長野県の歴史を探し求めて

長野県内にある城跡・石造物などを探し求めそれらを紹介していきます。

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中川村  大草城

無知なる城址公園化はただの破壊でしかない!目を疑うような大草城址公園 

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大草城と周辺の城館             国土地理院2万5千分の1地図使用


所在地・・・・中川村大草                             訪城時間・・・・0分

危険度・・・・★☆☆☆☆                             訪城目印・・・・大草城址公園

訪城日・・・・2012年11月30日



                ~ 大草城の歴史 ~

南北朝時代に大河原に入った宗良親王(むねよししんのう)を守護したのが大河原城主である香坂高宗であった。

延元元年(1336、南朝年号)頃から始まった足利尊氏(北朝)と後醍醐天皇(南朝・宮方)との権力争いに当時

宗良親王は、(後醍醐天皇の第八皇子(第五皇子とも))延暦寺天台座主であったが後醍醐天皇の命により還俗し

南朝方の一員として諸作戦に加わっていった。

暦応2年(1339)~3年にかけて北朝方の攻撃にあい南朝方であった井伊氏の居城井伊城が陥落すると、宗良親王は

井伊谷を脱出し越後・北陸へ行動していくことになる。


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大草城からの眺め

興国4年(1343)、勢いの振わなくなった宗良親王は信濃の宮方(南朝)の勢力を頼って大河原の香坂高宗のもと

に身を寄せた。(大河原周辺は南朝方が多く、藤沢氏・中沢氏・知久氏などがいた為とみられる。)

この大河原城主香坂高宗は、一説によると更科の牧之島城にいた香坂心覚の子であると言われ、北朝方の小笠原氏

や村上氏らの攻撃にあい大河原まで移ってきたと伝えられている。


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城址公園駐車場から見る大草城

その後、香坂氏は徐々に四徳・大草まで精力を広げると元々大草を支配していた土豪である大草氏と血縁関係を

結び徐々に基盤を固め大草氏と香坂氏は同族関係となって行ったようである。

「香坂系図」によれば、「香坂宗継の母は、大草次郎大夫経純の女であり香坂宗職の母は大草弥太郎の女」である

と書かれていることから分かる。

その頃に今回の大草城が、大河原城の支城として築かれたと考えられ、諏訪・遠江を結ぶ街道を押さえ幕府軍

(北朝方)に対する前衛拠点として一族を配していたようである。

宗良親王が大河原の地で亡くなり、南北朝時代が終わると香坂氏は山深い大河原の地から本拠を大草城へ移してい

るが、この頃はまだ大草氏と香坂氏は同族関係ではあるが別家であったようで、「諏訪御符礼之古書」によると、

頭役を大草郷で務めているが15世紀後半の約30年間に大草氏と香坂氏が交互に務めていて、勢力はほぼ互角であっ

たようである。


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大草城の現在の状況

戦国期になると香坂氏・大草氏は一の勢力にまとまったようで「香坂系図」の香坂宗縁の所には、「永正4年(1507)

大草館に生まれ、母は大草弥太郎の女で、大草・香坂の両家を相続する。」とある。また、宗縁は大草庄三郎とも

大草休斎とも称している。


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大草城の現状にかつての堀を落としてみた図

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本郭東側にかつて存在した内ノ堀跡を見る。

かつて台地続きと城内を区切っていた堀であったが現状は、写真の通り見る影もなく遊具のある広場となっている。


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内ノ堀の城内部分は消滅しているものの、牛落し洞へ続く斜面に僅かながら痕跡を残している。

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北ノ郭(外城)から見た内ノ堀の痕跡

内ノ堀の規模は、推定120m・上幅9~15m・深さは4~5mであったであろうとされ、城内では一番大きいものであった。

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北ノ郭(外城)から本郭の壁面と中ノ堀跡を見る。
写真の石がある部分と道の部分が中ノ堀跡で、公園化に伴いトレンチ調査が行われている。

結果としては、北ノ郭と本郭は土橋で結ばれていて堀の長さは、約55m・上幅10m・深さ1.5~2mであった。




南信における武田氏・織田氏の支配時代の記録には大草氏は出てこないが、天正10年(1582)の本能寺の変後の

信濃における北条氏・上杉氏・徳川氏の戦い(天正壬午の乱)の中で、南信は徳川氏・北条氏のせめぎ合いの場と

なっていた。

この時、一時没落していて徳川氏に助けられ南信の在地領主の懐柔を任されていた下条兵庫介に対して、徳川氏に

従う旨の起請文を出した領主の中に「中澤衆 大草休斎」の名が見られる。


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駐車場となった北ノ郭を見る。

この北ノ郭は、昭和60年に公園化に伴い発掘調査が行われている。

調査結果としては、掘立建物址が9棟と柱の穴とみられるピットが見つかり居住空間であったと共に、鉄くずや

鎌・武具類が出土していることから鍛冶屋場を主体とした郭であったことが分かった。

なのに。。。。何故か南側に広大な駐車場があるにも関わらず重要な郭を壊してまで駐車場を造ってしまったので

ある。何のための城址公園なのか疑問は残る。


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北ノ郭から見た西ノ郭

本郭の西側にあたる位置にある郭で、本郭より4~5m低い位置にあり本郭と西ノ郭の間には西堀がかつて存在した。

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この西ノ郭からは、青磁・天目茶碗・茶臼などが出土しており生活の場であったことが窺える。


徳川氏に従った大草氏のその後としては、「香坂系図」に「休斎の子宗澄、宗澄の孫宗久に至り、天正年間に家を

失ひ、大草村の農長(郷士)となる。」とある。

また、大草城に関しては天正19年の大草郷検地帳には大草城跡は畑地として記されており、城は天正10年の織田軍

の伊那侵攻以降廃されていたものと考えられる。


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本郭と西ノ郭をかつて隔てていた西堀跡(道の所)を見る。

堀の長さは約53m・上幅約7m・深さは推定3~4mの規模で北側は中ノ堀と合流し牛落しの洞へ竪掘として落とされ

ていたようである。

南側は、公園の通路により破壊されいるが僅かながら痕跡を残している。


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公園の通路として階段となった西堀を見る。

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西堀の南側、深沢川に落とされた竪掘の僅かな痕跡が斜面に残る。

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本郭に造られた意味不明な造作物と説明板を見る。

城内で一番高い部分に造られているのが、この本郭である。

郭内は公園化により改変を受けていて分からないが、かつては南西に僅かに傾斜があったがおおむね平坦であった

ようだが、この時点でも耕作されていたので城跡時代からかは分からない。

耕作中には大きな石が出たり、土器や石器の破片が出土したようで、調査時にも14~18世紀の内耳鍋片や青磁など

が表面採取されている。


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本郭内部とアルプスを見る。

現在、本郭を見ると鋭い切岸で囲まれていて立派な郭に見えるが、調査によると本郭の周囲を2~3mほど削ってい

たことが分かり現状の切岸は後世の造作であったことが判明している。

ちなみに、その切岸を削った土で3本の堀を埋めたことが分かっていて、民間・公共にこの城跡を大きく破壊した

ことになり地域そろって保護意識の低さが窺える。


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古城郭を見る。

本郭の南側の一段低い位置に存在する細長い郭で、かつては畑と籔になっていた。

本郭から見れば腰郭的な位置づけとなるが、古城という地名があることから大草城の初期の郭であったと想定され

ており、城内でも古い部類の遺物が出土している。


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ここまでするか。。。。。。西ノ郭の南側の斜面にある小規模な削平地にもトイレが。。。。。。。。

徹底的に破壊しつくされました。。。。。(゜-゜)



さあいかがだったでしょうか。。。。。徹底的に破壊しつくされて違う物になってしまった大草城跡は。。。。

この訪城時は、歩きまわる場所場所でため息ばかり。。。。。。。。

久しぶりの低レベルな公園化に意気消沈でした。。。。もっとまともな公園化は無かったものでしょうか。




~ 参考文献 ~

山城探訪      (宮坂 武男)

中川村誌      (中川村誌編纂委員会   平成18年)
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  1. 2013/08/28(水) 18:37:14|
  2. 中川村
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
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コメント

やっちゃいましたか・・

中川村の公園化の努力には敬意を表します。
快適な憩いの場としての公園には、堀切や高土塁なんか邪魔ですもの。小さい子供やお年寄りが安心して遊べる空間でなければなりません。しかも、頂上からの展望を遮るものなどあってはなりません。
なので、一応発掘はしておきましたのでご安心下さい。記録は残しておきますよ、後日の研究者の皆さんの為にネ・・・。

そんなところでしょうか(笑)
壊しちゃったものは仕方ありません。覆水盆に返らずですね。
小諸市のように知らない間に消滅するよりはマシだと思うしかありません(汗)
そうでしたか、香坂さん、こんな場所にもお出ましだったんですね。勉強になりました。ありがとうございましたあ。
  1. 2013/08/30(金) 07:28:15 |
  2. URL |
  3. らんまる #-
  4. [ 編集 ]

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2013/08/31(土) 06:13:57 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集 ]

Re: やっちゃいましたか・・

らんまるさんへ

老人・子供にこれほど優しい城址公園は他には無いでしょうね。
本郭の壁面には、滑り台・公園中心部まで行け、歩かなくても良いよう郭内部に駐車場を。。。。

城跡の新しい使い方を見たようでしたが、意気消沈して帰ってきました。
  1. 2013/08/31(土) 23:18:21 |
  2. URL |
  3. ていぴす #-
  4. [ 編集 ]

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