長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

伊那市  保谷沢の城

堀切を多用した殿島城南端境目の城

所在地・・・・伊那市東春近田原                           訪城時間・・・・5分

危険度・・・・★☆☆☆☆                                訪城目印・・・・春近発電所

訪城日・・・・2010年3月21日



城跡の立地としては、天竜川の第一河岸段丘面で南は保谷沢川の深い沢となっおりこの保谷沢川によって出来た山尾根上

にある。西側急斜面下には田原部落があり集落との比高さは約65m(標高664m)ある。

城の歴史は何も伝わっていないが、西側下にある田原部落は殿島の分村であったことから考えると、殿島氏が南方に備え

て(南側は宮田村となり天竜川対岸には上の城・下の城・中越館などを持っていた中越氏がいた)造った支城であった

と考えられている。また、南方の猿岩上に物見ヤ城や牛ヶ城などの物見の砦が続いていることから弘治2年(1556)に

殿島氏が武田氏に背いて処刑され没落した後に武田氏により狼煙台に使用された可能性が考えられる。


hoyasawa21.jpg
この図面に沿って紹介していきます。

hoyasawa16 (3)

城跡へは、民家脇の鉄塔の保守道を登って行くがこの道が城跡のある尾根の先端部へ繋がっていることから、この保守道

がかつての大手道であったものと考えられている。


hayasawa1 (2)

大手道を登り切ると鉄塔の建つ小さな郭に出る、この保谷沢の城には3つの鉄塔が建ちこれらを建設する為の道ともども

大きく城跡を破壊している。(鉄塔は昭和2年(1927)に春近発電所の建設に伴って建てられたようである)


hayasawa1 (3)

郭⑤は小規模ながら馬出郭として構築されたもので大手からの最初の防御施設となる。

城内側へ約1.5mの土塁が構築されていて堀①と一緒に防御を固めている。


hoyasawa2 (3)

堀①は馬出(郭⑤)と郭④を区切る堀切で、上幅約13m・堀底から郭④まで約6mの高さで尾根の両側に竪掘を落として

防御を固めている。

また、馬出郭と郭④とは約4mほどの比高さがあり馬出からは郭内が見えない構造になっている。


hoyasawa3.jpg

郭④は、現状墓地や植林地・鉄塔建設道に利用されておりかなりの改変が見られる。

郭の大きさは49m×18mで城内では1・2番目に大きな郭となり堀①側に高さ1mの土塁を設けている。


hoyasawa3 (2)

郭④の北側にはかつて大きな堀切の堀②があったようであるが、鉄塔建設時に埋められてしまったようで尾根上では郭④

と郭③は尾根続きのようになっている。


hoyasawa4 (3)

しかし、尾根の側面にはかつての堀切の痕跡が残されており、痕跡の上幅でも約16mあり残っていれば城内で一番大きな

堀切であったことが窺える。また、この堀切が城内で一番大きいという事はこの堀以北が城内で重要な部分になっている

ことを感じさせるのである。


hoyasawa6 (4)

堀②と堀③の間の郭③は、鉄塔建設の為の道により大幅に削られてしまい見るべきものは残されていない。

この堀③は、本郭と郭③を区切る堀切で上幅約8m・深さは本郭側で約4mあり、尾根の両側に竪掘を落としている。

掘切に伴う切岸は緩やかで防御が脆弱である。


hoyasawa7 (5)
本郭内部を見る。

本郭は32m×32mほどの広さで周囲に約1m程の土塁が取り巻き、西側と南側に虎口が

開く、現状は竹藪となっているがかつて郭内からは石臼やカワラケが出土しているという。

内部には鉄塔が建っている為に大きく改変されており、虎口の土塁も大きく破壊されている。


hoyasawa7 (12)

鉄塔建設により大きく破壊された虎口。

西側に開かれた虎口は、堀③を橋?で渡っていたようで郭③へ道が繋がっている。


hoyasawa7 (11)

本郭の西側下には、大きな平場(帯郭)がありここにも鉄塔が建つが平場内部を道が通っている為にどのような形状で

あったのかは伺い知れない。また、この部分の本郭切岸も緩くあまり防御性を感じさせない。


hoyasawa7 (8)
本郭から見た北側の農地

この農地にはかつて堀が2本掘られていたらしく、この地の持ち主によると土地の借地人が耕地利用の為に埋め立ててし

まったとのことである。また、段丘縁に沿って現在車道が登って来ているが、昭和30年代には牛馬がやっと通れる道が

登っていたとのことであり、この道が本郭西側虎口へ通じることから保谷沢の城の搦め手道であった可能性が考えられ、

その道を防御する為の堀であったのであろう。


hoyasawa9 (2)
保谷沢側の急斜面に残る埋められてしまった堀の痕跡(堀⑤)を見る。

hoyasawa8.jpg
本郭の東側に残る堀④

堀④は上幅12m・深さ本郭側で8mあり切岸もしっかり構築されている。

搦め手を守る重要な堀で埋められてしまった堀と堀⑤とで合流し、本郭を取り巻いていたようである。


hoyasawa8 (2)
堀④を農地側から見る

写真にあるビニールハウスあたりに埋められてしまった堀が存在していたらしい。

hoyasawa16.jpg

埋められてしまった堀跡と本郭の切岸を見る。(写真奥の緑のネットの所が堀⑤)

hoyasawa16 (4)
保谷沢の城の遠景

殿島氏の境目の城である保谷沢の城はいかがだったでしょうか。

境目の城というと、小規模で単なる物見台のようなイメージがあるがこの城は堀切や土塁を多用した単なる砦とは考え

られない造りでした。この城の重要性がうかがえますね。

上伊那教育会の調査では、保谷沢の城は16世紀後半の縄張りを持ち、郭内から石臼やカワラケが出土していることから

単なる烽火台のような城郭ではなく、常駐性の高い城郭で本郭を含んだ北側農地を『小屋原』と呼んでいることから

このあたりに居館のようなものがあったのではないかと指摘しています。

比高も無く楽に見れる城跡ですので是非皆様も訪れてみてはいかがでしょうか。



~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料編      (宮坂 武男)

上伊那教育会研究紀要31集考古   
伊那市東春近における中世城館跡群の研究(4)『殿島城の南に位置する保谷沢の城の縄張り調査』
(上伊那教育会  平成21年)



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
スポンサーサイト
  1. 2014/02/21(金) 03:38:35|
  2. 伊那市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

松本市  中二子館

                    居館跡探しは大変です。

松本市笹賀には多くの居館跡・物見台が存在することはご存じであろうか。

「今村館」・「小俣氏館」・「神戸館」・「筑前屋敷」・「上二子館」・「中二子館」・「下二子館」・「陣台観」

と、この狭い地域に8ヶ所もの城館跡が存在するのである。

もちろん現在も子孫の方が住んでいたり、住宅地になっていたりリンゴ畑になっていたり。。。。。。

つまりは私有地なのである。

これをくまなく調査するのはかなりの困難が発生する。

所有者の理解と許可・場所を確定する為に情報をもつ方を探し出す時間。。。。。。。。。。

つまりは出会いとタイミングなのである。

たまたま散歩をしていた方が関係者であったり、近所の方で所有者を紹介していただいたり。

この笹賀の8ヶ所の場所の特定・調査に自分は2年間を費やしたのである。


       今回紹介するのは、図面を書くことまで許可していただいた中二子館跡です

笹賀の居館跡については宮坂氏もすべてを調査していない。

どうして知ったかといえば「笹賀地区誌」という区誌に唯一の記載があったことから興味を持ち調査を開始したが、

この区誌には大雑把な地図しか掲載されていない為に場所の特定から始めるという難題が立ちはだかった。


nakafutago7 (3)
平林一族が祀る祝殿

笹賀地区誌にはこの居館について、永禄十一年(1586)の朱印状に

『為本領之替地住吉之内参百俵被下置者也乃如件     跡部美作守奉

永禄十一年戊辰十一月二十三日御朱印

塩原三郎右衛門尉    坂井源右衛門   平林新左衛門尉  平林織部佐  大田大炊助 』 

永禄十一年頃は武田氏が駿河を攻略し、府中(松本)から水内へかけて領地を広げ永禄九年に牧之島城(信州新町)を

築城し、深志城代馬場房信が牧之島城代となり上杉氏への備えとして長沼城(長野市)を築城中であった。

そうなると深志城は戦術拠点としての意義を失い、兵站基地としての重要性の方が強くなってきていた。

府中の直轄地の兵糧米の増収・蓄積を計る為に、勘定奉行跡部美作守は内政の充実を試み、在地地頭を新任したのが

上記の朱印状に記載のあった五人であると見られている。


nakafutago3 (10)
北側から見た居館跡

更科の豪族であった平林藤右衛門尉正家は、牧之島城完成後に城代となった馬場信房の副将として有力寄騎となる。

正家は永禄十二年六月十七日伊豆で北条氏康との戦いにおいて戦死をしてしまったが、戦死までの間に正家は府中の兵站

地の補強を目論む跡部美作守へ一族の織部佐・新左衛門尉を送りこんだものと考えられる。

この二人が朱印状にあった平林氏で二子周辺の開拓を進めるために中二子・上二子に居館を設けたのであろう。

一方で正家は深志復帰を狙っていた小笠原貞慶に一族の平林弥右衛門を付け一族の安泰を計っていた。

武田氏滅亡後、貞慶の側近となった平林弥右衛門は入府により、

『小笠原貞慶(黒印)

平林弥右衛門下人諸役之儀者、惣ニテ普請免許者也、乃

天正十一年三月十日     二子之郷くないもん 』

と弥右衛門のとりなしにより平林織部佐・新左衛門尉の一族朗党が小笠原貞慶の保護を受けた。

天正十八年(1590)石川氏が松本城(深志城)入部以後に郷士となり帰農したとされる。


nakafutago1 (7)

居館跡の遠望   (この記事掲載については趣旨をご理解いただき許可を受けております)

nakafutago1 (2)
敷地内にある重厚な門

敷地内には居館時代のものではもちろんないが、重厚な門や蔵があり母屋は建て坪300坪とされる大きさである。

この中二子館は、前記の平林新左衛門の館跡で(上二子館は平林織部佐のもの)館の規模は二五間(45m)×三十五間

(63m)で土塁がありその周囲には幅二間(3.6m)位の堀をめぐらせていたとされる。


nakafutago7.jpg
居館の配置図

nakafutago2 (2)

居館の西側には、高さ約70cm程度の土塁と堀跡の痕跡を残す田圃が取り巻いている。

nakafutago2 (4)
西側から推定堀跡の田圃と土塁(笹の部分)を見る。

西側は土塁と泥田堀を利用して防御を施していたものと考えられ、厳重な防御が窺える。


nakafutago3 (10)
北側から見る。

北側には高さ約4mの土塁が歴然と残り迫力がある。また、北側には土塁に開けた搦手口と考えられる虎口が開く。


nakafutago3 (7)

北側の土塁に沿ってかつての堀跡と考えられる窪みが見られる。

往古は土塁と組み合わせた場合、城郭に匹敵するような厳重な構えになっていたことであろう。


nakafutago3.jpg

居館内部側から土塁を見ると高さが感じられるであろう。幅は4~5mほどあり分厚い。

nakafutago3 (4)
北側土塁に開口する搦手口

門はもう少しで崩壊しそうであるが、1年前に訪れた時には笹はここまで繁茂しておらず外側からも見ることが出来た。

小川村の武将の子孫でおられる大日方氏も言っておられたが、これだけ大きな屋敷を維持するには他人には分からない

苦労がある。

たま~に見させていただく者が、もっときれいにした方がいいだの何だの絶対言ってはいけないのである。


nakafutago4.jpg
館の東側を見る

東側は水路が流れており、かつてはこの居館の堀として利用されていたようで館側には水路に沿って約2mの土塁が残され


ている。


nakafutago4 (3)
館内部側から土塁を見る。

この館の土塁には必ず笹が繁茂しており、意図的に植えられたようである。

用途としては土塁の土の流失防止と目隠しであろうか。。。。矢竹ではないようなので。


nakafutago5 (9)
館の敷地内部を見る。

戦国時代の時などはここはどのように使用さていたのであろうか。。。。興味が尽きない。


nakafutago5 (8)
館内部に掘られた井戸を見る。

nakafutago5 (11)
館内部から北側の土塁を見る。

この館は北側に防御の重点を置いていたようで、北側の土塁が他の土塁と桁違いに高く、幅が広いのである。

そう考えると往古は北側に大手があったとも推定できるのではないだろうか。


nakafutago5.jpg

土蔵にあった家紋?であるがネットで調べても名前が分からなかったが『荒波』に似ているようだが。。。。。。

知っている方教えてください。


中世の居館後跡はいかがだったでしょうか。


この館も代々子孫の方が守ってこられており現在まで伝えてこられたことの大変さを感じました。

また、急に訪問したあやしい(?)者を信頼下さり隅々まで調べさせていただいた上に、ネットの掲載をお願いした際に

『この館の事が記事となり残るなら。。。』と快く引き受けていただきました。


また、この館を見つけ出すまでに色々な方にご協力いただきました。

この場を借りて心よりお礼申し上げます。

この平林家に関する古文書は松本市が保管しているようですので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか



~  最後に ~

この館跡は私有地です。

今回は許可を得て入らせていただきましたが、決して無断での侵入・調査はしないようにしましょう犯罪です!


*この館は私有地ですので、周辺地図・所在地は記載しませんのであしからず。



参考文献

笹賀地区誌       (笹賀地区誌編纂委員会)
  1. 2014/02/07(金) 23:49:39|
  2. 松本市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5

伊那市  義信の城②

伝承も無き山奥の堅城

立地としては、大田山のやっとこ平(鳩吹城のある山)の西の山から南側に下がった尾根上にこの城は築かれている。

義信の城は急な細尾根上にある城で、唐沢と湯の沢に挟まれた急崖に囲まれていて、容易に人を寄せ付けない場所である。


yosinobunosiro23 (18)


~ 郭③ ~

094.jpg

湯の沢の崖をよじ登って辿り着いたのは、この郭③であった。

以前から気になっていた場所で、上段の尾根は1m程の細さで通路として利用していたものと考えられ、湯の沢側の斜面

を郭として造成したようである。

その特徴として、

①郭の縁部(湯の沢側)には土塁が築かれている。

②尾根の切岸と縁部の土塁の間が郭というより、横掘の様相を呈している。   である。


243.jpg
郭③を見る。

郭内部一面には笹が繁茂しており詳細は足の感覚でしか捉えられないが、切岸と土塁に挟まれた部分は宮坂氏は堀として

は書かれていなかったが、この堀状の部分は南側へ行くと湯の沢へ下り堀①に付属する竪掘に沿うようになっていたこと

から横掘であったと考えられる。


197_20140203193423a81.jpg
郭④全景

この郭③が横掘であったとなると、この城全体に言えることだが城の防御度に比べて居住空間・兵の収容空間となる平坦

地が極端に無いのである。


この城に関する伝承は伝えられておらず、遺構・立地等をもって推測するしかないのであるが、立地的には小黒川渓谷の

最奥に築かれており、伊那と木曽を繋ぐ街道を意識したものと考えたいのだが、街道から相当奥まった尾根であり更に、

尾根上の道の見張りも考えられなくはないが、山頂は130m程上にあり逆に見下ろされる状態であり上には鳩吹城もある為

この城の存在意義がだいぶ薄れてしまうのである。


yosinobunosiro11.jpg

搦め手の細尾根には、唐沢側に二重の竪掘を、湯の沢側にはY字状の竪掘が掘られていて尾根を細めると共に両側の険し

い沢にも更に備えている厳重さである。


yosinobunosiro11 (6)
湯の沢側に落とされている竪掘

この義信の城の『義信』とは、高遠氏=木曽氏(高遠氏には木曽氏説と諏訪氏説・笠原氏説がある)との説を前提として

高遠氏二代太郎義信からきているのではないかと考えられている。

木曽氏の築城と考えるのは、東側山上にある鳩吹城は天文年間には倉田氏が支配していたが、峠を越えて来た木曽勢と

余地原で戦って敗れ北殿の倉田城へ移り藤沢氏に属したと伝えられているので、その後は木曽氏がこの地域を支配してい

たことが考えられるのである。ただ、物見だけであれば倉田氏がいた鳩吹城の方が見晴らしがよくこちらを改修すれば

済んだはずであり、これほど厳重な城を奥まった尾根に築く理由が見つからないのである。


yosimnobunosiro9 (2)

郭③の上部(堀①と搦め手二重堀切との間)にある細尾根であるが、ここは郭としての削平はされておらず自然のまま

放置されているので通路として使われ、防御施設とは狭すぎて使えなかったのであろう。


yosimnobunosiro9 (3)
細尾根から見た本郭の絶壁

~ 堀① ~

yosinobunosiro7 (2)
堀①を見る。

本郭を搦め手から守る最大の防御施設として構築された堀①はとにかく登るのも恐ろしいほどの角度(60~70°位はある

か)と堀底から16mという高さと堀幅は19mある今も鉄壁の防御を残している。


yosinobunosiro7 (6)
堀①

堀切は唐沢側は途中に岩場となる為に竪掘としての落としは短いが、湯の沢側は長く落としている。


yosinobunosiro7.jpg
湯の沢側に落とされている竪掘


yosinobunosiro99(3).jpg

堀①の竪掘に付属する竪堀

また、湯の沢側に落とされている堀①の竪掘に付属するように竪掘が二本落とされている。


~ 郭①~② ~

yosinobunosiro4 (12)
郭①を見る

図面では郭①~②の場所には、段差を書いているが緩やかなもので段差というようなものではないのでどこが郭①でどこ

が郭②という明確な区分けが出来ないのである。(笹の繁茂で詳細が見えない可能性もあるが)

分かりやすく言えば、自然地形。。。。。に近いかな。


yosinobunosiro4 (4)

そうなると、先端部にあるこの削平地のみが居住区ということになる。

これから紹介する先端部の放射状竪掘など戦国末期の先駆的な防御施設を取り入れているにもかかわらず、兵が籠る建屋

を設けられる場所がここしかないというのは(籠れても20~30人位か)どういうことであろうか。

険しい自然地形+先駆的な防御施設=人は少なくても大丈夫!。。。。。てきな考えだろうか。


yosinobunosiro4 (8)

郭にあった謎の土盛り。。。。土塁の残欠であろうか?

yosinobunosiro3.jpg
本郭下の帯郭

郭①~②の約5m下には南側から西側にかけて幅約5~6m幅の帯郭が巻いている。

また、郭①~②の切岸は南側は緩く西側へ行くに従って厳しくなっている。


yosinobunosiro3 (4)

そして今回、足かけ2年もかけて執念で訪城した最大の目的である、他の伊那の城で

は見られない唯一の放射状竪掘は本当に存在したのである。


yosinobunosiro2 (5)

堀の規模はまちまちであるが概ね1~2mの幅や深さで築かれている。

yosinobunosiro2 (9)

規模の大きいものは山の中腹辺りまで落とされているものもあり、これらは大手道や荷揚げ道として使用されており、

その道を守る為に竪掘を掘った結果、放射状の竪掘が出来たと見ることが出来る。


yosinobunosiro4 (6)

最後の写真は。。。。。。現在の城主様であるカモシカ親子の和やかなシーン


なが~くなってしまいましたがこの城の素晴らしさが伝わったでしょうか。

伊那では中々見ることが出来ない防御施設などど~しても見てみたかったので執念で訪城してきましたが、皆様は真似を

しないでちゃんと正面から登りましょうね。

この城には伝承が無いのでどちらの勢力のものとは言えないが、城の防御は湯の沢側(木曽側)を向いているように感じ

たが宮坂氏は木曽氏説を書かれている。時代により支配勢力が動きそのつど改修され戦国末期まで使われてきた。。。。

とすれば。。。。。。。どうであろう謎だ。



~ 参考文献 ~

山城探訪上伊那資料編       (宮坂 武男)

伊那市誌             (伊那市編纂委員会)



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
  1. 2014/02/02(日) 19:00:46|
  2. 伊那市
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

プロフィール

ていぴす

Author:ていぴす
見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (0)
初めまして (1)
信濃の武将 (11)
松本市 (47)
安曇野市 (33)
塩尻市 (15)
筑北村 (5)
生坂村 (36)
池田町 (18)
箕輪町 (13)
伊那市 (7)
辰野町 (2)
下諏訪町 (9)
諏訪市 (1)
中川村 (3)
駒ケ根市 (6)
ニュース (4)
廃村 (1)
伝説 (2)
本日の訪城 (14)
飯島町 (1)
武将の墓地 (4)
松川村 (3)
千曲市 (1)
南箕輪村 (1)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。