長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市  降幡備前守政重墓所

名も無き地方豪族の墓

所在地・・・・安曇野市明科東川手名九鬼

降幡氏については、明確な資料が無いのでこの降幡氏にルーツをもつ「天龍名倉堂整骨院」の院長さんのホームページを

参考に紹介させていただきます。

~ 降幡氏の起源 ~

平安時代の末期、一ノ谷の戦いで源義経に敗れた平清盛の五男、平重衡(しげひら)は鎌倉に連行され処刑されたが

それを知った重衡の息子の重度(しげのり)は、信濃に勢力をもっていた仁科氏を頼って落ち延び現在の安曇野市明科 

東川手名九鬼に隠れ住んで名を降旗氏に改めた。


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現在の名九鬼集落(現在は3戸のみの居住)

鎌倉時代末期になると鎌倉幕府は滅亡し、南北朝の動乱へ突入すると名九鬼に隠棲していた降旗政忠(まさただ)は

平家再興の志を持ち都へ登り、京都で20年学んだ政忠は都では平兵衛佐政忠を名乗って活動し後醍醐天皇の第8子

「宗良親王」の筆頭従者となった。


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参拝者も途絶え荒れ果てた名九鬼の村社「藤城社」を見る。(城がつく所が気になるが・・・・)


宗良親王は中部地方統治のため柴宮(岡谷市長地柴宮)へ下り、その後、南下して大鹿村の香坂高宗を頼って大河原城

へ入り以来30年間この地を拠点として活動した。

宗良親王の従者であった降旗政忠も共に大河原の地にいたものと思われる。

しかし、宗良親王の崩御などで南朝の終焉を迎えると、平家再興の志を叶えられなかった政忠は柴宮(岡谷市)の地へ

戻り宗良親王から宛がわれていた地を元に岡谷降旗氏の祖となった。


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村社「藤城社」の境内にあった祠と仁王像(神社の幟立て台などをみるとかつての繁栄を感じるが今は・・・・・・)

戦国時代になると信濃は武田氏により浸食され、当時仁科氏に属していた降旗重正(しげまさ)も武田氏と戦うか、

配下となるか判断を迫られることとなった。

しかし地方の小土豪でしかなかった重正は、降旗から降幡へ改名し息子の政重(まさしげ)を人質として武田方へ

差し出し軍門に下り配下となった。


furihatabizenn (2)
名九鬼の降幡一族の墓所

武田氏に人質として出された政重は元服の後、川中島の戦いなどで度々武功を挙げ「備前守」に任じられた。

その後のことはよく分かっていないようである。


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降幡備前守政重の墓中央)

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墓の内部には「降幡備前守平正重」と刻まれており「蓮■院殿貴山道世大居士」の戒名も刻まれている。

「信府統記」の日岐大城の項に、

「(前略)日岐ノ城没落シテ丸山丹波ハ更科郡八幡ニ落行テ居リシカ後寺閒ト云所ニ立歸リテ卒セリ又日岐ノ城ヲハ

甲州ヨリ降幡備前ニ賜リシトナリ此時分青柳ハ武田へ属シ仁熊小岩嶽ハ信玄ノ爲ニ攻落サル」とあり、

また、他の項では、

「(前略)、降幡備前ト云フ者ニ賜フ此者ノ落着分明ナラス」ともあり武田氏支配下では正重は、日岐大城の城番を任され

ていたようであるが、武田氏が滅亡し小笠原氏が支配するようになると信府統記にもあるように「落着分明ナラス」

つまり記録に残らない=帰農したのではないだろうか。

現在の名九鬼に残される膨大な降幡氏一族の墓石を見ればこの地での繁栄が感じられる。


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降幡備前守の墓石と後方に名九鬼の集落を望む


~  おまけ ~

今回紹介した名九鬼の集落と潮沢を挟んだ位置に池桜集落という場所があるが、ここに珍しい道祖神が祀られている。

その名も接吻道祖神と呼ばれているれっきとした安曇野市の有形文化財なのであるが。。。。。。。

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結構有名らしいが、所々看板はあるものの心細い道を車で走り、更に熊出没注意の看板が掲げられている道を10分ほど

歩くと到着する。。。。。。。これがまた不気味だ。


furihatabizenn (13)

明科町時代は整備がされていたようであるが、安曇野市となった現在では錆びてしまった看板や荒れた道などを見ても

大切にはされていないようだったな~。

合併すると文化財にお金を掛けなくなる市町村って多いけど。。。。。。。なんででしょ。


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まあそんなこと関係なく道祖神は山の中でチュッチュちちくり合っていました。

嫁に飽きてしまった方達も一緒に行って拝んでみたら。。。。。。。。意外に燃えちゃうかも!



墓石も道祖神も立派な文化財です。

是非、行ってみられてはいかがでしょうか。新しい発見があるかもしれませんよ!



~ 参考文献 ~

天龍名倉堂整骨院ホームページ

信府統記               (国書刊行会  平成8年)
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  1. 2014/05/28(水) 03:29:04|
  2. 武将の墓地
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筑北村  不寝見屋敷(大持)

村の権力者は烽火台の元締めか

所在地・・・・筑北村西条伊切                          訪城時間・・・・40分(伊切分校跡より)

危険度・・・・★★☆☆☆                  

訪城日・・・・2012年4月1日

*大持地籍は、現在も個人の持ち分で管理地となっています。許可なく立ち入ると不法侵入となります。


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不寝見屋敷と周辺の城砦              国土地理院2万5千分の1地図使用

立地からすると青柳氏の物見場で、高登屋物見やたかうちば物見と同様、西方の仁科領(日岐氏)を見張ったものと

思われる。

『本城村の文化財』の「不寝見屋敷」の項に、ここの地名(屋号)で「大持」というのがあり、これは広い土地と牛などたくさ

ん持っている事を指し、ここの見張り人は相当の武士であったことを裏付けている。とある。

伝承では高登屋の番兵が居たともいわれていて、西裏の高登屋集落は兵の休む場所であったといわれている。

しかし、「明科村誌」では、高登屋物見の番兵は南下のまたぎ沢と呼ばれる場所に居たのではないかとしている。


nezumi (2)
この図面に沿って紹介していきます。

daimochi (10)
郭②と奥に郭①を見る。

郭②は67×22mで砦内で最大の面積を持ち、ここが砦主の屋敷地であったものと思われる。

現在は写真の方(後ろ姿)が、隠れ家としてたまあに通ってきているとのことであったが、昭和30年代の地図を見ると

この地には2軒の家屋があった事が確認できる。

daimochi.jpg
郭①を見る。

郭①は郭②より約7m 程高くなっており、砦があった時は物見台の役割をしていたものと思われる。

daimochi (2)
倒れてしまった標柱

ここにも倒れてしまっていたが本城村時代の標柱がありました。  すばらしい!

daimochi (3)
物見台であったであろう高台の上を見る。

高台上は、祠が祀られており北側には削り残しの土塁のような高まりが見られる。

現在では松などが茂ってしまっているが、往時は本城である青柳城などが良く見通せたであろう。

daimochi (4)
物見台(郭①)より郭②を見下ろす。

daimochi (5)
郭①に付属する帯郭を見る。

daimochi (9)
郭①・②を遠望する。

郭①・②の南側は登路などがあり険しさは感じないが、郭の北側は傾斜が緩い事もあり切岸が設けられて防備を固めて

いることが窺える。

daimochi (7)

また防備を固めると共にこの緩い傾斜を利用して、畑を営んでいたようで耕作跡が見られる。

写真は耕作地跡と湧水溜まりを見下ろす。

daimochi (12)

この地には深さ約4mの掘りぬき井戸も存在しており、山奥ながら家畜を飼う事や耕作作業・生活には全く困る事が無かっ

たであろう地の利を得ている場所である。

この地を昭和30年代の屋号で見てみると「大持」「本家」「大持の下」がある。

これらの屋号・最も良い立地に住んでいることからこの地に住んでいた人たちがこの周辺の物見を統括する権力をもった

土豪であったことが想像出来る。

また地図では「花岡氏」が多く見られこの方達の屋号には「分財」「庄屋」「大上」「矢塚」などが見られ、この周辺の権力

者をうかがわせる屋号であり、この花岡氏がこの周辺の物見を統括する役目を持った土豪ではなかったかと想像する。

daimochi (17)

今回紹介した不寝見屋敷「大持」のすぐ上の尾根には、「大持の峠」という峠道が通っており「池桜」や「一石」などの

集落や物見の番をしていたと伝わる人たちがいたという地に繋がっていて、この峠を通して重要事項の伝達や命令が

各集落や物見砦に伝えられていたのであろう。

daimochi (18)
峠に残されている石仏

この峠道を使用して潮沢谷沿いの集落と現筑北村の集落を結んでいた重要路であったようで、現在廃村となった集落名

のついた「矢下峯道」や今は一軒のみになってしまった「池桜峯道」などが見られる。

daimochi (16)
誰も通らなくなってしまった峠を見守る石仏

不寝屋敷はいかがだったでしょうか?

ほとんど人が訪れることが無くなった山奥にも、このような峠や物見の砦が数多く残されていることを存在すら忘れられて

しまう前に伝えて行く事が大事なのではないでしょうか。

これからも潮沢沿いに日岐氏・青柳氏・会田氏により数多く構築された有名でもなく、遺構すらあいまいな。。。。。。

しかし、その時代には無くてはならなかったであろう忘れられた存在の砦達を紹介していきたいと思いますので

どうぞお付き合いください。


~ 参考文献 ~

山城探訪           (宮坂 武男)

伊切ふるさと会資料    (桐沢 寛江)

  1. 2014/05/18(日) 14:52:04|
  2. 筑北村
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筑北村  不寝見屋敷①(鼠屋敷)

青柳氏による境目の砦達

所在地・・・・筑北村西条伊切                      訪城時間・・・・30分(旧伊切分校より)

危険度・・・・★★☆☆☆(廃村となっているのでそれなりの注意が必要)       

屋 号・・・・鼠屋敷                            訪城日・・・・2012年4月1日


nezumi.jpg
不寝見屋敷と関連城砦群          国土地理院2万5千分の1地図使用


かつて現安曇野市の潮沢を境に、日岐氏・青柳氏・会田氏の勢力の境界となっていた。

また、この潮沢を囲む山々には数多くの古道が通過しており、この道の数だけ無名の砦が存在していた。

今回紹介するのは、青柳氏と日岐氏の勢力の境目に築かれた不寝見屋敷です。

nezumi_2014051422202541f.jpg
周辺の見取り図(城館に関わるような遺構は見られないが、戦国期は重要な場所であったのであろう)


この砦は、東側にある西条城の出城として築かれたと見られ、名前の通り寝ないで番をしていたところである。

ただし、この不寝見屋敷には2つあり屋号「鼠屋敷」と「大持」が存在し宮坂氏の山城探訪では「大持」が紹介されてい

るが「鼠屋敷」の方は紹介されていない。

周辺の屋号として「鼠屋敷」「鼠屋敷尾根」「池の下」の屋号と共に現在は西條に移転した寛昌寺の故地であり、集落の

中心をなしていたものと思われる。


syuutoyasiki (2)
旧伊切分校跡から砦跡へ続く山道

昭和30年代の家屋の所在を見ると35軒存在していたことが確認出来る。

現在の伊切は平地に数軒残っているが、山間部となると廃村と同じ状態で住んでいる方は見当たらない。

かつてはこの山道も山間の家々に続く重要な道で、道沿いには神社跡なども見られ、幟旗の残骸も見られたことから

かなり賑わっていたことも感じられたが。。。。。遠いい昔のことであろう。


syuutoyasiki (3)
山道から見た遥か遠くに見えるたかうちば物見

たかうちば物見は、日岐氏との境目の砦で尾根を辿れば日岐氏の猿ケ城や高松薬師城へ繋がっており重要な物見の砦であった。

syuutoyasiki (5)
鼠屋敷の平坦地を見る

山道を30分程登っていくと分岐があり上に行くと「大持」下へ行くと「鼠屋敷」へ通じており下へ下ると広大な平坦地

が見えてくる。

これが不寝見屋敷の一つである「鼠屋敷」で、平坦地には住居跡をうかがわせる造作の跡や水路が見られる。


syuutoyasiki (4)
平坦地に落ちていた臼片を見る。

この「鼠屋敷」には昭和30年頃には、3軒の住居があり最奥には寛昌寺が建立されていた。


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鼠屋敷の広大な平坦地

この山奥にこのような広大な平坦地があるのか。。。。と思わせるような広さである。

この広大な平坦地に3軒しか存在していなかったのが不思議であるが、昔は家屋の周囲に畑などを作っていたのでこの

位必要だったのであろう。。。。。。。絶対住みたくないが。。。。(怖)


syuutoyasiki (8)
不寝見屋敷の標柱を見る。

この忘れ去られた場所に標柱が建てられていること自体驚きであるが、それだけこの地の歴史を残したいという情熱も

感じられる。どこかの村の史跡さえ破壊してしまう所と大違いである。


syuutoyasiki (11)
倒壊中の家屋を見る。

不寝見屋敷は2つ存在するが、「大持」は高所に築かれこの「鼠屋敷」は沢沿いの見通しのきかない薄暗い場所に存在

する。では、何故この「鼠屋敷」も砦とするのか?


syuutoyasiki (10)
鼠屋敷最奥の家なのか寛昌寺跡なのか。。。。。分からなかったが写真だけ撮ってきました。

それは、昭和30年代の伊切の様子を見ると分かるが、この「鼠屋敷」の周りの尾根や沢沿いには「寛昌寺坂」

「小切山道」「ヤリコ坂」「池田道」など数多くの古道が存在していたことが窺える。

この「鼠屋敷」はこの脇道を見張る為の番所的な場所であったと考えられるのである。

周囲の『一石』『矢下』などの集落(廃村)は、かつて物見の番をしていた人たちの集落であったとの言い伝えがある

ことからこの『鼠屋敷』もそれらと同じで脇道の古道を見張るために配された人たちの集落であったのであろう。




見るべき城館遺構は無いが、この山間地の奥にも戦乱に巻き込まれた人々の痕跡が残されていた。めったに人が来る事のないであろうこの場所は、みんなに忘れられて自然に帰っていくのを待っているようであった。

次回は。。。。この鼠屋敷よりワンランク上の方の物見でござんす。

お楽しみに!



~参考文献~

山城探訪            (宮坂 武男)

伊切ふるさと会資料       (桐沢 寛江)
  1. 2014/05/08(木) 03:32:05|
  2. 筑北村
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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