長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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駒ケ根市   香花社古城

いつの時代の誰の城か?謎の多き城郭

nakazawatakamisiro5.jpg
本城の高見城と周辺の城館

所在地・・・・駒ケ根市中沢中割                       訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                           訪城目印・・・・香花社

訪城日・・・・2012年2月12日


香花社古城と言われて分かる方はほぼいないであろう。

この城跡は、現在ではただの神社境内となっており遺構は見られない、この神社が何故城跡と分かったかといへば

昭和60年10月に行われた土地改良事業中に神社のある丘を巡る周濠跡が発見され、古瀬戸灰釉陶器が出土し古式の

城郭跡と確認されたことによる。

ただ、発掘調査をしたわけではないようで全体像もわかっていないし歴史も分からず、調査報告書も刊行されてい

ない謎の城跡である。


nakazawatakamisiro5_2013120419491302c.jpg
報告書が刊行されていないので分からないが、たぶんこんな感じで堀があったのであろうか。。。。 

koukasyakozyou.jpg
香花社を正面から見る。

内部は三段からなっており、往時のままでは無いにしても城跡っぽさは感じられる。


koukasyakozyou (2)
神社北側を見る。

神社の敷地は周囲より2mほど高くなっており、この道のあたりに堀があったことが想像できそうである。


koukasyakozyou (4)
南側の堀跡か?

神社の南側には段丘下へ降る道が見られ、この道が堀割状になっていて堀跡のように感じる。

奥の林は白山城で、この古城と白山城で段丘下からの道を監視していたのであろうか。。。。。。。

ただ白山城や高見城・香花社古城が同時代に存在していたかは不明だが。


koukasyakozyou (6)

神社内部は大きな段差があり、神社造成により崩されたものであろう。

koukasyakozyou (11)
神社本殿のある丘の頂部を見る。

頂はきれいな削平地であるが、神社によるものか城跡によるもものかは不明であるが遺構は見られない。


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近世城郭の櫓のように見える神社本殿

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城跡遠望

段丘崖の比高が乏しいため要害性は低い


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城跡全景

香花社古城はどうでしたか。

遺構は一切見られないものの高見城・白山城・的場遺跡など中世城館跡の密集地に存在したこの城の存在意義や

役割を想像してみるのも楽しいかもしれませんよ。

中沢氏の一族でもいたんですかね~(#^.^#)



~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料編            (宮坂 武男)

高見原遺跡発掘調査報告書           (駒ケ根市教育委員会  昭和61年)
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  1. 2013/11/26(火) 03:31:49|
  2. 駒ケ根市
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11月15・16・17日の訪城結果

去年のリベンジ&悪夢の再来!!

15日・16日・17日と3日間に5ヶ所の山城を訪城してきました。
念願の城も制覇し気分ルンルン!足はパンパン!訪城結果をお送りしていきます。


                11月15日

改めて見直してきましたが、やっぱりサイコ~!・・・・・・北条城(松本市梓川)   再訪

以前、らんまる攻城戦記のらんまるさんにご案内いただき訪城しましたが、改めて再訪して満喫してきました

西牧氏の本城として築城され、小笠原氏が中塔城に立て籠もった時に改修され堅固な城となったと考えられている。/span>。

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本郭の縁部を取り巻くように構築された土塁。

現在でもよく残り虎口も見られ進んだ築城技術が見られる。


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本郭北東尾根を掘り切る巨大な掘切

堀切の巨大さに感動&どう降りようか悩むこと必須


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西尾根を掘り割る堀切

連郭式に築かれた北条城、それぞれの堀切の規模と切岸に何回訪れても飽きない。


北条城の出城・・・・亀山城(松本市梓川)    再訪

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北条城とつながる尾根を断ち割る巨大な堀切

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ニの郭と奥に本郭の切岸を見る。

きれいな削平・明確な切岸、出城といえども手を抜かない築城にこの時代の緊張感を感じることが出来る。


                       11月16日

16日は、去年に尾根を間違えて鳩吹城へ登ってしまった義信の城を攻めて来たぞ!ただ・・・・・苦難の道のりが

また間違えた!苦難の道のりと感動の城跡・・・・義信の城(伊那市)

yosinobu3.jpg
本郭の下部に横掘を構築した珍しい郭

今回も何故か。。。。。。前回とはこの城の有る尾根を挟んで反対側の尾根に登ってしまい、立ち往生!

なんたって最終の尾根が幅1mを切る狭さで両側が絶壁!(汗)

しかし、あきらめないのだ!絶壁を下り沢中をトラバース、さらに義信の城のある尾根の絶壁を這ってよじ登った

らこの郭へ到着!・・・・・・どんだけ命がけなんだ~!(沢を越えるだけで1時間。。。。涙の訪城劇)


yosinobu2.jpg
搦め手の尾根を掘り切る二重の堀切

yosinobu1.jpg
本郭背後の巨大な堀切

義信の城は、この周囲にある城とは一線を画した異色の城で、巨大堀切・放射状の竪掘・横掘と先駆的な築城技術

を見ることが出来るが、街道からは離れた位置にあり何のためにこのように厳重な防備を誇る城を築く意味があっ

たのかは不明。築城主としては鳩吹城の倉田氏・木曽氏の説がある。

かなりお勧めの城であるが、場所が分かりずらく又笹藪が進んでいるので訪城には注意が必要!


伊那と木曽を繋ぐ権平峠を見張る砦・・・・・座籠城(箕輪町)

zanngo2.jpg
訪城途中から見た伊那方面

この城、比高は200mちょっとと大したことないように感じるが、これがまた城跡までの距離がとにかく長い長い!

途中、居館跡と考えられているクリ平を越えて永遠と鉄塔の保守道を1時間ちょっとかけて登る。

高圧線に沿って登るので木々は切られているので眺めは最高。

途中でモトクロスに乗って下ってきた方に会った時にはビックリ、こんなところに自転車とは・・・・・

色々な趣味の方がいるものです(自分も含めて!)


zanngo1.jpg
尾根を区切る唯一の小規模な堀切

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本郭の尾根続き側には高さ約50~60程度の土塁を見ることが出来る。

また、本郭からは木曽への国道(権平峠)が眼下に見えこの城の役割を感じることが出来る。


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城跡遠望

どっちの城跡だろ・・・・・物見ヶ城(伊那市富県)    再訪

この城も以前にらんまる攻城戦記のらんまるさんにお付き合いいただき訪城したが、天気が良すぎてまともな写真

が撮れていなかったので再訪してきた。

以前訪城した時は北林から1時間以上かけて尾根を登ったが、今回はチョンボして尾根続きの林道から20分程度で

訪城しちゃった (-_-;)


tomikennmonomi.jpg
搦め手を守る二重堀切

この物見ヶ城は、北林側と富県側とどちらの勢力によって構築されたのか分かっていない謎の城跡で、高山にあり

ながらただの砦ではなく明確な意思をもって築城した城跡で先駆的な技術が使われている。


tomikennkmonomi2.jpg
本郭を見る

本郭は縁部をすべて土塁で取り巻き、西側と東側の二か所に虎口を設けている。

また、誰が来るのか疑問だが古びた標柱が建っている。


tomikennmonoi5.jpg
本郭とニの郭を区切る大きな堀切と切岸

この城の特徴は二重堀切や高い切岸・城内と通路を明確に分ける土塁などで、物見としても使われたであろうが

明確な防御意識を感じ、城郭資料では武田氏による築城説や防御が北林側に向いていることから富県側の勢力によ

る築城説がある。

どちらにしても優れた城郭遺構なので是非見ていただきたいが、全山キノコ山なので時期には注意が必要!

罰金30万や森林法の適用の看板があり。



                      11月17日

この日は、嫁のダイエットを兼ねて塩尻市の鳴雷城を攻めて来たぞ。

先日からのハードな訪城ですでにフラフラ。。。。。。。。登山道はきれいに整備されているがとにかく高い!


雨乞いの城跡・・・・鳴雷城(塩尻市)

narugami2.jpg
本郭にある鳴雷神社

山頂の本郭は削平は甘いが周囲にはきれいな切岸と帯郭が取り巻く。


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上ノ山城へ続く尾根を断ち切る大堀切

城内で一番大きな堀切で、北側に落とされた竪掘の大きさはこの砦には不釣り合いな程規模が大きい。


narugami4.jpg
城跡遠望

さすがに3日間の訪城はきつかった!


いつになるか分からないけど。。。。。。。。。ガンバって書くのでお楽しみに!
  1. 2013/11/22(金) 18:47:40|
  2. 本日の訪城
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駒ケ根市  高見城

中沢郷の地頭 中沢氏(高見氏)の本拠

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高見城と周辺の城館群                 国土地理院2万5千分の1地図使用


所在地・・・駒ケ根市              訪城時間・・・・0分

危険度・・・★☆☆☆☆(住宅地にある為、不法侵入とプライバシーの侵害に注意が必要)

訪城日
・・・2011年2月20日・6月12日・2012年2月12日



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高見城は的場遺跡と白山城・香花社城・高見城を合わせて呼ばれている資料とそれぞれを分けて書いているものが

あるので、同じ集落内にあるが広範囲にわたる為それぞれ別の城館跡として紹介していきます。


         ~ 今回は・・・・・高見城から紹介します!! ~

nakazawatakamisiro5 - コピー
この図面に沿って紹介していきます。

この高見城の城主であったとされる中沢氏の出自について「前田家本神氏系図

及び神氏系図」によると中沢氏の始祖は諏訪敦真の嫡孫真重が中沢郷に本拠をもって中澤神太と号したことから始

まったとされているが、その他の古文書では真氏が中沢太郎を号したことから始まったと書かれている。


nakazawatakamisirro1 (3)
堀①を見る。

堀①は現状民家や水路となり見る影もないが、奥の家と水路の部分の高さの差の違いから堀であったことが窺える。



承久3年〈1221)頃、中沢太郎真氏は承久の乱において関東方に属し、その戦功によって出雲淀本庄地頭職に補せ

られ中沢郷を合わせて領すようになった。

嘉録3年(1227)5月、真氏が嫡男為真に宛てた譲状の付帯条件には「為真に子なき時は、弟に譲るべきを定む」と

出されている。この真氏の心配は的中し真氏が没して間もなく嫡男の為真も実子がないまま死去してしまった。

真氏・為真親子が没したのは安貞~嘉禎年間(1227~1238)の事と考えられる。

嘉禎3年(1237)為真の没後の遺領分配は、出雲牛尾の庄は次郎真直(真氏の次男)に中沢郷八ヶ村の内の四ヶ村

は四郎真光(真氏の三男)が継ぎ残りの中沢四ヶ村が為真の後家女子(為真の娘?妻?)に譲与された。

その後、後家女子に譲与された四ヶ村の内の中曽蔵村を後家の家子小次郎に与えたことから争いとなった。

この争いは幕府により中曽蔵三分の二は真直、三分の一は真光が納めるよう裁許の下知状が出されている。


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西城(郭①)の東側切岸を見る。

高見城の東側は、城下集落と街道があり桝形などの遺構が見られる。

東側の防御が不明であるが、堀①と堀②がこの道路にぶつかっていることからこの道路自体が堀跡の可能性がある。


正和元年(1312)7月中沢円性(真氏の次男真直の子)は出雲淀本庄を雑掌経範と地頭職を争ったが、幕府の裁許

によって、円性が勝って本領を安堵され以後、出雲で繁栄し南北朝時代には名和長年の募兵に加わり南朝方として

功績があった。

「高坂文書」には香坂宗たね宛に、

「小笠原殿国もちおう里よう被下候、今度郷の者七つ八つ一揆の組をたて申候、下条殿もくみに被成候如件」

      永享四年(1432)十一月 中沢衛門尉(花押)   

とあり中沢氏の名前が見える。      


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西城(郭①)の南東隅部、堀②に面して残る土塁跡

「諏訪御符礼之古書」の文明19年の項には、大祝継満と高遠の諏訪継宗等の総勢3百余人が諏訪総領家と同族争い

があり、この戦いで「中沢・高見討死候」とあり中沢氏は諏訪氏一族として戦いに参加していたことが分かる。

なお、高見氏については真氏の三男で中沢郷の四ヶ村を納めた真光が中沢氏総領として中沢郷高見に居住し高見氏

を名乗ったのではないかと考えている資料もある。後にも書くが天正期などになると中沢氏の名前は出てこなく

なり変わって高見氏の名前が多く出てくるようになることから中澤氏=高見氏との見方が濃厚かと考えられるの

ではないだろうか。

永享12年(1440)の結城合戦時の小笠原方の参戦した国人を編成した『結城陣番帳』の中の14番に中澤殿代とあ

り中沢氏の代理が参戦しているが、この時代に中沢氏の存在を知ることが出来る。


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高さ約4mの残存土塁を見る。

西城(本郭)の隅部に構築されていることから櫓台として使用されていたことが窺える。


戦国期の中沢郷は高遠頼継の勢力圏になっており、天文5年(1536)には頼継の弟蓮峯軒が高見郷を代表して

諏訪上社神使御頭神事の頭役で頭人を勤め、頭人を補佐する寄子に曽倉・大沼らを率いており蓮峯軒は高見に居て

中澤郷の支配に当たっていたことが分かる。

文明・長享年間にわたって展開された諏訪氏の内紛には、大祝派に与した高遠継宗に高見氏が従軍しており、

これは単なる血縁関係に拠ったものではなく室町時代以降進展しつつあった高遠氏を主軸とした地縁的結合が

中沢郷にも波及していたことが窺える。

この傾向が強まり高遠頼継の弟蓮峯軒による上記のような中澤郷の支配権が確立されていったものだろう。


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西城の残存土塁と西城(郭①)と外城(郭②)を隔てる堀②を見る。

武田氏の支配時代になると高見氏は中沢衆として見ることが出来る。

天正10年7月6日付中澤衆大草休斎及び同家中起請一紙(恵林寺文書)の中に高見孫兵門の名が見られる。

永禄3年(1560)上社権祝領に属していた高見郷は他の権祝領と共に武田晴信から安堵されている。また、

天正6年(1578)には高見新左衛門尉が高見郷の郷代官にとして武田勝頼が命じた諏訪上社の造営役の取りまとめ

をしていることが見られる。

高見氏は武田支配以前から権祝領高見の代官として、高見に限らず中沢郷での諏訪社に関係する在地の実務を行っ

てきた家柄であったことが想像でき、新左衛門と一緒に小使を勤めていた与三郎は新左衛門の近親者であったと

考えられる。


nakazawatakamisiro2.jpg
東側から見る堀②

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西側から見た堀②

堀②は西城と外城を分ける堀②は、現在生活道路として使われているが良く残っている方であろう。


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堀②から竪掘として下間川に向けて竪掘として落としている部分で、『堀』と呼ばれている場所である。

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外城(郭②)を見上げる

郭②の外城と呼ばれる場所は、実質的な高見城の2の郭で堀②の底部から約4m上にある。


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外城の内部を見る。

郭内部は畑地となり細部は分からなくなってしまっているが、西側は小間川の断崖の要害地形で東側には一段下に

帯郭かと思われる神社地がある。

また、南側の台地続きには堀切が見られずそのまま的場遺跡と呼ばれる中世の城館跡まで続いている。

この的場遺跡が実質的な高見城の外郭であったかとも思われるが、別遺跡として後で紹介したいと思います。


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外城の帯郭と考えられる神社地

この神社地は道路より1~2mほど高くなっていて郭を形成していたように見える。


nakazawatakamisiro5 (4)
街道から見た高見城(林がある所)

nakazawatakamisiro5 (2)
小間川の対岸にある小山遺跡(中世屋敷跡)から見た高見城


住宅化に飲み込まれた高見城はいかがだったでしょうか。

県内にもこのように宅地化により僅かな遺構しか残さない城館跡が多く存在しており、この僅かな遺構を探し出す

のが大好きなのだ・・・・・・なんあんてね。

高見城周辺の遺跡は、遺構を残さず発掘調査で発見されたものが多いがこれらも存在していたことを皆様に知って

いただくために見ごたえは無いかもしれませんが記事にしていきたいと思います。

どうぞお付き合いください。



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編          (宮坂 武男)

伊那の古城 改訂版            (篠田 徳登     2010年)

駒ケ根市誌                (駒ケ根市誌編纂室  平成2年)

定本 伊那谷の城             (郷土出版社     1996年)

中沢史話                 (上伊那歴史研究会  昭和34年)




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  1. 2013/11/16(土) 19:46:49|
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駒ケ根市  菅沼城

駒ケ根のドン!中沢氏(高見氏)の一族菅沼氏の居城

takamikozyou8.jpg
中沢郷周辺の城郭配置                   国土地理院2万5千分の1地図使用


所在地・・・・駒ケ根市菅沼                              訪城時間・・・・5分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                 別 名・・・・城

訪城日・・・・2011年2月22日


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菅沼城本郭から天竜川対岸に位置する赤須郷とアルプスを見る。

菅沼城は現在の菅沼区の天竜川右岸断崖上に存在する。

城主については、武田氏支配時代には中沢衆に属した菅沼九兵衛・次右門の存在が知られており、この菅沼氏の

居館が戦国期に改修され現在の形になったものと考えられている。


suganumasiro9.jpg
この図面に沿って紹介していきます。

菅沼氏は、諏訪神社関係の「守屋文書」によれば「守矢満実書留」の中に、文明14年の神使御頭を勤司し内県介宮

付、中沢菅沼有貞と記録され中沢郷を代表して諏訪神社上記最大の祭事御頭祭を執行していることが分かる。

神使御頭は、諏訪神系の親族でなければならず、その庶子中沢氏の一族として15世紀末には中沢郷支配権を掌握

していたと見られ、神使御頭役は莫大な私財消費を伴うことから見てもその財・権力とも豊かであったことが窺える。


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郭①(本郭)を見る。

本郭は50×65mの方形で、現在は耕作地と墓地となっており周囲に土塁は見当たらず耕作により崩されたものと思われる。



天文11年(1542)の武田氏の諏訪支配にに対して不満をもち諏訪総領を狙っていた高遠氏は下諏訪に放火をし諏訪

上・下社を占拠した。

しかし、諏訪氏の遺児を奉じて諏訪入りした武田氏に安国寺前の宮川辺の決戦に敗れてしまった。

この中で戦死した武将の中に「蓮蓬軒」の名がある。



suganumasiro5 (2)
本郭を取り巻く帯郭

本郭を西側から南側の堀①まで取り巻くように幅8~10mの帯郭が構築されている。


蓮蓬軒は、高遠城主高遠頼継の実弟で中沢郷を支配していた人物で、菅沼氏はこの蓮蓬軒の寄子であったので

菅沼氏もこの宮川辺の決戦に参戦していたものと考えられている。

『伊那武鑑根元記』によると天文18年(1549)、城主菅沼阿波守は武田氏に降服することを良しとせず切腹し

菅沼城は落城したと伝えている。


suganumasiro5 (4)
南側帯郭と本郭切岸と堀①を見る。

ただし、阿波守以外の一族は武田氏に降ったようで武田氏家臣団の中で「中沢衆大草休斎及び同家中」に

菅沼九兵衛・菅沼次右衛の名が見られる。

その後の菅沼氏については資料には見られなかった(自分が調べた限りには)が慶長9年(1604)に菅沼八幡宮

祠官に菅沼継忠の名が見え、神道裁許状を受けていることから家柄は続いてはいるものの武士としては成り立って

いなかったようである。


suganumasiro2 (2)
帯郭から見た堀①

本郭切岸下部から帯郭が南側の堀②まで続いているが、堀①の竪掘部分も堀を埋めて郭となってしまっている。


suganumasiro2 (3)

しかし、段丘麓部には竪掘の残欠が見られることからも、この埋まった竪掘部分は後世に開墾などにより埋められ

たことが想像出来る。


suganumasiro2 (7)
堀①を見る。

堀①は城内最大の堀で、上幅20mありこの地域では高見城・高見古城などに共通して見られるものである。


suganumasiro4.jpg
堀①から郭②を見る。

suganumasiro4 (3)
郭②を見る

郭②は35×10mと細長く狭いもので、削平はされているもののどちらかといへば堀①と堀②の間の堀残し土塁のとし

て設けられたものに感じる。

郭上のは城の鎮守である稲荷社が祀られており地域の方が良く来られるようでこの部分のみ籔が刈られていた。


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堀②の竪掘部分を見る。

suganumasiro3 (2)
堀②全景

堀②は上幅15mあり大きなものであるが、現状は廃墟となった作業小屋と籔により全景を見ることは難しくなっている。

菅沼城の全体を見て来たが、遺構的に複雑に見えるが単郭の居館から戦国期に堀①②の二重の堀を掘って防御を

増した居館から発生した城跡であったことが分かる。


suganumasiro7 (2)
北側から城跡を見る。

城跡の北側は、堀等の防御は見られないが切岸と上流の高見から城の用水として井水が引水されておりこれが城の

堀の役目をしている。

ただし、この城の井水の上流は、本家の中沢氏(高見氏)に握られていることもこの菅沼氏が独立した勢力では

なかったことが窺えるものでもある。


suganumasiro7.jpg
菅沼城の本郭からみる(推定)支城の高見古城を見る。

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段丘下から遠望する菅沼城

suganumasiro7 (5)
菅沼にある明徳の宝筐印塔を見る。

「駒ケ根市誌」には、南北朝が合一された北朝年号の刻銘の入った宝筐印塔の残欠が一基残っている。

その基台部には、『信◇◇ 中澤郷◇◇ ◇願主◇◇ 明徳三年閏十月』・・・(明徳3年は1392年)

の刻銘があり、年次の分かる石塔としては郡内最古の宝筐印塔となっている。

北朝年号の使用は、中沢郷での北朝の守護による支配の浸透ぶりを物語っている。

当時この地に居住した在地土豪が建立者と見られ、候補者には菅沼氏の一族の人物が考えられる。(後略)。

とありこの明徳の宝筐印塔は、菅沼氏が建立したものと推定している。



~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編              (宮坂 武男)

駒ケ根市誌                    (駒ケ根市誌編纂室  平成2年)

伊那の古城 改訂版                (篠田 徳登   2010年)

定本 伊那谷の城                 (郷土出版社   1996年)




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  1. 2013/11/09(土) 19:12:53|
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ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

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