長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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箕輪町  上ノ平城③(最終回)

さあ~長々と書いてきました、上ノ平城の最終回をお送りします (●^o^●)

今回は堀⑤からです。 


uenohira10906.jpg

~ 堀⑤ ~

uenohira61.jpg

堀⑤はかじや畑と③の郭を分けるように掘られた長大な堀である。

この堀は現在、堀③からカーブして堀⑥へつながるという、上ノ平城の2分の1ほどの規模を有する。


uenohira69.jpg

幅は4~2m程度・深さは2.5~1.5m程度の規模である。

uenohira57.jpg

uenohira62.jpg

かじや畑と③の郭を二分する堀⑤
堀①・③に比べてこの堀⑤は規模・鋭さが甘くなっていて長大なことからもしかしたら通路として使用されて
いたとも考えられる。


uenohira67.jpg

一部、緩やかなカーブしながら掘られている。
通路とした場合の見通しを悪くするための工夫かな???


~ 堀⑥ ~

uenohira75.jpg

堀⑤が伸びてきてカーブする部分が堀⑥となる。(堀⑤の延長だが一応堀⑥として区切って説明する) 

uenohira72.jpg

堀⑤からカーブしてきた堀⑥は城内と城外を区切る最後の堀となる。 

uenohir73.jpg

uenohira76.jpg

堀⑥は竪掘のようにして北側斜面を下っていく。

~ 堀⑦ ~

uenohira84.jpg

 ③の郭の東側、城内と城外を区切る堀であったと思われるが、現在はわずかな痕跡のみである。 

uenohira82.jpg

現在では確認できないが、元々は堀⑥とつながっていて城内と城外を分けていたものと思われる

~ ③の郭 ~

uenohira37.jpg

 ③の郭を見る。(竹藪の所は堀⑦) 

uenohira38.jpg

uenohira39.jpg

 ③の郭は現在、畑地となっており広大な平坦地となっている。 

uenohira18.jpg

上ノ平城の南斜面には無数の段郭状の平場が存在する。

このすべてが城に関するものとは思わないが、南側の傾斜が緩いために往古も何段かは存在したと思われる


~ 全景 ~

uenohira113.jpg

この城は比高が低く広大な城域を誇ることから戦うだけの城ではなく、政治を行う機能も持った城だったのでは
ないだろうか?
その理由としては。。。。。城下町・祭礼場所があったようなのである。
 


uenohira114.jpg

南小河内区内にある看板。。。。。城跡北側下には城下町を思わせる「殿屋敷小路」「立小路」などの
地名が残り道路なども明確に区画されている。

その為、普段城主はこのあたりに居館を構えていたと考えられている。
 


179.jpg

さらに、堀⑥⑦の東側の城外には、この御射山平と呼ばれる御射山社の祭礼を行ったとされる場所も存在する。 

~ 発掘調査で出土した遺物による時代と築城主の推考 ~(報告書抜粋)

今まで上ノ平城は、知久氏が下伊那へ移った鎌倉時代以降使われず鎌倉時代のまま残っているとされてきた。

しかし、発掘調査の成果から戦国時代(15世紀中期~16隻中期)に機能していた城であることが確認された。

近隣の福与城跡が文献資料に登場する時期と等しく、位置的に近いことから何らかの関係があったものと考えられ

ている。


*県埋文の河西氏による報告書内の論文の見解

築城者・改修者について・・・二つの推論か書かれている。

①礫を多量に投棄しての虎口の破壊は在地武士を越えた戦国大名によりなし得た行為との前提から、武田氏が

1期の上ノ平城に放火したうえで破壊し、その上部に2期の上ノ平城を築城したとの解釈である。

②武田氏の侵攻などで生じた上伊那の軍事的緊張状態の中で、在地勢力が1期の上ノ平城を廃絶、2期の上ノ平城

を構築したとの見方である。

①は武田氏、②は在地勢力が築城主体者となる。

しかし、資料的な限界により推測の域を脱しないが、武田氏侵攻段階の軍事的緊張状態により1期の上ノ平城が

破壊されたと理解することは出来よう。としている。



・・・なお。。この発掘では鎌倉時代の遺物は発見されていなのである。

知久氏はここに居たのでしょうか???? 



~参考文献~

箕輪町誌                   (箕輪町編纂刊行委員会  昭和61年)

上ノ城跡発掘調査報告書            (箕輪町教育委員会    平成13年)

長野県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第16集  (市村 咸人   昭和10年)

山城探訪  上伊那資料編           (宮坂 武男)




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  1. 2012/10/24(水) 19:11:05|
  2. 箕輪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<塩尻市  西條城① | ホーム | 箕輪町   上ノ平城②>>

コメント

長~い堀でございますなあ

なるほど、武田さん、福与城も放火して廃城にしちゃったし、この城もきっと燃やしちゃったんでしょう。そんでもって在地の土豪衆に晴信さんが城造れって命じたという新説をご提案致します(笑)
伊那は大島城と高遠城があれば良かったんでしょうネ。
  1. 2012/10/27(土) 17:55:03 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

Re: 長~い堀でございますなあ

> なるほど、武田さん、福与城も放火して廃城にしちゃったし、この城もきっと燃やしちゃったんでしょう。そんでもって在地の土豪衆に晴信さんが城造れって命じたという新説をご提案致します(笑)
> 伊那は大島城と高遠城があれば良かったんでしょうネ。


らんまるさん  いつもありがとうございます。

その説ありえるんじゃないでしょうか。

上ノ平城は2期より1期の方が城としての機能は高かったようで、

1期には礎石建物が存在し、堀が①②の郭間にもあったのに、

埋めてしまい、防御より郭を広げることを優先したようですので、

政治の拠点としたのか謀反が起らないように防御を簡素にしたのか。。。

のどちらかでしょうけど、誰が居たんでしょうね。

  1. 2012/10/28(日) 20:38:33 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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