長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市  荻原城

この城も破壊されてますけど。。。。。遺構の破壊は確認できず?

所在地・・・・安曇野市七貴

訪城時間・・・・15分

危険度・・・・★★☆☆☆ (間伐作業に注意)

訪城日・・・・平成15年2月20日 ・ 3月1日


荻原城の立地は、荻原の宮沢北側の山で、尾根先に構築され40m×100mの平が存在する。

『信府統記』には「塩川原山古城地、本城ノ平東西三十二間、南北二十間、城主シレズ」とある。

塩川原山と記されたのは、南斜面が塩川原とされたものと思われる。


akasina (111)
荻原城周辺の城館配置                             国土地理院2万5千分の1地図使用

akasina (7)
信濃の山城と館(宮坂武男著)と現地調査を参考に作成した破壊前の荻野城の図面

『安筑古城開基』には「天文21年(1552)8月、武田晴信に従って刈谷原城を攻略した時、城主大田資忠の首を討ち取った

荻原弥右衛門の居城である」としている。

しかし、武田氏の重臣が書いた『高白斎記』では城主大田資忠は生け捕りにされたとの記載があり、『安筑古城開基』

の記載は疑わしいようである。

『明科町誌』では荻原城は仁科氏の出城であろうとしている。この周辺は仁科氏の領地であった事から仁科氏に属して

いた在地領主の物見城ではないかと考えられる。
  


ogiwara5 (2)
荻原城の登り口に造られた間伐用の作業道(奥の山は荻野城の砦と考えられる池ノ戸城がある山)

前回紹介した押野城と共に破壊されたと記事になったが、押野城は破壊が確認されたと記載されたのに荻野城は遺構の

破壊があったとはされていない。。。。それはなぜなのか。

この荻原城のある山は昔耕作が山の上までされており、山の奥の方には民家まであったようだ。

この耕作により遺構は破壊されており目立った城郭遺構がなかったことによるものと思われる。


ogiwara5 (3)

ogiwara5 (11)
中腹にある城の鎮守とされる城山稲荷。。。。城跡と同様荒れ果てていた。

お稲荷さまはこの城跡の破壊をどう見ていたのであろう。。。。。


akasina (2)
今回確認した荻野城の作業道破壊状況

ogiwara8 (8)
荻野城の大手を守るための最初の関門として構築されていたであろう郭③の破壊状況

ogiwara8 (2)
近くで見てみる。

郭の形状が良く分かり、削平、切岸がしっかり構築されていたことが確認できる。


ogiwara92 (9)
郭③を越えて斜面を少し登ると、尾根筋にでるが、宮坂図には尾根の両脇の竪掘りを落として、土橋状にしていたことが

記載されているが、現状では尾根表面が重機によって削りとられており、どこにあったのか図面をみても分からなくなって

しまっていた。


ogiwara92 (8)
①(ニの郭)を見る。

ニの郭は50×15mで三角形のような形状をしている。

このあたりは昔、桑畑となっていたとされ写真のような小さな段差が見られる。

尾根を登ってきた道が写真の段差部分を通って郭に入ったようにも考えられるが。。。。。尾根の右側は作業道によって

破壊されており詳細は分からない。


ogiwara92 (3)

ニの郭は本郭(②)の近くでは幅広の尾根となる為に、広大な郭となっている。

城郭遺構なのか開墾の為に拠るのかは分からないが、きれいに削平されていて、本郭との間には約1mの段差が見られる。(現状は竹藪)


ogiwara92 (14)
ニの郭と本郭の間に見られる段差

ogiwara92.jpg
段差部分の作業道による破壊状況

宮坂図によるとこのあたりに古い登山道があったようなので、この破壊された部分周囲に虎口があった可能性が

考えられる。


ogiwara11 (4)
本郭を見る。

荻野城の本郭は34×24mの歪んだ四角形をしており、尾根続きには堀切を構築している。

現状はニの郭同様竹藪となっている。


ogiwara11 (5)
本郭の尾根続き部分は、郭の突端部となっていて僅かに高くなっている。

この下には堀切があることから土塁が構築されていたことも考えられるが、耕作によるものか緩やかな盛り上がりとなって

しまっている。


ogiwara11 (2)
本郭の破壊状況

作業道はいったん本郭に入り、途中で止まって本郭脇の旧登山道に沿って尾根続きに伸びていっている。


ogiwara11 (6)

作業道は本郭北側の側面を削り、唯一明確な遺構である堀切脇を通過して後ろの山へ伸びていっている。

ogiwara3.jpg
荻野城唯一の堀切を見る。

荻野城に唯一残されていた堀切は、作業道にすれすれ破壊される事無く残っていた。

上幅13mあるが、深い堀によって防御する。という構想では無く本郭側の高い壁によって防御するといった古い城跡に見え

る形状をしており、戦国末期に改修されなかったことによるものであろうか。


ogiwara1.jpg

尾根続きには、宮坂図では竪掘状の遺構があり細尾根のようになっていて一騎駆けのようになっていると記載がある。

現状は重機によってならされたのか幅の広い平坦な尾根となってしまっている。


ogiwara1 (2)

尾根側面にあるとされる竪掘は竹籔が酷く確認は出来なかった。

この尾根を辿ると容易に池田町に行く事が出来る事からも、同じ仁科領内とはいえ厳重な防御施設は必須であったのであ

ろうから竪掘があったことはうなずけるところである。


ogiwara726 (3)

帰りは急な斜面を下って南側の沢へ降りてみた。。。。。見上げるとこの城の険しさが分かる。

荻野城の南側斜面に防御施設が見られないのは山の地形を大いに利用したことによるものだと気付かされたのであった。


さらに良く見ると。。。。

ogiwara726 (2)

堀切がある尾根部分になにか窪みが見える。。。

ogiwara726.jpg

これが尾根続きを一騎駆けにしていた竪掘であろうか。。。。。。。なるほど。

城跡は山上と下から見る事も大事ですな。。。!


荻野城、市には破壊の事実は元々残存遺構が乏しいことから認定されなかったが,耕作により表面上の遺構は破棄されて

いたとしても今回の重機による作業道開削により深く削られたことは地下に埋没していた遺構を破壊していることに

間違いないのである。

市はなんの為の遺跡分布図なのかもう一度考えて欲しいものです。

次回紹介する予定の荻野城の物見があったと伝わる池ノ戸城がある山も、作業道が広がってるんですよね~。

宮坂氏も探索していないので、頑張って書いて見ようと思います。

更新スピード落ちまくっていますがお付き合いください。


ogiwara5 (9)
荻原城遠望






~参考文献~

信濃の山城と館       (宮坂 武男)

明科町誌           (明科町誌編纂委員会)

明科町遺跡分布調査報告書  (明科町教育委員会)



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  1. 2015/03/30(月) 21:59:23|
  2. 安曇野市
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安曇野市  押野城②

ここまで壊すとは。。。。。。。。。怒

押野城 第2弾は。。。。。。破壊された部分と破壊された遺構を見比べてみたいと思います。

 《押野城全景の変貌》 

osinozyou1 (6)

osinozyou1 (9)
2009年12月時点での押野城

この頃は松が鬱蒼と茂り城内が薄暗かった。

osinozyou1 (2)
2014年2月時点の押野城

この頃から破壊は始まっていた。。。。。。2014年時点での破壊は横掘

osinozyou2_201503050527127d0.jpg
2009年時点の横掘

土塁が付属していて良好に残っていたが。。。。。。

osinozyou11 (9)

osinozyou11 (6)
横掘破壊状況

2014年時点で横掘には重機が入り、堀底部や土塁を削ってしまっていた。。。。。。。

この時点で本当は教育委員会は気付いて指導していなければいけなかったのではないだろうか。


osinozyou234 (3)

osinozyou234 (4)
2016年2月17日時点での押野城全景

市道と堀切間の郭に作業道が新設されてしまっており、郭が破壊されています。

この時点で教育委員会へはメールを送って破壊されている事を伝えていましたが。。。。


osinozyou123 (3)
2016年2月23日。。。。。。。破壊されました。(怒)

謝罪会見では押野城の一部を破壊してしまった。。。。とあるが是を見て一部と思う方はどれほどいるだろうか?


osinozyou123 (4)

osinozyou123 (7)


これらの作業により破壊された遺構。。。。。。。。

akasina (6)
重機が入った場所を赤い線が表す。

osinozyou1 (3)
①堀切手前の郭

最初に作業道が開設された部分。

②本郭切岸


セミ 2014.8.18 287
③堀切

セミ 2014.8.18 269
④本郭の3分の1

osinozyou123 (14)
酷いものです。。。。。。

もちろん、その場にいた作業者の方に言いましたよ。『ここが城跡だって知っていてやっているんですか?』

『だって切った木を運び出すには道が必要だし。。。。』

osinozyou123 (13)
木が切られて良く見えるようになった段郭

『・・・・・・・・・・・ハァ』。。。。。。ため息をついて帰ってきました。

まあ、城跡に興味がなければしょうが無いかもしれないし、必要な事業である事も分かっています。

作業者は悪くありません。

事業自体が悪いとも思っていませんし、城跡を破壊しなければいけない事もあるかもしれません。

だからこそ教育委員会が存在し埋蔵文化財を管理・監視し必要な措置をとる仕事をしているのではないだろうか?


何のために存在しているのでしょうか?

もう一つの城跡『萩原城』をも破壊を許した教育委員会。。。。。。存在する価値があるのでしょうか。

レベルの低い長野県。。。。。。。同じことの繰り返しですね。


osinozyou123 (2)


これからどうしていくのか見ていきたいと思います。。。。。。。。。

毎日見上げる位置に住んでいますので。。。。。

次回は。。。。。。これまた破壊された萩原城をお送りしたいと思います。
  1. 2015/03/05(木) 05:22:58|
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安曇野市  押野城

近所でこのような事が起るとは。。。。。情けなし文化財保護行政(怒)

所在地・・・・安曇野市明科七貴

訪城時間・・・・1分

危険度・・・・・★☆☆☆☆

先日、押野城の破壊がニュースになったが、まあこの怒りは置いておいて。。。。。。まずは良く残っていた頃の押野城の

紹介をし、どこがどのように破壊が行われたのかを書いて行きたいと思いますのでお付き合いください。


akasina (8)
明科周辺の城砦の分布図です。

押野城については「信府統記」に「押野山古城地 上野村ヨリ卯方廿 四十六間、下押野村ヨリ北ノ方五町、本城ノ平東西

八間 南北廿一間 城主知レズ」とある。

『長野県町村誌』には「押野城墟 本村(七貴村)の亥子に方り十二町を隔て方十間の平らあり。其西に連り遺濠あり。

夫より子の方へニ町隔てたる馬場と称する所東西一町、南北二町、方今畑に変換たり。

築廃年号、千子不詳。」とある。


akasina (9)
押野城が構築されている押野山に構築された城砦の分布

akasina (5)
在りし日の押野城遺構図

まずはこの遺構図に沿って破壊前はどのようであったかを書いて行きたいと思います。

osinozyou1 (7)
2009年ころの押野城入り口を見る。


『寛政元年(1789)池田組村々明細帳』には「山の平拾間四方程、長峰と云ふ所の続きに是有り、南北西の三方に堀切

あり、川久保右近と云ふ人居住の由、当村庄屋平左衛門その末の由、但し堀と申所も有り。」とある。

この城主とされている川久保氏については、『御祓くばり日記』(天正9年・・1581)の『仁科分のおしの』に「新左衛門

茶三(三等級)」とありかなり身分の低い武士であった事が分かる。

*塔原氏が。。。のし50本・茶5袋(一等級)で光氏が。。。。茶10袋(二等級)であることからして下級の武士であること

がわかり在地土豪ではないかと思われる。


osinozyou1 (8)
堀切周辺を見る。

この頃は松や雑木により籔っていてみるのも苦労していたが。。。。。。


osinozyou1 (4)

osinozyou1 (3)
2014年2月頃の押野城を見る。。。。。。。

だいぶ変わってきましたね。。。。この頃からヤバそうな気はしていました。(汗)


osinozyou3.jpg
本郭から堀切を見る。

堀切には土塁が付属しているので写真では影になっている。


また、伝承として高田大和守繁晴の持城ともいう。また丸山主膳の居城とも伝えられている。

小笠原貞慶が府中松本に復帰すると、以前の武田氏侵攻時に武田氏に与した周囲の土豪達の攻略を始めた。

その中で日岐の丸山氏攻めがあるが、天正11年丸山丹波守は小笠原氏に服従し押野の内、定納万疋の知行を宛がわ

れており、その後日岐全域を安堵されている。

その中で丸山氏領となったことにより在地土豪であった川久保氏は没落し、一族の丸山主膳や高田大和守が配置された

のではないだろうか。この高田氏は現在も子孫の方が居館跡に住まわれている


セミ 2014.8.18 287
堀切を横から見る。

規模としては上幅3m程度なので、籔が茂っていたころは分かりづらかったが、これだけ伐採が進むと良く見えますね。


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押野城の本郭には城址碑と城主であったと伝承される高野氏の先祖神を祀る祠が建てられており、

城址碑後方には郭の縁を西側方北側へ囲むように構築された土塁が見える。

是を見て何故間伐をしていた森林組合は気付かなかったのであろうか。。。。。疑問が残る


osinozyou5 (7)
本郭に見られる土塁

高さは約30cm程度~1mと小規模である。


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本郭は45m×17mの楕円形で2014年時点では松と雑木が生い茂っていた。

osinozyou6 (4)

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本郭北側尾根に三段の段郭と段郭から東側斜面に帯郭へと繋がる。

一つの特徴としては、本郭下の最初の郭の縁部には土塁が確認でき堀切であった可能性が窺える

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本郭西側斜面に見られる帯郭を見る

本郭西側(押野山山頂へと続く幅広の尾根)の防御として、帯郭・横掘がみられ城内で最大に防御の意識を払っている。


osinozyou2.jpg
城内西側斜面下を囲むように構築されている横掘を見る

osinozyou2 (2)
横掘を横から見る

この横掘は幅が広く、見方によっては帯郭の縁に土塁を築いた堡塁という見方も出来るであろう。

この西側に自然の沢を利用した堀が構築されている事を考えると、敵を迎え撃つ為の堡塁。。。。。。なのかな?


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押野山へと続く幅広の尾根に構築された厳重な防御を見る。

osinozyou9 (2)
自然の沢を利用した堀を見る。

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沢を利用した堀と押野城内で一番外側となる堀の間に構築された土塁を見る。

高さは約1.5m程度でこれらの堀と土塁を乗り越えて攻め込むのは中々難しいであろう。


osinozyou9 (4)
城内一番外側に構築された堀を見る。

この堀と沢を利用した堀は北側で合流し大きな沢となり下っていく。この沢に沿って推定大手道であると思われる

道が登って来ている。


osinozyou2345 (2)
押野城と城が平を遠望する。

osinozyou83.jpg
城が平を見る

押野城の南側には城が平と呼ばれる広大な平地が存在する。

この平は昔畑や田圃に使用されていたようであるが、現状は籔となっている。湧水があるようで大きな水たまりとなって

おり城が存在していた頃も、城の水の手としてや西側の防御として使用されていたものと思われる。

この城が平の南側尾根の先端には狐山と称する物見台があったとも伝わる。


osinozyou2345_20150304150408e51.jpg
破壊が進む押野城

今は破壊され見る事が出来ない遺構を見ていただきましたが、いかがだったでしょうか。

これだけ良く残る城跡を連絡ミスというお粗末な失敗により何百年も残されてきた遺構の破壊を許してしまった、

安曇野市に怒りを感じます。

『どうもスミマセンでした』ではすまないんですよ。。。。一応、埋蔵文化財法違反なんですけど。。。。

一般企業だったら罰金が科せられる事案なんですが。。。。。。公共事業なら謝っ済んでしまう。。。。。。。

おかしな話です。

次回は残っていた遺構と破壊されてしまった部分を比べながら紹介したいと思います。



~ 参考文献 ~

明科町誌               明科町誌刊行会     昭和59年

信濃の山城と館           宮坂 武男
  1. 2015/03/04(水) 03:10:17|
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見に来ていただきありがとうございます。
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