長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  平瀬南城

搦め手尾根を切り刻んだ竪掘は何を意識したものか。。。。

所在地・・・・松本市島内下平瀬下田                      訪城時間・・・・・犀乗沢入り口より30分

危険度・・・・★★★★☆(登り口滑落注意!)

別 名・・・・上平瀬城(信濃戦国時代史に記載)


訪城日・・・・2008年12月20日・2010年1月10日

hirase0101.jpg
平瀬城砦群と周辺の沢名・旧道・陣地伝承地

平瀬南城はかつて犀乗沢の北側山頂にある平瀬本城(北城)の支城として構築され平瀬氏により整備・管理され、

犀川の水運や犀乗沢沿いを通過する山田道を監視する為に存在してきたとされていた。

しかし、近年は天文20年に武田氏に攻められた平瀬城が、下平瀬にある川合鶴宮八幡社の境内がそれではないかという

新説が出されてきた。これは神社境内がかつての平瀬郷の中心地で千国街道にも近く、平瀬氏の本拠であった為に城に

籠った者204人(200余人とも)もの人たちが必死で抵抗し討ち死にしたのであろうとするもので、また山城の平瀬城では

狭く200人以上もの大勢が籠れない。平瀬城落城後に信玄が安曇郡攻略のための拠点として使用しており、攻める為に

いちいち山を上り下りしなければならず不便である。この二つを満たすのも神社境内にあった居館を改修した平城の平瀬

城の方が都合が良いというものである。

hirase3 (20)
犀乗沢が北沢と南沢に分岐する部分(平瀬城への看板があり)の突当たりが、旧山田道でこの分岐部分が平瀬本城と平

瀬南城への道の分岐でもある。


以前からこの山城の平瀬城の根小屋や平瀬氏の居館は麓の下田にあったと考えられてきたが、新説ではこれを否定し

下平瀬の川合鶴宮八幡社が居館であるとしてきた。これにより居館と山城は距離が大きく離れてしまい山城は平瀬氏の

要害ではないという事になり社地の居館が大きく改修され平城となり平瀬城と呼ばれたとされる。

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南沢最初の砂防ダム手前の斜面を直登する。(道は無い。)

hirase3 (16)
沢に接している部分の斜面は崖状になっており、その後も急斜面で道が無いので、滑落に注意が必要です。

では山城は誰のものであったのか。。。。。笹本氏や三島氏によると山城の平瀬城は、根小屋式の山城ではなく山城単独

に構築されたもので、犀川の水運・街道の監視のみの役割をもったただの押さえの城で、武田氏滅亡後に上杉氏に備え

て小笠原貞慶が築いたものではないかとしている。


古文書に見られる平瀬南城はどのように伝えているのだろうか。

「信府統記」には、「(前略)、城主分明ナラス、【古平瀬和泉守信義ト云フ人アリ、此辺ヲ領セルニヤ、松隠寺ヲ開基シテ、

今ニ法名モ残レリ、是犬養ノ一類タリシ、平瀬氏ナラン、右ノ(*平瀬本城のこと)両城モ彼ノ要害ナルへシ、其前後幾代ト云フ

コト分明ニ知レス、(後略)。】

「長野県町村誌〈中南信編〉」には、【村の艮、平瀬山、犀乗沢の南方にあり。東西十五間、南北二十間、回字形をなす。

往古平瀬和泉守居住せし由、土俗言伝ふと雖も、城名及其興廃、原由を詳にせず。】

hirase2 (3)
この図面に沿って紹介していきます。

「東筑摩郡誌」には、【本城の平東西八間、南北十五間、南北に堀切四通あり。往古仁科の分家犬飼氏の居城なりと

いふ。天文年間犬飼大炊介政徳爰に居る。天文十八年(*二十年の間違い)の秋武田の武将馬場信房来り囲む。

政徳既に中塔城に遁れ、城代戦没して城陥れり。】

とあり犬甘氏や犬甘氏一族の平瀬氏に関係する城跡であると伝えているのである。


hirase3 (3)
郭③を見る。

郭③は笹藪で詳細は見づらくなっているが、傾斜があり削平もされていないが手を加えたような跡が僅かに感じられる

ことから郭としたが、この尾根先が大手と思われるのでなんだかの防御施設があったものと思われる。


ここまで調べた結果、有名な研究者の方々はこの城跡は小笠原氏の築城で固まって来ているようであるが、伝承は本当

に間違った事を伝えているのだろうか?

そもそも。。。。。本当にこの時代に自分たちの兵力を大きく上回る敵が攻めてきて、平城とされる平瀬城に立て籠もるの

だろうか??・小笠原氏の一族で府中深志城を任されていた坂西氏ですら武田氏に降服しているのに小笠原氏の一族で

もない平瀬氏が何故防御が脆弱である平城に全滅覚悟で籠城するのであろうか?


hirase01 (2)
郭②は城内で2番目に大きな郭で、削平もしっかりされており大手側から攻めてくる敵に備えている。

郭の規模は15×6mの尾根の形を使用した細長い形状となっている。


hirase01 (4)
郭②から見た本郭

本郭は郭②から来るであろう敵に備え、切岸と土塁で防御を固めている。


この新説に関して疑問が3つほど湧いてくるのでここで挙げてみる。。。。。。。

①平瀬城が200人近くが籠るには狭いとされているが、その後に落城した小岩嶽城は落城以前に宿城が放火されていて

麓の本城と山上の要害のみとなっていたにもかかわらず、「妙法寺記」に書かれているが【(前略)、小岩嶽と申す要害を

責落しめされ候、打取頭5百余人、足弱取候事数を知らず候】と数に誇張があったとしても平瀬城の数倍の人が籠って

いたのに本当にそんなに多くの籠っていたのかの疑問に触れていないのが不思議である。特に要害部分の狭さは

平瀬城以上である。


hirase90 (2)
郭①(本郭)を見る。

hirase90 (6)
郭①に付属する土塁を見る。

本郭には東側(南沢側)を除いて土塁が構築されており、南側の堀切①に面した土塁が一番高くなっている。

なお、土塁の残存状況は良くなく西側土塁(国道19号側)は所々低くなっていて波打った感じになってしまっている。

形状は24×16.5mの楕円形である。


②平瀬城の城主とされる平瀬氏の開基である松隠寺は、平瀬氏の本拠とする河合鶴宮八幡社の館跡より山城の平瀬城

の方が近く、犀川をも挟んでおり遠すぎる。


③平瀬南城の尾根続きには、平瀬城を攻めた時に武田氏が陣を構えたと伝わる陣畑・御所山が存在しこれがもし本当で

あれば神社の居館を攻めるには高すぎて遠すぎる。(陣畑は近いうちに紹介します)

以上の3つであるが素人である自分には到底解ける疑問ではないが。。。。。一応挙げてみた。

どなたかこの疑問を解消していただける方はいるだろうか。。。。


hirase4 (3)
堀切①を横から見る。

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郭①の東側を防備する横掘

堀切①は竪掘として落とされる部分が角度を変え、郭①の東側切岸下を横掘となる。

横掘の先端はまた竪掘なり斜面を下っている。この横掘部分は平瀬本城にも一部見られる手法で築城者の共通性を

窺うことが出来る。


hirase5 (2)
城内最大の規模を有する堀切②を見る。

hirase324 (2)
堀切⑤を見る。

平瀬南城の搦め手側の尾根は大小5本の堀切により刻まれており、この城の防御の意識が搦め手側に向けられていた

ことが分かる。また、南沢側の傾斜が緩いために長大な竪掘となり最終的にはこれらの竪掘がまとまるという小笠原氏

の築城手法に多く見られる形となっている。


hirase324 (4)
南沢側中腹から見上げた堀切④⑤とそれぞれの竪掘

hirase324 (3)
堀切②③④⑤の竪掘が合流する部分を見下ろす。

私見として、もしこの山城の平瀬城が武田氏の攻めたものだとすれば平瀬氏が籠った頃には小規模な砦であり、武田氏

が後方の山稜を通過する山田道を使用して侵攻し、伝承にある陣畑・御所山を利用して平瀬南城を尾根続きから攻め下り

南城を占拠してこれを平瀬本城を攻める為の向城として活用した。


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堀切②③の堀切と竪掘を見上げる。

hirase5 (7)
竪掘①と堀切②③から落とされた竪掘の間には土塁を伴った郭が南沢から登ってくる敵に備えている。

平瀬本城は、犀乗沢を中を通る山田道側(大手)と山稜を通る山田道(搦め手)とから攻められた本城にいた城兵たちは

逃げる事が出来ずに全滅してしまった。

後に小笠原貞慶がこの平瀬城砦群を改修する際に、平瀬城の搦め手から攻められ落城した弱点を克服する為に、尾根

続きを堀切で切り刻む手法を使用した。。。。。。。。。。というのはいかがでしょうか。


hirase012 (2)

hirase012.jpg
堀切⑤から落ちて来た竪掘の脇に削平された場所があり、水がたまっている。これが水の手の一つとおもわれるが、

南沢との比高差もほぼ無いので、沢から水を汲んだ方が早い気も。。。。。。


hirase5 (10)
斜面に刻まれた竪掘。。。。。惚れ惚れします。。。。!

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平瀬南城から平瀬本城を遠望する。

私見を前提とすると平瀬南城が武田氏に攻められ落城する場面や南城から後方山頂にある陣畑にかけて大量の武田兵

が駐屯するさまをみた本城の兵士たちは絶望のどん底に落とされたことであろう。


hirase3 (17)
平瀬南城を遠望する。

いかがだったでしょうか。

私見はあくまで素人の妄想ですので、研究家の方達の研究を否定するものではありませんのであしからず。

でも中々謎に包まれた楽しい城ですね。。。。これから研究が進むことを期待します。

次回は平瀬本城をお送りいたしますのでお楽しみに!!!


*冬季は猟師が入っていることがありますので注意が必要です。


~ 参考文献 ~

信濃 第45巻 第11号  山城平瀬城特集             (信濃史学会  平成5年)

信濃の山城                               (小穴芳実著  1988年)

信濃 第61巻 第1号  「長野県松本市城山丘陵の砦伝説について」   (小原 稔著   信濃史学会発行)

東筑摩郡誌                                (信濃教育会  1919年)

信府統記                                 (国書刊行会  平成8年)

松本市史  第ニ巻歴史編                      (松本市     平成8年)
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  1. 2014/07/26(土) 00:05:15|
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松本市   平瀬氏

資料に出てくる不屈の一族平瀬氏

平瀬氏は蟻ヶ崎に本拠を置く犬甘氏の一族として発生し同族の犬甘氏同様に府中小笠

原氏の配下として、武田信玄の府中侵攻により主家の小笠原氏が没落したにもかかわらず最後まで平瀬城に籠城し討ち

死にしたことで知られるが、平瀬城を紹介する前に資料に出てくる平瀬氏の事績を見てみたいと思います。


文和4年(正平10年・1355) 桔梗ヶ原の戦い

文和4年8月、当時の学識者として高名で、太政大臣でもあった洞院公賢(とういんきんかた)が京都でその日記『園太暦』

につぎのように記した。

「八月十七日、晴れ、恒例である駒牽ができないと馬所から報告が出来ないと聞いた。信州に合戦があったそうだ。

なんでも妙法院宮(宗良親王)が大将軍で、これに諏訪神社の祝部や仁科氏が加わっていうというが、もってのほかの

事である。この合戦により信濃は国中が騒動し、信濃国の牧から献上される馬が着かないという。」

8月16日は、天皇が信濃の牧から献上された馬を内覧する日であったが、これが出来なかった。その理由が、信濃で

宗良親王が諏訪・仁科氏を主力として軍勢を動かして合戦をしたためであるという。

後年、諏訪の矢島氏がしるした記録によると、諏訪勢は8月に府中に攻め込み、8月20日には桔梗ヶ原で大合戦になった

府中勢は小笠原長基(資料には長亮とある)をはじめとして、坂西・麻生・麻生・山家・平瀬・古野・新井・赤沢各氏で

あったとしており、府中勢に平瀬氏が加わっていたことが見られる。


syouinnzi.jpg
平瀬氏の要害城とされる平瀬本城(北城)

永享13年(1440)   結城合戦

永享10年(1438)、鎌倉公方足利持氏は不和であった上杉憲実を追討しようと軍を起こした。将軍足利義教は、この機会

をとらえて持氏を討つことにし、駿河・甲斐・信濃などの武士に命令を発し、小笠原政康も関東へ進発した。

幕府軍に攻められた持氏は翌11年に鎌倉で自害し四代続いた鎌倉公方は滅亡した。

これを永享の乱といい持氏の遺児安王丸・春王丸は日光へ、永寿丸は佐久の大井氏のもとへ逃れた。

1年後、下総結城を本拠とする結城氏朝は安王丸・春王丸をおしたてて結城城に挙兵した。

幕府は駿河・甲斐・信濃などの武士に動員をかけ結城城を攻めさせたが結城城を落とす事が出来なかった。

この時に小笠原政康は幕府軍の中で陣中奉行を勤めている。

小笠原政康は、率いていた信濃の武士を30組に編成し、1組1日ずつ陣中の警護にあたらせた。

この編成を記したのが「結城陣番帳」でこの中の20番に犬甘氏・村井氏・三村氏・小坂氏と共に平瀬氏の名が見られる。

翌年、結城城は幕府軍の総攻撃により落城している。


syouinnzi (14)
平瀬本城と連携していたと思われる平瀬南城


諏訪の資料に見える平瀬氏

室町時代後期の信濃武士や在地の動向を知ることができる資料に「諏訪御符礼之古書」がある。

諏訪神社の祭礼は鎌倉時代から信濃の武士が奉仕して行ってきた。その奉仕の祭礼負担の様子を記したのがこの資料

で、これには諏訪上社に奉公した地域とその地域を統治して祭礼に奉仕した武士と、負担費用などがしるされている。

この資料に記されている人々は諏訪神社からそれらの地域を掌握して祭礼に奉仕できる勢力のあるとされた武士である。

この中で北内田(松本市)に平瀬氏が記されている。

寛政3年(1462)・・・・平瀬民部大輔国知               文明4年(1472)・・・・平瀬淡路守

文明11年(1479)・・・・平瀬淡路守政知                文明18年(1486)・・・・・平瀬


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平瀬氏滅亡後の増築か。。。。。。平瀬北の城本郭

天文17年(1548)    塩尻峠の戦い

天文17年、武田信玄は上田原の戦いにおいて村上義清に敗れ重臣を失うなど大敗を喫した。

これを機に諏訪の西方衆が武田氏に反旗を挙げ、これに呼応して小笠原長時も塩尻峠周辺に兵を進め陣を張った。

長時はこの戦いに挑むにあたり家老をあつめ「下の諏訪に武田晴信より城代を被レ置候事信濃侍の瑕瑾と被レ仰候、

諏訪の城代追払可レ申由被レ仰候」と檄をとばした。

これに応じたのが仁科氏・三村氏・山家氏・西牧氏・青柳氏・犬甘氏・島立氏などの諸将と長時の旗本衆であった。

この中に平瀬氏の名が見られ長時に従って出陣していたことが分かる。

この動きに対して武田信玄は諏訪の西方衆を撃破し、峠に布陣する小笠原氏に攻めかかった。これに呼応して

小笠原方の三村氏・西牧氏・仁科氏などが小笠原氏を裏切った。

小笠原方は裏切りが続出した為に武田方の勢いを支える事が出来ず、多くの戦死者を出す大敗を喫し府中に敗走した。

この敗戦を機に武田氏の府中侵攻が進む事になる。


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平瀬氏居館ではないかとされる川合鶴宮八幡社の北側100mほどに島内史談会により建てられた平瀬氏居館跡の標柱

天文19年(1550)    府中陥落

塩尻峠の戦いで武田信玄に敗北した小笠原長時は、武田氏による府中侵攻を止める力を失った。

天文19年7月15日、小笠原氏の本拠である林城の支城であるイヌイの城(場所不明)を落城させ勝鬨を挙げ村井の城へ


戻った。これを聞いた小笠原方の林城・深志・岡田(伊深)・桐原・山家の城は自落し、島立・浅間の城は降服した。

この間に山家・三村・赤沢・坂西・島立・西牧氏は武田氏に寝返ったことにより小笠原長時は戦う事が出来ずに平瀬城

落ち延び、やがて村上義清を頼って落ち延びて行った。


9月になると武田信玄が村上義清に砥石城で敗れると小笠原長時はこれを府中奪回の好機とし村上義清の援助で

平瀬城へ戻った。

しかし、武田信玄出馬という情報を聞いた義清は小笠原長時に無断で退却してしまった。

この義清の退却を知った小笠原長時の配下は勝てない事を悟り逃げてしまい、3000人程いた人数が800人程に減って

しまった。長時は残った者たちのみで最後の戦いをしようと野々宮で馬場・飯富氏の率いる武田軍と戦い撃退する事が

出来た。


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平瀬氏の居館ではないかとされる下平瀬の川合鶴宮八幡社(武田氏が攻めたのはここではないかとされる)

小笠原長時、中塔城籠城

野々宮合戦に勝った小笠原長時であったが、局地戦での勝利にすぎず長時には味方する武士が少なく勢力を挽回する

ほどの力は無かった。これを悲観した長時は自害を決意するが二木氏などの味方に説得され二木氏の要害であった

中塔城への籠城を決意する。この中塔城への籠城の衆に平瀬氏が混ざっていることが見える。


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平瀬氏開基と伝わる松蔭寺跡と信玄平瀬城攻め時の陣地伝承地

天文20年(1551)     平瀬城陥落!平瀬氏の滅亡

その後、小笠原長時は府中奪回を諦め村上氏・上杉氏を頼って落ちていったが、平瀬氏の籠る平瀬城と古厩氏の籠る

小岩嶽城のみが旧小笠原領に孤立する結果となった。

天文20年、武田信玄はついに平瀬城攻めを開始した。

「高白斎記」には、「(前略)、廿四日戌刁、平瀬ヲ攻敗ル。敵ニ百四人被為討取候。終日細雨(中略)、酉ノ刻ヨリ大雨。

(後略)。」とあり城兵204人(200余人とも)が全滅するほどの激しい抵抗がされた事が窺える。

また、城主については資料によって異なり、「東筑摩郡誌」では「(前略)、天文年中犬飼家の支族平瀬甚義兼爰に居る。

同十八年の秋甲将大和越前守来り攻む。城将平瀬新之丞戦死して城終に陥れり。」とあり、「信濃戦国時代史 

附信濃城砦志」には、「(前略)、犬飼氏支族平瀬氏居城天文二十年十月信玄来攻二十四日落城、城将平瀬光信(八良

左衛門)弟仏法寺以下悉く討死、(後略)。)ともある。

また、「武家事記」記載の平瀬城攻め後の武田晴信が山家氏に出した感状に「今度於平瀬城頸壱、平瀬八郎左衛門ヲ

被討捕之条、戦功至、(後略)。」ともあり平瀬一族の悉くが死んでいることも注目される。


             *****やっと見つけた平瀬氏開基の松蔭寺跡*****

平瀬城の南方1km1には、平瀬城主平瀬和泉守信義が開基したとされる松蔭寺がかつて存在し、明治の廃仏毀釈で

廃寺になったとされるものがある事を知り、場所を特定するべく色々調べたがネットにも書かれているものがなかったが、

歩きまわりやっと特定する事が出来たのでご紹介します。


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平瀬城の南側1㎞にあるラーメン大学がある大きな路側帯近くに、写真のような線路に向かって登る道がある(籔っている)

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登り切った先に馬飼場踏切をわたりすぐに右へ。。。。。。。。

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尾滝沢にかかる木製の橋を渡り山へ向かう

「東筑摩郡誌」に平瀬城主とあった平瀬新之丞について「東筑摩郡松本市塩尻市誌 別片人名」に

「(前略)、新之丞は島内下平瀬に在る平瀬城主であった。古昔、平瀬和泉守信義という人が威勢を張ってこの地を領し、

同地に松蔭寺を開基した。


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橋を渡り尾滝沢沿いを進むが、旧参道と思われる道沿いには、石仏が見られる。

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橋を渡っってすぐ脇には臾玉神社(何の神社かは不明)の碑が建つ。

syouinnzi (5)
尾滝沢沿いには仁王様も祀られている。

また、新之丞は、小笠原長時の直属の家臣として天文十一年二月瀬沢合戦に従軍し、同年十月の大門峠合戦にも加わ

った。天文十四~十七年に亘る塩尻峠付近の戦には常に長時幕下の部将として活躍し、天文十九年犬甘城落城の後も

よく狐城を支え武田の勢力に抗した。


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薄暗い笹藪の中の踏み跡を辿る。

天文二十年三月の野々宮合戦にもこの一族は従軍したが、同年十月武田軍の来攻に城主新之丞は戦死し、城は落ち

た。」と書かれている。


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山道の途中にある笹藪の平場には、松蔭寺跡の碑と石仏・卵塔が残っている。

syouinnzi (8)
松蔭寺跡の削平地を見る。

笹や竹の籔となっている中に広大な削平地が残っているのみで、その他の遺構は見られなかった。また、現在は杉が

茂っている為に見晴らしが利かないが、山の中腹にあるために寺があった時にはこの場からは犀川やアルプスが一望で

きたのであろう。

なお、この参道の山道は更に続いており登っていくと松蔭寺経塚(松本トンネルの道により破壊)や八滝神社へ繋がる

霊場を巡礼するような道であったようである。



~参考文献~

東筑摩郡松本市塩尻市誌  別編人名            (桐原義司     昭和57年)

東筑摩郡松本市塩尻市誌  第ニ巻             (東筑摩郡松本市塩尻市郷土資料編纂会    昭和48年)

信濃 第45巻 第11号 「山城平瀬城特集」         (信濃史学会     平成5年)

松本市史 第二巻  歴史編                  (松本市        平成8年)

信濃の山城                            (小穴芳実編      1988年)

武田信玄と松本平                        (笹本正治        2008年)



平瀬氏開基、松蔭寺跡位置


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  1. 2014/07/17(木) 22:40:19|
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安曇野市  たかうちば物見

日岐氏との境目を見張る青柳氏最南端の物見

nezumi.jpg
たかうちば物見と周辺の城砦                  国土地理院2万5千分の1地図使用


所在地・・・・安曇野市明科東川手矢下沢たかうちば・筑北村境

訪城時間・・・・伊切分校跡より徒歩1時間30分~2時間

危険度・・・・★★★☆☆(地形図・方位磁石等必要)

訪城目印・・・・伊切分校跡よりとにかく安曇野市と筑北村境の尾根上を目指す。



takauchiba.jpgこの
この図面に沿って紹介していきます。


               ~ 立地 ・歴史 ~

高登屋物見の北500mにあるピークで、矢下沢の詰にあり安曇野市と筑北村の境にあたる。

正徳4年(1714)「萬覚書帳」に古城として「たかうちば」が書かれているのみで詳しいことは書かれていない。

また、伝承では殿さまが領地の見回りにきて鷹をとったところと伝えられている。



takauchibamonomi (3)

高登屋物見とたかうちば物見の間のピークに残された石仏を見る。

高登屋物見から尾根上を500m程歩く事になるが、この尾根上の道はかなり整備された道で潮沢流域と本城や坂北筑へ

の重要な生活道路として使われ、相当な往来があったようで人が通らなくなった現在でも歩きやすく危険を感じる事は無かった。

このように人の往来が多かった道なだけに、石仏も多く見る事が出来る。


takauchibamonomi (4)
推定小屋掛け場所と奥に物見砦を見る。

尾根上を歩きピークを二つ越えると砦のあるピークに着くが、その手前の写真の平坦地が、宮坂氏が推定する番士の

小屋掛け場所である。

ただ、伝承ではこの物見砦の番士は筑北村側の沢を下りた一石という集落にいたとされている。


takauchibamonomi (18)
たかうちば物見の全景

この物見の所在する付近は、青柳氏・会田氏・日岐氏の勢力の境目となりこの物見がある山で本城地区と坂北地区へ

道が分岐するが、坂北地区の大側沢側へ下ると番士に与えたとされる一石集落(廃村)となる。

従ってこのたかうちば物見は本城・坂北地区を押さえていた青柳氏に関わるものと推定される。


takauchibamonomi (9)
二重堀切を見る。

この物見には南側に発生する細尾根に2条の堀切があり、その堀切の中を道が通過している。

ただ物見の北側の尾根続きにはないのが不思議なのだが、宮坂氏は「南側に備えたと考えれば堀切と見て間違いない

であろう」としている。


takauchibamonomi (6)
堀①を見る。

堀①は切り通しのために掘ったという感じの緩さは見られず、明らかに堀切であろうという鋭い立ち上がりが見られる。

takauchibamonomi (8)
堀切②を見る。

こちらも後世に道として使われたようであるが、本郭側である左側の切岸がしっかり加工されている点から堀切であった

ことが窺える。

takauchibamonomi (14)
二重堀切を見下ろす。

takauchibamonomi (15)
郭②を見る。

二重の堀切を越え切岸を登ると郭②に着く。

郭②は8×4mで、南側の尾根から侵入する敵を押さえる前衛的な腰郭であったようだ。


takauchibamonomi (13)
郭①を見る。

郭②から約9m登るとたかうちば物見の本郭である郭①となる。

郭①は18×3mの細長い平坦地で土塁等の防御施設は見られない。


takauchibamonomi (10)
郭①からの眺め。

この物見からは、安曇野市の潮沢流域、筑北村が一望でき物見として最高の場所に構築されていることが分かる。

ただ、この物見は戦闘が出来る造りではないので敵が攻めてきたら狼煙を上げ合図を送る事を主目的とし狼煙を上げる

為の時間稼ぎとしての堀切の構築と見る事が出来るのではないだろうか。




さて・・・・・たかうちば物見を紹介してきましたがいかがだったでしょうか。

こんな山奥にも物見の砦を設けなければいけなかった時代とはどのような緊張感で人々は暮らしていたのか。。。。

考えるだけでも今の暮らしが素晴らしいものだと思えますね。

このようなちっぽけな物見にも歴史があることが実感出来ました。


takauchibamonomi (20)
たかうちば物見の遠望



~ 参考文献 ~

信濃の山城と館  7巻       (宮坂 武男)

明科町誌               (明科町誌刊行会   昭和59年)



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  1. 2014/07/10(木) 03:50:33|
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見に来ていただきありがとうございます。
現在の長野県内城跡訪城数は   814城です。

少しずつ増やしていきますのでお楽しみに!
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