長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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松本市  西牧氏③

三回に分けてお送りしてきた西牧氏ですが、今回が最終回ですのでそうぞお付き合いください。

~ 天文17年(1548) ~

天文17年2月1日、武田晴信は大門峠から坂城へ向かって甲府を出発し、2月14日上だ原において村上義清と戦った

が敗れている(上田原の戦い)。この武田氏の敗戦に勢いを得た小笠原長時・仁科道外などが4月5日に諏訪地方へ

攻め込み下諏訪を攻略した。

この小笠原長時などの行動に対して武田晴信は、4月11日諏訪へ向かって出馬し、4月19日に塩尻峠において

小笠原・仁科連合軍と武田氏による合戦が行われた。

これを『塩尻峠の戦い』といいこの小笠原軍の中に西牧氏が参戦している。


katuurutouge.jpg
現塩尻峠の南側にある勝弦峠にある説明板

katuurutouge2.jpg
塩尻峠の合戦は、この勝弦峠を中心に行われたと考えられている

合戦の内容は『二木家記』が詳しいが、二木家記というくらいであるから二木氏に有利な記載や誇大に書かれてい

る部分も多く見られる。しかし、多くの資料がこの文献を採用しているので書いて見ると、

小笠原長時は、今井の四ッ屋に陣をとり夜明けをまって諏訪峠(塩尻峠・勝弦峠)に陣を移した。

その日の四つ時(午前十時・・・・南安曇郡誌では午前六時としてる)に戦いが始まり、この日は6回の戦いが

あったと書かれており、5回までは小笠原勢が勝っていたものの6回目の戦いが始まった時、小笠原勢の中にいた

三村氏・山家氏が逆心した為に小笠原勢は敗れてしまった。というものであるが。。。。



sioziritougehi2.jpg
知っている人は少ないが、現在の塩尻峠の北側を通っていた中山道の頂上部にも写真のような塩尻峠合戦碑がある。


この小笠原氏に逆心したとされる人たちも文献により異なる。

『溝口家記』では、西牧四郎左衛門・三村駿河守が逆心したとし、『二木家記』では、三村氏・山家氏であると

している。

ただ、塩尻峠の戦いのあと二木氏・西牧氏は「小笠原勢のいる本道(塩尻)を通って帰ることが出来ないので廻り

道をして桜沢へ出て、洗馬の三村氏を頼り御たけ越えをして自領に帰った。」と『二木家記』が書いていることか

ら逆心したのは三村氏・二木氏・西牧氏であろうと『梓川村誌』はしている。

">>『三郷村誌』では二木氏は逆心していないとしており、資料によっても解釈が異なっており本当のところは

よくわかっていないようである。


siozirikubituka.jpg
塩尻峠の麓の柿沢にある塩尻峠合戦に関係する首塚・耳塚
これらの史跡から、塩尻峠の戦いは現塩尻峠を中心に北側の中山道・南側の勝弦峠の広範囲にわたっての合戦であったものと考えられる。


天文19年7月、小笠原氏の本拠府中が武田氏に占拠されると、仁科道外が武田氏に降っており仁科氏と関係が深か

った西牧氏もこの頃に武田氏に降ったようである。


~ 天文20年(1551) ~

天文19年9月、武田氏が砥石城で村上義清に敗れると(砥石崩れ)打撃を受けた武田氏が動けないとみた小笠原氏

は本拠の府中を回復すべく、村上氏の援けを受けて平瀬に軍を進めたが、小笠原氏を支援する為に塔原に陣取った

村上氏は、武田氏が下諏訪へ現れたという虚報を信じ本拠が攻められる怖れを感た為に小笠原氏に無断で本拠へ

撤退してしまった。

これを知った小笠原軍は、後ろ盾を失っってしまったので軍の半数が逃亡してしまい、100騎(1000人)になって

しまった。(溝口家記では、馬廻り500~600騎としている)

しかし、もう引くことが出来ない小笠原勢は武田方の馬場・飯富・西牧氏の率いる軍勢と野々宮で合戦を行った。

(この戦いを『野々宮合戦』という)

nonomiya.jpg
野々宮神社の境内にある野々宮合戦跡の標柱

nonomiya1.jpg
野々宮合戦場跡を見る(奥の林が野々宮神社)

この戦いは、小笠原勢が勝利し武田方の首300を打取っている。

野々宮合戦後、二木氏の勧めにより中塔城へ小笠原長時が立て籠もると山家氏や三村氏が攻めて来たことや、

武田晴信が攻めて来て戦ったことが『二木家記』に書かれている。

(ただ、この二木家記にある武田晴信の中塔城攻めは、他の文献には出てこないので疑問視されてい)

その中で9月末の部分で、中塔へ同心する者も出てきて城(中塔城)も堅固になり、西牧の城へも攻撃を加えて

多くの敵を討ち取った。とある。

nisimaki (3)
険峻な山奥にある中塔城を遠望する。

nisimaki (2)
天嶮の要害な為か中塔城の堀の規模は小さい(中塔城に残る堀切を見る)



ここに出てくる西牧の城(北条城のことと思われる)は、天文15年時点では小笠原氏の城となっていたが、

この野々宮合戦のあった天文20年では武田氏方の城となっていることが注目される。

(現在、北条城の北側の尾根に構築された無数の防御遺構はこの時(天文20年)に中塔城に居る小笠原氏への

備えとして武田氏(西牧氏か?)によって改修されたものと考えられている。


nisimaki
西牧氏の本拠であった北条城の本郭裏に残る巨大な堀切を見る。


また、中塔城と北条城の間にあったとされる本神沢端砦(現在消滅)もこの時の小笠原氏と武田氏(西牧氏)との

境目の城として西牧氏により構築または強化されたものと書かれている資料もあるので、この時点では、西牧氏は

武田方として旧領(旧住吉庄周辺)を一時的に回復していた可能性が考えられる。


nisimaki (4)
小笠原氏と西牧氏の境目の城であった本神沢端砦推定地と奥に北条城(矢印)を見る。


~ 永禄1年(1558)・永禄4年(1561) ~

永禄1年8月4日、武田晴信が西牧の金松寺を常徳寺東堂(松本市渚)へ寄進している。

永禄4年1月27日、武田信玄が原彦八郎に西牧の逆徒勘助を討ち取ったとった賞として太刀一腰を与えている。

この二つの事柄をみると、西牧の地は武田氏に直接支配されるようになっていたようで野々宮合戦などに見られる

ように西牧氏は武田氏の重臣の手先として働く程度の武士となっており、武田氏の被官ではあるがあまり重用され

ていなく小領主ていどに勢力は低下していたようである。


~ 天正9年(1581)~天正10年(1582)① ~

天正10年2月、木曽義昌が織田信長に通じて武田勝頼に叛くと、武田勝頼は深志城代馬場信晴に命じて木曽氏に対

する押さえとして「いねこき口」を古畑伊賀と西牧又兵衛に守らせ、奈良井・贄川へも人数を派遣している。

ところが、武田氏の先行きに不安を感じた古畑・西牧又兵衛は逆に木曽氏へ内通し、大野田夏道城に立て籠もった。

nisimaki34 (4)
 「いねこき口」と推定されるかぎかけ山を見る。
この険しい崖の斜面を当時の街道である夏道が登っておりこの街道を押さえるためにこの山の上に砦が構えられた



nisimaki34 (5)
かきかけ山の頂上部には、平坦地が見られ街道もこの場所を通過しているのでこの場所に砦があったものと見る。

*この西牧氏の離反は、武田氏に重用されなかった西牧氏が織田氏に通じることによって勢力の挽回をはかったの

ではないかと「梓川村誌」は書いている。

その後、武田氏に背いて中塔城に籠っていた岩岡・岩波氏らと共に西牧氏は、深志方郷中(武田氏方)の七・八郷

を焼き払い、下神林・野溝・平田辺で深志城にいた武田勢と合戦をしている。

天正10年3月11日に武田氏が滅亡すると、この武田氏滅亡に際し小笠原貞慶(長時の子)は西牧の金松寺に現れ

旧臣を集めた。

これには二木・岩波・草間・岩岡氏らが集まり、各氏をつれて貞慶は上諏訪にいた織田信長に御機嫌伺いに行った

ものの会見は許されなかった。

これに失望した小笠原貞慶は失意のうちに京都に立ち去っている。

貞慶が去り残された二木・岩岡氏らは小笠原氏に与した為に深志城主となった木曽義昌との関係が悪くなり、

中塔城へ立て籠もっている。

これを木曽氏の配下となっていた古幡氏と西牧又兵衛は、木曽氏の命で中塔城を討伐する為小室原等で競り合いを

し、九日間の間城の取り合いをしたとしている。

*「二木家記」では、20日間あまり中塔城へ追い上げられたとしている。

その後、二木氏らは木曽義昌に詫び、人質を出して被官となったとされている。


~ 天正10年(1582)② ~

天正10年6月2日、織田信長が倒れると深志城へ上杉氏の支援を受けた小笠原洞雪(貞種)が攻めて来た。

すると、安曇周辺の小笠原旧臣が洞雪についてしまった為、他に支援を受けられなくなった木曽義昌は、洞雪に

深志城を明け渡し木曽へ撤退することにしたが、この撤退に際して安筑両郷の人たちの人質をとって大手の片平・

贄川と搦め手のいねこき口、大野田夏道城に立て籠もっている。

nisimaki34 (2)
大野田夏道城の遠望

nisimaki34.jpg
夏道城の郭内部は、削平が甘く一時的に使用する陣城の要素が大きかったようである。


この大野田夏道城を守ったのは木曽氏についていた西牧又兵衛と古畑氏であったと思われ、人質を取り返しに来た

岩岡・二木氏らと戦いになり夏道城は落城し、雑司(雑炊)橋でも戦いが行われている。

6月16日には、上杉景勝により市河信房に西牧氏跡を宛がわれているのでこの戦いにより西牧氏は本拠であった

西牧の地を小笠原氏(上杉氏)に奪われて失ったことが分かる。

その後、徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶が上杉氏の支援を受けていた小笠原洞雪を追い出し深志城主となり

深志を松本と改めている。

nisimaki34 (3)
西牧氏と岩岡氏・二木氏が戦った雑司(雑炊)橋を見る。


~ 天正11年(1583) ~

大野田夏道城の戦いに敗れた西牧氏は、天正11年までには最後の拠点であった梓川渓谷をも小笠原氏に奪われ

木曽氏を頼って落ちて行ったのである。

これにより領主としての西牧氏は滅亡し、江戸時代には木曽の山村代官の従士の中に50石取りの武士として

西牧氏の名が見えている。

◎西牧氏の滅亡の時期に関しては・・・・・小笠原氏が、

天正10年8月10日に西牧の北条慶徳山屋敷と同寺領三貫文を祝梅庵に、

天正10年9月2日に西牧の北条の内、五十貫文を金松寺に寄進しており、天正10年後半には西牧の地は小笠原氏に

支配されていたことが分かる。

また、天正11年8月の小笠原貞慶が二木豊後宛に出した書状には、

「木曽氏との境目が落着したならば、稲核・奈川・大野田の代官と西牧領の梓川河西の白木・材木・薪は二木の

市で商売すべき」との命をだしており、これらがかつての西牧氏の領地であったことから西牧氏の勢力がこの頃

までにこの地から失われていたことが分かり、領主としての西牧氏は滅亡していることが窺える。


3回に分けてお送りしてきた安曇南部の雄、西牧氏はいかがだったでしょうか。

間違っている部分やはっきりしない部分があるかも知れませんがどうぞ笑い飛ばして下さい。(-_-メ)

少しでも何かの役にたてば幸いでございます。


~ 参考文献 ~

山城探訪  補遺編     (宮坂 武男)

梓川村誌          (梓川村誌編纂委員会  平成6年)

信濃(西牧氏館跡)     (信濃史学会編 小穴 芳実氏投稿  平成11年)

南安曇郡誌         (南安曇郡誌改訂編纂会     昭和43年)

三郷村誌          (三郷村誌刊行会    平成18年)

北安曇郡誌         (北安曇郡誌編纂会)
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  1. 2013/06/15(土) 02:36:59|
  2. 信濃の武将
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<松本市  本神沢端砦 | ホーム | 松本市  西牧氏②>>

コメント

凄い調査結果ですネ

お元気そうでなによりでございます。

そこに愛がなければ、ゴミのごとく扱われてしまった信州の豪族に光りを当てる事など思いもよらないと思います。

生き残りを懸けた戦国時代において小豪族や国人が生き残る道は「瞬間の判断力」に尽きるのだと思っています。
西牧氏の生涯に光りを当てる事ができるのは、信州人だけでしょう。
消されてしまった敗者の歴史こそ、語り継がれるべきであり隠蔽された謎もそこにあるような気がします。
  1. 2013/06/15(土) 20:02:30 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

Re: 凄い調査結果ですネ

らんまるさん  ご訪問ありがとうございます。
信州の小豪族の歴史を調べるのは元々好きですが、なんかこの頃は関係した史蹟も訪れないと
気が済まなくなってきています。。。。。病気が進む!!
西牧氏が建立した寺社仏閣などもそうでしたが、徹底的に拾う。。。。(某ドラマにもありましたね)
これぞ信州人しか出来ないことだと思っております。

シーズンオフの期間は、武将達関連の史跡巡りでしょうかね。
  1. 2013/06/15(土) 20:19:07 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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