十二年(1415) ~

大文字一揆を起こした信濃の国人は、応永二十二年に小笠原長秀が再び信濃守護として入ってきたことを良しと

せず、その上、長秀が国人達の領地をも侵し始めたので国人達は室町幕府の信濃国代官 飯尾美濃入道に長秀の

住吉庄と春近領の知行を止めるよう幕府に訴える書状を出した。

これを『大文字一揆注進状』と呼ばれている。


この書状の年号が応永六年(1399)とされてきたことで信憑性を疑われてきたが、近年この書状は応永二十二年

又は二十三年のものであるとされるようになったことや、内容が時代にあっていることからこの書状の重要なもの

であるとされるようになった。


この書状の中に西牧刑部左衛門尉・西牧宮内少輔時兼の名が見られ、時兼は西牧郷の地頭職・左衛門尉は小倉郷の

地頭職として住吉庄内で力を持っていた人たちで、小笠原氏によりこれらの身分と利権が失われる恐れを感じ、

それに対してのこの幕府への注進状であったと思われる。



長くなってしまったので今回はここまでとします。。。V

スミマセンがこれより一週間半ほどお休みします。。。。次回をお楽しみに。
  1. 2013/06/02(日) 22:51:45|
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