長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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伊那市  一夜の城①

長野県に伝わる織田氏唯一の陣城

所在地・・・伊那市富県                              訪城時間・・・・0分

危険度・・・★☆☆☆☆                             読み方・・・・いちやのじょう

訪城日・・・2009年4月22日・2010年7月30日・10月2日・2012年3月10日



一夜の城といえばご存じの方も多いと思いますが、近年、保存か道路の拡張かで論争になった城跡ですが、この頃は

まったく話を聞かなくなりましたが。。。。。どうなったんでしょうかね~(?_?)

城好きの私としては保存が望ましいのですが、その地に住む方々にはそんなものより生活が第一というのも否定が出来な

い事実でもあり中々悩ましい問題ですが。。。。今回はそんな邪魔者扱いされてしまった一夜の城を2回に分けて特集し

ちゃいましょう。


第1回目は・・・・・残された遺構を見る一夜の城

第2回目は・・・・・発掘された一夜の城    をお送りしていきます。


ichiyanozyou7.jpg
この図面に沿って紹介していきます。

初めに、『一夜の城』と呼ばれるようになった伝説とは。。。。

天正10年(1582)、一族や家臣の裏切りにより弱体化したと判断した織田信長は、今が好機到来とばかり武田氏征伐を

開始し信長の長男である織田信忠が総勢5万という大軍が伊那を北上してきた。

飯田城や大島城を落としてきた信忠は、武田勝頼の弟である仁科盛信が籠る高遠城を攻略する為に一夜にして陣を張った

ことから『一夜の城』と呼ばれる事となった。


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土塁上に建てられた標柱

文献上にはどのように書かれているのかいえば。。。

『信長公記』には、「信忠は、3月1日飯島から軍勢を動かし、天竜川を越えて貝沼原へに軍を展開させた。

自ら、お供を十人ほど伴い仁科五郎盛信が立て籠もる高遠城から川を隔てた山に登って、敵城の様子を見聞した。

そしてその日は、貝沼原に陣取った。」とあり、一夜の城ではなく「貝沼原の陣」と呼ばれていたことが分かる


ichiyanozyoi1 (9)
虎口を見る。

一夜の城は、四方を土塁が構築されていて、東側土塁の中央部には唯一の開口部が見られる。

現在は郭内部の出口に使用されているが、唯一の開口部であることからここが虎口であろうとみられている。


ichiyanozyoi1 (8)
東側土塁と虎口を見る。

今回の論争の争点となった部分で、土塁外側にある道路を広げるか否か。。。。。。難しい問題ですね。


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北東隅部に唯一良く残されている土塁で、他の土塁に比べ幅・高さが高いことから櫓台ではないかと考えられる。

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北東隅部の土塁と削平されて低くなってしまった北側土塁を見る。

北側の土塁は耕作により削られてしまい、高さが50cm程度となってしまっていて土塁のようには見えない。

また、北側下には細長く畑が作られており堀を彷彿とさせる。


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南東隅から郭内部を見る。

明治34年に刊行された「南信伊那資料」には、「一夜の城と称するは、天正10年織田信忠、高遠城攻撃の際、一夜に堡塁

を築きて陣せしと云う」と呼び名が出てくる。


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西側から土塁を見る。

この陣城の一番の注目は、この城に堀が存在したのかどうなのか。。。。ということである。

高遠城は1日にして落城した為に、この陣城も土塁を盛っただけの簡単なものしか構築しなかった。

と考えられてきた。また、地籍図・小字名等の調査においても土塁の痕跡は書かれているものの、堀の存在を示すものは

なかった。もう一つの考えとして、信忠は在地土豪の屋敷地を接収し陣城としたというものであった。

この地域には堀を持たない小在地土豪の屋敷が散見されることから考えられたものである。

今回行われた発掘調査の焦点は「堀は存在するのか」である。


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良く残る南側土塁

南側土塁は、東側の土塁の次に良く残っている土塁で高さは約1.5~2mあるが、郭内部側は耕作により削られてしまっている。

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陣城の北側にある五輪塔

この一夜の城の北側には、五輪塔や古い仏石・卵塔がみられ、これが在地土豪の屋敷地を改修して使用されたとする説の

根拠の一つとなっている。


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東側土塁と改修の争点となっている道路

この城は在地土豪の屋敷地であったのか新たに構築されたものなのか。。。。。この土塁はどうなってしまうのか。

次回は。。。。。。一夜の城、発掘で分かった事  をお送りしていきますのでお楽しみに。



~ 参考文献 ~

山城探訪 上伊那資料集        (宮坂 武男)

一夜の城発掘調査現地説明会資料    (伊那市教育委員会  平成24年3月)
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  1. 2014/03/30(日) 03:38:18|
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伊那市  殿島城

上伊那最大級の城郭

所在地・・・・伊那市東春近中殿島                         訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                               訪城目印・・・・殿島城址公園

訪城日・・・・2009年2月22日・2010年3月21日


*外郭部分は、住宅地の為に散策にはモラルをもった行動を・・・

城跡の歴史については、殿島氏の墓所の項をご覧ください。


tonosima44.jpg
この図面を参考にご覧ください。(赤線は開発により消滅した二の郭堀・外郭堀を表す)

tonosima6.jpg
殿島城跡入り口に造られた、微妙な城門

殿島城は大部分が東春近中殿島にあり、東側の一部が暁野区(外郭)に属している。

西側は天竜川左岸段丘突端部にあたり、北側は宮狭間の洞(現県道沢渡・高遠線)、南側は火沢の洞に挟まれた範囲で、

約5㌶の面積を有し伊那市内でも最大級の平山城である。


tonosima6 (2)
殿島城址公園入り口

現状は本郭東北隅に虎口が開き、城門が造られ土橋が接続している。江戸時代後期に編纂された「箕輪記」にも現状の

場所に虎口が絵図かされており、大手であったものと考えられる。


tonosima4 (3)
本郭東側土塁を見る。

本郭東側には大手が開く関係によるものか、高さが約4mあり城内で一番高く構築されており外側には3重の堀が取り巻

いていて厳重な防備である。


tonosima4 (4)
東側土塁上より本郭内部を見る。

本郭内部は方形居館を思わせる形状をしており、四周を土塁が取り巻いて北東・南側に虎口が開く。

平成7年の都市計画公園歩道整備事業に先立つ本郭内部の発掘調査の成果によると。

4軒の竪穴住居址・2基の竪穴・1基の集石遺構が出土しておりこれらの遺構内から、室町後期の陶器片が見つかっている。


tonosima4 (5)
南側の土塁に開く虎口を見る。

本郭から見つかった遺構・遺物で最も注目されるのは竪穴の覆土(地下1m)から廃城時に投げ込んだと思われる礎石が

発見されており表面に墨で柱を建てる位置・方向が明瞭に分かるように印が付けてあり、かつて本郭内部に礎石を使用し

た本殿のようなものが存在していたことが想像できるのである。


tonosima1.jpg
北東隅の横掘のカーブ部分を見る。

tonosima1 (3)
北側横掘の外側・中間部分を見る。

北側の三重の横掘は河岸段丘斜面に向かって合流し一本の巨大な竪掘として落とされている。

tonosima2 (7)
東側の三重横掘を見る。

tonosima2 (4)

東側の三重の内、外側・中間の横掘は南側隅部分からニの郭・外郭へ向かってかつては伸びていたが、現在は殿島団地造

成により消滅し現在は民家が建っている。

一番内側の堀は本郭を取り巻くように、南側へ折れている。


tonosima3.jpg
東側から南側へ繋がっている横掘を見る。外側には土塁が付属しており段丘斜面に構築されている竪掘を見る限りでは、

外側にはもう一本の堀が構築されていたことが窺える。


tonosima3 (2)
南側横掘から段丘斜面へ落とされている竪掘を見る。

tonosima3 (6)
段丘斜面に見られる二本の竪掘を見る。

上の写真の竪掘を辿っていくともう一本の竪掘が見られる。これは南側の横掘の外側にあったと考えられる消滅した堀の

一部であったようである。


tonosima09.jpg
西側土塁と斜面に構築された帯郭を見る。

本郭の西側は段丘斜面に面しており、こちらからの攻撃にはあまり意識していなかったようで土塁は他が4mくらいの高さ

があるが西側は約1mほどと低い、ただ放置は出来なかったようで斜面に帯郭を二段構築している。


tonosima09 (3)
公園化により帯郭は良く整備されている

tonosima6 (5)
殿島城遠望

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殿島城の北の出城であるお寺の山を見る。

殿島城の北側、宮狭間の洞を挟んだ段丘上にはお寺の山という砦が存在する。

お寺の山は現在、野球場になってしまっているが北側の段丘斜面には三本の大きな竪掘が残されていることから、かなり

大きな砦であったことが想像出来る。(そのうち記事にします。)


tonosima6 (4)
本郭に建てられている立派な城址碑

~参考文献~

山城探訪 上伊那資料編    (宮坂 武男)

殿島城発掘調査報告書     (伊那市教育委員会) 
  1. 2014/03/26(水) 14:57:27|
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伊那市   伝殿島大和守宝筐印塔

殿島氏の本拠である殿島城を紹介するまえに。。。。

                 ~ 殿島氏の発祥と歴史 ~

伊那の小豪族は、多くが武田氏や織田氏などに滅ぼされた事により詳細が分からない事が多い。

殿島氏もその一つであり、詳細は良く分からないが『信濃史源考』によると、

天文3年粟田口民部重吉16代の孫、伊那部大和守重度が西伊那に住しその後、伊那部但馬守重成という者がありその長男

を新左衛門重親・二男を大和守重度と云い二男大和守が殿島の地に住み殿島氏の祖となったと伝える。

天文10年(1541)甲州韮崎合戦(武田晴信による父信虎追放劇に乗じて諏訪氏や小笠原氏が、甲州に攻め込み韮崎で戦い

となった合戦)と天文14年(1545年)福与城後詰の合戦(諏訪氏を滅ぼした武田氏と高遠氏が対立し、高遠氏に協力した

藤沢氏の居城福与城を武田氏が攻め、それを助けるために上伊那の諸氏が後詰をした戦い)においても殿島氏は、

松尾小笠原信定に従軍し戦っている。


tonosimayamato (2)
旧長谷村にある八人塚

その後、高遠氏の高遠城は落城し更に福与城も落城したことにより、上伊那の諸氏は武田氏の軍門に降る事となったが、

弘治2年(1556)、武田信玄と上杉謙信が川中島で対陣中に上伊那の諸氏は武田氏についている事を良しとせず、武田氏

の一族となっていた木曽氏を攻撃した。

この攻撃はうまくいかなかったが、これを聞いた信玄は激怒し急きょ伊那へ戻り木曽氏を攻めた八人の豪族を捕らえた。


tonosimayamato.jpg
殿島大和守重国の名が刻まれる八人塚の碑

捕らえられた八人は、伊那市にある狐島において処刑され晒首にされてしまった。

この八人の中に殿島大和守重国の名がある。

黒河内(旧長谷村)の住人はこの八人を哀れに思い、暗夜に乗じてひそかに狐島に赴き八人の首を持ち帰り黒河内の艮城

の東へ丁重に葬ったとされる。

その後、八人の領地は弟や叔父などに半分か三分の一を与え家名を継がせたようだがその後の詳しい事は伝わっていない。


現在の殿島城跡の北側、現護国寺所有地に伝殿島大和守の墓と伝えられる宝筐印塔が存在する。

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山林にたたずむ伝殿島氏の墓

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伝殿島大和守宝筐印塔

伊那市教育委員会発行の殿島城跡の発掘調査報告書には、この宝筐印塔の事にも触れており、報告書によると

隅飾突起の角度からみて、室町前期に位置づけられ時期的にみて殿島大和守の墓とはならない。

殿島城の北側、護国寺所有の山林に建立されているがその状態から見て、他の地から移転されてきたのであろう。


tonosimayamato (4)
角度を変えて見てみる。

いづれにしろこのような塔は、武士階級の人でなければ建立できないので、かたく考えてみて殿島氏に関連した武士の塔

に間違いないと思われる。と推測している。


tonosimayamato (5)
さらに別角度から見る。

小豪族の意地をもって武田氏と戦った殿島氏、早く降って生き延びたもの意地を張って滅びたもの。。。。。。

伊那には色々な豪族が沢山いますがこのような小豪族といえど一族の繁栄を願って必死に戦っていたことを伝えるために

忘れさられた武将の墓地ともども歴史を伝えて行きたいと思います。

次回は。。。。やっと殿島氏の本城である殿島城をお送りしますのでお付き合いくださいね。



~参考文献~

信濃史源考 5巻                  (小山 愛司   昭和51年)

殿島城跡・宮場間様十三塚遺跡発掘調査報告書     (伊那市教育委員会  1987年)
  1. 2014/03/11(火) 03:49:10|
  2. 武将の墓地
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伊那市  犬房丸墓所

犬房丸伝説の主役の墓所

犬房丸伝説とは。。。。。

犬房丸の父、工藤祐経が同族の工藤祐泰を打つという事件が発生した。

討たれた工藤祐泰には幼い子供が二人いたが、母に連れられ曽我裕信に再嫁し養われることとなった。

弟の箱王丸は5才で箱根権現の別当に預けられたが、出家を嫌い武技を鍛錬していた。これを北条時政が聞きあわれに

思い引き取って、烏帽子児として自分の名一字を与えて、五郎時致と名乗らせた。



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犬房丸(工藤祐時)が再建した常輪寺(ここに墓所があります)

建久4年、源 頼朝が諸将を率いて藤の裾野に巻狩を催した。

この時曽我五郎時致は兄の十郎祐成と共に猟場に忍び込み、夜になると工藤祐経の仮屋に侵入し祐経を討って父の仇討を

果たした。更に源頼朝は祖父の祐親の仇であったので兄弟共に本陣に切り込んだが、兄十郎は仁田四郎に討たれ、時致は

五郎丸という力自慢に捕らえられてしまった。

時致が頼朝の前に引き立てられ尋問されている時、工藤祐経の子犬房丸がたまりかねて時致の面を鉄扇にて打ちすえて

しまった。


inuboumaru (2)
伝犬房丸の墓の全景

これを見た頼朝は、捕らえられ縛についた者を打つとは、誠の武士道に反するものだとて大いに怒り犬房丸は、少数の

重臣を伴い伊那の狐島へ配流された。

その後、小出に居城を築いた。また、未だ犬房丸は幼少であったために幕府から養育のため狐島・大島・殿島・青島・

牧島・福島・小出島の七島を賜った。


inuboumaru (3)
伝犬房丸の墓

犬房丸(工藤祐時)が亡くなった際に犬房丸が再建した常輪寺に葬られたとされ、小出区には犬房丸が使用したとされる

膳・椀などが保管されているという。


inuboumaru (6)
犬房丸が築いたとされる小出城を常輪寺から遠望


~参考文献~

カンバ垣外遺跡発掘調査報告書       (伊那市教育員会  1979年)
  1. 2014/03/02(日) 22:35:48|
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
写真にはこだわっていきます!

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