長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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下諏訪町  下の城①

下社勢力による巨大城砦群

IMG_0002_20130109223218.jpg

国土地理院 二万五千分の一地図使用


訪城時間・・・・一の釜墓地から20分・上の城から15分              危険度・・・・★★☆☆☆

訪城目印・・・・一の釜墓地・鋳物師沢                       訪城日・・・・2011年1月29日




     ~ 上の城・下の城・萩倉砦関連記載文献記事 ~

「旧東山田村の史跡散歩」の「東山田の山城」の項には、

(前略)東山田の山城は現在上の城・下の城・社中学上砦(下浜・宮坂武男氏新発見)・下の城下の砦(下諏訪町

埋蔵文化財包蔵地調査カード)が判明している。(社中学上砦は萩倉砦のこと)

和田峠方面の防備として重要であったと考えられる。築城者は諏訪湖北一円を支配していた下社大祝金刺氏といわ

れる。伝承では山田氏が預かっていたという。(日本城郭大系)後武田時代には武田二十四将の一人横手備中守が

居城したと伝える。(史蹟要項)

山田氏としては、武田時代の永禄10年の諏訪五十騎起請文の内、今井春夫氏所蔵の古文書で山田備前守は東山田に

住む豪族にて、今井家の祖で子の半九郎は浪人した。(武田氏滅亡のためか?)

戦国時代末期には山田若狭守・山田新右衛門尉・山田源兵衛など有力武士があり、この三名は一族で山田郷出身と

みられるものである。よって上の城・下の城は山田氏の居城であったのではなかろうか。

この城はまた砥川をはさんで金刺氏の詰の城山吹城に相対し支城のごとく見え和田峠口の抑えとして構築し、

金刺氏支流の山田氏をこの地に配したのではなかろうか。(岡谷市史)

下の城下の砦は、下の城は二つの区画に分かれているので下の部分をそう呼んでいるものと思われる。


sitanosiro2.jpg

下の城搦め手の入り口を見る。(城の脇を林道?が通っている。)

sitanosiro.jpg

下の城は、戦後開墾され畑として郭が使用されていたが、現在は笹藪となっており詳細の確認は難しくなっている

今回は上の城から下の城の城域にはいったので搦め手からの紹介となります。あしからず!(-_-メ)


~ 堀① ~

sitannosiro3.jpg

搦め手から見た堀①と郭①(山探訪ではニの郭の記載) 

sitannosiro3 (2)

sitannosiro3 (3)

搦め手を守る城内最後の堀切で、上幅約10m・深さ約3mあるが笹藪が酷く竪掘までは見ることが出来ない。 

~ 郭①(ニの郭) ~

sitanosiro5 (3)

郭①(ニの郭)は、本郭北側にあり搦め手と接していてこちら側に土塁を鍵の手に構築されているようであるが、

写真のように笹藪が酷く詳細の確認は難しい。
 


sitanosiro5 (2)

郭①(ニの郭)と奥に郭②(本郭・奥の高まり)を見る。

郭①内部はきれいに削平されているようであり、この場所と郭②がメインの場所で建物があったと思われる。
 


sitanosiro5.jpg

郭の縁部に低いながら土塁が確認出来る。(城内は一応、笹が刈られた道があるので安心です) 

~ 堀②(郭①と郭②間の堀) ~

sitanosiro6.jpg

郭①(ニの郭)から郭②(本郭)を見る。(郭②のほうが2mほど高い)
間に堀②があり鋳物師沢側に土橋があり斜面両側に竪掘を落としている。
 


sitanosiro6 (2)

sitanosiro6 (3)

堀②は上幅約13m・深さ約5mとなっており、本郭とニの郭を分けるように構築されている。 

~ 郭②(本郭) ~

sitanosiro7 (5)

sitanosiro7 (6)

下の城がある尾根のピークにこの郭②があり実質的には本郭と見られる、しかし、写真でもわかるように郭内部は

笹藪が酷く、周りに帯郭・段郭などが笹の凹凸によりわかるが直に見ることは難しい。 


sitanosiro7 (2)

sitanosiro7 (3)

本郭の西側縁部に確認出来る土塁。

わずかに笹が無い部分を見ると郭の削平は甘く、緩やかに南側に傾斜があるように感じた。
 


ちょっと長くなってしまったので、今回はここまで~V

次回は、下の城下の砦とされる堀③遺構をご紹介したいと思います。
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  1. 2013/01/14(月) 10:37:25|
  2. 下諏訪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4
<<下諏訪町  下の城② | ホーム | 1月12日の訪城結果>>

コメント

いいですねえ

④郭の回りにある、
横堀と竪堀の組み合わせがいいですね
戦国後期の技術のような気がしますが
このお城は、戦国後期まで
使われたんでしょうか
  1. 2013/01/16(水) 06:03:25 |
  2. URL |
  3. 丸馬出 #-
  4. [ 編集 ]

Re: いいですねえ

丸馬出様 コメントありがとうございます。

下の城は、堀切・竪掘を多用した城でありますが、現在は笹藪で部分的にしか確認できません。
全体を見ることは出来ないのでなんとも言えませんが、
構築物だけをみれば戦国末期まで使われたように感じますが、明確な歴史は
下社の金刺氏による構築と思われるのみで、その後武田氏による改修が行われたであろう。
というのみです。
しかし、天正壬午の乱後に塩尻峠周辺は小笠原・諏訪・保科の三氏が勢力争いをしていた
地域であることを考えれば、諏訪氏などによる改修はあったかもしれませんね。

せめて笹藪でなければもっと詳しい考査が出来ると思うのですが。。。。
  1. 2013/01/17(木) 04:34:49 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

微妙ですなあー

時代的な古さの否めない城跡ですねえ。
武田氏滅亡後のどさくさに紛れて本領復帰を画策した諏訪氏が手を加える余裕があったのかは疑問です。
一時的に窮地に追い込まれた徳川が手を加えた可能性はありそうですが、真相は「笹藪の中」でしょうか・・・(笑)
  1. 2013/01/17(木) 21:37:36 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

Re: 微妙ですなあー

らんまるさん コメントありがとうございます。

うまい!座布団一枚ですね。
確かに古さは否めない城跡ですが、竪掘や掘切の規模などを見ると
結構戦国末期くらいまで使われたのではないかとも思えるのですが。。。

沢を挟んだ所にある萩倉砦を見ると一時的な砦としか見えないし。
長くは使われなかったのかもしれませんね。
  1. 2013/01/18(金) 03:22:55 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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