長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市   中塔城①

地形を生かして築城した天然の要害

所在地・・・・松本市梓川梓中塔

訪城時間・・・・・1時間~1時間30分程度(登る道による)

危険度・・・・★★★★☆

訪城日・・・・2012年9月8日(『らんまる攻城戦記』の管理人らんまるさんと訪城) ・ 2013年12月1日(再訪)


所々危険な場所はあるものの道は明確で迷うことはない。しかし、山奥にあるために熊などに注意が必要


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中塔城周辺の史跡                                国土地理院2万5千分の1地図使用

*『桜はざま』はいつも拝見させていただいている『安曇野ガザ日記』の管理人であられる『かから様』が確認された城郭

遺構(南安曇郡誌に記載があるという)


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訪城経路(再訪時)

~ 中塔城の立地 ~

中塔城の麓にある中塔集落は、南黒沢と北黒沢によって周囲の集落と隔てられた地形となり、これらの沢を天然の堀とし

て利用し集落自体を宿城(根小屋)としていた。また、北黒沢と南黒沢の合流する地点の台地先端部には尖屋敷と呼ばれ

る城主の居館と考えられる跡が残っていた。(消滅)

中塔集落は中塔城のある金比羅山から張り出した北尾根と南尾根囲い込まれて守られるように存在し、集落の西側、

北尾根と南尾根の間を俵窪と呼ばれ城へ食料などを運び込む道があったとされる。

中塔城は金比羅山(標高1256m)からさらに奥のピークへの広範囲へ遺構が見られ、城自体も北黒沢と北黒沢に挟まれ

ている厳しい地形上に構築された城である。


~ 登城路 ~

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初回の訪城(らんまるさんと)は俵窪の堀状の道を登り、南尾根へ出る道をたどった。

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再訪は、東電の高瀬川線NO,82鉄塔巡視路(南尾根)を登った。

~ 歴史 ~

『長野県町村誌』には『(前略)、天文の頃小笠原権之丞住居の地と言伝ふ、然れども旧記等不伝、故に事跡不詳、今に至り土を

うがち古城具等を得ることあり。 』とある。

現在では、武田氏に府中を追われた小笠原長時が村上義清の力を借りて府中回復を目指すが、長時に無断で義清が坂城へ

引き上げてしまい失意にくれた長時は、武田方と一戦(野々宮合戦)し勝ったことを機に自害をしようとしたところ家臣の二木氏が

『拙者がこのごろ妻子を置いてある所は中洞(塔)小屋といって、いちだんと堅固な地に城郭をこしらえ(後略)。』

とあることから二木氏の詰めの城ではないかとされてきた。


~ 南尾根 ~

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南尾根を鉄塔の巡視路を登っていくと、尾根の弛みの先端にある鉄塔に着く。(写真)

ここまでは鉄塔の巡視路を登る分には距離はあるものの道がきれいで登りやすい。しかし、この先からは道はあるがこの地に

城を築いた意味が分かるほどの険しいものとなる。


しかし、本当に二木氏の城なのだろうか?

二木氏の本拠である地からは直線距離でも約5kmほどもあり、間には岩岡氏や宮高氏・長尾氏・中野氏などの領地がある。

一豪族の二木氏がこれらの豪族の領地を挟んで詰めの城など構築・維持することができたのであろうか?

それは通常、不可能なことなので中塔集落に佐渡屋敷(岩岡)
などがあることから小笠原氏領地内に設けられた山城を持

たない周辺土豪が共同で管理する城郭であったのではないだろうか。

『溝口家記』では籠城中の城主を小笠原貞保としていることからも小笠原氏が管理する城郭であったことが考えられるのである。


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城跡遺構の説明範囲                 信濃の山城と館の図を参考に現地調査をもとに作図

中塔の歴史を見ると、西牧氏が地頭として西牧の郷を治めており西牧郷は小倉までの範囲であったので初期の中塔は西牧氏が

治めていたことが分かる。

この頃に中塔に城があったかは分からないが、建武2年(1335)頃に小笠原氏が住吉荘を治めるようになると中塔城主と言われる

二木氏が出現してくる。


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この図に沿って紹介していきます。

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南尾根に見られる堀切

南尾根を登っている道は、この堀切の脇を通っているが道の下側には竪堀があり道の幅を狭め防御している。

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南尾根と北尾根の合流地点へと続く道を見る。

道が堀状になって登っており、写真の上部は郭が構築されていて頭上からの攻撃を可能にしている。

また、この堀状の道を登り切れば尾根の平坦地(城内)となることから、城内手前には城門のような施設があったのかもしれない。


籠城中の中塔城については『二木家記』には武田晴信や三村十兵衛が攻めかけてきた事や逆に西牧氏の北条城に攻めかけた

事。小笠原憩安(定政)が晴信の使者として降伏を進めてきたことが書かれている。

しかし『高白斎記』『勝山記』などの武田方の資料には出てこないことから、武田方では府中を失った小笠原長時の中塔城籠城を

すでに資料に残すほどの出来事とは見ていなかったものと思われる。


~ 北尾根の防御 ~

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北尾根を登っている登城路とそれを防御するための郭

尾根の上部(城内)への道は堀状になっており、こちらも城門などの防御施設が考えられる

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北尾根でも城内に近い場所には、写真のような大きな郭が段々のように北尾根上から俵窪上にかけて構築されていて、北尾根・

俵窪から攻めてくる敵を想定して構築していることがうかがえる。


『二木家記』にはその後、天文22年まで籠城をし二木氏は小笠原長時と共に川中島草間に行き、約2年間越後に滞在したこと

等を書いている。

ただ、『溝口家記』では小笠原中務少輔を城主に据え半年ばかり持ちこたえたとしており、これが本当のことだと思われる。

何故なら、周りの支城(平瀬城・小岩嶽城)が落とされてしまっては中塔城が包囲されることになり逃げ場を失う可能性が高くなる

ことが考えられるので『溝口家記』が正しいと考えられる。


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北尾根に構築された二重竪堀を見る。

中塔城では明確な堀切というものが無く、登城路の脇の土塁状の尾根を堀切、道下の斜面の下に竪堀を掘って道を狭める手法

をとっているのが大きな特徴で、地形をうまく活用しているように感じる。


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登城路を狭め、敵の移動を制限していることが分かる。

その後の中塔城は、二木氏や小笠原氏が去った後は武田氏の支配地域に入ったものの、城は周辺の土豪が管理していたものと

考えられ、天正10年(1582)、武田氏が衰退し織田氏が信濃に進出してくると西牧氏などの土豪は武田氏を見限り勢力の挽回を図

るために木曽氏に内通することで賭けにでたものと考えられる。

中塔城関係では、岩岡佐渡・織部も武田氏と関係を切り岩岡郷周辺の者を引き連れ中塔城に立て籠もっている。

そこで深志城からは中塔城へ兵を出して上野原や黒沢馬場(中塔集落)などで競り合いを行い、中塔城からも細萱氏の館へも

攻めかけたりしている。その中に岩波平左衛門(二木氏一門)も中塔城へ籠り、西牧氏と協力して神林などを焼き払っている。

『岩岡家記』


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北尾根の登城路を見る

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北尾根に残る竪堀

北尾根にはいくつかの小規模な竪堀が見られ、細尾根での敵の斜面移動を制限している工夫が見られる。

また、竪堀が多いのは北黒沢側が多く、こちらには武田晴信が戦勝祈願をしたと伝える黒沢不動があることから武田氏はこちら

側から攻めた可能性が考えられる。


鳥居峠の戦いで武田勢を下した木曽・織田勢は、その後深志城(現松本城)を攻め、城将馬場美濃守を退去させている。

これに先立って古幡伊賀等は、深志城内の二木・横田等を退去させ、二木氏を中塔城へ移らせている。(岩岡家記)

この後木曽義昌は深志城へ入っている。


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尾根の先端部(鉄塔)まで小規模な段郭が登城路に沿って構築されている。

防御の柵が構築されていたのであろう。


その後、各地を放浪していた小笠原長時の子である貞慶は府中回復を目指し、西牧の金松寺へ現れ旧臣を集めている。

その旧臣の中に二木氏・岩岡氏・岩波氏等がおり、それらの旧臣を率いて織田信長へ引見を願いでた。

だが、信長に相手にされず失意のうちに京都へ去っている。

しかし、そのまま置き去りにされた旧臣たちは織田氏により深志城主とされている木曽氏との関係が悪化してしまい、旧臣たちは

しばらくの間、中塔城へ入り籠城している。そして木曽氏の家来の古幡氏と西牧氏(武田氏没落時に木曽氏に内通している)

は小室原等で小競り合いをしている。

『岩岡家記』は9日間取り合いをしたと書かれており、『二木家記』には20日間余り中塔城へ追い上げられたといっている。

その後、旧臣たちは木曽氏に人質を出し許されている。


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北尾根の先端部は鉄塔建設により詳細は分からないが、麓の中塔集落からの道が通じておりこの辺りにも防御施設などがあった

のではないだろうか。


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城跡で鉄塔を下から眺めるのが好きなんです  !(^^)!

その後の歴史に中塔城が出てこないので織田氏が滅び、その間隙をぬって復帰した小笠原貞慶により府中周辺を平定された

事により安定し、中塔城の存在意義が薄れていったものと思われる。

ただ今回、中塔城主とされる二木氏の領地から離れていることや、中塔城の歴史の中で周辺の土豪が立て籠もっている事実から

中塔城の管理をを周辺土豪での共同管理であったとの考えたが、天文3年(1534)の小笠原家譜代の家臣分限帳に『二木豊後守

重高』「(前略)、安曇郡二木村の城主、後、同郡中洞の城主となる。(後略)」とあることも事実で。。。。

本当のところは分かりませんね。


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北尾根の登城路(こちらも堀状になっています)

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現在のご城主さまにご拝謁できました。
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  1. 2015/05/26(火) 04:43:59|
  2. 松本市
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池田町  鵜山氏館

2年にわたる探索ついに断念!

所在地・・・・・池田町鵜山右衛門屋敷(確定不可)

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2年間で分かった鵜山地区周辺の史跡配置               国土地理院2万五千分の1地図

最初に鵜山氏について知ったのは『池田町誌』の『鵜山(仁科)氏』の項であった。

『池田町誌』には鵜山氏については詳しく書かれていないので『信濃池田町史話』を参考に書いてみると、

『筑摩安曇古城開基』に『(前略)、日岐城の一族にして鵜山虎之助の居城なり』

『北安曇郡誌』に『この城には始め神田将監之に拠り後、後の仁科の臣鵜山十太夫守りし所という。』

とあり鵜山氏が鵜山の地を治めていたことと、仁科の一族であったことが分かる。

今回は紹介しないが、鵜山氏の詰め城と思われる鵜山城については、池田町の遺跡に書かれている場所と、

宮坂氏が示す場所が違っている。

(町が示す場所は調査済み・宮坂氏の示す場所は尾根を間違え未調査でここを調査できれば池田町の城は終了)


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今回2年もかけて散々探し回った館跡については『池田町誌』に、

『鵜山氏館跡と伝えられる屋敷のあとが、鵜山の水田地帯の中にあって右衛門屋敷と言われている。

右衛門屋敷については『明暦弐申より元禄十二辰迄、信州安曇郡池田組鵜山村新切検地帳』(矢口源衛家文書)

のうち明暦弐申ノ新切(1656)に下田・下下田合三反七畝二十歩があり、また、同年の中野郷村新切検地帳

(滝沢久雄家文書)には下下田七畝二十六歩があって、両村合わせて四反五畝十六歩の右衛門(介)屋敷あとが

開田されている。(後略)。』


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鵜山氏館跡から見つかった面                    池田町誌掲載写真を転載

この屋敷の隅に小祠があって、この祠の中から『文化元年(1466)3月、奉納右衛門介』と刻銘がある天狗面と

無銘であるが、同年作と推定される烏天狗面が発見され鵜山の四神社に所蔵されている。


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面が所蔵されている鵜山の四神社(見たことがある人はかなり少数のようである)

この小祠は右衛門介屋敷の祝殿で、鵜山氏はここに住み東方鵜山上に鵜山城を構えていたものであろう。

としている。(町誌抜粋)


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聞き込み(中之郷の方々・中之郷四神社氏子総代・鵜山の方々・矢口源衛氏・池田町教育委員会)の中で、鵜山・中之郷

にある四神社の旧社地が鵜山にあったと聞き調査した。(上図の赤丸の位置が四神社旧地)


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四神社旧社地(構造改善により中之郷の四神社へ遷宮)

『池田町誌』に掲載の検地帳では鵜山村と中ノ郷村にまたがって右衛門屋敷があったと読めるのでここではないかと

考えたのであるが、矢口源衛氏(検地帳持ち主)によると構造改善前は森になっていたとの話を聞くことができた。

池田町誌の記載検地帳には右衛門屋敷は元禄には開田されているので。。。。違うのか?


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中之郷の四神社に建てられている遷宮記念碑

碑文には『当神社は遠い天平の昔、奈良正倉院の麻の調布の袴に銘文を止める前科郷開発の祖神として奉祀されたと

考察され、鎌倉時代この地に興った前見郷守護の霊神として(中略)、弘治2年田中の宮地に遷宮をする。(後略)』

*弘治2年は1556年にはこの辺りは武田氏の領地となっているが、仁科一族の鵜山氏もこの地にまだいたであろうが

四神社にある面の政策時代の文化元年(1466)とは大きく離れているが。。。。。。。遷宮と共に先祖伝来の面を神社に

治めたとも考えられるが。

神社の旧社地を構造改善前に発掘調査したところ、神社の台座と古銭などしか出土しなかったらしいので、違うので

あろうか。


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旧社地から中之郷の四神社に遷宮した本殿(本物)

ただ、鵜山氏の詰め城の麓には殿屋敷と称す削平地があるらしくそこに居館があったのではないかとの説もある。

また、この中之郷四神社の前には才の神遺跡がありここに元屋敷と呼ばれる地もある


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元屋敷地籍

ここには室町時代頃に有力者の屋敷があったとか集落があったなどの伝承があるらしい。

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中之郷四神社と伝鵜山氏宝篋印塔

『池田町誌』には「中之郷集落の東方中山丘陵の中断に土饅頭形の土盛(墓丘)の上に中世末と推定される宝篋印塔

二基の残欠がある。慶安四年の中野郷検地帳には『五輪』の地字が見える。

明治九年の七貴村誌に姓不詳右衛門の墓石との言い伝えを誌している。

この子孫と思われるものが、天正九年(1581)伊勢神宮の御師宇治久家の誌した『しなのの国道者御祓くはり日記』に

  『しなの分  なかのこう    にしなすわ千世殿    のし五十本    ちゃ十袋』

とあることによって、仁科氏系諏訪千世(か)の祖先と解される。以後の動向は不明である。』とある。


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五月の墓域。。。。。。。まったく手入れがされず藪です。

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宝篋印塔の全体が見えません。。。。。。。蛇が出そうです(汗)

そこで。。。。。用意しました。


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11月頃の宝篋印塔と鵜山氏が治めた鵜山・中之郷を見下ろす。

いかがだったでしょうか。。。。。。。。見つかりませんでしたが、ガンバリマシタ。

旧四神社社地のところが一番怪しいと思ったんだけど、鵜山の長老である矢口源衛氏ですら聞いたことがない!

とのことでもう手がかりを失ってしまいました。

ここで断念とします。(興味を持った方は探し出してみてください)

ここの所在地が見つからなかったということで、宮坂氏が示す鵜山城を調査すれば池田町の城館は終了となります。

長かった~。。。。。長々と書いてきた記事を最後まで見ていただきありがとうございました。


また、調査にご協力いただいた鵜山・中之郷・教育委員会の皆様ありがとうございました


~ 参考文献 ~

池田町誌             (池田町誌編纂委員会   平成四年)

信濃池田町史話         (仁科 宗一郎       1964年)
  1. 2015/05/19(火) 20:29:34|
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安曇野市  小倉城

城主は誰だ?

所在地・・・・・安曇野市三郷小倉

訪城時間・・・・・40分

危険度・・・・・★★★★☆ (訪城には滑落・猿・熊に対する対策と注意が必要

訪城日・・・・2011年12月18日


                             ~ 立地 ~

小倉城は、北小倉の西北、尾根が南に向かって突出した場所にあり、標高970mで西面及び南面を鳴沢川が流れている。

南東に向かっては木々が無ければ松本平を一望できるが、北は北沢岳の尾根に遮られて展望は利かない。

また、南尾根から登る際は穴不動からとなるが、尾根の弛みまでの斜面は傾斜がきつく危険である。


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小倉城の立地と城址碑所在地と登城開始場所の穴不動                国土地理院2万5千分の1地図使用

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林道脇にある穴不動の入り口と城址碑

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旧三郷村時代の城址碑

何故この普通の人が登れないような場所に城址碑を建てたのか疑問を感じる。

せめて登城方法や道を示すべきではないだろうか?


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城址碑から鳴沢川に架かる橋を渡り明確な山道を辿る。

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登城路にある穴不動

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内部は荒れ果ててしまい、参拝者は途絶えてしまっているようである。

不動の由緒書の額は掲げられているが、字は薄くなりすべてを読むことは難しい。


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南尾根からの小倉城への登城路は尾根の弛みに出るまでは、傾斜がきつく踏み跡が不明瞭になるために迷いやすい。

また道を誤ると写真のような岩場となり危険度が高くなる。

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今回の訪城路と帰路

今回は穴不動から南尾根を登り、帰りは危険なため東尾根を止山ロープをたどって下った。


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城跡遠望

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険峻な尾根を弛みまで登ると大天狗様の祠が迎えてくれる。

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大天狗様の祠からは、緩やかな尾根の登りとなる。

。。。。。。。かなりシンドイガ。。。。。。

山は6月15日~11月10日までは止山となるので注意が必要です。


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今回の訪城経路と遺構

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この図に沿って紹介していきます。

~ 本郭 ~

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本郭内部を見る。

郭内部には小さな段差が見られ、広いところで16×25m、狭いところで12×7mの広さがあり形状的には三角形に近い。

北側の尾根伝いからの敵に備えるために土塁を備えている。


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郭の奥に低い土塁を見る。

北側尾根と本郭を隔離するために堀切が構築されているが、堀切に付属する切岸(壁)が本郭側で約4mあるために

土塁の高さは1m弱と低くてもよかったのであろう。


小倉城の城歴については『信府統記』には、

『(前略)、城主知れず。但し、此辺の地頭小笠原但馬守貞政、三郎次郎と言いしは貞政のことにや、又、其子にや、詳

ならず。同三郎次郎 天正十三年乙巳年卒す。

淨心寺牌所なり。然れば彼の人の要害なるべし。』とある。


~ 西帯郭 ~

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本郭から見下ろした西側帯郭

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本郭と西側帯郭の間の切岸は緩い傾斜で緊張感を感じない。

淨心寺に現存する位牌には『光明院殿一誉脱叟淨心大居士覚位』の戒名と『天正十三乙酉正月廿二日当寺十三主明誉

代改之人主五十四代清和天皇八幡太郎義家ヨリ二十七世主未末殊小笠原但馬守貞政仮名小笠原三郎次郎』

と記されており、『信府統記』の干支の間違いはあるものの年号が一致していることが分かる。。


~ 東帯郭 ~

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本郭東下に構築されている東帯郭を見る。

本郭の東側にも帯郭が構築されており、西帯郭の切岸とは違い鋭くなっており高さも約3mほどもある。

ただ、東側・南側の山の斜面は厳しいためにこの帯郭以外は東・南尾根には防御施設は見られない。


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また、少し分かりづらいが東帯郭の北側、堀切①に面した場所には土塁が構築されていて堀切①を越えた敵が

攻め入ってくるのを警戒している。


小倉城は『信府統記』・『淨心寺の位牌』から小笠原但馬守貞政が城主と考えられてきた。

また、小笠原長時時代の天文年間(1532~1555)に作られた『分限帳』には、『旗本鑓備衆十九家の内』に

『高百八貫分  小倉山城主   秋山与一     十騎』  との記載も見られる。

小倉は小笠原氏が統治する以前は西牧郷の一部で西牧氏が統治していた。その時代にも西牧氏領最北端の地という

ことで何らかの物見や砦が置かれていたことが想像できる。

その後、建武二年(1335)の中先代の乱で南朝方についた西牧氏は勢力を失い、北朝についた小笠原氏に住吉庄の

地頭職を奪われ、西牧氏は西牧郷と住吉庄の僅かへと勢力が縮小されてしまう。

その後、紆余曲折あり(西牧氏の項参照)小笠原貞慶が府中に復帰すると武田氏侵攻時に裏切ったことを恨んでいた

貞慶により西牧郷すらも失い滅ぼされてしまった。これにより小倉は小笠原氏が領することとなった。


~ 堀切① ~

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北尾根続きから堀切①・本郭を見る。(堀底から約4mの高さ・幅は約14m)

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堀切を西側から見る

写真を見て分かるように堀切と言っても、掘り込みが浅く本郭側の切岸がメインの施設となっている。


小笠原貞慶が府中を復帰に復帰したのが天正10年(1582)でその後に小倉に小笠原貞政を置いて統治させていたもの

と考えられている。

ただその時代に細萱河内守に出された文章があり、差出人が小笠原貞正となっていて貞と貞で一字の違いが見られるのである。。


~ 堀切② ~

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西尾根から堀切②と本郭を見る。

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堀切②を見る。(上幅約6m・深さ約1m)

『三郷村誌』ではこの『貞正』『貞政』を考察している。挙げてみると。

①小笠原長朝の次男貞政・・・・・長男の貞朝の生まれが寛正2年(1461)であるので次男の貞政が寛正4年ころと考えても

貞慶が府中復帰が天正10年なのでこの頃には120歳前後となってしまいNG!

②小笠原氏が春近領の掌握のために島立へ入れたとされる島立氏に貞正がいる。しかし、天正11年生まれなのでNG!

③小笠原貞慶の嫡男秀政・・・・16歳で改名するまでは貞政と称していた。


~ 西尾根段郭 ~

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堀切②から尾根先端までには3段ほどの郭が設けられている。

貞慶の嫡男の貞政は、天正11年2月に父貞慶が属した徳川家康に人質として送られてしまう。この時、貞政は13歳で

あったとされるが、この時代の13歳は大人であったのであろうか。。。。

貞慶が府中を回復した天正10年から人質に行く天正11年まで小倉にいた可能性は年代からみて一番可能性がある

ように感じる。

ただ、貞政は元和元年(1615)に大坂夏の陣で真田幸村軍と戦い、子と共に46歳で戦死している。

淨心寺の位牌・信府統記との没年(天正13年(1585))に合わなくなってしまうのである。

宮坂氏の『信濃の山城と館』では、『(前略)、天正10年(1582)小笠原貞慶が府中を回復して松本へ入部すると一族の

貞政(真正)が当地の小倉城へ配され、安曇郡の軍事行政を委任されたという。天正13年に貞政が戦死したため、その子

三郎次郎が継ぎ天正19年に小笠原氏が下総の栗橋に転封されるとそれに従って去ったと伝える。(後略)』とある。


~ 帰路 ~

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帰路はさすがに登城路を下る勇気が無かったので、東尾根を下りました。

東尾根上には堀状の道があり(途中で消滅)道に沿って止山のテープが伸びていたのでこれを辿りました。

テープは尾根の途中で南斜面を下っていたので、これに従う道は無く傾斜が40°近くあるが木があるので危険度低い。


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着いた先は登城路に向かう際に通過した神社の近くにあった墓地でした。

小倉城は山下を通過する飛騨への間道や鳥川流域(岩原城方面)へ通じる道があったことにより、これらの道を押さえる

ために造られたものと考えられる。そのことは城の防御施設が尾根続きや西側に偏っていることからも想像できる。

城主は小笠原氏一族であったようであるが、規模が小さく本当にそんな上級者が守る城とは思えないが。。。。。。

一時的な緊張時に改修され小笠原氏の領土が北へ広がっていく過程で大きな存在意義は失われていったものと考え

られ、下総転封時には廃城となっていたものと思われる。


小倉城はいかがだったでしょうか。。。。かなり長くなってしまいましたが(汗)

遺構は良好に残されていますが、登城路が明確ではないので危険と感じたら引き返すことをお勧めします。

趣味で命は落とさないようにしましょう!!


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~ 参考文献 ~

三郷村誌                        (三郷村誌刊行会   平成18年)

信濃の山城と館                    (宮坂 武男       平成25年)
  1. 2015/05/17(日) 18:11:33|
  2. 安曇野市
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安曇野市  荻原古屋敷

おまけの荻原氏の推定居館跡

所在地・・・安曇野市明科七貴荻原 

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荻原城・池ノ戸城・荻原古屋敷配置図                   国土地理院2万5千分の1地図使用

『明科町の遺跡』によると、荻原氏の居館は荻原古屋敷と呼ばれる場所であるとしている

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『明科町の遺跡』に記載されている荻原古屋敷の範囲

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萩原城と池ノ戸城・居館の配置からするとあまりいい関係性ではない感じがするが。

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犀川の対岸には明賀沢に本拠を置いていた沖氏の川はざま砦(丸山氏配下)が見える。

生坂が同じ仁科系の丸山氏だったから少しくらい山城から離れていても大丈夫だったのだろうか。。。。

それとも小笠原貞慶が深志に復帰し、丸山氏を攻めた後に丸山氏が貞慶配下となると南の押野も丸山氏に配されて

いるので、押野の高田氏・矢花氏などと同様に丸山氏の配下になり不要になった山城を廃してこの場に屋敷を設け

た。。。。。。とも山城から離れた場所にあることからも考えられるのではないだろうか。。。。。

荻原城のある山周辺の沢は災害が多いようなので。。。。。。


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居館跡は現在は田んぼ・宅地となり遺構は見られないが周囲には矢竹などが見られる。

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まあ。。。。おまけなので見るべきものも、書くべきものもありません。。。。。。。(汗)

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前回掲載し忘れた池ノ戸城全景

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居館周辺には古い石仏が多くみられる。。。。。。。。古い石仏好きなんですよね~。


~  参考文献 ~

明科町の遺跡                  (明科町教育員会    1994年)
  1. 2015/05/16(土) 19:40:01|
  2. 安曇野市
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安曇野市   推定池ノ戸城

荻野城の出城伝承地

所在地・・・安曇野市明科七貴

訪城時間・・・・20分

危険度・・・★★☆☆☆(間伐作業中なので注意が必要)

訪城日・・・・15年3月1日


池ノ戸城と伝承されている場所は、本城である荻原城の北西、沢を挟んだ尾根の先端にあったとされる。

akasina (10)
本城の荻原城と池ノ戸城の位置関係                    国土地理院2万5千分の1地図使用

この池ノ戸城のことが出てくるのは、「明科町誌」と「明科町の遺跡」のみで、

町誌には「荻野城の項の地名及び周辺の遺跡」に『(前略)北西に沢をはさんで池ノ戸城と称する場所があり、池もある』

明科町の遺跡には「荻原城の項」に『(前略)北西には池ノ戸城と呼ばれる場所がある』との記載と地図にマークがされて

いるのみで、図面などは書かれていない。

また、宮坂氏の『信濃の山城と館』にも記載されておらず、未調査の伝承地となっている


ikenoto92 (1)
調査による推定遺構と『明科町の遺跡』マーキング位置

s-ikenoto1 (2)
遺跡地図でマーキングされている南ピークを北ピークから見る。

s-ikenoto1 (3)
南ピーク上(奥に本城の荻原城)

南ピークは本城の荻原城と沢を挟んで同じ高さで真横にあり意志の疎通はしやすいと思われるが、ここには遺構は見られない。

(間伐の作業道により大きく改変は受けているが。。)

何故か。。。それは荻原城が北側に砦を置く理由は、この池ノ戸城があるとされる尾根が邪魔をし北側(長野方面)の見通

が聞かないからである。そこでこの南ピークに砦を置いても北ピークが邪魔をしてしまうのである。(地形図参照)

南尾根に中継ポイントはあった可能性もあるが、北側を見通すには北ピークに砦を構築する必要があるのである。


ikenoto92 (2)
現地で確認した北ピークに見られる城郭状遺構図

ikenoto8 (4)
平場①を見る。

ikenoto11 (3)
平場②を見る。

この推定地で最も明確な平場で砦があったならばここしかないと思わせる遺構がある。


ikenoto11 (7)
平場②と推定物見台

推定物見台は北側と東側に平場②と③に守られているようにみられる。


s-ikenoto6 (1)
平場③から見た推定物見台。

s-ikenoto12 (2)
平場③

推定物見台を囲むように構築されている。

平場②とはわずかな段差がみられるが、平場②がきれいに削平されているのに対して、平場③はわずかに東側に

傾斜している。

街道に面していることから、ここが砦であったとすれば、尾根先から上ってくる敵に備える場所となっていたであろう。


s-ikenoto6 (4)
後方から見た推定物見台とそれに続く平場

現在は雑木が茂って視界は開けていないが、この雑木がなければ生坂方面が一望できる位置となり、そのピークの

真ん中に推定物見台が構築されている。


s-ikenoto134 (7)

s-ikenoto134 (2)
砦後方を守っていたと推定する堀切状遺構

上幅約4m・深さ約2mの堀切状遺構が推定砦位置の尾根続きに見られる。

これが堀切だと証明できるようなものであればいいのであるが。。。。。なんせ素人なもので。。。。。。


s-ikenoto4 (1)
明科町誌や明科の遺跡などに記載の山の上に池があるとされた場所。

池の周囲には祭神不明の祠と休憩用の東屋があり大きく改変を受けているが、町誌などがいう池とはこれであろうと思われる。


s-ikenoto4 (5)
山上に見られる池

水の手や砦後方を守る堀の役割をしたのであろうか。


s-ikenoto3 (12)

南ピークと北ピークの合流する場所(砦跡より約200mほど後方)には土橋状遺構も見られる。

この土橋状遺構を越えてさらに尾根をたどると広大な平坦地が現れる。

昔には耕作されたようであり、このような山奥にも。。。。


s-ikenoto3 (13)

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住居跡が見られたり、田んぼの跡が見られるなど、現在では山奥と感じるところが昔には意外に山奥ではなく

生活範囲内の『ちょっと行ってくるわ!』程度の場所だったのでしょうね。

この奥の尾根を辿れば池田町に通じ、道もあったであろうし、案外このような場所に住んでいた方が砦を管理して

いたのかもしれませんね。

砦跡。。。。と断定できないので『推定』とさせていただきました。

興味ある方は是非訪れてみてください。



~ 参考文献 ~

明科町誌                  (明科町誌刊行会     昭和59年)

明科町の遺跡               (明科町教育委員会   v平成6年)
  1. 2015/05/08(金) 18:44:30|
  2. 安曇野市
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