長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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9月22日の訪城結果

なめてかかった代償は大きかった!!!


地の利を生かした戦国末期の優れた城郭・・・・・布上城(松川村)

夜勤明けに時間があったので友達を誘って松川村の布上城へトレーニングも兼ねて訪城してみたが。。。。。

この城のある山を遠目で見ただけで。。。。。。。ビビってしまった。

何故かって。。。。。。


matukawanunogami (3)

どう見てもこの山は。。。。。ヤバいでしょ  (゜-゜)

とビビりながら、前日出しておいた2万5千分の1の地形図を見ながら登城路を探す。

これがまた、尾根に取り着くまでの距離が長い。。。。。。。

林道(普通車不可)を歩くこと20分、やっと尾根の麓に辿り着く(ここまでに熊出没中の看板がありビビる)

この尾根の傾斜が40°近くありヤバい(もちろん道は無い!)。。。。。

まあこの斜面を登り切れば楽になるだろうと。。。。。。。なめてた (-.-)

尾根の弛みを越えるたびに永遠と急斜面が続く。。。。。。そして城跡までこの急斜面が1時間半続いたのであった

ここは地獄か。。。。。。トレーニングなんてとんでもない!

ただの登山である。


村誌には、村人の逃げ込み城では。。。。。と書かれていたので全然期待していなかった。。。。。

だが、期待はいい方向に裏切られたのだ。


matukawanunogami (2)

城の中心部と尾根続きを遮断する大堀切(上幅12mあり切岸は現在でも登ることができないほど鋭い)

matukawanunogami.jpg

斜面に掘られた3本の連続竪掘。。。。。。。感嘆ものでした。

この他にも見どころ満載!

しかし、何故この素晴らしい城郭遺構を残す城跡が住民の逃げ込み城と考えられたのであろうか。。。。

それは、この城跡の立地に由来するのであろう。

この城跡の比高は350mありしかも山奥すぎて片道約2時間。。。。。。。。村誌にも書いてあったが、どう見ても

敵が来ても攻めかかることもできず、敵も素通りしても脅威を感じないだろう。

そう考えた時に、住民が逃れるための施設という仮説が出て来たのであろうが。。。。。。

住民が隠れるだけならこのような防御施設は必要ない。

では何に対してこのような優れた防御施設を山奥の隔絶した山頂に構築する必要があったのであろうか。。。。。

謎だ。。。。


まあこの記事は。。。。。。。。書くのはいつになるやら。。。。。でも、もう行きたくないのは確かだ。

PS、この城は絶対一人では行かないでください。怪我をした場合、絶対一人では降りてくることはできません。

また、遭難の危険性も高いので必ず地形図・熊鈴などの登山用の装備を持っていくことをお勧めします。

*この山はかなりの健脚の方でないと無理です。
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  1. 2013/09/22(日) 22:06:44|
  2. 本日の訪城
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中川村  御北

大草氏初期の居館跡か。。

nakagawaarazyou2 (27)
御北の周辺城館跡配置                     国土地理院2万5千分の1地図使用


所在地・・・・中川村大草沖田                  訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                    別 名・・・・大草休斎館

訪城日・・・・2013年3月10日



              ~ 御北の歴史 ~

香坂系図には宗綱の第ニ子宗種、永享の結城合戦の功により大草郷地頭を賜うとあるが、香坂氏(大草氏)の大草

土着はは南北朝時代と考えられている。

陣馬形の西麓の谷地部や丘陵部には縄文時代から奈良・平安にかけての遺跡が点在していて、すでにこの頃には

村が形成されていたものとみられる。

そこで中心となった指導者が大草氏であったと考えられる。

その大草氏の初期の屋敷地は、出土物の状況から「堂ヶ平」・「垣外畑」・「御北(沖田)」の丘陵地が考えられ

ている。

大草城で紹介した大草休斎(庄三郎)は戦国期に活躍した人で、大草城主であったとされている人物であるが、

大草城と同じ高さの丘陵地にある御北に住む理由は無く、同比高にあるなら防御施設の整った大草城に住むべきで

ある。。。。。なぜここが大草休斎館なのであろうか。。。。。


okita235.jpg
御北の現状                        ゼンリン地図使用 

その答えを考える資料としては。。。。。。。。。

中川村誌に記載されている松村弥次兵衛著の「大草城史の研究」の大草城周辺の模式図がある。


okita879.jpg
中川村誌より転載

赤線を引いた場所が御北であるが、図には「隠居城址」とあるのである。

そう考えると、初期の大草氏がこの地に居館を構え南北朝期に大草城を構えると、本拠は大草城に移って行ったも

のと考えられその間は御北は一族のものを配置して支城としていたものと考えられる。

その後、大草休斎が引退すると御北を隠居城として使用したものと考えられるのである。

また、香坂系図に「休斎の子宗澄、宗澄の孫宗久に至り、天正年間に家を失い大草村の農長(郷士)となる」とあ

ることから大草城が廃城となると大草氏は帰農し御北の地で郷士となったのではないだろうか。


okita_20130903042621dc8.jpg
御北を遠望する。

南の太子原と、北の相模垣外の大きな台地に挟まれた、東西100m・南北約100mほどの台形状をした台地に居館跡

があり西側は丘陵の突端となっている為、防御性や眺めは格段によく領地を支配するにはとても良い立地である。


okita (2)

現在の村道周辺には「荒町」・「北町」などの地名があり城下町や宿場があったようで、この現村道から居館へ

つながる一本道を立小路と呼び往古は居館への唯一の通路だったようである。


okita (3)

内部は現在、子孫の方であると思われる高坂氏が住んでおられるが、中々重厚な門と広大な敷地にいつもなら許可

を得て内部を見せていただくのだが。。。。。。。敷居の高そうな御宅なのであえなく撤退しました。

居館内部からは、15~16世紀の中国青磁や香炉の破片が採取されており、力のある人物がここに居たことを示して

いる。


okita (6)

居館の南側には、段郭のような畑がありここが防御の要であった可能性もあるが、現状では堀なども見られずどの

ような防御施設をもっていたのだろうか。

丘陵先端部は墓地となっているようで、本当の隠居の為だけの屋敷だったのかも知れない。


okita (8)

先端部にも段々がありました。


個人宅なので詳細な調査は出来ませんでしたが、丘陵の突端部に設けられた居館で要害性に富んだ地でした。

名族香坂氏に関わる重要な遺跡が残っていることはとても素晴らしいことですが、出来れば標柱や説明板があれば

もっと良かったかな。と思いました。


*個人宅なので詳細な地図は出しません。見学には細心の注意が必要です。

~ 参考文献 ~

山城探訪         (宮坂 武男)

中川村誌         (中川村誌編纂委員会  平成18年)
  1. 2013/09/01(日) 19:06:05|
  2. 中川村
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現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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