長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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安曇野市  茶臼山城

塔ノ原城の支城

所在地・・・・安曇野市明科東川手            訪城時間・・・・居館跡へは5分・山城部へは15分

危険度・・・・★★☆☆☆                  訪城目印・・・・こや城(城山公園)と会田川を挟んだ対岸

訪城日・・・・2008年8月16日・2011年3月13日


備考・・・・居館部は畑地なので、人が居たら許可をもらってから入りましょう。(畑地は立ち入り禁止)


             ~ 茶臼山城の歴史 ~

「明科町史」の茶臼山城の項には、

施行田の会田川が屈曲する所で茶臼山と呼ばれる200m×200mの一帯で、山頂に本郭の平があり下の段に根小屋

(居館)がある、また、本郭の北側少し下に第ニ郭と思われる平地がある。

東側の登り口には細い腰郭と思われるものが畑となって四段あり、空堀は東側の尾根との境に畑となっており、

北側の幅に三条ある。下の根小屋1haの周囲には西から東にかけて、高さ1m、巾0.8mの築地の石垣が80m余も続い

ている。現在の石垣は昭和20年頃に古い築地のあった上へ、開墾の石を更に積み上げたという。

東側には土塁が約30m残り、西の入り口には馬入口が残っていて、下には会田への旧道が通じている。

伝承としては、北側の下屋敷に青木氏の先祖が番をしていたとされ、塔ノ原氏がこや城と同時に会田口の押さえと

して築城し配下の青木氏を配置したもので、天正10年に塔ノ原氏滅亡時に茶臼山城は廃城となったと思われる。

青木氏は、天正9年の御祓くばり日記には見られない。(青木氏は伊勢御師宇治久家の檀家ではなく、御師堤家の

檀家であったと思われるが堤家の記録は残っていないので青木氏がどの程度の力を持っていたかは不明)

ただ、青木氏は中級武士であったので、塔ノ原氏滅亡後には帰農したものと考えられている。


             ~ 茶臼山城の現状 ~

akasinacyausu23.jpg

この図面に沿って紹介していきます。

~ 居館跡 ~

akasinacyausu12 (3)

会田川東岸沿いを会田への旧道がかつて通っており、この旧道から茶臼山城の居館跡へ登る道がついている。

この道を「馬入」と呼んでおり、かつての大手口であったのはないかと考えられている。


akasinacyausu1 (2)

居館跡と後方に茶臼山城を見る。

akasinacyausu1.jpg

居館跡の広大な平地

居館跡の規模は一番広い所で、96m×94mでかつてはすべて耕作地であったようであるが、現在は北西の一部が耕作

地で残りの部分は籔となっている。


akasinacyausu3.jpg

akasinacyausu3 (2)

居館跡の中央部よりやや東側に「矢塚」と呼ばれる高まりが存在する。

この塚からは、茶臼三個と土器の破片が見つかっている。


akasinacyausu12 (6)

旧明科歴史資料館所蔵の茶臼山城矢塚出土の茶臼

akasinacyausu2 (2)

居館跡の南側には、西から南側にかけて高さ1m、巾0.8mの築地の石積みが約80mほど見られる。これは、居館を

区切る築地の跡と見られるが、昭和20年頃に古い築地の上に開墾時に出た石を積み上げたとされているのでこの

下には居館に関係すると見られる築地跡が今でも埋まっていると考えられる。


akasinacyausu5.jpg

居館跡の東側段丘端には、長さ約30m・幅2m・高さ約0.5mの土塁が残る。

この土塁は、会田川を挟んだ対岸または下を通過する会田への古道に対しての目隠しや防御であったと思われ

かつては居館を囲むように縁部に構築していたのであろうが現在は一部のみである。


~ 山城部分 ~

akasinacyausu7 (2)

akasinacyausu7.jpg

居館跡後方の茶臼山には、茶臼山城の物見砦が存在し山頂に本郭の広大な削平地が存在する。

削平地の規模は、約100m×30mで何棟もの建物が建つ広さであるが現在は、笹と雑木の籔となり土塁等は見られな

い。(かつて耕作されたようであるので、土塁は削平された可能性もある。)


akasinacyausu8.jpg

本郭から見る掘切

本郭から東側に尾根を下ると、何段かの段郭状の削平地があり堀切とされる低い平地に至る。

この斜面にある削平地は、かつて堀切無いも畑となっていたので耕作による削平の可能性が高い。


akasinacyausu8 (4)

堀切内部を見る

堀切とされる鞍部は、かつて畑地となっていたらしく現在は籔となっており、幅は約20mである。

明科町史には、堀切内部の北側斜面には竪堀が3本書かれているので、かつては3重の堀切であった所を、耕作の

為に平らに削平した可能性があるのかも知れない。


akasinacyausu11 (4)

ニの郭と奥に本郭の高まり

本郭から北西に約24m緩やかな斜面を下るとニの郭が構築されている。

akasinacyausu11 (3)

ニの郭からは、会田川と麓の集落をはさんで対岸に同じ塔ノ原城の支城のこや城がよく見え、協力して街道を

守っていたことがよくわかる。


akasinacyausu11 (2)

ニの郭は、約85m×20mで弓矢のような形をしていて削平は丁寧にされているが、土塁等の防御施設は見られない。

akasinacyausu12 (2)

こや城がある北側の会田への古道から見た茶臼山城

akasinacyausu12.jpg

会田川を挟んだ南側の大葦方面から見た茶臼山城

隅々まで見てきた茶臼山城はいかがだったでしょうか。

この城は、こや城と共に西側対岸山上にある塔ノ原城の支城とされていて、天正11年(1583)に塔原氏が、

小笠原貞慶に誘殺されて塔原氏が滅亡した時点で、廃城となりその後は改修を受けることが無かったものと思われ

切岸の甘さや不明瞭な堀切などに古さを感じられる。ただ、居館部の築地や土塁は山城部には見られないもので

青木氏は廃城後も、ここに居住していたのではないだろうか。



~ 参考文献 ~

山城探訪 松塩筑資料編       (宮坂 武男)

明科町史              (明科町史刊行会  昭和59年)



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  1. 2013/04/11(木) 04:53:38|
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  4. | コメント:2
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コメント

蛇が怖かったあー

昨年の夏に藪をかき分けて攻めたのを思い出します。
笹藪でデカイ蛇を踏んづけて、ヤバかった(汗)
その後頭がパニックになり、何が何だかわからないうちに夕立ちに追われて退却しました・・(笑)

ここもそのうち廃村になりそうですね。
こや城とダブルで機能してたんでしょうか。
  1. 2013/04/20(土) 22:08:53 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

Re: 蛇が怖かったあー

らんまるさんへ
仕事が忙しくて全然更新できていないのですが、
来週からは頑張りたいと思います。

こや城の関氏と茶臼山城の青木氏は、在地の土豪で会田方面に備えて
塔ノ原城主の配下となっていたようですが、檀家が違う者に所属していた
ようですので関氏とはあまり近い存在ではなかったのでしょう。
  1. 2013/04/21(日) 15:51:05 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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