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長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

松本市  中二子館

                    居館跡探しは大変です。

松本市笹賀には多くの居館跡・物見台が存在することはご存じであろうか。

「今村館」・「小俣氏館」・「神戸館」・「筑前屋敷」・「上二子館」・「中二子館」・「下二子館」・「陣台観」

と、この狭い地域に8ヶ所もの城館跡が存在するのである。

もちろん現在も子孫の方が住んでいたり、住宅地になっていたりリンゴ畑になっていたり。。。。。。

つまりは私有地なのである。

これをくまなく調査するのはかなりの困難が発生する。

所有者の理解と許可・場所を確定する為に情報をもつ方を探し出す時間。。。。。。。。。。

つまりは出会いとタイミングなのである。

たまたま散歩をしていた方が関係者であったり、近所の方で所有者を紹介していただいたり。

この笹賀の8ヶ所の場所の特定・調査に自分は2年間を費やしたのである。


       今回紹介するのは、図面を書くことまで許可していただいた中二子館跡です

笹賀の居館跡については宮坂氏もすべてを調査していない。

どうして知ったかといえば「笹賀地区誌」という区誌に唯一の記載があったことから興味を持ち調査を開始したが、

この区誌には大雑把な地図しか掲載されていない為に場所の特定から始めるという難題が立ちはだかった。


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平林一族が祀る祝殿

笹賀地区誌にはこの居館について、永禄十一年(1586)の朱印状に

『為本領之替地住吉之内参百俵被下置者也乃如件     跡部美作守奉

永禄十一年戊辰十一月二十三日御朱印

塩原三郎右衛門尉    坂井源右衛門   平林新左衛門尉  平林織部佐  大田大炊助 』 

永禄十一年頃は武田氏が駿河を攻略し、府中(松本)から水内へかけて領地を広げ永禄九年に牧之島城(信州新町)を

築城し、深志城代馬場房信が牧之島城代となり上杉氏への備えとして長沼城(長野市)を築城中であった。

そうなると深志城は戦術拠点としての意義を失い、兵站基地としての重要性の方が強くなってきていた。

府中の直轄地の兵糧米の増収・蓄積を計る為に、勘定奉行跡部美作守は内政の充実を試み、在地地頭を新任したのが

上記の朱印状に記載のあった五人であると見られている。


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北側から見た居館跡

更科の豪族であった平林藤右衛門尉正家は、牧之島城完成後に城代となった馬場信房の副将として有力寄騎となる。

正家は永禄十二年六月十七日伊豆で北条氏康との戦いにおいて戦死をしてしまったが、戦死までの間に正家は府中の兵站

地の補強を目論む跡部美作守へ一族の織部佐・新左衛門尉を送りこんだものと考えられる。

この二人が朱印状にあった平林氏で二子周辺の開拓を進めるために中二子・上二子に居館を設けたのであろう。

一方で正家は深志復帰を狙っていた小笠原貞慶に一族の平林弥右衛門を付け一族の安泰を計っていた。

武田氏滅亡後、貞慶の側近となった平林弥右衛門は入府により、

『小笠原貞慶(黒印)

平林弥右衛門下人諸役之儀者、惣ニテ普請免許者也、乃

天正十一年三月十日     二子之郷くないもん 』

と弥右衛門のとりなしにより平林織部佐・新左衛門尉の一族朗党が小笠原貞慶の保護を受けた。

天正十八年(1590)石川氏が松本城(深志城)入部以後に郷士となり帰農したとされる。


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居館跡の遠望   (この記事掲載については趣旨をご理解いただき許可を受けております)

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敷地内にある重厚な門

敷地内には居館時代のものではもちろんないが、重厚な門や蔵があり母屋は建て坪300坪とされる大きさである。

この中二子館は、前記の平林新左衛門の館跡で(上二子館は平林織部佐のもの)館の規模は二五間(45m)×三十五間

(63m)で土塁がありその周囲には幅二間(3.6m)位の堀をめぐらせていたとされる。


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居館の配置図

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居館の西側には、高さ約70cm程度の土塁と堀跡の痕跡を残す田圃が取り巻いている。

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西側から推定堀跡の田圃と土塁(笹の部分)を見る。

西側は土塁と泥田堀を利用して防御を施していたものと考えられ、厳重な防御が窺える。


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北側から見る。

北側には高さ約4mの土塁が歴然と残り迫力がある。また、北側には土塁に開けた搦手口と考えられる虎口が開く。


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北側の土塁に沿ってかつての堀跡と考えられる窪みが見られる。

往古は土塁と組み合わせた場合、城郭に匹敵するような厳重な構えになっていたことであろう。


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居館内部側から土塁を見ると高さが感じられるであろう。幅は4~5mほどあり分厚い。

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北側土塁に開口する搦手口

門はもう少しで崩壊しそうであるが、1年前に訪れた時には笹はここまで繁茂しておらず外側からも見ることが出来た。

小川村の武将の子孫でおられる大日方氏も言っておられたが、これだけ大きな屋敷を維持するには他人には分からない

苦労がある。

たま~に見させていただく者が、もっときれいにした方がいいだの何だの絶対言ってはいけないのである。


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館の東側を見る

東側は水路が流れており、かつてはこの居館の堀として利用されていたようで館側には水路に沿って約2mの土塁が残され


ている。


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館内部側から土塁を見る。

この館の土塁には必ず笹が繁茂しており、意図的に植えられたようである。

用途としては土塁の土の流失防止と目隠しであろうか。。。。矢竹ではないようなので。


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館の敷地内部を見る。

戦国時代の時などはここはどのように使用さていたのであろうか。。。。興味が尽きない。


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館内部に掘られた井戸を見る。

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館内部から北側の土塁を見る。

この館は北側に防御の重点を置いていたようで、北側の土塁が他の土塁と桁違いに高く、幅が広いのである。

そう考えると往古は北側に大手があったとも推定できるのではないだろうか。


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土蔵にあった家紋?であるがネットで調べても名前が分からなかったが『荒波』に似ているようだが。。。。。。

知っている方教えてください。


中世の居館後跡はいかがだったでしょうか。


この館も代々子孫の方が守ってこられており現在まで伝えてこられたことの大変さを感じました。

また、急に訪問したあやしい(?)者を信頼下さり隅々まで調べさせていただいた上に、ネットの掲載をお願いした際に

『この館の事が記事となり残るなら。。。』と快く引き受けていただきました。


また、この館を見つけ出すまでに色々な方にご協力いただきました。

この場を借りて心よりお礼申し上げます。

この平林家に関する古文書は松本市が保管しているようですので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか



~  最後に ~

この館跡は私有地です。

今回は許可を得て入らせていただきましたが、決して無断での侵入・調査はしないようにしましょう犯罪です!


*この館は私有地ですので、周辺地図・所在地は記載しませんのであしからず。



参考文献

笹賀地区誌       (笹賀地区誌編纂委員会)
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  1. 2014/02/07(金) 23:49:39|
  2. 松本市
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