長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  西牧氏①

ここの所、西牧氏関連の城館跡を紹介しているので西牧氏について調べてみました。。。。。(-_-;)

ただ、なにぶん素人でありますので複数の資料を調べて書いていますが間違いがあるかもしれません、

どうぞ笑って聞き流して下さい。また、文章をまとめる能力が乏しいので年号別にしか書けませんがどうぞ

長くなりますがお付き合いください。



~ 西牧氏の入郷について ~


住吉庄(現在の長尾・大妻・二木・真々部などの旧三郷村と旧豊科の一部・旧梓川村の東側一部が入っており、

西牧郷は入っていない)の開発領主は西牧氏であるとされている。

西牧氏は、本姓が滋野氏で来郷は古代と考えられており、滋野氏が国司として信濃へ下向しやがて所々へ一族を

配して繁栄していった。この中で西牧郷周辺に土着した者が西牧氏を名乗るようになったようである。

来郷の目的は、牧場経営であったが平安末期になると牧場は山間の適地である(旧安曇村の)一之瀬・番所・

(旧奈川村の)駒ケ原等へ移っていきこのあたりも西牧氏の領地となっていった。

その牧場の管理に西牧氏一党の古幡(古畑)氏が牧司として赴いて土着した。

古幡氏は戦国時代の武将に古幡伯耆・降旗三郎右衛門(後に岩原姓になる)等がみえ、古くは上野段丘下にあっ

たとされる古幡郷の牧を支配していた一族であったと思われるが、源平の騒乱で平氏に加担した為に失脚し、

古幡氏に代わって入ってきた西牧氏の配下または一族となったものと思われる。


西牧氏は上野原段丘上を牧場から水田開発へと変えていき、急流の梓川からの揚水する為の難事業を行い成功させ

ている。

この西牧氏の出自について「二木家記」によれば、「西牧殿は、志賀の局の子、皇子也」と書かれている。

これは、本姓である滋野氏が清和天皇の皇子から出ていると滋野系図に書かれていることによるものと思われる。


~ 建仁三年(1203) ~

西牧氏の名前が初めて見られるのは、建仁三年の真光寺の阿弥陀如来三尊像の

像内銘で「滋野兼忠」「滋野兼茂」の名が見られる。


sinnkouzi2.jpg
現在、真光寺にある阿弥陀如来像は保管庫に入っていて見ることは出来ないので説明板のみの掲載です。

この三尊像の造立は、滋野兼忠と一族の妻橘氏の子、男女八人の無事安穏を祈願する為に造立されたものである。

この真光寺については、「信府統記」に、

「当寺ハ建仁年中草創ノ地ナリ、天文十五年丙午年大檀那 滋野讃岐守貞兼、法名 海厳淵成了源大居士中興ノ

開基ナリ、支配ノ阿弥陀堂モ開基上ニ同ジ、阿弥陀堂ニ大木ノ糸桜アリ」と書かれている。


sinnkouzi1.jpg
真光寺の拝殿を見る。

また、金松寺も平安時代に中村に居館した西牧氏が祈願寺として建立したとされる。

(後には小笠原長時により旧臣の招集場所にも利用される。)


kinnsyouzi.jpg
金松寺を見る。(本堂は新しく建て替えられておりこの門以外見るべきものはない)


~ 嘉暦四年(1329) ~

嘉暦四年、鎌倉幕府の諏訪上社五月会御射山頭役等の結番を定めた下知状で「右頭西牧埋橋両郷地頭等」とあり

地頭である西牧氏が務めている。

西牧氏は一族の大妻氏などと共に神氏とされている。

これは諏訪上社との結びつきが大変強く、家紋に諏訪氏の四本根の梶葉を用いており信仰上の神氏(諏訪氏)一族

とされていたものである。


~ 建武二年(1335) ~

建武二年、小笠原貞宗が足利尊氏によって西牧氏の支配地である住吉庄の地頭職を宛がわれている。

これは、鎌倉幕府滅亡時に幕府方となって戦った諏訪氏や西牧氏など滋野氏の神氏一党は勢力が失墜したことに

より、討幕に働いた小笠原貞宗に勲功の賞として住吉庄の地頭職と武田孫五郎長高跡・市河惣部六郎跡の地が宛が

われたものと思われる。これにより西牧郷や住吉庄南部に支配を強めてきた西牧氏は、住吉庄への支配力が小笠原

氏によって狭まれていったのである。

wakamiyahachimann2.jpg
北条にある若宮八幡神社本殿の説明板


wakamiyahachimann1.jpg
若宮八幡社の本殿は覆屋に入っていて見ることは出来ない


(住吉庄には二木があるので二木氏はこの頃に小笠原氏の支配下へ入ったのではないだろうか。)

ただ、本来の地盤である西牧郷の上野郷・立田郷・古幡郷・小倉郷などにおける支配力は維持していたようで、

大宮熱田神社本殿や若宮八幡宮本殿などを建立している。


atuta1.jpg
大宮熱田神社の拝殿を見る。

atuta.jpg
国宝指定だったけ。。。の大宮熱田神社本殿???なのかな??を見る。

~ 応永七年(1400) ~

中世信濃において村上満信と行動を共にした西牧氏・宮高氏・香坂氏などの主として滋野氏系の武将が、信濃守護

小笠原氏に対して起こした国人一揆を「大文字一揆」と呼んでいる。

その中で代表的な合戦を「大塔合戦」と言っている。

この戦いは、足利義満から住吉庄と春近領の地頭職を返付され、応永七年八月に京都から信濃へ小笠原長秀は

信濃守護として入信し、信濃善光寺で国人達を集めて対面したが長秀の態度が不遜であった為に反感をかった。

その後も、国人達の領地へ守護史を入部させたりした為に国人達と対立するようになっていった。

この戦いは、南北朝の内乱期における北朝(室町幕府方)の守護小笠原氏と南朝を支持する国人層との対立が

再び再燃したもので、この頃の因縁で『古敵当敵』の関係で起きたものではないかとしている。


応永七年九月二十四日、国人達は団結し小笠原勢と四宮河原で戦い小笠原勢を籔っている。その後、長秀は塩崎城

へ逃げ込み、その他の者達は大塔の古要害(別の城との説もあるがここでは大塔古城とする)へ逃げ込んだ。


ootou.jpg
小笠原勢の残党が逃げ込んだとされる大塔古城の堀跡(住人の方による)

大塔古城に逃げ込んだ小笠原勢の軍勢は国人に攻められ全滅したが、長秀が籠った塩崎城は囲まれたものの落城は

せず、その後、小笠原一族の大井氏の仲介により長秀は京都へ逃れ信濃守護職を解任された。


~ 応永二十二年(1415) ~

大文字一揆を起こした信濃の国人は、応永二十二年に小笠原長秀が再び信濃守護として入ってきたことを良しと

せず、その上、長秀が国人達の領地をも侵し始めたので国人達は室町幕府の信濃国代官 飯尾美濃入道に長秀の

住吉庄と春近領の知行を止めるよう幕府に訴える書状を出した。

これを『大文字一揆注進状』と呼ばれている。


この書状の年号が応永六年(1399)とされてきたことで信憑性を疑われてきたが、近年この書状は応永二十二年

又は二十三年のものであるとされるようになったことや、内容が時代にあっていることからこの書状の重要なもの

であるとされるようになった。


この書状の中に西牧刑部左衛門尉・西牧宮内少輔時兼の名が見られ、時兼は西牧郷の地頭職・左衛門尉は小倉郷の

地頭職として住吉庄内で力を持っていた人たちで、小笠原氏によりこれらの身分と利権が失われる恐れを感じ、

それに対してのこの幕府への注進状であったと思われる。



長くなってしまったので今回はここまでとします。。。V

スミマセンがこれより一週間半ほどお休みします。。。。次回をお楽しみに。
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  1. 2013/06/02(日) 22:51:45|
  2. 信濃の武将
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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コメント

掘ってわかった信州の歴史

いいねえ、小生も一週間休みたいなあー(笑)

最終日に長野県立歴史館に行ってきました。
古墳が大好きだった変な小学生時代を思い出して郷愁に浸っていましたよ(汗)
中世城郭の発掘遺跡の扱いはあんなもんですか。酷過ぎるなあ。
仕方が無いので市河さんの本を買ってきました。ここでしか買えないんですよね(汗)
市河文書の凄さは凄いとしか言えません(笑)
世の中の人口の10%しか読み書きが出来ない時代に残された文書ですもの。有名人のサインを貰いまくったって感じでしょうか・・・・(爆)
  1. 2013/06/07(金) 22:51:44 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

Re: 掘ってわかった信州の歴史

らんまるさんコメントありがとうございます。
市河文書の本。。。。。売ってたんですねしりませんでした。
その代わり信州の武将の一族の本(須田氏などの)の屋代氏が出ていたので
購入しました。まだ読んでないですけど。。。
信州でも城跡の発掘の機会が増えてきていますが毎回、扱いが小さいのが気になっていました。
まだ発掘件数が他の遺跡より少なくよくわかっていないので大きく言えないのが現状なのでしょうが。
  1. 2013/06/13(木) 17:55:31 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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