長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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下諏訪町  山吹小城

下社金刺氏の要害

この訪城は、山吹小城を見て小城の搦め手から現在の鉄塔保守道を使って大城に行き、大城から白鷺砦?と
山城探訪がする尾根の先端までの隅々まで見て約3時間の訪城をしてきました。

ですので、下社金刺氏の要害として約3~4回に分けてお送りしたいと思います。


yamabukikozyou2.jpg
国土地理院 2万5千分の1地図使用

所在地・・・・下諏訪町下ノ原                            訪城時間・・・・10分

危険度・・・・★☆☆☆☆(狩猟期間は、注意が必要)             別 名・・・・山吹沢城

訪城目印・・・・水月公園                              訪城日・・・平成12年3月4日


              ~ 山吹城の歴史 ~

山吹城に直接関係した文献は少ないため、築城と廃城時期が明確ではないが、下社金刺氏の詰城とされてきた。

諏訪上社と下社は、鎌倉時代以来しばし抗争してきたが、長享3年の「雪村大和尚行道記」に「諏訪郡地令ニ上下一

ノ大祝分守、其間神湖出為」とあり、室町初期に至ってもしばし戦いが行われたことがうかがえ、文明12年には

下社の金刺興春が上社前宮付近の大町に放火した。

文明15年(1483)には更に高島・上桑原・武津をも焼き払い上社に差し掛かって放火合戦を行った結果、下社方は

敗北し、大祝金刺興春は大熊城(諏訪市)に首をさらされ、下社は上社方の為にやき払われてしまった。

これを「文明の内訌」といわれ興春の跡には金刺昌春が大祝となった。

永正15年(1518)、上社方に居城の桜城を攻め落とされた昌春は、「萩倉の要害」に逃げ込み、戦わず逃散した。

この様子が、「コノ年下宮遠江守金刺昌春、萩倉ノ要害ニ自落シテ一類面々家風悉ク断絶シ畢(おわ)ンヌ

(中略)十二月十八日夜大城没落ノ処ニ・・・(後略)」と「當神社幸記」に見られる。

この記事に見られる「萩倉の要害」については、山吹城とする説と当時の萩倉の位置から、対岸の上の城をあてる

説(下諏訪町誌)とがあり、現在明確な結論は出ていない。


               ~ 山吹小城の現状 ~

yamabukisiro 101

この図面に沿って説明していきますので。。。お付き合いください。

~ 堀① ~

yamabukikozyou3.jpg

この堀①は、尾根の先端にある水月公園から登ってくると最初に出会う城郭遺構で、敵の直進を遮る効果を狙った
ものと思われるが、写真のように土塁を伴っているものの堀の傾斜が緩く古い時代の感じを受ける。

この堀の感じは、対岸の上の城・萩倉砦の横掘に似ていて同一の築城主体を思わせる。
 


~ 郭①(三の郭) ~

yamabukikozyou10 (3)

郭①は、尾根の最初のピークに存在している。
郭の中心部は、きれいな削平がされていて、西側(ニの郭側)に土塁が構築され、この郭から螺旋状に北側
(山吹沢側)へ帯郭のように郭中心部を取り巻くように下っていく。


yamabukikozyou10 (6)

ニの郭側に構築された土塁(高さ約40~50cm程度)を見る 

yamabukikozyou10 (5)

三の郭中心部か螺旋状に下ってきた郭は、中心部を取り巻くようになっているが笹藪が酷く細かい所は確認できな
いが、削平は甘いように感じた。(山吹沢側に存在)
 


yamabukikozyou10 (9)

三の郭南側の塁壁を見る。
この城の南側に駒ヶ原と呼ばれる湿地(現在、清掃処理場や墓地)が存在しているが、こちら側には
写真のように甘い塁壁となっており現在の通路状の平場以外の備えがなされていなくこの城が、山吹沢側に
防御重点を置いていたことがうかがえる。(駒ヶ原が湿地帯であったことが防御が甘くなったとも考えられるが
・・・・どうであろう。)


~ 堀② ~


yamabukikozyou5 (5)

堀②は、三の郭とニの郭間を区切る堀切で、上幅約15m・深さは郭①側で約4mほどの切岸となっている。
現在は、笹藪となっており山吹沢側は詳細を見ることは難しいが、駒ヶ原側には竪掘は見られない。


~ 郭②(ニの郭) ~

yamabukikozyou8 (3)

郭②を見る。
郭②は、郭①・③と違い加工度が低くほぼ自然地形である、唯一の城郭遺構としては郭①側に小規模な土塁が見られる。


~ 堀③ ~

yamabukikozyou7 (3)

堀③を見る。
堀③は、郭②と郭③の間に構築された堀切で、上幅約10m、深さ約3mで山吹沢側に竪掘として落としているが、
駒ヶ原側には竪掘は見られない。


~ 郭③(本郭) ~

yamabuki kozyou92

郭③の西側(堀③側)に構築された高さ約2mの土塁を見る。
郭③は他の郭に見られない郭の三方に土塁が構築されており、防御が一番厳重になっている。


yamabukikozyou4 (3)

山吹沢側に構築された土塁で他の土塁は、堀を掘った土を盛り上げて構築したと思われるが、この土塁は幅が
広く土塁の立ち上がりも緩やかなことから、郭を削平する際に削り残して構築したものと思われる。


yamabukikozyou4 (9)

郭③の東側(尾根続きに大城が存在)に構築された土塁を見る。
この土塁の奥に堀④が構築されており、この堀を掘った土を盛って構築されたものと思われるが、奥に大城が
存在することから、土塁も規模が小さいものとなっている。高さは約1m。



yamabukikozyou4 (2)

郭③内部全景を見る。(奥に堀③に伴う土塁が見える) 

~ 堀④ ~

yamabukikozyou78.jpg

郭③(本郭)から見下ろした堀④

yamabukikozyou6 (3)

堀④は、小城の城域最後の堀切で、本郭裏の堀切でもある。
基本的な城では、本郭をその他の郭で挟むなどの構築方法が取られることが多いが、小城は尾根続きに大城が存在
するのでこのような構築方法となったものと思われる。
堀切に関しては、上幅14m・本郭側での深さは約7mで、小城の搦め手を守るというよりは、大城の支城として大城
へ行かせない為の遮断線としての堀切であったのではないだろうか。


yamabukikozyou1 (5)

小城の搦め手の尾根伝いを行くと写真のような鉄塔の保守道があり矢印の方向へ向かう。
ここを辿って行くと山吹沢を越えて大城の西尾根へたどり着き、更に辿ると白鷺山への尾根へ辿り着く。
現在は鉄塔保守道であるが、往古はここが大手ではなかったかと思うがいかがであろうか。。。。。

*なお、駒ヶ原の車道を行けば車で大城近くまで行けるようで、こっちの方が楽ではあるがすべてを見るには
この保守道がお勧めですが、少々荒れているので注意が必要です。
(山吹城の記事を書いている方はほとんどこの車道で訪城しているようである。)


yamabukikozyou1 (4)

搦め手尾根から見る山吹大城。
山吹小城の標高は947m(山吹沢から比高120m)。山吹大城の標高1015m(山吹沢から比高200m)あり両城の比高
差は約80mある。


yamabukikozyou1 (8)

駒ヶ原から見た山吹小城。
駒ヶ原からの比高が低いことが分かるが、駒ヶ原方面に防御遺構がほぼ見られないことから往古は湿地帯で自然の
堀のような役目を果たしていたのであろう。



金刺氏の要害である山吹小城を紹介してきましたがいかがだったでしょうか?
郭②に見られるようにほとんど自然地形のままの郭・甘い切岸など古い築城を感じますが、堀切の規模・郭③の
高さのある土塁など新しい感じもありと二つの時代の遺構が混ざっているようにも感じました。

大城が後の改修があったとしている資料もあるので、大城の大手を守る小城も改修されたのであろうか。。。。
素人にはわからないが。。。。。苦労しないで見れる魅了ある城であった。

次回は。。。。。もちろん山吹大城をお送りしますのでお楽しみに!  (#^.^#)


~ 参考文献 ~

山城探訪 諏訪資料編  (宮坂 武男)

長野県史蹟名勝天然記念物調査報告  (長野県文化財保護協会  昭和50年)

高島城と諏訪の城    (郷土出版社)
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  1. 2013/02/03(日) 08:45:51|
  2. 下諏訪町
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<山吹大城① | ホーム | 下諏訪町  萩倉砦>>

コメント

どっちが最初?

ようやくPCが復帰したようで何よりです(笑)

「上の城・下の城」「大城・小城」というのは実にやっかいで、どっちが先に造られたんだろう?っていつも問題になる・・・(汗)
山吹小城は最初から砦としてあったのだが、手狭なため急遽大城を築城して武田に備えた?
それとも大城の中間に出城を置く事で後詰めの時間稼ぎをする??
小さいけどそれなりにしっかりした作りですねえ。桜城との連携も視野に入れてたんでしょうか?
  1. 2013/02/04(月) 07:07:41 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

Re: どっちが最初?

らんまるさん いつもありがとうございます。

宮坂氏も山城探訪に書かれているのですが、最初に大城が構築され、
大手を守る為に小城を追加で構築したというのが正しいのではないでしょうか。

堀の規模でいえば小城の方が大きいですし、横掘も見られるのでどちらかというと
小城の方が新しい感じを受けます。
桜城の比高が低く要害性も無いので、どうしても詰の城が必要だったんでしょうね。
もちろん両城で和田峠から来るであろう敵に共同で備えていたのでしょうね。
  1. 2013/02/05(火) 04:20:57 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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