長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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池田町  渋田見城①

所在地・・・・池田町会染渋田見                     訪城時間・・・・20分

危険度・・・・★★☆☆☆                       訪城目印・・・・町立美術館クラフトパーク裏山

訪城日・・・・2011年3月27日・5月22日


           ~渋田見城・渋田見氏の歴史~

 「池田町誌」 によると、

渋田見氏は仁科氏の支族で、初め長生寺に入って僧籍となったが、後に故あって長生寺を氏称する。

その初見は天文23年仁科氏は、千国道での関所の通過料を取る権利を持っており、その徴収を長生寺氏に行わせて

いる文書で、弘治2年(1556)8月1日の大町市仁科神明宮棟札には、奉公人長生寺、同仁科四郎三郎の名がある。

弘治2年9月の大町市若一王子神社棟札写には、仁科修理亮盛康、渋田見長生寺盛近、王子宮造営奉公として王子宮

造営奉公として仁科四郎三郎盛冬の名が見えている。

永禄10年(1567)8月の上田市塩田の生島足島神社所蔵の起請文によれば、仁科盛政の親類被官衆として

渋田見源助政長がいる。

天正9年(1581)の伊勢神宮の御師宇治久家の「御祓くばり日記」に「しふたミ(み)主水殿 のし五十本、

上々茶十袋」とあって在地土豪として渋田見氏が在住している。

天正10年7月小笠原貞慶が深志城を回復すると渋田見氏はいち早く降り、以後部将の一人として安曇郡の北部や

筑摩郡北部の平定戦に従っていたようで、8月から始まった日岐城攻略戦に渋田見源助は古厩氏らと共に戦っている。

その後、天正13年~千見城の攻略や防衛に当たっていることが見える。

渋田見源助政長はこの時、かつて上杉景勝の部下であったが、子細あって小笠原氏へ降った有沢善助に対して

上水内郡小川村高府内の仮宛行状を小笠原貞慶の職務代行として出している。

天正18年(1590)小笠原秀政が下総国古河に転封するが、渋田見源助はこれに従わず残留した。

永禄5年(1596)7月1日仁科神明宮所蔵棟札には助成の衆に渋田見源助の名が見えている。

渋田見氏は慶長18年(1613)、小笠原秀政が再度松本城へ入封するとこれに出仕している。


また、「信濃池田町史話」によると、

北安曇郡誌には「渋田見勘解由(かげゆ)之を築く」とあり、筑摩安曇古城開基には「城主は渋田見能登守盛仲

これも池田殿の家人なり」とあって共に渋田見氏としているが、勘解由と盛仲は同族か同一人物かははっきりして

いない。尚渋田見城主については、「小笠原の臣古見但馬三百五十貫を領し十三騎の将としてこれに居る、その後

仁科の臣渋田見助兵衛盛重の守りし所なり」とも記されている。

とにかくこの渋田見城は渋田見氏が築き居城としていたことは間違いが無いと思われる。

渋田見氏の祖は仁科伊勢守長盛といい、その子を渋田見源助正直(政長)と称し、共に渋田見に住んでいたという

記録が見られる。その時代は室町時代末期で永禄4年川中島の戦があり、森の仁科盛政の支族に仁科伊勢守長盛が

あり、この人を別に長生寺長盛とも記録されている。(中略)

弘治2年に仁科神明宮の式年造営の行事があり、この行事の奉公に渋田見盛近があり、この盛近も別に長生寺盛近

と称しており、この子盛たねも渋田見に居たと伝えられている。(後略)とある。


                ~城跡の現状~

sibutamisiro.jpg

この図面に沿って説明していきます。

sibutamisiro19.jpg

渋田見氏の居館跡とされる内堀から背後の沢(美術館裏にある沢)を登ると、大手道と思われる旧登山道がある。

sibutamisiro3.jpg

この大手道は、①の段郭につながっており、城内に入る部分に窪みがあり虎口が構成されていたと思われる。
(現状は、この大手道入り口は森林整備の名の元に破壊されている)


sibutamisiro5.jpg

3月訪問時、南側斜面をこの森林整備の為の道が通され景観を損ねてしまっている。
しかも、図のようにこの道は段郭一番下の郭の一部を破壊してしまっていた。


~ ①段郭 ~

sibutamisiro26.jpg

段郭を多く使用する城郭は古い時代のものとされており、渋田見城も古い時代からの城を改修しながら
使用されてきたものと思われる。


sibutamisiro24.jpg

段郭は切岸がはっきりしないものが多く遠目に見て段々に見える程度でありこのあたりが古さを感じさせる部分である。

sibutamisiro2.jpg

段郭からの眺め。。。。。絶景ですが・・・・木を切ってしまったのでいつまでこの景色が見られるか・・
何年か後には籔かな~ (>_<)


~ 堀・土塁① ~

sibutamisiro44.jpg

段郭を登り切るとこの堀・土塁・切岸が現れる。
池田町では中々見られない遺構であり、他の豪族が没落していく中、慶長まで土豪として生き残った渋田見氏は
この城を改修しながら使用していてこのあたりを新しい技術として取り入れたのであろう。


sibutamisiro31.jpg

sibutamisiro35.jpg

堀は、東側斜面中腹まで竪掘として落とされている。


sibutamisiro22.jpg

この城は東側斜面に防御の重点を置いており、西側斜面は急な為か斜面に段郭は築かれていない。
それとも。。。。。沢を挟んだ隣に居た鵜沼氏に備えていたのだろうか。。。。。?


sibutamisiro32.jpg

sibutamisiro34.jpg

②の帯郭から堀①を見下ろした写真。
撮った時期は違うが、堀と土塁がカーブしていることや、堀の大きさがわかってもらえるだろうか?


~ ②帯郭 ~

sibutamisiro56.jpg

堀①の上にある帯郭を見る。
この郭は本郭を西・南側を囲むように築かれていて規模が大きいのでニの郭の役目を負っていたものと思われる。


sibutamisiro71.jpg

 ②の帯郭から西側斜面にある段郭を見下ろす。
こちらは規模が小さく狭いものなので、柵などを建てていたものではないだろうか。 


長々と書いてしまいましたが次回は本郭周辺をお伝えしたいと思いますのでお楽しみに!
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