長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市  長尾城

安曇南部の雄 西牧氏城砦群最北端の境目の城

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旧三郷町が本郭に建てた城址碑

所在地・・・・安曇野市三郷上長尾                            訪城時間・・・・2分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                 訪城目印・・・・アルプス学園

訪城日・・・・2008年7月5日・2009年1月12日ほか


城跡はすべてリンゴ畑となっているので、訪城には時期や許可等注意が必要です。


                  ~ 長尾城の歴史 ~

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長尾城周辺城館配置図              国土地理院2万5千分の1地図使用  

長尾城についてまず「信府統記」の「長尾古城地」に、

「(前略)、城主長尾殿ト稱(ショウ)セシ人ノヨシ云傅フ其假名(ソノカリナ)詳ナラズ前ニ見エタル堀金氏の

一族ナルヘシ」とあり城主は堀金氏一族の長尾氏であるとしている。

この長尾氏についはよくわかっていないが、この長尾の地は長徳年間(995~998)に創建されたと伝えられる

長尾の平福寺の観音堂鰐口の銘に「永享3年(1431)大旦那(西牧)讃岐守憲兼」とあることからこの頃は西牧氏

の領地となっており、この頃に長尾城は築城され西牧氏最北の境目の城として東側に君臨していた守護小笠原氏に

備えていたものと思われる。

その後、幕命により住吉庄のほとんどを小笠原氏に奪われた西牧氏は北条や田屋などの西牧郷に追い詰められてい

くことになるが、長尾城は住吉庄内にある為に小笠原氏の支配下になったものと思われる。

上記の長尾城周辺城館配置図に記載しておいた「上総屋敷」「瑠璃光寺堀屋敷」は長尾城主とされる長尾上総守と

その一族の屋敷地であるとされている。

この屋敷地の位置から見ても、西牧氏時代には段丘上に築城し東側(段丘下)にいた小笠原氏に備えていたものが

普段住む屋敷地が段丘下に移り、長尾城が南側(西牧氏か)に備えが変わっていったことが見えてくる。


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長尾城の見取り図(赤線は、山城探訪に記載の長尾城推定図に書かれている消滅部分を書き込んでいます。)

では、「信府統記」に書かれている「長尾氏は堀金氏の一族である」ということであるが。。。。

推定として、天文17年(1548)の塩尻峠の戦いの後に堀金氏は武田氏に降っており、その後の武田氏と小笠原氏に

よって行われた野々宮合戦時には西牧氏は北条城や中塔周辺まで勢力を盛り返しており(後に武田氏により冷遇

されるが・・・)堀金氏も長尾周辺までどさくさに紛れて勢力を拡大してきたのは無いだろうか。

そして長尾城を手に入れた堀金氏は一族の長尾氏を配置し、西牧氏に備えて現在のような(消滅したが)複郭の

城に改修したのではないだろうか。


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本郭やニの郭・三の郭はすべてリンゴ畑となっていて見るべきものは少ない。

しかし、何故最後の城主が堀金一族なのか。。。。。。

堀金氏は、西牧氏同様に野々宮合戦時にどさくさに紛れて領土を拡大しており(推定)西牧氏のその後の武田氏に

よる冷遇同様に「天正9年(1581)の御祓くばり日記」に「ほりかね殿出木候ハにしなめうしにて御座候、」とあ

りこの日記に書かれている他の領主と違いこのような不確定な記載は見られないことから「三郷村誌」では、武田

氏により失脚していたのではないかとしている。

また、「南安曇郡誌」では、天正11年以後に堀金加賀は浪人となっておりこれは小笠原氏に追われたのではないか

としており塩尻峠の戦や野々宮合戦でのつけが回ってきたのであろうか。

長尾城は、堀金氏が没落・滅亡したことにより周辺すべてが小笠原氏の領地となり長尾城の存在意義がなくなり

廃城になったのであろう。


             ~  長尾城の遺構 ~

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本郭に唯一残る土塁上から本郭を見る。

長尾城の本郭は現在リンゴ畑となり見るべきものは少ないが、黒沢尻という旧黒沢川が流れて出来た河川跡により

出来た段丘上の三角地帯を利用したもので三角形の形をしておりかつては周囲を約4mの土塁が囲んでいたものと考

えられている。


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本郭の西側段丘崖沿いには旧三郷町が建てた城址碑がある。

ただ、リンゴ畑の中にある為に気付きにくく入るのも勇気がいるが、勇気を出して許可を取って見てみよう。


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本郭の先端部を下りて行くと黒沢尻へ至るが傾斜が緩い為にここにも防御施設が存在する。

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斜面には約3段の削平地があるが切岸や郭の削平は甘い。防御のために柵でも立てていたのであろう。

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黒沢尻を見る

削平地を下って行くと写真のような、黒沢尻へ行くことができる。

この旧河川跡は堀の役目も担っていたもので、この北へ続く段丘を寸断しており北から攻めることを困難にしてい

る。幅は数十mあり天然の厳重な堀である。


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北側にある黒沢尻の底から見上げた本郭とニの郭を隔てる堀

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長尾城で唯一残っている堀で、城内側に残るこれも唯一の土塁に付属している。

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城内側から黒沢尻へ続いている堀を見る。

堀の上幅は約10mほどで、堀底から土塁上まで約6mの規模で残っている。

この堀と土塁は籔が酷いのでよく見たい方は冬がお勧めです。


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本郭内から見た土塁。

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長尾城で唯一残っている土塁で、かつては本郭とニの郭を隔てるように構築され真ん中に虎口が開いていたようで

あるが、現在は北側の黒沢尻沿いに残るのみである。

高さは平均約3mで長さは約10m程残る。


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ニの郭から見た残存土塁(車の所が土塁で奥が本郭)

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ニの郭は現在、リンゴ畑と畑となっていてただの広大な平坦地であり見るべきものはない。

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三の郭と外郭の構えがあったであろうとされる場所であるが、リンゴ畑となっている

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ただ、この外郭の構えがあったとみられる場所には1.5m程の段差が見られ土塁の可能性も考えられるがどうであ

ろうか。。。。。。

この外郭の構えの外側にはかつて旗塚が見られたとも言われていることからやはり西牧氏または中塔城の小笠原氏

に対して最後の方は備えていた城だったのであろう。


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段丘上にある長尾城を遠望する。

長尾城をお送りしてきましたがいかがだったでしょうか。

小さな城ですが調べてみると中々面白いものです。

皆様も是非訪れてみてください僅かな遺構を見つけた時の喜びは大きいですよ (#^.^#)

次回は。。。。。長尾城主とされる長尾上総の屋敷あとをお送りします。

~参考文献~

山城探訪 安曇資料編     (宮坂 武男)

三郷村誌           (三郷村誌刊行会  平成18年)

南安曇郡誌          (南安曇郡誌改訂編纂会  昭和43年)



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  1. 2013/07/31(水) 20:17:36|
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安曇野市  大足(葦)氏館

本家の衰退と共に消えた一族

所在地・・・・安曇野市明科中川手               訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                     別 名・・・・平 上ノ段館

訪城目印・・・・大足橋                      訪城日・・・・2008年8月16日・平成13年4月16日


周辺は畑地・墓地・民家となっているので周辺住民の方に会ったらあいさつしましょう。

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大足氏居館と周辺の城館跡              国土地理院 2万5千分の1地図使用

             ~大足氏館の歴史 ~

大足氏館は明科から会田方面へ県道203号線を向かい途中、会田川にかかる大足橋を渡った所で、県道と会田川と

の間の200×100mの台地で上ノ段と下の段に分かれる。

館の周囲が段丘になっており、特に東と南側は会田川の段丘で10m余りあり、竹が群生している。

現在、上ノ段も下ノ段も畑と民家となり、上ノ段の北側には古い墓地がある。

この館は、塔原氏が鎌倉時代に川手方面へ進出した当初はこの居館にいて、その後塔ノ原に居館を構えてからは

大足氏が塔原氏から分かれてこの館に居住したものと考えられている。




             ~ 大足氏館の現状 ~

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~ 会田川・下ノ段 ~

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大足氏居館跡は、北・西・南の三方を会田川が流れており段丘の先端部のような地形に構築されている。

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下ノ段の北側壁面を見る。

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下ノ段の西側壁面を見る。

会田川に面している三方の段丘壁面は、高さ約3~4mの切岸状地形となっていて東側に防御の重点を置けばいいだ

けという居館というよりは城郭の立地に近い場所に構築されている。

これは領地を支配するためだけに構築された居館とは違い、本家の塔原氏の命により塔原氏の本城(塔ノ原城)の

搦め手である明科・会田を結ぶ街道を又、塔原氏の領地で飛び地的(塔原氏の領地とは会田川により隔絶されてい

て逆に一応一族ではあるが他家の会田氏の領地が地続きとなっている)な領地を守る為に一族を配した重要な役割

をもった館のためであろう。


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西側の居館壁面と会田川を見る。(居館壁面には矢竹が茂る)

ただ、逆に会田方面から攻められた場合この居館を守ってくれている会田川が妨げとなり孤立しまい、塔原氏から

の援軍が到着するのが遅れてしまうという負の面も持ち合わせているのである。


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上ノ段から下ノ段を見下ろす。(下ノ段はほぼ民家となっている為、少ししか撮ることができませんでした)

下の段は細長くニの郭のような役割をもっていたようで居住は可能な広さであるので、家臣や一族が住んでいた

のであろう。


ここで大足氏について「明科町誌」を参考に紹介すると。

「大足氏は、応永7年9月の大塔合戦には反守護軍として出陣していた海野幸義の旗下として、同族の会田・塔原・

田沢・光氏などと共に大足(葦)氏が参戦している。

大足氏の出自はについては分からないが、塔原城主の塔原氏と本支の関係があったことは大塔合戦に塔原氏の

同族達と一緒に参戦していることから明らかである。

また大葦の地も江戸時代始めまでは塔原村の枝郷であり、慶安元年(1648)に塔原村から大足村が分離したことが

分かっている。


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上ノ段にある古い墓地に建立されていた石仏(寂しげだったので拝んで写真を撮らせていただきました)

元禄11年6月の大足村の由緒書上にも

「塔原村・大足村此弐ヶ村古来壱ヶ村ニ而御座候処ニ、慶安元子ノ年高別村ニ罷成候(後略)」

と書かれていて大足も塔原の一部で、中世も塔原氏が納めていたことが想像できる。

最初に大足に居館を構えたのは塔原氏で、鎌倉時代であったと思われ光久寺を開基して祈願寺としていたようである。
塔原氏が塔原上手屋敷に居館を移したのは大塔合戦に大足氏の名前があるので応永7年(1400)以前と考えられ、

塔原氏の居館跡に一族を分家させ大葦氏を名乗らせて本拠の背後を固めさせたようである。

天正9年(1581)の御師宇治久家御祓くばり日記の「あいだいりの分」の中に「大あし左京之助 ちゃ三つ」とあ

り弱小化しており旧四賀村(現松本市)の中川地籍に移動している。

(ちゃ三つは田沢城主とされる花村若狭と同じ程度)

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塔原氏が建立し後に大葦氏の祈願寺となった光久寺(現在は寺運が衰退し無住となり近隣住民が守っている)

この大葦氏の没落はいつか。。。。。天正9年の時点で会田へ移っていることから天正22年(1553)に刈谷原城が

落城し、それを聞いた塔原氏は城を捨てて逃げ去り、後に武田氏に帰順したが塔原城主には復帰できずに武田氏に

城主として据えられた海野三河守幸貞の副将に格下げとなり領主の座を奪われてしまった。

この時に大葦氏は天文22年4月3日に落城していた旧会田氏の領地に一土豪程度の地位に落とされたのであろう。

その後は歴史にあらわれないことから帰農したものと思われる。

なお大葦氏の家臣として分かっているのは滝沢氏(小県郡滝沢郷の発祥)と堀内氏がいたと考えられている。


~ 上ノ段 ~

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上ノ段が、館主である大足氏が館を構えていた場所と思われ周囲より2mほど高くなっていて広さも広大である。

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上ノ段は現在、畑地と墓地となっているが内部には約1mほどの段差が見られ、中央よりやや西寄りに小山が残され

ていて大事そうに石仏が祀られている。


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山に大切に祀られている石仏

かなり古いものだが東側にある古い墓地同様、館跡に関係するものであろうか。


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東側にある「内くね」地籍から見た上ノ段

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会田川の対岸から見た大足氏館

大足氏の居館跡をお送りしましたがいかがだったでしょうか。

館跡としては見るべきものはあまり残されていませんが、歴史としては塔原氏の初期の居館としてや支族の

大足氏の歴史が残された重要な遺跡であると思います。

少しでもこのような歴史があったんだと皆様に伝えていけたらうれしいです。

館跡は大方民家となっているので写真撮影や畑などの侵入には最大の注意が必要です。



~ 参考文献 ~

山城探訪 補遺編 中南信版   (宮坂 武男)

明科町誌            (明科町誌刊行会 昭和59年)



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  1. 2013/07/22(月) 08:59:11|
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塩尻市  五百渡砦②

山城の恐怖。。。。。生還編 (#^.^#) 

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今回の訪城路のおさらい。。。

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沢の底でどう登ろうかウロウロすること10分。。。。。。ピカ~ン! (*_*;

見えた~。。。。。。。

さあ、質問です上の写真には尾根へ登るための道筋が写っています。。。。。。わかるかな?

城跡マニアには見えるはず。。。。。。。。

チッ。。。。。チッ。。。。。チッ。。。。。。。。チン!


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正解は。。。。。。そう! 四本足の生き物の道が僅かながら見えます。

しかし、傾斜40度以上・幅は5cm程度。。。。。。。帰るには行くしかない!!


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恐る恐る登ること10分。。。。。やっと道半ば。。。。。。。ここで下を見てみると。。。。。。。

これはヤバい!    かなりヤバイ!     落ちたらまずただでは済まないし携帯は圏外。。。。

死ぬな。。。。。。。。。。


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上を見上げても。。。。。。垂直な壁にしか見えん!   足がすくむ。。。。(-"-)

さらにノロノロ登ること10分。。。。。。。


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尾根にたどりついた。。。。。。。(汗)

これが行く手を阻んだ崖か~。。。。。。。。2~3m程度かな??

そういえば。。。。山城探訪に「縄を伝って岩を登ると。。。」ってあるけど。。。。縄はどこに。。。。


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(驚)。。。。。。ダメでしょ。。。。。これ使ったら。。。。絶対切れる。。。。。(汗)

こんなのに命預けられるか~。。。。。。(心の中で叫ぶ)

この五百渡山への登山道はすでに忘れさられた存在で、整備はされていないようだ。。。。。。なぜか。。。。。

振り向くとわかるこの恐ろしさ。


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山城探訪に書かれていた。。。「尺に満たない細尾根が45m続き・・・」。。。。。。。。。。

イヤ、イヤ、イヤ。。。。。。尺どころじゃないでしょ!

写真で伝わるか分かりませんが、この45mの細尾根下部がすべてえぐれていて木の根っこで僅かな土が留まって

いるにすぎないのです。。。。。。。「神よ。。。。。何故こんな試練ばかり与えるのか。。。(涙)」

とにかく揺らさないよ~うに、四つん這いでソロソロっと進んでいく。。。。。。

登山道が廃道になったのはこのせいか。。。。。。。。。(-_-メ)


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尾根を分断していた岩壁を振り返って撮ってみる。(もちろん木にしがみつきつつ。。。)

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5分後。。。。。。尾根を渡り切った瞬間ガッツポーズ!!!

「生きて生還したぞ~」・・・・・・・・・・・誰も居ないので思わず叫ぶ !(^^)!

ここからはルンルン気分で、訪城開始!!!!!!!


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~ 腰郭 ~

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死ぬ思いして通過した細尾根を2mほど登ると(この斜面もハンパなく傾斜がきつく怖い!)この腰郭が申し訳程度

に構築している。


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この腰郭には多くて2~3人程度しか入れないような狭さで、いつもは縁部に柵を巡らして防御していたのであろ

う、そう考えるとこの細尾根があるのに防御している所をみると尾根続きにあった堀①も堀切の可能性も

出てくるのではないだろうか。


~ 郭①(本郭) ~

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腰郭から約5mほど登るとピークのてっぺんである郭①に着く。

ここには石祠(祀神不明)と石碑(碑文不明)が建っている。

この石碑の周囲には縄で囲まれた(結界?)が張られていて、どうやらここまでは人が入ってきているようである。


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石祠と碑を近くで見る。(今でもお祭りをしていることに感動!  すばらしい!)

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本郭東側から西側を見る。

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西側から東側を見る。

この郭①は、五百渡砦の唯一の中心的な郭(この砦は単郭構造)で約10×30mの規模で西側を除く三方は、

急崖で登坂困難、要害堅固な場所に構築されている。


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この郭①の内部は、4段ほどの段差が設けられているが段の壁は緩く平坦面も削平されていない。

郭周囲には土塁も見られず簡素な造りとなっている。

これはこの砦のある山が急峻で比高も高く、役目が烽火台や物見だった為にこの程度でもよかったものと考えられる。


~ 大手道 ~

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大手道は、五百渡橋から登ってくる尾根で、本郭からみると西尾根となる。

本郭からこの西尾根を10mほど降ると、11×3m・5×3mの二段の郭が見られる。


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この郭は城内では一番と言っていいほど削平が施されていて、11×3mの郭の両縁部には竪掘状の溝が落ちている。

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これは大手を登ってきた道を、本郭手前の郭で敵を押さえるべく通路を堀によって狭くして防御していたのであろ

うか。。。。(宮坂氏は、もしかしたら堀があった可能性がある。としている)


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この大手道は、かつて五百渡山への登山道であったとは思えないほど荒れていて険しい。

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この大手道の尾根上には数か所の削平地が見られるが、これが砦に関係する大手の防御によるものなのか、かつて

山頂にあった五百渡神社に関連する祭礼などによるものか判断できない。

尾根の中段に「阿礼神社御旧蹟」の碑があることからも判断が難しくなっている。


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この尾根は険しく、細い尾根で経験の少ない方には登るのが難しいが、尾根の所々に上のような印が色々な所や、

分岐点に付けられており道に迷う心配はないので興味のある方は安心して登って下さい。

(山頂までは。。。。。。。。。。。ネ!)


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尾根の途中から見た遥か遠くに見える問題の「間違えた山」。。。。。

これからはちゃんと戻ろう。(汗)


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この砦は、かなり奥まった位置に構築している為に全体の写真は撮ることができないので、下山中の尾根から

山頂方向を撮ってみたが。。。。写って無い。。。。。。。。山の傾斜がきつすぎて山頂すら写らない(涙)



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本郭からの眺め

本郭からは松本や塩尻一円が遠望できるが塩尻方面は見ることができないことから、深志方面(北熊井城経由?)

塩尻方面(西條城?高須城経由?)などからの烽火を受け取っていたのであろう。



2回にわたってお送りしてきた五百渡砦はいかがだったでしょうか。。。。

険峻な山・地形図を見間違えて間違って登った山・シカの足跡と人の足跡を見間違えてしまったこと・

戻る勇気が無かったこと。。。。。。。。

色々な条件がそろってしまい今回のような危ない訪城となってしまいました。。。。。反省。

皆様にはこのようなことが起らないように楽しんで訪城していただきたいと思います。

それにしても。。。。。苦労が多く見るべきものの少ない砦だったな~。。。。。。。。。

っと言いつつこの後、北熊井城の詰城とされている本城へ向かうのでした。。。。。

病気の進行が。。。。こわい (゜-゜)


~参考文献~

山城探訪 松塩筑資料編      (宮坂 武男)

長畝区誌             (長畝区  平成18年)



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  1. 2013/07/15(月) 15:59:02|
  2. 塩尻市
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塩尻市  五百渡砦(いおととりで)①

油断大敵!「もう帰れないかも。。。」身をもって体験した山城のの恐怖。

所在地・・・・塩尻市東山五百渡      

訪城時間・・・・(大手から)30~40分  ・  (搦め手から)2時間~2時間30分

危険度・・・・★★★★★  (搦め手からはヤバい!)

訪城日・・・・2013年4月1日



             ~ 今回の訪城路の記録 ~

前から登城の仕方は調べていた。。。。。それが今回の油断につながった。。。。のだろう。

この砦へは今回大変なめにあってしまったので記録に残すとともに、今後訪城される方の警告となるよう

細かく2回に分けて書いて行きたいと思います。

(砦自体は小さいので記事は少ないが。。。。。)


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今回の砦へのヤバイ迷走の足跡               国土地理院2万5千分の1地図使用

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砦へは、塩尻方面から国道20号線塩尻峠手前を高ボッチ高原へ向かい、山道の途中に五百渡橋・「在五百渡頂上

御旧蹟」の立派な石碑のある場所へ駐車する。(車を止める場所は広くある)


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石碑の奥に進むと写真のような「イオト」登山道と書かれた看板が建っているので沢を渡って登山する。

(奥には登山道に沿ってロープで案内されているが、下山後に気付いた。。。。。のだが (゜-゜) )


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なぜか・・・・今回・・・・・・尾根を間違えてしまったのだ。。。。。でもこの時は自信満々で登山開始!

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おっつ!! いきなり傾斜40度近い急斜面だぜ!  っと意気揚々と登っていく。。。。何故疑わなかったって?

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だって道?踏み跡?があったんだもん。。(-_-;)。。。。後で考えればシカちゃんのだったけど。。。(涙)

急斜面を登りつつ宮坂氏の「山城探訪」の五百渡砦の図を見ながら.。。。。フムフム・・・・

これがこの平場か~・・・なんて無理やり現地と合わせて行く。。。。。。(思い込みは怖い!)


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そして登ること30分、山頂が見えてくるが。。。。。。。な~んか図面と違うような。。。。。

今更ここで不安になってくる(汗)

が・・・・・確認のしようがないのでとりあえず山頂を目指す。


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よっしゃ~。。。。山頂だぜ!   って。。。。なにもね~!!!!!

やっぱ違ったのか・・・・・・・・(涙)

一応、周囲を見渡してみると。。。。。。。。。


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ガビ~ん!!!  ちょ~深い沢を挟んだ対岸の尾根に城跡らしき平場が見えるではないか・・・・・

あわてて地形図を確認して見るが。。。。。。ど~みても・・・・何度みても・・・・・

居る尾根違うじゃん!!!   なんで看板あったのに尾根間違えたんだろ。。。。。(涙)


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しかし。。。。間違えたとはいえ苦労して登ってきた山から下りたくはない。

なんとかして隣の尾根に行けないだろうか。。。。。。。。。チッ! チッ! チィン!  閃いた!

地形図では、砦のある尾根とこの尾根は五百渡山の中腹で繋がっているんだから尾根を辿れば砦に行けるじゃん!

そう・・・・・この時、忘れていたのだ。

「山城探訪」には、「背後は5m下に7×3の1段があり、あとは尺にも満たない細尾根が45m続き、縄を伝って登ると

更に細尾根が50mばかりあり、両側は絶壁。
(後略)」

とあったのを。。。。。。。これが地獄の訪城の始まりだったのだ。。。


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意気揚々と尾根を辿っていく。(この時点では、シカか山仕事の方の踏み跡があり不安は感じていない。)

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暫く尾根を辿ると、五百渡山への尾根の分岐部分が見えてくるが、ここから猛烈な傾斜の登りとなる。

ここまでで約30分(間違えた山との比高さ約110m)

しかも・・・・・・周囲があやしくなってくる。


ioto10 (9)

分岐手前で五百渡砦側の尾根を見てみると・・・・・・・・・!

どうみても。。。。。けわしいぞ~!。。。。。。やばいかもしれない。。。。が、

すでに登山口から登り始めること、1時間以上・比高230mは登っていることが引き返す決断を鈍らす。

体力的にもそろそろヤバいし。。。。。五百渡砦側の降りに賭けてみるか。。。。。。(ここでも判断を誤る。)


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分岐を登りきり、五百渡砦側の尾根をみると。。。。。。。。細い(汗)

しかも。。。。左側は絶壁!・・・・・落ちたら死亡!!!

前日に降った雪によって凍ってしまった地面が滑る!滑る!

尻を付きながら下りること10分。。。。。。


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降りきって下りてきた斜面を見上げてみると。。。。。。凍った地面にこの傾斜。。。。

体力も残り少ないし戻れる気がしない。。。。。もう進むしかないのである。。。。(・へ・)

(写真の赤白のポールは、塩尻市の境界?を示すものと思われるが、後にこれに救われるのだ。)



ここで。。。。。一応、城域に入るので砦址の歴史について。。。。。ご説明すると。

この砦は基本的に詳しく書かれている資料は皆無であるが、「長畝区誌」に載っていて塩尻峠の戦いのものとして、

「(前略)、西條城は宝徳年間築造以来伊那、諏訪両地方の防御の要鎮にして当時小笠原頼貞之を守り各支城を

統ぶといえどもその位置西偏し塩尻連嶺を守るに足らず、これに於いてか老将犬飼半左衛門は東山付近に屯営し

更に高山城を築き、五百渡・合図の峰及び焼臺に烽火台を構へ成兵を配置し兼ねて此等の各営を連絡し、且つ軍需

兵站供用の為に中央桟敷に高須城を築き以って首尾相策應し比天嶮を拒守せり」とあり、天文14年の塩尻峠の戦い

のおりに小笠原方の犬飼半左衛門により烽火台として構築されたことが書かれている。

「山城探訪」の宮坂氏は、塩尻市の大門付近にある内城の武士(塩尻氏の居館跡とも考えられているが)の詰の城

か逃げ込み用の城だったのではないかとしている。


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この図面に沿って紹介していきますので、参考にしてください。

~ 堀① ~

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急斜面をなんとか突破し、傾斜のないゆる~い尾根をトボトボと歩いていると。。。。。キラ~ン(*^_^*)

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第一村人発見!!並みに初めての城郭遺構?にテンション急上昇!!!

この堀切状遺構は、上幅約4m。深さ約1mでこれはどう見ても細尾根に穿たれた堀切なのだ・・・・・

ただ宮坂氏は「堀切らしい跡」と言っている。。。。それは何故か???

後でわかることなのだが、どう見てもここには必要ないのである。。。。。。。

そう、この後のテンション急下降に繋がることと関係あるのである。


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堀切跡?から尾根を20mほど進むと・・・・・・砦のあるピークの高まりが見えて来た!!!!

ヤッター。。。。。。。ついに。。。。。ついた(テンション最高頂)。。。。。。。。。????

あれ??  ピークに繋がっているはずの尾根無~い!!!(汗)

宮坂氏の縄張り図を見直してみる。。。。。そう最初の頃に書いた宮坂氏の記事。。。。。

「細尾根が45m続き、縄を伝って岩を登ると・・・・・」がここなのである。。。。。

しかも。。。その「縄」を探してみるが見当たらない!!!

ってことは・・・・・縄を使わないと登れない岩を、縄を無しで降る。。。。。。絶対~無理!(>_<)

どうしよう!!!!!!!!!(テンション再下降)

そうここで最初に赤字で書いた。。。「帰れないかも」・・・・・・あの凍った急斜面を戻る気力と体力もない!

先にある絶壁も何回も挑戦したが。。。。。無理。。。。。四面楚歌である。

ウロウロと周囲の急斜面を見て回ること30分。。。。。。。


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ものすごいきゅ~斜面(むしろ崖)にあの見覚えのある。。。。塩尻市のポールが。。。。あるではないか。。。

ってことは・・・・・誰かが降りたことがある。。。。イコール。。。。。降りれるのでは  (^。^)y-.。o○

でも・・・・落ちたらどうみてもただでは済まない高さと傾斜である。

どうしよう。。。。家族にお別れの電話でも。。。。しとこうかな。。。。。。。(゜-゜)。。。(圏外)

終わった!!!もう下るしかない。。。。。。のだ。

尻を付き降ってみた。。。。いやむしろ落ちていたな(比高40m)。。。あれは。。。。。生きてるけど!!!!


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沢底から崖と砦のあるピークを見上げてみる。。。。。ん~どやってのぼろ。

長くなっちゃたのでまた次回へ続く・・・・次回「生きて帰るぞ~編」をお付き合いください。

あれ。。。今回ほどんど城跡に触れてない。。。。。薄い記事でした。
  1. 2013/07/13(土) 19:51:10|
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松本市  中村館

安曇南部の雄 西牧氏城砦群⑧  西牧氏初期の居館跡

nisimakinotoride1.jpg
西牧氏関連城砦群配置図          国土地理院 2万5千分の1地図使用


所在地・・・・松本市梓川梓字上野                   訪城時間・・・・0分

危険度・・・★☆☆☆☆                         別 名・・・中村西牧氏居館

訪城目印・・・・鞠子神社                        訪城日・・・2008年7月13日・2010年12月27日



            ~ 中村館の歴史 ~

中村館は中村部落の略中央で段丘の縁辺、最も東に突出せる部分に位置しており、段丘下には降旗田園(旧降旗牧)

を一望に収め梓川の右岸にある波田町(現松本市)と相対している。

この地域で最も古い道とされるのは鞠子神社の前を通じている横道(千国街道)であり、この千国街道は西牧氏が

中村居館を構えてから開かれたものであるとされている。


nakamurayakata11.jpg
古い歴史をもつ鞠子神社(この前を通る道が千国街道とされている)この日はお祭りでした。

この中村館の構築時期は、西牧氏が牧官として移住してきた頃に築かれたものと考えられておりこの頃は防御施設

は設けられて無かったものと見られ、現状でも他の西牧氏の城館のように明確な防御施設は見られない。

ただ、中世となり居館を於田屋に移すとこの中村館は西牧氏の支館としてや段丘下の降幡田圃から上がってくる

胡桃坂・神田川坂を押さえる砦・木曽・飛騨方面に備える為の周囲の小砦をまとめる為の中心的な砦としての役割

を担っていたものと思われ、段丘縁にある帯郭はこの頃に防御として手を加えたものとみられる。


nakamurayakata3.jpg
この図面に沿って紹介していきます。


              ~ 中村館の現状 ~

~ 郭①(御頭) ~

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中村館の中心部とみられる「御頭」地籍で、2008年8月時点では広大な平坦地(北安曇郡誌では宅地表記)であっ

たが、2010年12月には写真のように新しい家が建ち始めており2013年では畑地にもなっていたので現在は無断で

は入れない可能性が高いので地権者の許可を得てから見学をすることをお勧めします。


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nakamurayakata2.jpg


御頭地籍の段丘縁部には、高さ約1mの土塁状の土盛りが築かれているが北安曇郡誌の図面には記載がないことから

これは後世の家や畑に関係するものと考えられるのでこの御頭地籍では館に関する城郭遺構は確認できないことになる。

ただ、図面にも記載しているように御頭地籍の東側には「古道」と伝えられる細い道は、古い時代には段丘縁部を

通っていたとされているので中村館の虎口(入り口)は東側に開いていたと想像できる。


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御頭地籍の北側の道路(車がある所)は「新道(あらみち)」と検地帳に記載されている道で居館廃絶後に造られ

たものでこの道により居館の北側の境界は分からなくなっている。


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御頭地籍から見る戦国期の改修と考えられている帯郭を見下ろす。

(縁部の高まりは後世のもので土塁ではないと考えられる)


~ 帯郭 ~

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中村館の帯郭は、通常の城にある帯郭とちがいニの郭となるほどの大きさをもっており本郭(御頭)側には、

約2mほどの切岸が構築されている。


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この帯郭には、多くの湧水が確認でき居館の水の手として利用されていたことはもちろんだが、現在でも(?)

神田川部落の水道水源地となっているものもあるほど水に恵まれている地に居館は構築されている。


nakamurayakata5.jpg

帯郭と帯郭の間には写真のような竪掘状の窪みが斜面を落ちているが、山城探訪の図では沢のように書かれている

ので自然の沢であったろうが防御としても役に立ちそうである。


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この帯郭は、上記の自然の沢を挟みながら胡桃坂と神田川坂の間に長く構築されていて居館の大きさがうかがえる

が、この居館の始まりが古いせいか明確な区切りや範囲が分からないのが難点となり居館の全容が解明されていな

いのが現状である。


この居館について研究している資料がほぼ皆無に近く、他の地域の残りの良い城館が研究対象となってしまってお

りとり残されている感じをうけるが確かにここにあった中村館・・・・・・誰かこの居館の全容を解明してほしい

ものである。(他力本願的な考えかな)

それにしても、住吉の庄や北条の地を小笠原氏に奪われ田屋に本拠を移した西牧氏はどこに居館を設けたのであろ

か、さすがにあんな高所にある田屋城に居住はしていなかったであろうし。。。。。。

これに関して論じている資料にはめぐりあっていないのであるが、中村館に戻ったってことはないか。。。。な。



~ 参考文献 ~

山城探訪 補遺資料編 中南信版        (宮坂 武男)

北安曇郡誌                  (北安曇郡誌編纂委員会)

梓川村誌                   (梓川村誌編纂委員会)
  1. 2013/07/03(水) 02:31:35|
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