長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  西牧氏②

間が開いてしまいましたが、前回の続きの西牧氏を調べて行きたいと思いますのでお付き合いください。

~ 永享3年(1431) ~

永享3年、(西牧)讃岐守憲兼が長尾(現安曇野市)の平福寺に鰐口を寄進している。

heifukuzi.jpg
平福寺にある古い鰐口(これが西牧氏寄進のものかは未確認)

平福寺は、長徳年中(995~998)に創建されたと伝えられ、観音堂鰐口の銘に永享3年大檀那讃岐守憲兼とあり、

この頃には西牧氏の勢力は住吉庄内の長尾まで来ていたことがわかる。

また、楡(安曇野市)の阿弥陀堂跡・龍峰寺跡に残る宝筐印塔は、東信に先例が見られる形状をしていることから

滋野氏である西牧氏関連のものと見られここまで西牧氏の勢力が来ていたものと思われる。

heifukuzi1.jpg
長尾の平福寺

『信府統記』によれば、天正3年(1575)大檀那太守勝頼再興の棟札があるという。武田勝頼が天文年間の

兵火で焼失した伽藍を再興したものと考えられる。
(高原 正文氏による講座資料より)


~ 永享12年(1440年) ~

関東管領の足利持氏が幕府にそむいた事件(永享の乱)で、小笠原政康は幕府の命によって永享10年(1438)に

鎌倉の足利持氏を攻めている。足利持氏は敗れて翌年に自殺したが、下総の結城城にいた足利氏朝は永享12年

(1440)に足利持氏の遺児を立てて幕府に抵抗した。

これにより小笠原政康は陣中奉公として再び幕府の命によって出陣した。

これを『結城合戦』といい、その配下の陣番を定める『陣番帳』には30番(109人)まであり、西牧氏は、二木氏

や竹田氏(山形村)などと共に18番として名が見える。

この戦いで、『古敵当敵』の小笠原氏の指揮下に入って参戦しているのは幕府から地頭職を安堵されている西牧氏

にとって、幕府から任命されている守護小笠原氏の指揮下に入らないわけにはいかなかったものと考えられる。



~ 宝徳2年(1450) ~

(西牧)讃岐守信兼が西牧の対岸にある波田の若沢寺に鰐口を寄進している。

この鰐口の銘に、

「宝徳2年6月1日 院主為宥聖、奉施入鰐口讃岐守信兼」とある。

これにより西牧氏は、対岸の波田方面まで勢力を伸ばしていたことが窺われる。


nyakutakuzi.jpg
若沢寺の一宇であった波田にある田村堂(若沢寺は信濃日光として多くの参拝者が訪れていたが明治の廃仏毀釈

により廃寺となり現在、山奥に平場や石積を残すのみとなっている。また、参道脇には丁石が多く残されている)



~ 応仁2年(1468) ~

西牧信濃守満忠が、諏訪上社へ御符札銭一貫文などを納めている。

~ 文明12年(1480)① ~

西牧 前讃岐守満兼が諏訪上社へ銭一貫八百文などを納めている。

2月2日、西牧氏が諏訪上社於左口神祝へ銭一貫文を納めている。

4月、西牧讃岐守満兼の祖母が死去したことが見られる。



~ 文明12年(1480)② ~

文明12年、諏訪上社の「守矢満実書留」によると、

2月6日の夜に、上諏訪の東大町に下諏訪の金刺興春らの悪党が上社周辺に火をかけ雑物を奪取り、手負死人が出て

いる。この時、西牧の上社の精進屋左口神が炎上している。

8月16日に、小笠原長朝が仁科盛直を穂高に攻めてこれを破っている。

9月20日に、山家孫三郎が仁科氏・西牧氏に同心して小笠原長朝に背いた為、長朝は山辺孫三郎を攻めて討死

させている。

10月10日に、小笠原長朝は西牧へも攻撃を加えており『守矢満実書留』には、

「十月十日、西牧殿屋形焼候、大風吹小屋千間計焼失、満兼芳々御右口神御炎上、物恠共等也鳧、神慮難凡人計

者也(後略)」とあり、この戦いに敗れた西牧氏は小笠原氏に降り配下となったものと思われる。



~ 文明15年(1483)~天文13年(1544) ~

西牧氏は、文明15年から天文13年の間は大きな戦いなどの記録には登場せず、穂高神社(古幡牧)の造宮の所役や

諏訪上社の宮付の所役を勤めていることが見えるのみである。

これは、西牧氏が小笠原氏の配下となっていた為にあまり記録に出てこなかったものと思われる。

ただ、天文3年の『小笠原家譜代の家臣分限帳』(小笠原長時時代の家臣の所領等が書かれている文献)を見ると、

小笠原家に関係の深い重臣の項に、

(前略) 山中源太政俊    拾五騎       安曇郡北条山城主         (後略)

とあり、家老職衆七家に

高三千貫文  、紋 梶の葉   西牧美作守信道    百六十騎     安曇郡上野の城主(後略)

と書かれている。

このことから文明12年(1480)により小笠原氏に降った西牧氏は、小笠原氏により勢力をそがれ田屋城周辺のみ

とされてしまったようで、今までの西牧氏の居館(於田屋居館)や本城の北条城は、小笠原氏の重臣である、

山中氏が入り西牧氏を監視するようになっていたようである。 



~ 天文15年(1546) ~

『信府統記』に滋野讃岐守貞兼が真光寺を中興開基したことになっているが、『梓川村誌』では、

西牧氏は小笠原氏との争いにより天文15年には北条城をすでに失い、上野城(田屋城)だけになっている状態で

真光寺を中興し阿弥陀堂を造る力があったかと疑問視している。

また、『小笠原家臣分限帳』にある上野城主、西牧美作守信道と『信府統記』にある滋野讃岐守貞兼との関係も

分かっていないとしてる。

taya2.jpg
西牧氏の本城となった上野城(田屋城)遠望


上野城(田屋城)についても。。。。

天文15年(1546)に上野城を滋野讃岐守貞兼が構築したと『信府統記』ではしているが、『梓川村誌』では、

「この頃に若干の修築はあったとしても、以前から用いられていたものとみたい」としてる。

これらを考えると、今まで本城であった北条城を小笠原氏に奪われた西牧氏は、一支城であった上野城を本城と

すべく改修したことを「信府統記」では構築したと書いたのではないだろうか。

taya.jpg
西牧氏が構築?修築?した上野城(田屋城)の堀切を見る

なお、『安筑古城開基』には、田屋城を上野盛長なるものの三男、田屋三郎盛成の城としているがこの書は俗書で

信用し難く、この人物は史実から見て架空の人物であるとみられている。



今回は。。。。。。ここまでです。

次回は、西牧氏の最終回(西牧氏の滅亡)をお送りしますのでお付き合いください。
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  1. 2013/06/13(木) 17:58:06|
  2. 信濃の武将
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  1. 2015/02/08(日) 16:32:23 |
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