長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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一ノ瀬冶部大夫の墓

一ノ瀬冶部大夫って誰???

今回はまったく人知れず草むらに埋まってしまっている、小規模な領地を必死で守った武将の墓を紹介します。

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墓地入り口に建つ標柱(筑北村)

道路から離れた民家の脇にひっそりと建っている為、ほぼ気付く人はいないであろう。

一ノ瀬冶部大夫については、あまり詳しい資料は見当たらないが図書館で探してみると。。。。。。

『東筑摩郡松本市・塩尻市誌 別編人名』に記載があったのでこれを引用させてもらうと、

『東条城城主。東条次郎行義の後胤であると伝えられている。青柳氏の一統であった。

天正12年4月小笠原貞慶が、旧領であった青柳の地を回復しようと兵を進め立峠を越えて、一ノ瀬冶部大夫の居城である

東条城を攻落した。


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民家脇の踏み跡を登って行くと、藪の中に墓地が見えてくる

彼は城を逃れて青柳城へ入り、城主青柳頼長と協力して貞慶の軍に当たった。

貞慶は兵を分けて青柳城を一方で押さえて他は麻績城を攻めたが、上杉氏の臣島津左京亮の援軍が来て麻績城東の

戦いに小笠原軍大敗して退くのを青柳城兵もまたこれを挟撃したので、小笠原軍の武将岩岡泥兵衛を始め二木重次、

多田淡路などの死傷者が多く、貞慶は兵を治めてようやく深志城に帰ることができた。


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一ノ瀬冶部大夫の墓を見る。(中央)

この戦いに一ノ瀬冶部大夫を始め森惣左衛門・石崎九郎左衛門・石崎八郎右衛門・倉下善左衛門・宮沢庄衛門・

瀬原田佐門等の七勇士が勇戦した。

これを青柳七騎と呼んでいる。


冶部大夫の娘白梅姫は青柳頼長の室となり、白梅山花顔寺の開基であると言われている。』

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墓石アップ(後世に子孫が建立したもので、戦国期のものとは違うように感じる)

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墓所から一ノ瀬冶部大夫が治めた筑北村を遠望する。

地域に埋もれた武将の墓を探し出すのはかなり大変です!!!

しかし、埋もれた歴史を探しだすのもとても大切であると思いますので、これからもがんばって探し出すぞ!

このお城の場所は。。。。。。スミマセン。。。。。忘れちゃいました(汗)



~参考文献~

東筑摩郡松本市・塩尻市誌  別編人名         (桐原 義司   昭和57年)


本城村の史跡と歴史を語る文化財            (本城村教育委員会)
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  1. 2014/10/28(火) 03:58:26|
  2. 武将の墓地
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松川村  布上城③

布上城は改修されたのか

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布上城主要部の遺構図

長野県埋蔵文化財センターの出版物に「長野県の考古学」というものがあり、その『Ⅱ』に「北安曇郡南部の山城」という、

「市河 隆之」氏の論文が掲載されており、この論文の中で、北安曇郡の山城を残存遺構を元にグループ別に分けたものが

掲載されており、布上城は「Ⅱ類」→「Ⅲ類」への変換を指摘している。


「Ⅱ類」・・・削平地群と広めの郭を連続的に配置するが、複数の堀切で内部を区切る特色をもつ。しかし、堀切で区切られた

尾根上の郭間に大差は無く、主郭の特定に迷うものもある。

本類の立地する尾根は高低差があまりない為に堀切を多用したのだろうか。大町市南西部から松川村にかけて分布して

一群をなす。(中略)、(松川村観勝院山城・大町市大崎城A)



~ 畝状竪掘 ~

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本郭から見下ろした畝状竪掘

「Ⅲ類」・・・城内中間に設置された1本の堀切を挟んで、上方に若干の郭と主郭からなる主郭部、先端側に削平地群を配する

二大別構成の城である。(中略)郭構成が規則的で広域に認められる特色がある。

主郭部は主郭と2~3の付属部からなり、主郭直下に比高差が小さい郭を併設する場合もある。

また、主郭周辺に虎口施設として小平場をもつ例が多い。(中略)(大町市丹生子城・西山城B・松川村布上城・池田町

渋田見城・安曇野市岩原城)


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畝状竪掘を斜面下部から見上げる。

畝状竪掘は、本郭北側斜面に竪掘3本と堀切②からの竪掘の合計4本から構成されており、敵の斜面移動を遮断している。

現状は1m程度の深さに埋まってしまっているが、往古はもっと深く険しかったであろう。

この周辺が「Ⅲ期」の武田氏滅亡から小笠原氏支配時代の改修と指摘している部分で、郭③遺構の尾根続きは「Ⅱ期」

の仁科一族の土豪達が個別で築城していた時代の遺構とされる。


nunogamizyouzumenn (5) - コピー

                  ~ 郭③遺構の古い時代の遺構とされる部分 ~

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郭③を見る。

郭③はよく言われる「未整地空間」というやつで、整地らしき作業はされているようであるが所々段があったり盛り上がり

が見られたりと、郭①などとは明らかに作業量の差が見られる。


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郭③の中央部付近の両端には、堀が存在したような痕跡が残されておりかつてはこの郭は堀切により2分されていた

可能性があり郭を広く取るために堀を埋めて広げたことが考えられる。


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郭③切岸と堀切④の間の帯郭を見る。

郭③と堀切④の間には帯郭を挟んでワンクッションおいて構築されている。

郭③の切岸は約2mあり帯郭を間に挟む事により、堀切の切岸+郭の切岸の2段防御で敵の侵入を遅らせる効果を狙って

いたものと思われる。


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堀切④を見る

堀切④は上幅4mで帯郭側から見ると深さは約2mで単体で見ると小規模であるが、構築主は堀切⑤との連続堀切として

構築する事により大きな効果を狙っていたものと思われるが、この堀の特徴としては、堀切南側は「Ⅲ期」のとされる部分

とは違い竪掘として落としておらず、北側は郭③を囲むようにして帯郭となってしまっている。


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堀切④が帯郭に変化して、郭③にあった堀切痕へ続いて構築されている。

切岸は構築されているが、鋭さは無く緩い。。。。。。このあたりが古い時代構築とされるものか?


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堀切⑤を見る。

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堀切⑤を方向を変えて見てみる

堀切⑤は、堀切④と同じで上幅約4mでけして大きなものではないが、大きな特徴は堀が弓状にカーブをしていているところ

で城内の他の堀には見られないものとなっている。

両脇は竪掘として落としているが、竪掘①や堀切②のように長くは落としていない。


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尾根続きを見る。

堀切⑤より西側に続く尾根続きには未整形の平坦地が続く。

俗に言う「未整地空間」でこれだけの平坦地を利用していない筈は無いのだが、遺構等は見られず整地もされていない。

これらの未整地の空間をよく「領地の住民を収容する施設」などと解釈されている、もし堀切③より西側の遺構などが、在地

土豪による築城残存遺構であれば、立地と合わせて有りうることではないだろうか。


~ 南尾根遺構 ~

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布上城遺構全体図

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本郭南斜面下帯郭を見る

本郭からは、北尾根(登ってきた尾根)と南尾根が発生しており、この南尾根の付け根である本郭南側切岸下には帯郭が

構築され尾根から登ってきた敵に対して防御を固めている。


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南尾根を見る

本郭から南尾根の鞍部までは比高約30mの斜面を下らなければならず、2時間の登山と1時間以上の城内の探索後の尾根

先への遺構探索はかなりこたえる(汗)

南尾根は未整地ではあるが平坦な尾根が約50mほど続き突然に堀切が現れる。


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南尾根堀切を見る。

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堀切を横から見る。

この堀切も上幅約4m程度で深さも1m程度の小規模なものとなっている。

この堀切より先には行っていないが(体力の限界で。。。)遺構が存在する可能性のあるかも。

遮断線としては、北尾根同様に弱いもので、立地によるものか「Ⅲ期」とされる時期には防御の重点は山頂の主要部に置か

れたものと考えられる。


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布上城は初期には仁科氏から分かれた土豪大和田氏による築城とされその後、武田氏滅亡後周辺の城が廃城となる中で

西山城と布上城は(たぶん)小笠原氏に改修されて使用されたものと思われる。

大和田氏は仁科氏・武田氏に仕えた後に帰農したようで没落しているのでその後の城主は不明である。

(推定)小笠原氏の改修は主要部に限られると思われるが、それでは改修前の城よりも縮小してしまうが小笠原氏時代では

民衆を収容するという使用方法ではなく、立地を生かした周囲への警戒がこの城の重要な任務へと変更されていったので

は無いだろうか。

西山城・布上城が改修され残された理由として考えられるのは、『松川村誌』を参考にすると『(前略)、大洞山の背後の峠

から流れるコベ沢がめぐっている。』。。。。という記述で、此の大洞山の背後の峠がどこから来ていたのかは分からないが

峠が存在していたことが分かり、これを警戒する為に改修され残された可能性が考えられるのではないだろうか。

布上城を長々と書いてきましたがどうだったでしょうか?

この人里離れた山奥にこのような素晴らしい遺構が完存していることに感動すると共に残されている事に感謝する気持ちを

このように一つ一つの遺構を詳しく紹介する事で伝えていきたいと思いました。

読んで下さった皆様に伝われば幸いです。

~参考文献~

信濃の山城と館⑦  安曇・木曽編    (宮坂 武男    2013年)

松川村誌 歴史編              (松川村誌編纂委員会  昭和63年)


長野県の考古学Ⅱ 長野県埋蔵文化財センター研究論集Ⅱ    (長野県埋蔵文化財センター     2002年)
『北安曇郡南部の山城』    市川 隆之



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  1. 2014/10/09(木) 03:45:03|
  2. 松川村
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松川村   布上城②

何故ここまでの防御施設が必要だったのか?

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麓から見た布上城

この布上城については『信府統記』に『 同山古城地 松川村ヨリ申ノ方三十四丁十六間  城主知レズ

但シ是モ大和田氏ノ持ニヤ 』とあり観勝院城の城主とされる大和田氏の支城であったとしている。


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布上城遺構配置

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布上城遺構配置図

『松川村誌』では、布上城は観勝院城とともに大町しとの境にある西山城の前衛的な支砦と考えられる。

仁科氏は広く南北安曇を支配していたが、その直轄領ともいうべき範囲は現在の大町市の市域といってよく、周辺地域

には親戚被官に分割支配させていた。

(注)天正六年『下諏訪春秋両宮御造営帳』で「仁科之内」と掲載されるのは古厩・耳塚・大穴・中之郷・鵜山・渋田見・

瀧沢・大和田・松川、『矢原庄之内』は多田井・掘金・等々力・重柳・狐島・針俣、『矢原庄』は矢原・細萱・柏原・細野・

池田・庄科、である。同年『下諏訪秋宮造営帳』では「仁科領矢原庄之内」が矢原・細萱・柏原・細野・池田・庄科・古厩・

耳塚が現れる。(中略)大和田・松川については領主不明ながら大和田氏に対比しえようか。」とありこの地の領主は

大和田氏であると思ってよいと思われる。


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北尾根から見た郭②手前の帯郭(北尾根遺構から主要部遺構までは約比高40mを急登しなければいけない)

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布上城主要部遺構図

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北尾根から最初に辿り着く主要部遺構で郭②の手前に構築されている帯郭

松川村周辺の土豪には近世の地誌『信府統記』に観勝院城城主として仁科一族とする大和田大蔵丞盛久、西山城主とし

て矢口知光が記される。

『(前略)、城主大和田大蔵丞盛久ト云人、天文ノ頃此辺ヲ領セリ、是ハ仁科大和守平盛氏ノ末孫ナルベシ、盛氏ハ永正

ノ頃ノ人ナリ、爰ニ住セルニヤ、又仁科ニアリテ此辺モ領地ニヤ詳ナラズ松川村観勝院盛氏ノ建立ナリ』

仁科大和守平盛氏という人物について『神戸村の歴史』には

仁科盛房 - 持豊 - 持盛 - 盛氏(大和田城主大和田氏) という系図を載せている。

布上城周辺を治めていたとされる大和田氏はあまり史料に現れず実態は分からないが、松川道

文が天正8年に納めた願文には『殿様御前・正衛門尉、いよいよ御気よく武運長久・富貴・家内安全・子孫繁栄・御陣も

場ごとの高名を遂げられ、召連れ候被官以下、無病息災たるべき事』という条があり『殿様』とは松川道文の主家である

大和田氏を指しているものと考えられるが、もしくはその上の仁科氏を指している可能性も考えられている。


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布上城西側先端部を見る。

布上城は写真に見えるように、所々岩が露出する険しい山頂部を巧みに削平して構築されている。


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郭②を見る。(奥に堀切①が見える)

郭②は三角形をしており2段に構築されている。北尾根からの登城路はこの郭②に入る。

この郭に柵列や城門が構築され防備を固めていたのであろう。また、尾根の先端になることからここに物見台のようなもの

あったと考えられる。


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郭②から堀切①を挟んで本郭を見る。

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堀切①を見る。

上幅7mで郭②と本郭を分けるように構築されている。ただ、両方の郭側に土塁が構築されていないのが不思議な所で

郭②から本郭を見ると郭間の高さが同じために丸見えとなってしまうのである。


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本郭を見る。

本郭は20m×14mの長方形で西側と東側に土塁が構築されている。郭内部は丁寧に削平されており城主の居住区と

されていたものであろう。


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本郭東側土塁を見る。

高さは0.5mの小規模なものであるが、この土塁の反対側は「岩あらし」と言われている超絶な急斜面となっているので

防御を考える必要がないのでこの土塁は風対策と考えるのが妥当であろう。


この城は大和田氏のものと考えられているが、その他の伝承を伝えるものとして平林氏のものであったとするものもある。

平林氏については榛葉氏の『伝用事』という古文書がある。

この中には『(前略)平林加賀殿万所ニ而壹丁四方城ヲカマへ屋敷有之 然ル所江新野嘉右エ門元来小倉城主子孫也

平林氏之世話ニ成リ居申候所 (後略) 』とあり略すと、『小倉城主の子孫であった新野(榛葉)嘉右衛門が、万所

(板取のうち)において一丁四方の城(屋敷)を構えていた平林加賀という人を頼ってきてその世話になったという事である』


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本郭西側土塁を見る。

本郭の西側には高さ約1.5mの土塁が構築されその土塁はそのまま『天水溜』とされる大穴の縁に続いて行くようになって

いる。


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本郭と堀切②の間に構築されている大穴

宮坂氏はこの穴を『天水溜』と解釈しているが、『松川村誌』は非戦闘員が隠れるための施設と解釈している。

この険峻な山頂に水は無く、水を求めるとすれば山麓にある沢に下るしかなく1~2時間を有する。敵が周囲にいればこん

な悠長に山を下りている場合ではないだろうから、ここは天水溜が妥当ではないだろうか。もっとも雨が溜めるのを待って

いたというわけではなく沢から汲んで来て溜めておいたというのが本当の所だろう。


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堀切②を見る。

堀切②は上幅17mあり城内最大の堀切となっており、両脇は長大な竪掘となっておりその竪掘の側面には竪掘や畝状

竪掘が掘られていおり、厳重な防御で城内を2分している。使用用途が違ったのであろうか。


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堀切②と竪掘①を見下ろす。

この城の最大の特徴は竪掘が複数に連続して構築して、敵の斜面の横移動に厳重に備えている事で、

このような山奥の険峻な山城に何を恐れてここまで厳重に備えているのかが見えてこない不思議な城である。


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斜面下から竪掘①を見上げる。

かなり疲れていたが、斜面を下って見上げてみた。上幅4m・約20m程掘り下げた大迫力の竪掘が見られる。






今回はなが~くなってしまったのでここまでにしたいと思います。

次回はこの城の最大の特徴である畝状竪掘やその他の郭などを紹介していきたいと思いますのでお楽しみに!
  1. 2014/10/04(土) 17:02:41|
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