長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市   吉野中村堀屋敷  

小規模ながら良く残る丸山氏の居館

所在地・・・・安曇野市吉野             

訪城時間・・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆


*館跡は個人宅となっているので見学の際は必ず許可を取って下さい!不法侵入は犯罪です。

yosinomachihoriyasiki (16)

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ものすごく評判の悪かった旧豊科町の説明板

どこが間違えているか分かりますか?。。。。。。。。。。チン!

平瀬氏は小笠原氏の一族ではなく、犬甘氏の一族ですね。。。。正解した方は素晴らしい!!!

こんな根本的な間違いを犯すから説明板は信用が出来なくなってしまうんですよね。


yosinomachihoriyasiki (3)
新しくなった標柱

そこで安曇野市となったとたん過去の間違いをかき消すかのように標柱を新しくしまくった安曇野市。。。。。。。

もちろん何もなかったかのように間違いは直されていました。。。v


yosinomachihoriyasiki.jpg
堀屋敷の遠景

屋敷の規模は東西45m×南北36mで、明治23年の地籍図によると西・南・北の三方が堀と土塁跡で、東側は堰となって

いる。現在は西側に堀(深さ1m・幅2m)と土塁(高さ1.5m・土居敷4m)が残存している


akasina.jpg
堀屋敷遺構図 

yosinomachihoriyasiki (13)
館跡入り口

現在の入り口は館跡前面の中央部に土橋状に開いているが、入り口の両脇の土塁の形状から往時もこの部分が虎口

であった可能性が高い。ただ、土橋ではなく木橋で出入りしていたのではないだろうか。


堀屋敷は丸山丹後守の居館であったと伝えられており、この地への移住は明応年間(伝承)で、平瀬氏の寄り子として平

瀬氏に仕えていた。(諸説あり仁科一族であり広大な領土を持つ丸山氏が平瀬氏の寄り子に成るはずはないと云う研究

者もいる。)


yosinomachihoriyasiki (5)
虎口周辺の居館内部

居館内部は民家になっているために見るべき遺構は残っていない。

yosinomachihoriyasiki (8)
虎口を挟んで良く残る西側の土塁と横掘

写真の部分は良く残っており、西側の堀が北側に曲がっていくがその先は倉庫となり消滅している。

土塁上には氏神の祠が祀られている。


yosinomachihoriyasiki (12)
横掘が西側から北側へ折れる部分を見る。

現在見られる堀屋敷は堀や土塁の規模が小さく実戦型の居館ではないために天正期の織豊時代の構築と見られ、

天文20年(1551)の平瀬城落城後に丸山丹後守は京都方面に流浪しており、この地に往還後に構築したのではないか

と考えられている。

その為、戦国期にはどこにどのような規模の居館に住んでいたのかは分かっていないが、梶海渡の字寺所に法蔵寺が

あり、(戦争時には陣僧として出陣していた)荒井の南側には馬場があったと伝わる。


yosinomachihoriyasiki (11)
倉庫の建設により一部分を残し消滅した北側横掘

丸山系図の3代目政勝(後の丹後守)の条によると『天文10年出生、父と共に和州(大阪)へ退去して織田信長に出仕、

天正5年に還住して天正10年に吉野郷の禁制を信長より受け、天正18年小笠原家より吉野・寺所郷感状を給わり、

石川家代官となり元和元年9月8日卒す。』とある。

*政勝の父も丹後守を称し平瀬城落城後に和州へ行き永禄5年死去、祖父兵庫守は平瀬城にて討死


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西側の横掘を見る。

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西側の横掘に付属する土塁を館内部から見る

天正18年、小笠原貞政は徳川家康の関東移封によって古河3万石に転封されるが、丸山丹後守はこれに従わず残留

して次の城主石川氏の時には郷士として存在しており、文禄5年(1596)の大町社区宮本神明宮棟札に助成の衆として

その名が見える。

その後、慶長20年(1615)4月小笠原秀政の伏見城在番に際して出陣したようで、この時に子息杢助を伴ってくるように

書状を受けている。

従って小笠原秀政の在城した元和3年(1617)までは名字帯刀の郷士として存在したようである。


yosinomachihoriyasiki (6)
西堀が南堀となる折れ部分を見る

yosinomachihoriyasiki (7)
南堀を見る。

現在の館跡には、土塁が西側にしか残存していない。古図では東側が水路が堀代わりとなっていることから、戦闘は

考慮に入れないような造りで土塁自体が無かったか、あってもお飾り程度の小さいものだったのだろう。

その為に街道に面した西側には家格を考慮して立派な堀・土塁を構えたのに対し、三方には痕跡が確認できないのでは

ないだろうか。


yosinomachihoriyasiki (9)
館内部と遠くに上の山城を見る。

yosinomachihoriyasiki (18)
館跡全景

手前の細長い畑あたりが北堀跡


初期には武将の居館として構築され、その後郷士として存続し今も子孫の方が居住するという、貴重な館跡をお送り

してきましたがいかがだったでしょうか。

平地の居館は中々残す事は難しいですが、子孫の方の努力に感謝ですね。

今回は快く見学させていただきましたが、皆さんも見学の際は必ず許可をとるようにお願いします。


~ 参考文献 ~

信濃の山城と館                (宮坂武男)

豊科町誌                    (豊科町誌編纂委員会)




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