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長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

安曇野市  小倉城

城主は誰だ?

所在地・・・・・安曇野市三郷小倉

訪城時間・・・・・40分

危険度・・・・・★★★★☆ (訪城には滑落・猿・熊に対する対策と注意が必要

訪城日・・・・2011年12月18日


                             ~ 立地 ~

小倉城は、北小倉の西北、尾根が南に向かって突出した場所にあり、標高970mで西面及び南面を鳴沢川が流れている。

南東に向かっては木々が無ければ松本平を一望できるが、北は北沢岳の尾根に遮られて展望は利かない。

また、南尾根から登る際は穴不動からとなるが、尾根の弛みまでの斜面は傾斜がきつく危険である。


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小倉城の立地と城址碑所在地と登城開始場所の穴不動                国土地理院2万5千分の1地図使用

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林道脇にある穴不動の入り口と城址碑

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旧三郷村時代の城址碑

何故この普通の人が登れないような場所に城址碑を建てたのか疑問を感じる。

せめて登城方法や道を示すべきではないだろうか?


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城址碑から鳴沢川に架かる橋を渡り明確な山道を辿る。

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登城路にある穴不動

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内部は荒れ果ててしまい、参拝者は途絶えてしまっているようである。

不動の由緒書の額は掲げられているが、字は薄くなりすべてを読むことは難しい。


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南尾根からの小倉城への登城路は尾根の弛みに出るまでは、傾斜がきつく踏み跡が不明瞭になるために迷いやすい。

また道を誤ると写真のような岩場となり危険度が高くなる。

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今回の訪城路と帰路

今回は穴不動から南尾根を登り、帰りは危険なため東尾根を止山ロープをたどって下った。


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城跡遠望

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険峻な尾根を弛みまで登ると大天狗様の祠が迎えてくれる。

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大天狗様の祠からは、緩やかな尾根の登りとなる。

。。。。。。。かなりシンドイガ。。。。。。

山は6月15日~11月10日までは止山となるので注意が必要です。


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今回の訪城経路と遺構

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この図に沿って紹介していきます。

~ 本郭 ~

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本郭内部を見る。

郭内部には小さな段差が見られ、広いところで16×25m、狭いところで12×7mの広さがあり形状的には三角形に近い。

北側の尾根伝いからの敵に備えるために土塁を備えている。


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郭の奥に低い土塁を見る。

北側尾根と本郭を隔離するために堀切が構築されているが、堀切に付属する切岸(壁)が本郭側で約4mあるために

土塁の高さは1m弱と低くてもよかったのであろう。


小倉城の城歴については『信府統記』には、

『(前略)、城主知れず。但し、此辺の地頭小笠原但馬守貞政、三郎次郎と言いしは貞政のことにや、又、其子にや、詳

ならず。同三郎次郎 天正十三年乙巳年卒す。

淨心寺牌所なり。然れば彼の人の要害なるべし。』とある。


~ 西帯郭 ~

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本郭から見下ろした西側帯郭

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本郭と西側帯郭の間の切岸は緩い傾斜で緊張感を感じない。

淨心寺に現存する位牌には『光明院殿一誉脱叟淨心大居士覚位』の戒名と『天正十三乙酉正月廿二日当寺十三主明誉

代改之人主五十四代清和天皇八幡太郎義家ヨリ二十七世主未末殊小笠原但馬守貞政仮名小笠原三郎次郎』

と記されており、『信府統記』の干支の間違いはあるものの年号が一致していることが分かる。。


~ 東帯郭 ~

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本郭東下に構築されている東帯郭を見る。

本郭の東側にも帯郭が構築されており、西帯郭の切岸とは違い鋭くなっており高さも約3mほどもある。

ただ、東側・南側の山の斜面は厳しいためにこの帯郭以外は東・南尾根には防御施設は見られない。


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また、少し分かりづらいが東帯郭の北側、堀切①に面した場所には土塁が構築されていて堀切①を越えた敵が

攻め入ってくるのを警戒している。


小倉城は『信府統記』・『淨心寺の位牌』から小笠原但馬守貞政が城主と考えられてきた。

また、小笠原長時時代の天文年間(1532~1555)に作られた『分限帳』には、『旗本鑓備衆十九家の内』に

『高百八貫分  小倉山城主   秋山与一     十騎』  との記載も見られる。

小倉は小笠原氏が統治する以前は西牧郷の一部で西牧氏が統治していた。その時代にも西牧氏領最北端の地という

ことで何らかの物見や砦が置かれていたことが想像できる。

その後、建武二年(1335)の中先代の乱で南朝方についた西牧氏は勢力を失い、北朝についた小笠原氏に住吉庄の

地頭職を奪われ、西牧氏は西牧郷と住吉庄の僅かへと勢力が縮小されてしまう。

その後、紆余曲折あり(西牧氏の項参照)小笠原貞慶が府中に復帰すると武田氏侵攻時に裏切ったことを恨んでいた

貞慶により西牧郷すらも失い滅ぼされてしまった。これにより小倉は小笠原氏が領することとなった。


~ 堀切① ~

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北尾根続きから堀切①・本郭を見る。(堀底から約4mの高さ・幅は約14m)

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堀切を西側から見る

写真を見て分かるように堀切と言っても、掘り込みが浅く本郭側の切岸がメインの施設となっている。


小笠原貞慶が府中を復帰に復帰したのが天正10年(1582)でその後に小倉に小笠原貞政を置いて統治させていたもの

と考えられている。

ただその時代に細萱河内守に出された文章があり、差出人が小笠原貞正となっていて貞と貞で一字の違いが見られるのである。。


~ 堀切② ~

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西尾根から堀切②と本郭を見る。

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堀切②を見る。(上幅約6m・深さ約1m)

『三郷村誌』ではこの『貞正』『貞政』を考察している。挙げてみると。

①小笠原長朝の次男貞政・・・・・長男の貞朝の生まれが寛正2年(1461)であるので次男の貞政が寛正4年ころと考えても

貞慶が府中復帰が天正10年なのでこの頃には120歳前後となってしまいNG!

②小笠原氏が春近領の掌握のために島立へ入れたとされる島立氏に貞正がいる。しかし、天正11年生まれなのでNG!

③小笠原貞慶の嫡男秀政・・・・16歳で改名するまでは貞政と称していた。


~ 西尾根段郭 ~

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堀切②から尾根先端までには3段ほどの郭が設けられている。

貞慶の嫡男の貞政は、天正11年2月に父貞慶が属した徳川家康に人質として送られてしまう。この時、貞政は13歳で

あったとされるが、この時代の13歳は大人であったのであろうか。。。。

貞慶が府中を回復した天正10年から人質に行く天正11年まで小倉にいた可能性は年代からみて一番可能性がある

ように感じる。

ただ、貞政は元和元年(1615)に大坂夏の陣で真田幸村軍と戦い、子と共に46歳で戦死している。

淨心寺の位牌・信府統記との没年(天正13年(1585))に合わなくなってしまうのである。

宮坂氏の『信濃の山城と館』では、『(前略)、天正10年(1582)小笠原貞慶が府中を回復して松本へ入部すると一族の

貞政(真正)が当地の小倉城へ配され、安曇郡の軍事行政を委任されたという。天正13年に貞政が戦死したため、その子

三郎次郎が継ぎ天正19年に小笠原氏が下総の栗橋に転封されるとそれに従って去ったと伝える。(後略)』とある。


~ 帰路 ~

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帰路はさすがに登城路を下る勇気が無かったので、東尾根を下りました。

東尾根上には堀状の道があり(途中で消滅)道に沿って止山のテープが伸びていたのでこれを辿りました。

テープは尾根の途中で南斜面を下っていたので、これに従う道は無く傾斜が40°近くあるが木があるので危険度低い。


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着いた先は登城路に向かう際に通過した神社の近くにあった墓地でした。

小倉城は山下を通過する飛騨への間道や鳥川流域(岩原城方面)へ通じる道があったことにより、これらの道を押さえる

ために造られたものと考えられる。そのことは城の防御施設が尾根続きや西側に偏っていることからも想像できる。

城主は小笠原氏一族であったようであるが、規模が小さく本当にそんな上級者が守る城とは思えないが。。。。。。

一時的な緊張時に改修され小笠原氏の領土が北へ広がっていく過程で大きな存在意義は失われていったものと考え

られ、下総転封時には廃城となっていたものと思われる。


小倉城はいかがだったでしょうか。。。。かなり長くなってしまいましたが(汗)

遺構は良好に残されていますが、登城路が明確ではないので危険と感じたら引き返すことをお勧めします。

趣味で命は落とさないようにしましょう!!


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~ 参考文献 ~

三郷村誌                        (三郷村誌刊行会   平成18年)

信濃の山城と館                    (宮坂 武男       平成25年)
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  1. 2015/05/17(日) 18:11:33|
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